カインダ・ブルー

おおきたつぐみ

カインダ・ブルー

 土曜日。連日の残業の疲れで昼近くまでなかなか目覚められずにいると、玄関のチャイムが鳴った。身体を引きずるようにしてインターフォンに出ると、宅配便だった。

 そうだ、琴子さんから荷物が届く日だ。

 冷やされた箱を受け取り、さっそく開けると、ぎっしりと保存容器が詰め込まれている。まずは可愛いキャラクターが印刷されたファスナー付きビニール袋に包まれた手紙を取り出して読む。琴子さんの几帳面な字を見るだけで頬が緩んでしまう。


 恵麻、そちらはどんどん暑くなってきていると思います。湿度も高いだろうから札幌育ちの恵麻は辛いでしょうね。毎日残業もお疲れさま。

 今日は恵麻が夏バテせずに少しでも元気が出るようにと思ってスタミナが付くようなおかずを作ってみたよ。

 まずは恵麻の大好物のヒレカツ。余ったら卵でとじてカツ丼にしてね。牛肉と玉ねぎの甘辛炒め。玉ねぎは風邪予防になるよ。美味しそうなピーマンが見つかったから、チンジャオロース。豚肉のピカタは柔らかく出来たよ。グラタンには鶏肉とチーズがたっぷり入っているよ。きのことひじきの炊き込みご飯は、夏だし傷みやすいからお弁当には入れないで家で早めに食べてね。あとゴーヤチャンプルー、去年一緒に食べたのが懐かしいね。

 届いたら電話ちょうだいね。ビデオ通話楽しみにしています。

 恵麻、大好き、愛しているよ。              琴子より


 読み終わる頃には涙の膜が目を覆っていた。――琴子さん。琴子さん。

 涙を拭いてたくさんの保存容器をスマホで撮影してから、琴子さんにビデオ電話をかけた。

 スマホの画面が一瞬濁り、小さな枠内に映った寝癖だらけの自分の顔に続いて、きちんと化粧をして髪も整えた琴子さんの笑顔が大きく映った。慌てて片手で髪を撫でつけていると、私の顔を確認した彼女がくすくす笑う。

「恵麻、相変わらずすごい寝癖。荷物届いた?」

「起きたばっかりでごめんなさい。うん、今届いたよ。今回もたくさんありがとう。全部美味しそう」

「あれ? 恵麻……泣いてる?」

 私は慌てて笑顔を作った。涙はちゃんと拭いたはずだったのに。

「ううん、泣いてないよ。あくびしたからかな」

「そっか。寝起きでも食べられる?」

 自分でごまかしたくせに、そのまま騙された琴子さんを少し恨めしく思う。

 仕方ない。こんな小さな画面では、いくら琴子さんだって私の気持ちの全ては読み取れない。


 琴子さんはすごく感情豊かな人で、その分、人の気持ちの移り変わりにも敏感だった。一方、私は感情を表現することが苦手だ。母が書道教室を開いていたことや、父も物静かな人だったこともあり、喜怒哀楽を露わにしない家庭だったし、私自身が人見知りでもあったので、先生たちや友人たちからは「何を考えているかよくわからない」とたびたび言われた。

 会社に入り、そんな私のサブ教育係になったのが一年先輩の琴子さんだった。仕事の教え方は行き当たりばったりなところがあったけれど、愛嬌があり、細かく周囲の人たちの様子を見て気を利かせて助けているから、彼女が困っていればみんなが手を差し伸べた。

 琴子さんを見ていて、仕事は勉強とは違い、一人で完璧を目指すものではないのだと知った。多様で移り気な消費者から成り立つ市場を読み取るためには自分だけで抱え込まず、チームで多角的な意見を出し合いながらスピーディに進めるほうが効率的だった。けれど、私は意見は言えても感情を表すのが苦手だったから、思った通りに言うとチームの雰囲気が悪くなったり誤解されたりもした。言葉も表情もぶっきらぼうになってしまう私をなんとか理解しようとしてくれたのが琴子さんだった。

