活躍編

「みち子さん! みちこさん! ねえ! どこ!」


 小学三年生の太田次郎くんが不満そうに叫び声を上げている。

 家政婦の仲野倫子が、彼の好物であるプリンの在庫を冷蔵庫に切らしていたことが気に入らないのだ。そして彼は同時にこう画策していた、「すぐに買って来てよ、もう!」と言ってやる。…そのあとに続けてこう言うのだ、「どうせぼくの好きなやつ、わかんないくせに! こないだだって、ちがうの買ってきたじゃん! しかたないなあ、一緒に行ってあげるよ!」


「みちこさーん どこお?」


 彼は中庭に出る引き戸をいきおいよく開いた。

 すると、咲き誇る薔薇の花々のなかで、夢中になってそのわくら葉を摘み取っている彼女の姿を見てしまったのだった。

 しばし、彼は息を止めて彼女の姿に魅入っているおのれに気づかなかった。

 それはまるで、彼にとって二度と戻ってくるはずのないものが、ふたたびこの世界に現れたような衝撃をもつ光景だった。

 五年前の冬、いつもその薔薇の中に立っていたはずの彼の母は他界していた。残された彼と父の失意の日々の中で、世話をするもののない薔薇の木々はしだいに枯れ、もはや二度と花をつけることはないはずだったのだ。

 次郎はふしぎに思う。どうして、あんなに枯れてしまったバラの花が、またあんなにたくさん咲くようになったんだろう? おとうさんだってふしぎだと言ってた。そして、とてもうれしそうに笑っていた。

 みちこさんはほんとうは、すごい科学者なのかな? だって、お母さんより若いようにみえるのに、なんか、話し方もへんだよ、ああいう話し方って、まえ、おばあちゃんちに行った時に、おばあちゃんがしてたみたいなんだもん。 …? まあいいや、わかんないし!


「みちこさんってば! ねえ!」


 サイボーグである倫子の聴覚は常人の100倍の性能をもっており、じつは彼女を呼ぶ彼の声はずっと聞こえていたのだ。しかし彼女はわざと聞こえないふりをしていたのだった。まったくふつうの、当たり前の人間として他者と接すること、相手がたとえ小学三年生であろうともそれは変わらなかった。


「はいはい、ぼっちゃま、今行きますよ、」


 彼女はそう応えると、前掛けで手を拭きながら次郎のもとへ向かっていく。次郎は、その姿が近づいてくるほどに、顔を赤く染めてゆき、みずから呼びつけた家政婦を前にしてしどろもどろになってしまう。


「あ、あ、あのさあ! ぼくのプリンが冷蔵庫にないんだよ! はやく買ってきてよね!」


 次郎はそれだけ叫ぶとちから尽きてしまい、いっしょに買いに行ってやる、というところまでを言い出せない。だめだ、今、言わなきゃ! と彼は思うのだが、倫子の柔和な顔をただ、見つめることしかできない。


「あらまあ、それは申し訳ありませなんだな、ぼっちゃま、今すぐに買って参りますので、それまでジュースでもお飲みになって、お待ちくださいまし。」彼女はそう言うと、立ち尽くす彼の前を離れてゆく。


 …なんなんだよもう、もう! もうちょっと待ってくれたら、いっしょに行こうって言えたのに。 やっぱり、みちこさんなんかきらいだ、ことばへんだし!

 彼がとぼとぼと居間に入っていくと、六畳敷きの和室の中央に置かれた座卓のうえにはオレンジジュースの入ったコップと、クッキー・ビスケットの盛られた皿が置かれ、座布団が敷かれていた。


 テレビをつけてお菓子を食べながらも、彼の、倫子への夢想は尽きることがない。

 …おとうさん、みちこさんのことすきなのかなあ? みちこさんの話になると、おとうさん、すごくたのしそうだもん。

 …おとうさん、みちこさんとけっこんしたいのかなあ? そんなのいやだ! ぼくのおかあさんはしんじゃったおかあさんだけだ、あたらしいおかあさんなんていらないや!

 …でも、でも、もし、そうなったら。みちこさんがぼくのおかあさんになるの? でもそんなの、やだなあ。みちこさんはみちこさんで、ぼくのおかあさんじゃないもの。

 でも、みちこさんがおかあさんになってくれたら、ずっといっしょにいれるな、…もしかしたら、いっしょにお風呂だって入ってくれるかもしれない!

「お風呂だって? ぼく、えっちだなあ!」

 そしてしめくくりにもう一度こう思う、

「でもやっぱことばへんだよ、みちこさんは! おばあさんみたいだもの!」


   ※ ※ ※


 スーパーマーケットで次郎の好きな銘柄のプリンを七つほどバスケットに拾い上げ、彼女は考えている。

 …あたしゃほんとは忘れちゃいなかったんだが、今日はどうしても外へ出なきゃいけないことがあったんだ、ぼっちゃん、ゆるしてな。

 そして、晩御飯のための素材を、と思い… 豚肉、ごぼう、あつあげ、がんもどきなどを選んでレジへ向かう。


【サイボーグ】である彼女の機能として、エネルギー摂取の方法はいくつか装備されていた。

 ひとつめは、専用車両や航空機からの直接注入。

 戦闘時における供給を想定したものであり、この方法が本来的な供給方法だと考えられている。次に、ごく一般的な、人間とおなじ食料を摂取すること。食べるだけで、排泄はしない。最後に専用のコンパクトな電池のようなもの。これは大腿部の一箇所から付け替えることで、およそ二日分のエネルギー供給が可能になる。身体の大部分の機能を停止すれば一週間は持たせることができる。非常時に備えてのものであり、日常的に使用するものではない。

