エイブクレイムス・スレイブズエイク

繕光橋 加(ぜんこうばし くわう)

ライクザット

 私の踏みつけてきた道を指して、ある者は偉大だとけたたましく手を打ち、またある者は打算的で利己的だ、などと親指を下げる。何びとも、他者の所有する財に手を触れることは許されないと言う。街。農村。軍営所。人。過ちを饒舌に語るものもいれば、秘匿されるべき涙や、声にならない叫びさえも数多あり、しかし私たちはその気付きに素直に向き合うことが、たったの一度もありはしなかったように思う。今でもそうだ。

 ある側にとっては奪われていた時間を取り戻すことだが、しかし対立者には新たな財と権利の簒奪そのものである。こうして争いが炎を産み、憎悪を産んだ。自由がこの国に煌めいても、その旗の刺さる土は、存外血で汚れている。汚い、汚らしいと、つい私は顔をしかめてしまう。

 人とはなんだい、ジョン。

 みなが知っている。命が死の下に平等であることを。

 誰もが頭の片隅に置きながら、しかし可能な限り永く生き残るべく、挟まったひき臼からもがき出ようと手を伸ばしている。臼に潰されれば脚は当然折れる。腕も頭骨も折れて、悲鳴が上がり、肉も頭髪もいっしょくたに肉塊と化す。だから逃れるを欲して、空を切るような声であらゆる死者が叫ぶ。

 人。理想的な、神の似姿としての限界点の遥か下に醜い現実がある。重曹付けにされ変色したシダでもまだ、美しさという尺度ではマシであるように思う。その青く、ねばついた身は、そうは言っても冷たく日陰に横たわっているだけだ。大人しく静かで、品のようなものさえ感じられるではないか。

 灼熱とともに地上に降り注ぐ不条理へ、憤慨し、批難し、生き残りを賭けて、小さきものの眼は爛々と滾る。鼠どもはどれほど望み薄に見えようと、死へとただ進む身持ちを拒み、抗おうとするものだ。懸命さ、必死さは、動物共通のものなのであり、その基礎的な執念がしばしば我々の中に軽蔑を産む。イヌでもブタでも、ハリネズミでも。

 例えば、物乞いが鼻息を荒れさせ、酷暑の太陽をものともせず、鉦ベラで鍋底を叩く様子は、一般には目に余ると言えるだろう。汚らしい格好をして、鼻を曲げるような悪臭をはなつ物乞いが、ガラクタをかき集めようとギャアギャアとわめきたてる。あんなことをしても死相は簡単には拭い去れない。ほんの三月あとには、もう助かることもなく、うず高く積み並べられた飢餓の苦しみに頚椎を締められてしまうのだ。オシマイを想起させるのには、その必死さという、過程で演じられた抽出物を目にするだけで充分なのだ。

 しかし、その軽蔑は、実は共感あってこそ展開されるものなのかもしれない。社会のどん底を這い回っても、誰もが生き残ろうとする。どうしようもなく命を継続しようとし、死を遠ざける。それが人なのだと、私は本当に思っていた。実際、私が南軍との兵員引き抜きに奔走し、発狂しかけていたのは君も見ての通りだ。あっちを立てればこっちが立たない、欲が欲を呼び、味方が敵になる。そんな発狂と背中合わせの毎日に耕されながら、私は輝かしい生ではなく、安らかで、夜を渡るような死に憧れを覚えることもあった。


 自惚れるな。

 忙しさによってこそ、私は生き残れたに過ぎない。

 いいやジョン、死とは美しいものであるはずがない。未だ嘗て、君は美しい死を見たことがあるか。ああ、君なら分かってくれるものだと思って、敢えて語るが、死に臨む人々は実に面妖で、寒気が肌をかけていくほど恐ろしい。恐ろしいんだ。

 あの時、君と一緒に見た女は、もうこの世に居ないだろう。私達があの喧騒のステージに残して、逃げてしまったからだ。船底に突っ伏して、嫌な味をするパテを噛みながら、もうその日は二度と、あの岸を見ることは出来なかった。

 悔しささえ感じなかった。昼でありながら、太陽が遠く遠くに感じられた。

 あの男たちの活気ある声も、追い迫る耳鳴りによって、どんどんどんどん遠くなっていった。私は忘れよう忘れようと空を手で掻いたが、しかしあの眼は、ついぞ私の人生について回り続けている。もう何十年も前のことなのに。

 君はどうなんだ。平気なのか。

 平気であるはずがないのは知っている。動天した私が、君の胸襟を掴んだ時、君は気まずそうに目を逸らしていたではないか。心を焦らしながら、ストレートに感情をぶつけた私。しかし君自身、私に怯えたわけでも、気に病んでいたからでもない。君も私と同じように、彼女の眼に呪われたからではなかったのか……?


