スーサイドストーリー

岡池 銀

スーサイドストーリー

「おいひがし、前期の完成図書まだ出てねぇんだけど? 下期始まってどれだけ経ったと思ってんの?」


 主任の席に呼び出された僕は苛立ちを隠そうともしない彼の様子で、いつもと同じ面倒ごとの気配を察した。


「あれは確かこの前辞めた……」


 あれは自分の担当ではない。そう言おうとしても主任は聞く耳を持たない。

「は? お前も同じ工事出てたろ? 前川が辞めてできないなら誰がやんだよ。お前だろ?」


「……今からやります」

「今からって……普通はわかった段階でやっとくもんだろうが……毎度毎度役に立たねえな」


 去り際に聞こえた主任の言葉に引っかかるものを抱えながら完成図書の作成に取り掛かると、斜向かいの席で話す声がする。


「先輩、あの人なんで言われっぱなしなんすか? 主任の方が年下っすよね?」

「あれ知らねえの?」

「俺ここ来て3ヶ月っすよ。つか先輩がOJTじゃないっすか」


「そうだった。あの人は「東 つよし」さん47歳。長年やってるだけあって腕は良いし、仕事もそれなりな方なんだけど何故かは知らんがずっと下っ端。面接受ければすぐにでも主任と同じになれるのにあの人全然面接受けねぇの」


「へ〜、それで後輩だった主任に抜かれたんすか」

「そういうこと」

「なるほどねぇ。まあでも上に立つ感じはなさそうっすよね」

「まああの人陰気だしな。自信なさそうだしたまに何喋ってるかわかんねえし。何より要領悪いもんな〜。他にも……」




 夜の明かりが町に灯る頃、僕は帰りの電車で手摺を握っていた。

 照度がやや高すぎるように感じる車内では仕事帰りや塾帰りであろう人々がまばらに座っている。


「後藤さぁ、あいつマジありえないんだけど」

「う〜わ、サイアクじゃん」


 降車駅に着き扉が開くと女子高生と思われる二人が横並びで入って来る。

 僕はそれを躱そうと身を捩るが会話中の二人は僕に気づかず、一人の手が僕の手とほんの軽い力でぶつかってしまった。


「ひぃっ!」

「痛った〜」

「大丈夫? つか何、アイツ。ひぃっ! だって。キモっ」


 僕に背を向けて乗り込んだ二人はこちらには目もくれずに蔑みの雰囲気を醸し出す。


「……ません、すみません、すみません、すみません」


 僕はぶつかった手を押さえ謝罪を繰り返しながら早足でこの場を立ち去る。


「何アレ、キッショ」

「あいつもしかして痴漢の常習犯なんじゃないの?」

「だとしたら駅員呼んどけば良かったかな」

「やめとけば? 変な逆恨みされてもイヤだし」

「そりゃそうだわ」




「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 暗く静かな二階の自室に戻ると電車での出来事を思い出して息を荒くする。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 鮮明に脳裏に焼き付いた髪の長い後ろ姿。

 ホームを去る直前まで振り向いてまで見てしまった少女の姿。

 固く握った物を見つめて僕の体は小刻みに揺れる。


「はあ、はあ、……全部、僕の……」


 けれど逡巡するうちに冷静になった僕は、物を仕舞い散らかった部屋を出て浴室へと向かった。

 熱めのシャワーは強張った僕の体をぐったりと弛緩させる。

 仕事は疲れたし電車での事で心まで磨耗してしまった。

 早めに飯を食って寝よう、と考えながら、上下スウェットに着替えて脱衣所を出ると僕は微かな違和感を覚える。


「廊下の電気つけっぱにしてたっけ」


 そしてその違和感が勘違いではない事にすぐ気がついた。

 今日はまだ入っていないリビングに明かりが灯っている。


 まさか空き巣でも入ったのか?


 警察への連絡も考え部屋から携帯を持ってきてからおずおずとリビングのドアの前に立ち中の様子を窺った。


 ドア越しに物音がする。僕の一人暮らしの家に他の誰かが居るのは間違いない。

 このまま逃げてしまおうかとも考えたが意を決してドアノブを捻り、


「誰だ!」

 と声をあげる。


 すると返ってきたのは入室前の緊張を裏切る、やや緩い女の声。


「わビックリした〜! 急におっきな声出さないでよおじさん!」


 そこに居たのは明るい栗色の長い髪の女だった。

 カーディガンを羽織ったパジャマ姿のその女は先程まで弄っていたスマホを持ったまま振り返り、驚かせた僕へ抗議する。


「そっち行くってメッセしたのに全然既読付かないし、電話しても出ないからってしゃーなし勝手入ったけどアタシだけど、そんな大声出すことないじゃん! ねちょっと聞いてんの?」


 口早に話す彼女に圧倒されつつ、僕は一つの疑問を投げかけた。


「あ、あの……どなた、ですか……?」


 見知らぬ女が僕を知ってる風に、しかも自分の家の中で話している。この状況が恐怖以外のなんなのか。


「うっそ、マジ信じらんない、友達登録までしてんのに忘れるとかありえなくない? そもそも一度会った人の顔忘れるとかちょー非常識」


 そう言われても女の知り合いなんて親族くらいだし、と心の中で言い訳しながら彼女の言うメッセージを見てみると、その相手の名前に見覚えがあった。


 『東 翠』


 ひがし……みどり……。


「翠ってあきらの娘の!?」

「そう! 可愛い姪の顔忘れるなんてマジないんですけど!」


 僕の弟の晶には娘が一人いる。

 デキ婚だったか授かり婚だったかで結婚した相手との子だ。

 しかし最後に会ったのは随分前。

 この翠が小学低学年の頃だったように思う。

 それでも朧げな記憶を懸命に想起するに切れ長の眉やつり目気味な目元はあの時の姿にそっくりな気がする。


「い、いや、最後に会ったのだいぶ前だし思い出せないよ。そ、それにそもそもなんで家に来たの?」

「ちゃんと書いてるでしょ。パパと喧嘩したの」


 僕は再びトーク履歴を開いて遡ると十数の通話キャンセルと数十のスタンプの上に「パパと喧嘩したからそっちに行くね」との一文があるのを見つけた。


「こっちに来た理由はわかったんだけどなんで中に入ってるの?」

「アタシのメッセ見て開けててくれたんでしょ? 未読無視するけど良いとこあんじゃん、って思ってたけど……まさか違った?」


 ……焦って鍵閉め忘れてたのか。


「でもさ〜、女の子部屋に入れるのにこの部屋は無いわ。汚すぎない? 散らかってるしホコリまみれだし」


 無茶を言わないでほしい。家に人を呼ばないのに掃除などするわけがない。そもそもメッセージを見たのも今さっきだ。


「そ、そんなに言うんならもう帰ってくれない? 晶、お、お父さんには連絡してあげるから……」

「い〜や〜! ピアスくらいであんなに怒るなんて時代遅れ! 今時中学生でも開けるっての。あっちが反省するまで絶対帰らないから!」

「そんなこと言ったって、き、着替えとか学校とかどうするの? 家に女の子が着るような服なんてないよ。そ、それに僕朝早いから学校送ってられないし」

「着替えは持ってきた。それに学校ってウチもおじさん家も市内じゃん。ふっつうに通学できるって」


 どうにも僕の説得で追い返す事はできないらしい。で、あるならば。


「はあ、ちょっ、ちょっと待ってて。君のお父さんに連絡するから」

「好きにすれば? あっちも多分迎えに来ないし」

「……もしもし、晶? 今こっちにみ、翠ちゃんが居るんだけど」

『はあ? 家飛び出したと思ったらお前んとこ行ってたのかよ! おいちょっと翠に変われ』

「み、翠ちゃん、お父さんが変わってくれって」


 僕は痛む耳を押さえながらスマホを手渡す。彼女は「ありがと」と言って眉を顰めながら廊下へ出ていった。


 そこから先は……まあすごかった。


 ドア越しのはずなのに晶と翠の二人の声が聞こえ、激しい言い争いをしたかと思えば数分後には部屋に戻って来た翠が目に涙を浮かべて僕のスマホを押し付けてソファに飛び込んだ。

 

 通話は既に切れているし会話の内容は断片的にしかわからないが少なくとも仲直りした訳じゃ無いのは確かだろう。


 こういう状況の経験など一度もない僕にはどうすればいいのかなんてわからない。慰めればいいのか?

 そんな事を考えていると再び僕のスマホに着信が鳴る。


「もしもし」


 表示は晶だが出てみると声が違う。


「もしもし? どちらさまでしょう?」

「私スイちゃんの、え〜と翠の母です」

「あ、あ、はい。初めまして」


 翠の母、つまりは晶の妻。


 僕がほとんど家の集まりに行かないのと、前に行った時は体調を崩していたとかで会えなかった人。

 事前に知っていたのは年上の人と結婚した、という事くらいで声を聞くのだって当然初めて。意外と若そうな声をしているな。

 

『うちの人一度言い出すと聞かないもので、とりあえず数日だけ置いてもらえませんか? そこからでも学校は通えますし、なんだったらそれなりのお礼もさせてもらいますので』

「い、いえお礼はいらないです。で、できれば早く帰ってほしいのですが」

『それじゃあせめて一日だけでも……なんとかなりませんか? そちらを追い出されたら多分野宿しちゃうので……』


 流石に女子一人の野宿なんて放っておけない。


 ……仕方がないか。


「わ、わかりました……い、一日だけ……」

『良かった。それではよろしくお願いします。……ほら、あなたも自分の娘の世話してもらうんだから一言お願いしますくらい言ったらどうなの?』

『翠に手出したらころ──』


 晶が最後まで言い切る前に通話が切れた。

 ドスの利いた低い声で紡がれた言葉は、最後まで言わなくても何が言いたいか理解できた。


「殺す、か……言われなくても手は出さないよ」


 姪に、未成年に、手を出すなんて絶対にあってはいけない事だ。それに警察の厄介になんて絶対になりたくない。


「さっきのママ〜? なんて言ってたの?」

「きょ、今日一日はお願いしますって、で、でも明日はか、帰るんだよ……?」

「はーい。今日はもう眠いから寝るね。おやすみ〜」


 そう言って翠は家から持って来たであろうバスタオルをブランケット代わりにそのままソファで眠ってしまった。

 今日はなんだか疲れた、と思いながら今晩の冷食を温めようと冷蔵庫へ向かったその時、「あ!」と翠が声を上げる。


「な、何……? ま、まだ何か……?」

「アタシの事、翠じゃなくってスイって呼んでね」

「えぇ!?」

「わかった? スイだからね? それじゃおやすみっ剛」

「え、えぇ、あぁ、えぇ……? な、なんでいきなり呼び捨て……っていうかなんで知ってるの……」


 ……いや、なんで知っているのかは思い当たった。言い争いの時に晶が何回か言ってたな。

 ……そう、僕は今こんな事を考えられるくらいに冷静だ。

 動揺なんてしていない。

 そうやって言い聞かせていないと自分がどうにかなってしまいそうだった。


「つ、剛……」


 両親と晶以外で名前を呼ばれたのは初めての出来事だった。




 ──。


 ────。


 ──────。


 気がつくと僕は真っ暗な空間で一人だった。

 たった一人で何かに座っていた。

 それはブランコ。

 吊られた鎖を握り、揺れもせずにじっと座っていた。


 しばらくそうしていると、左側で人の気配がする。

 そちらを向けば、同じように静かに腰掛けている若い男。


 立ち上がってそいつに近寄ろうとするとブランコが消え、次に現れたのは若い女の後ろ姿。

 髪が長い制服姿の女が僕の前に立っている。

 僕が彼女に手を伸ばそうとした時、声が響いた。


 ──悪いのは誰?




「……何だったんだ、さっきの夢は……?」


 夢の内容なんて普段はすぐに忘れてしまうもの。

 けれど今日の夢は強く印象に残っている。

 脳裏に焼きついて離れない。

 ブランコは何かの暗示なのかもしれないがよくわからない。

 しかし、その後のシーンは覚えがある。

 あの女の後ろ姿を覚えている。

 忘れたくても忘れられない、忌まわしい記憶。

 ここ何年も朧になっていたのに夢のせいでまた鮮明に思い出してしまう。


 ──悪いのは誰?