 日常生活時の摂取方法は必然的に二番目のものである。人間とおなじ食事を摂ること。これが、特殊任務を帯びたサイボーグが無理なく人々の中で生活するためには重要なことであり、開発者たちも完成までに六十年に近い歳月を費やしたのだという。


 店を出ると、彼女は太田家と逆の方向へ歩き出した。

 1キロ程もくもくと歩み続けると、視野の片隅に表示される現在時間の表示をあらためて確認する。16:23。目的地はそこからさらに1キロ程先の、とある路上であった。

「あの日、」彼女は、「あの日」のことをまた思い出していた。

 いつもどおりの買い物だったはずが、偶然出会った女学校時代の旧友と話に花が咲き、あっという間に夜になっていたのだ。

 ショッピングモールのファストフード店で、ふたりは女学生の頃に戻ったかのようにたくさん笑い、それまでの人生を報告しあった。

 彼女らがどうやって互いを見分けることが出来たのかといえば、倫子も旧友も互いにその日、にぎやかな場所への外出ということで、若い頃そのままの髪の結い方をしていたこと、また、倫子には頬にふたつ並んだ黒子があり、旧友の額の中央には特徴的な疣があり、その疣はいくぶん離れた場所からでも存在感を主張するものだからであった。

 青果コーナーの中央あたりで、いきなり眼が合ったつぎの瞬間、満面の笑みがふたりの顔に生まれた。そして互いを指差し、名前を呼び合ったのだ。

 それから連れ立って買い物をし、飲食スペースのファストフード店へ入った。倫子はふだんそういった店を利用することはなかったけれど、ふたりに甦ってきた若く華やいだ時代の気持ちのまま、そこで何時間も過ごしてしまった。亭主を亡くしてからひとり暮らしの長かった倫子だから、輪をかけてその時間が楽しく、うれしかったのである。


 目的時間17:05、「その場所」で、代理人から彼女へ「物品」の受け渡しがある。

 彼女は時間を合わせるために、歩行スピードをいくぶんゆるめた。現在時刻16:43、その時刻の街のおだやかな雰囲気は彼女が昔から好きなものである。毎日の家事にいそしみ、亭主の帰りを待つ主婦だった頃の彼女、また、長年付き添った夫を亡くし、ひとりで生きるようになった頃の彼女も、日々の暮らしの中で、その時間帯の中で、人々のあいだで生きてきた。

 暮れなずむ街の光と影の中、愛するあなたへ贈る言葉…

 そんな歌詞が心に浮かんだ。いつもは演歌を愛し、家事の合間にくちずさむ彼女だが、歌謡曲にも好きな曲はたくさんあった。


「あの日、」彼女と連絡先を交換し合い、すこしばかりの涙を浮かべながらわかれた彼女は、カート代わりにした乳母車に買ったものを載せ、暗い道を家路へと歩いていた。

 久しぶりに味わった幸福感にみたされ、足どりはいつもよりゆっくりだったけれども、彼女がひとり住む家まではあと1キロ程だった。

 幸福感による気の緩みだったのだろう。よく考えず、県道を横切ろうとして、その四車線のひろい道に足を踏み入れてしまった。

 俯いて歩く彼女、突然右手から迫るふたつのまぶしい光、「ひっ」と彼女は言った、と思われる。そこから先は思い出せない。

 あのとき不用意に踏み入れた道を、あれからずっと歩いてきた。そう思う。と、そこで目的地に着いていた。17:04:55。

 背後から車の近づく音がする。


 徐行する車が背後から近づき、彼女と並走しながらリア・ウィンドウを開く。そこから10センチ四方の箱のようなものが、ものも言わず差し出される。

 彼女も何も言わない。ただそれを受けとった。すると、車は加速し、前方へ去っていき、10メートルほど前方の左折路を曲がって消えた。


   ※ ※ ※


 目が覚めると、白い天井が見える。蛍光灯の冷たい光。

 四角い笠のついた電灯の吊られた、自室の天井とのギャップに混乱する。どうして自分がこんな場所で寝ているのか。思い起こそうとするが、うまくいかない。そこで部屋を見回すと、病室だとわかった。がらんとした広い部屋。非人間的、非日常的でさえあるほどに、ひたすら清潔な空間。その中心に据えられたベッドで彼女は目を覚ましたのだった。

 誰もいない。人が立てるどのような物音もしない。ただ、ベッドの傍らに設置された機器が立てる小さな、連続した、虫の羽音のような音… そして、自らの呼吸の音だけが聞こえる。

(わしはいったい? ここはどこじゃろう…?)