 教育係としての責任感からかもしれないけれど、私のあまり動かない表情の奥の感情を、装飾の少ない言葉の背後に隠れた気持ちを琴子さんは読み取り、周囲に代弁してくれた。そして残業後やミスをして落ち込んだ日にはごはんに誘ってくれて、親身になって励ましてくれた。食べることが大好きな私を見て、やがて琴子さんは自宅に招いて手料理を振る舞ってくれるようになった。

 彼女といると言葉にしなくても気持ちを読み取ってくれるから、私も次第に心を開くことができて彼女の前では自分らしく振る舞えるようになった。その分、琴子さんが苦手なデータ分析などはできる限りサポートした。琴子さんも素直に頼ってくれて、相棒のように仲良くなっていけたのが嬉しかった。そして――気づいたら彼女を好きになっていた。


好きになるのは女性だけだと私に打ち明けてくれたのは、私を恋愛対象として見ていなかったからかも知れない。私は同性に惹かれるのは初めてだったので戸惑いもあったけれど、思いはどんどん募っていった。自覚してからさらに一年、一番仲良しの後輩として琴子さんの近くにいて、ようやく去年のクリスマスに告白して受け入れられてから、毎日が怖いくらいに幸せだった。――四月に私が東京本社に異動するまでは。いや、慣れない環境でいっぱいいっぱいだった最初の月を乗り越えて、ゴールデンウィークを琴子さんと過ごすまでは。

 琴子さんと一緒に過ごした三泊四日は楽しすぎて、七月になった今、思い出しても胸が痛くなる。せっかく東京に来たというのに恵麻の町や家で過ごしたいと言い張るから、公園を散歩したり、商店街で食材を買ったりする以外は、ほとんどの時間をこの狭い部屋で過ごした。そしてそれが本当に幸せだった。札幌にいた頃は、付き合ってからも先輩と後輩という関係の癖がなかなか抜けなかったのに、東京で一緒に過ごすうちに自然と敬語が抜けた。もう一つのお願いの呼び捨てまでは出来なかったけれど。

 小さなキッチンで彼女が作った料理を私がローテーブルに運んでくっつきあうようにして食べた。泡を飛ばしながら皿洗いをして、シャワーを一緒に浴びてはしゃいだ。ベッドで何度も交わした互いの肌の熱。彼女が小さく叫びながらのけぞった時、暗闇に浮かび上がった首筋のなめらかな白さ。あの数日で私たちはようやくほんものの恋人どうしになれたのに、その途端にまた離れなければならなかった。空港で泣きながら彼女を見送ってからずっと、私の心は日影でしおれた花のように憂鬱なままだ。


 レンジで温めたおかずを皿に盛り、スマホの画面の前に戻ると、琴子さんもにこにこして皿を並べている。これが遠距離の私たちのデートだった。食べることが大好きなくせに自炊はほとんどしない私のために琴子さんが栄養たっぷりのおかずを作って送ってくれて、時間を合わせてビデオ通話をしながら一緒に食べる。

 本社に来てからぐんと残業が増えた私は平日は帰って寝るだけの日が多くなり、なかなかまとまって話せないから、前々から予定を調整してこの遠距離ごはんデートを計画するのだ。

