第一部

第一章 寺門教授の最終講義

 その日の国際科学大学の大講堂は静かな熱気に包まれていた。壇上に立った小柄な白髪の男性は、ポインターとマイクを持ち、時折笑顔を見せながら話している。その話し方と佇まいは安定感のあるもので、この人物が人前で話すことに熟達した者であることが伺えた。背後の巨大なスクリーンには、図や数式がぎっしりと詰め込まれたスライドが映し出されている。

 客席では、Tシャツを着た若い学部生とスーツを着た老齢の教授が入り混じり、頷いたり考え込んだりしながら講義を聞いている。収容人数五百人の会場はいっぱいになっていた。居眠りをしている者やスマートフォンをいじっている者は見当たらない。他の日であればおよそ考えられないことである。

 まもなく大学を卒業する杉本理香は、講演を興味深く聞きながら、いつもとは異なる講堂の雰囲気に驚いていた。理系に興味のある人の中では人気の高い宇宙論がテーマとはいえ、専門的な内容も含まれる理論物理学の話にこれだけ多くの人が一斉に耳を傾けている空間がこの世に存在しているとは思っていなかった。

 学部生の杉本は、まだアカデミアの世界をよく知らなかった。一年前から研究室に所属しているが、外部の学会や講演に出席する機会はほとんどなかった。来月から大学院に進学し、修士学生になれば研究者の端くれではあるので、多少はアカデミアの世界を覗くこともできるかもしれない。講演を聞きながら、杉本はそんな期待を膨らませていた。

 壇上の人物は高齢ではあるものの、話し方は年齢を感じさせないもので、とても明朗な調子だった。

「宇宙は孤立系です。外部と物質やエネルギーのやり取りを一切することができません。それは宇宙というものの性質を考えれば自明でしょう。空間や時間は宇宙の中にしか存在しません。すなわち宇宙の外には空間がないのですから、そもそも物質やエネルギーを放出したり受け取ったりできる場所がないということになります。

 熱力学の第二法則より、孤立系ではエントロピーが増大することがわかっています。少し脱線しますが、折角の最終講義ですから、私の思い出話みたいなものもしてみましょう。

 私は熱力学第二法則が基本法則として存在していることにずっと居心地の悪さを感じていました。というのも、第二法則は経験則でしかなかったからです。理論的な裏付けがなかったんです。これまで様々な実験が行われてきても第二法則に反する結果が一つもなかったから、じゃあきっと第二法則は正しいのだろうという考えなんですね。物理学の多くの法則は他のもっと基本的な法則を用いて証明できますが、熱力学の第二法則はそうではなかった。だから、このことは遥か昔、高校生くらいの頃から疑問に思っていました。

 ところが、確か二〇一七年のことでしたか。量子力学から厳密に熱力学第二法則を導き出すことができたと聞きました。量子力学というのは非常に微小なスケールのものを扱うので、根源的な理論体系だといえます。そういったミクロの世界の量子力学が、私たち人間が日常でも容易に観測できる熱力学の法則を説明できるというのは面白いですね。長年のもやもやがようやく解消された思いでしたし、やっぱり物理学は面白いものだなとこのときに私は改めて思ったものです」

 発表者は目を細めながらにこやかに語った。出席者の中にも強く頷いている者が何人もいる。

 午後二時に始まったこの講演は、国際科学大学の理学部物理学科に所属している寺門公彦教授の最終講義だった。宇宙論を専門に研究し続けた寺門教授は、定年を理由に二〇二四年三月末で退官することになっていた。最終講義とはその名の通り教授として行う最後の講義であり、自身の研究人生や研究してきた事柄について約二時間に渡って語る大学の年度末恒例の行事だった。

 最終講義は誰でも聴講することができるため、これまで寺門教授と付き合いのあった研究者たちは大学内外問わず一通り集まってきていた。さらに宇宙論自体に興味のある学生も多数参加している。