 そこで彼女は身体感覚に異常を覚え、自らの体をふと見おろした。その瞬間、眼をみはり、息をのんだ。

 それはまさに若い女性の身体そのものだった。

 長い黒髪が、入院患者の着るような白衣の胸元に垂れかかっている。その着衣の下には、若々しく盛り上がった両の乳房、細くたおやかな胴があった。すっきりと伸びた二の腕、両脚。若く、遠い日の自分がそうであった頃の肉体、だがそれよりもっと均整のとれた、しなやかで美しい女性の肉体がそこにあった。それが老女のはずの彼女の意識と感覚を宿し、ベッドの上に横たわっている。

(わしは、若返ったのか? そんな馬鹿なことがあるわけがない…)

 彼女は目も眩むような感覚に支配され、思考が白熱し、論理的思考が不能となった。そこでかろうじてひとつの思いに縋った。

「夢、これは夢じゃ! …わしは夢を見てをるのじゃ」

 口に出せば現実へ戻れるかのような思いで、呟いていた。同時にその耳で若い女性の声を聞いた。自らの思いを宿して発された若い女の声。老婆のしわがれた声、それが彼女の声のはずだった。無意識に眼の前にかかげた両の掌が、小刻みに震える。「き、…きれいな手じゃ…」そう呟くと、彼女は自らをかき抱き、くるしいあえぎと共に眼をつぶった。

「ああ!、わしは! わしはどうなってしまったんじゃろう」

 わしは荻野倫子、去年、82になったばかりの、婆あじゃ、と彼女は心の中で何度も繰り返した。…そうじゃ、あの日、…あの日、懐かしい「よし子」に会ったのじゃった、それから、それから…

 倫子はもだえ苦しむとベッドから転がり落ちた。混乱とおそれ、どうしようもない心細さ。抑えきれぬ思いが涙となって溢れ、頬を伝った。


   ※ ※ ※


〈社〉からの伝達は体内の受信装置へ直接つたえられた。

 数日前、隣町の路上で受け渡された「箱のようなもの」。その内部に収められていたのは、不定期ながら恒常的に届けられる倫子用のアップグレード・デバイスであった。概要は既にレクチャーを受けていた。〈社〉の開発部門は絶え間なく倫子の機能を高めることに尽力しており、社内テストをクリアしたパーツが即時供与される。

 そしてそれは、以前から通達されていたスケジュール通り、そのイベントに向けた最終的なアップグレードだった。そのために倫子は家政婦という仕事に就き、太田家という場所を拠点として準備してきたのだ。現場周辺の地理と地域住民の生活時間の把握、本部との通信網の確立、地磁気や霊的エナジーの分布状態の実地検分。情報が多ければそれだけ自分が有利に立ち回れる。

(アサシン…)。倫子はその言葉を心でなぞる。

 わしを壊しに来る敵。…なぜわしを壊しに来るのじゃ? わかってをる。あやつがこれからなそうとすることに、わしが邪魔だからじゃ。わしを破壊せぬことには、この国の守護のかなめには触れられんからの。…

 倫子の手はよどみなく、太田家の晩餐のための食材を刻んでゆく。まな板を打つ包丁の響きにつれ、牛蒡が、人参が、こんにゃくが、必要とされる形状に切り捌かれる。ガス台では出汁が煮えて湯気を上げる。夕時を待つ民家の台所の平穏な時間がそこにあった。

 そこで玄関の方から声がする。

「みち子さん! ただいま!」

 廊下をばたばたと走り、ランドセルを茶の間に放ってから、次郎が台所に姿を現した。そして冷蔵庫の前へ走ると、がば、と扉を開く。

「おかえりなさいまし、ぼっちゃま。外から帰ったら手を洗ってくだされ」

「いけね、そうだった!」と言って、ばしんと冷蔵庫を閉めると倫子と並んで立ち、つま先立って流し台に手を差し出す。その様子を見ると、倫子はにっこりとして蛇口をひねり、水を出してやる。

 盛大に水をはね散らしながら手を洗い終えると、次郎は冷蔵庫からプリンを握り取った。するとその瞬間、次郎の脳裏に妙案がひらめいた。(そうだ! このまえの、さむらい? とむらい? 合戦だ!)。

「あれっ!? なんだよ、みち子さん、これ、ちがうやつだよ!」

 言いがかりであった。プリンは実際、いつも通りの、次郎のお気に入りの銘柄のものなのである。

「あら、さようか。そりゃ、悪いことしましたな、」

(よし! 言ってみよう!)と次郎は決意すると、自然と全身にちからが入った。

「しかたないなあ! じゃあ、今度おかいものに行くときは、ぼくが、、」

「ええ、」

 困惑の色を浮かべ、それでもやさしく微笑んでいる倫子の顔から眼を逸らし

つつ、次郎は絞り出すように言った。

「一緒に行ってあげるよ!」

「あらまあ、さようでござんすか。ぼっちゃまがいらしてくだすったら、間違えずに買えますな。是非、ご一緒してくだされ。」

「うん、、約束だよ!」次郎はよろこびに輝く笑顔で言った。

「はい。では、約束の【ゆびきりげんまん】をいたしましょう」

 倫子は次郎の前に膝を折り、しゃがむと小指を立てて差し出す。

「う、うん…!」

 そこでふたりは互いの小指を絡ませると唱和した。

「ゆびきりげんまん、うそついたら針千本のーます。」

 次郎の心はうれしさに湧き立ち、ちいさな胸はかつてないほどたかぶった。彼の目は倫子の笑顔に釘づけになり、世界のすべてが倫子の笑顔、そのやさしい存在で満たされていくように感じられた。

