第39話 「流れゆくドッタバタ」
お久しぶりです。本当に。毎日連載とか言いながらまたしても日にちがだいぶ空けてしまいましたね。なんか口調変わった?と思われるかもしれませんが、今はこんな口調の気分なのでスルーでお願いします。
……あ、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
まぁそんな挨拶はさておき、今私は読書をしにSTARBUCKSへ向かい、一冊のエッセイを読み終わったところだ。いやぁ、すごく良かった。
大学の入学課題で読書感想文が出され、必死に読み終わり提出も終わり、学校からも特に課題が無くなると、こうして本を読むことが増えた。
読書感想文の課題本として、『なめらかな世界と、その敵』を選び、初めてSFというものに触れた。ドラマや映画の原作本しか買ったことのなかった私は、その原作本を読む度にドラマや映画の風景を思い出しながら読んでいた私は、初めて見たことも聞いたこともない景色を想像しながら読むこととなり、課題本が読み終わる頃にはなんだか世界が変わったようだった。それから、映像化されていない本も読むようになった。そこには知らなかった世界が詰まっていて、頭をフル回転させ過集中しながら読むのもまた時間があっという間に過ぎていって、なんだか楽しくて。
今回読んだのは星野源さんの『いのちの車窓から2』。そのエッセイから影響を受けて今こうして執筆を再開しているのもあるが、この本はとてもすごかった。親と本屋に寄った際、この本が平積みにされているのを見かけて、星野さん自体にはまぁ興味が無いといえば嘘になるが、そこまで好きではなかったのだが、なのに、心に留まった。直感に引き寄せられたかのようだった。このピン!と来た直感は大事だ、と判断し購入した。結果、買って本当に良かった。
街歩きでの声掛け、自称ファンの待ち伏せ、盗撮。それが怖くて、カーテンも締め切って部屋も車も真っ暗で、病んでしまって。闘病の辛さや死生観、その葛藤と自問自答。哲学領域に足を踏み入れるような文章から、アーティストならではの苦悩や楽しみ、我々にも通じる日常のことまで繊細に描かれていて、へぇ~と読めるようなエッセイではないと感じた。軽くは無い、けれど、とても重くも無い。しかし程良くふわふわもしていない。表現が難しいが、自分の何かに響いた気がした。
読んでいる途中、お腹が痛くなって御手洗に向かった。寒いのに季節限定のチョコたっぷりのフラペチーノを頼んで、飲んでしまったからか。原因を考えながら、そして日曜日が終わる悲しさを感じながら御手洗に向かった。
日曜日が終わるのは悲しいが、こうしてスタバといったカフェで本を読む休日は楽しくもあるんだよなぁ、と来週も同じことできるかな、とも思った。
コツ、コツ、と新しい靴で音を響かせながら歩く。この靴はCONVERSEの「ALL STAR SURGETRAINER HI」という英語力皆無の私にとって和訳できない長ったらしい名前を持ったスニーカーだ。これは推しが年末に開催したライブで履いていた靴であり、衣装を特定したファンが「いつもハイブランドのスニーカーなのに!?」「これだったら私たちも買えるぞ!お揃いにできるぞ!」とTwitter改めX上で盛り上がり、流行を生み出したのである。タイムラインを眺めれば、「CONVERSEを買いました!」の下には全く同じ文面の、違う人の投稿が次々に流れていく程には大流行した。ファンの間で。なんかもう、CONVERSEさんは一つの靴だけが大量注文されて困惑しているのではないか、と思ったくらいである。その靴を私も買った。と言っても、理由はそれだけでは無い。というか、あまりその理由で買っていない。
私は靴には興味が無く、いつもランニングシューズで生活していた。むしろ、「何故わざわざ走れない靴を買うのか?」と思っていたくらいだった。しかし、この靴が大流行りしてから、「休日に履いたらテンションが上がるのかもしれない」と思うようになった。CONVERSEは履き心地が人によって分かれ、「私は履けないから買わない」「履きにくくて買うか迷う」と言った声も多くあった。私もそれもあり悩み、ならばと店に行って履き心地を確認した。確かにこれは毎日は履けないと分かった。靴擦れするだろうな、と感じた固さ。小指が当たる痛み。けれど、それと同時に、「休日だけなら履けるかも」「機能性を重視せず、ファッションとして、履いてみたい」という思いが強くなった。ランニングシューズしか履いてこなかったのだ、ファッションとして、「テンションを上げるもの」として、そして履いたことの無い「厚底スニーカー」という好奇心が強くなり、機能性重視の思考は負けてしまった。店でのスニーカーは汚れがあった為注文し、後日新品のスニーカーが自宅に届いた。
