【完結】カナリヤ(作品241010)

菊池昭仁

【完結】カナリヤ(作品241010)

第1話

 

       うたをわすれたカナリヤは うしろのやまにすてましょか

 

       いえいえそれはなりませぬ


       うたをわすれたカナリヤは せどのこやぶにうめましょか


       いえいえそれはなりませぬ


       うたをわすれたカナリヤは やなぎのむちでぶちましょか


       いえいえそれはかわいそう


       うたをわすれたカナリヤは ぞうげのふねにぎんのかい


       つきよのうみにうかべれば わすれたうたをおもいだす



 

                童謡『かなりや』




 私は歌を忘れたカナリヤだった。

 離婚、母と愛犬との死別、スキャンダル、ネットでの誹謗中傷、移籍した事務所との確執。

 あまりにも辛い事が続いて、私は歌うことが出来なくなってしまっていた。

 ステージに立ってスポットライトを浴びると体が震えて歌が歌えない。

 藝大の院でアカデミックに声楽を研究した私は単身、イタリアへ留学し、さらに声楽に磨きをかけた。

 そしてそこで知り合った同じ大学のカルロスと恋に落ち、結婚した。

 彼はバリトンのオペラ歌手を目指していて、私はソプラニスタになるために毎日が必死だった。

 ディーヴァ、歌姫になるのが私の夢だった。

 オペラ歌手になるためにはイタリア語が母国語のように操れなくてはならない。

 私はカルロスからイタリア語とセックスを学んだ。


 カルロスとは2年で破局した。

 彼が私の元を去って行ったからだ。

 私は失意のどん底に落ち、志半ばで日本へ帰国することにした。



 

 日本に帰国してからはイタリア語の通訳、翻訳の仕事をしながら声楽のレッスンを続けていた。

 そんなある日、私の個人リサイタルに来ていた芸能プロダクションの尾形に声を掛けられた。


 「いいリサイタルでした。特に高音がムチのようにしなやかで伸びやか、ブレがない。

 いかがですか園部早紀さん? ウチの専属歌手になりませんか?」

 「御社はオペラ業界にも顔が利きますか?」

 「正直に申し上げると、オペラ業界はあまり得意分野ではありません。ウチはポップスが殆どの音楽事務所です。

 ポップス・シンガーとしてデビューしてみる気はありませんか?」

 「すみませんが私はオペラのアリアを歌うことにしか興味がありませんので、折角のお誘いですがお断りいたします」


 私は何事も即断即決だった。短い人生に迷う時間はない。


 「そうでしたか? 残念です。でももし気が変わりましたらここへご連絡をいただけると幸いです。

 ではいずれまた近い内に。園部さんとは長いお付き合いになりそうな気がします」


 尾形は私に名刺を渡すときびすを返して去って行った。

 私はその名刺をゴミ箱に捨てた。



 (冗談じゃないわよ! この私に演歌や歌謡曲を歌えと言うの? 音楽と真剣に向き合って来たこの私に!)


 


 何度かオペラの舞台にも立ったがプリマドンナの役は貰えず、合唱のメンバーにしかなれなかった。

 恋も音楽も上手くはいかなかった。

 寄ってくる男たちは皆、私の音楽には興味はなく、私のカラダが目当てだった。

 うんざりだった。

 私は自暴自棄になり、お酒とタバコを覚えるようになり、次第に声を潰していった。

 自慢だったソプラノ・ヴォイスはハスキー・ヴォイスへと変わってしまった。

 生きているのが辛かった。

 


 そんなある日、酒場で偶然、ジュリー・ロンドンの歌と出会った。


 『酒とバラの日々』


 稲妻に打たれたような衝撃だった。

 類稀たぐいまれなる美貌と艶のあるウエットに富んだ歌声。

 私は彼女にすっかり魅了されてしまった。



 (これがJAZZなの?)



 私のJAZZシンガーとしての人生は、ここからスタートしたのである。

 



第2話

 人生に絶望しかけていた私をJAZZが救ってくれた。

 私にはオペラしかないと思っていた。私はアリアを歌うべきディーヴァだと。

 だがオペラは私には似合わない衣装であり、無理やりそのオペラという衣装に自分を合わせようと、必死に藻掻いていただけだったのかもしれなかった。


 JAZZはすぐに私を受け入れてくれた。

 片思いなのか両思いなのか? 別れるのか添い遂げるのか?

 JAZZもまた洋服と同じで、似合っているとかいないとか、そういう第三者の評価は不要だった。

 その服の着心地が自分に合っていればそれで良かった。それがいいかどうかなんて自分が決めるものだからである。人生の幸福なんてそんなものだ。

 JAZZとの出会いが私に新しい音楽の道を示してくれた。



 JAZZは19世紀末から20世紀初頭にルイジアナ州ニューオリンズの黒人たちの間で生まれた音楽である。

 初めは「JASS」と呼んでいたようだが、それがやがてJAZZとなった。

 どちらもスラングで性行為の意味を持つ隠語だ。

 黒人霊歌やフィールドハラー、労働歌としてのブルースやシンコペーションを主体とした黒人音楽、ラグタイムをそのルーツとしていた。

 主に西アフリカから「輸出」された黒人奴隷たち。男は過酷な労働に従事させられ、女は子守や掃除、炊事に洗濯をするメイドとして、また白人の性奴隷にされていた。

 そして白人と黒人との混血、「クレオール」が生まれたのである。

 欧州のクラッシック音楽と西アフリカのリズムサウンドが融合してブルースなどが生まれ、後にJAZZへと進化して行った。

 JAZZは楽譜に忠実な西洋音楽とは異なり、複雑なコード進行に合わせて自由にセッションすることが出来る、演奏者たちのアドリブが主体の音楽となって行った。

 JAZZプレイヤーの中には楽譜を読めない者もいる。つまりJAZZは心から生まれる魂の瞬間芸術なのである。


 藝大での同期、ピアノ科の左近寺さこんじに訊いたことがある。


 「ねえ、左近寺はJAZZって弾いたことあるの?」

 「JAZZ? 俺は黒人の音楽は認めない。音楽とはショパンでありベートーヴェンであり、モーツァルトでありバッハなんだ。JAZZを弾くとヘンな癖がついてクラッシックが弾けなくなってしまう。だから俺はJAZZは演奏したことがない」


 左近寺はそう憮然ぶぜんと言った。

 その頃の私はオペラに夢中だったので、それ以上JAZZの話に触れることはなかった。

 そして今、私はそのJAZZに夢中になっている。

 この体の震えは一体何だろう? 頬が泡立つようなこの感覚。まるで灼熱の砂漠で見つけたオアシスのようだった。

 私の心の渇きをJAZZが潤してくれた。

 私はJAZZを求めて喫茶店やBAR、クラブを巡って歩いた。それはまさに「JAZZ巡礼」だった。



 そんなある日、生演奏をやっているBAR、『Lost Quintetto』を訪れると、あれほどJAZZをけなしていた左近寺がピアノを弾いていた。

 演奏をしながら私に気付いた左近寺は、照れ笑いをしながら演奏を続けた。

 それは軽快なChick Coreaのようなピアノだった。



 演奏が終わると左近寺が私のところにやって来た。


 「早紀、日本に帰っていたのか? 久しぶりだな?」

 「JAZZは音楽じゃないんじゃなかったの? 左近寺」

 「ごめん、訂正するよ。JAZZは素晴らしい音楽だ。

 折角苦労して音大を出ても、学校の音楽教師の職はあってもピアニストとしての仕事はない。俺は何もせず、毎日を宛もなく街を漂っていた。その時なんだ、JAZZと出会ったのは。すごい衝撃だった。

 早紀、これほど凄まじい音楽はないよ!」

 「何だかそれを聞いて安心したわ。私もすっかりJAZZのとりこになってしまったから」

 「早紀もか? オペラは? イタリアに留学したって聞いたけど?」

 「もうオペラは辞めたの。声がダメになっちゃって」

 「俺は好きだけどな? 早紀のその声」

 

 お世辞でもうれしかった。


 「ありがとう左近寺。でもこの通りお酒とタバコで声はダミ声、高音も出なくなっちゃった。今では3オクターブも怪しいくらい」

 「それならJAZZを歌えばいい。Diana Krallは知ってるよな?」

 「知らない。誰それ? 有名な人?」

 「彼女を知らない奴はモグリだぜ。白人だが少ししゃがれた低音が魅力のJAZZシンガーだ。それに早紀みたいに美人でピアニストでもある。音楽の基礎もしっかりしているJAZZヴォーカリストだ。

 ちょっと待ってろ、今、レコードを掛けてやるから。 マスター、次はダイアナを掛けてもいいかい?」

 「いいよ」


 マスターは棒タイの似合うロマンスグレーの頭髪に、ヒゲを生やした紳士だった。


 

 『Fly me to the Moon』



 彼女が歌うその最初の一音で私は心臓を正確に撃ち抜かれた。

 Julie LondonもFrank Sinatraも、みんなが歌うあの美しいバラード。

 だがダイアナのそれは唯一無二の音楽だった。似て非なる物だった。

 私は自然とそれを口ずさんでいた。


 「早紀、歌ってみるか? 俺のピアノで」


 左近寺はレコードを止め、ピアノの前に座った。

 私はスタンドマイクの前に立って左近寺のピアノを待った。そして左近寺は私に目配せをした。


 (行くぞ早紀)

 (うん)


 私は目を閉じ、彼のピアノに合わせて心を込めて歌った。

 セックスの時以上のエクスタシーが私を包み込んだ。

 忘れていた聴衆の前で歌うこの快感。

 左近寺の弾くピアノ、スネアドラム、ウッドベース、アルトサックスにフルートが続いてセッションが始まった。


 その後、『Cry me a River』『Smoke Gets in Your eyes』も歌った。

 涙ぐんでいる若い女性客もいた。


 歌い終わるとお客さんたちから拍手喝采を浴びた。しあわせだった。

 小さなBARが揺れた。

 私は白い燕尾服を着たオペラを追いかけるのを諦め、ちょいワル男のJAZZに益々のめり込んで行った。




 左近寺からの推薦もあり、私は彼らのメンバーに加えてもらい、正式にヴォーカリストになった。



 夜のステージの前に、左近寺と近くのカフェテラスでお茶をした。


 「阿川泰子やジュリー・ロンドンよりも、早紀の歌はとてもセクシーだよ。今まで余程辛いことがあったんだな?」

 「まあね? それなりに色々あったわ。左近寺はどうなの?」

 「2年前に離婚した。妻と娘を悲しませてしまった」

 「へえー、左近寺、結婚していたんだ?」

 「子供が出来てな? デキ婚だよ。

 院を出てすぐに籍を入れた。そして別れた」

 「子供さんには会わせてもらっているの?」

 「いや、会わせてもらってはいない。だが仕送りだけは続けているよ。少ない額だけどね?」

 「エラいね? 左近寺は」

 「一応、俺も親だからな?」

 

 私はそれ以上その話を掘り下げようとはしなかった。

 私には奥さんの気持ちが痛いほどよく理解出来たからだ。

 ピアニストの夢を追う生活力のないやさしい夫とどんどん成長していく子供。女は安定が欲しい。将来の揺るぎない、より確実な保証が。

 夢でご飯は食べられない。

 私は話題を替えた。


 「左近寺の実家は病院だったよね? どうして医者にならなかったの?」

 「まともな医者になるのは大変だと思ったからだ。それに兄貴と姉貴が医者だし、俺のミスで人が死んだら俺は生きてはいけないからな?

