サイボーグおばあちゃん家政婦から眼が離せない!

@wrongtime4u

序章

「…ブラザーフェスタ、あなたはどう思いますか? あの【小姓】を」


と、銀髪をうしろに撫でつけた、柔和な神父とでも呼べそうな品格を備えた外国人紳士が、くすり、と笑いながら言った。

 隣の座席に座った、するどく端正な顔立ちの、これはどこか銀行員めいた風情を漂わせる若者に向けての問いである。


「【小姓】ですかw …そうですね、わたくしもやはりブラザーバスチャンとおなじです。どこか、品性の乏しい…」

「そうですか、ではやはり… 今回の件はなかったこととしましょう。まあ、〈社〉に戻ってから、充分な礼節を示して断ればよいのです、まず、〈教父〉さまへご報告ののち、礼拝の前には済ませてしまいましょう」

「はい、ブラザー」


 そこは、成田空港へと急激な速度で走る、黒塗りのベンツのバックシートである。

 そしてブラザーバスチャンと呼ばれた温厚そうな紳士は今、今回の訪日が残念な結果に終ったことに深い失望を抱いていた。偉大なる〈神〉の威光をあまねく世界の上にひろげたい、という教父さまの深い愛が、このようなかたちで挫かれてはならない。

 彼らは先程まで、東京近郊のとある企業の一室で、彼らの属する企業の技術と理念に大いなる尊崇と敬愛の念を抱いているという日本の社長との「商談」をおこなっていた。

 だが彼、…その日本社長の中には〈闇〉がある、と彼らにはかんじられた。彼らの企業が持つ先進科学技術を軍事転用しようと画策する様々な国家群は、民間の一企業を介して、彼らと関係を取り結ぼうとしていた。彼らにとってそれらはすべて〈闇〉の手による罠であり、日頃の商談の数々から、その罠を嗅ぎつける能力は高度に磨かれていった。


 降りだした雨の中、ベンツは夜の県道をひたすら走り抜けてゆく。

 バスチャンは思う――私たちは今はまだ「企業」というかたちをとった集団に過ぎないが、敬愛すべき父祖が〈神〉の御手より授かった、この〈科学技術〉という栄光の技をもって、人々に救済をひろめてゆくこと、そして、その末に慈愛に満ちた世界を実現することこそが、真の目的なのだ、そのとき私たちは「企業」という仮りの姿を捨て、真に〈神〉の使途として生きることができるのだろう、ああ、それはなんという幸福だろうか、だから今は、この技術をさらに高め、より多くの人々のために働かねばならないのだ、とひとりごちた。


「ところでブラザーフェスタ、ハーブを持っていますか?」

「ああ、もうしわけありません、私は妻から煙草を吸うのは禁じられておりまして、」

「ブラザー、あれは煙草ではありませんよ? 教父さまから聖別された特別なものですから。…」

「も、もちろん承知しております、申し訳ありません」

「ふむ、では仕方ありませんね、」

 バスチャンは窓に当たる雨滴を透かして夜の闇に眼を向けた。雨脚はつよくなって来ているらしい。


 彼らのいう「ハーブ」とは、南米を原産とする特殊な植物に〈社〉の抱える化学技術部門が品種改良を加えたものを原料とした、一種の巻き煙草である。また、この「ハーブ」は瞑想のおりに使用することで〈神〉の叡智にふれることのできる神聖なものとして、〈教父〉から直接に聖別されていた。

 ブラザーバスチャンはその煙草の愛煙者なのだが、本国を出てから数十時間のうちに手持ちのすべてを吸い尽くしてしまった。いくぶん、ヘビースモーカーなのであった。

 顔では笑いながら心で落胆し、ぼんやりと車窓のガラスに走る幾条もの雨滴の流れを眺める。空港で何か代用品が買えるだろうか。

 彼の愛用する特別な品物は〈社〉に戻るまでは手に入らないのだが、頼るべきは空港でのフライト前の数時間、数十分でもいい、おなじものは到底望むべくもないが、少しでも近いものを買い求め、ゆっくりと楽しむ、それしかなかった。教父より聖別されていないものに手を伸ばすことになるのをすでにして悔い改めてはいたが。


