タイムトラベラーの女
増田朋美
タイムトラベラーの女
その日は雨が降ると言われていながら、なぜか雨はふらないで、いつもと変わらない生活をしていた。そういうわけで、電車も平常通り動いていた。杉ちゃんとジョチさんこと曾我正輝さんは、その日富士宮市のショッピングモールに用事があって、帰りに富士宮駅から身延線に乗って富士駅に戻ってきた。身延線は二両程度しかなく、富士駅で駅員がやってくるのを待たなければならなかった。先に電車に乗っていた歩ける人たちがみんな出て、やっと駅員がやってきてくれて、杉ちゃんに車椅子わたり坂を用意してくれて外へ出してくれたときは、もう到着してから20分近く立っていた。身延線は、基本的に電車が車庫に戻ることは少なく、又折り返しで富士宮とか、甲府へ戻っていくことが多い。杉ちゃんたちが富士駅に降りると、早くしてくれと言わんばかりに、富士宮方面に行きたい客が、我先にとばかり乗り込んできた。しかし、その中で、女性が一人、電車に乗り込もうとせずに、駅でぼんやりと立っているのが見えた。やがて、ドアが閉まりますご注意くださいという駅の放送が流れ、電車は全部の乗客を乗せて走り出してしまったが、その女性は、いつまでもそこに立っていたままだった。
「お前さん何やってるんだ?電車を見つめて、何をするつもりなんだよ。」
杉ちゃんがでかい声で彼女にいうと、女性は何があったんだと言うような顔で杉ちゃんたちを見た。
「え?もう行ってしまったんですか?」
杉ちゃんたちは彼女の発言を聞いて驚きを隠せない。
「もう行っちゃったよ。ドアが閉まりますっていうアナウンスが聞こえてこなかったの?」
杉ちゃんに言われて女性は、杉ちゃんたち以上に驚いてしまったようで、
「そうだったんですか。確かに、ドアが閉まりますっていう声は聞こえたんですけど、それは、この電車のことを指しているのだということはわかりませんでした。」
と、正直に答えてくれた。
「お前さん本当にわからなかったのか?も、もしかして、日本語がわからなかったとか、そういうことかなあ?」
「もしかしたら、海外で過ごしていたとか、そういう方ですか?中国残留孤児とか、そういうことだったらちょっとまだ若すぎる気がするんですがね?」
杉ちゃんとジョチさんはそう言い合った。確かに、中国残留孤児のような歴史的な理由があるんだったら、それにしては若すぎるというのもわかる気がするが、少なくとも、彼女は若い女性とは言いがたかった。もっと言えば、年齢がないというか、外見上は年齢不明という方が正しいのかもしれない。決して美人とはいい難いが、そういう雰囲気のある女性であった。
「なんかお前さんは事情があるんだろ。大体のやつで、どこのドアが閉まるかわかんないやつはいないもんな?お前さん、名前なんて言うの?どっから来たの?」
杉ちゃんに言われて、女性はとても恥ずかしそうな顔をした。
「何も恥ずかしがることはありません。僕たちは、福祉法人をやっていまして、あなたのような困っている女性を見ると放置しておけないんですよ。何も怖がることはありません。事情を話していただければ、僕らがなにか援助することができるかもしれません。」
と、ジョチさんはそう女性に優しく言った。
「ごめんなさい私、ずっと、療養しなければならない事情がありまして。」
「療養ってなんだ?なにか理由があったんか?ガンで何年か闘病していたとか、そういうことか?それなら何にも恥ずかしがることは無いよ。もし、誰かに聞かれたら、そういうことがあったって、ちゃんと言えばいいじゃないか。」
杉ちゃんはでかい声で言った。
「きっとそういう病気だったら、もっと良かったのではないかと思います。しかし私はそうではありません。もっと恥ずかしいもので、それで病院に何年もいました。」
「はあ、恥ずかしいっていうんだったら、梅毒とかそういうのか?」
杉ちゃんが、あっけらかんと言った。
「それも違います。」
と彼女はいう。
「そうですね。それに、梅毒の治療法は、すでに確立されていますから、恥ずかしいと思う必要は無いし、それで何年も病院にいる必要はありません。そういうことなら、あなたは精神疾患とか、そういうもので長期入院を強いられていた。それであなたは、最近になってこちらに帰って来たのでは無いですか?それで、駅のシステムが変わっていたことについていけなかった。それで電車が発進するのと、アナウンスの関連が理解できなかったということでしょう。違いますか?」