 夢で言われた言葉は誰から言われたものでもない。きっと自分の後悔が生み出した幻聴、のようなものだ。

 そうだとしても僕はそれに静かに答えた。


「全部僕が悪い……わかってるよ……」




 二階の自室から一階のリビングへ向かうと中から明かりが漏れてくる。

 寝る前に電気は消したのに、と呆けた頭が考えたがその次には昨晩何があったのかを思い出す。


 昨日翠が家に来て泊まった。

 その時は予想外だった為に狼狽えてしまったが、今日でこの展開は二度目。大人なら落ち着き払って対応できる。


 深呼吸一つ、ドアを開けて中に入ると

「おはよ、剛。なんで冷蔵庫の中マーガリンしか入ってないの?」

「あ、え、え、あの……」


 制服姿の翠がトースト齧りながら僕に挨拶してきた。

 予想外。

 いやそもそも昨晩と全く一緒の展開を想像していただけで予想と呼べるものですらなかった。

 それに同じだったからといってそれに対する回答を持っていたかと言われればそれも無い。


「剛?」


 それに何よりも年若い美少女に自分の名前を呼ばれる事。これが女性経験ゼロの身に抜群に効く。


「あ、ああ、あの……お、おはよう……」


 大人の余裕で朝の挨拶を済ませ、家に帰るよう説得するつもりが名前を呼ばれただけで全て頭から飛んだ。


「何キョドってんの? 変な顔〜、ウケる。てかちょっとカワイイかも」

「お、おおお、おま、か、かわいいって」

「お前じゃなくてスイって呼んで。あ、そだ、剛もパン食べるでしょ? 焼いといてあげる」

「っすすっすスイぃ〜?」


 さっきから翠が言いたい事を一方的に話してこちらの話が流される、会話のドッジボール状態が続いてる。

 それか全然打てないバッティングセンター。

 そもそもこちらの情報処理が追いつかず、言いたい事がまとまっていないのであちらがどう答えようと会話にならない。

 バットも無しに返しようがない。そんな状態。


 そうして僕は混乱したまま椅子に座り翠が焼いてくれたトーストを食んでいる。

 もしかしたらまだ夢でも見ているのかもしれない。

 さっきから夢心地なふわふわとした頭で状況が進んでいる。

 けれど口に含んだトーストの食感とさっきから頬を突いてくる冷たい指先がこれが現実だとにわかに知らせる。


「ちょっと! さっきからボーッとしてさ、聞いてんの? 答えないなら指つんつんやめないぞ〜?」

「え、えっ……と、なんの話だっけ?」

「だ〜か〜ら〜、飲み物、なんか無いの? 冷蔵庫に牛乳もジュースも無いから聞いてるんだけど」

「あ、あの、そ、そこの棚にコーヒー、あります」

「んー……まあいっか。ケトルは、と……剛も飲むでしょ?」

「あ、はい……お、お願い、します……」


 翠はカップ二つを用意してインスタントコーヒーをそれぞれ一杯入れ、電気ケトルが沸くと湯を注ぐ。

 そうして僕の前に置かれたコーヒーは、いつものカップに普段通りの黒色が並々と揺れている。

 今でさえなければ落ち着く朝のルーティンなのにこの状況のせいで香りもろくに感じない。


「飲まないの?」


 コーヒーを眺めて固まっていると翠が僕の顔を覗き込んでくる。


「あ、ああり、ありがとう、飲ませてもらうよ」


 翠に促されて飲んだコーヒーは、緊張で味覚がダメになっているようで何度啜っても熱い液体としかわからない。


「どう? おいしい?」

「う、うん、お、おいしい、よ……」


 嘘をついた。本当は味なんてわからないのに。

 僕はなんとなく居たたまれなくなって残ったコーヒーを一気に飲み干すと気持ちが少し落ち着いたみたいで自分のカップ以外を見る余裕ができた。


 それで翠の方を見ればカップの中身がほとんど減っていない事に気がついた。


「み、翠ちゃんは、の、飲まないの?」

「スイ、ね」

「うっ、す、すす、す、スイ、ちゃん……」

「ん。でさ〜、剛があるって言うから自分の分も入れちゃったけどさ〜、実はアタシブラックだめなんだよね」


 ブラックコーヒーが飲めないのに入れちゃったのか。しかし僕の家には牛乳もフレッシュも砂糖も無い。


「そ、それなら僕が飲もうか?」

「それは嫌」


 自分で入れたから自分で責任を持って飲み切る、という事か? 律儀な子、なのだろうか。


「……剛はさ、コーヒーはブラックが好きなの?」

「う、うん。そうだよ」

「そっか……じゃあむしろアタシがちゃんと飲みたい」

「そ、それは何で?」

「だって……」

「だって……?」

「剛が好きなもの、アタシも好きになりたいからさ」


 コーヒーを飲んでせっかく多少クールダウンできたと思ったのに、思ったのに……翠の言葉は事ある毎に僕の心と体を強張らせる。

 顔が熱くて仕方がない。

 これ以上鼓動を早めたくない、それなのに翠の一挙手一投足に目が離せない。


 ふぅふぅとコーヒーを冷ます様子。

 少量を口に含んで「苦っ」と顔を歪める姿。

 眉を顰めてカップを置くも、再び持ち上げてさっきの流れを繰り返す様。


 もはや何をしても目で追ってしまうし、何を見てもドキドキしてしまう。

 自覚の有無はともかくとして、この子は僕をどうにかしてしまう。

 こんな事を長く続けられたら体が保たない。

 これは是が非でも帰ってもらわなければ。


「み、みど」

「スイ」


 断固としてスイ以外の呼び方を認めない、という圧力がこの一言から伝わってくる。

 話をするなら僕は呼び方を改めねばならないようだ。


「ス、スイ、さん……」

「ちょっと、なんでさっきまでちゃんだったのに今さんになってんの〜? ふつうにちゃんがいいんだけど?」


 そう言われても女と関わった経験がほとんどない人間にとっては、下の名前で呼ぶのすら気後れするのだ。

 ましてやそれをあだ名でちゃん付けなんてそう簡単にできはしない。

 翠ちゃんと呼べていたのも東さんと呼ぶのはなんか違うな、という理由からだけだ。


「す、す、スイ、ちゃん……きょ、今日は帰るんだよね」

「あれ、昨日言わなかった? アタシパパが謝るまで帰らないから。ママもお願いって言ってたっしょ?」

「そ、そんな〜……あ、晶の事嫌いな訳じゃ、な、ないでしょ……? だったら」

「そりゃ普段のパパなら好きだけど〜、でも昨日のパパは嫌い」

「で、でもだからって僕のところに来る事ない、でしょ……? 僕なんかもっと嫌われるよ。ど、どもるし、陰気だし、正直キモいとか思ってるんでしょ……?」


「そう? 別にいいんじゃない? アタシは嫌いじゃないよ」


 嫌いじゃないという事はつまりその逆、好きという事か?

 もしかして裏があるのか?

 でも演技でここまで僕を好意のある雰囲気を出せるものか?


 スイは可愛いしスタイルも良い。それは間違いない。

 そんな子に好意を寄せられて嫌な気持ちになるわけがない。


 でも僕は47のおじさんで、高校生の少女と恋愛とか付き合うとかは歳の差や世間の目がきっと許さない。


 例えお互いに好き合っていたとしても、だ。




「……なんか東さんボーッとしてね?」

「そうっすね。顔も赤いし熱でも出してんすかね。ずっとブツブツ言ってるのが怖いっすけど……熱で頭やられたんすかね?」


「おいバカそういう事言うなよ」

「あ、もしかしてなんすけど、女できたんじゃないっすかね!?」


「いやそりゃないだろ〜、東さん女に興味ないぜ?」

「なんでないって言い切れるんすか。あの人だって男でしょ」


「いやだってさ、あの人何回誘っても合コン来ねえんだよ」

「いやなんで合コン誘ってんすか。先輩の言う合コンって女子大生誘ってやるやつでしょ? 三十手前の先輩でも正直キツいって思ってんのに四十越えたおっさんが来るわけないじゃないっすか。誰だって気ぃ使うわ」


「そうかなぁ。でもなでもな? あの毎日退屈そうにして一度も笑った事ないような東さんがな、大声で笑うとこ見たいって思わね?」

「いや俺おっさんの大笑いに興味ねぇんだわ」


 と、二人の話しが盛り上がり声が大きくなってくると流石に主任の叱責が飛んでくる。


「お前らうるせえぞ! 喋ってる暇あんならそこでボケーっと座ってる東連れて現調行って来い!」

「「うーっす」」


 二人は僕の元へと歩いてくると


「そういう事なんで、俺車回してくるんで図面刷って待っててくれます?」


 と声をかけてきた。


「……」


 けれどすぐ隣で発せられた言葉が僕の耳に届かない。


「東さん? 図面、お願いしますね」


「……あ、は、はい」


 二度の声かけでようやく認識した僕は急いで今日の現場の工事図面を印刷しA3のバインダーに挟んだ。

 けれどその最中でも僕の頭にあったのは今日の現場の事ではなくスイの事であった。


 ──す、スイ、ちゃん……

 ──剛……

 ──僕は、き、君が……

 ──好きだよ。




「この人マジで熱出してんじゃないっすか?」

「うーん、そうかもな。現場じゃ真面目で通ってるこの人が全っ然動かねぇんだもん」


「まあ途中サイレン聞こえた時は動いてましたけどね。挙動不審の自覚はあるみたいっす」

「でもパトカーどっか行ったらこれだろ? 声かけても聞いてんだか聞いてないんだか」


「結局俺達で全部やりましたもんね、現調」

「いやホント、今日初めてお前の教育担当で良かったって思ったもん。こんなの一人じゃやってられんわ」


「初めてって……まあいいっすけど。ほら帰りますよ」


 若いのに肩を叩かれて、ようやく傾いた太陽と今日一日何もしてなかった事に気がついた。


「え、ああ、ありがとう」

「ほんと大変だったんすから」


「本当にありがとう、今日なんかおかしくて」

「体調不良ならちゃんと病院行ったほうがいいですよ」


「うん……ごめん……」

「いいから帰るっすよ」


 結局帰りの車でも放心していたようで会社に到着してからも同じようなやり取りを繰り返し、席に着いてまた呆けては主任に怒鳴られた。


 けれどそれも今は気にならない。

 頭にあるのはスイの事。

 スイはまだ帰らないと言っていた。

 ならば帰ればそこにスイが居る。

 早く帰ればそれだけ早くスイに会える。

 そう思うと心が弾んで仕方がない。

 こんな気持ちは初めてだ。


 思わず口角が上がってしまうが、たった一人でニヤけていては不審者だ。

 なんとか取り繕おうと頬に力を入れても口角が下がりきらない今の僕の表情は、おそらく見るに耐えないものだと思う。

 なんせ目があったはしから電車の乗客が顔を伏せる。


 それで窓を見てみると暗い夜の街が僕の惨状を写し出し、その醜さとみっともなさを自覚した。

 ずっとこの顔を晒していたのかと思うと恥ずかしさで顔から火が出そうだった。

 けれどやめようにもやめられない。

 恥ずかしいよりも、顔を見たいや待ち遠しい気持ちの方が強い。誰の目も声も気にはならない。


 駅を出て早く大きく足を繰り出し、信号待ちで足踏みし、そのうち駆け足になって真っ暗な家に着いた。

 家の前には道路の街灯に仄かに照らされた制服姿の女の背中。

 スイに間違いない。

 僕は逸る気持ちを抑えもせず息を切らせて近寄るとスイに呼びかけた。


「スイちゃん!」


 今朝のように明るく返事がもらえると、期待した僕の心が砕かれるのは一瞬だった。


「遅い! 寒い! 女の子外に放置とかどういうつもり!?」


 表情だけでも雄弁に語る不機嫌が怒気を孕んだ声色で乗算され、今にも殴りかからんばかりの勢いに気圧され、たじろいでしまう。


「そ、そそんな事言われたって……」


 先ほどまでの鉄も鍛えられそうな体の熱は冷め切り、怒られる事への恐怖が湧いて出る。


「あのさ、今日も来るって知ってるんだからポストに鍵とか入れとくもんじゃないの? パパだったらこういうのちゃんとやってくれるよ? それに今の時期寒いのわかってんだから少しでも早く帰ろうとか思えないわけ?」


 最後に溜め息で締めると早く鍵を開けてと催促してきた。

 そもそもここは僕の家で勝手に上がり込んだのはスイの方なんですけど、と言い返したい気持ちはあったがこれ以上怒られたくなくて口に出せない。

 目を合わせる事もできずにスイの横を通り、鍵を開けて中へ入る。


 憂鬱だ。


 こんな事ならこの子を家に入れなければ良かったとすら思う。好かれていると思ったのもきっと気のせいだ。

 スイの事が気になったのも身近に女が居なくて免疫がなく若くて可愛い女に舞い上がったせいだ。


 あの子が帰るまでこれが続くと考えると気が滅入る。

 早く帰ってくれないかな、と思ったその時、突然背中に柔らかな感触が当たり「ヒィっ」と情けない声を上げてしまう。


「えっ、えっ? え?」

「ごめんね」


 困惑している僕の上着を掴み体を寄せるスイ。さっきと違った優しい声音は余計に僕をこんらんさせる。


「さっきの怖かったよね。アレ全部本当じゃないの」

「ほ、ほ本当じゃない?」

「そ、さっきのは演技。ずっと外に出されて怒ってたのは本当だけど、でもそれはちょっとだけ。剛はさ、ちょっと察しが悪い所があるからそれに気づいて欲しかったんだ」

 ……察しが悪い、のは確かによく言われている。昨日だってそれで主任に怒られた。

 昨日今日の付き合いのスイにすら言われるのだから相当だろう。


「うん……そ、そうだよね……察し悪いよね……」


 しかし自覚はあっても40年以上変われずにいるのが実情だ。


「で、でも……どうすればいいのかわからないんだ……そのせいで嫌われるのに治らないんだよ……」


 誰かに言われる事はあっても自分の口で誰かに言うのは初めてだ。

 ずっとずっと悩んできて、これが原因の辛い事だってあった。

 自分で治そうとした事もあった。

 相手の事を察せずに行動しなかったり、相手の事を察そうとして間違えたりを繰り返した。

 それでも治らなかった。

 誰も彼もに言われてもその改善策を教えてくれる人は居なかった。


「簡単だよ」

「え……?」

「人はね、普段の何気ない会話でやりたい事とか欲しい物を言ってたりするの。ちょっとした事で、叶えてもらおうとも思ってないお願いだけど……それをちゃんと叶えてあげて?」