 いただきます、と声を揃えて食べ始める。母が忙しくてあまり料理をしなかったので、もはや琴子さんの手料理が私にとっての懐かしい家庭の味だ。

「わあ、炊き込みご飯、すごく出汁がきいていて美味しい! 豚肉のピカタも卵が味を閉じ込めていて、柔らかい! いくらでも食べられちゃう」

 次々に料理を頬張る私を琴子さんが嬉しそうに目を細めて見つめている。

「そうそう、この食べっぷりを見たかったんだよ……」

 彼女の笑顔がだんだんと歪んでいき、目から涙がこぼれた。

「……でも隣で同じものを食べたいよ。チルドじゃなくて出来たてを食べさせたいよ。一緒にいたいよ。寂しいよ」

「琴子さん……ごめんね」

「なんで、恵麻が謝ることないよ。会社の異動だもん。でも寂しいね」


 ――異動を承諾したのは私だから。


 琴子さんと一緒にいたい。それが一番の願いだったけれど、本社へ異動することで全国規模の仕事をしてみたい、自分の可能性を広げたいという野心があったのも事実だった。だから離れたくないという琴子さんの気持ちを知りながらも迷わず異動を承諾した。そのくせ実際に東京に来ると寂しさに押しつぶされそうになる自分が情けなくて許せなくて、琴子さんが寂しがるたびに申し訳なくなった。――こんな私には寂しいなんて言う資格はない。


「うん……きっと三年なんてすぐだから」

「三年で済むのかな……恵麻は優秀だから本社が手放さないかも。沖田さんだって結局東京で結婚して帰ってこないし。そっちには私なんて比べものにならないくらい素敵な人がいっぱいいるのに、恵麻は私を好きでいてくれるのか心配」

 感情豊かな琴子さんはすぐ悲観的になる。そこが可愛くて守ってあげたくなるけれど、こじれると面倒なところもある。

「当たり前じゃない。どんな人より琴子さんが好き。こんなにしてくれる恋人なんていないよ」

「本当に? 浮気しないでね?」

「もちろんだよ。あ、でもごめんね、明日は部長の家に担当みんなで行くことになったから、なかなか連絡が取れないかも」

 琴子さんの表情があっという間に夕立前の重く暗い空のように陰る。

「ええーっ。いつ決まったの?」

「前からそんな話は出ていたんだけれど、正式に決まったのは先週かな」

「なんで早く言ってくれないの、明日もビデオ通話できると思っていたのに」

「早く言ったらその分琴子さんが落ち込む期間が長くなるでしょう」

 涙を目の縁に残したままの琴子さんの頬がむっと膨らむ。

「誰と一緒に行くの?」

「だから担当のみんな。佐藤課長、田中主任、里塚さん、金林くん、山本くん」

「何時から? いつ帰ってくるの?」

「お昼に呼ばれているから十一時に出発するけれど、夜も食べて行ってと言われているの。お昼はそば打ちで夜はピザ作りだって。ピザの釜を買ったらしくて」

「炭水化物と炭水化物じゃない。そば打ちとかピザの釜とかいかにもちょっと偉くなったおじさんの趣味って感じ」

 琴子さんのイライラが手に取るように伝わる。悪い方向に進んでいく。

 どうしてこうなったのだろう、琴子さんの料理が届いて泣くほど恋しい気持ちで始まった電話だったのに。

「部長は女性だよ。それに、先月の繁忙の労いらしいし」

「それなら少しでも早く帰れるようにしてくれたらいいのにね。プライベートで呼び出すなんて、サービス労働じゃない。いつも恵麻は疲れて私ともろくに話してくれないのに。行くの辞められないの?」

 言葉の端々に散りばめられた棘。私ははーっとため息をついた。画面の中の琴子さんがびくりとする。

「琴子さんだって会社員なんだからわかるでしょう。部長が誘って課長も主任も後輩も行くのに私だけが参加しないでいられるわけないでしょ? しかもみんなで予定も合わせているのに。子どもみたいな言い方やめてよ」

「――平気なんだね、恵麻は。寂しいなんて言わないし、電話できなくても大丈夫そう。憧れていた本社の仕事、思いっきり出来るもんね。私だけ寂しがって料理を作っては送って、必死につなぎ止めているみたいでバカみたい」

「そういう言い方はしないでって言ってるでしょう」

「否定しないんだね」

 私だって寂しいよ。琴子さんと一緒にいたいよ。でも、身体が擦り切れるように疲れるけれど、全力で挑める今の仕事が楽しいのも本当だった。だから私はまた口をつぐむ。今度は琴子さんがため息をつく番だった。