ついに初めて履いた休日。見事に靴擦れをした。とても痛かった。けれど、とても楽しかった。厚底はランニングシューズと大きく違い、地面に足が触れる感覚が少なくなったことに驚いた。それが楽しくなった。見える景色もほんの少しだけ高くて、それもまた楽しかった。歩き慣れないこの感覚も、足にフィットするのが当たり前のランニングシューズでは感じたことが無く、それさえも楽しかった。そして足首までも覆うほどの高さがある靴ということ、足首より高く結ぶ靴紐、何故か内側にある「ALL STAR」というロゴ、ランニングシューズでは見たことの無い紺色でオシャレなデザイン。そんな「ファッション」に感動し、履いた自分の足元───靴を見て、「可愛い~~~!!」と初めての感情を生み出した。この靴はこれからも「休日の相棒」として、たくさん履いていきたい。
話を戻すが、そんな靴で音を立てながら御手洗に向かった。私は革靴などのコツ、コツ、といった「歩く音」が好きなのである。ランニングシューズではこの音は響かせられないからだ。
御手洗に向かう途中、新作のCDといった棚が並んでいた。そのスタバは蔦屋といった店と繋がっている。その蔦屋での商品だった。私はお腹が痛いのにも関わらず、流れるようにそのCDをチェックした。推しのCDがあるかどうか、確認する為だ。しかし無かった。推しは大物な歌手だ(と思っている)が、だからといって必ずCDの棚にあるのかと言われれば「それは無い」、という口授するかのような私の言葉が頭に降ってきた。横に目線を移せば、「星野源」と書かれた仕切りがあり、星野さんのCDが並んでいた。あ、これ、さっきエッセイで書いてあったアルバム。こんなジャケ写(ジャケット写真の略)だったんだ、本当だ、エッセイで言っていた曲がこんな風に入っているんだ、と、お腹が痛いくせに考えていた。
流石に手洗いに行かないことに痺れを切らしたのか、お腹がぎゅぅっと悲鳴を上げた。その瞬間に我に返り、お腹を手で押さえながらCDを戻し手洗いの個室に駆け込んだ。
何とか痛みも治まり個室を出ると、はたと気付いた。……ハンカチ忘れた。
そうだった、ここには風で手を乾かす機械があるが、絶賛使用中止なんだった。コロナで使用中止なのかなと思いきや、コロナ禍が過ぎ去ったと思われる今日もまだ使用中止だった。故障中、なのだろうか。
そんなことにほんの少しの絶望を抱えながら、手を洗った。以前は無かった石鹸が置かれていて、そこにほんの少しの歓喜をした。二つある洗面台というのだろうか、そこには一人の女性が既に使っていて、手を洗っていた。私はもう一つの洗面台で手を洗おうとしたが、濡れないようにする腕捲りを、左手だけほとんど腕を捲らなかった。左手の服は少し濡れた。理由は……この執筆は親に見られているので本当は言いたくないし家でも隠していたが、左腕を切っているからだ。いわゆるリストカット、通称リスカというやつ。だから、隣の女性に気遣って隠した故に私の左袖は濡れてしまったのだ。このことについては長くなるので次回に回したいところだが、これを読んだ親が怒るのか悲しむのかそれとも誰かに相談してしまうのか、そんな可能性が分からなくて怖いのでここで話しておく。だいぶ話が長くなって申し訳ないが、まぁ、読みたくなかったら飛ばしても構わない。
これは、今年に入ってから「我慢せず切りたい時は切って良い」と決めた。まぁつまり、去年も切ってはいたのである。その時に「お風呂で滲みてとても痛い」「体育で汗が滲んで痛い」「人に見られたらどうしよう」ということを学び、「我慢しよう。やってはならない。」と決め、痕が見えなくなるまでにやっていなかったのだが、今年に入り揉めてしまったことがあり、その時非常に感情を押さえ切れなくなり、その対処として自らを傷付けてしまったのだった。そこで自分が押さえつけていた、何かが外れてしまったのだ。私はX上にしんどい、つらい、と吐き出しているアカウントがあるのだが、そこには「どうせ今もこれからも長袖の季節なんだ、もういいよ 我慢しなくていいよ 死ななきゃいいよ もう我慢せずつらい時は切りな それで落ち着くならもういいよ お前のは死なない程度だから」と書かれていた。まぁつまり、そういうことである。
