自分が幸せになることを諦めてほしくない

春風秋雄

いつになったら終わった洗濯物をとりに来るのだ?

雨の日の日曜日。こういう日はコインランドリーは混んでいる。5台ある洗濯機は、4台が使用中で、一番早く終わる洗濯機でもあと30分はかかる。そして、もう1台はすでに終わっているのだが、中の洗濯物を持ち主がとりにきていない。俺は持ち主が洗濯物を取り出すのをずっと待っているのだが、いつまでも取りに来ない。俺がここに来てからすでに15分以上経っている。俺は19時に始まるサッカーを観たいのに、このままでは19時に間に合わなくなる。洗濯機には注意書きで「洗濯・乾燥終了後、すみやかに取り出してください」と書かれている後に「次のお客様が利用の際、取り出される場合がございます。あらかじめご了承ください」と表示されている。つまり、次のお客様である俺は、持ち主に代わって洗濯物を取り出しても、持ち主は文句を言えないということだ。俺はもう限界だと思って、思い切って洗濯機の蓋を開けた。洗濯物を取り出して備え付けの籠の中に入れていく。どうやら持ち主は女性のようだ。下着まで入っている。これはちょっとヤバイかなと思った瞬間に後ろから声がした。

「ちょっと、あんた。何してるのよ」

振り向くと女性が怖い顔で俺を睨みつけている。その時俺は、ちょうど中に入っていた下着を籠に移そうと手に持っていた。

「いや、取りにくるのが遅いので、取り出していたのですが」

「私の下着に触らないでよ!」

俺はカチンときた。

「じゃあ、早く取り出してくださいよ。俺、使いたくてずっと待っていたんですから」

そう言って手に持っていた下着をドラムに戻して女性に場所を譲った。女性はプンプンと怒っている仕草でドラムに近寄り、洗濯物を取り出す。

「終わってから大して時間たってないのに、取り出すなんて、あんた、私の下着を見たかっただけじゃないの?」

「何言っているんですか!俺がここに来て15分以上経っていますよ。そもそも、外から見ただけでは女性のものか男性のものかわからないじゃないですか?普通は終わりそうな時間にはここに来て待っているものじゃないですか?」

「仕方ないじゃない。子供が熱を出して大変だったんだから」

「あ、そうだったんですか。お子さんは大丈夫ですか?」

「大丈夫みたいだよ。もう次のシーンに変わっていたから」

「???」

「あのドラマ、なかなか泣かせるのよ」

「ドラマの話ですか?」

「そうだよ」

「つまり、ドラマを見ていて、良い場面だったから、洗濯が終わっているけど、もう少し見てからにしようと思って遅れたということですか?」

「その通りだけど?」

「録画すればいいじゃないですか」

「録画を見ていたんだよ」

「録画なら止めて、後から見ればいいじゃないですか」

「人間誰しも、わかっていても止められない時ってあるじゃない」

俺は反論する気にもなれなかった。

女性がすべての洗濯物を取り出したので、俺は自分の洗濯物をドラムに入れる。

「あんた、洗濯物入れる前にドラム洗浄しないの?」

「俺はあまり気にしない方です」

「誰の洗濯物が入っていたかわからないのに、気持ち悪くない?」

「あなたの洗濯物でしょ?」

「そうだけど・・・」

「あなたは普通に清潔そうな人だし、気にはなりませんよ」

「あ、そう、ありがとう」

何がありがとうなんだろう?

俺はお金を入れてスイッチを入れた。終了予定時間が表示される。俺はスマホのアラームをセットした。


3日後にコインランドリーへ行くと、あの女性が座っていた。天気の良い平日のコインランドリーは空いており、ドラムが回っているのは女性が使っている1台だけだった。俺が中に入ると本を読んでいた女性が顔を上げ、俺の顔を見た。俺が思わず会釈をすると、女性もピョコンと頭を下げた。こうやって見ると、綺麗なお姉さんだ。

