コスモス〜宇宙物理学者の密室〜

小野ニシン

プロローグ

 寺門公彦教授は右手の中にあるスマートフォンの黒くなった画面を見つめていた。反射した自分の顔は急に衰えたように見えた。

 それは過去からの電話だった。その声は寺門自身が過去に犯した罪を告発していた。ずっと未来を見て歩んできた研究者人生の最後に寺門の前に立ちはだかったのは、遥か昔に置き去ってきたはずの過去だった。

 顔を上げて正面を見つめと、そこには鍵のかかった白いドアがあった。一瞬、自分が閉じこめられているような錯覚に陥った。実際には二十分ほど前に、他人に電話での話を聞かれないように自分で鍵をかけたのにも関わらず。

 右側の壁にはホワイトボード、左側には大量の専門書が収納された本棚がある。どちらも寺門の長年に渡る研究生活を支えてきたものだった。研究一筋の人生を送ってきた寺門は、自分が死ぬときに見る走馬灯はきっとこの部屋の光景のようなものなのではないかと考えていた。

 人間としての人生はまだまだ終わりそうにないが、研究者としての人生はまもなく終わりそうだ。過去の自分のやったことに後悔はなかったが、あと少しで逃げ切れそうだったことを無念に思う気持ちはあった。

 ドアからノックの音がした。はいはい、と返事をすると、寺門は気を取り直して椅子から腰を上げた。少なくとも今日だけは自分の晴れ舞台である。人類の知識を前進させたことに対して、多少なりとも労ってもらう権利ぐらいはあるだろう。自然と表情も柔らかくなり、肩が軽くなった気持ちでドアの鍵を開けようとした。

 そのときだった。まったく予期していなかった様々な刺激が寺門の五感を襲った。痛い。視界の淵が紅に染まる。手に熱さを感じる。思わず声を出していた。聞いたことのない自分の声が耳に入った。どんどん熱くなる。ドアの鍵を開けるために手を伸ばそうとしたが、腕が脳の言うことを聞かなくなっていた。立っていられなくなり、寺門は地面に倒れ込んだ。皮膚の温度はさらに上がった。ドアを激しく叩く音が聞こえる。強烈な刺激に晒された寺門の感覚器官は麻痺していき、何も感じなくなりつつあった。意識も消え入りそうになっている。

 寺門は自分が死にかけていることを直感した。もはや助かれそうにない。もう何も感じない。ふいに訪れた人生の最期を寺門は受け入れることにした。あらゆる悩みが消え失せた。あらゆる思い出も消え去った。思考だけが僅かに残っていた。

 それにしても、と寺門は最後にしみじみと思った。自分は密室の中で死ぬことになるのか。なんともはや宇宙物理学者に相応しい死に方ではないか。

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