 でも一応医大も受験して合格したんだけど、藝大に進学した。

 親にはもちろん反対されたよ。「ピアノは趣味でやればいいだろう?」とね?

 そして俺は世界的なピアニストになると宣言したんだ。早紀、ここ笑うところだぜ? あはははは

 俺は医者じゃなく、人の人生に潤いを与えるようなピアニストになろうとしたんだ」


 胸がキュンとした。左近寺はこんな奴だったと思い出した。

 いつも自分の夢をキラキラとした瞳で熱く話す男だった。


 「早紀、JAZZって深いよ。覗けば覗くほど底が見えなくなる。入り込めば入り込むほど迷い込んでしまう。

 貴族のようにワイン片手の上流階級の音楽ではなく、庶民の、黒人たちの喜怒哀楽に溢れているのがJAZZなんだ。

 俺はそんなJAZZを極めてみたい」

 「私も」


 私たちはサンドイッチを食べ、アイスティを飲んだ。

 日傘を差した女たちが、テラス席の前の坂道を俯くように登って行った。




第3話

 JAZZが私の生き甲斐になった。

 私はやっとやるべきことが見つかった歓びに、とても晴れやかな気分だった。

 藝大からの親友、葉瑠子に電話をした。


 「葉瑠子久しぶりー。どう? 一緒にご飯でもしない?」

 「ちょっとびっくりさせないでよー。丁度今、早紀のことを考えていたところよ。

 いいわよ、出来れば和食がいいなあ。ここんところイタリアンやフレンチが続いたから」

 「それじゃあ『てん』にする?」

 「うんうん、『てん』の中トロ定食がいい! 『てん』のお刺身は冷凍じゃなくて生だしね?」


 

 木曜日、私たちは和食処『てん』で少し遅目のランチをした。

 葉瑠子はピッタリとしたボルドー色のタートルネックにベージュのガウチョパンツでやって来た。

 彼女はいつも流行に左右されない着こなしをする。


 「トレンドは私よ」


 葉瑠子は自分のファッションに確固たる自信があった。それは彼女の生き様そのものだった。

 彼女はフルート奏者だった。中堅どころのオケのメンバーでもあり、時々個人リサイタルも開いていた。

 音大受験を目指している生徒たちにもフルートを教えている。

 胸のふくらみが色っぽい。男はこれを見逃さないだろう。

 中トロを食べる仕草が艶めかしい。


 「心配してたのよ、どうしているかなあって」

 「やっと元気になったから電話したの」

 「オペラの方は順調?」

 「オペラは辞めたわ」

 「どうして?」

 「オペラが私を好きじゃないことに気づいたから」


 葉瑠子は箸を止めて私を睨んで言った。


 「アンタはバカ? 向こうが好きじゃないから辞めた?

 音楽は恋愛と同じ。だったら自分を好きにさせるまででしょ?」

 

 葉瑠子は幼少期をヨーロッパで過ごしたこともあり、白人のように自分の考えをいつもストレートにぶつけてくる。

 だが私は彼女の忖度のないこの態度が好きだった。

 彼女には曖昧という文字がない。YESかNOか、白か黒か、好きか嫌いかなのである。

 中途半端という考えは葉瑠子にはない。


 「でもその代わり新しい恋人を見つけたわ」

 「誰よそれ?」

 「凄いイケメン。渋くて何を考えているのかわからないような人」

 「ふーん、早紀が年上好みだったとはねえ。それでそのお相手は?」

 「JAZZよ」

 「JAZZ? JAZZってあのJAZZ?」

 「そうよ、あのJAZZ」

 「あんなにアカデミックな音楽に拘っていたアンタがJAZZをねえ? あの気分屋の黒人即興音楽に惚れるなんて」

 「JAZZは痺れるわよ、どんな男よりもね?」

 「どこで歌っているの? 早紀のJAZZヴォーカル、一度聴いてみたい」

 「今夜も18時から歌うから来る?」

 「もちろん」


 そして葉瑠子は『Lost Quintetto』にやって来ることになった。


 


第4話

 最初の曲はダイアナ・クレールの『Love』を歌った。

 聴衆の雑音が止んだ。

 肩を寄せ合い静かにグラスを傾ける恋人たち。

 十分な手応えを感じた。その中に葉瑠子の温かい視線もあった。


 カーメン・マクレーンの『Round Midnight』、エラ・フィッツジェラルドの『Angle eye』も歌った。



 歌い終わると葉瑠子がステージにやって来て私を抱きしめてくれた。


 「JAZZ界の藤圭子、現るといったところね? 久しぶりに魂を揺さぶられたわ」

 「ありがとう葉瑠子。藤圭子かあ、ちょっとうれしいかも。私、彼女のファンだから」

 「女にしか出せないあの切ない「情念」を感じたわ。

 早紀のイタリア語のベルカントもいいけど、これはまったくの別物ね?

 涙が出ちゃった」

 「うれしいわ、あなたにそう言ってもらえると。

 紹介するわね? ピアノは私たちと同じ藝大の・・・」

 「左近寺君よね? 大学でピアノ科だった?」

 

 すると左近寺は驚いたように葉瑠子を見た。


 「君も藝大なの? 話したことあったっけ?」

 「ないわよ。でも私はあなたのことは知っている、あなたの弾くベートーヴェンはとても魅力的だったから。

 でもびっくりしちゃった。早紀と左近寺君が付き合っているなんて知らなかったから」

 「ちょっと葉瑠子、勘違いしないで。私たちは付き合ってなんかいないわよ。ただのセッション仲間。

 私がこのお店に来た時、偶然ここで彼と再会したの。

 クラシック以外は音楽じゃないと言っていた左近寺がJAZZを弾いているから驚いちゃって。

 そしてその時飛び入りでこの仲間たちとセッションをさせてもらって、左近寺のコネで私もバンドのヴォーカルにしてもらったという訳」


 その時、私はチラリと左近寺の顔を見た。

 少しがっかりしているその顔が面白かった。私は少し優越感に浸った。


 「それじゃあ私が左近寺君を誘惑してもいいわけだ」

 

 葉瑠子の思いがけない言葉に、私は少し戸惑った。


 「どうぞどうぞ。ねえ左近寺、葉瑠子がそう言っているけどあなたは今フリーよね?」

 「俺はいつもフリーだよ。こんな美人にそんなこと言われると本気にしちゃうぜ?」

 「あら、私は本気よ。だって大学の時からずっとあなたが好きだったから」


 流石は葉瑠子だと思った。彼女は恋愛でも躊躇はしない。

 好きなら好きと、相手の反応などお構いなしに自分の想いをダイレクトに伝えられる女だった。


 (でも何? この嫌な気持ち、 悲しい気持ちは?)


 「うれしいなあ、こんな美人にそんなこと言われると。

 本当はこのままデートしたいところだけど、今夜は生憎あいにく用事があるから先にあがるね?

 ゆっくりして行くといいよ。それじゃ早紀、また明日。今日もイカしてたぜ、お前の歌」


 そう言って左近寺は私と葉瑠子を残して帰ってしまった。葉瑠子はがっかりしていた。

 私はその後、バンドのメンバーを葉瑠子に紹介した。


 「私は早紀と同じ大学でフルートをやっていました。今は中規模のオケで奏者をしています」

 「今度、楽器を持っておいでよ。ダブルフルートもありかもよ?」

 「ありがとうございます。それじゃあ今度一緒にセッションさせて下さい」

 「ウチはいつでも大歓迎さ」



 私たちはテーブルに移動し、お酒を飲んだ。


 「びっくりしちゃったわよ、葉瑠子が左近寺のことが好きだったなんて」

 「ごめんね、実はアンタの歌を聴きながら彼のことばかり見ていたの」

 「コイツー。あはははは」

 

 すると葉瑠子はマルガリータを一気に飲み干して私を真っ直ぐに見て言った。


 「早紀、あなた本当は左近寺君のことが好きなんでしょう?」

 「やめてよ、左近寺は私のタイプじゃないわ。そもそも私は白人が好きだから日本人には興味はないわ」

 「相変わらず分かり易い子ね? アンタって子は。

 でも譲らないわよ、恋は戦いだもの。盗るか盗られるかだから。


 私はその時初めて気付いた。自分が左近寺を愛していることに。





第5話

 家に帰っても葉瑠子の言葉が耳から離れなかった。


 「早紀、あなた本当は左近寺君のことが好きなんでしょう?」


 その通りだった。私は左近寺に、そして彼の弾くピアノに恋をしていた。

 確かに私は葉瑠子の言う通り、分かり易い女だ。

 おそらく左近寺にもそれは伝わっているかもしれない。

 だが葉瑠子は左近寺を好きだという。私は葉瑠子から宣戦布告をされてしまった。

 親友の葉瑠子が私の大切な恋を奪おうとしている。

 恋か? それとも友情か?

 私の心は揺れた。


 左近寺からLINEが届いた。


  

    明日 ライブが終わったら

    メシでもどうだ?



 私はすぐに返信をした。



                  いいよ


    おやすみ

                  おやすみなさい



 本当は彼の声が聞きたかったが我慢した。

 電話をするとヘンなことを言ってしまいそうだったからだ。




 YouTubeでも私たちのライブ配信をしていたので、SNSでそれが拡散され、店はいつも立ち見が出るほどお客さんたちで溢れていた。

 やはり聴衆が多いほど歌い甲斐があるというものだ。

 オペラにやって来るハイソサエティなお客さんとは違い、仕事に疲れたサラリーマンや学生、老若男女の夫婦や恋人たち。美味しいお酒と私の歌で酔わせてあげたい。



 今夜のアンコールは『The Days of Wine and Roses』にした。

 左近寺の弾くピアノが伊東さんのスネアドラムのベッドで寝返りを打ち、大神さんのウッドベースがそれに絡んで行く。

 私は精一杯歌った。左近寺のピアノに気持ちよく抱かれて。


 歌い終わると割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こり、私は最高の気分だった。


 

 ライブが終わり、私は心地よい開放感の中、左近寺と食事に出掛けた。


 「中華でもいいか?」

 「うん、早く冷たいビールが飲みたい。もう喉がカラカラ」

 「よし決まりだな? 冷えたビールにはやっぱり中華だからな?」

 


 私たちは中華を食べるために渋谷まで出ることにした。

 左近寺と私は終電に並んで座った。

 私の左半身が左近寺のカラダと触れている。太腿に腰、肩も。

 左近寺のタバコの匂いと淡いムスクの香り。 

 ライブ演奏が終わった後だったから、微かに香る彼の汗の匂いが、私の忘れていた女を思い出させた。


 (抱かれたい気分)



