第二章 爆ぜる知性

 諏訪部修一は、寺門教授の長い話が終わり質疑応答に移ったところで目を覚ました。質問の内容は他愛もないものだったので、一番前の座席に座ったまま、自らの今後のキャリアに改めて思いを巡らせていた。

 諏訪部は二十七歳で博士号を取り、国内や海外の大学でポスドクの経験を積んだ後、三十歳で寺門研所属の助教に就任した。二年後に寺門教授が定年で退官することはわかっていたため、後に研究室を引き継ぐことはその時点で暗黙の了解になっていた。

 二〇二四年三月の今、予定通りに寺門教授は退官し、来月からは準教授になった諏訪部が研究室を率いることになる。すべてが数年前に想定した通りに進んでいた。

 このようなキャリアが確定したのは二年前のことだが、キャリアプランは高校生のときにはすでに描いていた。物理学者という夢を実現したとも言えるのだが、諏訪部としてはただ目標に至る適切なロードマップを順調に進んできただけだった。いわゆる難関と呼ばれる大学に入り、修士学生の頃からコンスタントに雑誌投稿論文を書き続けることは、諏訪部にとって苦ではなかった。他の仕事に就くことを想像したことはなかったし、そうする必要もなかった。

 三十数年後には、自分が壇上に立って過去の研究成果の数々を語ることになるのだろう。諏訪部にはすでにその未来が見えていた。定年が数年伸びるかもしれないし、多少の障害はあるかもしれないが、大した問題ではない。空気抵抗のようなものだ。受け入れても良いし乗り越えても良い。結局、すべては計算通りに進むのである。身の回りのあらゆる物体がニュートンの運動方程式で計算される通りに運動するように。

 講堂の明かりが点いた。最終講義が終了したようである。司会の人物がこの後の予定を説明していた。最終講義の後は懇親会が予定されている。退官する教授と親交のある人たちがホテルの宴会場に移って会食をするのが恒例になっており、大学側が手配を済ませていた。

 講義を聞きに来ていた学生の多くは寺門教授と直接の面識はないので、講義が終わるとともに続々と退出していった。

 学外から来た数人の研究者は、壇上から降りてきた寺門教授を捕まえて熱心に話しかけていた。諏訪部より遥かに長い付き合いがあるのだろう。熱っぽく長年の労をねぎらう言葉を掛けている。

 現在の時刻は十六時〇五分。懇親会は十八時からの予定なので、電車で移動する時間を考慮してもまだ九十分以上は余裕がある。懇親会に参加する者はどこかで時間を潰すか、知り合いを見つけて交流を温めるかするのだろう。

 諏訪部は自分の研究室に戻ることにした。やらなければならない仕事がいくつかあったし、今日来ている研究者と議論をする予定もあった。席から立ち上がると青い大きなリュックを背負って速足で講堂を出ていった。

 講堂の西隣に大学の本館はある。寺門研の研究室は本館の四階にあった。

 国際科学大学のシンボル的な存在である本館の建物は、シンプルでありながらも美しさを感じさせるものだった。築年数は百年を超えているが、白い外壁が綺麗な状態を保っているため、そこまでの古さは感じさせない。正面から見ると大きな長方形に上に正方形の時計台が乗っかっているだけにしか見えない。それでも、圧倒的な安定感と角ばったシャープさは理系総合大学のシンボルとして相応しいものだった。

 寺門教授の居室は四二五号室だった。ここは寺門教授個人の部屋であり、デスクやPC、無数の専門書などが置かれている。寺門研の研究室は四〇七号室である。助教の諏訪部と寺門研に所属する五人の学生は日々、この大部屋で研究をしている。

 部屋は縦長で、おおよそ二列になって六つのデスクが並べられており、それぞれが適当に仕切られた自習室のようになっている。ただし、一番ドアに近い場所には流しと電子レンジや冷蔵庫、コーヒーメーカーが設置されており、開けた場所になっている。移動式のホワイトボードもあり、適宜議論の必要があればここで行うことができる。