「そ、そんなの何度もやったよ、やろうとしたんだ……でもダメだったんだ」

「それは皆の話を聞こうとしたからじゃない? そりゃアタシだって他の全員の話を覚えてるわけじゃないよ。この人だけは、ってのを決めてるの」

「そ、それはどうやって……?」

「うーん、アタシを嫌いになってほしくない人。アタシが好きな人。そういう人かな。だからね、剛」


 嫌われたくない人なんてたくさん居る。僕は誰からだって嫌われたくない。でもその人達の事だけに集中してもダメなものはダメだったのだ。

 いつも余計な事をして嫌われてきた。

 人の話よりも覚えているのは、そんな余計な事の後の事。

 ゴミでも見るかのような目。

 何をしてくれたんだ、という罵倒の声。

 あなたの為にと思ってやったのに嫌われる。

 何度やってもダメだから諦めたのに、そのつもりだったのに何十年も前の事すら思い出して心を苛む。


「だから……アタシで試してみない?」

「ウィヒェッ!」


 そうやって過去を思い出して悶々としている僕は、耳元まで寄ってきたスイに気が付かなかった。


「アタシに嫌われない為に、アタシに好かれる為に。アタシが何を言ったのか、アタシが何をしてほしいのか。聞いて覚えて思い出して、アタシのお願い叶えてみせて?」


 スイは笑っていた。柔和に笑っていたのに、有無を言わさない迫力があった。


「は、はい……」


 その迫力に圧倒された僕は肯定の返事しか返せなかった。


「アタシが手伝ってあげるから、頑張ろ!」


 それから僕は一人にされた。

 なんでも「アタシが察してほしい事をするのにアタシが居たら意味ないでしょ?」という事だ。見えないところでさらっとこなすのが良いのだと。


 僕は一人でスイの事だけを考えてみた。

 スイがして欲しい事はなんなのか。

 ──外に放置とかどういうつもり!?

 ──鍵とかポストに入れとくもんじゃない?


「あ、あのあの、スイ、ちゃん……」

「ん? どしたの?」

「か、か、鍵を、あ、合鍵をポストに入れとくから……明日は……あの、その、入れる……よ……?」


 またそうじゃないんだと怒られるかも。

 気が利かないなと呆れられるかもしれない。

 そう考えたら汗が止まらない。

 奥歯がかち鳴り、体が強張る。

 心臓が早く打たれ、体温の高まりが自身でわかる。


 これで大丈夫なのだろうか。


「…………」


 スイは黙っている。


「あの、あ、あの……」

「……プッ、プはははっ!」


「な、ど、どうして笑ってるの?」

「だってさ、あんまりにもガチガチになって

てさ、おっかし〜! あははははっ」


「え、えぇ〜」

「はははっ、でもそういう感じそういう感じ」


「って事は……こ、これで良かったって事でいいんだよね」

「もう、全部言わなきゃわかんない?」


「う、うん……」

「いいよ、それでいいから」


「や、やった! やったあ! 僕こういうの全然褒められた事ないのに! 褒められた! やったああ!」


 僕の張り詰めた糸が緩み、堰を切ったように笑いが溢れてくる。こんなに嬉しいのは生まれて初めてだ。さっきとは別の理由で鼓動が早く、顔が熱い。


「もう、喜びすぎ〜。直すとこがないわけじゃないんだからね〜?」

「え、直すところあるの?」


 けれどスイの言葉に上がった熱が一気に冷める。僕の何が悪かったのだろう。もしかして今度も失望されるのか。


「ちょ、だからってサゲすぎ! 目の前に居るんだから合鍵渡せばいいのにってだけだから!」

「あ、そっか! 先に渡しちゃえばポストに入れておく必要はないのか。全然考えつかなかった」


 これは目から鱗だ。確かにその都度ポストに入れておかなくても先に鍵を渡してしまえば手間が省ける。


「ほんとに気づいてなかったの? もう、本当に剛って……」

「ぼ、僕って……?」

「なんでもない」


 スイは呆れてそっぽを向いてしまった。


「す、スイ、ちゃん……」


 まさか今さっき言われたばかりなのに察しの悪さが出てしまったのか、と不安で声が震える。


「……がんばろうね」


 けれどその不安をよそに返ってきた言葉は前向きなものであった。

 スイの顔はあちらを向いたままで表情が読めない。しかし、その上向きの声を聞けば僕といえども肯定されているのがわかる。

 これから変わるのだという決意を胸に僕は答える。


「うん、頑張る」




 次の日から僕はスイの指導の元、行動改善が始まった。


「はあ? アタシそんな事言った!?」

「また言わせるの?」

「剛さぁ、ホントに改善する訳? やる気が全然感じられないんだけど」


 スイの指導は厳しくあまりに言葉がキツい。

 その度に心が折れそうになる。だけどそれを見たスイが


「ごめん、言いすぎたね」

「剛ならできるよ、諦めないで」

「やる気が無い訳ないよね、ほら次頑張ろ!」


 と、頭まで撫でて慰めてくれる。

 怒っている時と褒めてくれる時の温度差で、そもそも人とのコミュニケーションに慣れていない僕は気が狂いそうになる。


 その上察しが悪い僕はスイのキレるタイミングがわからない。急に爆発してるんじゃ無いかとすら思える。


 それについてスイに一度聞いてみた事があるが、「ちゃんと予兆があるからそれを見逃さない」で、とのこと。


 やっぱり僕はまだまだだ。


 三日ほどやってさっぱり成果が見えない。

 でも諦めたくないな。頑張りたい。

 うまくいくと褒めてくれるのは気持ちがいい。


 もっと欲しい。


 それが欲しくてもっと頑張りたくなる。

 今日も帰ったらスイと頑張ろう。




「……アレ大丈夫なんすか?」

「んー、なんか前にも増してボーッとしてる気がするな」


「っすよね〜」

「なんだろ、もし前言ってたみたいに体調不良じゃないとすれば……ほんとに気になる女でもできたのかな」


「えぇ〜恋煩いっすか〜? あの人がぁ〜? あの歳でぇ〜? 前のアレ冗談っすよ?」

「いやいや恋に年齢はないぜ? いくつになったって好きになるときゃ好きになるだろ」


「30超えて女子大生との合コン開いてる人が言うと説得力あるわ」

「ははは、褒めんなって」


「褒めてねぇっすよ……まあ俺には関係ねえや」

「そんな事言うもんじゃねぇぜ? やっぱり同僚の様子がおかしい時は声かけてやろうな」


「そんな事言って人の色恋にちょっかいかけたいだけでしょ」

「あ、バレた?」


「そらバレますよ。それなりに付き合い長いっすからね」

「ったくいい後輩を持ったぜ。じゃ、ちょっと行ってくるわ」


「え、行くって?」

「え? ちょっかいかけに」


「マジか」

「マジよ。……東さん?」


「ウホァイ!?」


 急に話しかけられて変な声が出た。


「うおっビックリした! ……こほん、いえ、最近なんか良い事でもありました?」

「な、なんで?」


「なんでって、そりゃあ最近なんか上の方見てはニヤニヤしてる事多いし、仕事にも心半分って感じなんで」


 そうか、そういう風に見えていたのか。流石に勤務態度に出ているならちゃんと改善しなきゃいけないな。


「あ、ああ、そうなんだね。ごめん、ちゃんと集中するよ」

「いや、主任じゃねぇんだから、そういう事言いたいんじゃないんっすよ」


「じゃあ何を……?」

「何かあったんなら話聞きますよ? って事っすよ」

「ななな、なん、なんでもないよ! 全然大丈夫」


 今女子高生と暮らしているなんて言える訳がない。

 もしかしなくても通報されてしまう。


「もしかしてなんすけど、東さん……」


 え、何、何を言うの?

 まさか僕とスイの事バレてるの?

 誰かに言った覚えは無いけどバレてるの?

 他の人の察する能力ってそこまですごいの?


「な、ななな、な、なんでしょう……?」

「好きな女でもできました?」

「あ、あ、え?」


 え、これはどうなんだ?

 確かに好きな女、というかスイが好きだ。

 でもこれはどうなんだ?

 バレてるのか?

 バレてないのか?

 でも下手な事言ったら大変だし……。


「い、いや、そういうのじゃ、ない、よ?」

「うーん……そっすか。まあなんかあったら言ってくださいよ」 

「う、うん」


 そう言って向こうへ行った彼だったが本当に気づかれてないのかな。

 本当に気づいているのか確かめたいけど余計な事を言うとボロが出る。これはわかる。


「間違いねぇ、絶対女いるわ」

「いや本人否定してたんじゃないっすか?」


「いいや、俺こういうのに鼻利くもん」

「どっから来る自信だよそれ。合コンしても付き合うまでいかないでしょ」


「それは関係ねぇだろ? ただまああの人が自分からアタックするとは思えないし多分向こうからだよな〜」

「詐欺にでも遭ってんじゃないっすか? 美人局とか結婚詐欺とか」


「え? もしそうだったらどうしよ、もっと踏み込んだ方が良かったかな」

「やめときましょ、流石のあの人でも詐欺ってわかったら察して逃げるでしょ」

「んー、流石にわかるか〜。とりま様子見とくか」




 スイとの特訓が始まってから一週間。

 スイは毎日休まず僕に付き合って指導してくれる。


 毎晩のようにうちに泊まるので帰らなくてもいいのか気になり、一度だけその事について聞いてみたら


「アタシが言い始めたんだもん、剛がちゃんとできるようになるまで責任持つから」

 との事。


 正直かっこいいと思う。


 人にものを教えた上その責任まで持つというのだからしっかりしてるな、と。

 きっと親の教育が良いのだろう。

 晶か、母親か、それとも二人ともか。


「心配ないよ、ママ。剛はいい人だもん」

『そこはあまり心配してないんだけどねぇ。スイちゃんが何日も帰ってきてないのがねぇ』


「も〜、ママったら、アタシだってもう高校生だよ? それにちゃんと毎日電話してるじゃん」

『ん〜、そうね。これからもちゃんと電話するのよ? 約束』


「うん、約束」

『それとあなたがちゃんとできる子って信じてるからね。しっかりやりなさい』


「わかってる、ママ。それも約束、だよね」

『ええ、大好きよ、スイちゃん』

「うん、アタシも大好き!」


『最後にお義兄にいさんに代わってくれる?』

「わかった。剛、ママが代わってって」


「え、あ、はい、代わりました」


『お義兄さん、スイちゃんがご迷惑をおかけしてますが、どうか追い出さないでやってください。前にも言いましたがそのまま追い出すと野宿してしまいそうな子なので……。それにお義兄さんの為だって張り切っているんです。その気持ちを汲んでやってください』


「は、はい、ぼ、僕も追い出すつもりなんてないですし……そ、それに家事してもらったり、家事教えてもらったりで助かってます」


 実際、スイがうちに来てから生活の文化レベルが上がっている。

 手作りのバランスの取れた食事。

 汚部屋だった家の掃除。


 それに加えてスイが自分の家に帰った後でも大丈夫なようにと諸々の家事を教えてもらっている。


 本当に助かっている。


『そうですか! それなら良かった! それではスイちゃんの事、もう少しの間よろしくお願いします』

「は、はい」


『あとこれは念の為、なんですけど……』

「は、はい、な、なんでしょう……?」


『大切な一人娘ですから……貴方の事信じてますからね?』

「はい……」


『もし何かあったら……一生許しませんよ?』

「……はい」


 ……これはスイに訓練された今の僕にははっきりとわかる。

 キズモノにするな、と。そういう事だ。


『それでは、おやすみなさい』


 そう言って通話が切れた。


「あ、終わった?」

「う、うん」


「ママはなんて?」

「ス、スイの事よろしくって……」

「ふーん……」


 そう言って黙ってしまったスイだけど、視線はずっとこちらに向けたままで何かを言いたそうだった。


「…………」

「……あ、あの、何か?」


「お、アタシが言いたい事あるって察せたじゃん」

「え、ああ、あははは、ありがとう」


 スイは怒る時も急だし褒める時も急だから、こうやって急にこられると対応できない。それに僕がダメダメな事もあって怒られる事の方が多くて余計に反応に困る。


「って、そ、そうじゃなくて……」

「あ〜、ごめん。今のはごまかし。アタシずっと気になってるんだけどさ」

「は、はい」


 なんだろう、何を言われるのかな。

 ずっと黙ってたけど本当は怒られる事とか言われるのかな。


「アタシの事襲いたいな〜とか思わないワケ?」


 …………えっ?


