【短編ファンタジー小説】風の娘エリナ ―見えざる手に導かれて―』

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:風の囁き

 エリナは、薄暗い納屋の隅で身を縮めていた。外では、村人たちの声が騒々しく響いている。

 今日は彼女の14歳の誕生日。

 そして、「風の祭儀」の日でもあった。

 そう、エリナが人身御供として捧げられる祭りの当日……。


「エリナ! どこにいるの?」


 母の声が聞こえる。その声には不安と焦りが混ざっていた。エリナは息を潜めた。自分が選ばれることは、薄々感じていた。幼い頃から、彼女には風の動きを読み取る不思議な才能があったのだ。


 風が納屋の隙間を吹き抜ける。エリナの耳に、かすかな囁きが聞こえた。


「逃げろ」


 エリナは驚いて顔を上げた。誰もいない。しかし、確かに風が語りかけてきたのだ。


「エリナ!」


 今度は父の声だった。

 扉が開く音がする。

 エリナは咄嗟に藁の山に身を隠した。


「ここにもいないか……」


 父の落胆した声が聞こえる。


「早く見つけないと、長老たちが……」


 扉が閉まる音がした。エリナはゆっくりと藁の中から顔を出した。窓から差し込む夕日が、彼女の小さな影を長く伸ばしている。


「逃げろ」


 再び風の囁きが聞こえた。エリナは決意を固めた。彼女は運命に従うつもりはなかった。


 夜が更けるのを待って、エリナは納屋を抜け出した。月明かりの下、彼女は村の外れに向かって走った。風が彼女の背中を押すように吹いている。


 村の境界を示す大きな木の前で、エリナは立ち止まった。振り返ると、幼い頃から慣れ親しんだ風景が広がっている。家族や友人たちの顔が脳裏をよぎる。


「ごめんね……」


 エリナは小さくつぶやいた。


「でも、私は生きたい」


 彼女は再び前を向いた。そこには未知の世界が広がっている。恐怖と期待が入り混じった気持ちで、エリナは一歩を踏み出した。


 風が優しく彼女の髪をなびかせる。


「行こう」


 風の囁きに導かれるように、エリナは歩き始めた。彼女の小さな背中に、夜明けの光が差し始めていた。



 エリナの逃亡が村に発覚したのは、翌日の朝のことだった。長老たちは激怒し、直ちに追っ手を放った。しかし、エリナにはもう後戻りする気はなかった。


 彼女は風を味方につけ、追っ手の目をかいくぐりながら、遠い異国の地を目指した。そこには、風の力を自由に操る術を教えてくれる「風の賢者」がいると聞いていたからだ。


 旅の道中、エリナは様々な困難に直面した。食べ物や水の確保、野生動物の脅威、そして何より、孤独との戦いだった。


 ある日、エリナは小さな川のほとりで休んでいた。疲れ果てた体を癒やしながら、彼女は水面に映る自分の姿を見つめた。


「私、本当に正しいことをしているのかな……」


 不安が彼女の心を覆う。そのとき、突然強い風が吹き、水面が波立った。エリナの映像が歪み、そこに別の顔が浮かび上がったように見えた。それは、まるで未来の自分のような、強さと自信に満ちた表情だった。


「大丈夫。あなたは正しい道を歩んでいる」


 風の囁きが聞こえた。

 エリナは深呼吸をして立ち上がった。彼女の目には、新たな決意の光が宿っていた。


「ありがとう、風さん。私、頑張るね」


 エリナは再び歩き始めた。彼女の足取りは、以前よりも力強くなっていた。



 数日後、エリナは小さな村にたどり着いた。村の入り口で、彼女は老婆と出会った。


「まあ、こんなところで若い娘さんが一人で何をしているの?」


 老婆は優しく尋ねた。


 エリナは躊躇した。これまで誰にも本当のことを話していなかった。しかし、老婆の慈愛に満ちた目を見て、彼女は心を開くことにした。


 エリナが自分の境遇を説明すると、老婆は深く頷いた。


「あなたは勇敢な子ね。でも、勇気だけでは生きていけないわ。知恵と技術も必要よ」


 老婆はエリナを自分の家に招き入れた。そこで彼女は、老婆が実は村の賢者であることを知る。


「私にはもう時間がないの。でも、あなたには可能性がある。私が長年培ってきた知識を受け継いでくれないかしら?」


 エリナは驚きと喜びで目を見開いた。


「はい! お願いします!」


 こうして、エリナの修行が始まった。老婆から戦略の立て方や、自然との共生の知恵を学ぶ日々。それは決して楽ではなかったが、エリナは必死に学んだ。


 夜、エリナは星空の下で瞑想をしていた。風が彼女の周りを優しく舞う。


「私、少しずつ強くなってるのかな」


 風が彼女の頬をそっと撫でる。それは肯定の印のように感じられた。エリナは微笑んだ。彼女の心の中で、かつての弱々しい少女の姿が、少しずつ強い女性の姿に変わりつつあった。


 しかし、エリナの平和な日々は長くは続かなかった。ある日、村に追っ手が現れたのだ。


「エリナ、逃げるのよ!」


 老婆が叫んだ。


「あなたの旅はまだ終わっていない!」


 エリナは涙を流しながら、老婆に別れを告げた。


「おばあさま、ありがとうございました! 私、必ず恩返しします!」


 しかしエリナはやがて追い詰められた。


 断崖絶壁の上で、彼女は20人もの追っ手に囲まれていた。もはや逃げ場はない。エリナは崖下に広がる深い谷を見下ろした。そこで、彼女は驚くべき決断を下す。


「風さん、私を受け止めてね」


 エリナは躊躇なく崖から飛び降りた。追っ手たちは驚愕の表情を浮かべたが、次の瞬間、さらに驚くべき光景を目にする。エリナの体が風に乗って、まるで大きな葉っぱのようにゆっくりと舞い降りていったのだ。


 彼女はそのまま風に乗って村を後にした。追っ手たちの驚きの声が聞こえる。エリナの能力は、以前よりもはるかに強くなっていたのだ。


 空を飛びながら、エリナは決意を新たにした。


「もう逃げるだけじゃない。私は強くなる。そして、いつか村に戻って、あの理不尽な伝統を変えてみせる」


 風が彼女の言葉に呼応するように、激しく吹き荒れた。エリナの旅は、まだ始まったばかりだった。

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