紅茶に蜂蜜

小日向葵

紅茶に蜂蜜

 雨の夜は鬱陶しい。鬱陶しいと思う心すら鬱陶しい。


 傘を叩く雨音。遠くを走る自動車のタイヤが水を切る音。街路樹の葉に雨粒が跳ねる音。そして、自分の靴が濡れた地面を叩き、そして捏ねる湿った音と感触。全てが鬱陶しい。


 アパートの入口で、ようやく傘を畳んで僕はひとつため息を吐く。集合ポストの中を覗く気にもならない湿った雰囲気。全てが重々しく、そして苦々しい。


 畳んだ傘の石突を軽く地面で突いて水滴を叩き落とす。タイルが濡れて行く。じわりじわりと広がる染みは、まるで流れ落ちる血のようにも思えた。


 僕は視線を階段へと移す。そこにはも見かけない人影があった。全身雨に濡れ、髪も服もその体にぴったりと張り付いた少女。肌は透き通るみたいに白く、その瞳は血のように赤い光を妖しく放っている。



 吸血鬼か。



 そういうば数日前から、この近くにヴァンパイア・ハンターがうろうろしていた。どこか遠くからのはぐれ吸血鬼が紛れ込んだらしいと回覧板も来た。ただ、吸血鬼の出没に際してセットで現れるはずの死体人形も、吸血の被害者も特段見つかってはいなかったので、みんなそんなものはただの噂だと、日常の生活に戻っていた。


 だけど、そこにいる少女は間違いようもなく吸血鬼だ。凛とした佇まい、鳥肌が立つような殺気。そして闇に光る赤い目。


 僕はひとつため息をついて、彼女の横を通り抜けて階段を登る。このアパートにエレベータなんて便利なものはない。最上階の三階に、僕の部屋がある。にちゃり、にちゃりと湿った靴音がする。これだから雨の日の外出は嫌なんだ。


 部屋に戻って服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。部屋義に着替えて一息つく。ソファに座って目を閉じ雨音を聞く。まだ止む気配はない。


 暗闇の中に、あの赤く輝く瞳が見えた。ずぶ濡れの吸血鬼はただ立っていて、横を通る僕に触れようともしなかった。永遠に生きる闇の主、化け物の王。生き血を啜り人間を襲い、命を喰らう。



 僕は頭を軽く振って立ち上がった。



 濡れた靴ではなく、履き古したサンダルで部屋を出る。暗く湿った階段を降りて行くと、吸血鬼はこちらに背を向ける形で階段へ腰掛け、蹲っていた。僕はその背中に声をかける。


 「行くところがないのか?」


 返事はない。ただしとしとと雨音が響く。


 「ずいぶん濡れているようだけど、吸血鬼は風邪を引かないのか?」


 やはり返事はない。


 「知ってるよ。吸血鬼は、許しがないと人の部屋に入れないんだろう?僕の所に来いよ」


 彼女は無言ですっと立ち上がった。


 「その代わり、血を吸うのは無しだ」


 こくり、と彼女は頷いたので、僕は彼女を伴って部屋に戻った。シャワーを使わせ、適当な服を与えて着替えさせる。濡れそぼってみすぼらしく見えた彼女も、髪を洗って乾かすだけでもかなりましな見た目に戻って見えた。


 「何が望みだ」


 警戒心が見え隠れする、割れたガラスの切り口のような鋭い危うさを伴う声。


 「ハンターに追われてるのは、君か?」

 「違う。あたしはもうずっとこの先に住んでいた。余所の同類が来たお陰でいい迷惑だ」


 近所に吸血鬼が住んでいたとは初耳だし、それがこんな少女だというのも驚きだった。よっぽどうまく隠れ住んでいたのだろうか、それとも単に僕が外の世界に対して無関心だっただけか。


 「で、何が望みなんだ」


 彼女は苛立ちを隠さずに言う。


 「別に何も。雨の日は、好きじゃないんだ」

 「好きじゃない?」

 「濡れるのも嫌いだし、湿気が多いのも嫌いだ。君はどうなんだ?」

 「あたしも別に好きじゃない」

 「なら、雨に濡れた君を放っておけなかった。ただそれだけだよ」

 「ふうん?」


 彼女は僕の貸したシャツをたくし上げて、その薄い乳房を見せつけるように体を捻る。


 「あたしの肢体からだが目的なんじゃないのか?」

 「違うよ」


 僕は二つのカップに熱い紅茶を注いで、一つを彼女の前にあるテーブルに置いた。


 「ただ、君の赤い瞳が印象に残って、もう一度見たいと思った。それだけだよ」

 「ふうん?」


 彼女はカップを手に取って、紅茶を一口飲んで顔をしかめた。


 「蜂蜜くらい入れてよ」

 「蜂蜜は置いてないんだ。砂糖かオレンジマーマレードならある」

 「ならいらないわ」


 どういうこだわりなんだろう。彼女はもう一口、熱いストレートティーを飲む。


 「着ていた服は、明日洗濯して乾かしておくよ」

 「好きにして」

 「向こうの部屋のベッドを使うといい」

 「泊めてくれるの?」

 「だって服はすぐには乾かないだろう」


 彼女は何か考えているようだった。


 「……お礼は言わないわよ」

 「施しをしたつもりはないよ」

 「貴方変わってるわね」

 「よくそう言われる」


 彼女が奥の部屋に引っ込んだのを見届けて、僕は居間の照明を落として自室に戻り、そして寝た。眠りに落ちる直前までは、雨粒が窓ガラスを軽く叩く音が聞こえていた気がする。