「ゆびきった!」


 夜気に鬼気が漲っている。

 自転車で通う、いつもの道。それが今、常ならぬ気配を漂わせて倫子を囲繞していた。電磁的のみならず、霊的な攻撃指向性をもった波動が、自分に集中していることを、増幅された感覚器官をもつサイボーグ身体が捉えていた。


 数分前、倫子は太田家の晩餐の支度を整えていた。居間の座卓の上に父子二人分の小皿と、大皿の料理を並べる。きんぴらごぼう。里芋の煮つけ。まぐろの刺し身。そこに蝿帳を掛ける。

 そのとき、次郎の父である太田義男が帰宅した。

「ただいま、」

「おかえりなさいまし、今日はお早いお帰りでございますな」

 倫子の華やかな姿に気づくと、スーツを気崩し、だらしない顔をしていた義男はいささかうろたえる。倫子は勝手口に靴を脱ぐので、玄関から帰宅した彼にはわからなかったのだ。

「ああ、倫子さん! どうも。たまには次郎と一緒にめしを食おうと思いましてね。ああ、こりゃ、うまそうだなあ!」わはは、と言ってわざとらしく座卓の上を見回す。そこへ次郎が階段をどたどたと降りてくる。

「お父さん、おかえり! 今日は早かったんだね! はやく着替えておいでよ!」

「ただいま。そうだな、うん。お父さんもはら減ったよ!」

 両手をつなぎ合って、ぐるぐると回転しはじめた父子を笑顔で眺めながら、倫子が言う。

「旦那さま、ビールを召されましょうな。一本、お出ししましょう」

「うん、わるいね、お願いします。じゃあ、お父さん、着替えてくるよ。次郎、ちょっと待っててくれ。一緒に晩めしを食べよう。倫子さんも、ちょっとおつきあいいただけますか?」と、尋ねる。

「ええ、お邪魔にならん程度に。おつきあいさせていただきますじゃ。」

 そして倫子は、浴衣に着替えて食卓についた亭主に、お酌をした。

「お疲れ様でございます」と瓶をかざすと、義男はコップにビールを受ける。

「すみませんね、いやあ、今夜のビールは一段とうまいなあ!」

 義男は上気した顔で、よく冷えたビールをごくごくと飲み干した。

「お父さん、なんか赤い顔してるなあ? もう酔っ払ったの?」

 次郎がめしをほおばりながら父に尋ねる。義男は、

「そうか? 今日は暑かったからだよ!」とごまかし、刺し身を一切れ口に放り込んだ。そして、

「倫子さんも一杯やってください!」と言いながら瓶を掲げる。

「あら。じゃあ、いただきます」と義男の酌を受けた。倫子は義男の指に光る結婚指輪を見た。

 義男は、今年37になる、見るからに健康そうな男だった。髪を短髪に刈り、細面な顔と繊細な顔立ちに眼鏡をかけている。

 妻を亡くしてからの彼の日々は、調査部からのレポートによって、倫子にはよくわかっていた。一本気で純朴な男だ。わしのとこの爺さまに似てをるの、と倫子はかねて思っていたが、大工をやっていた倫子の夫と、製薬会社で働く義男の人柄の共通点に、人間性のおかしみを見ていた。

「お父さん、あのね!」「うん?」

「今度ね、みち子さんとお買い物いくんだよ!」

「そうなのか? いいんですか?」と倫子に顔を向ける。

「はい、一向にかまいませぬ。わしも楽しみにしてをるんですじゃ」

 一輪の花のようにそこに座って微笑む倫子を見ると、あらためて義男はぎくり、として、

「そ、そうですか! 次郎、倫子さんに迷惑かけないようにな!」と言ってわはは、と付け足した。


 自転車で走る夜道、倫子は違和感と疑念を抱いている。知らされていたスケジュールでの襲撃よりも、それが早かったからだ。

 調査済みの入国手段が変更された。つまり、それ以前の段階での、敵方の上層部再編も考えうる。その場合、敵勢力の実体がどのように出現するのかさえ、予測不能なことになる。

〈社〉からの通信が入らないことも異常であった。常ならば、最新の情報がとうに送られてきてしかるべきところが、現在起きていることについて何の連絡もない。この地で確立した通信網もハックされたということなのか。たんに妨害されているだけなのか。

 倫子は帰宅ルートを外れ、なるべく人家の少ない河川地域へ向かおうと街路を進んだ。そのつもりだった。しかし、いくら交差点を右折しようと、左折しようと、現れる街路はすでに通過したはずの家並みだった! 誘導されている!