本当はダメだと分かっている。けれど、抑えられない。それほどまでに切ってしまう時は感情がぐちゃぐちゃになって、パニックで、とにかくつらい。そのアカウントには、その時のことが事細かに記録されている。そのためのアカウントでもある。そこには、こうも書かれていた。
「感情ぐちゃぐちゃになりながらも頭のどこかでは冷静で、でも切ってる時は脳がぽやんとしてきて、そんな矛盾の感覚になりながら無心に切っていたらかしゅっと大きめに切れてしまって、そこで我に返って、途端痛みもじくじくやって来るというこの時間が一種の精神安定剤のようにもなってる気がする…… イライラも悲しみも、不安も恐怖も全部これで「なんとかしている」。これで落ち着かせている。もうこれしか手段が無くなってきてる気がする。実際この「私なにしてんだろ……」って思う時間があるからこそこのぐちゃぐちゃになった感情を一旦どっかに行かせてるのかも。でも消えては無い。すごくしんどい。この行為はただ心の痛みを腕に移しているだけであって、何の解決にもならない。麻痺した痛みを、感じられない痛みを実際に感じているだけ。やっぱり痛いよ。でも、こうすることで実感できる。痛いって思える。そうすることでしか、私は感情を飲み込めない。そんなの苦しいに決まってる」
心の痛みは自分さえも分からない。痛い、と感じることで、心の痛みを実感して、無理やり落ち着かせている。心理学系のサイトでは、「自らを傷付けることで心に蓋をしている」とも書いてあった。もしかしたらそうなのかもしれない。リスカという痛いことを分かってるのに行動してしまうのは衝動性のスイッチが入ってしまうのもあると思う。その時はムシャクシャして何もかもがぐちゃぐちゃになって、その一瞬の精神安定を求めてしまう。実際切っている時は痛くない。だんだん頭がぽやんとしてきて、ぽけーっとふわふわしてくる。そのアカウントで繋がっている、同じくリスカしている方は「切ってる時って脳内麻薬出てるんだって」と教えてくれた。なるほどな、と私は頷いた。同時に依存性のようになる可能性もあってやらない方がいいな、とも思った。
その脳内麻薬が出ている間は痛くないのだが、現実にぱちんと戻ってくる瞬間に痛み出す。じんじんと、時にはじくじくと。イメージで皮膚がぱっくり割れ、血が止まらないとかいう人がいると思うが、あれはカッターなどで本格的に切るとあぁなる。私はカッターではない。だからあんな血は出ない。ぽつりと血の粒が出るだけで、失血死とかいうレベルには到底及ばない。安心できないかもしれないが安心してほしい。長々と話してしまったが、親に言うならば「止めないでほしいし、普通に接してほしい。傷を見ても言及しないでほしい」ということだ。ここまで長々話していたのは、そう伝えたいのだ。これは私の感情の抑え方であり、例えるなら布団をポカスカ叩いて発散するようなものなのだ。やっちゃダメとか、なんでするのとか、傷を見て何かしら言われるのが一番怖いのだ。もちろん配慮のために普段は隠す。だから決して見せつけてるとか心配してオーラとかそんなのでは全く無いことをどうか分かってほしい。
もちろん切らないのが一番良いのだが、切ることを我慢して溜め込んで爆発して灰になって何も出来なくなるより、どうにもできなくなったら切って感情を飲み込んで、何とか学校へ行き課題をこなし楽しめるところは楽しめる、そんな日常を生きたいのだ。
さて、そうして手洗いも何とか終わらせ、手を自然乾燥させながらまたCD棚を見る。推しのユニットアルバムを見つけた。ジャケ写の推しは相変わらず可愛い顔をしていた。
また楽しく靴音を響かせながら戻り、本を読んで、無事に読了して、達成感に包まれながら、長々と執筆に取り掛かった。
今日は終わるのが悲しい日曜日。
結局今回は何を伝えたいか分からなくなってしまったが、また来週も、この日曜日が楽しめるように、忙しく疲れた日々を過ごすのだ。
ひよの特性大爆発Everyday ひよ🐣 @hiyo_0206
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