 目を覚ますと、部屋の中に彼女の姿はなかった。ベッドを使った形跡はそのまま残っていたが、風呂場に干しておいた彼女の服はなかった。僕の貸したシャツとズボンが乱雑に洗い籠に突っ込んである。朝早くに出て行ったのだろうか。


 表の雨はすっかり上がっていた。


 買い置きのロールパンにオレンジマーマレードを塗って食べ、軽く身支度をして部屋を出る。雨であろうと晴れであろうと、労働というものは人の生活に付き纏ってくるものだ。

 画面上の数字とグラフをまとめてその傾向と行く末の考察をする。そんな仕事を八時間ばかりして、また部屋へと戻る。これが何かを生み出している仕事なのかと問われた場合に、僕は答えを持たない。



 のろのろと階段を上がった先、僕の部屋のドアの前には、大きなスーツケースの上に腰掛けた吸血鬼が、仏頂面でこちらを見ていた。


 「どこ行ってたのよ」

 「仕事」


 僕はスーツケースを避けてドアの前に立ち、鍵を開ける。ドアを開けて部屋に入ると、スーツケースを引きずって吸血鬼も続いた。ドアを閉めて鍵をかけ、ご丁寧にチェーンロックまでかけている。


 今日も帰りに夕食を摂ってきたので、服を着替えてソファに座る。吸血鬼も向かいに座る。


 「我が名はリサ。リサ・ヴラッドネクス・フォン・ドラクルである」

 「ふむ、それで」

 「喜べ、しばらくここに住んでやろう」

 「帰れ」

 「些事は全て任せる」

 「出ていけ」


 僕はデスクの上から、町内会で配られた銀の十字架を取り上げて吸血鬼に突き付けた。


 「帰れよ」

 「ふふん?」


 吸血鬼はその丸く弾力に富んだ唇を軽く歪ませて、挑発的に嗤った。


 「このようなものが、我に効くとでも?」


 つつつ、と白魚のような指が十字架のエッジをなぞる。おかしい、どんなに力の強い吸血鬼でも、その弱点に対する耐性は持たないはずだ。


 「お前、本当に吸血鬼か?」

 「失敬な!あたしは遥かトランシルバニアの、霧の中より生まれ出でし高貴なる一族の末裔」

 「そんなのがどうして日本にいるんだ」


 とたんに黙る少女。


 「ひょっとして、帰らないのではなく、帰る場所がないんじゃないか?」


 俯いたまま黙っている少女。


 「行くところがない家出少女ってとこか?その瞳も、カラコンか何かかな?全く最近の悪戯は手が込んでいるもんだな」

 「ならば見せてやるぞ、証拠を」


 言うや否や、彼女はその身に似合わぬ俊敏さと怪力で僕をカーペットの床に組み伏せる。床に後頭部を打ち付けた、鈍い痛みが広がる。


 「あんたが言ったんだからな、後悔するな」


 そう言って少女は、僕の首筋に口を当てた。ぷつり、と張っていた肌に何か異物が入ってくる感覚と微かな痛みがあった。這う舌先の感触が、その二ヶ所の異物感の元を探り、舐め、そして血を誘う。


 「血を……吸っているのか」

 「ははへだまれ


 ああ、噛まれた首筋から暖かいものが抜けていく感覚がある。吸血されている。ごくごくと少女の喉が鳴っているのがすぐそばで聞こえる。僕はここで死ぬのか?あの意思のない死体人形にされて、風化するまでこき使われるのか?それとも僕まで吸血鬼にされて、夜の住人になるのだろうか?