ジョチさんがそう言うと、女性はついにバレてしまったかという顔をした。
「何だ。何にも恥ずかしがる必要はないよ。そういう人間は、いろんな人に純粋すぎていて、世の中に適応できなかったということは、僕らは知ってるから。じゃあ、現実の話。お前さんは、電車に乗ってどこへ行くつもりだったんだよ。」
杉ちゃんがでかい声でそう言うと、
「西富士宮駅近くにある、銀行に用事がありまして、そこに行こうとしていました。入院する前にそこで口座を持っていましたが、それを解約するために出向こうと思ってました。」
と女性は答えるのだった。
「はあ、そういうことなら、いまは、インターネットでも解約できる。家に帰ったら、パソコンで調べてみな。ちゃんとやれるから。わざわざ銀行に行ったら、逆に大目玉を食らうと思うぞ。」
杉ちゃんがでかい声でいうとジョチさんも、
「それに、もう三時を過ぎてしまったので、銀行は閉まってしまっていますよ。」
と言った。
「そうですか。私、パソコンはできないので、明日もう一回電車に乗って行ってみます。本当にありがとうございました。」
女性はそう言って戻ろうとするが、
「いや、僕たちは、そういう事情がある女性を助けることが仕事なの。ここにいるジョチさんがやってる福祉施設は、そういう居場所がない女性たちに居場所を提供する施設だよ。だから、そういう仲間がいっぱいいるの。それに、三人よれば文殊の知恵。仲間を作ったほうが生活も楽しくなるし、パソコンだって教えてもらえるよ。だったら、ぜひ、僕らの施設に来てみないか?もう一回聞くが、お前さんの名前は何ていうんだ?」
と、杉ちゃんに言われて更に小さくなった。
「はい。西崎と申します。西崎菊子です。」
「はあ、どっかの有名人と似たような名前だけど、まあそれはいいや。で、何の病気で、どこの病院に収監されていたのか、言ってみな。」
杉ちゃんに言われて、西崎菊子さんは、小さな声で、
「はい、統合失調症で、大富士病院にいました。」
と答えた。
「わかりました。それなら、現在の住所を教えてください。」
ジョチさんがいうと
「はい。富士市の横割のアパートに。」
西崎菊子さんは答えた。
「そうなんですね。じゃあ、それでは、住むのだってかなり不自由なのではないですか?よく僕らの施設に通っている方で一番わからないと言われるのが、オートロックが理解できないのと、宅配ボックスなどが理解できないということです。そのような悩みはありませんか?」
ジョチさんがそう言うと、
「ええ。私は、市営住宅に住んでいますので幸いオートロックは無いのですが、私が入院する前のアパートとはかなり変わっていて、住みにくいなという感じはあります。」
西崎菊子さんは答える。
「そうですよね。電話のこととか、そのようなことで不自由なことはありますか?」
ジョチさんが聞くと、
「はい。電話は、固定電話が当たり前で、スマートフォンなんて言うものは全くありませんでしたので、それがどうしても理解できないのです。ラインというものや、フェイスブックなどのログインができなくて。」
西崎菊子さんはそういった。
「そうですね。今の時代、SNSも必需品ですからね。それなら、製鉄所で、スマートフォンの販売店で働いている利用者がいますから、彼女に教えさせましょう。」
「製鉄所?鉄を作るところですか?」
ジョチさんがそう言うと、彼女は言った。
「いえ、それとは全く違います。製鉄所というのは、鉄を作るところではありません。先ほども言いました通り、居場所のない女性たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸し出している施設です。製鉄所と言う名称は、施設を創始させた青柳懍先生が、他に該当する名前が無いということでつけたそうです。」
ジョチさんは説明した。それに納得してくれたのか、西崎菊子さんは、申し訳無さそうな顔で、
「ありがとうございます。あたしの様などうしようもない人間に、声までかけてくれて、スマートフォンの使い方を教えてくれるだなんて。本当に、ありがとうございます。」
と二人に頭を下げるのだった。
「いやあ、大したことありません。だって仕方ないじゃないですか。そういう、世の中から隔絶されるしか方法がなかった女性も、少なからずいるはずです。むしろ、そういう女性を支援する組織が無い日本の社会制度がおかしいと思ってください。諸外国には、あなたのような女性を支援する組織は、少なからずあります。」