 と、そのとき突然、彼らを運ぶベンツは車体を急激に振り、はげしいブレーキ音を上げつつ斜めに横滑りすると、数メートルをドリフトした。

 ふたりは無言のまま互いの体をはげしくぶつけあい、もんどりうってシートの上を跳ね転がった。ベンツは雨水をはげしく飛び散らせながら夜の道に停車した。

 髪の毛をぐしゃぐしゃに乱し「おい! なにをやっているんだねきみは…」と、運転席へ詰め寄るフェスを制し、バスチャンは自らも呼吸を整えながら、何が起きたのかを運転手に問うた。運転手もまた〈社〉から今回の「商談」に合わせて選抜された、優秀な人材だったのだ。異常事態が起きたのである。

 バスチャンが見ると、運転手は前方を凝視したまま、

 

「も、申し訳ありません! も、もしかすると私は、ああ! ああ、〈神〉よ! お救いください…!」とくちごもった。


 一瞬、バスチャンの脇を冷たい汗が伝った。


(何事だ? よもや…!?)


 自らを〈聖職者〉と位置づける彼らが、人身の傷害に至るようなおこないをなすことは、その倫理観において耐えられないことである。慈愛に溢れた偉大なる〈神〉、そして〈教父〉さまはその過失をお許しになるだろう、しかし彼ら自身が自らを許すことは生涯ありえないだろう。その恐怖から彼らは逃れることができない。

 ブラザーバスチャンは、上ずった声でたどたどしく話す運転手から数語を導きだすと、今や豪雨となった雨の降りしきる車外へ降り立った。はたして、彼の言葉通り、そこにはひとりの老婆が倒れていたのである。


 その顔面は彼の方からは隠れていたが、夜の中、降りしきる雨に霞むその姿は、四肢のすべてがありえない方向へ折れ曲がり、千切れかけて白い骨が露出していたり、異様に膨れた腹まわりの衣服は内部からの滲出物が流れ出し、全体はぼろ雑巾のように捻じれていた。

 彼の思考は一瞬の内に溶解し、すべてが暗渠の只中に失われてゆくがごときおそろしい虚脱感に満たされた。

 ああ! 神よ! なんということでしょう…!

 彼の目はおおきく見開かれた。心臓は早鐘を打ち、無意識のうちに左手でスーツの胸元を掻き毟った。

 あたまからずぶ濡れになりつつも、あぶら汗がとめどなく流れて雨滴と混じり合い、流れる。それにつれて、最悪な事態のシナリオがしだいに彼の脳裏に過ぎりはじめた。


 そこでの彼は赤裸に剥かれ、彼らの〈教え〉における〈罪人〉そのままに、業罰を受けるべく吊るし上げられていた。

 ああ!〈教父〉さま! 私は…!〈罪〉を犯してしまいました!〈教父〉さまの御慈愛にふれ、ここまで歩んできた私だったのに! 彼は、心の中で狂おしく叫んでいた。

 過去に彼が犯した〈罪悪〉と、そこからの流竄の日々から彼を救い上げ、今の地位をもたらしてくれたのは〈教父〉と呼ばれる存在、いわゆる社長だったのだが、彼のことをブラザーバスチャンは心から敬愛していたのである。涙が滝の如く溢れ、今にも子どものように大きな声を上げてしまうかと思われた。


 ああ! メリッサ! ドゥーディ! 私は…!!

 妻と、健康で素直に育った息子の姿が目に浮かび、彼の心は引き裂かれそうになった。

 毎週のキャッチボールの度に青年らしさを深めてゆく息子の姿に、彼は未来に待つ輝かしい日々への予感を抱きながら、深いよろこびを覚えていたのだ。それも今、永遠に失われていこうとしている! たった20年… この、苦悩の人生の果てに訪れた幸福の日々が、こんなことで奪われてしまう!〈神〉よ! これをしも私は受け入れねばならないのでしょうか…!?

〈神〉の寵愛からも、おやさしい〈教父〉さまからも見放され、家族との幸福も失い、日本という国の監獄で聖別されていない食事の皿と向き合いながら、めそめそと座り込んでいる自分の姿が目に浮かんだ。


(…いかん! 落ち着け、落ち着くんだ…! この異国の人間を撥ねたのは運転手だ! 私ではないのだ! この国の法で運転手に罪を償わせるのだ、…だが、…だがしかし、それで良いのだろうか?)