「え、ええ!? そ、そそ、そそんな事考えた事も」


 あります。口には出さないけど可愛いなとか、髪綺麗だなとか、胸大きいなとかずっと思ってます。


 僕に背中を向けている時とか眠っている時なんかは自分を抑えるので精一杯でした。今だって足を投げ出して無防備にソファに座ってるのを見てどうにかなってしまいそうです。


 でもまさかこれを指摘されるなんて思わなかった。

 いつまでも言ってこないしバレてないものと思っていたが……。

 だけど、察する事に関してスイは僕の師匠。

 全部読まれていたという事か。


「はい嘘、アタシには隠し切れないんだから正直に言いな〜?」

「う、うぅ……」


 こ、これは腹を括るしかない、か。


「……は、はい。ずっと思ってました。正直、い、今も手を出さないようにするので必死です」


 言ってしまった。あぁ、ダメだこれめちゃくちゃ恥ずかしい。


「なんで手出さないの?」

「な、なななんでって、それは、スイが未成年だし……」

「ふーん……じゃあアタシがこ〜んな事しても?」


 そう言うや否や僕の方へと四つ這いになって近づくスイ。


 僕の腿に手が乗る。


 顔と顔が近づく。


 生温かな吐息がかかり鼓動がどんどん早くなる。


 近寄るスイに手を伸ばし、そして……


「……っは、だ、ダメ、絶対にダメ!」


 すんでの所でスイを引き離す事に成功する。


「剛……」

「だ、ダメだよ、スイ。僕はこういう事をしちゃいけない人間なんだ」


「ちょっと! 流石に全否定は傷つくんですけど?」

「ご、ごめん。でもダメなんだ。僕は……やっちゃいけないんだよ」


「まあいいけどさ〜。アタシに魅力がなかったって事だもんね」

「い、いや、そういう事じゃなくて、スイじゃなくて僕が悪いんだよ……」


「あっそ」

「うぅ……ごめん」


「…………」


「………………」


「………………はあ、あのさぁ、自分で絶対ダメなんて言うならさ、その理由くらい説明しようってならないワケ? 普通はなるでしょ?」


「うぅ……」


 確かにそう考えるに至った理由、というより出来事があった。

 でもそれは僕が一番隠したい事。

 いくらスイでも話したくは……。


「そ、わかった。アタシって剛にとってその程度だったって事。わかりました」


 呆れたようにため息をつき、僕から離れてふて寝をするスイ。


 怒らせてしまった。


 いつものならすぐにやり直したりして改善すれば許してくれるのだけど……。

 でもこれは、これだけは話したくない。

 それに話したらもっと嫌われる気がする。

 話すべきか、話さないべきか。


 ……。


 …………。


 ……………………。


 …………………………………………。


「わ、わかったよ。話すから……怒らないで」

「……それでいいのよ」


 そうして散々迷った挙句に話すことにしたのは僕の高校の時の事だった。


「昔ね、僕がスイくらいの頃、同じクラスの子に好きな女の子が居たんだ。好きな女の子ができるなんて初めての事だったんだよね」


 30年経った今、思い出せるのは朧げな日々。


「僕の隣の席だったんだけど、その子は明るくて可愛くて僕みたいなのにも優しくて、きっと誰からも好かれてたし、もちろん僕も好きだった」


 そして霞がかかったような記憶の中で、一つだけはっきりと思い出せる嫌な出来事。


「僕ね、相手の気持ちとか全然わからないから、その子にどう思われてるかなんて考えずに告白しちゃってさ……結構キツイ言葉で断られたんだよね」

「ふーん、それで自分は、『絶対に女の子に手を出しちゃダメ』って考えるようになったの?」


「それもあるんだけど、ね。その後が問題で……やっぱり言わなくちゃダメ、だよね?」

「ダメ。ちゃんと言って」


 さっきの告白の話は確かに思い出したくない記憶ではあるし話すのも恥ずかしかったが、次に話すのは考えるだけでも死にたくなってくる事。それでもスイは話さなきゃ僕を許さない。


「……うーん……うーん」

「剛」


 真っ直ぐに見つめる瞳が恐ろしい。全部を見透かされて責められている気持ちになる。


 言えば楽になれるのだろうか。

 一時の恥で済むのだろうか。

 話すって言ったのに話さない方がスイは怒るだろうか。


 このまま黙ってやり過ごし、いっその事スイに呆れられて帰ってもらった方がいいだろうか。


 考えては止め、決心しては口ごもり、何度も何度も思考を巡らせて、やっぱり話さないと決めた時、スイが言葉を発する。


「剛はそうやって、ずっと一人で、死ぬまで悩んだまま生きていくの?」


 そう言われて僕は死ぬ間際を想像した。


 暗い部屋の中で、「こんなことしなければよかった、なんであの時止めておかなかったのか」などと考えながら死んでいく。


 こんなの今考えるだけでも辛い。


 それがスイに話す事によって変わるのだろうか。


「わ、わかったよ。頑張って話すから……」

「うん。黙って聞くから、ちゃんと最後まで話して」


 穏やかに、諭されるように言われて気持ちは固まった。


 落ち着こうと浅く吸って吐いてを一回。

 鼓動は早い。


 一度目を閉じ、深呼吸でもう一回。

 まだ心臓は早く動くが、今ならなんとか話せそうだ。


「……僕ね、あの後……告白の後、自分の気持ちをどうすればいいかわからなくなったんだ。その子からキモイとか言われたのにそれでもまだ好きだった」


『──は? 何勘違いしてんの? キモイんだけど。好きなワケないじゃんアンタなんか。は? アンタが言いふらして誰が聞くの? アタシが言うのとアンタが言うの、どっちが信じてもらえると思ってるワケ? バカじゃないの?』


「でもどうすればいいかわからなかった。何をすればこの気持ちに整理がつくのか、僕が努力次第ではチャンスがあったのか。本当に何もわからなくてぐちゃぐちゃしてたんだ」


 夜はろくに眠れない。

 ご飯も喉を通らない。

 授業中も上の空。

 隣の席に居るその女の子はいつも通りに振る舞っているが僕には一切喋りかけない。


「そのすぐ後くらいに校外学習があって、班が同じになったんだ。正直気持ちは複雑だった。好きな子と一緒に居られる嬉しさと告白の時の事を思い出して嫌な気持ちとでよくわからなかった。だけどその時に二人になるタイミングがあって……それで……」


「それで?」

「僕……ぼ、僕……その子、を、……襲ったんだ」


 無防備な背中。


 揺れる長い髪。


 人目は無い。


 あの子の気持ちを確かめる最後の機会、とそう考えた。


「…………」

「そ、それで……それで……その時あの子が泣いてたんだ。僕を叩いたり引っ掻いたりして抵抗して……さすがの僕にもわかったよ。僕の事が本気で嫌いなんだって」


『ほんっとキモイ! 嫌っ、やめて触らないでっ! ほんと無理! 無理だから! アンタ何やってるかわかってんの!? キモイキモイキモイ無理無理無理っ!』


「それでようやく頭が冷えてね、自分のしでかした事がわかって……そこから逃げたんだ」


 ここまで話し、少しだけ気持ちが楽になっている自分に気がついた。

 心は変わらず痛んでいるがそれでも今までより軽くなっている。


「でも結局、その後呼び出されて怒られて、警察だけは勘弁してもらったけど……その子の家に行って謝って……なんとかその場は収まったけどクラス中に噂になって、その子だけじゃなくてクラスのみんなから嫌われるようになったんだ」


「それが剛が手を出さない理由……」

「うん。今でも若い女の子を見るとあの時の事がフラッシュバックして辛くなる」


「アタシは大丈夫なの?」

「最初はドタバタしてたし、その後も僕に特訓してくれたりでそういう事を考える余裕がなかったから……」


 それでも特訓の休憩中やスイが眠っている時は欲情するしそれを抑えるので大変だった。


「……剛」


 一通り聞き終えてしばらく考え込んだスイは、険しい表情で口を開く。


「は、はい」

「今の話だけど……全部剛が悪い」


「うぅ……」

「普通初めて会う人相手でも建前で愛想よくするでしょ? それを勘違いして告白してさぁ、今ならコクハラだよ? しかも振られたからってレイプしようとするなんて、それストーカーとか犯罪者じゃん」


「う、うぅ……」

「はっきり言ってサイテー。マジ無いわ」


 あの時と同じように責められ怒られる。


 辛い。


 自業自得だし、スイの言い分が全て正しいので余計に刺さる。

 はっきり言って喋った事を後悔している。


「でも……」

「うぅ……でも?」

「でもちょっとは同情もできる、かな」


 同情?


「剛さ、友達居ないでしょ?」

「え、なんでそれを?」

「そんなのさっきの聞いてりゃ誰だってわかるよ」

「あ、あぁ……」


 話していない事を言い当てるのだからやっぱりスイはすごい。


「だから誰にも相談できなかったんだろうし、人の気持ちとかを考えたり教えてもらったりする経験がなかったっていうのがわかる」

「お、おっしゃる通り、です」


 ただここまでわかるとエスパーか何かを疑ってしまう。

 いや、僕ができないだけで他の人はみんなこういう事ができたりするのか?


「だからアタシは考えました」

「え、な、何を?」


「剛って次の休みいつ?」

「あ、明後日の日曜日、だけど……」


「おっけ、じゃあその日一日空けといて」

「な、なんで……?」


「決まってるでしょ? デートすんの」

「で、でで、でデデ、デート!? 誰が!?」


「アタシと剛」

「なんなな、なんで!?」


「まあまず、アタシが教えた事がちゃんとできるかのテストが一番の理由」

「テスト……」


「そ、アタシが教えた事を使って、デート中のアタシの気持ちを察して」


 な、なるほど。授業の後のテストは確かに必要か。


「い、一番の、って事は他にも理由があるの?」

「うん。流石に、さっきの話聞いて剛の事がちょっと可哀想になってさ、アタシが相手して女の子への免疫付けてあげようって思ったの」


 その気持ちはすごく嬉しいし、ありがたいとも思う。

 それに女子高生とのデートなんて得難い経験だろう。


 しかし……


「で、でも本当にいいの? 僕、スイが言ったみたいにストーカーで犯罪者みたいな奴だけど……嫌いにならないの?」

「嫌いだったらデートなんて誘わないって」


「え、てことは……僕の事好き、って事?」


 スイはキョトンとした後、少し考えてから答えた。


「……うーん、嫌いじゃない、かな」




 スイとのデートが決まった次の日。

 つまりはデート前日。

 昼休みに僕は人生初のデートに向けて色々と調べ物をしていた。


「デートコース……は、スイが決めてくれるらしい……服装……どんなのが良いかな……」


「……なあ、東さんめっちゃ喋ってね?」

「まあ喋ってるっちゃ喋ってますけど、独り言じゃないっすか。どうせアレでしょ、壺の効能とか調べてんでしょ?」


「それはどうかわかんないだろ。うし、ちょっと確かめてくるわ」

「行動が早ぇよ。……もう放っておきましょうよ。ブツブツ言っててアレちょっと不気味じゃないっすか」


「そういう事言うなって。それに今日はなんかいけそうな気がするんだよね。普通に会話成立しそう」

「相変わらずどっから来るんすか、その自信」


「ふふん、まあ見てなって。……東さん、何見てんすか? ……って、お、意外。東さんもデートの攻略なんて見るんすねぇ! 女っ気なんかちょっとも見せないのに隅に置けないな〜。彼女っすよね? 写真とか無いんすか? あ、そうだ、俺ちょくちょく合コン開いてるんで今度来ません? 絶っ対後悔させないんで。良かったら彼女も一緒にどうです? ちなみに彼女いくつです? 名前は?」


