洒涙雨

蛙鳴未明

洒涙雨

 雨だ、という声に顔を上げると、山並みが白く煙っていた。口を尖らせ、窓に顔をくっつける少年を、母親が慌てて引き戻す。こら、お店の窓汚しちゃダメでしょ。でも、これじゃあ織姫と彦星会えないよ――少年の顔の跡が拭きとられていく。その向こうで笹が揺れている――いいのよ、二人は今更会えなくたって――藻の浮く水槽のように声がぼやけている。俺は川底の貝のように黙って、親子を眺めるともなく眺め、マグカップを拭くともなく拭いている。

 母親がやってくる。レジ台を挟み、予定調和の会計処理。ごちそうさまでしたに会釈をし、手を引かれながらこっちを見上げる少年へちょっと笑顔をつくる。鈴が鳴って戸が閉まる。俺はカウンターのこちら側で一人きりになる。くぐもって響く子供の声。何を言っているのか分からない。母親が困った顔をして、胸から上を窓に切り取られている。ああそうだ、濡れる前にしまわなければ――揺れる笹飾りを見て、ぼんやりと思う。ここ数年、七夕は雨だ。今年も沙羅は帰らなかった。


 俺はコーヒー狂いの山男だった。それを喫茶店主に変えたのは沙羅だ。山小屋で働いていたある晩、怪しい物音に裏口を開けると、ずぶ濡れの彼女が立っていた。泥と小枝まみれで、いったいどこをどう彷徨ってきたんだと聞くと、彼女は笑った。コーヒーの香りに誘われて――ストーブの傍で毛布にくるまれ、両手ですっぽりとマグを包み、頬を赤くして、彼女は俺のコーヒーを褒めた。以来、ちょくちょく山小屋へ来るようになった。

 恋し、愛した。沙羅は山岳写真家。飄々として神出鬼没。いつも予想もしないところから山小屋に入ってきては、注意するたびに決まってこう言う――君のコーヒーに誘われちゃってさ――数年かけておだてあげられた結果、俺は山を下り、カフェを開いた。彼女もそこに住み着いた。店も軌道に乗り、いよいよ結婚を切り出すだけになった。今日こそは、今日こそはを繰り返しているうち、俺は階段から落ちて足を折った。当たり所が悪かったら――背筋が冷えた。松葉杖をついて三日目、七夕が来た。


「今年は会えなそうだね、織姫と彦星」


 天気予報を見ながら、彼女は赤いバンダナを頭に巻く。窓の向こうの山並みが、夜明け前に映えていた。


「午後から雨だろ、気をつけろよ」

「大丈夫。パッと撮ってパッと帰るよ」

「ごめんな、ついて行けなくて。足折るなんて、俺は馬鹿だ……」

「いいのいいの。どうせコーヒー淹れるくらいしか頼まないから」

「おい、それ以外もあるだろ色々」


 あはは、と沙羅は笑い。やっぱこの味だなあ、とマグを置く。いっぱいにしたテルモスを渡しながら、俺は唾を飲んだ。


「な、なあ」

「なに?」


 手を離さないまま、乾いた舌をゆっくりと動かした。


「帰ってきたら、話が、あるんだ」


 沙羅は目を見張り、微笑んで、汗ばんだ俺の手からテルモスをとった。


「楽しみにしとくね」


 ジッパーを上げ、リュックサックを背負う。ちりん、と鈴が鳴る。


「じゃ、行ってきます」


 午後になり、雨が降り、日が暮れても沙羅は帰らなかった。大規模な捜索隊が組まれ、ヘリが飛んでも、彼女は見つからなかった。盆にも、正月にも、髪の毛一本とても。あれから五年、毎年俺はカレンダーに赤丸をつける。印などつけなくとも、決して忘れない。それでもマルをつけるのは、今年こそはと願うからだ。

 マルに二重線を引きかけて、まだわからない、と手を下ろす。結局、笹飾りはびしょ濡れになってしまった。扇風機の風にふわりと遊ぶ色とりどりの短冊たち。滲んだ文字が踊る。



 祖母が元気になりますように ミナ

 商売繁盛 北野

 プレステ K

 この先も健康でありますように おじい

 ユキ大好き! 裕二

 ユウジと結婚できますように ユキ

 子供たちが健やかに育ってくれますように ママ

 雨がやんで、おりひめとひこぼしがで会えますように たやましゅうた

 