「じゃあ、明日は楽しんでね。帰ってきたらすぐ連絡して。恵麻の場合は女性も男性も安心できないんだから、こっちは」

 ――ああ。

 私が琴子さんの前には男性と付き合ってきたことを彼女は知っている。女性しか恋愛対象ではない琴子さんにすれば、私がまた男性にも、あるいは他の女性にも惹かれるかもしれないと常にひやひやしているのだろう。いつもはその恐れを心の底に押し込んで我慢してくれていることも、怒っているからこそつい意地悪で言ってしまっていることもわかっている。けれど、やはり言って欲しくなかった。

 琴子さんがふわふわと他の人を見ていた間だって、初恋の人を思い出していた時だって、その人と会っていた時だって、ずっと私は琴子さんだけを想っていたのに。

「わかったよ。――今日はもう切るね。おかず、ありがとうね」

 涙を浮かべて怒っている琴子さんを置いて、私は通話切断のボタンを押した。


 翌日、私は同僚たちと待ち合わせて日本酒やワイン、チーズなどのおつまみを買い込み、部長の自宅を訪ねた。木をふんだんに使った、リラックスできる素敵な一軒家だった。夫や娘たちは出かけており、部長の指導のもと、みんなでわいわいとそばを打ってゆでたてを日本酒と共にいただき、片付けた後はアルコールを飲みながらゆっくり過ごした。

 四月に異動してきて緊張の連続だったけれど、いい人たちに恵まれたと思う。立場を超えてお互いを尊重し、意見を言いやすい雰囲気なのは、部長を始めとする上司たちの細やかな心遣いとそれぞれの人柄の良さによるものだろう。

 酔いが回ったのか頭痛を感じ、談笑からひとり離れて庭に出た。きちんと手入れされたさまざまな夏の花々が咲く小さな庭の中に、初めて見る青みがかった紫色の大きな薔薇があった。幾重もの青紫の花びらを重たげに風に揺らしている。鼻を近づけると淡い紅茶のような柔らかな香りだった。

「その薔薇が気に入ったの?」

 声に驚いて振り向くと、赤紫色の炭酸の飲み物が入ったグラスを二つ持った部長が近づいてくるところだった。

「すみません、勝手に。こんな色の薔薇は初めて見るので、綺麗だなと思って」

「家族は誰も興味を持ってくれないので嬉しいわ。神秘的で綺麗でしょう、カインダ・ブルーという遅咲きの品種なの。暑くなってきても咲いてくれるし、優雅な見かけによらずとっても丈夫で育てやすいのよ」

「カインダ・ブルーってどんな意味なんですか?」

「花色とKind of Blue、〈なんとなく物憂い気分〉という言葉をかけているんですって。ちょっと石田さんぽいかな?」

「私……ですか? ああ、確かに何を考えているかよくわからないとか、怒ってるの? とか聞かれますね……あと私もとても丈夫です」

「ふふ。仕事では全く問題なさそうだけれど、初めての東京、初めての一人暮らしで気疲れすることも多いんじゃない? はいどうぞ、これ紫蘇ジュース。お酒に疲れたんでしょ、さっぱりするわよ」

 朗らかに言いながら部長はグラスを渡してくれた。

「ありがとうございます。いただきます」

 鮮やかな赤紫色の紫蘇ジュースは、口に含むと爽やかな甘さが広がり、アルコールの熱をシュワシュワと心地よく流してくれた。

 琴子さんにも飲ませたいな。きっと気に入りそう。

「これ、すごく美味しいです」

「よかった。――今はつい無理をしてしまう時期かもしれないけれど、その分大きく成長する時だと思うから頑張って欲しい。けれど、自分の本心はいつも大切にね。なんとなく物憂げにしているままじゃ、誰にも気づいてもらえないからちゃんとヘルプを出すことも大事。それも仕事が出来る人の条件でもあるの」