 震撼させるに足る、恐怖。そして懐かしみ。


 雨を解き放ち、乾きを飲み込む眼。


 なぜ彼女は我々を見ていたのだ?魔王が闇から射抜くように。


 力無く膝を落とすわたしたち傍観者を。


 オークション台にそびえ立つ、手錠に封じられている筈の女。


 札束を持つ、汚れた手を突き上げる観衆の中央。


 一八三一年、ルイジアナを横切る風。


「一滴の血、……それが彼女の手錠を作っているんだ。」


 苦しみ。


「……違うな、エイブ。あれは黒人だ。農園主がめかけに産ませたんだろう。

 たとえ、だ。……たとえ三十二分の三十一、彼女の血が白人だったとしても、三十二分の一、彼女が祖先に黒人を持つなら、彼女という奴隷を解放することは、俺達にはできない。それが血の力だ。」


 君は唸った。


「な、なぜ、なぜ。彼女は、は、白人じゃないのか……?あんなにも残虐なこと、すぐにでも止めさせるべきだ。同胞なんだ!できるんだろう……?」


 恐れが膨らむ直前のささやかな戸惑い。


 ことことと、歩を急ぐ『人々』の群れ。


「……、ん?」


 それまで、疑問になんか持たなかった、些細なこと。


「あんなに小さい子まで買い付けに来るのか。すごいな。」


 それはありふれた当たり前の中に埋没し、鎖によって閉じ込められていたからだ。


「『色んな人』がいるだろう、エイブ。」


 思えば、君が私に言ったのだ。


「頃合を見てずらかろうよ。……流石に人が多すぎるな。」


「……。やれやれ。自分の仕事が先か。」


「……ふうん。」


「労働力ってのは量と質だ。農園なんてその最たるもんだろう。皆、必死になって安い労働力を投入しようとするのさ。」


「……。」


「まあ、荷送人のことを知らなきゃ、受注なんて出来ないからな。お客様のための見学ってことを忘れんな、エイブ。」


「ここが奴隷市かー。すごい賑わいだな、ジョン。」


 道すがら、幌馬車が掛けていく。馬が虚空にいななく。


…………………


 私達があの地を訪れる前から、ずっとずっと繰り返されてきた。異常な活気に湧く奴隷市。多くの商人が行き交うが、しかし何かを閉じ込めておくための寂しい鳥籠である。

 罪を知らなかったばかりに、あの瞬間、私は呪いによって食われた。

 見ていたのだ、絶望にくり抜かれてしまったような眼が。無自覚に、流通する奴隷を消費する私達を。繰り返し叩きつけられながら、それでも塞がった耳のまま談笑する我々を。悲劇を訴えることなどとうに辞めて、その蒼白な顔面を以て、裏切りと衝突をありありと削り出していたのだ。

 眼が合ってから、ずっと怖れ続けている。

 あの少女のえぐるような顔を思い出す度に、私は怖い。どうしようもなく怖い。奥歯が震えて、波のようにガチガチと震えるのは、この歳になっても抑えようもない。

 だから、わ、私はあの日、奴隷を解放した。

 おぞましいと君は思うだろうか。

 それは、五十余万人の黒人に深く共感し、慈悲を与えようとしたからではない。次期の大統領選を見据えて、党の票田を創り出すためでもなんでもない。工業化されていく、鉄の農業が西海岸へ力強く歩み始めるためのものでもない!

 そんなクソどうでもいいことでは断じてない!

 逆に無産階級の黒人が失職する?転落した白人農園主が逆上する?知ったことか!我が偉大なるアメリカは、鋤には干し草が絡み、騎銃に煙が絡むように、放り捨てられた人々の運命が交錯して、勃興するだろう。栄えるがいいさ!


 怖いんだ!!怖いんだよ!!


 あの眼が、わ、私の前に再びやって来るのがさあ!


 思い出にも夢にも浸されぬまま、ただ苛烈な労働と一滴の血とで握り固めらめた眼で、私を見るのを、私がやめさせなければならなかった!そうだ!これが私にとっての、たった一つの解放であり、逃れなのである!

 だから!あの白い女の目は、あれは!


 一撃でこの世界から葬り去らなければならなかった……。


 頭に血が登りすぎた男は、夢に去っていった。髭で誤魔化した痩せた頬は、本当に恐怖によって焼け焦がされていた。ヒューズを飛ばしたが如く、傷物の男は椅子に腰掛けることをやめていた。深く青いジャケットを暗い赤が蝕む。歓声が悲鳴へと変わる混沌とした演劇場を、目醒めさせられた人々の悲喜こもごもを、無表情に太陽は視降ろしていた。

 さあ、私を殺したのは銃だったろうか?夢だったろうか?

 今こそ答えたまえ。親愛なる我が友!


 ジョン・ハンクス!


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エイブクレイムス・スレイブズエイク 繕光橋 加(ぜんこうばし くわう) @nazze11

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