 杉本は寺門研に所属する学生なので聴講する義務のようなものを半ば感じていた。だが、たとえそのような立場ではなかったとしても最終講義を聴きに来ていただろうと確信していた。成績を付けられるための試験さえなければ大学の講義はとても面白いものなのだ。ましてやテーマが宇宙論ならばなおさらである。

 杉本は今月末で一旦国際科学大学を卒業するが、来月にはまた同じ国際科学大学の大学院に入学する。専攻も変わらないため、引き続き宇宙論の勉強と研究をする予定だった。ただし、寺門教授の退官に伴って寺門研究室はなくなってしまうため、同研究室で助教を務めている諏訪部修一が来年度から准教授に昇進して新設される研究室に配属となる。新たな諏訪部研は実質的に寺門研を引き継ぐため、まだ卒業していない学生はそのまま全員が諏訪部研に移り、これまで使っていた部屋や備品もすべて受け継がれることになる。

 今、諏訪部修一は一番前の列の中央右寄りの席に座っていた。三列後ろの席にいる杉本からは表情は見えなかったが、シルエットをよく見てみるとどうやら壇上を見てはいないようである。やや俯き加減になりながら微動だにしない。たぶん寝ているのだろう。寺門研の助教ともあれば寺門先生の研究内容など知り尽くしているから、今さら過去の研究成果を振り返る講演を聞いても面白くはないのだろう。思い出話にも興味はないらしい。本当に義務的に出席しているだけのようだった。

 寺門教授の話は続いていた。

「さて元の話に戻りましょう。熱力学の第二法則によって、孤立系、すなわち宇宙のエントロピーは増大することがわかりました。まぁ、厳密にはエントロピーは変化しなくても良いんですがね。大事なのは減少しないということです」

 最終講義では教授がこれまで行なってきた様々な研究の概要を話すため、あまり詳しい内容にまでは立ち入らない。通常の講義や研究発表ほど込み入った中身ではないため、分野にそこまで明るくない人でもある程度は理解できるようになっている。

 だが、そうは言っても大学で多少なりとも物理学を学んでいる人を対象にしているので、エントロピーなどといった基本的な用語の説明まではしてくれない。

 エントロピーとは簡単にいえば乱雑さの度合いを数量化したもののことである。エントロピーが大きいほど対象としている系が乱雑であることを意味している。宇宙全体で考えると、エントロピーは必ず増大することがわかる。

「エントロピーの側面から考えることで宇宙論における最大の謎の一つに対してある示唆が得ることができます。それは宇宙がどのように終わりを迎えるのかという謎に関してです。

 そもそも宇宙に終わりがあるのかと思われるかもしれませんが、これはほぼ確実にあると言われています。宇宙には始まりも終わりもないという定常宇宙論は現代ではあまり一般的ではありません。

 エントロピーの観点から考えると、宇宙全体のエントロピーは増大する一方ですから、宇宙の最期というのは言い換えればそれ以上エントロピーが大きくならない状態のことを指します。どれだけ宇宙をかき回して乱雑さを増そうとしても、すでに完全に乱雑な状態なので意味がないような状態です。このとき、全宇宙は完全に均質な状態になっています。ガスになった物質が一様に分布しているだけです。非常に低温で、どのような恒星も惑星も存在しません。この状態のことを熱的死と言います。

 スケールが大きすぎて実感が沸きにくいかもしれません。エントロピーを説明する際によく用いられる比喩をここで取り出して解説してみます。

 エントロピーは、部屋の乱雑さの度合いに例えて説明されることがあります。整理整頓された状態がエントロピーの小さい状態で、物が散乱してぐちゃぐちゃになった状態がエントロピーの大きい状態です。

 宇宙は孤立系ですから部屋も孤立系としましょう。つまり、外部と物質もエネルギーもやり取りできないような完全に密閉された部屋を考えます。この部屋にも熱力学第二法則は適用できます。部屋は放置しておけばそのままの状態なのでエントロピーは一定のままです。でも、実際には宇宙の中では様々な活動が行われているのですから、この部屋にもあなたという人間を一人入れておきましょう。密室の中にあなた一人だけがいると考えるのです。