「え、あ、あの、その……」


 突然話しかけられて困惑してしまう。

 よく喋る人だな、とは思っていたし、こんな僕にも話しかけてくれる人だとわかってはいたけど、こうもグイグイ来られるとどうしようもできなくなる。


 というかなんで毎回飲み会とか合コンとか誘ってくるんだ。

 僕じゃなくてもいいだろうに。


 そうやってしどろもどろになって対峙しているとさらにもう一人、僕の席にやってきた。


「おい、東。お前さぁ、ろくに仕事もしねぇのに女遊びとは良い身分だな?」

「う、しゅ、主任……」

「お、主任じゃないっすか! 主任も東さんの恋路に興味がおありで?」


「そんな訳ないだろ。おっさんの恋に誰が興味持つんだ?」

「興味ないって言うなら別に口出さなくていいんじゃないっすかね。プライベートな事だし」


「お前が聞くから答えただけだし、そもそも俺が口出しに来たのはお前だ、お前」

「え、俺ぇ?」


「昼休みにペチャクチャペチャクチャ喧しく喋りやがって。昼寝の邪魔なんだよ」

「それはすんません、配慮不足でした」


「ったく、それに東もな、昼休みこそ資格勉強とかして努力しないと周りにどんどん追い抜かれんだぞ? わかってんの?」

「いや、主任だって昼寝してんじゃないっすか」

「俺はいいんだよ」


 ……二人とも言い争いをするのは別の場所にしてほしい。

 声が大きくて鼓膜が痛いし、ちょくちょく挟まれる主任の罵倒が耳に痛い。

 全部聞こえてるものだから聞き流す事も難しい。なんとか何も考えないようにしてこの場をやりすごそうとする、


「コイツ好きになる女なんかいないだろ。それこそ詐欺師くらいしか寄ってこないじゃないの?」

「いやそれを確かめる為に一緒に合コン呼んでね?」


 けれど、途中で言い放った聞き捨てならない言葉には声を上げざるをえなかった。


「違う!」

「うお、ビックリした〜」

「違う! スイはそんな子じゃない! 」


 自分でも驚くほどの、今までに出した事のないような大きな声。

 自分で自分に戸惑っているが、勢いのままに声を張り上げる。


「スイは良い子だ! 僕相手でも真剣に接してくれる優しい子だ! 人を騙したりできるような子じゃない! 絶対に!」


 僕が叫び終わった後、静寂と共に周囲からの奇異の視線が浴びせられる。

 荒い息を落ち着かせ、頭が冷えてくると自分のやった事を理解してくる。

 普段の僕はこんなのじゃない。変な奴だと思われた。

 どうしよう、仕事やめなきゃいけないかな……。


「……って事みたいっすよ、主任」

「……ちっ、ああそう。まあどうでもいいけど。それよりさっきみたいなデカイ声出せるなら普段の仕事も同じくらい気合い入れてやってくれ」

「え、あっ、はい」


 そう言って主任が席に戻ると同時に昼休みが終わるチャイムが鳴る。

 事務所の各人が自席や現場へ向かう中、さっきまで主任と話していた彼が最後に声をかけてきた。


「女の事でもし困った事があったら相談乗りますんで」


 それだけ言って戻って行った。

 本当になんだったんだろう。

 冷やかしだったのかな。

 主任や彼の言葉に引っかかるものを感じつつも勤務は終わり、家に帰るとスイが待っていた。


「おかえり、剛」


 まさかこんな良い子が人を騙したりする訳ないじゃないか。


「……す、スイは、僕の事騙したり、しない、よね……?」

「何、急に? そんな事アタシがすると思う?」


「う、ううん、思わない」

「そんな事よりほら、早くお風呂入ってさ、ご飯しよ? それで明日のデートについて話そうよ」

「うん……」




 迎えたデート当日。

 基本はスイのプランに沿ってデートをする事になっており、それは待ち合わせからきっちりと決まっていた。


 駅前で10時に集合。


 各々で集合場所に向かう事になっている。

 なんでもスイが前日のうちに家に戻ってから今日の準備をしたり、デート用の服を着てきたりするとの事。


 僕は「家の前で待つから一緒に行けばいいんじゃ?」と言うが、それでは情緒がないのと「普段と違う特別なアタシなんだから、直前まで隠しておきたいの!」だそう。


 特にそれを拒む理由もないし僕はその通りにした。したのだが……。


「ちょっと早かったかな」


 現在9時30分。

 僕がここに着いてからおよそ30分経っている。


 乾いた晴れの空の下、秋も終わりに近づいたこの時期に、風も凌がずに立って待つのは堪えるものがあったけど、それでもやって来たスイを見逃したくない一心で僕は寒風に吹きさらされていた。


 そうして待つ事さらに10分、今日だけで何度も目にした、コンコースから出てくる人の群れの中に、待ち侘びた顔が覗いていた。


「あ、剛!」

「ス、スイ!」


 出口を少し過ぎ、まばらになった人の間を縫ってスイが走ってくる。

 秋らしい色合いの服を纏ってこちらへ向かうスイに僕は目が離せなかった。


 一歩、また一歩と駆ける度に上下する胸。


 白い太ももを覗かせる短めのスカート。


 そして揺れる下ろした長い髪。


 僕はスイに釘付けだった。


「何、早いじゃ〜ん。何時くらいに着いたの?」

「く、9時、だよ」


「いやさすがに1時間前は早過ぎじゃない?」

「い、いや、それは……」

「そんなに今日のデートが待てなかったの?」


 そう言って上目遣いに僕を見上げるスイに蠱惑的な魅力を感じて後退りする。

 一発目からこんなに刺激が強くて僕は今日一日耐えられるのか?


「ちょっと、引かないでよ〜」

「ご、ごめん」

「もう〜、まあデートを楽しみにしてくれてたのはわかったからいいけどさ、でも目的を見失っちゃダメだよ?」


 今日の目的、それは当然覚えている。さっきの衝撃で忘れかけたけど、それでもしっかり思い出した。


「テスト、だよね……?」

「そう、テスト! 一週間の成果、ちゃんと見せてよ?」


「う、うん、頑張るよ」

「あ、それと、もうテストは始まってるんだからね?」


 そう言われてから改めて考える。

 テストで見るのは僕がスイをどれだけ察せられるか。


 スイが何も言わなくても、スイのしてほしい事をしたり、かけてほしい言葉をかけたりする。

 僕とデートまでして僕の指導をしてくれるスイに、今日の僕は一味違うというのを見せたい。

 その為にはどんな些細な事でも見逃さないつもりだ。

 そうやって気合いと覚悟を充填していると、スイがじっとこちらを見つめているのに気がついた。

 そしてひとつため息をついた後で口を開く。


「剛の今日の服さ、いつも家で着てる服とは違うよね。もしかして買ったの?」

「あ、わ、わかる!? そうなんだ! ネットでね、男物の服でどういうのがいいか調べてさ、買ったんだ! すごいな〜、やっぱりスイは言わなくてもわかるんだ!」


 僕もこういう風にできたらいいな。いや今日でできるようにするんだ。


 興奮して鼻を膨らませている僕とは対称的にスイはこめかみを押さえて苦い顔をしているようだ。


「はぁ〜……剛、今アタシ何について話した?」

「今って、そりゃ服について……あっ」


 そう言われてようやく気づいた。


「ふ、服だね、服! 今日のスイの服すっごく可愛いよ! とっても似合ってる。それに秋らしくて今の時期にぴったり!」

「さんざん誘導してあげてコレか〜……」


 先が思いやられるわ、とごちるスイに申し訳なさでいたたまれなくなる。


「うぅ……ごめん」

「もう! デートなんだからコーデに気合い入れてるに決まってるでしょ? どれが良いかなって悩みながらあーでもないこーでもないでやっと選んだ服なのにさ、全然触れてもらえなかったら悲しくなるでしょうが!」


「う、うぅ……本当にごめん。ただ、これだけは言わせてほしいんだけど、今日のスイを見た時ビックリするくらい可愛くて言葉が出なかったんだ。そりゃ普段のスイだって可愛くて、何着てたって可愛くて似合ってるんだけど、今日はもっと可愛い」


 一息に言い切って少し息が乱れたけど、それでも自分が思ってる事を包み隠さず伝えられたと思う。


 これを聞いたスイは面食らったように目を開いているがこの感情はどういう感情なんだろう?


「ま、まあ、い、今のでチャラにしてあげる」


 普段ハキハキとものを言うスイが今は言葉に詰まりながら喋っている。……ちょっと僕っぽい。

 そして顔は赤く、そっぽを向いて目を合わせない。


 もしかして照れているのか?

 僕に可愛いとか似合ってるとか言われて照れているのか……?


「も、もしかして今僕が褒めたので、う、嬉しくなった……?」

「……ふんっ」


「ね、ねえ! ど、どうだったの!?」

「あーもう! それくらいわかれ! そーですー、嬉しかったですー!」


 照れているとわかれば、スイのこの反応が照れ隠しである事がわかる。


「や、やった!」

「もう、こんなところで立ち止まってないで早く行くよ!」


 スイはそう言って手を差し出してくる。


「え、こ、この手は?」

「わかんない? デートなんだから手握るでしょ、普通!」

「あ、あ、そ、そう、だよね……」


 僕は差し出された手と自分の手を見て、自分なんかが手を繋いでいいのだろうかと考える。

 女の子と手を繋いだ事なんて無いし、過去の苦い思い出がフラッシュバックして躊躇する。


 この手を握って嫌がられたり泣かれたりしたらどうしよう、と萎縮する。

 しかし、そんな不安は杞憂とばかりに、スイは強引に手を握って歩き出した。


「もう、こんな序盤でつまづかないでよ! この後の予定もあるんだから早く行くよ!」

「う、うん!」


 お互いに、冷えた手の体温を温め合うようにしっかりと握り街中へと繰り出した。

 緊張と興奮と、慣れない運動によるドキドキを抱えた僕とスイのデートが始まった。




 始まったのはいいけど、僕はデートを少々ナメていたようで、想像よりもずっとしんどいものだった。


 そもそも僕は普段、仕事をして家に帰るだけの生活をしており、それ以外の時間はずっと部屋に居てたまに買ってきた映画を観たりするだけ。


 現調で外に出たりもするし工事もしたりするが、移動は車、作業は下請けで、事務仕事が基本だ。


 つまるところ、10代相手の野外デートに体力が追いつかない。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」

「ちょっとどんだけ疲れてんのよ。まだお昼じゃん」


「い、いや、あの、はあ、スイがどんどん進むから追いかけるのに精一杯で……おえ……はあ……」

「それでもそんなに疲れんの? ショッピングしてただけだよ?」


 スイは軽く言ってるが一時間以上立ちっぱなしの歩きっぱなしは慣れていないとかなり堪える。


 その上入る店のほとんどが名前すら初めて聞くような、服やアクセサリーのブランド店。

 そういう店独特の空気感に気圧されて余計に疲れが溜まるのもあってひどく疲弊していた。


 それをスイに伝えると、キョトンとしながら「そういうもん?」と言ってストローからアイスカフェラテ氷なし砂糖なしのトールを吸い上げた。


 それに今居る喫茶店もそう。

 若い子の受けが良さそうな写真映えするドリンクに、店内のシックな雰囲気。

 腰を下ろしてゆっくりと休憩したい気持ちはあるのに、自分がここに居る事の場違い感が居心地の悪さを感じさせる。


 それに加えてのテスト。


 流石の僕でもあからさまに不機嫌そうな顔をされると間違ったんだなと理解して、その度に正解を求めて四苦八苦する。

 それでもなんとか絞り出した答えが合っているとやっぱり嬉しくなるし、スイも喜んでくれる。

 だから期待に応えたいのだが、年と不摂生には勝てない。

 これ以上は体が持たない、仕方がないから今日は終わりにしたい。と、そう伝えようとした瞬間、スイは驚きの提案をしてきた。


「そんなに言うならさ、今度は剛がどこ行くか決める?」

「え?」


 今日はスイがコースを全て決めて、それを回る予定だった。

 僕はそれに異論はないし、スイだってそのつもりで途中の変更なんてしないものだと思っていたら、まさかの提案だ。


 これでもう少しゆっくりとできると思った反面、自分にスイが喜ぶデートコースなんて思いつくのか、という不安もある。

 けれど、今の調子で続けて体を壊すか、もう切り上げて初デートが終わるか、という選択肢に僕でもデートが続けられそうな選択肢が増えたのだから悩む理由はなかった。


「ス、スイが楽しめるかはわからないけど……僕にこの後のデートを任せてほしい」

「わかった。でも本当に大丈夫〜?」


「だ、大丈夫って、スイをちゃんと楽しませられるかって事?」

「まあそれもあるけど……当然テストは続けるからね? さっきまではアタシが問題作ってそれを答えるだけだったけど、今度は自分で問題作って自分で答えるんだから、単純に労力2倍だよ?」


 それが大丈夫? って言ってんの。と。


 それは全然考えてなかったが、自分のペースで歩けない疲労とそれに伴う途中退席のリスクと、自分のテストの負担の増加を天秤にかければ、やっぱり自分でコースを作る方に秤が傾いた。


「や、やる。頑張ってスイを楽しませるから……」

「おっけ、任せた。じゃあこの後どうする?」

「と、とりあえずこの店出て他の店で休憩しない?」




「……で、選んだのがこの店ね〜」


 そうして入ったのはハンバーガーチェーン店。


「ダメ、だった……?」

「ダメじゃないけど雰囲気なーい!」


 そうは言っても僕にとってはこれが落ち着く入り慣れた店だ。現場での昼休みなんかにお世話になっている。


 これで一旦充電させてもらってこの後頑張ろう。

 そう奮起したものの……


「やっぱり雰囲気なーい!」

「このおしゃればかりの街でよく見つけてきたねこういうお店!?」

「せっかく海の方に来たんだったら何もないこっちよりも、あっちの赤レンガ倉庫の方が会話のタネに困らないと思わない!? 察しろとは言ったけど会話も大事だよ!? デートだよデート!」


 おおむねダメだった。


「うぅぅ……」

「あーもう、そんなにしょげない! アタシもちょっとは悪かったし」

「え?」


 スイも悪かったとは?


