うるせぇとっとと死ね

nns

うるせぇとっとと死ね


 大きな窓から外を眺めると、立派な中庭が視界一杯に広がる。中心には見事な桜の樹が植わり、つぼみをたたえたまま、そよ風に枝を揺らしていた。見頃を迎えるまで、それほど掛からないだろう。

 ハルカという女は、そうして景色を眺めていた。紺碧の空にうっすらと浮かぶ薄い雲達。恋人を連れ立って、あてもなく散歩をしたくなるような陽気であった。


 肩甲骨まで伸ばした黒髪を春風にたなびかせ、彼女は空から地上へと視線を移す。

 黒い瞳に木々の緑が写り込み、優しげな目元に更に輝きを与えた。


 大きな点のように見える人の流れが、縦横無尽に各々の速度で移動していた。

 ベンチに腰掛ける姿もあれば、右から左へと駆け足でハルカの視界を横断する姿もあった。ゆっくりと移動する二人は車椅子を押す人影だろう。

 それぞれがこの春を謳歌している。白いワンピースに身を包んだ女は、それがなんだか嬉しく思えて、口元を綻ばせていた。


 突如吹いた突風に、大袈裟にカーテンがその身をはためかせる。風の後を追うようにハルカは室内へと振り返った。

 クリーム色の壁紙、閉めきったスライドドア。悲しげに顔を伏せる初老の夫婦と若い男。それらが視界に飛び込む。その部屋の中央で、家族と物々しい機器に囲まれているのは、ハルカの恋人であった。


 ハルカだけがこの空間で、平然としていた。否、平然としているように見えるだけだ。

 だが、恋人が死の淵に瀕して尚そのように振る舞える時点で、凡そまともではない。

 彼女の表情に対する周囲の反応など、気に留めようともしなかった。


 何故ならば、彼女は知っていたからだ。


 自身の恋人がもがいて足掻いて、なんとか生きたことを。

 ハルカのために頑張ると言って、また生きたことを。


 くたびれていた恋人は、通勤途中に交通事故に遭い、呆気なくその生涯を終えようとしていることについて、内心で喜んでいるに違いない。しかし、ハルカは責めるつもりはなかった。

 生きたいと思うのが当たり前の世の中で、常識と乖離する彼女の幸福すらも愛していたのだ。


「ねぇ。マヤ。このままだとアンタ、死ぬらしいよ」


 当然、返事はない。

 マヤと呼ばれた女はただ天井に顔を向けて、目を瞑っていた。

 顔や頭にはそこかしこに白い包帯やらテープやらが貼られていたが、覗く素顔だけで彼女が端正な顔立ちであることが窺える。


 二人が出会ったのは大学だった。知人の知人という、運命的でもなんでもない平凡な出会いを果たし、惹かれ合うのに時間は掛からなかった。

 マヤはハルカに、実は一目惚れだったと伝えたことがあるが、口の軽い恋人の言うことを、彼女はあまり信用していない。しかし、その言葉に絆されたのも事実だ。その日、少しばかり気分が良くなったハルカは、普段はしないようなことをして、言わないようなことを言った。


 マヤという女はいつでも調子がいい。少々口は悪いが、人一倍友人が多かった。

 常に誰かと過ごすことの多かった彼女だが、ハルカがマヤを探すのに困った経験は殆ど無い。背が高い彼女は人に囲まれると、いつもそこからちょこんと頭を覗かせているのだ。

 その姿を遠目に見るだけで、ハルカの心は何か暖かいもので満たされる気がした。そうしてたまに駆け寄ってみては、周りに冷やかされたりもした。


 そんな人付き合いをしていると、面倒な役回りに落ち着いてしまうことも少なくない。恋人であるハルカも彼女を咎めないので、抱える面倒事は増えていった。カップルの喧嘩の仲裁で夜が更けて、そのまま朝を迎えたこともしばしばだ。

 それでも、彼女と過ごせて幸せだったとハルカは断言する。

 もう一度人生をやり直せるとしても、彼女と出会うことを望んでいるし、もしかしたら前世でそう誓い合ったカップルの生まれ変わりなのかもしれないとすら考えていた。


 そんな恋人が死の淵に立たされ、ひん死の状態に陥っている。

 そしておそらく、本人はそれを喜んでいる。


 ハルカが少し目線を上げると、弟二人を引き連れたマヤの両親が居た。というか、さっきからずっとそこでさめざめと泣いている。

 今更なにをどうするつもりだと言うのだ。そう、ハルカは今更だと思った。それも強く。


 マヤが辛かった時、苦しかった時も。何をするでもなく、ただマヤを突き離したことを、ハルカはよく知っている。

 同性愛者などただの変態だ、とまで言ってのけた彼女の父が、険しい顔で唇を噛む姿は特におぞましかった。

 ハルカの目には、汚らわしくて実に女々しい生き物の醜態としか映らない。


 ベッドを挟んで向かい合うが、両者は声を交わさない。ハルカの眼光だけが、グロテスクな生き物数匹を鋭く捉えていた。

 そして、視線はすぐに安らかに眠る、嘘のように美しい恋人の寝顔へと移る。


 あどけないその寝顔のせいだろうか。ハルカは不意に、部屋にあるぬいぐるみの事を思い出す。

 少し大きめのそれが、二人の部屋に住まうこととなった経緯は少し間抜けだ。


――え、いらない? 嘘だろ?

