第2章:海風の誘い

 エリナの旅は続いた。


 老婆から学んだ知恵を胸に、彼女は風と共に東へと進んでいった。やがて、広大な海が視界に飛び込んできた。


「わぁ……」


 エリナは息を呑んだ。生まれて初めて見る海の広さに圧倒されたのだ。


 波の音が耳に届く。それは風の囁きとは違う、新しい言葉のようだった。エリナは砂浜に降り立ち、波打ち際まで歩いていった。冷たい水が彼女の足首を撫でる。


「こんにちは、海さん」


 エリナは小さく呟いた。


 突然、潮風が強く吹き、エリナの髪を激しくなびかせた。それは歓迎の意のようにも感じられた。


 砂浜を歩いていると、エリナは小さな漁村を見つけた。腹を空かせていた彼女は、村に入ることにした。


 村の市場は活気に満ちていた。様々な魚介類が並べられ、威勢のいい声が飛び交う。エリナは目を輝かせながら、初めて見る海産物を眺めていた。


「おや、見ない顔だね」


 声をかけてきたのは、エリナと同じくらいの年の少年だった。麦わら帽子をかぶり、日に焼けた肌をしている。


「あ、はい……」


 エリナは少し緊張しながら答えた。


「私、旅をしているんです」


 少年は興味深そうにエリナを見た。


「へぇ、女の子が一人で旅かぁ。珍しいね。俺はレン。この村の漁師の息子さ」

「私はエリナ。よろしく、レンくん」


 二人は市場を歩きながら話をした。レンはエリナに様々な海の幸について教えてくれた。エリナは、レンの明るさと優しさに、少しずつ心を開いていった。


「ねえ、エリナ」


 レンが言った。


「明日、俺たちの船に乗ってみない? 海の上から見る朝日は最高だよ」


 エリナは少し躊躇した。彼女には追われる身だという現実がある。しかし、レンの誘いは魅力的だった。


「風さん、どうしよう?」


 エリナは心の中で尋ねた。

 そのとき、穏やかな潮風が彼女の頬を撫でた。それは「大丈夫」と言っているようだった。


「うん、行ってみたい」


 エリナは笑顔でレンに答えた。


 翌朝、エリナは生まれて初めて船に乗った。揺れる甲板に立ち、朝もやの中を進んでいく。


「ほら、見てごらん」


 レンが東の空を指さした。


 水平線から太陽が昇り始めていた。オレンジ色に染まる海面、キラキラと輝く波。エリナは息を呑むほどの美しさに、言葉を失った。


「きれい……」


 彼女はうっとりとそう言った。


 レンは満足そうに笑った。


「だろ? 俺、この景色が大好きなんだ」


 その瞬間、エリナは気づいた。彼女が求めていたのは、ただ逃げることではない。こんな風に、世界の美しさを知ること。そして、それを誰かと共有すること。それが彼女の本当に望んでいたことだったのだ。


 船は沖へと進んでいく。エリナは船首に立ち、潮風を全身で感じていた。風と海の力が混ざり合い、彼女の中で新たな力となっていくのを感じる。


「ねえ、レンくん」


 エリナが尋ねた。


「あなたは、自分の人生で何がしたい?」

「なんだい、唐突だな」


 レンは少し考え込んでから答えた。


「んー、やっぱり漁師かな。でも、ただの漁師じゃなくて、もっと遠くの海まで行ってみたいんだ。世界中の海を知りたいっていうか」


 エリナは頷いた。


「素敵な夢ね」

「エリナは?」


 レンが聞き返した。

 エリナは空を見上げた。


「私は……風の力を使って、人々を助けられるようになりたい。そして、いつか故郷に戻って、古い伝統を変えたいの」


「風の力って?」


 レンは驚いた様子だった。

 エリナは少し躊躇したが、レンに自分の能力を見せることにした。彼女は手を伸ばし、風を呼び寄せた。すると、穏やかな風が二人の周りを舞い始めた。


「わあ、すげえ!」


 レンは目を輝かせた。


「エリナ、君は本当に特別な人なんだね」


 エリナは照れくさそうに笑った。しかし、その笑顔はすぐに曇った。


「でも、この力のせいで、私は今逃げているの……」


 エリナは、自分が置かれている状況をレンに話した。風の祭儀のこと、村を出たこと、そして追われていることを。


 レンは真剣な表情で聞いていた。話し終えると、彼は強くエリナの手を握った。


「大丈夫だよ、エリナ。君は一人じゃない。俺が守るからさ」


 エリナは驚いて顔を上げた。レンの目には、すでに強い決意の色が宿っていた。


「でも、危ないよ? 本当に危ないよ?」


「構わないさ」


 レンは力強く言った。


「俺だって、本当はただの漁師の息子で終わりたくない。でも君と一緒なら、きっと大きな冒険ができるはずだ」


 エリナの目に涙が浮かんだ。孤独だった旅路に、初めて本当の仲間ができた気がした。


 その時、遠くに黒い影が見えた。それは追っ手の船だった。


「レンくん、ごめんなさい。私、行かなきゃ」


 エリナは急いで言った。

 しかし、レンは彼女の手を離さなかった。


「一緒に行こうって言ったはずだぜ」


 彼は笑った。


「俺の夢の第一歩だ。君を守りながら、世界中の海を巡る。それが俺の新しい目標だよ」

 エリナは迷った。しかし、レンの決意に満ちた目を見て、彼女は頷いた。


「うん、わかった。一緒に行こう」


 二人は小さな漁船を操り、大海原へと漕ぎ出した。風がエリナの力に呼応し、船を素早く進ませる。


 追っ手の船は、彼らの姿を見失っていった。


 エリナとレンの新たな冒険が始まった。風と海を味方につけ、彼らは未知の世界へと旅立っていく。エリナの中で、かつての弱々しい少女の姿は、もはや影も形もなかった。


 そして彼女は気づいた。本当の強さとは、ただ一人で立ち向かうことではない。誰かと心を通わせ、互いに支え合うこと。それこそが、彼女が求めていた本当の力だったのだ。


 海風が二人の髪をなびかせる。それは、まるで祝福のようだった。

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