 目を細めた。雲間が開き、黄金の光が雨粒を輝かせていた。エプロンを外した。鈴を鳴らし、営業中の札をひっくり返して、俺はあてどもなく歩き始めた。


 一粒一粒が俺にランダムな跡をつけ、あちこちに浸透していく。じくり、と足が痛む。彼女を探すのに大分無理をしたせいで、全治二ヶ月が三ヶ月になり、未だに尾を引いている。前髪が垂れ下がり、視界が狭まる。傘を持ってくればよかったか、と思うが、今は濡れたい気分だった。


 川を辿って流れていく。墨を落としたように濁った川は、あちこちで小さな水路に分岐し、田んぼを波紋で潤している。向こう岸のまばらな光は、それでも家庭の温さを湿度七十%に浸透させている。


――沙羅が帰ってきていたなら、俺にもあれくらいの年の子がいただろうか。七夕飾りを三人で飾っていただろうか。


小さな橋を渡りかけ、向こうに誰もいないのを思い出して立ち止まる。見下ろした川面はあらゆる藍を溶かしたように泡立ち、暗がりの奥の奥まで続いて、海までも繋がっている。濁りの内に俺までも溶けいってしまいそうな、錯覚。


――そういえば店に鍵をかけてこなかった。まあいいか。勝手に入るのなんて、泥棒か沙羅くらいだ。そのどちらも、この町には


 ――視界の端を、何かがよぎった。色褪せた赤が川面を滑ってゆく。小さな銀色の綴りが黄昏を反射する。心臓が跳ねた。折れそうな欄干から飛び退いて、俺は駆け出した。

 細長い赤は水蛇のように揺らめき、裏が表になり、よじれ、いっさんに川下へ川下へと。シルエットが面積を増す速度はじれったく、俺は肺が焦げるほどに息をする。足が痛い。耳鳴りがする。流れがゆるりと曲がっていく。澱みに繁茂する葦に引っ掛けられ、バンダナが揺れている。手招くように、銀のイニシャルがはためいている。ほつれきっていたが、はっきりと読めた。読めないはずがなかった。掴めないはずがなかった。なのにそれは大きな枝に攫われて、下流へ流れていってしまった。

 ぬかるみに足を掬われ、水面に頭から突っ込んだ。濁りに攫われそうになりながら、俺は必死に手足をばたつかせ、うぞうぞと岸へ這い上がる。膝をついた。燃えるような熱さに咳込み、立ち上がろうにも脚が言うことを聞かない。鈍い痛みをぬかるみに投げ出して、俺は随分小さくなってしまった赤を、さらにぼやけて溶けていく赤を見送る。手を振るようにひらめいて、とうとうそれは見えなくなった。幾度の雪解けがあれを運んだのだろう。何度、雨にのって、彼女は帰ってきていたのだろう。

 川辺で熊笹が揺れていた。葉の一枚を手に取って、俺は願い事を書き付けた。



 すこしずつ、帰ってきてください コーヒー狂いの山男



 沙羅に初めてそう呼ばれたのだった。そっと、波紋の上に笹の葉を滑らせる。願いは届くだろうか。バンダナに追いついてくれるだろうか。あんなに速く流れていくなら、来年の七夕も雨でいい。


 軒下に誰かが佇んでいた。若い女性。登山リュックがそばにある。鼓動が跳ねるのを抑え、声をかける。


「当店になにか御用ですか」


 びくりと震えて顔を上げ、目を丸くして息をのんだその顔は、沙羅とは似ても似つかない。我知らずため息を吐くと、蚊の鳴くような声がする。


「あ、えっと、豆、買いたくて……マップではまだ営業ちゅ――すみません」


 何も言っていないんだが、怖がられてしまっただろうか。そういえば俺は泥だらけで濡れそぼり、折れた傘を小脇に抱えているのだった。精一杯の笑顔で扉を開けた。


 鈴を鳴らして、彼女は帰っていった。七夕ブレンドが仲間うちで評判らしい。店じまいをし、風呂に入り、カレンダーに向かう。七月七日の赤丸に二重線を引きかけて、手を止めた。ちょっと考え、かわりに三角を書き入れる。来年も、と思う。笹飾りが部屋の隅で乾いていた。

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