 あなたは様々な活動をしますから、部屋のエントロピーは一方的に増大していきます。整理整頓されていた物は、やがてばらばらに置かれるようになります。自分は綺麗好きだから部屋が汚くなることはないと思う人もいるかもしれません。それでも、今考えているのは孤立した密室ですから、生活の中で生じたゴミを外に出すことはできません。結局、整頓好きであろうとなかろうと、ゴミが溜まって部屋の乱雑さは増す一方です」

 寺門先生が説明をかなり一般向けに寄せてきていることがわかった。エントロピーの増大を部屋が汚くなることに例えるのは、一般向けの解説ではよく行われているものである。正確ではないが、物理に詳しくない人も含めて広く理解してもらうには有効な方法だ。

 こういった比喩は案外ちゃんと物理を学んでいる物理学徒にとっても役に立つことがある。物理を学んでいたとしても、数式で表現された抽象的な理論をそのまま呑み込むのは難しい。そこで、まずは不正確でも比喩を用いることで直感的にわかりやすいイメージを脳内に思い描く。そこに数学的なロジックを適用させることで、より正確な理論のイメージを作り上げていく。愚直な思考の作業だが、有効な方法である。そもそも天才でもなければ数式を見ただけで具体的なイメージを思い浮かべることはできないし、杉本は自分が天才ではないと自覚していた。

 寺門教授の比喩はここからダイナミックに展開していった。

「さらに時間を進めてみましょう。途中で密室の中のあなたは死んでしまいますが、宇宙的な時間の尺度ではほとんど無視できるような現象です。さらに長い時間待ってみます。あらゆる物質は原子からできており、原子の中心には陽子があるわけですが、この陽子には寿命があります。十の三十乗年ほどの年月が経つと、陽子は崩壊してしまいます。あらゆる物質に陽子は含まれているので、この瞬間に物質自体も崩壊してしまいます。最終的にはすべての物がばらばらになり、全体としては均質な状態になると予測できます。これが熱的死の状態です」

 講堂に一瞬沈黙が訪れた。杉本は空気が急にうっすら寒くなったように感じられた。

 そんな雰囲気を和ますために、寺門教授は冗談めかした表情を作って付け加えた。

「ちょっと怖い話をしてしまいましたが、実際には皆さんが何か心配をする必要はありません。宇宙が熱的死を迎えるのは、人類が滅亡してからさらに何十億年も後のことですから」

 そう言うと寺門教授は高らかに笑った。聴衆側からもいくつか不器用な笑い声が聞こえてくる。一部の宇宙物理学者にしかわからないブラックジョークだったのだろう。

 寺門教授は、宇宙論の中でも特に宇宙の最期を専門に研究をしてきており、その分野においては世界有数の人物である。教育者としても有能で、全国の物理学徒の間で<テラカド>といえば、寺門公彦の著した一般相対性理論の教科書のことを指すほどだった。近年は雑誌やテレビの仕事を請けることも多く、大衆向けの科学雑誌の記事執筆や科学番組の監修なども行っていた。新書レーベルの一冊として刊行された『バラバラになる宇宙〜現代物理学が解き明かす宇宙の最期〜』も評判が良く、一般向けには代表作とされている。比喩を用いた解説から数式を用いた論証まで、寺門教授は実に手際良く行うのだった。今回の話も例え話やユーモアをふんだんに盛り込んだ聞きやすいものであると同時にとてもわかりやすい解説だった。

 宇宙の最期は熱的死。すべての原子はばらばらに砕け散り、いかなる天体も存在しない。凍てついた何もない空間。

 杉本にはその光景を妙にリアルに思い描くことができた。底知れない恐怖を感じたため咄嗟に頭を軽く振ると、羽織っていたカーディガンの前を引っ張って再び講演を集中して聞き始めた。

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