「ほら、アタシも午前中は剛の事振り回したし、午後だってアタシを楽しまそうとはしてくれてたんだもん。初めてだったのに言い過ぎたって思ってる」

「よ、よかった……それだけで僕救われる気がするよ……」


「そんなことで満足しない! って言ってももう夕方だしあんまり遊ぶ時間もない」


 確かに秋分も過ぎたこの時期は暗くなるのも早い。もう、終わりかな。


「で、最後なんだけど……剛はさっきまでアタシだけが楽しめるように色々してくれてたワケじゃん? だから最後は剛がしたい事をしてよ」

「したい事……?」


「そ、なんか好きな事とかないの?」


 そう言われても僕にこれといった趣味なんて……。


 ……あ、あった。


「え、映画は好き、だよ」

「お、いいじゃん映画。最後に映画観て、なんか食べてから帰ろ?」




 僕たちは駅近の映画館に来て、どの映画を観ようかとポスターを眺めていた。


「剛はどんな映画が好きなの?」

「あ、えーと、恋愛もの、かな」


「えー意外。男の人ってそういうの観ないと思ってた!」

「そ、そうだよね……ス、スイは? 映画は観る?」


「そうだな〜、いっぱいは観ないけど、でもたまにテレビでやってるのは観るかな」

「そ、そうなんだ! スイはどんなのが好き?」


「うーん、剛と被っちゃうけどアタシも恋愛映画は好きかな」

「え、ど、どの映画が好き、とかある?」


「めっちゃ食いつくじゃん。……特にこれってのはないけど……最近観たので言うならウエストサイドストーリーだよ」

「あ、ああ、そ、そうなんだ……僕も好きだよそれ。家にディスクあるから今度観る?」


「いいじゃんいいじゃん! あ、でも今日はこっちだからね」

「うん。観るのこれにする?」

「お、やっぱり恋愛もの。いいよこれにしよ」


 そう言って選んだのは王道の恋愛もの。


 高校生の男女が部活を通じて様々な障害を乗り越えながら仲良くなり、部活の大会の優勝をきっかけに付き合うというもの。結局学校の卒業でそれぞれの道を歩むも、また部活を通じて偶然出会う。


 そう言った話だった。


「勢いで決めた割に良かったよね〜」

「う、うん。やっぱりこういう映画が僕は好きだな。こう、胸がチクチクする感じで」


「そっか……ってそれなんか違くない? 普通キュンキュンとかじゃないの?」

「あ〜、そっか。そうだよね、キュンキュンだよね」


「もう、変な剛〜……あ、そうだ、剛はさ、さっきの映画で好きなシーンとかセリフとかある?」

「え、あ、そう、だなぁ……ヒロインのマリアちゃんが合宿の夜に主人公のマモル君と布団の中で話してるのが好きかな。他の誰かにバレないように二人で秘密を共有してる感じがなんか良いよね」


 するとスイは、そっかと言って咳払いをし、僕の腕を掴んで顔を寄せる。


 そして……


「マモル、私頑張るから……優勝してみせるから……だから夏の大会で優勝したら私と……付き合ってください」


 と耳元で囁いた。


「え、ああ、あ、え、ええ、えええ!?」


 強く腕を掴まれた僕は逃げる事もできず、こそばゆい息が当たる距離感とそのセリフにドギマギする。


「どう〜? 結構似てたっしょ?」

「う、うん……マリアちゃんがここに居るの

かと思っちゃった……」


「ふふーん、伊達に演劇部やってないからね〜」

「そ、そうだったんだ……」


「あれ、言ってなかったっけ?」

「う、うん、初耳……」

「そうだっけ? まあいいや、ご飯行こ、ご飯。もうお腹ぺこぺこ〜」




「……好きだけどさ〜、やっぱりデートって感じじゃなくない?」

「そういうもの、かなぁ……」


 やってきたのはイタリアンのチェーン店。

 スイはパスタを巻き、僕はハンバーグを切っている。

 安いしチェーン店ゆえに味も安定している。

 しかもイタリアンってなんだかオシャレ。

 そう思って入ったけど、違ったみたいだ。


「そういうもの! ……まあお金出してもらって言う事じゃないけどさ」


 スイに言わせればデートの食事でこういう所に来られると、女の子相手にあんまりお金出したくないのかな、と思われるらしい。


「お金は別にいいよ……僕趣味とか全然無いから、お給料は安くても溜まる一方だったし……それよりも今日は良かったの? ショッピングの時に何も買わなかったけど」

「そこはいいの。ウィンドウショッピングでも楽しかったし。それにご飯とか交通費は出してもらってたしね」


「それならご飯の時くらい遠慮しないでたくさん食べてよ」

「アタシそんなに大食いの印象ある?」

「そういう感じはないかな」


 それにたくさん食べてと言っても、今テーブルに置かれてるのは二人で分けるサラダにピザ、そしてスイにパスタと僕にハンバーグ。


 僕は既にお腹が膨れているし、スイのキャパもそのくらいなのだろうか。

 普段は僕と同じか少ないくらいだったっけ。


「それはいいけどさ、剛はお酒は飲まないの? 普段から全然飲んでないし」

「あ、ああ、お酒ね、僕あんまり強くないから……それにお酒を飲むと頭がふわふわしてね、昔の事もあってさ、何しでかすかわからなくて怖いんだ」


 好きなんだけどね、と付け足す。


「そうなんだ。大人って毎晩お酒飲むもんだと思ってた」

「それは……少なくとも僕ではないかな」


「そっか。好きなんだったら今日くらいいいんじゃない? 一応パパとママの介抱はした事あるからちょっとくらいなら大丈夫だよ?」

「うーん……そうだなぁ、せっかく今日は電車なんだし……じゃあちょっとだけ」


 そう言ってワインを飲むと久しぶりなのもあってすぐに酔いが回ってくる。


「あ、あああ、ダメだ、すごいおいしい」

「うわっ、すぐ酔っ払うじゃん。本当にパパのお兄ちゃん?」


「そうだよ……うぅ……これ以上はまずい気がするし帰ろっか……」

「うん。お財布出せる? 無理そ? おっけ、アタシ払っとくから」


「うぅ……ごめんなさい、ごめんなさい……情けなくてごめんなさい……」

「あーもう、へなへな言ってないで早く行くよ」


「うぅ、フラフラするぅ……」

「あーハイハイ、切符買える? カードある? お財布の中? もう〜女子高生におっさんのお尻触らせんな!」


「うぅ……人がいっぱい見える……」

「そうだね、席空いてないけど我慢してね、ってあんまりこっちにもたれかかんな! こっちの手摺ならいいから」

「うぅ……ごめん……ほんとにごめん……」

「もう、こんなとこで泣かない! ただでさえ恥ずかしいんだから!」


「お、おぉ……家が見える……」

「そ、アンタん家」


「あぅ……靴ありがとぉ……鍵もありがとね……」

「ほら布団まで歩いて。はいお水」


「うぅ……何から何までありがとスイ」

 水を一杯飲んでようやく頭がスッキリしてきた気がする。そしてスッキリした頭で帰路での事を思い出す。


「ス、スイ、本当にごめん。すごく迷惑かけたよね……」

「もういいから気にしないの」


「で、でも、僕、ダメでぇ、本当にダメダメでぇ……デートもぉ、前もって勉強してぇ、上手くやりたかったのに……やっぱりダメでぇ……最後だってぇ、お酒なんか飲まない方が良くってぇ、スイ困らせてばっかりでぇ……あぁああ、うぅ、うっ」


 自分の不甲斐なさで涙が止まらない。

 親が死んだ時でも泣いた事なかったのに。

 酒は本来の自分を曝け出すという。

 つまりはこの泣き虫の情けない姿が僕の本性なんだ。

 こんな情けない男がデートなんかしたって上手くできる訳がなかったんだ。


 そう結論づけた端からますます涙が溢れてくる。


「うーん、まあ確かにテストは酷かったし、あのままじゃ不合格間違いなしだね」

「そ、そうだよねぇ……ふっぐ、不合格、だよねぇ……」


「だから!」

「えっ?」


 突然の事で何が起きたのかわからなかった。


 布団の上で正座していたはずの僕はいつの間にか真っ暗な天井を見上げている。


 背中には柔らかい布団の感触。


 そして前には温かな人一人分の重さ。


 両肩を押さえられてスイが馬乗りになっている。


 ……なんで?


「ス、ススススイ!?」

「だからね、ここからはテスト延長」


 静かに囁いたスイの声は今まで聞いたどの声とも違う。


 怒っている時ではない。


 笑っている時ではない。


 今日してくれたヒロインの真似の時とも違う。


 呼気に湿度を含んだ艶っぽい声。


 肩に置かれた手が僕のズボンの方へと下りる。


「だ、だだだめだだめだダメだよ! ダメなん、じゃないの!? こういうのはやっぱりちゃんと好きな人とするのが大事で、それで、えーと、えーと」

「剛はアタシの事嫌い?」

「そんな事ないよ! むしろ好きだよ、大好きだよ」


 エッチな事だってしたい。


「じゃあアタシが剛の事嫌いって思ってるの?」

「え、あぁ、うぅ……それは嫌だけどぉ……」

「もう、本当に嫌いならこんな事しないでしょ、普通」

「で、でもぉ、僕の事好きって言った事無いしぃ……それにぃ……」


 昼のテストもダメだったし、と続けようとするもそれが言葉になる事は無かった。


 僕の口が塞がれた。


 手や指じゃない。


 もっと柔らかい。


 それにスイの手は僕のスボンにある。


 ……キス!?


「ったく、これでわかれ! ……ここまでしたんだから剛でも察せるでしょ……?」

「う、うん……」


 スイ……僕の事好きになってくれたんだ……!


「それに……ここまでたくさんアタシに恥かかせてきたんだから、これ以上かかせないでよ……誘ってくれた女の子抱かないなんてこれ以上の恥は無いくらいなんだから」

「わ、わかった……!」


 そうして僕達は服を脱がせ合い、体を重ねた。


 ───今日、僕はデートとキスとセックスの初めてを一日で経験した。


「おやすみ、剛……」

「おやすみ、スイ……」


 行為が終わると僕はゆっくりと落ちていくように充足した気持ちで眠りにつくのであった。




 ──。


 ────。


 ──────。


 僕はブランコに座っている。

 前にも見た暗闇にあるブランコ。

 夢の中のブランコだ。

 揺れずに静かに佇んでいるブランコの上に僕が居て、前と同じように隣のブランコに若い男がいる。


 二人ともブランコは漕いでいない。


 僕はこの男の姿に覚えがあった。

 良く知ってる人物。


 これは僕だ。

 昔の『僕』だ。


 そう確信すると暗闇が晴れ、この男の姿がよく見えるようになった。


 高校の時の制服を着ている。

 よく見ればこのブランコにも見覚えがある。

 同級生を襲って逃げた後、見知らぬ土地で辿り着いた小さな公園。

 結局みんなとはぐれるのも嫌で戻ったけど、少しの間ここで現実から逃げていた。


「君は僕だ。過去の僕だ。自分の犯した罪から逃げた僕の姿だ」


 きっとこれは罪に向き合えという暗示なのだろう。

 あの時だって怒られた。

 先生からも、両親からも、相手の親からも怒られた。

 でも怒られている中でどこか自分は悪くないと逃げていた。


 だが逃げた結果、何十年もそのことを自分で責めて、苦しみ続けている。

 いつか自分の罪が知られて裁きを受けるのかもしれないと常に不安だった。

 何度首を吊ろうと思ったかわからない。


 けど僕は、スイと出会って自分のダメな部分と直面した。

 スイに罪を告白して、ずっと心のうちにあったのに、見ない振りをしてきた嫌な過去に向き合った。

 そしてスイを抱いて、抱かれた事で……ありのままの僕を肯定してもらった事で、自分を責めなくてもいいと思えてきた。


 こんな僕でも生きていていいんだと思えてきた。

 自分を許していいんだと思えたんだ。


 ──悪いのは誰?


