幸花

千桐加蓮

幸花

 山奥から見える空は、もうすっかり暗くなってしまっている。

 血の跡が残る大鎧を身につけた青年が、山の麓から山の奥深くに迷い込んできた。

 漆芸、金工、染織。大鎧は、伝統的な技法が尽くされている。

 青年は汗だくになりながら大鎧を脱ぎ捨てようとしたが、止める。

 息がかなり上がっている。数日も食事を取れていないのだろう。体は痩せ細り、肌は荒れ。髪も乱れている。元々きめ細やかな白い肌をしていたというのに、どこもかしこも泥まみれだ。

 暗い顔で彷徨い歩いていることから伺うに、青年は落武者である、ということがわかる。

 


 今日の暮れ方のこと。青年が、この山の奥深くで道に迷う前の話だ。

 山麓の方。二人の童は、小さな神様へのお供物である一つの大きな握り飯を見て、青年と同じように痩せ細った手足を、伸ばしては引っ込め……伸ばしては引っ込め……。

 これを繰り返していた二人の童に、青年は声をかけた。

「お食べなさい。天罰なら、お供物を奪い取った儂に当たるに違いない」

 柔らかい口調で話しかけ、両手でお供物の握り飯を包むようにして二人の童に手渡しした。

「お礼に手当ていたします。立派な召物に泥がようけ、ついてしもうとるけん」

 童の一人が、自分が身につけている薄い羽織を握りしめ、小さな声で言った。

 すると、青年は軽く笑顔を作った。

「案ずることなかれ。儂は大将の首を取られてしまった落武者だ。其方ら、儂にあまり近付かない方が身のためだぞ」

 童たちは困ったように黙り込んでしまう。

「ささ、儂のことなんて気にせずに、握り飯を仲良く食べなさい。腹一杯にならないと元気に動けないからなあ」

 童の一人は握り飯を受け取り、お礼を申した後、誰にも追いかけられない場所を青年にこっそり教えた。


――この場所を少し引き返すと、山の入り口があるんじゃ。今宵は春の夜になるというのに咲かず、今にも枯れ果ててしまいそうな桜の木と、こんもうて可愛らしい白い花が目印。その入り口は、見える人にしか見えないと言い伝えられとる。けんど、きっと貴方様ならお通ししてくださるだろう。


 もう一人の童が付け加える。


――山の奥深うに、山姥がおるんや。ほなけんど、人を襲うことは決しとらん。この山に住む山姥は、心優しい人の子をもてなし、帰り道を教えてくれる怪の者や。

 

「きっと貴方様なら」

 悔しそうに唇を噛む童たちは青年の手を摩る。青年は優しく握り返し、申し訳なさからくる微笑を浮かべ、礼を言い、童たちに従った。


 日が沈んだ。暗さのあまり、歩く道がわからなくなってしまっても、青年は歩き続けた。息をするのが段々と苦しくなり、足に力が入らなくなってきてしまった青年の前に、薄汚れた小袖を着ている老婆が現れた。