 眠らない街、東京。

 流れる都会のネオン、ビルの明かりが流星のように過ぎてゆく。


 (中華なんてどうでもいい。左近寺の肩に顔を乗せ、手を繋いでこのままずっと電車に乗っていたい)


 私はそんな妄想をしていた。




 深夜営業の朝までやっているというその中華レストランは、午前零時を過ぎているというのに混雑していた。

 渋谷は新宿歌舞伎町とは人種の異なる欲望の街だ。

 店内には丸の内の職場で働くような紳士淑女が人目もはばからずに、ディープ・キスに興じていた。

 左近寺は私を見て苦笑いをした。


 「まずはビールだな? 後は何が食べたい?」

 「とりあえずビール。後は左近寺に任せるよ」

 「そうか? 嫌いなものはあるか?」

 「いちゃついてるアベックだけ」

 「あはははは。それじゃあ適当に注文するぞ。

 今日はライブ前にメシを食い損ねたから腹が減ったよ」


 左近寺はウエイターを呼んでオーダーを伝えた。


 「生2つ、大急ぎでお願いします。彼女、今、ヒートアップしているから。

 それから春巻と焼売、酢豚と鶏肉のカシューナッツ炒めを下さい」

 「かしこまりました」



 すぐにザーサイのお通しと生ビールが運ばれて来た。


 「あら? 意外と小さいグラスなのね? 早めにお替りもお願いします」

 「かしこまりました」


 乾杯をした。冷たいビールが爽快に喉を流れて行く。

 斜め向かいのカップルのタイトスカートの女は、いつの間にか商社マン風の男性の膝の上に乗ってキスを続けていた。


 「ここはレストランよ、そんなにしたいなら道玄坂のラブホにでも行けばいいのに」


 すると男はそれに気づいたのか、料理を残したまま勘定を済ませて女と店を出て行った。


 「凄いな早紀は?」

 「だって美しくないんだもの。いやらしいキスだったから。

 映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンなら許すけど、三谷幸喜と指原莉乃のラブシーンなんて見たくもないわ」

 「早紀らしいな?」


 私たちは顔を見合わせて笑った。

 すると左近寺が私の手の甲に自分の手を重ねて言った。


 「早紀、お前のことが好きだ。俺と付き合って欲しい」


 心臓が止まりそうだった。


 「葉瑠子のことが好きなんじゃないの?」


 私は左近寺に意地悪な質問をした。答えはすでに予想出来てはいたが、左近寺の口からそれを言わせたかったのである。


 「俺は早紀のことがずっと好きだった。学生の時からずっと。彼女には興味はない。

 昨日、先に帰ったのは別に用事があるわけではなく、彼女と話をするのが面倒だったからだ。

 俺はあの時思ったんだ、きちんと早紀に自分の想いを伝えるべきだと」

 

 私たちの目的は達成された。

 お替りのビールとお料理が運ばれて来た。


 「とにかく今夜はトコトン飲みましょうよ!」

 「それで早紀の答えは?」

 「NOならとっくにあなたの手を振り払っているわよ」

 「ありがとう、早紀」


 その夜の宴は朝方まで続いた。




第6話

 「だいぶ外が明るくなって来たな?」

 「だってもう4時だよ。あー、飲んだ食べたあー」

 「そろそろ始発の時間だな? 家まで送るよ」

 「本当に送るだけ? あはははは」

 「多分」


 左近寺はすでにそのつもりのようだった。そして私も同じ気持ちだった。




 私たちは店を出て夜明け前の街で抱擁し、熱い口づけを交わした。

 誰も私たちを気に止める者はいない。渋谷はそんな街だった。ここは外国だった。



 手を繋ぎ、私たちは道玄坂のラブホ街を歩いていた。

 

 「もう歩くの疲れたあ。ここで休んで行こうよ左近寺」

 「休むんじゃなくて、少ししていくか?」

 「どんな運動するの? うふふっ」


 私は左近寺と腕を組んでホテルへと入って行った。




 そのラブホはまだ昭和の風情のある、猥雑で下品な部屋だった。少しカビ臭い匂いがした。

 私たちはドアを閉めるとすぐに激しいキスをした。


 「好きだ! 愛しているよ早紀!」

 「私もよ、清彦!」


 私は彼を苗字ではなく、名前で呼んだ。

 左近寺が私のスカートをたくし上げ、私の敏感な場所に触れた。

 

 ベッドに倒れ込み、キスをしながらお互いのカラダを貪るようにいじくり合った。

 左近寺は素早く服を脱ぎ捨て、私の服を脱がせに掛かった。

 私はすぐにブラとショーツだけの姿にされた。

 今日はもしものことも考えて、多少冒険的な下着を着けて来たが、汚れていないか少し心配だった。

 その行為は彼の激しいフォルテ・フォルテッシモから始まり、私は彼のにされた。

 彼の舌が私の瞼、顎、首筋を舐め、私を四つん這いにさせるとブラを外し、乳房を揉みながら背骨に沿って舌を這わせて来た。


 「あっ あ」


 かつては既婚者だった彼の愛撫には緩急があり、的確に私のウィークポイントを捉えた。

 彼の手が私のパンティを脱がしに掛かった。「ヌッチャ」っという淫らな音が漏れた。

 シャワーを浴びたかったがもう遅かった。

 左近寺が私のヴァギナからアヌスを丁寧に舐め始めると、私は意識が遠退とおのいて行くようだった。


 私はここしばらく男に抱かれてはいなかった。

 彼のゴツゴツした指が、私を歓喜させてゆく。


 「とてもキレイだよ、早紀」


 左近寺が耳元で私にそう囁くと鳥肌が立ち、ゾクッとした。

 今度は私を仰向けにさせ、両足首を掴んで股を広げさせた。


 「もう準備はいいようだね? そろそろ入れるよ?」

 「しばらくご無沙汰だからやさしくお願い・・・」

 「痛かったら言ってくれ」

 

 私は目を閉じ、静かに頷いた。

 左近寺がベッドヘッドにあったコンドームを装着しようとしたので私はそれを制した。


 「ゴムは使わなくてもいいよ、そのまま中に出しても大丈夫な日だから」

 

 彼はコンドームをゴミ箱に捨てた。

 私は嘘を吐いた。赤ちゃんが出来ても構わないと思った。私はもう出産適齢期は過ぎてしまっている。

 私は寧ろそれを望んだ。


 (清彦の子供が産みたい)


 彼はスマホを持って何やら操作を始めた。


 (ハメ撮りでもするつもりなのかしら?)


 すると闇を切り裂くような、気怠いJAZZトランペットの音楽が聴こえて来た。



 「モダンJAZZの帝王、マイルス・デイビスだよ。映画、『死刑台のエレベーター』のテーマ曲なんだ」


 エロチシズムがあり、且つ繊細でダイナミック。小雨降る夜のモノクロのパリに似合うインストロメンタルだった。

 左近寺は『死刑台のエレベーター』のメロディに合わせるかのようにインサートを始めた。

 挿入の前にフェラチオをしてあげればよかったと少し後悔した。


 (終わったらお口できれいにしてあげよう)


 だがそんなことを考える余裕はすぐになくなってしまった。

 左近寺の太くて長いペニスが私の膣を押し広げ、メリメリと進んで来る。

 凄まじい充実感にカラダが震えた。

 左近寺のそれは私が十分に潤っていたこともあり、すぐに子宮まで到達した。

 私は無我夢中で彼の背中にしがみついた。

 彼のリズミカルな出し入れに体が痺れる。


 「はあ はあ んっ はあ あ あっ・・・」


 私は久しぶりに女にされた。

 何度もエクスタシーの海に溺れ、無意識にみだらな声が漏れ、愛液が止まらない。



 5分ほどして彼が言った。


 「そろそろ俺もイッてもいいかい?」

 「来て! 清彦! 私も一緒にイケるから!」


 彼の腰の動きが加速されて行く。


 「イクよ早紀! 愛してるよ早紀!」


 彼は私の中に熱いザーメンを放出した。


 ドクン ドクン


 私はカラダを痙攣させ、彼のそれを捉えて離さなかった。

 私たちの体の相性は最高だった。

 そしてその時私は、確かに受精の手応えを感じた。


 私たちは疲れと酔いでぐったりとしたまま、気怠いピロートークをした。

 マイルス・デイビスのトランペットはまだ続いていた。

 乾いた都会の古びたラブホにピッタリのBGMだった。

 左近寺がタバコに火を点けた。


 「この『死刑台のエレベーター』はね? 金持ちの旦那の女房が不倫相手と共謀して夫を殺し、完全犯罪を目論もうとする映画なんだ。

 殺人は成功するんだが、逃げる時に男がエレベーターの中にひとり、閉じ込められてしまう。

 なんてことはないストーリーなんだけれど、帝王の奏でる、この切ない無情のメロディーが加わると、愛することの哀愁を醸し出すから不思議だ。早紀、JAZZはドラマなんだよ」

 「今度私も見てみたいなあ、その映画」

 「今度、俺の家で見せてやるよ」


 左近寺の体に私は抱きついた。

 汗ばんだお互いの熱い体と冷たいシーツが心地良い。

 セックスとはお互いの愛情の深さを確認するための行為だ。

 私たちはお互いを強く愛していることを知った。


 (ごめんね葉瑠子。私は彼を選ぶことにしたわ)



 そして私たちは自分たちの愛を再確認するための行為を始めた。




第7話

 葉瑠子がフルートを携えて店にやって来た。

 葉瑠子は無言で私に目配せをした。


 (彼をいただきに来たわよ)


 葉瑠子の目はそう言っているようだった。



 「お言葉に甘えて今夜はフルートを持って来ちゃいましたあ~」


 おどけるように明るく振る舞う葉瑠子。


 「よく来たね葉瑠ちゃん、大歓迎だよ。オケのマドンナが場末のバンドにようこそ」

 「場末なんかじゃありませんよ、みなさん音大出のJAZZ menじゃないですかあ?」

 「まあサックスの田中君はジュリアード出身のJAZZエリートだけどね?」

 「JAZZの好きな奴はみんな仲間だよ」

 「今日はフルートのセロニアスは休みだから丁度良かった。

 ギャラは出ないけど終わったらみんなでラーメンでも食べに行こう。奢ってあげるから」

 「わあ、私、ラーメン大好きですう! それじゃあチューニングをお願いしまーす」

 


 チューニングが終わり、リハーサルが始まった。


 「せっかく葉瑠ちゃんが来たんだから、今夜は早紀ちゃんの歌とは別にフルートがメインのインストロメンタルのナンバーもやろうか?

