ゆらめき

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ゆらめき

「あっちいな」


 生ぬるい空気をかきまわすだけの扇風機が、もう寿命なのか、ぎこちない動きで首を振っている。


「言うな。よけいに暑くなる」


 従兄弟の虎兄はそう吐き捨てて、畳の上で寝返りをうった。こっちへ向けられた背中に楕円形の大きな汗じみができている。僕は大の字になって、天井の四つの隅をぼんやりと眺めていた。それくらいしかすることがないのだ。右下の角に立派な蜘蛛の巣が張っているのを見つけたけれど、見ないふりをした。


 テレビから再放送のドラマの主題歌が流れ出した。今日だけでもう、三回は聴いている。その間僕たちはずっとこうしてクーラーのない六畳一間で、完全に夏という季節に敗北していた。


「こっちのほうが涼しいって、おまえが言ったんだぞ」


 虎兄の低い声が、地面を這うように僕の耳に絡みついてくる。ライオンのたてがみにそっくりな金髪が、汗と混じってだらしなく首筋に垂れていた。


「こんなに暑いだなんて、誰が予想できたっていうんだ」


 無意識にいらだちを含んだ口調になってしまう。虎兄に「こっちのほうが夏は涼しいはずだ」と勧めたのは、たしかに僕だ。虎兄はその言葉を信じてバイクで一人、僕のアパートへ泊まりにやってきた。そしたら、このざまだ。


「クーラーを取り付けてくれ。今すぐに」


 窓からわずかな風が吹きこむたびにちりん、と風鈴が鳴る。それは忌まわしいほどに安っぽい音色だった。八月もまだ、半分は残っている。このままこの猛暑を乗り切るのは難しいかもしれない。僕も内心そう思い始めていた。通帳の残高を思い浮かべる。しかしぼんやりした頭ではゼロが多くなったり少なくなったりして、どうにも駄目だった。


 テレビの中で女の子が泣きわめく。不意に意識していなかった蝉の声が気になりだして、扇風機の羽音も一緒くたに、全身にまとわりついてきた。ここはまるで海の中のようだ。湿気を含んだもったりとした空気、あるいは息苦しさがそう思わせているのかもしれなかった。


「なあ圭太、じゃんけんで負けたほうがアイス買ってこようぜ」


 唐突な提案に、しかしまあ結構いい考えかもしれないと思う。虎兄は相変わらずこちらに背を向けたまま、右腕を天井に突き上げた。最初はグー、の合図だ。ここが海だとしたら、ゆらゆら漂うそれは海藻のように見えた。僕は乗った、とだけ答えて同じく右腕を空中に漂わせる。視界の隅、朝と昼を兼ねて食べたそうめんの器の底で、氷はとっくに溶け出して水へと姿を変えていた。




 アスファルトを踏みしめるたびにサンダルと足の裏が張り付いたり離れたりして、ぺったんぺったんと間抜けな音を立てる。みんな家の中で涼んでいるのか、昼間にもかかわらず誰ともすれ違わない。家賃をケチってクーラーのないあの部屋を選んだ数ヶ月前の自分を恨めしく思った。


 虎兄はじゃんけんをすると決まってはじめにパーを出す。しかしその法則が今日に限って破られた。最初はグーの形のまま直立するやる気なさげな海藻が、言いようもなく憎らしかった。僕が諦めて重い腰をあげると、虎兄は振り返りもせずに「ソーダ味」とリクエストした。僕は黙って鍵も持たずにアパートを出た。


 普通に歩いても、一番近くのコンビニまで十分はかかる。これも家賃にこだわりすぎたツケだった。人どころか、ブロック塀の上でまどろむ猫たちにさえ一向に出くわさない。あいつらみんな、どこかの家の猫だったのだろうか。


 不意にぽつん、と腕に雫が垂れた。汗かと思い拭うと、案外さらっとしている。嫌な予感がした。試しにすうっと息を吸い込むと、わずかに嗅ぎ慣れたにおいと出会う。惰性で進めていた足を止めて、空を見上げた。いつのまにか分厚い雲が夏空を覆って、あたり一面に不穏な影をおとしている。まったく今日はついていない。立ち尽くしているうちに雫が肌を濡らす間隔が次第に短くなって、やがて本降りの雨になった。肌の上で汗と溶け合ったそれは、重力に従って滴り落ちる。伸びっぱなしの前髪が額にはりついているのを感じながら、とりあえず屋根のある場所を探した。