「いつも洗濯はコインランドリーなのですか?」

先日は天気が悪かったので普段コインランドリーを使わない人でも利用するが、今日は天気が良いので俺は聞いてみた。

「以前は家で洗濯していたけど、下着泥棒にあってから、コインランドリーにしたの」

「下着泥棒?」

「私の部屋1階だから、ベランダに干していると盗まれやすいみたいで、しばらく部屋干しにしていたんだけど、生乾きの変な匂いがするからコインランドリーにしたの」

「お金が大変じゃないですか?」

「部屋を変わりたいけど、お金がなくてね」

「大変ですね。今日はちゃんと洗濯が終わる前に来ているのですね」

「下着泥棒にあわないためにここに来ているのに、ここで下着を盗まれたら元も子もないからね」

「俺は盗もうとしたわけじゃないですよ」

「わかっているよ。でも、あれで気づいたよ。変な人が盗もうと思えば盗めてしまえるということに」

「そうですね。一応防犯カメラはありますけど、用心に越したことはないですね」

「あなたも洗濯はいつもコインランドリー?」

「そうですね。一応洗濯機はあるのですが、コインランドリーの方が楽なので、マンションから近いのでついつい来てしまいますね」

「こんな時間に来ているということは、あなた仕事してないの?」

今は平日の夕方5時だった。仕事してないと思われて当然だろう。

「ちゃんと仕事はしていますよ。自宅でやる仕事なので、時間はフリーなんです」

「自宅でやる仕事?」

「ブックライターです。本を出したいけど自分で本を書けない人のために、インタビューで話してもらって、それを文章にしていく仕事です」

「よく芸能人とかが本を出すとき、ゴーストライターが書いていると聞いたことがあるけど、そういうの?」

「ゴーストライターとブックライターは呼び方の違いと言う人もいますが、俺の中では違います。ゴーストライターはその人に成り代わって創作までしてしまいますが、ブックライターはあくまでも本人の主義・主張や考え方、培ってきたノウハウを忠実に、読者にわかりやすいように文章にしてあげるのです。知識はあっても、人にうまく伝えられないという人がいるじゃないですか。そう言う人たちの手助けをしているのです。まあ、自分の名前が表に出ないという面ではゴーストと言われても仕方ないですが」

「へえ、そういう仕事って、儲かるの?」

「ライターによりますね。俺の場合は、本1冊でだいたい40万円くらいもらっています」

「そんなにもらえるの?あなた年はいくつ?」

「28歳です」

「そうか、28歳か。若いなあ」

「あなたはおいくつなんですか?」

「私?32歳だけど」

「あなたもまだまだ若いじゃないですか」

「あなたより、4つも上だけどね。あなた、名前は?」

「島村陽介といいます。あなたは?」

「私?真奈美。篠原真奈美」

「真奈美さんもこんな時間にコインランドリーに来ていると言うことは、OLではないのですか?」

「アパレルで働いているファッション・アドバイザーって言えば聞こえはいいけど、単なる販売員。今日はお店が休みなの」

「そうなんですね」

「ねえ、夕飯はまだだよね?」

「この洗濯が終わってから食べるつもりです」

「どこか食べにいこうよ」

いきなり食事に誘われて戸惑ったが、綺麗な女性なので気持ちが動いた。

「俺の洗濯は真奈美さんのが終わってから30分ほどかかりますよ」

「いいよ。私は一旦洗濯物を部屋に持って帰って、陽介くんのが終わる頃にまた来るから」

俺も洗濯物を部屋に持って帰りたいので、時間を合わせてここで待ち合わせることにした。

しばらくして真奈美さんの洗濯が終り、真奈美さんは洗濯物を持って一旦自分の家に帰った。


二人で食べに行ったのは、近所の中華屋だった。俺は女性と二人なので、おしゃれなレストランにでも連れていかれるのかと思っていたので拍子抜けする思いだった。俺はラーメンとチャーハン、そして餃子を頼み、真奈美さんはエビチリとチャーハンを頼んだ。

「お酒は飲まないのですか?」

俺が聞くと、チラッと俺を見た真奈美さんは

「私は飲まないけど、陽介くんは飲めばいいよ」

と言った。

「俺もそれほど好きというわけではないので、いいです」

運ばれてきた料理を二人してガッついて食べる。

「お酒は全然飲めないのですか?」

真奈美さんが上目遣いに俺を見た。

「以前は飲んでいたけど、やめたの」

「体でも壊したのですか?」

「お酒で失敗したことがあって、それ以来飲まないことにした」

失敗の内容を聞きたかったが、聞いてはいけないような気がして俺は聞かなかった。

真奈美さんとの食事は楽しかった。真奈美さんはよくしゃべり、その話は面白く、真奈美さんという女性に引き込まれていった。

「ふー、食べた。ねえ、たまにはこうやって一緒に食事しない?」

これは、もしかすると。相手は年上だが、綺麗な女性だったので、俺は色々な期待を込めて「いいですよ」と返事をした。連絡先を交換して、店を出ようと立ち上がったら、いきなり真奈美さんが言った。

「陽介くん、ご馳走様。久しぶりにお腹いっぱい食べることができた」

ご馳走様?ここは俺が払うということか?