 葉瑠ちゃん、適当にやっていいからさ、俺たちが葉瑠ちゃんに合わせるよ。曲は何にする?」

 「それじゃあHubert LawsのJAZZバージョン、『Autumn Leaves』でお願いします」

 「俺の母校の先輩じゃねえか? やるね?」


 田中君がテナーサックスを構えた。


 「リズムはこんな感じでいいかい?」


 ドラムの伊東さんがリード・パーカッションを叩き始め、それにコントラバスの大神さんと清彦が、弾むようなタッチでそれに加わった。

 しばらくテナー・サックスの田中さんの主旋律が続いた。

 そして今夜の主役、葉瑠子のフルートが躍り出た。


 枯葉が静かにゆっくりと落ちるように舞うかと思えば、時には吹き荒れ、跳ね回る枯葉。葉瑠子のフルートが歌っていた。素晴らしい演奏だった。

 


 「凄えよ葉瑠子、アイロン・ハープがあるともっと良かったのになあ」

 「流石だよ、よくこんな短時間でJAZZの基本をマスターしたもんだ。クラッシックの女王の君が」

 「よくサックス奏者がフルートに楽器を持ち替えたりもするが、フルートは管楽器の中でいちばん肺活量がいる楽器でもある。その小柄な体でよくこんな曲が吹けるよ」

 「ジャン・ピエール・ランパルなんて肺活量、デカそうだもんな?」

 「次はビル・エバンスのアルバム、『What's New』に収録された『Straight No Chaser』でもいいですか?」

 「もちろんだよ」


 ウッドベースの大神さんが演奏を始めた。しゃがれたいい音だった。


 葉瑠子の音楽に私は嫉妬した。

 息継ぎに吸い込む息遣いが実にセクシーだった。

 そして空間を切り裂くようなハイトーン。

 私は思わず清彦に抱かれて歓喜する葉瑠子を想像してしまった。



 「どうだった、左近寺君? 私のフルート」

 「やられたよ。どうせお嬢様の横笛かと思ったら結構イカしていた」

 「ありがとう。えへっ、左近寺君に褒められちゃった」

 

 葉瑠子は勝ち誇ったように私に挑戦的な眼差しを向けた。


 「私もJAZZ、本格的にやってみようかなあ? 左近寺君たちと一緒に」

 「フルートのセロニアスは引き抜かれそうだしな? いいんじゃないか? なあみんな?」

 「美人ボーカリストに美人フルーティストのコンビかあ。いいんじゃないか? これで俺たちのデビューも夢じゃないかもな? あはははは」


 

 葉瑠子のデビュー演奏は大盛況だった。

 それに引き換えその日の私の歌は最悪だった。

 私はかなり凹んだ。


 


第8話

 本当はみんなとラーメンを食べるより、早く清彦とふたりっきりになりたかった。

 今夜は強く抱かれたい気分だった。

 自分だけ帰ることも出来たが、清彦を残して帰るわけにはいかない。

 清彦が葉瑠子に誘惑されるのを阻止する必要があるからだ。

 葉瑠子はラーメン屋のを狙っているのだから。



 「凄く綺麗なラーメンですね? やっぱりラーメンは醤油ですよね~? 

 麺はストレート細麺、スープとのバランスもよく、黒豚の背バラ肉のチャーシューに自家製メンマ。ネギは九条ネギと深谷ネギ。そして定番のナルト。

 このラーメン、まるでシンフォニーのようです」

 「葉瑠ちゃんはラーメン通なんだね? 『山岸屋』の良さをよく見抜いているよ」

 「このお店に連れて来てもらって本当に良かったですう~! 個人的にもまた来たいなあ~。

 ねえ、左近寺君?」


 葉瑠子は髪をシュシュで束ねると、美味しそうに勢いよくラーメンを啜った。

 憎らしいくらいに可愛い。30を超えてぶりっ子が出来る葉瑠子が羨ましかった。

 これでどれほどの男がされたことだろう。




 食事が終わり、メンバーは各々に帰って行った。


 「早紀は帰らないの? 今日は疲れたでしょう? 早く帰ってゆっくりお風呂にでも浸かりなさいよ」

 「今日は左近寺と話があるのよ」

 「えー、左近寺君は私とこれから朝まで飲むんだからダーメ」

  

 すると左近寺が私に目で合図をした。


 (後で電話するよ)

 (わかった)


 「悪いけど俺、明日早いから今日はこれで失礼するよ」

 「えー、ショック~。せっかくおニューのかわいいパンツ履いて来たのに~」

 「それじゃあ私も帰るね? おやすみ葉瑠子」

 「ちょっと待ちなさいよ二人とも。そんなこと言って後でふたりでヤッたりしないわよね?」

 

 葉瑠子は馬鹿ではない。すっかり私たちの心を見抜いていた。


 「どうしてそうなるかなあ。わかったわ、それじゃあ1件だけ私が葉瑠子に付き合ってあげる」

 「仕方がない、今日は早紀で我慢するかあ」


 私と葉瑠子は清彦を見送った。

 私は今すぐにでも彼の背中に抱きつきたい衝動に駆られた。



 

 その『MINGUS』というJAZZ BARには大きなJBLのツイン・スピーカーとMacintoshの真空管アンプがあり、Bill Evansの『Waltz for Debby』のレコードがやわらかい音で鳴っていた。

 私たちはマルガリータを飲んでいた。

 すると、隣にいたボルサリーノを被った酔っぱらいの初老の紳士がマスターに言った。


 「コルトレーンにしろ」

 「ここは俺の店だ。アンタの指図は受けない、俺の聴きたい曲を掛ける。嫌ならさっさと金を払って別の店に行け」


 私はこの店が好きになった。


 「釣りはいらねえよ」


 その老人はカウンターに1万円札を置いて立ち去って行った。

 JAZZにはこんなシーンがよく似合う。

 葉瑠子が私に絡んで来た。


 「アンタたちもう付き合っているんでしょう? アイ・コンタクトなんかしちゃってさ」

 「ごめん葉瑠子。私と彼、今、一緒に住んでいるの」

 「だから? だから諦めてって言いたいの?」

 「そうなるわね?」

 「私は諦めないわよ。決めるのは早紀じゃなくて清彦の方だから」


 葉瑠子は左近寺君ではなく、挑戦的に彼を下の名前で呼び捨てにした。


 「そうね? それは清彦が決めることよね? 愛しているのは私だと」

 「言ってくれるじゃないの? アンタなら相手にとって不足はないわ。必ずあなたから彼を奪って見せるから」

 「無理よ、彼は私にぞっこんだから。身も心もね?」

 「マスター、テキーラ・サンライズ」

 

 マスターは確認することもなく、黙ってカクテルを作り始めた。

 

 「私はオペラからも恋人からも捨てられた女。見捨てられた女だった。

 でもそんな私を救ってくれたのがJAZZであり清彦なの。

 彼とJAZZが私の生き甲斐なのよ」

 「それじゃあ私の生き甲斐は清彦をあなたから奪うことにするわ。

 JAZZなんて所詮、人生の敗残者たちの娯楽じゃない。私のような上流階級の音楽ではないわ」

 「だったらもうお店には来ないで頂戴」

 「もちろんあなたたちとはもうセッションはしない。でも清彦とのセッションは別。

 悪いけどこれは私の女としての当然の権利。せいぜい彼を私に寝取られないようにしなさい、あなたの幼稚な色仕掛けで。あはははは」


 葉瑠子の前にカクテルが置かれると、彼女はそれを一気に飲み干して席を立った。


 「今日は早紀の奢りね? マスター、美味しいテキーラ・サンライズだった。また来るわね?」

 「いつでもどうぞ。自分の意志に忠実な女は好きだぜ」

 「ありがとう。おやすみなさい」


 そう言って葉瑠子は店を出て行った。


 「ブラッディ・マリーを下さい」

 「はいよ」


 マスターはビル・エバンスをマイルス・デイビスに変えた。

 マイルスのミュートを装着したトランペットの音が私の乾いた心を鷲掴みにした。

 マホガニーのカウンターに涙が零れた。


 


第9話

 ギシギシ ギシギシ


 ベッドの軋む音とマイルスの気怠いJAZZ。そして私の喘ぎ声が混ざり合って清彦とのセッションが続いていた。


 「もっと欲しい。もっともっとあなたが欲しいの!」

 「愛しているよ、早紀」

 「あ あ あう あ あ あ・・・」

 

 頭の先から爪先まで、痺れるような快感が私の体を貫いて行く。

 私はマイルスのフリューゲルホルンと清彦に3Pを仕掛けられ、犯されているような気分だった。



 彼が射精を終えてペニスを引き抜いた時、私の中に放出された精液が流れ出し、アナルを伝ってシーツを濡らした。


 「今日も凄く良かったよ、早紀。君は俺の女神だ」

 

 私は心地よい虚脱感に漂っていた。

 清彦が枕元のテッシュを取り、私に流れたザーメンを丹念に拭ってくれた。


 「絶対に葉瑠子とは会わないでね?」

 「妬いているのか?」

 「当たり前でしょう? 葉瑠子は手段を選ばない女なんだから」

 「この俺を信用できないのか?」

 

 清彦が私の乳首をもてあそびなからそう言った。


 「あん 真剣に話しているのにい」

 「俺もお前を真剣に愛しているよ。俺にはお前がいればそれでいい。

 二股が出来るほど俺は器用な男じゃない」


 彼はやさしく唇を重ねてくれた。


 「葉瑠子は本気よ。あなたを誰にも盗られたくないの」

 「盗られる? 俺はモノじゃないぜ」

 「私にはもうあなたとJAZZしかないから」

 「俺も同じだ。俺も早紀とJAZZしかない」

 「清彦」


 私たちは強く抱き合った。




 その日、葉瑠子は店に現れなかった。

 私は安心してJAZZを歌った。

 店に溢れる聴衆の割れんばかりの拍手喝采。鳴り止まないアンコール。

 最高のエクスタシーだった。




 ライブが終わり、私がステージを降りた時、男に呼び止められた。


 

 「今夜も素晴らしい歌声でしたね? 園部そのべ早紀さん?」


 以前に私をスカウトしてくれた音楽プロデューサーの尾形さんだった。


 「ああ、あの時の音楽事務所の人ですよね?」

 「良かった、覚えていてくれて。それでは改めて名刺をどうぞ。前に差し上げた名刺は捨ててしまったかもしれないのでね? あはははは」


 面白い人だと思った。


 「いかがです? ウチから本格的にデビューしてみませんか?」

 「ごめんなさい、前にも言いましたが私は流行歌の歌手になる気はありません」

 「勘違いしないで下さい、JAZZシンガーとしてのお話です。悪い話ではないと思いますけど?」

 「JAZZシンガーとして?」

 「ええ、クラッシックは得意分野ではありませんが、ウチの会社はJAZZではちょっとした大手音楽プロダクションなんです」

 「私がJAZZシンガーとしてデビュー出来るんですか?」

 「当社で全面的にバックアップさせて下さい。今度、会社の上司たちもこのお店に連れて来てもいいでしょうか?」

 「ぜひ聴きに来て下さい。私たちのJAZZを」


 私は「私たちのJAZZ」を強調した。

 私が気持ちよく歌うことが出来るのは、とりもなおさず左近寺と彼らのおかげだったからだ。

 するとそれを聞いていた清彦やバンドマンたちが言った。


 「いい話じゃないか早紀!」

 「清彦」

 「そうだよ早紀ちゃん、迷うことなんかないよ、ブルー・オリオンといえば業界でも5本の指に入るプロダクションだぜ? 世界進出も夢じゃないよ!」


 みんなも我が事のように喜んでくれた。


 「それではまた。期待していますよ、園部早紀さん?」

 「よろしくお願いします」


 尾形プロデューサーはそれだけ言うと帰って行った。

 突然の出来事に、私はまるで夢を見ているようだった。

 夢なら覚めないで欲しいと思った。



 「凄いじゃないか早紀! これで君は一躍有名人だよ!」

 「やめてよ、まだ決まったわけじゃないんだから」

 「いい話じゃないか! 『園部早紀とブルー・ファイヤー』なんてどうだい?」

 「あはははは。でも俺たちは要らないと言われんじゃねえのか?」

 「そうかもな? あはははは」


 みんなが祝福してくれた。

 そして清彦が言った。


 「神様って、やっぱりいるんだな?」

 「そうかもしれないね?」


 私たちは顔を見合わせて笑った。




 清彦と裏口から店を出ると、そこには葉瑠子が立っていた。


 「お疲れ様~、清彦さーん。この前はすっぽかしたんだから今夜こそ私と付き合ってもらうわよ?」

 「ごめん葉瑠子。俺たち、付き合っているんだ。だから君とは付き合えない」


 清彦の言葉が嬉しかった。


 「あなたたち、結婚しているの? していないならまだフリーってことよね?