 諏訪部が三〇七に戻ると、学部四年の杉本理香と修士二年の長田光輝が椅子を向き合わせて雑談をしているのが目に入った。諏訪部はコーヒーメイカーのスイッチを押した。

「寺門先生って、ドイツに二年もいたんですね」

「そうそう、ポスドクのときにね。ちょっとドイツ語も話せるらしいよ」

「この後はどうするんでしょう? 先生が家で大人しくテレビを見ているところとか、ちょっと想像できないんですけど」

「それはなさそうだけど、どうするんだろうねぇ」

 諏訪部は二人の会話に口を挟んだ。

「来年度も授業を持っているので大学には来ますよ」

 杉本と長田が顔を上げた。

「再雇用みたいなものです。学部生の演習の授業を主に担当するようですね」

「やっぱり寺門先生は教えることが好きなんですかね」

 杉本は感心して述べた。

「そう思います。大学の先生は研究者であるとともに教員でもあるんですが、どうしても学問が好きでこの仕事を選んでいますから、教育よりも研究に熱心な先生が多いという状況はあります。でも、寺門さんは教育にも非常に熱心で、今後もやってくださるのは私のような現役の教員としても研究に使える時間が増えるので有難いです」

 それだけ言うと、諏訪部は大部屋の一番奥にある自分のデスクに向かった。ドアから見て左の列の一番奥にある窓を背にした座席が諏訪部の場所だった。助教用に他のデスクよりも大きめの本棚とキャビネットが用意されている。

 杉本と長田も自然と解散のような雰囲気になり、それぞれのデスクに戻っていった。

 三分もしないうちにドアをノックする音が聞こえた。部屋に入ってきたのは究理大学の川口と楠木だった。二人とも三十代半ばであり、諏訪部と専門分野が近いため、学会で顔を合わせる機会が多かった。自然と名前を覚えるようになり、現在では諏訪部と川口は共同研究を行っている。

 この日も寺門の講義と懇親会の間の時間に研究の進捗状況を話し合うことになっていた。楠木は講義のついでということでこの日だけ一緒に話を聞くことになった。

 川口が諏訪部の顔を見つけると片手を上げて大きな声で呼びかける。

「どうも、お疲れ様です。今からよろしいですか?」

 諏訪部はタブレットを持って立ち上がると、ドアの近くのホワイトボードに向かった。それからろくに挨拶をすることもなく、ホワイトボードに数式を書きながら早速本題に入った。川口も楠木も諏訪部の性格はよくわかっていたので、何もツッコまずにそのまま議論を開始した。諏訪部と川口がホワイトボードに数式を書き込みながらあれこれと話し合い、楠木が適宜わからないところや気づいた点を指摘する。

 議論が一段落したところで、楠木がカバンからスマートフォンを取り出した。

「十七時二十分ですから、そろそろ懇親会の方に行きますか?」

 諏訪部が答える。

「そうですね。議論も一段落ついたところですから」

 そう言うと自分のデスクに一旦戻り、講義のときにも持っていた大きな青いリュックを背負って戻ってきた。準備ができたのを見ると、川口と楠木はドアを開けて部屋の外に出た。電気だけよろしく、と部屋に残っている学生に言い残すと、諏訪部も後を追って部屋から出た。

「そういえば、寺門さんはもう出られたんですかね?」

 諏訪部が何気なしに訊いた。川口が答える。

「どうなんでしょう。一応見に行っておきますか」

 三人は同じ階の四二五号室にある寺門教授の居室に向かった。

 部屋の前に着くと、ドアの上部に付いている曇りガラスを通して蛍光灯の光が漏れているのがわかった。どうやら寺門はまだ部屋の中にいるようだ。

 諏訪部が扉をノックしながら部屋の主に声を掛けた。

「寺門さん、よろしいでしょうか?」

 すると、内側から、はいはい、という返事と足音が聞こえてきた。

 諏訪部はノブに手を掛けて開けようとした。ところが、鍵がかかっていて動かない。

 次の瞬間、部屋の中から素っ頓狂な悲鳴が聞こえてきた。大声で叫ぶことに慣れていない人の叫び声だった。諏訪部は振り返って川口と楠木の顔を見た。二人とも目を大きく開いていた。

 悲鳴は何度も響き渡り、一時の驚きによるものから生命の危機を感じたときのものに急激に変わりつつあった。さらに人が壁や物にぶつかっているような音が聞こえてくる。曇りガラスの色は、もはや穏やかな黄色ではなく凶暴な朱色に変化しつつあった。