 彼とて若い身でありながら、数瞬前、自分が想像したような絶望の人生を選ばなければならないのか。取引先の商社への往復で送迎をする彼の容姿は、二十代の若者、前途ある有望な若者、わたしの息子の数年後の姿…


 しかし、数ある彼の内面の声のうちのひとつは、バスチャンがそうはならない、と告げる。それは暗い囁きで、バスチャンという人間の精神を形づくって来た、旧く、懐かしくもある声だった。

 おまえはこんなことはたやすく乗り越えていくだろう。即刻、思い出すのだ。おまえは数え切れぬ戦友たちを犠牲にしてみずからの生を勝ちとって来た人間である。…あの忌々しい、砂だらけの異教者たちの国で、彼らによる拷問に苦しむ兵士たちの顔の数々が浮かぶ。

 日を重ねるごとに、その四肢を切り刻まれ、我らが祖国の旗を愚劣に模した布に包まれ、送り付けられる戦友たちの肉体片。そしてついにはその頭部… その夥しい数。

 それらはすべて、共に死地をかいくぐり、窮地を脱したことを喜び合い、抱き合って涙を流しあった友たちのものだ。だが彼は、敵部隊の要求に屈することなく、最後の勝利を勝ち取ってきたのだ、冷酷のそしりを受けようとも。

 それらは、彼が今の生活を送る日々の中で、もっとも忌避すべき過去の記憶であり、忌々しい〈悪〉そのものとして、心の奥底に封印されていたものであった。

 だが今や、それが甦ってくる。

 この事態をなんとか掌握し、乗り切っていくためには他に手立てがないのだ。

 彼の精神の実体は、かつて幾千もの死体が腐肉の悪臭を放つ惨たらしい戦地を駆け抜けて来た猛者のそれであった。強靭であり、冷酷であり、その底に深い闇と夥しい死者たちの眠る墓所を蔵した、暗く、呪われた土壌であった。


(…くそッ!! 忌々しい黄色い猿め!!)


 つぎの瞬間、彼は後方扉の陰からこちらの方をこわごわと覗き見ている若者に向け、静かな声で「命令」を下した。


「すぐにこっちへ来ないか、この馬鹿者めがッ! 運転手、きさまも手伝え!」


 抑揚のない、しかし断固たる権威を感じさせるその声に、若者はいちどきに全身に緊張をみなぎらせた。そして素早く、バスチャンの傍らに駆けつける。運転手も狼狽しつつ車から転がり出て来た。

 その時フェスは間近に見た。最前まで自分の横で煙草を欲して拗ねた子どものような顔をしていた温厚なブラザーの目が、戦地における厳しい〈軍曹〉のそれのようにぎらぎらと光るさまを。

「きさまは何を甘ったれているのだ!」と、言われてもいない言葉が聞こえてくるような気がした。

 若者は軍曹の「命令」の鋭さに呆然としながら、言われるとおり、びくびくと、しかし迅速に行動しはじめた。運転手と協力して老婆の体をトランクに担ぎ入れると、命令に従って、持っていたバッグの中身を車内にぶちまける。そして老婆の倒れていた場所に戻ると、素手で路面に散らかった骨肉片の数々を掻き集めた。軍曹に従え、という本能の声に命じられたのだったが、それは奇妙なよろこびでもあった。しかし同時に、自分までがおそろしい罪の共犯に引きずり込まれていく事に恐怖した。


(ブラザーはいったいどうするつもりなのだ? まさか死体を何処かに遺棄する気なのか?)

 その時、トランクの中に放り込まれた老婆の体から「ごぼり、」という音が響いた。

(まだ息があるのか…!? ええい!)

 バスチャンは即座にそちらにふりむくと、彼らの姿を眼を剥いて睨みつけた。

「ブラザー! この方はまだ生きています! 今からでも近くの救急施設に運べば!」

 バスチャンは歯を食いしばると老婆のもとへ歩み寄って行く。その姿は夜の雨の中で車の赤色灯を受け、血濡れの悪鬼のようだ。おもむろに手を伸べて、老婆の首元から脈拍を確かめると、次の瞬間、その掌で一気に頸骨をへし折りにかかる。

 その様子を凝視していたフェスの全身は硬直した。


(ブラザーが!? 老婆の息の根を止めてしまう!?)