 青年は目を見開く。けれど、山姥だ! と声を上げることはなかった。その場で倒れ込んでしまったのだ。



 再び意識を取り戻すと、山姥が木材で作ったのであろう器で、青年に水を飲ませているところだった。

 青年はゆっくりと目をあける。

 山姥は安堵した笑みで青年の目を見た。

長十郎ちょうじゅうろうだねえ。会えて嬉しいよ」

 青年、長十郎は挨拶を交わし、辺りを見渡した。洞窟の中であることは確かだが、灯籠もないというのに、洞窟内に描かれている絵のおかげで、中は明るい。 

 長十郎は、軽く驚いた。

幸花さちばなを特集な液と混ぜて絵の具にしたんだ。描いた絵は、神に届いて一月もすれば消えていく」

「幸花?」

 長十郎は、首を小さく傾げた。山姥はああ、と声を漏らす。

「ワシが名付けたんだ。人間が、辛いのを辛抱して、人を想い、行動を起こすと花が咲く」

 山姥は、洞窟の外に目を向けた。長十郎も外を見る。洞窟内と同じように、花は光輝いていた。

「紅葉色に薄花色、葵色。まだまだ様々な色の花が咲いている。綺麗じゃなあ」

 山姥は嬉しそうな声で笑った。

「皆、人がした行いだよ。誇らしいことだ」

 長十郎は、ゆっくりと立ち上がる。

 すると、体の痛みが和らいだことに気付いた。着ていた直垂を緩め、怪我をした右肩のあたりや、左の太ももの深い傷のあたりを見る。綺麗に治っていた。

「こりゃ、たまげた」

「長十郎の幸花が薬となったのだよ。今日の暮れ方に咲いた花だ。元通りになっただろう。体は痛くないかい?」

 山姥は、ゆっくりと立ち上がりながら問うた。

「動きます」

「良かったなあ。ワシ、知ってるよ。暮れ方に二人の童に握り飯を譲ったこと。自分も腹を空かせているというのに。童たちが腹一杯になってほしいと思ってねえ」

 長十郎は、洞窟の入り口まで山姥と歩いた。

「確かにそうです。でも、儂は善人じゃない」

 山姥は全てを知っているらしい。そういうことかと、目を細め、言葉をかけた。

「長十郎、初陣を飾ったようじゃないか。そこで人を殺したことを言っているのだろう?」

「ああ」

 長十郎が絞り出し、頷いた声は枯れていた。

「皆と、仲良くなれたらどれだけ良いか。皆、己の正義のために戦をした。お家のため、権力維持のためだという者がほとんどだと思うが……」

 長十郎は、馬に乗って戦った。自分のことを偉そうに語ることを好まない長十郎。彼は、上流武士のお家に生まれたことをあまり快く思っていないのである。

「儂は、和歌が好きだ。人を想った和歌を詠むこと、季節の移ろい、それらを詠む人を見ることも好きだ」

 山姥は一つ大きく頷いた。

「お前は、素晴らしい心を持っている。あ、その幸花。長十郎と敵国農民の子どもが、今咲かせた」

 山姥は、聴色の小さな幸花を指した。

「長十郎。生きてる限り、悲しことなんて何度も心を突き刺すのだよ」

 山姥が一つ昔話を語ろうか、と薄笑いを浮かべ、語り始めた。

 

――この山、大男が命を削って水害から村を守った時にできた山なんだよ。その大男は、ワシの弟だった。ワシは自分を酷く責めた。確かにワシだって村を守ろうとした。けれど、命に変えてまで守り抜く勇気はなかった。今となっては、そこまでしない策があったのかもしれないと考えることもある。ワシは、村の人間を見て、声をあげて泣いた。そしたらね、ワシの体は縮み、声は枯れ果てて、若い娘の姿から老婆の姿に変身していた。


「その時、貴方様の幸花が一番大きく咲き誇っていたでしょうね」

 長十郎は、幸花が広がる外の方を見たまま、山姥に向けて小さく笑み、確かにその通りで、悲しいことは何度も訪れる、と付け加えた。

「ワシは、ここでの生活を楽しんでいるよ。心優しい人間の姿を見れるのだから。そのことを神に伝えられるのは、この上ない喜びに溢れている」

 山姥は誇らしげに笑った。

 洞窟の壁には、人が心優しい行いをしている様子が描かれている。

「さあ、長十郎も誰かのために生きつつ、気慰みを見つけるべきだ」

 山姥は洞窟の入り口から、長十郎が寝ていた場所まで戻り、荷物を磨き始めた。

 長十郎も山姥の方に向かって歩く。

「長十郎、お前は七つの頃、城下町をよくお忍びで歩いていただろう? まあ、それは置いておこう。祭り事の最中に出会った女子おなごを覚えているかね? 長い髪を空色の髪留めで結っていた長十郎と同じくらいの歳の女子だ。名は……巳鞠みまりといったな」

 長十郎は、覚えている! と何度も頷いて山姥の目をまっすぐ見た。

「その女子を頼りなさい。今は一人、傾斜地の山林で暮らしをしてる。きっと長十郎を丁寧にもてなしてくれるさ」

 長十郎が喉元に触れ、山姥にお礼を言うと、山姥は笑顔で頷いて、全ての荷物を長十郎に渡した。

「特別だ。ここから一本道で行かせてやる。まっすぐ歩くと、質素な家が見えてくるからねえ」

 山姥は空色より少し濃い色の花かんざしを差し出した。

「長十郎が咲かせた花の一つだ。巳鞠に贈りなあ」

 山姥は、長十郎の右手を包み、花かんざしを握りしめさせた。

「ありがとう」

 喜びからくる微笑みで山姥をチラッと見てから歩き出した。

 幸花は一本道を明るく照らしていた。


 


 長十郎が、あれから山姥と会うことはなかった。長十郎は、数年経って生まれた、自分と巳鞠の間に生まれた子どもに言い聞かせる。

 

「辛いのを辛抱して、人を想い、行動を起こすと幸花が咲くんだ。それは綺麗な花で、優しい山姥が幸花を使った絵の具で絵を描き、神様に人間の素晴らしさを送り届けているんだよ」


 子どもは可愛らしい声で言う。


「ほんとに! そんな花があるの??」


 長十郎は、幸せに満たされた優しい表情で笑った。


「山姥さんのおかげで、君と会えたのだ。巳鞠と再び会えたのだ。巳鞠が毎日つけてる花かんざしは幸花だなんだ」


 子どもは不思議そうに目を見開く。


「花を咲かせられる人になることを、お父さんは願っている」


 子どもは大きく手を挙げて、元気よく返事をしたのだった。

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幸花 千桐加蓮 @karan21040829

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