 たとえ婚約していたとしても私はあなたを諦めないわよ。もちろん結婚しても同じだけど。

 だって私があなたと付き合うことに決めたから」

 「そういうことだから二度と清彦の前に現れないで頂戴」

 「そんな約束は出来ないわよ。私が誰を好きになろうがそれは私の自由、早紀にとやかく言われる筋合いはないわ。恋愛は自由なんだから。勝つか負けるか? All or Nothing. それが恋よ」

 「行こう、早紀」

 「私、諦めないからね!」


 私たちは葉瑠子に背を向け、わざと腕を組んでその場を離れた。



 「絶対に諦めないんだから」


 葉瑠子は早紀たちの背中にジェラシーの強い矢を放った。




第10話

 音楽プロダクションと専属契約を結んだ。

 だが、契約したのは私だけで、メンバーに尾形からの誘いはなかった。


 「ウチのバンドメンバーは駄目なんですか?」

 「あの程度のJAZZプレイヤーは山ほどいるからね? JAZZの世界はそんなに甘いもんじゃないよ」


 尾形さんはそうサラリと言って退けた。

 私はJAZZの奥深しさ、難しさを改めて思い知らされた。

 それがポピュラーな音楽であればあるほど、僅かな違いがプロにはより高度な表現が求められる。


 「飲食店に行くと、よくJAZZが掛かっているよね? つまりJAZZは日本人の耳に知らず知らずのウチに定着しつつある音楽なんだよ。

 母親が子供に聴かせる童謡のようにね? 

 それじゃあデビューに向けてのレッスンを始めようか?」


 尾形さんがピアノの前に座った。


 「それじゃあまず、発声練習から」


 私が声を出すとすぐに尾形さんがピアノを止めた。


 「駄目だ駄目だ、それはベルカントの発声法だ。JAZZには向かない。君はまだクラッシックの発声法が抜け切れていない。はいもう一度」


 何度も何度も発声の基礎のやり直しをさせられた。

 自分ではソコソコ歌えていたと思っていただけに屈辱だった。

 

 (この人、一体何者なの?)


 「少し休憩しよう」


 尾形さんは私にミネラルウォーターのボトルを渡してくれた。


 「尾形さんはどこで音楽を勉強したんですか?」

 「ジュリアードだよ。そして僕も君と同じ藝大の出身だ。指揮科だったんだけどね?」

 「先輩だったんですか?」

 「僕も最初は指揮者になりたかった。でも無理だと知った。世界の壁は厚かった。

 だから僕は指揮者を諦め、才能あるプレイヤーやシンガーを発掘して育てる「指揮者」になった。

 君はまだ原石だが、磨けば必ず光るJAZZシンガーになれる。

 基礎は十分すぎるほどよく出来ている。後は表現力だけの問題だ。

 音楽は心なんだ。しっかりとしたテクニックに裏付けられた心の音楽。

 JAZZはね? 黒人たちの「怨歌」でもある。虐げられた彼らのエレジー、哀歌なんだよ」

 「エレジーですか?」

 「奴隷として差別社会の中で彼らに許された唯一の娯楽は音楽とダンスだけだった。

 彼らは人生の喜怒哀楽を音楽に込めたんだ。黒人霊歌、ブルースなど、様々な独特の音楽形態が生まれた。

 JAZZにはどことなくアフリカを感じないかい? あの乾いた大地、果てしなく続く地平線。

 アフリカの土人たちの埃と汗にまみれた臭気と、コテで焼けた頭髪の匂い。

 JAZZには弱い者たちの叫びがある。

 日本の演歌、ポルトガルのファドもそうだ。歌が庶民を励まし、勇気づけた。

 君にはまだ泥臭さがない。君はお嬢さんなんだよ。ひらひらのドレスを着た令嬢なんだ。

 本当の美しい華とは「蓮の華」だと思っている。あの泥底に根を伸ばし、美しく池面に咲き誇る蓮の華だとね?

 だから君はもっと傷つく必要があるのかもしれない。人として、女として。

 そしてそれが君のJAZZに艶を与える。人を酔わせる美酒が、ゆっくりと暗い樽の中で熟成されるように」


 私だってそれなりに辛い人生を歩んで来たつもりだ。でもまだそれが私の歌に反映されていないと尾形さんは断言した。

 私は少し自信を無くした。

 


 

 


第11話

 連日、尾形さんからの厳しいレッスンが続いた。

 ヘトヘトになって家に帰ると、清彦が心配そうに言ってくれた。


 「今日も遅かったな? カラダ、大丈夫か?」

 「うん、デビューのためだから。ごめんね? 家のこと全部清彦に任せっきりで」

 「俺は大丈夫だよ、家事は好きだから苦にはならない。

 腹減っただろう? うどんでも作るか?」

 「ありがとう、でももう遅いからシャワーを浴びて早めに寝るね?」

 「そうか?」


 少し不機嫌そうな清彦。それもそのはずだった。清彦は自分が選ばれなかったことに落胆していたからだ。

 最近は私も疲れていることもあり、清彦の相手もしてあげられず、夜の方はご無沙汰だった。

 清彦も無理に私を求めようとはせず、ゴミ箱にザーメンの付いたティッシュが捨てられていることもあった。

 どうやらマスターベーションで我慢しているようだった。




 そんな中、東北への出張の話が出た。


 「出張って何をするんですか?」

 「路上ライブだよ。武者修行だ。JAZZに興味のない東北の地方都市を一週間掛けて巡回することにした」

 「新幹線を使ってわざわざ東北まで行かなくても、東京で十分じゃないですか?」

 「新幹線? 何を贅沢なことを言っているんだ。ワゴン車で回るんだよ。寝るのもワゴン車だ」

 「ワゴン車?」

 「当たり前だ。まだ売れてもいないんだから」


 (デビューまで全力でバックアップするって言ってたくせに)


 私はムッとした。


 「ワゴン車で寝泊まりするなんて無理です。売れない演歌歌手じゃあるまいし。

 わかりました。それなら旅費と宿泊費は自己負担で構いません。新幹線とホテルは自分で手配します」

 「それは許可しない。君はそれでもJAZZシンガーのつもりなのかい? いつまででいるつもりなんだ」

 「ドサ回りをすることがアーティストのやることだとは思えません!」

 「アーティスト? 今の君は場末の演歌歌手以下だ。

 そこまで言うなら東北の繁華街でどれだけ君の歌が通用するか、試してみようじゃないか?

 それじゃあこうしよう、路上ライブでいただいたチップはすべて君のギャラでいい。そのカネで一週間生活をする、それでどうだ?」 


 そこまで言われては私にもプライドがある。


 「わかりました。そのお金を食事代やホテル代に使っていいんですね?」

 「もちろんだ。すべて君の自由にしていいカネだ」

 

 薄ら笑いをしている尾形さんに私は怒りを覚えた。




 家に帰って清彦に出張の話をした。


 「来週から一週間、東北に出張に行くことになったの」

 「何のために?」

 「東北の地方都市で路上ライブの武者修行だって」

 「路上ライブ? 早紀が?」

 「うん」


 清彦は何か少し考えているようだった。


 「路上ライブは止めた方がいい」

 「どうして?」

 「路上は厳しいからだ。早紀が挫折するのは目に見えている」

 「それは私の歌では路上は駄目だって言う事?」

 「路上はそんなに甘くはない。特にJAZZは」

 「清彦は私の歌を認めていなかったのね!」

 「そうじゃない、それは君の歌が良くないんじゃなくて、路上で歌うということはそういうことだと言いたいだけだ。JAZZは大衆ウケしない。フォークギターで歌う「ゆず」じゃないんだから。

 日本でのJAZZはまだ、BGMなんだよ」

 「悔しいんでしょう? 私が先にデビューすることになって」

 

 私は絶対に言ってはいけないことを言ってしまった。

 すると清彦は静かに言った。


 「そうかもしれない。いや、そうだよ。俺がピアニストとしてデビュー出来ないことが悔しいからだよ」


 私は取り返しのつかないことを言ってしまったと後悔した。

 だがそれは後の祭だった。

 清彦はその日以来、家に帰って来なくなってしまった。


 私は心残りのまま、尾形さんの運転するワゴン車で東北に向かった。

 



第12話

 清彦は店も休んでいるようだった。


 (一体どこに行ってしまったの?) 


 私は酷い後悔の念に囚われていた。



 関東平野を走る東北自動車道の周りには、桜並木と菜の花畑が点在していた。


 「こうやって高速道路を走っていると、つくづく人生を感じるよ。

 追い越し追い抜かれ、一喜一憂しながら俺たちは人生を走って行くんだとね?

 もの凄いスピードで俺を追い越して行く奴もいる、「負けたなあ」と思う。

 でもしばらく走って行くと、俺を追い抜いたそのクルマが故障して立ち往生をしていたりもする。

 そしてビリだと思って走っていた自分がいつの間にか先頭、トップを走っていたりする。

 またその逆に、自分がトップだと思って走っていても、実はビリを走っていたりすることもある。

 そうして人は死に向かって人生を走って行くんだろうなあ」

 「私は今、どの辺りを走っているんでしょうか?」

 「人生のかい? それともJAZZの方?」

 「両方です」

 「君のプライベートはよく知らない、だから君が人生のどの辺りを走っているのかはわからない。だがJAZZに関して言えば、今の君はビリだ」

 「そうですか・・・」

 「でも落ち込むことはない、君は羊の皮を被った狼、BMWだからね?