「僕だ。でも前みたいに自棄になってそう言ってるんじゃない。自分を見つめ直して、改めて僕が悪いんだって思ったんだ」


 過去は消えない。

 罪を犯せば、その罪は後の人生に一生付いてくる。

 振り払う事のできない枷として引き摺り歩き続けなければならない。


 この重みは決して無くならないけれど、だけどその向き合い方は変える事ができる。

 重いから、歩くのが遅くなるからと言って歩みを止めてしまえば、どこにも行けなくなる。

 どれだけ辛くても、歩きにくくても、少しずつでもいいから前に進まなければならない。

 ああ、きっとこの夢はこれを僕にわからせる為の暗示だったんだ。

 立ち止まるな、苦しくても歩いていけと、僕に言い聞かせる為の夢だったんだ。


「ありがとう、『僕』。これでやっと前に行けそうだ……」


 何か聞こえる。

 アラームかな、少しうるさいな。

 きっと現実で僕が目を覚まそうとしているんだ。


 僕は明日をすっきりとした気分で迎えるんだ。

 もうこの僕と会う事はない。

 さようなら。


 ──。


 ────。


 ──────。




 ──それはどうかな?




 僕は携帯から鳴る爆音で目を覚ました。

 酒を飲んだからか頭が痛い。

 体を起こして周りを探ると、僕は一つの違和感に気がついた。


 スイが居ない。


「スイ!」


 家中の電気を点けてスイを探すがスイの姿はどこにもない。

 と、一通り見て回ったところで、鳴りっぱなしになっている携帯に意識が向いた。

 聞き慣れないから忘れていた。


 これは目覚ましのアラームではない。

 電話の着信音だ。

 誰かが僕の電話を鳴らしている。


 ふと時計を見ると時刻は午後11時に差しかかるところ。

 こんな時間にいったい誰が?

 携帯の画面には「東 翠」。


 スイから?


 なんだか嫌な予感がする。


 僕が呼ばれる時は、大抵僕に嫌な事が起こる時だ。


 おそるおそる電話に出ると、しばらく音がしなかった。


「うちに来て、剛……」


 やがて声がしたかと思えば、抑揚のないスイの声。


「スイ、スイ! 何があったんだ!? 返事をしてくれ、スイ!」


 けれど答えは返ってくる事なく通話が切れた。

 僕は急いで着替えて家を出る準備をする。


「あれ、鍵かかってない……」


 帰る時閉めてくれたはずの鍵が開いている。

 そもそも合鍵を渡しているから、しっかり者のスイなら出ていく時に鍵はかけていくだろう。


 もう一度だけ部屋を見て回る。


 昨日スイが片付けてくれたままだ。

 一度家に帰るからと持って帰ったんで、スイの荷物は一つも残っていない。

 僕はまるでスイは最初から居なかったみたいな違和感を不気味に思いつつも、鍵をかけてスイの家へと向かった。




 10分ほどで息を切らしてスイの家の前に着くと、中からは光が漏れている。

 まだ日も変わっていないのだから別段不思議な事はない。

 僕だって就寝が遅い時はもっと夜が更けてから電気を消す。

 おかしい事じゃない。


 そうだ、きっと何かサプライズパーティでも開いてくれるんだ、と無理やり開き直ってみるも、漠然とした不安で早い鼓動が治まらない。


 ……一つ、深呼吸をする。


 僕は前を向いて歩けるようになったんだ。

 嫌な事に向き合えるようになったんだ。

 スイのおかげで何も怖い事はないんだ。

 そう言い聞かせると、ようやく心が静まってきた。


「よしっ」


 意を決してインターホンを押すと、スイの暗い雰囲気の母親が応対してくれた。


「……はい」

「あ、あの、僕です、「東 剛」です」

「……鍵開いてます」


 ドアを引き、家の中へと入っていく。


 僕は「大丈夫、大丈夫」と何度も言い聞かせながら暗い廊下を進み、明るい居間へと足を進める。


 ──僕はここに来た事を後悔した。


 中に入るとそこには3人の人が居る。


 まず目についた短髪の女性は顔を知らないけれど、その人がスイの母親である事はわかった。


 そして後の2人はよく知っている2人だった。

 座り込んで泣いているスイと、そのスイを抱いて背中をさすっているあきらだ。


「パパ……ママ……」

「ス、スイ……どうして泣いてるの?」


 僕は可能な限り優しく声をかけるが、返ってきたのは怒りを纏った低い晶の声だ。


「剛……俺言ったよな?」

「待ってくれ、晶。何を? そもそも一体何があったんだ?」

「とぼけるなよ……?」


 僕を睨みつける吊り上がった目。今にも殴りかからんとする、怒気を孕んだ威圧感。

 けれどそれをスイの母親が手で制す。


「待って……剛さん、あなた私たちの翠に何をしたのかわかっていますか?」

「え、何をしたかって……い、家で、あ、預かって、か、家事を、し、して、も、もらったり……それから、そ、それから……」


 ああ、嫌だ。


 この怒られている時の空気が本当に嫌だ。


 二人が僕を責めている。


 目も、言葉も、その雰囲気も、彼らから発せられる全てで察せられる。


 察せてしまう。


「そんな事を聞いてるんじゃないんです。本当はわかってるんでしょう?」

「そ、それは……」

「翠ね、今日出ていく時、すごく楽しそうにしてたんです。あなたと遊ぶんだって」


 楽しみにしてくれていたんだ、スイ……。


「でも暗くなって帰ってきてね、出迎えたら泣いてるんですよ」


 そ、それがわからない。


 あんなに嬉しそうにしてくれたのに。

 あんなに楽しそうだったのに。


 一体どうして?


「なんで泣いてるの、って聞いたら、なんて答えたと思います? あなたに犯されたって言ったんですよ」

「そ、そんな!? だ、だってあれはスイからで」


「スイがお前なんかとヤルってのか!?」

「あなた、言葉が汚いわ。……それに今日のデートの時もいやらしい目で見てきたり、嫌がってるのに何度も何度も体を触ってきたそうですね?」


「し、してない! スイが嫌がるような事は絶対にしてない!」


 今日の記憶に間違いはない。

 絶対にそんな事は、スイが嫌がる事はしていない。


 スイだってそんな事言ってなかったんだ。


「やられた本人が言ってるんですよ? 女の子が力で男に敵うわけないのはわかりますよね? 男女が2人で居て本当の事なんて言えますか?」

「そ、それ、は、……で、でも本当にそんな事はしてないんです!」


 まさか嫌なのに隠していたのか?

 ずっと嫌がっていたのに言い出せないでいたのか?


 僕はそれすら察せられなかった愚か者だという事なのか?


「あなたの事……信じて預けていたのに……」


 母親も静かに涙を流しだした。


「ね、ねえ、スイ……嘘、だよね……僕そんな、スイの嫌がる事なんてしてないよね……?」


 ゆっくりと、怖がらせないように、視線を下げて、縋るようににじり寄る。

 手を開いて、「何も持ってない、怖い事は何もない」と精一杯態度で示す。

 晶の胸で泣いていたスイが少しだけこちらを見た。


「スイ!」


「来ないでっっ!!!」


 けれどスイは笑ってはくれなかった。

 むしろもっと強く僕を拒絶した。


「そ、そんな……僕の事好きって言ってくれたじゃないか……」


「……剛。アタシ、最初はアンタの事嫌い……じゃなかった。でも今は嫌い、なんかじゃ足りない! 嫌い、大嫌い!! アンタみたいな最低な奴警察にでも捕まればいいんだ!!!」


 僕はいっそこれが夢ならいいのにと、悪夢なら早く覚めてほしいと思った。

 だけど、スイの拒絶とともに打たれた頬の痛みが、否応なしにこれが現実の出来事だと知らしめた。


「翠に近寄らないでください……今度は包丁使いますよ!」


 軽蔑の眼差しと震える声で母親が僕に言う。

 僕を叩いた彼女の左手が少し赤い。

 右手に握られている包丁が脅しではないぞとプレッシャーを放つ。


「もう、確認は済んだだろ……こいつはこんな奴なんだ。避妊もせずにレイプするようなクズ野郎なんだ! ラン、早く警察を呼べ!こいつを逮捕させろっ!」


「……そういう事なので、逃げないでくださいね剛さん」


 ランと呼ばれた母親が携帯に手をかける。


 画面を3回叩いて耳に当てる。


「う、うわああああっ!!!」


 彼女の動作が完了する前に僕の体は動いていた。


 廊下へ駆け出し、家の外へ出て行った。


「うぅ、なんで……どうしてっ!」


 何がどうなっているのかもわからない。

 だけどこのままでは僕は警察に捕まる。

 3人の証言とスイの体内の物的証拠で僕は間違いなく捕まってしまう。


 嫌だ。


 30年逃げ続けた警察に、今更捕まるのなんて嫌だ。

 全ての罪が暴かれ、それに相応しき罰が与えられる。

 僕への罰はきっと一度下されれば人生が終わってしまう程のものだ。


 自室まで追い詰められた僕に逃れる術はない。


 そんなものに捕まるくらいなら……これ以上逃げられないのなら……。




 ──。


 ────。


 ──────。


 また、ブランコだ。

 今度は揺れている。

 前に、後ろに、ゆっくりと揺れている。


 ギイギイと嫌な軋みをあげて揺れている。

 よく見れば揺れているのは僕のブランコだ、

 漕いでもないブランコがゆらゆらと揺れている。


 隣に居る若い僕もブランコに揺られている。


「はははっ、この夢は確かに暗示だった。昔の、高校の頃の自分を見せて僕の未来を暗示していたんだ」


 ようやく理解できた。

 これは吉兆の前触れなんかじゃない。


 凶兆だ。


 過去の僕が今の僕に良くない事が起こると知らせてくれていたんだ。


「……結局僕は自分の夢すら察する事ができなかった訳か……」


 この夢を見るようになったのはスイが来てからだ。

 つまりスイが発端。

 夢はスイに関わると昔みたいに嫌な思いをすると伝えてくれたんだ。


 ……スイは僕との一週間をどういう気持ちで過ごしていたんだろう。

 スイは最初から僕を謀るつもりだったのかな。

 それとも徐々に気持ちが変化して、僕を貶めようとしたのかな。


 スイに色々教えてもらったけど何も身についてない。

 スイの心など一つも何も察せられない。

 どんな気持ちで、どんな思いで僕と暮らしたのか何もわからない。


「結局主任達の言う通りだったなぁ……」


 主任達が言う通り、スイは僕を騙すつもりだった。

 一体いつからなのか、何故なのかもわからないが、僕に女ができるわけがなかったんだな。


『女の事でもし困った事があったら相談乗りますんで』


 信じて相談してみれば少しは変わったかもしれないけど、あの時の僕なら絶対にあの人の事信じなかったな。


 こうしていれば良い結果になっただろうか。

 もっと頑張っていればスイは僕を好きになってくれただろうか。

 そんな事を考えれば考えるほど心が切なく締め付けられる。

 あんな目にあってなお、スイの事が好きな自分に気づいて辛くなる。


 ──悪いのは誰?