「!!」


 突如として強烈な白光が世界を覆い、バスチャンの視覚を完全に盲いさせた。それは強烈なものでありながら、彼の汗と雨水にまみれた頭部を、怒りに震える肉体を透過し、その質量を無化してしまう類いの形容しがたい光耀であった。

 バスチャンの口があんぐり、と開け放たれ、そこからゆっくりと涎が垂れる。

 棒立ちになり、顔をなかば上方に向けながら、痴呆のように立っている。

 光が波立つと、視界の中央に微かな影が現れた。

 影はバスチャンにむけて翼のようにひろがり、幾重にも幾層にも裂けると、彼に記憶の奔流をもたらした。


「殺せ!」

「あ、脚が!! 助けてください…!」

「爆発するぞ!!」

「豚箱に叩き込んでやる!」

「ほっといてくれ!!」

「この患者には拘束衣が必要だ」

「やめろ! きさま軍規違反を」

「死ぬな!」


 雨の降りしきる路地裏の一隅に、泥水にまみれ、ぼろ雑巾のように倒れている。

 泥酔しており、憔悴しきった心とからだは、安堵と共に死を受け入れようとしている。


(…やっと。…らくになれるな…。おや… 誰かが近づいてきたぞ…)


 光がはじけて、瞬きをすると傍らを子どもの手をひいた女が、男が、兵士たちが走り過ぎて行く。


「…待て! そっちへ行くな!【地雷があるんだ】!!」


 辛うじて声をしぼり出す。人影の走り去った方へよろよろと走り出すと、閃光とともに衝撃が響く。


「ああ! ああああ…!!」


 バスチャンが近づくと、ばらばらになった数名分のからだが、薄く血を流しながら転がっていた。兵士の胴体、男の脚、そして。


「ドーディ!? メリッサ!?」


 ふたつの首は並んで地に落ちていた。

 それはあの日、あの時、遠い戦地。鄙びた村落、彼の初陣。

 敵小部隊の攻略を若年兵ばかりの部隊が任され、ピータース曹長の指揮の元、作戦を展開した。そして、彼らの仕掛けた地雷の罠に入り、幼児を含む数名の民間人が死んだ。防ぐことの出来た被害だった。

 静謐な白光と、渦巻く影の中で、バスチャンは顔を手で覆うと膝を折って涙を流した。

 その上方で光がはじけて、影が裂け、それは巨大な樹々の聳える森の梢になる。それがゆっくりと静かに、風に揺れる… いや、違う。

 あれは風に揺れる樹々の梢じゃない。それらは渦巻いて伸び広がり、波のようにうねると、その波間から巨大な女の顔となってバスチャンを見た。眼前に広がるその圧倒的な質量の展開に彼は圧倒され、眉は逆巻いて吊りあがり、眼は限界まで見開かれ、頬は広がってこわばり、顔面が極限まで硬直して凝固し、口の端からは涎が垂れた。

 巨大な女の顔、そしてその眼、深淵そのものでありながら吸い込むもの。

「あの人をわたしの処へ連れて来なさい」


 影が急激に逆流しはじめる。


「殺すな」

「あなた!」

「…神よ!!」

「きさまを殺してやる」

「パパ!」

「うおおおおおおっ!!」


 バスチャンは落雷に打たれたように全身を痙攣させ、叫びながらのけ反った。その時、彼の心はふたつに裂けた。

 かつて、戦地を駆け巡る悪鬼だったバスチャン一兵卒と、慈愛あふれる〈教父〉さまによって薫育を受け、生命を尊重し、人々のために生きることを涙ながらに誓ったブラザー・バスチャンに。

 彼は叫びながら仰向けに倒れると後頭部を路面に強打した。


「ブラザー!」


 フェスは慌ててバスチャンの傍らに駆け寄った。


(突然叫んで転倒した。一体なにが…)


 数秒後、彼は深いため息をつきながら身を起こし、周囲を睥睨した。雨脚は次第に緩やかになりつつある。そして立ち上がるとトランクの老婆に近寄り、もう一度その首元から注意深く脈拍を読みとる。


「手伝ってください、何とかこの人を救わねばなりません」


 必死な思いのこもったその依頼の声を聞いた若者は、最前までのバスチャンの鬼のような様子と冷酷さは夢だったのかと一瞬の混乱をきたした。そうだ、夢に違いない。いつもどおりのブラザーでいらっしゃる。気を取り直してブラザーの姿を見ると、全身にちからがみなぎるような気がした。

 そうだ、われわれの起こした過失はわれわれで取り戻さねば、それに、私たちにはそれが【できる】。若者は素早く身を起こして勇気を奮い起こすと、バスチャンの元へはしり寄った。

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