初詣

謎崎実

初詣

12月31日。

 時刻が午後11時半を回る頃、鳥居の外まで伸びている参拝客の長蛇の列に、寒さと共に並んだ。


 大勢の人で賑わう夜中の神社は底知れないワクワク感があり、少々浮かれてしまう。辺りには灯篭に沿って出店が並んでおり、神社内に漂う唐揚げやたこ焼きといった定番料理の香りが食欲を搔きまわしてくる。

 俺はそんな大晦日の独特な雰囲気がとても印象的で大好きだ。


 今年も色んなことがあった。

 同窓会で久々に再会した懐かしい友人と酒を酌み交わしたり、その友人が結婚したりと楽しいこともあったが、もちろんそれだけではなかった。

 同僚の退職、誹謗中傷による芸能人の自殺、軍事侵攻による戦争の勃発など、まさに山あれば谷ありな一年だった。

 しかし、明日を迎えれば、これから新しい山や谷も迎えることになる。一年というのはそういうものである。


 こうして一年を頭の中で振り返っていると、徐々に参拝の順番が近づいてきていた。

 何を祈ろうか、まだ一度もできたことがない彼女ができるようにでもお願いしようか。いざ、参拝するとなると、何を祈ればいいのか分からなくなってしまう。


「お兄さん、今一人なの?」

「え?」


 突然の何者かに話しかけられた。驚きを隠せなかった。

 横を見ると、年齢は18といったところだろうか。自分よりずいぶん年下に見える女性が、なぜか俺に顔を向けて立っていた。

 サラサラな黒色のミディアムボブに、服装は白色のコートにパンプス。手にはモコモコの手袋をしていた。身長は160といったところか、170ある俺よりは少し小さい。まさかこんな美人さんに話しかけられるとは夢にも思わなかった。こんなイケメンでもない冴えない男に一体何の用があるのだろうか。


「まぁ、生憎。今は地元に友達がいないものでね」

「へ〜そうなんだ~。ところで、お兄さんはさ、ここで何をお願いするの?」


 それはちょうど考えていた難しい質問だった。

 正直、もしかしたら願いなど俺にはなく、ただこの雰囲気が好きという理由だけでここに来ていたのかもしれない。


「あなたはどうなんですか?」

「私はね、来年も平和でありますように。かな〜」

「あはは、それは素敵ですね……」


 あまりにも典型的な回答だったため、愛想笑いかつ簡単な感想で返答してしまった。


「お兄さんは?やっぱり彼女とか?」


どうやら見抜かれていたようだ。


「まぁ、はい……」

「え、好きな人とかいるのー?だれだれー?」


 彼女はニヒリと笑い、からかうように言った。


「いや言いませんよ。てか言っても分からないでしょう……」

「えー……ケチ。でも私も彼氏欲しかったなー」


 彼女はどこか寂しげな表情を浮かべていた。

 少しでも触れてしまったら壊れてしまいそうな、ガラスのように透き通った表情。そんな彼女の顔はどこか既視感を覚えた。


「へー……意外ですね」

「だってできたことないんだもん!」


 彼女の拗ねた口調に、思わず笑いがこみ上げてきた。

 気がつけば、彼女の心地良い声に引き込まれていた。赤の他人であるはずなのに、なぜか不思議と楽しくなっていた。女性とまともに会話するのは高校以来で、つい気持ちが高ぶってしまったのだろうか。どこか懐かしさを感じるこの時間がずっと続いてほしいと思ってしまう。


 俺はそのとき、大事なことに気がついた。

 今まで、赤の他人だから、仕事が忙しいから、関わっても意味がないから。そんなちっぽけな理由で人と関わることを避け、気づけば慕ってくれていた後輩も、傍にいた友人も次第に離れていき、いつの間にか一人になっていた。

 少し考えればわかることに、俺は今まで気づかなかった。いや、気付かないふりをしていたのかもしれない。周りが勝手に離れて行ったと、誰かのせいにしていたのだ。でも本当は、俺が自ら突き放していた。それを今日、初対面の彼女に気づかされたのだ。


「お兄さんはさあ、いま人生楽しい……?」

「さぁ……楽しいとは言えないかな」

「そう……ごめんね」


 彼女は何故か謝った。そして俺の右袖をか細い指でぎゅっと摘むと、より体を寄せてきた。

 俺は誤解を招いたと思い、あたふたとその誤解を解いたが、彼女は「違う、そういう意味じゃないよ」と優しい声で首を横に振った。


「私知ってるんだよ。君がいつも表で無理していることも、その反面、家では独り寂しそうな顔をして、眠りについていることも。でも、それでも涙一滴流さず結局無理していることも。ぜーんぶ知ってるよ」

「はぁ?何を言って……」

「だって私、ずーっと見てたもん。君のこと」

 