 意識が薄れていく。不思議と恐怖はなかったけれど、特に快感があるというわけでもない。ただひたすらに眠い。自分と世界との境界が曖昧になって行く。





 意識が戻って最初に目に入ったのは、床に寝たままの僕を心配そうに見つめている少女の顔だった。

 そういえば血を吸われたんだった、と思い出した僕は、右手を首筋に当てる。そこには救急絆創膏が二ヶ所の傷を覆うように貼られていて、触っても特に痛みはなかった。


 「ああ、気が付いたか。済まない、調子に乗って少し飲みすぎてしまった」

 「……僕の血を飲んだのか」

 「飲んだ」

 「ということは僕は死んだのか」

 「死んでない」


 それはそうだ、こうしているということは生きているということだ。しかし。


 「では僕も吸血鬼になったということか」

 「なってない」


 吸血鬼はばつが悪そうな顔をする。


 「そもそもあたしには、人を操ることも眷属に変えることも出来ない」


 僕はゆっくりと上体を起こした。体には特に不調はないように感じられたが、血を吸われたぶん若干体から気力が抜けているような気がした。


 「説明が必要だな」

 「……あたしは確かに吸血鬼だけど、その超能力はほとんど受け継いでいない」

 「受け継いでいない?」

 「先祖より代を重ねていくうちに、力を失って今に至る」

 「ふむ」


 僕は彼女にソファを勧め、自分も向かいに座る。


 「つまり?」

 「つまり、血は吸えても他は何もできない」

 「ふむ」


 僕はもう一度、首筋の絆創膏を触ってみた。これは彼女の私物だろうか?


 「ということは、回覧板で噂の吸血鬼。そしてハンターが追ってる吸血鬼はお前じゃないってことか」

 「あたしはこの近くの廃屋にずっと一人で住んでいた。最近になって、よそ者がうろついておっかないので逃げてた」

 「戦ったりはしないのか?その、縄張りとか」

 「そんな力はない」


 しゅん、と吸血鬼は萎れた。


 「済まなかった。実はあたしが血を飲むのはあんたが初めてなんだ。ひょっとしたら眷属にできるかも知れないと思って飲んだけど、駄目だった」

 「初めて?」

 「あたしは生まれてこのかた、人の誘いに乗ったことがなかった。人の血を吸ったこともなかった。あんたはあたしの初めてを奪った人間だ、責任を取って欲しい」


 なんだかとんでもないことを言いだしたぞ。


 「ちょっと待て。そういうのは、普通は被害者側が言う言葉だぞ。今回のケースで言うならば、血を吸われた僕が被害者のはずだ」

 「吸血鬼を自宅に上げるなんて、それはもう誘っているも同然じゃないか。あたしは一晩は我慢したんだぞ。なのにまたのうのうと迎え入れて。警戒心がないのにも程がある。そんなの襲われて当然だ」

 「勝手に入ってきたじゃないか。僕は入っていいとは言わなかったぞ、さっきは出てけとも言った」

 「そういうのは入れる前に言わないと、意味を成さない」


 血を飲んだからだろうか、彼女の体全体から匂い立つような不思議なオーラのようなものが見える気がした。蠱惑的な、官能的な何か。


 「この不老不死の体を呪い続けて数百年。血を飲まずば朽ち果てることも出来るかと思ってはいたが、それも叶わぬ。そこに初めて部屋に二度も受け入れ、あまつさえ無防備にその首筋を曝け出されてしまったら、これはもう」

 「これはもう?」

 「据え膳食わねば女の恥」

 「はあ」

 「あたし。もうあんた以外の血は飲める気がしない。だから責任取って」




 結局、リサと名乗る吸血鬼は我が家に居着いてしまった。食事をして風呂に入り、寝るという、まるで愛玩動物のような生活。


 「血を飲ませてよ」

 「嫌だ。今度トマトジュースまとめ買いしといてやるから、それで我慢しろ」

 「血の味を知らなかった頃はあれでも我慢できたけど、もう無理だよう。毎日とは言わない、せめて隔日でいいから飲ませて」

 「紅茶で我慢しろ。蜂蜜なら入れてやるから」

 「ちぇ」



 ……我が家には吸血鬼が居候している。


 いつまでいるのかは、判らない。






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 どうもです。


 この一編は、【吸血鬼リサ】シリーズの三作目でありながら時系列的には一番最初というわけのわからない話です。


 最初は押田桧凪さんの自主企画に参加するために書いたものでした。

https://kakuyomu.jp/works/16818093078727419920


 次は柴田 恭太朗さんの自主企画に参加するために書きました。これが時系列的には今の所一番未来になります。

https://kakuyomu.jp/works/16818093080848827032


 そして今回のは、特に企画など関係なしに書いたものです。リサがいかにして居候をするかというだけの話です。


 特にシリーズにするつもりはなかったので、今後も短編でしかもタイトルも関連なさそうな感じにしていくと思います。一度投稿したものって。そのへんいじくれないですよね?♡とかブックマークの絡みもあるし、タイトル名くらいかな?

 よく判らないのでコレクションで「短編集」というのを作って、短編作品はみんな入れていますが、これもいまいちよく機能を把握してないですとほほ。



 まあそんな感じです。ご意見ご感想などございましたらどしどし御寄せ下さい。喜びますが新作が面白くなるかの保証はございません。 書いてる本人は面白いと思ってるんですけどね、本当にとほほです。



 それでは!


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紅茶に蜂蜜 小日向葵 @tsubasa-485

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