 これからビュンビュン他のクルマを追い越して行くことになるだろう。

 だがその道程みちのりは決して平坦ではないのも事実だ」




 クルマは福島を過ぎて宮城県に入った。


 「どうして青森から南下して行くんですか?」

 「飛び込み訪問の営業ではなく? 集合住宅を回る時には最上階から下に降りて営業して行くんだよ。

 階段の登りは息が切れるだろう? だから一番上から下に下がって行く方が気分的にもラクなんだ。

 だから今回の武者修行も上から行くことにした。そうすれば君がどんなに落ち込んでもすぐに家に帰れるからね? あはははは」

 「私は落ち込みません、絶対に。私のJAZZでギターケースを投げ銭でいっぱいにして見せますから」

 「それは楽しみだ」



 サービスエリアで休憩と仮眠を取りながら、ようやく私たちは青森の弘前に到着した。


 「とんでもない長旅でしたね? 明日からが本番ですね?」

 「明日から? 何を寝ぼけたことを言っているんだ? 何様だよお前」

 

 尾形さんが私を「お前」呼ばわりした。私はそれにカチンと来た。


 「東京からここまで何時間掛かったと思っているんですか! もうクタクタですよ、まともに歌なんかとても歌えません」

 「あれでまともに歌っているつもりなのか? ここまで運転して来たのは俺だ。お前は隣でいびきを掻いて寝ていたくせによく言うよ。

 まあそんなことはどうでもいい、路上ライブの設営準備をするぞ」


 私の意見には耳も貸さず、尾形さんは弘前駅前に荷物を下ろし、駐車場にクルマを停めに行った。

 春先とはいえ、流石に夜の弘前は冷えた。

 尾形さんと私は発電機やアンプ、スタンドマイク、ヒーター等をセッティングした。

 エレキギターとキーボード、そしてフルートは尾形さんが曲に合わせて演奏し、私がそれにあわせて歌うことになっていた。


 「それじゃあ音合わせしてみようか?」

 「はい」

 

 チューニングの確認を終えると、弘前駅前を通る人たちが珍しそうに私たちを見ていた。

 正直に言えば私は明らかにビビっていた。足が震えた。


 (果たして私の歌が弘前の人たちに聴き入れてもらえるのかしら?)



 私の歌を聴くためにやって来るライブハウスの観客とは違い、JAZZに興味があるなしに関わらず集まってくる人たち。

 曲はなるべく分かり易い選曲にした。

 私は勇気を出して『Fly Me to The Moon』を歌い始めた。

 すると何人かの人たちが足を止め私たちのまわりに人だかりが出来始めた。


 私は精一杯歌った。

 人がどんどん集まって来て私の歌を聴いてくれた。


 「うまいね? この人」

 「本当だね? この曲、ディズニーで聴いたことあるよ」

 「エヴァンゲリオンじゃねえの?」

 「それでもやってたね?」

 「上手~」

 「誰この人? 有名な歌手?」


 感触は上々だった。

 その後も10曲以上、私は歌い続けた。


 だが人はどんどん離れて行き、そして遂に誰もいなくなってしまった。惨めさに涙が溢れて来た。

 

 「あと10曲歌うんだ」

 「もう歌えません。誰も、誰も私の歌を聴いてくれない。ううううう」

 「それでも歌うんだ。ギターケースを投げ銭でいっぱいにするんだろう?」

 「もう無理です、今日は勘弁して下さい・・・」

 「駄目だ、あと10曲歌え」

 「東京へ帰ります、こんなことしても何の意味もないじゃないですか!」

 「だからお前のJAZZには心がないんだ。ただのテクニックだけのJAZZなんだよ。そこに感動がない」


 悔しかった。仕方なく私は残りの10曲を歌った。



 「よし、今日はここまで。明日は八戸でやるからな?」



 私たちはオートキャンプ場へと向かった。

 食事はコンビニで買ったジャムパンが一個。それを尾形さんと半分にして食べた。涙が零れた。


 「今日のギャラは230円だったからな? 明日の八戸ではちゃんと稼いでくれよ、飢え死にしないようにな?」

 

 私は泣きながらジャムパンを食べた。


 「人生の味とは「泣きながらパンを食べた者にしかわからない」とゲーテは言った。

 つまりお前は今、人生の味を噛み締めていることになる。

 人生は勝ち負けじゃない、学びだ。この辛さをチカラに変えてみせろ。

 アメリカにはこんな言葉がある、「苦くて酸っぱいレモンを受け取ったら、それを甘いレモネードに変えろ」とな?

 お前には才能がある、後は心だ。JAZZにお前の魂を吹き込め」


 


 その晩、私はワゴン車で、尾形さんはクルマの脇にテントを張って寝袋で寝た。


 「まさかレディと同じワゴンで寝るわけにはいかないからな? あはははは」


 尾形さんはそう言って笑った。




第13話

 一方その頃、左近寺は独りでニューヨークを訪れていた。

 毎日JAZZクラブを何件もハシゴして回っていた。


 (一体どうすればもっとJAZZが上手くなれるのだろう?)



 「悔しいんでしょう? 私が先にデビューすることが」


 早紀から言われたこの言葉が頭にこびりついて離れなかった。

 その通りだった。俺は早紀に嫉妬していた。

 そしてここ、JAZZの本場、ニューヨークに来て俺は更に自信を無くした。

 彼ら黒人にはJAZZがカラダに染み付いていた。JAZZは体の一部だった。

 まるで挨拶をするかのように始まるドラムやコントラバス。

 それに交わり離れ、踊り出すテナー・サックスとピアノ、フルートにトランペット。

 自分レベルのピアニストなどゴロゴロいた。


 シンガーも同じだった。早紀のようにきちんとしたレッスンを受けたことがない女性ヴォーカルの歌でも、物凄い説得力があった。

 早紀にも見せてやりたいと思った。

 このままでは駄目だと悟り、本格的にニューヨークでJAZZを学ぼうと決めた。

 俺は早速ジュリアードとバークリーを見学することにした。

 

 


 早紀の路上ライブは相変わらず不評だった。

 八戸でも盛岡でも結果は同じだった。

 盛岡では1,740円を得ることが出来たので、尾形さんと『すき家』で牛丼の並盛を食べ、三日ぶりに私だけ日帰り温泉に入れてもらった。

 牛丼と温泉が身に沁みて涙が出た。


 (車中泊じゃなくてフカフカのベッドで眠りたい)




 そして翌日は仙台のアーケードでの路上ライブだった。

 流石に仙台は東北最大の都市だけあって人も多かった。

 私は今回のドサ回りでかなり度胸もすわり、気持ちよく歌うことが出来た。

 すると驚いたことにどんどん人集りが出来て、みんなの視線が私たちに集中した。

 両手で涙を拭いている女性もいた。リズムに合わせてスイングしている男性もいる。

 私は精一杯歌った。

 うれしいことにその場を離れるものは殆どおらず、寧ろ観客は次第に増えていった。


 ひとり、またひとりとギターケースに投げ銭をしてくれる人たち。

 千円札や500円硬貨も多く、一万円札を入れてくれた白髪の老人もいた。


 「君の歌、とても良かったよ。若い頃に暮らした、メンフィスを思い出した。歌に哀しみが見えたよ。ありがとう」

 「ありがとうございます!」


 私はうれしくて泣いてしまった。

 



 その日のギャラは39,768円だった。


 「やっと温泉旅館に泊まれるな?」


 尾形さんはやさしく微笑んでくれた。

 

 「ありがとう、ございます」


 私はその時やっと尾形さんの意図を理解した。

 私の歌に足りないもの、それは哀しみと苦しみだったことを。



 その夜、私たちは仙台の秋保温泉に宿泊した。

 忘れていた温泉、お布団の感触、最高の気分だった。

 平日で繁忙期でなかったこともあり、二部屋取ることが出来た。


 部屋でくつろいでいると尾形さんから電話が来た。


 「少しラウンジで寝酒しないか?」

 「はい、すぐに降りて行きます」


 

 私たちは冷酒で乾杯をした。


 「今日のお前の歌、凄く良かったぞ」

 「ありがとうございます」

 「仙台はJAZZが定着している街だ、JAZZ喫茶やBARも多い。JAZZフェスもやっているし、電車やバスにもジャズメンが乗り込んで来て演奏をしたりもする。街中がJAZZで溢れることもある。つまりお前はJAZZの大都市、仙台で認められたというわけだ。JAZZのわかる人たちにはな?」

 「弘前、八戸、盛岡では最悪でしたからね?」

 「敢えてそこを選んだ。そしてここ仙台もそうだ。

 お前はバカではない、自分の歌に欠けていたものが何だったかを知ったはずだ」

 「私は上手く歌うことばかりを考えていました。歌は心で歌うものなのに」

 「淡谷のり子みたいだな? 「歌は心で歌うのよ」ってか? あはははは」

 「でも凄く勉強になりました」

 「明日は福島だ。そして最後は宇都宮を回る。宇都宮では餃子を食べて帰ろうな?」

 「はい!」


 その夜、私は泥のようにぐっすりと眠った。

 

 清彦の夢を見た。清彦が私の元を去って行く夢だった。

 嫌な夢だった。




 福島も仙台程ではなかったが、二万円近くの投げ銭をいただくことが出来た。

 そして宇都宮でも『JAZZの街』を標榜しているだけあって、3時間のライブで45,899円の投げ銭が集まった。

 帰りに宇都宮の『みんみん』で餃子とご飯を食べ、残った投げ銭を尾形さんが私に渡してくれた。


 「このカネはお前の歌への報酬だ。大事にお守りにしろ」

 「はい」


 私はそのお金を大切にバッグに仕舞った。

 プロになるための決意を込めて。



 


第14話

 二ヶ月、生理が来なかった。

 ドラッグストアで妊娠検査キットを買った。


 陽性だった。

 翌日、産婦人科を受診した。妊娠8週目だと言われた。

 

 (やっぱり・・・)


 それは自分で望んだ妊娠だった。

 でも今はあの時とは状況が違う。清彦には連絡が取れず、行方知れず。そして私は念願のデビューが間近に迫っていた。


 (私はどうしたらいいの? 女のしあわせ? それとも歌手としての人生?・・・)


 私はそっとお腹に手を当ててみた。


 (ここに清彦との命が宿っている)


 堕ろすという選択肢はなかった。清彦は必ず帰って来る。

 万が一、彼が私を捨てるというのならこの子は私がひとりで育てるつもりだ。

 

 (ではJAZZシンガーとしての人生はどうする? 子育てをしながら歌うなんて無理に決まっている)

 