――いらないよ。マヤが自分で欲しいからあんなにムキになってるのかと思ってた

――マジかー……ハルカこういうの好きだと思ってた

――邪魔じゃん

――ひど


 ゲームセンターでもらった袋から、白いぬいぐるみを取り出す、マヤの誇らしげな表情を思い出す。そして、あげると押し付けられたそれを、丁重にお断りしたときの表情も忘れない。

 ジェットコースターのように目まぐるしく変化する彼女の顔は、いま思い出してもハルカの笑いを誘うのだ。


 そうして二人の部屋に招かれたうさぎのぬいぐるみは、テレビ台の余ったスペースに鎮座している。互いに然程興味がないことをこの一件で知ったので、それ以降部屋にマスコットが増えることはなかった。

 ハルカの為に、などと言っていたマヤだが、どちらかというと彼女の方が多くそれを構っていた。真夏だというのに暑苦しそうなそれを気まぐれに抱いてみたり、クッションの代わりにしたり。

 ハルカがベッドやソファに出かけたままのうさぎを、嘆息と共に元あった場所に戻したのは一度や二度ではない。


 懐かしい記憶に触れると、ハルカは微笑んだ。瞼を閉じたままのマヤも笑った気がした。

 二人が共に暮らしていた部屋には、そういった思い出が詰まったものがたくさんある。今後、どうなってしまうのだろう。ハルカは頭の片隅でそれらを気に掛けたが、今はただこの綺麗な顔を見つめていたかった。


 完全にBGMと化した彼女の親族の嗚咽は、ハルカの心の水面を揺らすことすらしない。

 ベッドサイドの丸椅子に腰掛け、ぎゅっと手を握る姿は長年連れ添った夫婦のようであった。

 ”ようだ”というのは、もちろん彼女達は実際に夫婦のつもりで生活をしていたが、それでも長年連れ添った、と表現するには些か見た目が若過ぎる為である。

 多めに見積もっても、ハルカは二十代半ば、ベッドに体を横たえるマヤも三十代半ばといったところだ。


「俺、姉さん……ごめん……」


 静かに涙を零していたマヤの弟は、突然そう呟いた。

 狂ったのだろうか。ハルカはそんな印象を抱かずにはいられなかった。


 彼女の父に同調し、マヤを口汚く罵った男が、彼女を深く傷付けた張本人が、死の淵に立たされた姉を前に頭を下げたのである。

 そんなことをしても、彼女はもう目を開かない。その無様なつむじを視界に入れることもない。ハルカは彼女の代わりだと言わんばかりに、その頭頂部に軽蔑の眼差しを送った。とびきり冷ややかで、汚いものを見る目。まさにゴミを見るような目である。

 そんな視線を物ともせず、弟は続ける。顔だけはマヤに似て、すっきりとして整っていて、ハルカはその点も気に食わなかった。


「俺が、変なコミュニティに入ることを止めていれば……姉さんは家を出ることにもならなかったし、そうすればきっと、こんな事故にも遭わなかった……」


 自己満足も甚だしい謝罪を耳にしたハルカは、唖然としていた。

 この期に及んで、この弟は姉が誰かに唆され、同性しか愛せないようにされ、そして転落人生を送ったと思い込んでいるのだ。

 開いた口は、なかなか塞がらない。先程はこの男に狂ったのか、と感じたハルカであるが、それが誤りであることを思い知らされた。既に狂っていたのだ、彼は。そうとしか思えず、彼女はよくわからない笑いを噛み殺した。


 言ってやりたかった。「お前の姉貴は根っからのレズだし、入るも何もその地域のコミュニティを作った人間だし、元々私と同棲する為に家は出る予定だった」と。しかしハルカは黙っていた。

 今更そんなことを伝えてもまるで意味がない上に、どうせ理解できない。そして、それならばいっそ間違ったまま死ね。と思ったのである。


 しかし同時に空恐ろしくも感じた。

 こういった理解のない人間から守る為にコミュニティを立ち上げて、定期的に食事会を開き、互いの悩み等を打ち明け合っていただけだというのに、連中からはそれすら乱交パーティーの名目にしか見えないらしい、ということに。