 先ほどから倫子の超知覚には低周波の呪術的な周波が把捉されていた。視野へのリードアウトに映し出される波形からもそれは読み取れた。ある種の指向性兵器が使用されていることはあきらかで、これは生身の人体にとっては痛みすら伴うものであったが、強化された倫子の肉体にとっては問題なくやり過ごせるものであった。だが、感覚を一部擾乱され、コントロールされている。〈彼ら〉が望む場所へ。…決戦の地へ。

「小賢しいことじゃ。」

 倫子は口に出してそう呟くと、自転車を降り、ゆっくりと歩きはじめた。長い黒髪がケープのように靡くと、両の眼が紫色に輝く。


*****


「倫子さん! 敵は条約違反の装備を使用している! この場はとにかく自分を守ることだけに専念してください!」

「倫子さん! 敵の兵器は指向性の感覚擾乱型、同時に生体にピンを埋め込むものを含んでいるものだと思われます! 敵の攻撃は、とにかくかわしてください」

「倫子さん! …」

 倫子が敵のジャミングを破壊すると、〈社〉からの通信が一斉になだれを打って倫子の頭に響いた。

〈敵〉による誘導の道すがら、倫子は、彼女があらかじめ設置していた「通信網」をひとつずつハックすると、丹念に精査し、使えるものはそのままに、不要なものは破壊していた。それらは何気ない電信柱、送電塔に設置されていたが、それらは倫子がその地でおこなってきたフィールドワークによって、この日までに築いてきた牙城だった。

〈社〉からの混乱した通信はあまりにうるさいものだったが、それらをいちいち聞き取れる倫子にとっては無駄に過ぎるものでもなかった。彼女は情報を整理した。

「…敵が、我が方でつかんでいたスケジュールを急遽変更して、強硬路線をとった。この先は何が起こるかわからぬ。急いで身ぢたくをせねばならん。」

 すると次の瞬間、盛大な地響きが数区画離れたブロックで発生したことが感じられた。足元の地と大地がびりびりと震えている。

「!! これは! この振動は! まさか…!?」

 視野左の街区から、上空へ向けて一直線に凄まじい稲妻と光りの白柱が立ち上がった。

「こ、これは…!? いかん!」

 倫子は眉根を寄せ、歯を食いしばると、一気に高速駆動モードに移った。一瞬、その姿が幾重にもぶれ、身体の全体からすさまじい振動が発せられる。

「ゼロ、スーツ…!!」

 倫子はダッシュのかたちに身を構えると、遠隔スイッチを起動した。


【ゼロ・スーツ】とは、サイボーグ身体である倫子を保護するために開発された、高密度繊維をもってつくられたボディ・スーツである。それを装着することで、普段のサイボーグ身体を覆ったやわらかい表面組織が保護され、また、スーツに装備された様々なアップグレード機構から恩恵を受けられる。そしてそれは、倫子がこの地での戦略展開を想定し、特定の場所に設置したものだ。

「ゼロスーツ! ウェアリング! オン!」

 倫子はそう叫んで跳躍すると、その全身はまばゆい光耀につつまれた。

 いくつもの高速な光のすじが、あちこちの街路や家屋から倫子の体に殺到する。

 その光の中で倫子は体を胎児のように丸めると、全身にぐっ、と力を漲らせた。

 次の瞬間、四肢を一気に開く。するとそこには、体表をまばゆい銀色に覆われた倫子の姿があった。ゼロスーツとは、体表に完全にフィットしたマリンスーツのようなものであった。

「レミゴー! わしはサイボーグお婆ちゃん、倫子じゃ!!」と倫子は叫んだ。


 倫子は解き放たれたように走り出した。その姿はまるで銀色に輝く女豹のようであった。長い黒髪を靡かせ、両の眼を紫から赤に光らせて、夜の街路を疾走していく。

「さきほどの。…光の柱が立ち上ったところ。だが〈奴〉がそこにいるわけがない。ならば、最前までわしに干渉していた電波が導く場所じゃ。…しかし、間者を入れぬとは、殊勝なことじゃ」

 倫子はスプリンターのような前傾姿勢をもって猛烈な速度で疾走しながら思った。

〈社〉からの警告情報はもはや数を増すばかりで、それ以上の有用なものも得られないのだから、オフラインにしてしまった。どうということはないのだ、これまで、たとえば、サラエボでの救出作戦の時だっておなじだった、と思う。


「おとうさん、なにか、「どーん」て音がしたね。花火やってるのかな?」

 晩御飯を食べ終えて、居間の座卓の上で宿題をやっていた次郎は、そのそばでテレビの野球を観ていた義男に言った。

「ああ。そろそろ季節だしな。どこかでやってるのかもしれないな。」そう言いながら手酌でビールを注ぐ。

「ぼく、見に行ってみてもいいかな。公園から見えるかな」

 宿題帳から目を上げると次郎が義男に問う。

「うん。公園までだぞ。あまり遠くに行っちゃだめだからな。」

 太田家から近所の公園まではほんの150メートルほどの場所にあった。

「よし、行ってみよう」

 次郎はそう言うと残った宿題の問題にとりかかった。


 ほそい棒状のものが何層にも何列にも丁寧にパッケージされた形状を持つ、「対【強化サイボーグ】用爆弾」。電磁パルスを帯びた弾薬を発射するピストル。呪術師でもある鍛冶によって霊的に鍛えられた日本刀。時空振動網まきびし。パルスニードルガン。スティッキーボム。

 それらが今回の対アサシン戦において想定されていた戦略上の兵器である。倫子の手の中にはそのうち、数点しかない。高空からの兵器の直接投下というのも可能ではあろうが、そこは折衝の沙汰で可能になるかどうか、あてにはならない。敵も味方も一枚岩ではなく、カネが注がれればどちらにも転ぶ輩だ。