 彼女は道をふさぐように俺の前に出ると、今度は左の袖も握ってきた。


 そんな俺は彼女の言っている意味が分からず、ただ困惑するばかりで言葉にすることもままならなかった。

 しかし、彼女はそんな放心状態の俺に語り続けてた。


「でも、そうやって君に寂しい思いをさせたのは、あの日、私がいなくなったせいだよね……?」

「だからさっきから何を——!」


 そのとき、真っ白になっていた俺の頭の中に色が付いた。

 さらさらとした黒髪ミディアムボブにくりっとした目。そして、その目に宿るビー玉のような水色の瞳。

 奥底に眠っていた記憶が、水中を彷徨う気泡のように浮かんできた。

 何度も見つめた水色に輝く瞳。

 その輝きが眩しくて何度も目を逸らした、甘酸っぱいあの時間。

 そんなかけがえのない時を過ごしたあの頃の記憶は、いつからか隠すように塗り潰されていた。


紗代さよ……」


 気つけば、そう彼女の名前を口にしていた。

 そこには、コートを脱ぎ捨てたあの頃と変わらない制服姿の彼女が立っていた。

 久々に目にした高校時代の制服は、懐かしい青春の日々を鮮明に蘇らせた。


「高校以来だね」

「あぁ、久しぶりだな……」


 俺は彼女の眩しさに顔が熱くなり、思わず目を逸らした。

 そんな俺を見ていた彼女は面白かったのか、からかうように微笑んだ。


「君、もうすぐで28だというのにあの頃となんにも変わんないね」

「それは紗代もだろ」


 もう一度、彼女の目を見た。そしてお互いに顔をほころばせた。


 久しぶりに心から笑った気がした。

 職場では仮初の笑顔でその場をやり過ごすことが多く、長い間まともに笑ったことはなかったのだ。

 しかし、恋人でもないのに、なぜか彼女と一緒にいるときだけ、自然と微笑んでしまう、優しくしてしまう、胸が締め付けられてしまう。学生当時の俺は、それがどうしてかわからなかった。

 でも、今は違った。

 それは、彼女に恋をしていたと、ようやく気づいた。いや、気付かされたのかもしれない。

 それでも、今も尚キュッと胸が締め付けられるのは、未だ彼女に恋をしているのだろう。もうすぐで10年が経とうというのに、恋心だけは忘れない未練タラタラな自分に思わず呆れてしまう。


「なぁ紗代。俺は……寂しかった」

「うん、知ってる」


 下を向く俺の手を握ると、彼女は優しくそう言った。


「辛かった……」

「うん、わかってる」

「君に会いたかった……」


「いまここにいるよ……」


 あのとき、言えなかった言葉を、もう言い忘れぬようにと淡々と述べ続けた。


「でも、言えなかった……好きだって」


 そして、ついに一番言いたかった言葉を彼女に伝えた。言い残さないよう震えた声で何度も繰り返し伝えた。


「大丈夫、もう充分伝わってるよ」


 彼女はまた、優しく微笑んだ。

 

 でも本当は、という言葉を彼女に言う資格など俺にはなかった。

 いつしか、そんなことは忘れていて、紗代のことも学生時代も、何もかも忘れていた。だから、今さら言ったって都合がよすぎるのだ。

 でもどうしてだろうか。

 どうして彼女はそんな俺の頭をそっと優しくなでているのだろうか。

 どうしてそんなに優しくするのだろうか……。


「ほら、もう少ししたら鳥居くぐるよ」


 彼女は俺の横へと戻ると、今度は俺の右手を握った。

 そんな彼女の手は寒さからかとても冷たかった。

 俺は熱くなった目頭から雫が溢れぬよう上を向いて、はぁーっと深呼吸をするように深い息を吐いた。そして華奢で小さい彼女の手を温めるように少し強く握り返した。


 周囲がにぎわうなか、お互い無言のまま列の流れに身を任せて夜空の下を歩いた。

 時刻は午後11時55分。どうもこのペースだと、日をまたぐ前にお参りどころか鳥居を潜れそうにもなさそうだ。


「ねぇ、知ってる?」


 突然、無言を貫くように彼女は口を開いた。彼女は前を向いたままで、シュッと浮き出た綺麗な輪郭をした彼女の横顔を横目に耳を傾けた。


「お参りって叶えたいことを祈願するためって言われてるけど、神様へ感謝するためでもあるんだって」


 俺は静かに彼女の話を聞き続けた。


「だから今日は願いと一緒に、神様へ感謝の言葉を伝えようかなって思って。君に会わせてくれてありがとう、なんて……」

「……どうした?」


 大きな鳥居をようやく潜ると突然、右肩が後ろに引っ張られた。

 俺は引っ張られると同時に後ろを振り返った。すると、そこには虚ろな目をした彼女が鳥居をくぐらずに立ち尽くしていた。そして握っていた手も次第に糸がほつれたかのように離れていき、包まれていた温もりが一瞬にして冷めていくのを感じた。


「紗代……?」

石田いしだ一佐かずさくん——」


 そう名前を呼ばれた途端、思わず胸がドキッとしてしまった。


 俺のことを名前で呼んでくれるのは彼女だけで、他は名前どころか、苗字ですら呼んでくれない人もいた。彼女といたあの頃だけが唯一、これまでの人生の中で楽しいと思えた。唯一、生きる理由を見つけた。唯一、人を好きになった。


「あけましておめでとう!」


 そんな俺の人生に色を付けてくれた彼女は、涙を流しながらそう言った。

 

「そしてさよなら……」


 気が付けば、そこに彼女の姿はなかった。

 代わりに目に入ったのは——死亡事故の目撃情報を呼びかける看板だった。

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初詣 謎崎実 @Nazosaki

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