「私、そんなに高い店に行こうとは言わないから安心して」

「あのー、たまに一緒に食事をしようというのは、俺に奢ってくれという意味ですか?」

「べつにそんな意味ではないよ。陽介くんといると楽しいし、また一緒に食事をしたいなと思っているだけ。ただ、私は万年金欠だから、引っ越しもしたいし」

結局俺は、この人の食費を浮かせるための都合の良い人ということか。でも、何故か憎めない人だ。一緒にいると楽しいのも確かだ。あまり高い店だときついが、この程度の金額であれば、たまに食事するのは悪くないと思った。


真奈美さんが言う“たまに”は俺の感覚とかなり違っていた。俺はせいぜい月に1回か2回程度だと思っていたのだが、あれから1週間も経っていないのに、3回も食事に行った。俺はいつも家にいるので、連絡をもらえば基本的にいつでも大丈夫だと言っておいたが、夕方になると真奈美さんから連絡があり、8時頃に帰れそうだから、それまで待っていてと言われ、近所の店に食事に行くというパターンだった。最初の食事の時を合わせると、すでに4回一緒に食事をしたことになる。いずれも大した金額の店ではない。ひとり2千円もしない店ばかりだった。食事をしながら二人はよくしゃべった。俺のことも色々話したが、真奈美さんも自分のことを色々話してくれた。真奈美さんはバツイチだった。離婚の理由は話してくれないが、2年前に旦那さんと姑さんに追い出されるように離婚して、今のアパートに引っ越してきたということだった。今は生活するのが精いっぱいで、仕事場とアパートの往復で一日が終わり、趣味に興じる余裕すらないと言っていた。だから、俺との食事は唯一の楽しみだと言ってくれたので、俺としては嬉しかった。

そして、今日も夕方に連絡があった。8時半には帰れるので、一緒に食事をしようということだった。


8時半に携帯が鳴った。

「もしもし、今駅に着いたよ」

「今日はどこで食べますか?」

「今日はピザが食べたい」

「ピザ?イタリアンの店って、どこかあったかな?」

「宅配ピザを頼んで、陽介くんの部屋で食べればいいじゃない」

俺の部屋で?いいのか?でも、相手がそう言っているのだからいいのだろう。俺は真奈美さんの好みを聞いて、宅配ピザを注文した。真奈美さんには迎えに行くので、コインランドリーの前で待っていてくれと伝えた。


「本当にコインランドリーから近いんだ」

俺がコインランドリーの前で待っていた真奈美さんを連れてマンションに案内すると、歩いて3分もかからないので、真奈美さんは驚いていた。

5階の俺の部屋に招き入れた途端に、真奈美さんは部屋を見渡し、「良い部屋ね」と言った。事務所としても活用しているので、3LDKの間取りのうち、ひと部屋は仕事部屋として使い、あとは寝室と、物置と化している部屋だった。

ほどなくピザが届き、俺たちはピザにパクついた。

「ねえ、ここ家賃はいくら?」

「分譲だから家賃ではなく、住宅ローンだけど、頭金を半額以上入れているから、月々の支払いは管理費を含めて7万円くらいだよ」

「すごい!28歳で分譲マンションを持っているの?」

「親父が亡くなって、その遺産が入ったから、それで買ったんだ」

「そうか、お父さん亡くなったって言ってたものね」

ピザを食べ終わり、俺が淹れてあげたコーヒーを飲んでいると、時計の針は10時を過ぎていた。真奈美さんは明日は仕事は休みだと言っていたので、ゆっくりしても大丈夫なのだろう。

トイレから帰って来た真奈美さんが目を輝かせながら言った。

「ここのお風呂広いねぇ。お風呂に入っていい?」

トイレに行ったついでに風呂場を覗いたようだ。

「いいよ。じゃあ、お湯をためようか」

俺は風呂場に行って湯はりをセットする。せっかくだからと、出版社の人にもらった入浴剤も入れた。

お湯がたまったアナウンスが流れ、真奈美さんがお風呂に入る。初めて入った男性の部屋で、いきなりお風呂に入るなんて、俺のことを4歳も下だから子供扱いしているのだろうか。

しばらくすると、浴室からドライヤーを使う音がして、その音が止むと、バスルームのドアが開く音がした。バスルームから出た気配はあるのに、リビングに帰ってこない。どうしたのかと思い、様子を見に行くと、真奈美さんはバスタオルを巻いた姿のまま、俺の寝室のベッドに腰掛けていた。