 目的の地が目前だ。倫子はそこに勢いよく走りこむと、地面と平行に伏せて滑行した。次の瞬間、倫子の辿った軌跡を追うかたちに、地面に突き刺さる鋭光。その着地点からは緑色の煙が立ち上り、あたりに腐敗臭が漂う。

「ふはは。今宵、あんたの死に場所をここに決めたのはあたしさ。かわいい【ぼっちゃん】の眼前にその屍をさらすがいい。」

 その声は傲慢な憎しみを込めた調子で言い放たれた。倫子にはそのような恨みをかう覚えは一切なかったが、その呪詛を込めた宣明は夜の公園の中に響き渡った。

 倫子は愕然となった。ここは…! 太田家からあまりにも近すぎる!  

 誘導されていた場所というのはここだった、さらに、自分が迎え撃つつもりで臨んだ決戦の地がそこだったことに気づいた倫子は歯を食いしばった。

「ぼっちゃまに、、旦那さまに手出しなどさせぬ!」

 倫子は怒りにわれを忘れた。そこで無意識に身体各部に設置された加速コイルを稼働させると、彼女の全身から振動と共に高周波の音響が発せられた。

「!」

 そこから倫子が跳躍すると、敵の姿がいやに緩慢に覆いかぶさった。

「わからぬわけではなかろう。それ。」

 敵の腕がゆっくりと差し伸べられると、倫子の腕をねじりあげる。

「超過額サイボーグといってもこのようなものだ。どれ、一本、ねじ切ってやろう」

 倫子はそこで、とっさに関節駆動のリミッターを解除すると軟体生物のように身をよじって脱した。「何かがおかしい。いまだ、なんらかのジャミングを受けてをる。」倫子は肩を抑えて敵と対峙した。

 そのものは、黒鉄のゼロスーツを身に纏い、倫子とかわらぬ女体を月光のもとに晒していた。

「いくぞ!」

 アサシンは両手に持った忍者の小刀を縦横にあやつり、倫子に肉迫する。倫子は手の甲やひじなどでそれを受けているが、ゼロスーツによって守られていない部位は傷つき、人口の血液を流しはじめた。

「愚か者め。貴様のような操り人形など、はやく壊れてしまえ。自分が何に操られているかわかってもいない。」

 猛攻のさいごに倫子を吹き飛ばすと、アサシンはそう言って、手にした小刀についた倫子の血をぺろり、と舐めた。


「あたしは。あんたのコピーなんかじゃないわよ。」

 倫子を獣のようなまなざしで睨みながらアサシンが言った。

「あたしの方が上。だって、あたしの方があんたよりあとにつくられたんだもの。思い知らせてあげる。」

 そう言い放つとアサシンは両腕を振り放つように下方に投げ出した、同時に手の甲から三つずつの爪が勢いよく生え伸びる。そこには緑色の微細な稲妻が絡みついていた。

「これに切り裂かれたらどうなるかわかっているでしょう? あんたには!」

 そう叫ぶとアサシンは正面から倫子に打ち当たってきた。

(うぐっ! これは…! 国際条約で禁止されているはずの兵器じゃ!)

 倫子は八卦掌をもってからくもそれをうけながすと、心の底から冷や汗をかいた。

「わしは、おまえがわしに対してどのような恨みを持っているかなど知らぬ! それに、先ほどそなたがわしに言うたことも、そのまま返そう! おぬしこそ、誰に操られてをるのかわかってをるのか」

 心理戦。心理戦をいうのであれば、老婆である倫子のメンタルは、先ほど垣間見えたアサシンのものとは比べることのできぬ深みを持っている。などこそ、倫子がこのような異常な作戦に起用されることになった理由なのだ。倫子は悟っていた。「相手は【ガキ】じゃ!」

「おまえは、あのくだらないカルトに実験的につくられた、ただの実験体だ! だがわたしはちがう! わたしこそ、闘いのため、その先の、人類のより良い未来のためにつくられたのだ! おまえとわたしを一緒にするな!」

 幾分かの手傷を負って膝を折っていた倫子は、肩の間に垂れた黒髪の間から相手を睨んだ。

「そんなわしがなぜ闘うのかわかるまい。ええか。わしの脳は婆のものじゃ。わしは婆の魂、心をもってをるのじゃ」

 倫子がそう言いながら必死に見定めようとしているのは、ある「一点」であった。ジャミングの宙点はそこにある。

「だからなんだ! それこそ馬鹿げた迷妄だ! いかさまカルトのやりそうなことだ!」アサシンがはげしく罵る。

 体のある一点にそれが存在している。そこから、彼女への恒常的な時感覚の遅延を導く、性質までは定かならぬジャムが発されている。

「わしがこのような体になっても、それでもまだ守りたいものを、皆々様が教えてくださったのじゃ。わしがまだ若くて、おぬしがそうであった頃のような若い娘時分であったなら、、」