ジョチさんがそう言うと、西崎菊子さんは、
「ありがとうございますとしか言いようがありません。本当に、申し訳ないです。こんな、どうしようもない女性のために、」
と菊子さんは言ったが杉ちゃんがでかい声で、
「どうしようもない女というのはやめような。」
と言ったので、はいと小さな声で言うのであった。
「そういうことなら、横割の市営住宅までお送りさせていただきますよ。僕らは、そのためにいるんですから。いますぐタクシーを手配します。少しお待ち下さい。」
とジョチさんは急いで、タクシー会社に電話をかけ始めた。タクシーの手配が済むと、三人は、改札口へ行って、西崎菊子さんの切符を払い戻してもらって外へ出て、タクシー乗り場に向かった。そして、いわゆる誰でも乗れるユニバーサルデザインタクシーというタクシーに乗って、とりあえず横割の市営住宅へ向かい、そこの前で、西崎菊子さんをおろした。ジョチさんは、彼女に、製鉄所の場所を書いたメモを渡した。菊子さんはそれを受け取ってありがとうございますと言って、タクシーを降りた。
「まあとりあえず住む家があってよかったなと言うところか。ホームレスになるよりはマシだが、電車が動くのがわからないんじゃ、ちょっとかわいそうだねえ。」
と、杉ちゃんが、彼女が降りていくのを見送りながら言った。
「きっと、そういう境遇の女性はこれからもっと増えていくでしょうね。バリアーフリーの推進する法律ができたというけれど、それだって結局お金を取るだけじゃないですか。それで彼女たちは、余計に暮らしにくくなっていくでしょうね。」
ジョチさんはとても心配そうな様子だった。
「そういうことなら、スマートフォンの使い方講座に来てくれるかな?あの、斎藤美晴さんが、ちゃんと講座を開いてくれるといいが。」
杉ちゃんは大きなため息をついた。ちなみに斎藤美晴さんと言う女性は、製鉄所に先月から通っている女性で、全日制の高校を卒業したあと、スマートフォンの販売会社に就職し、現在は、販売員として勤務している。ときに、スマートフォンの販売員として、スマートフォンの使い方を、他の利用者に教えていたこともあった。
杉ちゃんとジョチさんは、製鉄所に戻った。戻ると、水穂さんが出迎えた。製鉄所の食堂の中では、二人の利用者が、勉強を教え合っていた。この二人は学校は違っているが、現在過年生であっても、高校に通っている。その近くの椅子に座って、斎藤美晴さんがぽつんと本を読んでいた。美晴さんは、精神疾患があって、フルタイムで働くことは無理だと医者から言われていたから、スマートフォンの販売員として、2時間だけ働かせてもらっていた。時々、うつの症状があり、みんな自分の事を必要ないんだと口走ることがある。水穂さんが、ジョチさんに、又そのようなセリフを言ったとほうこくした。ジョチさんは、美晴さんのそばへいって、
「もしかしたら近いうちに、スマートフォンの使い方を習いに来る方が来るかもしれません。なので、決して死のうとか、自分のことをいてはいけない存在だとか言ってはいけませんよ。」
と注意をしたが、
「でもあたしのことなんて、いらないと思ってるんでしょ?」
と美晴さんは言った。
「まあ、あなたにはそう見えてしまうと思いますが、どこかで人間はつながっているものです。誰からも縁を切られて一人ぼっちでいる人間は存在しません。もしかしたら、SNSなどで繋がれるかもしれないんです。」
水穂さんが彼女を励ますが、彼女は、つらそうな表情をしたままだった。きっと本気で必要だという態度を取られたことが一度もないのだろう。多分、どこかで彼女のことを必要だといった人物はいるかも知れないが、それを彼女が受け取れていないのだと、杉ちゃんもジョチさんも言い合っていた。
そして、数日後のことであった。杉ちゃんたちがいつもどおりに製鉄所で、精神疾患のある女性たちの話し相手をしていると、
「こんにちは。」
と、一人の女性が製鉄所を訪ねてきた。杉ちゃんが玄関先へいってみると、そこには、西崎菊子さんがいた。
「ああ来てくれたんだね。ちょうど、講師をしてくれる斎藤美晴さんもいてくれるところだ。こっちへ来て、スマートフォンの使い方を習ってみな。」
と、杉ちゃんはすぐに彼女を製鉄所の食堂へ案内する。食堂に行くと、斎藤美晴さんが疲れた顔をしてそこにいた。
「あ!」
二人の声がしたのはまさに同時だった。
「あなたもしかしたら、斎藤敏夫先生の娘さん!」
菊子さんはすぐいう。