「真奈美さん、何やっているんですか?」

「見ればわかるでしょ?男と女が二人きりでいて、女がお風呂に入ってベッドに腰掛けているのだから、これからやることは決まっているじゃない。陽介くんもお風呂入ってきなさいよ」

俺はあっけにとられながらも、心臓は高鳴っていた。


真奈美さんとベッドを共にした時から覚悟はしていたが、真奈美さんは毎日俺の部屋に泊るようになった。1週間もすると、物置と化している部屋は真奈美さんの荷物で埋まって来た。

「真奈美さん、ひょっとして、ここに引っ越してこようと思っています?」

「そんなことは思ってもいないわよ。ただ、陽介くんと毎日一緒にいたいだけ」

白々しい言葉だが、悪い気持ちはしない。

「いいですよ。ここに引っ越してきても」

真奈美さんが俺を見た。その顔は、まるで競馬で万馬券に当たったような顔だった。

「本当?悪いわね。セキュリティーのきいたマンションに引っ越すお金が貯まるまで、お願いしようかな」

早速物置部屋を片付けて、真奈美さんの荷物がはいるようにし、ベッドもダブルベッドに買い替えた。


真奈美さんが引っ越してきて、一番変わったのはコインランドリーに行かなくなったことだ。真奈美さんは仕事から帰ると、二人分の洗濯をしてベランダに干してくれた。俺はその姿を見ていて、家庭をもつのも悪くないかもしれないと思った。

まだ若い俺は、夜は毎日のように真奈美さんと交わった。その都度真奈美さんは「子供は作らないからね」と念を押した。まだ結婚を考える段階でない俺としては、端からそんなことは考えていない。俺は真奈美さんからそう言われるたびに生返事をする。すると、真奈美さんは真剣に「絶対ダメだからね。ちゃんとそれはやってよね」とムキになって言った。

一度だけ俺は言った。

「大丈夫だよ。もし出来たら、俺責任をとるから」

すると、真奈美さんは俺を押しのけて起き上がった。

「そういう問題ではないの。私は子供を作りたくないの。それが約束できないのなら、もうこういうことはしない」

その剣幕に押されて、俺は頷くしかなかった。


同棲をはじめて半年ほど経った頃に、真奈美さんが改まって俺に言った。

「私、貯金もそれなりにできたから、そろそろここを出て行こうと思う」

「どうして?ここにいればいいじゃない」

「そうもいかないでしょ」

「真奈美さん、俺真剣に真奈美さんのことを考えています。俺と結婚してください。そして、ずっとここにいて下さい」

真奈美さんはジッと俺の顔を見て、何も言わない。

「真奈美さんは、俺と結婚するのは嫌ですか?」

俺がそう聞くと、やっと真奈美さんが口を開いた。

「陽介くんは、まだ若いから・・・」

「年のことは気にしません。真奈美さんが何歳だろうと、俺には関係ないです。今、目の前にいる真奈美さんという女性と俺はずっと一緒に暮らしていきたいのです」

「私、子供は産まないと決めているの。陽介くんはまだ若いから、これから先、子供が欲しいと思う時が必ず来る。だから、私とは結婚しない方がいい」

真奈美さんは、子供が産めないではなく、子供を産まないと言った。

「俺は子供にはこだわらないですが、どうして子供を産まないと決めているのですか?何か理由があるんですよね?」

真奈美さんはしばらく黙っていたが、ようやく話し出した。

「私、別れた旦那との間に子供がいたの。綾という、女の子だった。とても可愛かった。目に入れても痛くないというのは、こういうことを言うのだと思った。当時の私はお酒が好きで、アル中とまではいかないけど、家に帰ったら毎日飲んでいたの。綾が2歳の時だった。その日、義両親は法事で泊りで県外に行っていて、旦那は出張で泊りだったから、少し羽根を伸ばせると思っていたの。次の日はお店が休みだったし、ちょっと飲みすぎたのね。私は酔いつぶれて寝てしまった。翌日の昼前に旦那が出張から帰って来て、私はまだ寝ていて、旦那にたたき起こされた。綾を抱こうとしたらものすごく熱いって。慌てて綾のおでこに手をやったら、火が出るほど熱かった。慌てて病院へ連れて行ったのだけど、肺炎を起こしていて、そのまま入院になった」