 全て見透かされている気がして、私は視線を泳がせた。

「……そうですね。皆さん優しくて、たくさん助けていただいています……」

 部長は微笑んで頷いた。

「もっと周囲の人たちを信じて頼ることが出来たら、石田さんは怖いものなんてなくなると思う。期待しているからね」


 帰りに部長はみんなに紫蘇のシロップが入った小瓶を持たせてくれた。美しい赤紫色の小瓶を揺らし、いつか管理職になれたなら部長のようになりたいと思った。そんなことを琴子さんと話したいのに、昨日の気まずさはまだ残っているし、頭も痛いままだった。スマホを確認しても琴子さんからは何も届いていない。

〈帰ったよ。途中から飲むの辞めたのにずっと頭が痛いから、もう寝るね〉

〈おかえりなさい。飲み過ぎ? お大事に〉

 迷って送ったメッセージへの返事も相変わらずそっけない。ため息が出た。

 しかし酔いのせいかと思っていた頭痛はなかなか治まらず、夜中に起きた時の寝汗と歯が浮くような感覚でようやく自分が発熱していることに気がついた。計ってみると38度1分あり、朝になっても下がらず咳も出てきたので課長に連絡して休みをもらった。

 体調が悪いと自覚すると、途端に心細くなった。もともと私は丈夫なほうで、寝込んだ経験がほとんどない。冷凍庫には琴子さんのおかずがいっぱい入っているから大丈夫だ、そう思っても彼女がここにいてくれたらと泣きたくなる。

〈風邪引いていたみたい。熱が出ているから今日は休むことにしたよ〉

 そうメッセージを送ると、すぐに着信があった。

「琴子さん……もう出社してるはずじゃない?」

「そうだけど、まだ朝ミーティングまでちょっと時間があるから少しでも声が聞きたくて。大丈夫? 熱ってどれくらい?」

 切羽詰まった琴子さんの声にまた涙がにじんでくる。私たちの間に残っていた気まずさは砂粒のように吹き飛んでいた。ただ琴子さんが恋しかった。私は一体いつからこんなに涙もろくなったんだろう。

「38度ちょっとだった」

「そんなに……! 恵麻と知り合ってそこまで熱出たの初めてだよね。食べるものとかスポーツドリンクとか、あと薬はある? 病院は行けそう?」

「ごはんはちょうど琴子さんが送ってくれたからちゃんと食べるよ。薬は頭痛薬くらいだけどあるし、飲み物も昨日部長が紫蘇シロップをくれたから」

「紫蘇シロップ?」

「うん、部長のお手製なの。水とか炭酸で割るだけですごく美味しい紫蘇ジュースになるんだよ。レモンも入っているしビタミンが豊富らしいから風邪に効きそう」

「そっか。あ、もう行かなきゃ。それじゃ安静にしていてね。また経過を教えて。――こんな時に近くにいられたら看病できるのに、何もできなくてごめんね」

 琴子さんの声が湿り気を帯びる。きっと目の縁が赤くなっている。これから仕事なのに、化粧が崩れるのではないかと気がかりになったそばから、いや、化粧なんてぐちゃぐちゃになるほど泣いて心配して欲しいと思った。でもそんなことは口には出せない。今すぐ何もかも放りだしてここに来て、という本心も。

「ううん、子どもじゃあるまいし大丈夫だよ。電話ありがとう、嬉しかった」

「お大事にね。それじゃまたね」

 ぷつりと琴子さんの気配が消えた。大丈夫と言ったものの食欲はなく、冷蔵庫に残っていた麦茶で頭痛薬を飲み込み、再び布団に潜り込んで目を閉じた。


 浅い眠りの中でずっと琴子さんの夢を見ていた。会社にいる琴子さん、並んで歩く琴子さん、料理をする琴子さん、私の腕の中の琴子さん。苦しい息づかいで目を覚まして自分が一人だと認識すると、絶望すら感じた。結局いつだって考えるのは琴子さんのことばかりなのだ。ただただ会いたかった。