「言うな!!」アサシンはそう叫ぶと、より一層の怒りを眼に宿し、両腕の爪を打ち振るった。

「ならばこそ! おまえを殺す!!」

 怒りにまかせた直打をやりすごすと、激しいジャブが倫子を襲う。そこでは、様々な拳法の組手以外にも、もはやどのような格闘技の応酬でも見られることもない、人間の関節の稼働を無視した異常な格闘がなされた。大気中には激しい打擲音と電撃や液状パルスがまき散らされる。倫子は、吹き飛ばされそうになりそうな殴打の応酬に必死に耐えるばかりとなった。

「なんだあれ!?」

 そこで唐突に響いた声に倫子は凝固した。

 それは、倫子がたいせつに育んでいたつもりの、ひとりの幼児の声。

「ああ! おばけ! …じゃないよ、あれ、倫子さんだ…!」

 視界の隅で、幼児の寸足らずなかわいらしい姿がちらつく。

 それが、右往左往しているのが見えた。


 見られてしまった!! …倫子のメンタルは白熱し、もはや瓦解するかと思われた。

 一体、何のためにこれまで、長い潜伏期間を過ごしてきたのか。

 一体、何のため、彼らとの友好な… 楽しい、心安らぐ日々を過ごしてきたのか。

 一体、何のため、わしは、、

 ぼっちゃま。かわいいぼっちゃま。わしが、、

 倫子はサイボーグの身でありながら、滝のような涙を流していた。

「守ってさし上げますじゃあああ!!!!」


「み、みち子さんが! ああ! どうしよう!!」

 次郎は離れた場所から彼女らの格闘を見守っていたが、もはや小便を漏らしそうな、おそろしい身体感覚をもってそれらに釘づけになっていた。

 まるでおそろしい、でも、人魚のようにきれいな女性たちが、おそろしい勢いで殺し合いをしている、…とんでもない光景を、小学三年生の次郎は目の当たりにして、その光景に完全に魅入られてしまった。しかしそこで次郎は叫んだ。

「みち子さん! …がんばってよう! …一緒にお買い物行くって言ったじゃないかよう!」


 倫子はアサシンの身体の一部を局所的に打ちぬいた。その瞬間をこれまで待っていたのだ。

 そこが倫子へのジャミングを行う最終的な装置だったのである。その瞬間、倫子は全能力を解放された。それまでの視界が二層倍にもはっきりと見え、感覚も澄み渡るように思われた。そしてそのとき、公園に来てしまった次郎の姿が倫子の感覚にダイレクトに映しこまされた。倫子の脳裏には次郎の姿が大写しになって、それ以外が考えられなくなってしまった。

 …ぼっちゃま …かわいいぼっちゃまよ。。

 太田邸で倫子にまといつく次郎の姿。家事をわざと妨げるためにわがままを言う姿。わしの孫があろうことなら あの程の歳にちがいない。ぼっちゃま、わしが守ってやるからの。。

 そこに隙が生じた。倫子が感情を湧き立たせたそのときに、心に隙が生まれた。それを敵は見過ごさなかった。

「ばかめ!!」その瞬間、口から液汁を溢れさせながら、アサシンは倫子の首を抱え込んだ。「!!!」

 次の瞬間、倫子の首はアサシンの関節技によってねじ上げられ、「メキメキッ!」という音を立ててもぎ取られてしまった!


(倫子の魂、感覚がサイボーグ身体と融合するときの、悪夢イメージの展開)


 布団に身を横たえ、〈就寝〉の時間に入ろうとする倫子は、サイボーグ身体の機能を低減モードに切り替え、静かに眼を閉じた。非常アラート機能を残して、様々な感覚ブーストもオフにすると、眠りに就いた。

 倫子は眠りの中でいつもの悪夢に落ち込む。

「うううぎゃあ! これはなんぢゃ!?」

 倫子の肉体が老婆のもので、さらにそれは粉々に打ち砕かれ、まさに死のうとしている、その状態で、苦痛に目を見開く。

 口からは苦しみの血が迸り、砕けた腕では自身を抱きしめたくてもできない、そのはげしい苦痛の中で叫び悶え、のたうちまわった。

 そこには、はげしい交通が往来するような雑音が轟き、闇を裂いて紅蓮に迸る邪悪な光線がでたらめに走り、地獄の硫黄の沼から立ち上る湯気が渦巻いていた。

「うううう。助けて。誰か。」

 しだいに倫子には何も見えなくなる。涙を流す目もなくなる。粥のように崩れてゆく肉体で、苦痛に苛まれ、暗闇の中に打ち捨てられている。

「お願いしますぢゃ、はやく死なせて、天国なり、地獄になり、送ってくだされ、仏様よ。」

 倫子は心底からそう念じて、形のない手を合わせて祈った。

 すると闇の中に輝く若い女の身体が見えはじめた。

「おまえはそこに入れ」誰かが言う。


 倫子の感覚は、完全にサイボーグ身体と融和しているとはいえない。

 彼女はつねに、みずからの肉体に疑惑をいだき、その若く美しく見えるからだを疑い、いぶかった。

「わしは老婆。わしは老婆ぢゃ。爺様と過ごして来た時間、息子を育てた時間、それがある。…わしが娘のわけがないのぢゃ。」

 倫子は、華やかな姿をしながら、悲し気な姿でいつも道を歩いた。

「息子家族にも会えない。…わしには、」

 そこで太田次郎くんの姿が心に、あかるい光のように浮かぶ。

「…ぢゃがわしには、ぼっちゃまがをる。」

 太田家のための買い物を済ませてその勝手口を上がると、それを察知した足音がどたどたと近づいて来る。

「みちこさん! 今日はぼくね! 逆上がり、三回も連続でしたんだ!」

 倫子は次郎の様子を見ると、心からよろこびを覚え、この地への敵の侵略を必ず防ぐ不退転の決意を新たにした。

 そこで必要なのは、周囲の土地の人々の生活習慣による霊的磁場の変動、その時間ごとの移り変わり、また、設けられた磁気装置による干渉、みずからが仕掛けられる装備の場所の吟味、などである。