俺は聞いていながら胸がドキドキしてどうしようもなかった。

「綾は、何とか回復して退院したけど、後遺症が残ったの」

「後遺症?」

「難聴になった。もうそれを聞いて、私はなんてことをしたんだ、綾に申し訳ないと、涙が止まらなかった。もう少し早く気づいてあげていたらと、何度も何度も後悔した。お酒なんか、もう二度と飲まないと決意したのもその時。それから義両親にも旦那にも責められ続けて、夫婦仲は最悪で、それでも2年間は耐えたけど、綾が4歳の時にとうとう私はあの家にいられなくなって、離婚して綾を置いて出てきたの」

そういうことだったのか。初めてコインランドリーで会った時、ドラマで子供が熱を出していたのを見ていて、洗濯が終わる時間までに来られなかったと言っていた。それはドラマに夢中になっていたのではなく、辛い過去を思い出して体が動かなかったのだろう。

「私は、あの罪を一生背負っていかなければならないの。だから、もう子供は産まないと決めたの。綾を幸せにしてあげられなかったのに、次の子なんて、考えられない」

俺は、真奈美さんにどういう言葉をかけてあげれば良いのかわからなかった。

「陽介くんと一緒に暮らしたのは、ひとりでいるのが辛かったからだと思う。ひとりであの部屋にいたら、どんどん、どんどん、深い穴の底に落ちていきそうで、どうしようもなかった。でも、それは間違いだったのかなぁ。まさか、こんなに陽介くんのことを好きになるとは思わなかった。私なんか、自分の幸せを考えたらダメなのに」

「どんな人でも、どんな罪を犯した人でも、自分の幸せを考えるのがこの世に生まれた使命です。自分の幸せを考えなくなったら、自分を生んでくれた両親に申し訳ないです」

真奈美さんが、ハッと俺をみた。

「真奈美さん、綾ちゃんに会いに行きましょう。綾ちゃんが今どんな暮らしをしているのか、幸せにしているのか、別れた旦那さんとお祖父さんお祖母さんは、綾ちゃんを幸せにしてあげているのか、見にいきましょう。そして、もし綾ちゃんが幸せなら、今度は真奈美さん自身の幸せを考えましょう。でも、もし綾ちゃんが幸せでないようなら、別れた旦那さんやお祖父さん、お祖母さんが手を焼いているようなら、綾ちゃんを引き取って、俺たちで幸せにしましょう。その時は、俺は精いっぱい協力します」

何も言わず、黙って俺を見つめる真奈美さんの目から、涙がポロリとこぼれた。


俺は仕事用に、マンションの近くに部屋を借りた。そして仕事用に使っていた部屋を片付け、綾ちゃんのために、色々揃えた。あれから1年は、あっという間に過ぎた。二人で綾ちゃんがいる元旦那さんの家に行くと、綾ちゃんは2年ぶりだというのに、嬉しそうに真奈美さんに抱きついてきた。元旦那さんは、正直なところ、綾ちゃんに手を焼いていた。綾ちゃんを育てるにあたって、いつまでも両親に頼るわけにはいかないので、再婚のために婚活を始めたが、ただでさえ両親と同居の実家に嫁に来る女性はすくないのに、子供がいて、尚且つその子供が難聴だと聞くと、再婚相手は見つからなかった。だからと言って、真奈美さんとよりを戻す気はさらさらない。そこで俺たちの提案は渡りに船だったようだ。祖父母は孫が可愛いので手放したくなかったが、いつまでも祖父母が面倒を見られるわけではないと説得して、やっと真奈美さんが綾ちゃんを引き取ることに同意してくれた。

綾ちゃんを引き取ることが決まって、俺と真奈美さんは籍を入れた。そして、真奈美さんは仕事を辞めた。俺が綾ちゃんのためにもそうしなさいと言ったのだ。二人を養っていくくらいの収入も貯えもある。真奈美さんは綾ちゃんと一緒に暮らせるようになり、とても幸せそうだ。


綾ちゃんの部屋の片づけが終わったタイミングで家具業者が来た。時間通りだ。何とか片づけが間に合った。家具業者が帰って、10分もしないうちに、真奈美さんと綾ちゃんが買い物から帰って来た。

「おかえり。机がきたよ」

綾ちゃんは今度の春に小学生になる。綾ちゃんの難聴は、補聴器をつければ何とか会話はできたので、特別支援学級に入れる必要はなかった。

新しい机を見た綾ちゃんが、満面の笑みで俺を見て言った。

「お父さん、ありがとう」

この前綾ちゃんは、真奈美さんに「弟か妹がほしい」と言ってくれたそうだ。

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