 ――自分の本心はいつも大切にね。なんとなく物憂げにしているままじゃ、誰にも気づいてもらえないからちゃんとヘルプを出すことも大事。

 そう部長は言ったけれど、言っても仕方の無いことを、大切な人を困らせるだけのことを言ってどうなるのだろう。しかも私が選んだこの距離で。

 再び眠りに落ちる寸前、あの物憂げな薔薇が思い浮かんだ。カインダ・ブルー。房になって咲く青紫の大輪の花たち。私に似ているのは他とは違う色だから? そうだ、その話も琴子にしたいのに。琴子には私はどう見える? 一緒にいる時は本当に幸せなのに、今だって琴子は私の恋人なのに、なぜ私はいつも憂鬱なの? 遠距離恋愛くらいもっとうまくやれると思っていた。会いたいよ、琴子――。


 玄関のチャイムが鳴って目が覚めると、部屋は真っ暗だった。スマホを見るともう夜の八時を過ぎている。何度か目覚めた記憶はあるけれど、いつの間にか深く眠っていたらしい。再びチャイムが鳴る。居留守を使おうかと思ったけれど、喉も渇いていたので寝汗でべとつく身体をなんとか起こし、インターフォンの画面を見た。

 小さなモノクロの粗い画像の中に――琴子がいた。

 声も出ないくらい驚いてドアを開けると、夏の初めの喧噪をかき混ぜたようなぬるい空気の中に、両腕に大荷物を持ち、額に汗を光らせた琴子が立っていた。

 琴子がいる、それだけで、重苦しかった気持ちに光が差し込んでいく。

「恵麻、私いてもたってもいられなくて来ちゃった――」

 困ったような笑顔でそう言った琴子に抱きつき、雪解け水を思わせる懐かしく清廉な彼女の匂いをかいだ私は、子どものように声を上げて泣いた。

「会いたかった、琴子会いたかった……」

「私も会いたかったよ、恵麻に会いたくて死んじゃいそうだった」

 ひしめき合う無数の人々が吐き出す感情が底なし沼のように沈みこむ東京の夜の片隅で、私たちは互いがたったひとつの小さな浮き島であるかのように必死にすがりつき、泣いた。


 泣きすぎて咳き込み出した私の背中を撫でて琴子は部屋に入ろうと促した。

 水をもらって飲んでいる間に、琴子は荷物を解いていく。

「朝電話してから、どうしても顔を見て看病したくなって。恵麻のことだから具合悪くてしんどくても大丈夫って言いはるけれど、本当は一人で不安なんじゃないかと思ったの。だから今日絶対にしなきゃいけない仕事だけ仕上げて午後から休みとって帰って、大急ぎで用意して5時の飛行機に乗って来たんだよ」

「ありがとう。すごく嬉しいけれど、当日の飛行機だし高かったでしょう?」

「遠距離の彼女がいるんだもん、こういう時もあろうかとマイレージを貯めていたからそれを使ったんだよ」

 ローテーブルに、お米、梅干しが入った瓶、うどん、黄桃の缶詰やカット野菜が入った保存袋、市販の果物ゼリーが次々と並べられていくのを見て、また鼻の奥がツンとした。

「この前は夏バテ対策でスタミナ料理だったけれど、風邪だしきっと何も食べていないだろうから、消化にいいものを作ろうと思ったの。早く会いたいからこっちでスーパーに行く時間も惜しくて、会社帰りに買ってそのまま持って来ちゃった。実家の母みたいだよね」

 えへへと笑う琴子が愛おしかった。

「それに――恵麻を治すのは、部長が作った紫蘇シロップじゃなくて、私が作った料理がよかったんだもん」

「……それってやきもち?」

 恥ずかしそうに琴子が頷く。ああ、そうだったのか。離れた場所にいる琴子の気持ちを思いやれていなかった。琴子は私が大丈夫と言った奥の辛さ、不安、ほとんど何も食べていないことまで全て理解してくれていたのに。