 いつかと同じ質問だ。

 だけど僕の答えは決まっている。

 例え何をされたって、それでも好きだからはっきり言える。


「スイは悪くない。やっぱり悪いのは僕だ」


 答えは変わらない。

 答えを出した僕の心は変わったけれど、答えそのもの何も変わらない。


 ああ、でもスイに会えて本当によかった。

 死に際には昔の事じゃなくてスイとの事しか頭に浮かばないのだから。 


 僕は重荷が下りたような、とても爽やかでひどく穏やかな気持ちに満たされながら椅子を蹴った。




「男の一人暮らしだってのに随分小綺麗ですね」

「死ぬ前に身辺整理でもしてたのかねぇ」


「すいません、これ見てください」

「あー、遺書か。うわ、日付まで書いてら」


「本当ですか? うわほんと。6日前ですね」

「はぁ、レイプ犯だと通報があって来てみれば逃げた犯人は自室で首吊り。ふわふわゆらゆら死んでいた、と」


「ちょっと、不謹慎ですよ! まあでもなんか変ですね〜」

「レイプも自殺も計画的だったのか?」


「家中探して見つけた趣味らしきものは映画のディスクだけですね。見たところ恋愛ものばっか、独身男性のコンプレックス解消だったんですかね?」

「さあな……お、これ知ってるか? 色々な人が死ぬんだけどな、最後主人公まで死ぬんだよ」


「すげーネタバレじゃないですか。それに暗そうな話ですね」

「いやいや、そういうわけでもないんだぞ? これは名作でな、昔のやつのリメイクなんだけど……」




「ママ! 今日ね、アタシ学校で」

「何度も言わせないでちょうだい! 私の事を気安くママなんて呼ばないで!」


 小さい頃、アタシのママは2人きりになると人が変わったようにアタシを怒鳴りつけた。

 パパと3人で居る時は優しいママだった。

 「ママ」と呼んでもニコニコとして答えてくれた。


 だけどその後に2人になると、口汚く、罵るようにアタシを叱りつけた。


 そんな中でたった一度言われた事がある。


「ここまで言われて気づかないなんて察しが悪い子。やっぱりアイツの血だわ。……まだわからないの? 私はお前が嫌いなの。お前なんか産まなきゃ良かった」


 パパの事ではないと言う。

 パパの兄弟の事だ。


 ママは何度もその人の事を話していた。


 アタシがその話に相槌でも打とうものなら烈火の如く怒るくせに、いつもアタシの前で、アタシがその当人であるかのように聞かせていた。


 ママがその話をする度にアタシもそいつがだんだん嫌いになっていった。

 そいつさえ居なければアタシはママに好きになってもらえるのに、と。


 そんな生活が続いた小学1年生のある日、アタシに転機が訪れる。


 おばあちゃんが死んでそのお葬式があったのだ。


 ママは体調を崩したと言ってお葬式には来なかったが、その理由はすぐにわかった。

 ママが話していたアイツが来ていた。


 清潔感のない肌、自信のなさそうな目、醜く膨れたぶよぶよの体。


 あの男がママが嫌いな奴で、アタシの敵。


 見た瞬間に憎さが溢れたが、同時に幼いアタシはその大きな体に恐怖も覚えた。


 力ではアイツをやっつけられない。

 そもそもアタシよりも大きなママが勝てなかったのだからアタシが勝てる訳がない。


 アタシはその日から心を決めた。


 アイツに復讐する。


 ママの代わりに復讐を遂げて、ママに好きになってもらうんだ。


 お葬式から帰ってからママと2人になった時、そのアタシの決意を語ったら、ママは初めてアタシを「スイちゃん」と呼んでくれた。

 2人きりで「ママ」と呼んでもアタシを怒らなかった。

 2人きりの時に、初めてアタシの事を「大好き」と言ってくれた。

 「やり遂げたらもっと大好きになる」と言ってくれて抱きしめてくれた。


 それからアタシは大好きなママに大好きになってもらう為に頑張った。


 ママから男への距離の詰め方を教わった。


 下の名前で呼ぶ事。

 さりげなく体に触れる事。

 よく笑う事。

 少しだけ油断してみせる事。


 次に本心と違う行動をする為に演劇を習った。


 悔しい思いをしながら笑った。

 嬉しくてたまらない時に怒った。

 悲しくて泣きそうなのに無表情にした。


 そして人を操る術を学んだ。


 行動を予想させなかった。

 感情の移り変わりを相手に決してコントロールさせなかった。

 自分の心も相手の心も全てアタシの感情と行動で左右させた。


 最後にママのアカウントでマッチングアプリをして、何人もの男を相手に今までの学習の実践と、セックスを経験した。


 ママの為を思えば誰に抱かれようと耐えられた。


 男に抱かれる苦しみよりも、ママに失望されるのが恐ろしかったんだ。


「物覚えの悪い子」

「全然ママの気持ちをわかってくれない子」

「お前は心の底ではママの為なんて思ってない」


 こういう言葉を何度も浴びせられた。

 その度に涙を流して、それでも歯を食いしばって頑張った。

 だけどようやく、それが報われる時が来た。


 アタシは剛と接触して数日でコントロール下に置いた。

 そしてさらにコントロールを深くした後で、一度剛を解放した。


 行動の決定権を剛に渡す事で、もう自分はアタシ無しでは何かを決める事もできないのだとはっきり理解させた。


 後はもう詰めるだけだ。


 ほんの少し残った理性をアルコールで飛ばしてやれば簡単に落ちる。

 これで避妊無しのセックスで確実な証拠が確保しできる。


 これで剛は逮捕されて復讐は完了する。


 あの時逮捕されなかった剛を、ママを傷つけるだけ傷つけておいて親と教師に説教されただけの剛を警察に逮捕させて、アタシのママを傷つけた罪を償わせてやるんだ。




 剛が逃げて3人になった家の中。


 通報を終えたママはテーブルに着いて俯いている。


 パパは「少し落ち着いてくる」と言ってベランダにタバコを吸いに行った。


 アタシとママは居間で2人きりになった。


 待ちに待ったこの時が来た。

 復讐を完遂して2人きりになるこの時を。


 これでアタシはママに大好きになってもらえるんだ。

 今までよりもいっぱい愛してもらえるんだ。


 高揚する気持ちを抑えつつ、アタシはママに話しかけた。


「ママ、アタシやったよ……! これで……」


 アタシはママの元へと駆け寄った。


 温かく抱きしめてもらう為に。


 優しく頭を撫でてもらう為に。


「来ないで、気持ち悪い」


 だけど、ママはアタシを抱いても撫でてもくれなかった。


「な、なんで……ねぇ、ママ……」

「来ないでって言ってるの聞こえてないの? それに気安くママなんて呼ばないで。あの男に抱かれた女なんて触りたくないの」


「え、だってアタシが頑張ればママが大好きになってくれるって」

「はぁ……。翠、一つだけ大事な事を言っておくわ。そもそもアイツと伯父姪の関係でちょっとでも血の繋がったあなたをね、私が好きになる訳ないじゃない」


「そんな……だってアタシとっても頑張ったんだよ? 剛に抱かれて、他の知らない人に抱かれて、パパよりも歳上の人に抱かれた事もあったのに……」

「知らないわよ。あなたが勝手に私の名前とアカウントで会ってただけじゃない」


「だってあれはママが言ったから……」

「ママ、ママ、ママ、ママ、うるさいわね。あなたとは血は繋がってるけどもう母親のつもりはないの」


 そんな、そんなことってあるわけがない。


 だってアタシはこんなに頑張ってて、ママが好きになってくれるって言うから、どんなに体を汚されても耐えてきたのにこれじゃあんまりだ。


 こんなのおかしい。


 こんなのありえない。


 おかしいのは何?


 アタシがおかしいの?


「うふふふ、本当にせいせいしたわ。ようやくあの男が裁かれるのだもの。それに結構溜め込んでるって話だし、一体慰謝料いくら取れるかしら? 賠償金だtっけ? それで思い切って新車でも買っちゃう? 家もリフォームしようかしら? それともいっそ建て替えちゃう? あーもう、今から笑いが止まらないわ」


 違う。


 コイツが悪い。


 コイツはママじゃない。


 コイツはママの振りをする悪魔だ。


 さんざんアタシを好き勝手弄んでおいて、飽きたら簡単に捨てる人でなしだ。


「あははははっ、あっ……?」


 気がついたらアタシの手には包丁が握られていた。


 その刃先は今、この女の腹の中に突き刺さっている。


「お前はママじゃない! ママなんかじゃない!! ママは優しくて温かくて、アタシの事が大好きなんだ!!! お前なんかがママのはず無い!!!」


 引き抜いてはまた突き刺して、それを何度も繰り返す。

 目の前のコイツが何か言ってるようだがよく聞こえない。


「翠! お前何やってるんだ!?」


 部屋の中に戻ってきたパパが居た。

 部屋の惨状を見て慌てている。

 状況を理解したのかすぐさま血だらけの死体に近寄って肩を揺すっている。


「ラン、ラン! くっそ、なんで……翠、なんでお前っ……あっ、がっ」


 コイツはママじゃないのになんで心配そうな顔をしてるんだ、この男は。

 あまりに喧しいからうっかり刺してしまった。


「うっ……なんで……」


 ふらふらと離れていく男。

 虫みたいな動きをして気持ち悪い。

 羽虫を潰す感覚で包丁を突いたら今度は動かなくなった。


 ──ああ、静かだ。


 ──。


 ────。


 ──────。


「……アタシなんでこんな……こんな事を……」


 まるで自分が自分じゃないみたいだった。

 何かに体を乗っ取られているかのような浮遊感のようなものがあった。

 ぬるぬるとした血液の感触が気持ち悪い。


「うぅ、うわぁあああっ!」


 自分でしでかした事の大きさが後から後から実感として湧いてくる。


「ママぁあああ! パパぁあああ!」


 ごめんなさい。


 ごめんなさい、ごめんなさい。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。


 謝っても謝っても返事は無い。

 誰もアタシを許さない。

 誰もアタシを怒らない。


 アタシは大変な事をした。

 人を、自分の両親を殺してしまった。

 大好きなママとパパを殺してしまった。


 もう誰もアタシを愛してくれない。

 もう誰もアタシを褒めてくれない。

 アタシの自業自得だ。

 全部アタシのせいだ。

 アタシのせいでママとパパは居なくなった。

 アタシを1人にしたのはアタシだ。

 アタシが悪いんだ。

 アタシは悪い子なんだ。


 自分を責めて責めて責めて責めて、ひたすらに責めても何も変わらない。

 この胸の痛みは軽くならない。

 重りの付いた枷のようにアタシに取り憑いて離れない。

 そうやって自分の罪を責める度に脳裏に剛の顔がよぎる。


 これもみんなあの男のせい?


 ……違う、この罪は、パパとママを殺したこの罪は剛じゃない。アタシのだ。

 だけど何故剛を思い出したのかはわかった気がする。


 剛はママを襲い、傷つけた。


 その時の剛もこんな気持ちだったのかな。

 剛もアタシみたいに悪い事をして自分を責めていたのかな。

 アタシみたいにやった事の重大さに気がついて辛くなっていたのかな。


 剛は昔はママを好きになって、今はアタシを好きになった。

 剛なりにその気持ちをどうにかしようとして昔はママを襲った。


 今はその反省があったから手を出さなかったし、なんとかアタシの事を気遣って、言う事を聞いて、従ってくれた。


 好きだったから。


 好きになって欲しかったから。


 でも、ママもアタシも剛の事は最初から最後まで大嫌いだった。

 気持ちが悪くて近づきたくなかった。

 最初から希望なんてなくて、何をやったって好きになってもらえなかった。


「なぁんだ、アタシも剛も同じだったんだ」


 好きな人に好きになってもらおうとした。

 だけど、その好きな人は自分の事なんか好きじゃなかった。


 剛はママとアタシ、アタシはママ。


 アタシはママに拒絶されて、裏切られたみたいな気持ちになったけど、剛も同じ気持ちだったのかな。


 今まで積み上げてきたものは全てママの為だったのに。

 ママがアタシの生きる全てだったのに。

 アタシが全部台無しにしちゃった。


 思い留まっていれば、これから先に愛してくれる可能性はあったかもしれないのに、それも無くなった。

 後悔しても未来にはママの姿もアタシの希望も無い。


「もう生きてたって……」


 幸い手にはママとパパを殺した包丁がある。

 おもむろに赤く濡れた刃を首へ当てがい、静かに一つ、呼吸をした。


 ……そういえば、剛と過ごした日々は反吐が出そうなほど気持ちの悪いものだったけど、その中でマシだった事が1つだけあった。


「良いものじゃなかったけど……デート、楽しかったな……」


 ママと行きたかった場所を代わりに連れ回しただけだったし、その後だってデートとしては褒められたものではなかったけど……。


 ……けど、それでも、なんだかんだ楽しかった。


 だからってアタシの好悪がひっくり返る訳じゃないけどね。


「剛の事は今でも嫌い。大っ嫌い。……けど、地獄でまた会ったらその時はまたデートしようね……ママとパパは天国に行くのかな……? また会えたら……会えたら……その時はアタシの事大好きになってほしいな……」




「……ったく、こっちもこっちで酷い有様だな」

「まったくです。一家心中、というより娘による惨殺の後、その娘も自殺……と、思われます。死亡推定時刻は通報のあった晩の0時前後」


「一家の事を知るであろう人物は自宅で首吊ってた「東 剛」のみ。通報の内容が本当なら剛は昨晩娘の翠を強姦した後、翠一家の家に行ってる」

「奇妙な行動ですね」


「だな。で、この通報の後、剛は逃走。そして警察が剛の家と翠の家に別れて出動すると……」

「両方とも死んでいた」


「片っぽについて知ってそうなのに、もう片っぽは死んじまって。そのせいで両方ともが真相不明だ。どっちか生きてりゃな〜」

「まるで死んで事件を隠蔽しようとしたみたいですね。剛と翠で示し合わせたかのように……っと、そういやもう一個奇妙なのありましたよ」


「もう全部が全部奇妙だろうがよ……で?」

「ええ、翠の家に映画のレンタルディスクが置いてあったんですけど、その内容がね、剛の家にあったのと全く同じなんですよ」


「あれじゃねぇの? 晶と剛の趣味が似通ってたとか」

「でも、借りたのはどうも翠なんですよ。しかも5日ほど前に。どういう事なんでしょうね?」


「うーむ……何もわかんねぇけど、とりあえず一個だけ確かなのはな……剛と翠は死んでまんまと逃げおおせたんだ」


 ──警察と、この世と、自分自身の罪からな。


「うーさぶっ」

「お前、俺がせっかくかっこよく言ったのによ〜、さぶいとか言うなよ〜」


「いえ、違いますよ。風吹き込んで来てて寒いな〜って」

「まあもう秋も終わりだもんな。木枯らしってやつだ」

「あーさぶっ、俺は逃げれるもんならこの木枯らしから逃げてぇや」

「それなら自殺よりも良い方法知ってるぜ」

「え、なんです?」

「ラーメン食いに行こうぜ」

「それ最高ですね!」

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スーサイドストーリー 岡池 銀 @okaikesirogane

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