「どうしてそれがわかったんですか?」
と斎藤美晴さんがいうと、
「いいえ、にてるからすぐわかりますよ。だってあの斎藤敏夫という教師は、あたしのことを、大学にいかないからと言う理由で自殺の練習までさせたのよ。あたしはそれで、入院しなければならなかった。それなのに、良くもぬけぬけと、ここでスマートフォンの講師なんかしてるんですか!」
西崎菊子さんは怒りを込めて言った。
「それに、私の事を、生後一ヶ月の娘よりも、だめだとか、そういうことばっかり言ってたのよ。私は何度もその正誤一ヶ月の娘を呪った。その子が、こうやって大きくなって、しっかり働いているのですか!」
なぜか、不思議な能力のようなものが、精神障害のある人にはあるものだ。西座菊子さんが、斎藤美晴さんのことを怒鳴った根拠はと杉ちゃんたちは聞きたかったが、それは話さなくても、西崎菊子さんはわかってしまったようなのだ。
「斎藤美晴さんのお父さんは、斉藤敏夫という名前だったのか?」
杉ちゃんが急いでそうきくと、美晴さんはハイと言った。
「父は、毎年毎年元生徒と言う人が家へ訪ねてきたから、そんなことをしていたとは思わなかった。あれだけ優しくて、面白かった父が、何で自殺の練習をさせたとか、そんな事したのかしら。とても信じられない。」
そういう美晴さんに、杉ちゃんは静かに言った。
「いや、こういう精神疾患のある女性は、嘘はつけないよ。だから、美晴さんの言うことも、菊子さんの言うことも真実なんだと思うよ。まあ、人間の得られる情報ってさ、目で見るとか、耳で聞くとか、鼻で嗅ぐとか、手で触るとか、味を感じるとか、そういうもんだろう。そういうところが素直に体に入ってくればいいけれど、それに感情っていう不純物が加わるから、真実が曲がってしまうわけだ。きっと、西崎菊子さんがされたことも事実だし、斎藤美晴さんが、優しいお父さんだったというのも又事実だろう。そして、大事なことは、お父さんの斎藤敏夫さんにもそういう能力があって、それを修正しようと感じていたのかもしれないね。」
「あたしは許さないわ。斎藤敏夫という教師が私のことを、こういう精神障害者に陥れたってことをね!」
西崎菊子さんはそういった。それに続けて斎藤美晴さんも、
「あの優しかった父が、教師として生徒に自殺の練習をさせたなんてどうしても思えない。」
と言ったのであった。このままではどこまでも二人の主張は平行線なままになってしまうと感づいた杉ちゃんたちは顔を見合わせた。そして、水穂さんが静かに、
「きっとどちらか片方が許してやるしか無いのだと思います。きっと、菊子さんが、斎藤敏夫という教師にいじめられたのも事実ですよね。そして美晴さんだって、決して幸せな人生を送ってきたとはいい難いじゃないですか。美晴さんも、お父さんが亡くなられてからは、いじめにあって、高校を卒業したら、進学することはできなかった。だから、ふたりとも、幸せになれたわけではないと言うところを共通点として、お互い許し合うしか無いのだと思います。それは、両方が拒絶していたらできないことです。どちらか片方だけでも歩み寄る姿勢を示さないと。」
と、二人の女性に向けて言ったのであった。二人の女性たちは黙ったままお互いを見つめていた。でも、それを眺めている間に、女性たちの目はだんだん優しくなっていった。そして、西座菊子さんが、静かに、
「ごめんなさい。あなたのお父さんにひどいことを言ってしまって。」
と、言ってくれたのであった。それを聞いた、斎藤美晴さんが、
「いいえ、あなたに申し訳ないことをしました。私の方も本当にごめんなさい。」
と、菊子さんに向かって頭を下げたのだった。
「まあこれでタイムトラベラーも、なんとか解決できたかな?」
杉ちゃんがにこやかに笑っていた。
「お互いに、辛し過去とは、知りながら、口を開いて、謝罪のたまふ。」
文学の才能があるのだろうか、菊子さんは和歌を作った。
「あり得ない、過去のことだと、聞かされて、それでも言葉、通じたその日。」
斎藤美晴さんも和歌を作った。
それを見た、杉ちゃんや、ジョチさん、水穂三といった援助者たちは、静かに、良かったねとうなづきあうのであった。その日は、とても静かな晴れた日で、愛鷹山も、富士山も、静かにみんなを見守っていた。
タイムトラベラーの女 増田朋美 @masubuchi4996
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