 地道な買い物の途中でも、彼女はそれらをおこなってきた。加速装置を作動すれば、余人が察する事など叶わずに、あらゆる工作が可能だった。

 しかし倫子の日々は、太田家での家政婦としてのよろこびが優先して、しだいに敵の事などどうでもよくなっていた。


 敵の関節技によって倫子の首がねじ切られ、空中に投げ出される!

「ふははは! どうだ! 次はそこにいる餓鬼、その後、この地の鎮護の要石を破壊してやる!」

 倫子は歯を食いしばり、視線を向ける、その先の、おのれの肉体に絡みついた敵の姿に。

「ぢゃああ!」

 倫子は空中に投げ出され、長い髪をふり乱した毬のような頭部で叫んだ。その瞳が真紅に発光する!

 対サイボーグ究極奥義、それは、敵身体に突き込んだ手から特殊合金製の無数の触手を発出して内部から破壊するという、あまりにきもちわるい、おそろしい技である。

 投げ出された首から倫子は叫ぶと、思いきり敵の胴に掌をするどい形で突き込み、そこから細かく電磁を帯びた触手を敵の肉体内部に爆出した。

「ぎゅあああ!? 何をしているきさま、、何をしている!?」

 アサシンの腹に突き刺さった倫子の手首、その関節の間から、高速回転するドリルを尖らせた触手があらゆる方向に伸び、肉体をその内部から破壊してゆく!

 アサシンは絶叫すると全身を痙攣させ、身をもぎ離そうともがき、大小便を漏らしながら口から泡を吹いた。

「やめろやめろやめろやめてください、だめ、やめてごめんなさい…!」

 その体は叫びながら、しだいにぐったりとなった。

 脱力したアサシンの体を突き込んだ腕からぶら下げると、倫子の身体はすっくと立った。その姿には首がない。

 そして、ゆっくりと敵の体を地に落とした。

 倫子はおのれの首を辺りから拾いあげると、脇に抱える。

 背後で小児の泣き喚く声がする。

「うううああああ! ぎゃああ… みちこさん、首が、首が!」

 見ると、次郎の眼は恐怖に見開かれ、腰が抜けてへたり込み、小便をちびり、涙を流しながら豆腐のように震えていた。

 …わかってをったことぢゃ、こうなることは。倫子は次郎の方にゆっくりと身を返した。

「ぼっちゃま。」

 その声は、首のない女性の体、それが抱えた生首から発せられている。その眼は自分を見ている、いつも一緒にいてくれただいすきな家政婦の声、顔、その眼だ。次郎くんの眼は限界まで見開かれた。

「み、、みちこさん…! どうなっているの!? なんなのそれは!?」

「…ぼっちゃま。…ぼっちゃまと、旦那さまとすごしゃっていただきもうした時間は、ほんとうにたのしく、うれしいものぢゃった。…ぢゃがもう、わしは行かねばならん。今まで、ほんとうにありがとうな。」

 倫子は眼をほそめて、最後に次郎の姿をいとをしげにみつめた。

 身をひるがえすと、その場から離れてゆく。

「…え? …そんな!? みちこさん…」

 次郎は涙を流し、大小便を垂れ流し、発狂しそうな状態であったけれども、もぎれた自身の首を抱えて去って行く、だいすきな家政婦に声を枯らして叫んだ。

「みちこさん! 行かないでよう! …ぼ、ぼくの、…おかあさん!! おばあちゃん!! うああああん!」

 倫子はその叫びを聞くと抱えた首で歯を食いしばり、涙を流した。

 歩むにつれ、次郎から、その平穏だった日々から遠ざかってゆく。深夜の家並みは静かで、身近に異常な戦闘がおこなわれた事などいっさい感知せぬように寝静まっていた。

「この道は… 迂闊にわしが踏み入ったこの道は…」

 思い出がよぎってゆく。たくさんの笑顔。太田家の台所。薔薇のしげみ。ぼっちゃま。

 …〈社〉の船が迎えに来るだろう。河川敷に行く。


 次郎は叫び終わると、遠ざかってゆく倫子の姿をずっと見送った。

 涙の枯れた彼の目には、しだいにつよい光が灯りはじめた。

「…みちこさんは、ぼくらのために、首がとれてもたたかってくれたんだ。あの敵はぼくらをころすと言っていた。でも勝ったんだ! …ぼくも負けないよ。」

 みずからの糞と小便まみれになった次郎くんは、家に帰ると父にひどく不審がられたが、父には倫子の事は話さなかったのである。














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サイボーグおばあちゃん家政婦から眼が離せない! @wrongtime4u

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