 シャッターの閉まった酒屋の朱色のひさしが目について、とりあえずそこへ逃げ込むことにした。駆け寄ると、煙草の自販機の脇のベンチに人影があった。僕に気づいたのだろうか。こっちを振り向いた拍子にするりと艶っぽい髪の毛の束がひるがえって、胸元におりた。淡い青色のカットソーにぽつぽつと、雨に濡れた跡があった。


「入りなよ。濡れてるよ」


 はっとして、慌ててひさしの下に入る。その人はそんな僕をなんのことなしにしばらく見上げていた。その視線をどうしたって感じながら、僕は雨足をうかがうふりをして、灰色の不機嫌そうな空を見上げていた。ところどころ錆びついたひさしに雨粒が打ちつけられて、リズムを刻んでいる。それを無視して鼓動が勝手にどっ、どっ、と鳴っていた。僕は息をのんで、こっそりと彼女を盗み見た。


 ひさしから伝う雨粒を眺めるその横顔は、蒸し暑さとは無縁とでも言うように涼しげだった。日焼けしていない白く滑らかな頬に、ぬぐい忘れたのだろう、雨粒がとどまっていた。


「通り雨かな」


 黒目がちな大きな瞳と目があった。顔立ちはあどけないけれど、声はえらく大人びている。先に目をそらしたのはもちろん僕だった。汗をかいた上から全身ずぶ濡れになっている自分が惨めに思えた。


「そう長くは降らないよ。きっと」


 余裕ぶって口を開いたつもりが、逆にぎこちなくなった。アスファルトを叩く雨のにおいがそこらじゅうに立ち込めている。


「いつまで降っても、別に私はかまわないわ」

「それは、どういう意味」


 僕の問いかけに、彼女はさも不思議そうな顔をした。首をかしげた拍子に頬の雨粒がつるんと滑り落ちる。


「だって夏休みじゃない」


 そう言ってはにかんだ、口角の先のえくぼがまた僕を驚かせる。子供っぽい笑顔の作り方が、僕の胸のくすぐったいところをさらりと撫でた。


「あ、あがってきた」


 ワントーン高い声でそう言い、彼女がすっくと立ち上がる。案外身長が高かったので顔が近くなる。彼女の真似をして空を見上げると、雲の切れ間から太陽が顔を出し始めていた。さっきまで充満していた蒸し暑さが洗い流されているように思うのは、気のせいだろうか。


「やんだね」


 そう言うと彼女もそうだね、と満足そうに伸びをした。


「そういえば君、何しに行く途中だったの」

「僕はコンビニにアイスを」


 言いかけて、あ、と間の抜けた声が出た。財布を置いてきた。サンダルをつっかけるときに一度離して、そのまま玄関に置き去りにして来てしまったのだ。


 そんな僕を見て彼女がまた笑う。今度は歯を見せない別の笑い方だった。そして手に持っていた小さなビニール袋をごそごそやって、その中のひとつを僕に差し出した。何かと思って受け取ったら、アイスだった。


 呆気にとられている僕を気にもとめずに、彼女はじゃあね、と太陽に肌をさらして軽快に駆けていった。引き止めようと思ったけれど、もたもたしているうちに彼女は大きな一軒家の曲がり角のむこうに消えてしまった。

 

 とりあえず、もらったアイスのパッケージを破る。薄青のそれが、彼女のカットソーの淡い色味と重なる。空の色とも似ているな、と右手で持ち上げてかざしてみたら、六畳一間のあの部屋の天井の形が浮かんできた。表面が溶け出してきて慌ててつゆを受け止めると、やはり想像通りのソーダ味だった。


 ブロロロ、と大袈裟なエンジン音が近づいてきて、それにつれて圭太、と呼ぶ声がだんだんと大きくなる。虎兄だった。


「おまえ金も持たずになにやってんだよ」


 そう言って財布を投げつけられたうえに、脱いだヘルメットで思いっきり頭を殴られた。


「いてえよ」

「いいから、早く乗れ。クーラーの効いた店で何かうまいもん食おう」


 虎兄のいう「うまいもん」とはいつも決まってラーメンだ。言われるままに後ろに跨ると、力任せにヘルメットを被せられた。


「そういえばよ、なんでおまえだけアイス食ってんだ」


 あの人ほど、この青が似合う人は他にいないんじゃないか。


「だって、夏休みじゃん」


 なんだそれ。気のいい笑い声が、息を吹き返し始めた夏の温度に溶け合う。虎兄がアクセルを回してかきわけた風が、僕の火照った頬をさらうようにかすめていった。

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