 そしてノーマルである自分達が正しいと信じてやまないのだ。これだもん、戦争なんか起こるわ、と”正しい家族”を見つめながらハルカは嗤った。


 彼女は助からない。

 ハルカは気の毒そうな表情を浮かべた医師達の会話を聞いていたのだ。

 そして、マヤの家族が駆け付けた時、「間に合って良かった」と担当医が零したことからも、それは窺えた。

 機械には疎いハルカであるが、ベッドの横に運ばれた機械が何を示すのかくらいは知っている。その波形は弱々しく動き、その様子は最後の悪あがきのようにしか見えなかった。


 死にたかったって。知ってる。

 でも、私の為に生きようとした事も。知っている。


 ハルカの心中は複雑だった。

 馬鹿が自らの馬鹿さ加減をアピールするかのように泣き喚き、見当違いの謝罪をぶつけては自慰に耽る横でも、彼女の心だけはひらすらに凪いでいた。


 医師がかしこまった表情で個室に入ると、身内を連れ立って別室へと消えていった。

 当然、ハルカは取り残されることとなる。


「まぁ法的には家族じゃないし。っていうか他人だもんね。まぁそういう問題じゃないけど」


 肩を竦めてそう戯けても、呼吸をさせる為に働く、機械の音だけが虚しく響いた。

 このまま、マヤは三十三歳という、短い生涯を終える。


「ねぇ。最低なこと言っていいかな」


 一呼吸置くと、ハルカは続けた。


「今、死んでよ」


 ここが個室でなければ、おそらくはぎょっとした人間もいただろう。


「いま死んで。私だけの前で。他の誰にも、死に目に合わせないように」


 さらさらと涙を流しながら、ハルカは言葉を切った。


 この期に及んで愚かな家族が腹立たしい。

 これほど愚かにも関わらず、それでも家族を気にかけ続けた彼女の人の良さも気に食わない。

 そしてそれすらも踏みにじった馬鹿共が、これからものうのうと生き続けるであろうことが悔しい。

 

 だったらせめて。

 ハルカはもう迷わない。


「マヤの最後、私だけに頂戴よ」


 彼女の手を握り締めながら告げた。マヤはもう目を覚まさない。

 ハルカはなかなか顔を上げることができなかった。ただ祈るように、絶命の時を待った。


 けたたましく鳴る機器の音が勘に障る。


「うるっさい……」


 早く。早く。

 彼女の家族が戻ってきてしまう。


「とっとと死ね」


 逸る気持ちが彼女の喉元につっかえていた本音を押し出したようだ。

 土壇場で彼女の口調を真似てみると、少しだけ楽になれた気がした。


「……え?」


 とぼけたような声が響く。耳に馴染んだその声は、いとも簡単にハルカの心を満たす。

 顔を上げると、そこにはマヤが立っていた。傷一つ無い、綺麗な顔のまま。最近髪を肩くらいまで切った彼女だが、久方ぶりに自分と目を合わせるマヤを見て、ハルカはやっぱり長い方が好きだと思った。


 何かを言い出す前に、ハルカの姿を確認したマヤは泣き崩れる。

 周囲のことを構う様子は一切無かった。マヤは子供のように声を上げてハルカに縋りついたが、医師と彼女の家族は、ピーと間延びした機械の音に反応して駆け付けたようであった。


「ねぇマヤ。私に会いたかったでしょ」

「……うん。ずっと」

「七年くらいかな? 偉かったね」

「同い年だったのにな……」


 事切れた娘、姉を確認すると、家族達はまた涙を流した。

 しかしその涙も嗚咽も、何もかもが本人には届かない。

 既に彼女の意識も魂も、そこには無かったのだから。

 さすがに「とっとと死ね」は酷いと、マヤがハルカに抗議したのは、地上が全く見えなくなってからだった。




 後日、マヤの部屋には業者が入り、ほとんどの荷物は彼女の自宅、かつて使用していた部屋へと運び込まれた。

 その中でも、いくつか新たな居場所を得た物がいる。消耗品の類いはそのまま使用されたし、例えば彼女が使用していた包丁や灰皿なんかは、それぞれが丁重に扱われ、時には活躍を見せた。


 そして、意外に思った母が、奇しくもテレビの隣を定位置と定めたのが、うさぎのぬいぐるみである。

 彼女達が心から愛し合っていたことを唯一知る彼だが、あいにく口と命が無い。

 全てを見てきた筈のプラスティックの黒い瞳は、今日もテレビの映像を映してちかちかと光っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うるせぇとっとと死ね nns @cid3115

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