「火事です、火事です」

 けたたましい警告音とともに頭上から人工音声が流れてきた。三人が事情を把握したのはようやくこのときになってからだった。

 寺門教授の部屋で火災が起こっている。

 川口が大声で寺門の名前を呼びながらドアを激しく叩いた。三人は力いっぱいにドアノブを揺すってみたり、ドアに体当たりもしてみたがビクともしなかった。金属製のノブは瞬く間に熱くなり、素手では持てないほどの温度になっていた。

 部屋の中から聞こえていた悲鳴はいつの間にか止まっていた。三人は事態が急転したことを理解した。悲鳴があればたとえ大怪我でも生きていることが確認できるのだが、悲鳴がないということは命があるかどうかも不明な状況である。普段は真夏でも汗をかかない諏訪部だったが、このときばかりは緊張と焦りのせいで額から冷たい汗が流れ始めた。

 楠木は周辺の部屋から出てきた教員や学生たちにも助けを求めた。諏訪部は、事務室に予備の鍵を借りに廊下を駆けて行った。一分一秒を争う事態である。

 数人が協力する意思を示してくれたが、一方で建物から早く避難しないと自分たちの身にも危険が及ぶことも彼らは察知していた。消火器を持ってきた者もいた。しかし、火事が起こっているのはドアで隔てられた向こう側なので意味がない。

 諏訪部が事務室から戻ってきたが、成果物はなかった。事務職員はすでに避難しており、事務室の戸締りもされていたため、部屋の予備の鍵を探すことができなかったという。

 一同は判断を迫られた。鍵がない以上、寺門教授の救出活動を行うのは極めて困難である。部屋の中から聞こえていた悲鳴も今は聞こえてこない。もはやドアを開けられたところで寺門の命があるかどうかは甚だ疑わしい。加えて、自分たち自身の避難も一刻を争うものだった。

 物理学者たちは即座に合理的な判断を下し、建物から一斉に逃げ出そうとした。

 ちょうどそのとき、廊下の奥から消防士たちが走ってくるのが見えた。建物の外ではすでに消火活動が始まっているのだという。諏訪部たちは十歩下がり、ドアの前を消防士たちに譲った。

 バールのような特殊な道具を持った男が先頭に立った。道具をドアの鍵の場所に差し込み、何度か力を入れて捻っていた。てこの原理を用いて鍵を壊そうとしている。金属扉なので、火災が広まりにくいのは良いが、鍵をこじ開けるのには向かない。数分ほど苦戦して、男は鍵を破壊することに成功した。流れ込むように防火服を着た男たちが部屋の中に入っていった。

 まもなく、そのうちの二人が部屋から出て来た。その間には人間の体があった。一人は両腕、もう一人は両足を持ち、ぶら下げるようにして持ち運んでいた。

 運び出されてきた人体は激しく火傷をしていたが、諏訪部の目にもその人物の正体は明らかだった。先ほどまで最終講義をしていた寺門公彦教授である。

 焼け爛れた体の筋肉はまったく機能していなかった。それはもはや生きている動物ではなく、ただの物体であった。

 寺門教授の遺体はひとまず廊下に置かれた。消防士は諏訪部の周りにいた者たちを指差し、医療関係者を急いで連れてくるように命じた。

 本格的な消火活動が始まると五分ほどで火は収まった。隣の部屋に延焼することはなく、火災は一部屋の中で完全に収まって終わった。

 大学の保健センターの職員がやってきて寺門教授を診た。しかし、もはや手の施しようはなく、ただ寺門教授の死を確認することしかできなかった。

 誰も言葉を発することができなかった。日はすでに落ち、窓から差し込んでいた夕暮れの明かりもどんどんと少なくなっている。闇が廊下を侵食しつつあった。

 諏訪部が顔を上げると廊下の隅に設置されている監視カメラと目があった。あの目は、人間のように動揺することなどなく、冷徹に一部始終を記録しているのだろう。かつては諏訪部自身もそんな存在だと思っていたが、どうやら違うらしいことに今さらながら気づいていた。

 あまりにも突然の出来事だった。どれほど難解な微分方程式を解いても、この未来を予測することは不可能である。寺門教授の死は、静的であるべき空間に突如として現れた特異点だった。

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コスモス〜宇宙物理学者の密室〜 小野ニシン @simon2000

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