「ごめんね、やきもち妬かせるようなことを言っちゃって」

 私は琴子ににじり寄って抱きついた。

「この部屋にまた琴子がいるなんて夢みたい。ゴールデンウィークに琴子が来て帰ってからずっと寂しい病になっていたの。もう離れたくない」

 ふふ、と唇の先に微笑を乗せた琴子が私の頭を撫でる。

「こんなに素直になってくれるなら、たまに具合が悪い恵麻もいいかも……なんてね。何か作るよ、何が食べたい? おかゆ、煮込みうどん、あと野菜たっぷりのお味噌汁とか。恵麻が好きなゼリーでもいいし……」

「――琴子がいい」

 はっと息を飲んだ琴子が私の目を覗き込んだ。見開かれた瞳の中に私が映っている。すでに私は琴子の一部だった。その瞳がすうっと細められる。

「いいよ。私に恵麻の熱を移して」

 私の首に腕を伸ばした琴子が顔を傾け、そっと唇を合わせてきた。風邪を移さないように口を閉じたままの軽いキスなのに、触れあった箇所から全身の力が抜けていくほどの快感がつま先まで幾度も走り、自分の輪郭が溶けて琴子と融合していくようだった。

「……私のこと琴子って呼んでいるの、気づいている?」

 互いの顔もぼやけて見えないくらいの、ほんのわずかな唇と唇の隙間で琴子が尋ねた。

「本当、いつのまにか……熱出したあたりから心の中で琴子って呼んでいたかも」

「恵麻にとって私がもう先輩じゃなくて完全に彼女になったんだね。だったら、ちゃんと恵麻の気持ちを教えて。いくら私だって、こんなに離れていたらわかりきれないよ。寂しいことも、辛いことも全部言って欲しい」

 でも――と私はうつむいた。

「異動を承諾したのは私の意志だもの。それなのに寂しいだなんて、自分勝手過ぎて言えないでしょう」

「東京に来たことを責めてなんていないよ。恵麻にとって必ずプラスになることだって私もわかっている。でも、恋人として離れている寂しさは別なの。好きだから寂しいの。でも恵麻が何も言わないから、寂しいのは私だけなのかって不安だった。恵麻も同じ気持ちなんだってわかったら、私、頑張れる。こうして飛んで来ることだってできる」

 琴子はこんなにも強い思いで遠い距離を超えて来て、一瞬で私の物憂い心を照らしてくれた。こんなに愛されているのに、私は一体何を恐れ、何を正当化するために彼女の望む一言を伝えなかったのだろう。

「ごめんね。すごく恋しくて会いたかった。ずっとこうしたかった」

 今度は私からキスする番だった。琴子の長いまつげがカインダ・ブルーの花びらが音もなく落ちるようにそっと閉じられる。数え切れないほどキスをしてもなお、琴子の柔らかな唇に触れた瞬間に甘やかに感電してしまう。

「好き。大好き。愛してる。誰にも渡したくない……」

 どんなにたくさんの人と出会おうとも琴子だけが私のたったひとりの相手であり、私も琴子にとってそうでありたい。好きという感情はどこまでも自分勝手なものなのだろう。お互いに同じくらいに思い合える奇跡的な時だけ、その自分勝手な感情は恋という美しい名前を授けられる。けれど、恋は儚くもろいから、愛を言葉にして注がないと途端に物憂げにしおれてしまう。

「私が札幌に帰ったら……琴子と一緒に住みたい」

 だから。叶うかどうかもわからない望みだって、愛おしい人に言葉にして伝えないといけないのだ。困らせるかもしれないなんて恐れずに。

「本当? 私もそうしたかった。恵麻から言ってくれてすごく嬉しい」

 それだけで私の愛おしい人は、花が咲くように微笑んでくれるのだから。

 たったひとりの恋人が微笑むだけで、私はこんなにも幸せになれるのだから。


                                 (終わり)

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カインダ・ブルー おおきたつぐみ @okitatsugumi

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