 朝、マンションのドアが開き、清彦が帰って来た。

 私は玄関へと急いだ。


 「ただいま早紀。凄く会いたかったよ」


 彼は私を抱きしめ、キスをしてくれた。


 「ただいまじゃないわよ! 連絡もしないで一体どこに行っていたの!」

 「ごめん、ニューヨークに行っていたんだ」

 「ニューヨーク? 何で?」

 「本場のJAZZを聴いてみたくなった」

 「本場のJAZZ?」

 「俺は早紀の言う通り、お前に嫉妬していた。だから無性にニューヨークに行ってみたくなったんだ。

 自分の実力を知るために」

 「ごめんなさい、私がヘンなことを言ったばっかりに」

 「いや、早紀は悪くないよ。悪いのは俺だ」

 「それでどうだったの? ニューヨークは?」

 「凄いよニューヨークは! さすがはJAZZの街だ。そして僕のピアノの実力の低さも思い知らされたよ。

 僕のピアノはただ上手く弾けるだけでソウルがない。

 こんなのJAZZじゃないと思った。

 ジュリアードでピアノをやり直すことにした」

 「ジュリアードで?」

 「丁度藝大の後輩もいて、色々と教えてもらったんだ。

 試験を受けて合格してからの話だけどね?」

 「清彦・・・」


 私は眼の前が真っ暗になった。

 子供が出来たことはとても言えなかった。




 尾形さんに妊娠したことを告白した。



 「それで今、何ヶ月なの?」

 「2ヶ月です」

 「産むつもりだよね?」

 「はい、そのつもりです」

 「そうか、契約したのは1ヶ月前だから仕方がないなあ。

 園部さんもその時はわからなかった事だろうし」


 いつもの「お前」が他人行儀な「園部さん」に変わっていた。


 「事情はわかりました」

 「どうなりますか? 私」

 「本来なら契約違反になるから違約金が発生するが、そこは会社に俺から上手く説明しておくよ」

 「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

 「本当だよ、すごい迷惑だよ。君には期待していたのに」

 「当然デビューは無理ですよね?」

 「デビューどころか君と弊社との契約は解除するしかない。実に残念だ」

 

 予想通りだった。私の僅かな期待は完全に打ち砕かれてしまった。


 「短い間でしたが、お世話になりました」

 「歌姫としてではなく、母親として生きるのも悪くはない。

 しあわせになれよ、歌姫」

 「失礼します」


 

 後悔がないかと言えば嘘になる。

 私は折角のチャンスを棒に振ってしまった。

 



 家に帰って食事の用意をしていると清彦が帰って来た。


 「あー、腹減ったあー。今日のメシは何?」

 「清彦の好きなビーフシチューだよ」

 「やったー! バケットは俺が切るよ」

 「ありがとう・・・」


 

 ワインを飲みながら清彦が私に言った。


 「早紀は飲まないの?」

 「うん、今日はちょっと体調が良くないから」

 「そうか? 大丈夫か?」

 「今日は薬を飲んで早く寝るね?」

 「病院に行かなくてもいいのか?」

 「そこまでじゃないから大丈夫。食べ終わった食器はシンクに浸けて置いてね?」

 「わかった」

 「おやすみなさい」

 「おやすみ」



 私はベッドに入って声を押し殺して泣いた。

 



第15話

 清彦が店に出ている間、私はひとりで阿川泰子のライブ・ビデオを鑑賞していた。

 歳を重ねる度に彼女の艶のある歌声は、よりしっとりと心に訴え掛けて来る。

 彼女は年を取らない魔女なのだろうか?

 軽やかに階段を駆け上がって行くようなウッドベースとピアノのシンコペーション。

 それを追い駆けるブラシで撫でるスネアドラム。

 深くスリットの入ったスパンコールのドレス。

 彼女は下着のラインが出ないようにと、そういう衣装の時にはパンティを履かないという。

 その緊張感が彼女をより色気のあるエンターティナーにしていた。

 彼女の歌でその場のシーンがガラリと変わり、どれ程の人たちが彼女の歌に、姿に酔いしれることだろう。

 女性JAZZシンガーは美しくなければならない。

 女子フィギュアスケート、女子バレー、女子ゴルファーなどもしかり。

 女性の美しさも競技の一部なのだ。いや、すべてと言っても過言ではない。

 ある意味、美人は得だ。


 (私は子供を産んでも阿川泰子のように歌うことが出来るだろうか? 美人だと言ってもらえるだろうか?)

 

 色んな想いが頭の中を駆け巡っていた。



 

 その日は清彦が先にベッドに入っていた。

 私は清彦の腕を抱いて目を閉じた。


 「最近、レッスンから帰って来るのが早いね? どうだったんだい? 東北での路上ライブは?」

 「すごく勉強になったわ。やっぱり清彦の言う通りだった。最初の弘前ではお客さんに私の歌を聴いてもらえずに泣いちゃった。

 自分の実力を思い知らされたわ」

 「そうか? 日本ではJAZZはまだインテリの教養をひけらかす道具だからな?

 グルメ評論家がやれこの料理のソースがどうの、盛付けがどうの下処理がどうのと言って料理を解説するみたいにね?

 でもニューヨークではJAZZは生活の一部だった。

 おはよう、こんにちわ、食事をして愛し合うみたいに」

 

 私は仙台、福島、宇都宮でのライブの成功の話はしなかった。

 清彦の言った通り「駄目だった」ということで彼に優越感を持たせてあげたかったからだ。


 キスをされ、清彦が私を抱こうとした。


 「ごめんなさい、今日は生理なの」

 

 清彦は私のショーツを上から触り、笑った。


 「付いてないみたいだけど? ナプキン」

 「お口でしてあげるから今日はそれで我慢して」

 「どうかしたの?」


 私は今がその時だと判断した。

 たとえ彼がそれで戸惑い、落胆してもいいと思った。

 どうせ産むのは私だし、私が産むと決めたのだからと。


 「出来ちゃったの、赤ちゃん」

 「ホントにか?」


 彼がベッドから跳ね起きた。


 「うん、あなたの子供」

 

 清彦は私を強く抱き締めてくれた。


 「そうか! 良かった! ありがとう早紀! 本当に良かった!

 結婚しよう! すぐ名前を決めてあげないと!」

 「まだ男の子か女の子かもわからないよ」

 「それなら両方考えればいいじゃないか! 明日さっそく姓名判断の本を買ってくるよ!

 そうか出来たか? 俺たちの子供が!」


 意外だった。彼には子供が出来たことへの迷いは微塵もなかった。

 安心した。うれしかった。


 「尾形さんには怒られちゃった。専属契約は解約だって」

 「早紀なら大丈夫。子供を産んでからまた歌えばいいじゃないか!

 早紀ならきっとまたデビューの話が来るよ」


 同時に心配なことを思い出した。


 「ジュリアードはどうするの?」

 「それは後で考えるよ。いずれにせよジュリアードで学ぶには実家に頼るしかないからね?

 向こうで出産するという選択肢もあるな? そうすればこの子はアメリカと日本の両方の国籍が貰えるしね?」


 そう言って彼は私のお腹を擦った。


 「清彦」

 「早紀は何も心配することはないからね?」

 「ごめんね、まだ安定期じゃないからエッチのお付き合いが出来なくて」

 「それくらい我慢するよ」


 私は清彦のパジャマとトランクスを脱がせ、それを咥えてしゃぶってあげた。


 「悪いね早紀。うっ、相変わらず早紀のフェラはとてもいいよ」



 しばらくすると清彦は軽いうめき声をあげ、私の口の中に射精した。

 私はそれを全部飲み干してあげた。


 私の心配は杞憂に終わった。



 


第16話

 店にはまた葉瑠子が来ていた。

 左近寺たちの演奏が終わると、葉瑠子が左近寺に近づいて来た。


 「何かいいことでもあったのかしら? かなり陽気なビル・エバンスだったけど」

 「別に。いつも通りだ」

 「ねえ、一緒に飲まない?」

 「悪いが早紀が待っているんだ」

 「早紀の昔の恋人の話、聞きたくない?」

 「昔の男? 興味ないね」

 「愛しているのね? 早紀のこと」


 左近寺は葉瑠子の誘いを無視して、さっさと帰ってしまった。



 「葉瑠子ちゃん、もう諦めた方がいいよ、キヨの事は。

 早紀ちゃん、おめでたみたいだから」

 「おめでた? そう、でもそんなの私には関係ないわ。私、欲しいものは必ず手に入れる女だから」

 「凄いな葉瑠ちゃんは? そのバイタリティ、俺にも分けて欲しいよ」

 「人生には限られた時間しかないの。それをどう使うか、それが生きるってことでしょう? 伊東のオジサマ?」

 

 ドラムの伊東に向かって葉瑠子は言った。


 「それに私にはもう時間がないの」

 「時間がない? 若い葉瑠ちゃんが?」

 「若い? 人生、最期まで楽しまなくっちゃ」


 葉瑠子はそう言って寂しく笑った。




 「お帰りなさい。悪阻つわりが酷くて今日はコンビニのお弁当なの。ごめんね? 清彦」

 「気にしなくてもいいよ。言ってくれたら食べて来たのに」

 「だって清彦に早く会いたかったんだもん」


 清彦は私を抱きしめ、やさしくキスをしてくれた。



 お弁当を食べながら清彦が言った。


 「早紀は何か食べたい物はないのか?」

 「何も食べたくないの」

 「何か食べないとなあ、この子のためにも」


 清彦が私のお腹を触った。


 「うーん、強いて言うなら『プモリ』のアップルパイなら食べられるかも」

 「よし分かった。明日、買って来てやるよ」

 「うれしい! 楽しみに待ってるね?」


 


 左近寺はアップルパイをもうひとつ買って実家を訪問することにした。

 父親にジュリアード行きの費用の援助を頼むために。



 「母さん、久しぶりー。

 はいこれ、『プモリ』のアップルパイ」

 「あらありがとう清彦。今、お茶を淹れるわね?」


 そこへ午前中の診療を終えた父親が戻って来た。


 「清彦どうだ? 変わりはないか? 随分顔を見せなかったがカネはあるのか?」

 「父さん、それでちょっとお願いがあるんだ」

 「いくら必要だ?」

 「取り敢えず2,000万円。駄目かな?」

 「何に使うんだ?」

 「アメリカのジュリアード音楽院に留学したいんだ」

 「アメリカにか?」

 「もう一度ピアノをイチから勉強してみたいんだ」

 

 父親は静かに言った。


 「お前、ピアノと結婚するつもりか? いつまでもひとりでいるわけにもいかんだろう?

 実は先日、俺の知り合いのお嬢さんが、お前と見合いがしたいという相談があってな? 一度会ってみないか?  

 中々の資産家のお嬢さんでな? 名前は確か、栗山葉瑠子さんとか言っていたな?」

 「その子なら知っているよ。よく俺の店にも来てるから」

 「そうか? 知り合いだったのか? なら話は早い。それでどうなんだ? 葉瑠子さんと付き合う気はないのか?」

 「父さん、俺、今付き合っている女がいるんだ。

 お腹には4ヶ月の子供もいる。彼女も一緒にアメリカに連れて行くつもりだ。子供は向こうで産ませてやりたい」

 「子供が出来たのか?」

 「ごめん、黙っていて」

 「今度は大丈夫なんだろうな? まあ結婚は何度してもかまわんが。

 血は争えんもんだな? あはははは 分かった、カネは出してやる。

 今度その娘さんをここに連れて来なさい」


 お茶の用意をしながら母が笑っていた。


 「何をしている人なの?」

 「藝大の同級生で、前はオペラ歌手をしていた人だよ」

 「まあ、オペラなんて素敵じゃない? 出産を終えたらまたオペラに復帰するんでしょう?」


 左近寺はJAZZシンガーだとは言えなかった。

 JAZZというと軽く見られる気がしたし、それもあながち嘘ではなかったからだ。


 「復帰するかどうかはわからないけど、イタリアにも留学経験がある子なんだ」

 「なら家柄的にも問題はなさそうだな? 今度の休みにでも連れて来なさい」

 「わかったよ」


 左近寺たち親子はアップルパイを食べながら紅茶を飲んで、お互いの近況を話した。

 左近寺のミッションは成功した。





第17話

 清彦の両親と初めてお会いした。

 気に入られたようで安心した。


 

 「はじめまして、園部早紀と申します」

 「清彦から話は聞いていますよ。オペラ歌手をされているんですってね?

 私もオペラが大好きなの。そのプリマドンナが清彦のお嫁さんになってくれるなんて夢みたい!」

 

 予め清彦からそれを聞いていたので私も義母に話を合わせた。


 「プリマではありません、ただのチョイ役です。

 オペラの世界は私より凄い人が沢山いますから」

 「でもイタリアにも留学していたんでしょう? 聴いてみたいわ、早紀さんのアリア」

 「よろこんで」

 「楽しみにしてるわね? 赤ちゃんは向こうで産むつもりなの?」

 「まだわかりません。清彦さんとよく相談して決めようと思っています」

 「そう。もし良かったら私がそっちに行ってお産のお手伝いをしてあげますからね、その時は遠慮なく言って頂戴」

 「そんなこと言って、本当は母さんがアメリカに来たいだけだろう? 大学もアメリカだったから」

 「うふっ。バレちゃった? でも早紀さんの役に立ちたいのは本当よ」

 「ありがとうございます」

 「まあ丈夫な孫を産んでくれ。それより結婚式だな? なるべく早い方がいいだろう?」


 (デキ婚だから早い方がいいわよね? 親としては)


 「式は考えていないんだ。ごく内輪だけでやるつもりだよ」

 「まあそれもそうだな? 今はそういう時代だしな?」


 義父は明らかにホッとしている様子だった。

 何しろ私たちは二度目の結婚である。招待客にもそれなりに気を遣わなくてはならない。

 結婚式の件は私をおもんばかってのことだった。


 「我儘言ってごめん。父さん母さん」

 「お前たちの好きなようにしなさい。俺たちはそれに協力するよ」

 「取り敢えず籍だけは早く入れなさいよ」

 「うん、そのつもりだよ」

 「私たちもまたお爺ちゃんお婆ちゃんね? あなた」

 「人生は早いもんだな?」


 清彦には前の奥さんとの間に娘さんがいたが、もちろん義母はそれには触れなかった。




 帰りのタクシーの中で清彦に言った。


 「素敵なご両親ね?」

 「息子の俺は今でも親の脛齧すねかじりの放蕩息子だけどね?」

 「そんなことはないわ。清彦は立派なピアニストだもん」

 「ありがとう早紀。俺、ニューヨークで頑張ってみるよ、早紀とこの子のために」

 「私も頑張って丈夫な赤ちゃんを産むね?」

 「お互いに頑張ろうな? 早紀」

 「うん」



 

 その日も葉瑠子は店に来ていた。


 「父から聞いたわ。早紀と結婚するんですってね?」

 「まさか君のお父さんと俺の親父が知り合いだとは思わなかったよ」

 「これもまた運命かもよ? ねえ、ちょっとお食事しない? 食事だけでいいから」

 「君とふたりで食事をする理由がないよ」

 「あなたにはなくても少なくとも私にはあるわ。あなたのことが好きだから」

 「悪いが俺には早紀がいる、だから俺にはもう付き纏わないでくれ」

 「あら、あなたのお父上からはお許しはいただいているわよ。食事くらいならって」

 「親父が?」

 「いいじゃないの食事くらい。お父様の顔を立ててあげなさいよ」

 「じゃあこれが最後だと約束してくれ」

 「わかっているわよそんなこと」


 左近寺は仕方なく、葉瑠子との食事を承諾した。


 

 

 食事に向かうタクシーの中で、葉瑠子が急に苦しみ出した。


 「大丈夫か? 病院に行った方がいいんじゃないか?」

 「大丈夫、いつものことだから。ちょっと横になれば治るわ。

 運転手さん、ここで停めて下さい」



 そこはラブホテルの前だった。


 「早く病院に行った方がいいよ」

 「大丈夫、少し横になれば収まるから、いつもの発作なの」



 タクシーを降りた葉瑠子はふらつく足取りでホテルへと入って行った。

 心配になった左近寺は、葉瑠子の後を止むなくついて行った。



 ホテルの部屋に入るなり、葉瑠子がいきなりキスをして来た。

 だがそれはとてもチカラのないキスだった。


 「やめろ! とにかく横になれ」

 「仮病だと思った? 仮病じゃないわよ、私、心筋梗塞なの。いつ死ぬかわからない、本当よ」


 葉瑠子はバッグの中からタブレットケースを取り出して左近寺に見せた。


 「余命半年なんて笑っちゃうわよね? まだやりたいことが沢山あるのにバカみたい」

 「余命半年ってなんだよ」

 「とにかく私には時間がないの。だからお願い、今日だけでいいの、私に思い出を頂戴。

 それから病気のことは早紀には言わないで。あの子、あれでも私の友だちだから、心配掛けたくないの」

 「・・・」


 葉瑠子は左近寺を抱いてそのままベッドに倒れ込んだ。

 左近寺はそんな葉瑠子が気の毒になり、やさしく葉瑠子を抱き締めた。

 

 だがそれ以上のことはしなかった。

 静かに時間だけが過ぎて行った。


 「死にたくない・・・」


 葉瑠子は左近寺の腕の中でずっと泣き続けていた。




第18話

 玄関で清彦を出迎え、ハグしてキスをした。


 「お帰り清彦。今日は遅かったのね? ご飯出来てるわよ。

 といってもスーパーのお刺身をお皿に盛り付けただけだけどね? ビールでいい?」

 「ああ」

 「どうしたの? 元気がないみたいだけど。具合でも悪いの?」


 私は清彦のオデコに自分の額を当ててみた。


 「熱はないようだけど?」

 「少し疲れただけだよ」


 微かに女物の香水の香りがした。

 だがそれはお店のお客さんの香りが付いたものかも知れない。

 私は清彦に戯けてそれを指摘した。


 「クンクン 女の香りがするぞー。まさか風俗ってことはないわよね? 昨夜もお口でしてあげたし」

 

 清彦は笑わなかった。


 「風呂に入って来る」



 イヤな予感がした。


 (まさか浮気?)


 私が妊娠中ということもあり、確かに清彦の性欲を満足してあげてはいない。

 だがそれなりに別の方法で彼の射精をサポートしているつもりだった。

 もちろん証拠はない。だが彼の表情を見ればわかる。女だから。

 清彦は嘘の吐けない男だ。風俗なら仕方がないと思った。そこには相手に対する恋愛感情はないからだ。

 妊娠中の浮気はよくあること。私は冷蔵庫からお刺身を出して食事の用意を始めた。



 気まずい空気を変えようと、テレビを点けた。

 深夜ということもあり、落ちぶれたタレントがやっているテレビ・ショッピングしかやっていなかった。

 私はテレビを消し、久しぶりにプッチーニの『誰も寝てはならない』「トゥーランドット」のCDを掛けた。

 心を落ち着かせたかったからだ。


 「プッチーニか? いいな? たまにはこれも」


 ブリのお刺身をお醤油皿につけながら清彦が言った。


 「音楽はお洋服みたいなものね? 気分を変えてくれるから」

 「オペラ、また歌ってみたいかい?」

 「それは歌いたいわよ。でももう私はソプラニスタじゃないわ。高い声はもう無理」

 「歌はいいよな? 自分自身が楽器だから」

 

 清彦は缶ビールを無造作に飲んでそう言った。


 「ごめん早紀。今日、葉瑠子に会ったんだ」

 「そう、葉瑠子に抱きつかれたのね? まったくあの娘は私のダーリンになんてことしてくれるのかしら。

 まだ諦めていないのね? あなたのこと」

 「彼女、病気らしいんだ」

 「どうせ仮病でしょう?」

 「心筋梗塞らしい。早紀には言わないで欲しいといわれた。早紀が心配するからと。

 彼女、泣いていたんだ、「死にたくない」って」

 「・・・」

 「一度、彼女に会ってやってくれないか?」 

 「会って私はどうやって声を掛けてあげればいいの?」

 「何も言わなくてもいい、ただ彼女の話を聞いてあげればそれで。君たちは友だちだから」

 「わかった。明日、連絡してみる」


 清彦への疑いは晴れたが、私の心に落とされた墨汁が大きく広がっていった。



 

 葉瑠子とランチをした。


 「どういう風の吹き回し? 恋敵をランチに誘うなんて」

 「最近、どうしてるかなあと思ってね? 友だちだから」

 「友だち? そんなの昔の話でしょ?」


 葉瑠子は吐き捨てるように悪びれて見せた。


 「私は今でもあなたを大切な親友だと思っているわ」

 「カルボナーラとペペロンチーノが美味しいお店はどんなパスタも美味しい筈。ここは当たりね?

 今度はアンタとじゃなく、清彦と来よーっと」


 そう言って葉瑠子は上品にカルボナーラをフォークに巻き取り、口に運んだ。


 「オケの方はどうなの?」

 「辞めたわ。あんな中途半端なオケなんか」


 フルートもかなり体力を使う楽器だ。やはり清彦の話は本当らしい。


 「私、昨夜ゆうべ、清彦に抱かれたの。ラブホで」

 「そう」

 

 私は髪の毛が入らないように片手で髪を押さえながらペスカトーレを食べた。


 「怒らないの? 悔しくないの? フィアンセを寝取られたのよ? この私に!」

 「でもしてないんでしょう? 清彦から聞いたわ」

 「この私が誘ったのよ、このナイスバディの私が。アンタが妊娠中だから折角のチャンスだと思ったのに。

 悔しいけどアンタ、相当愛されているみたいね?」

 「病気なんだって?」


 私は葉瑠子を見ずに言った。彼女の顔を直視することが出来なかった。

 見ると泣いてしまいそうだったからだ。

 

 「おしゃべりな男とブロッコリーは大っ嫌い。あれほど言わないでって言ったのに」

 「病院、変えてみたらどうなの?」

 「すでに壊死している心臓をどうやって治せというのよ。私の心臓は今、30%しか動いてないのよ。

 心臓移植しかないじゃないの。でも知らない人の心臓を貰ってまで生きたいなんて思わない」

 「それでも葉瑠子には生きていて欲しい。大切な親友だから」

 「アンタ馬鹿なの? 恋人を寝取られそうになったのよ?」

 「でも未遂だった。ただそれだけのことよ」

 「私、絶対に謝らないから。死んじゃうのよ、私。恋愛も結婚もしないで、ママにもなれずに死ぬの。

 友だちのフィアンセにちょっかいくらい出してもいいでしょう? それくらい許されてもいいわよね?」


 葉瑠子はパスタを少しだけ食べると上を向いた。涙が零れないように。


 「泣いてもいいのよ。私の前なら」

 「泣く? 何で私が泣かなくっちゃいけないのよ。私はそんな弱い女じゃないわ」


 彼女の瞳から大粒の涙が溢れ、零れ落ちた。

 私は食事の手を止め、彼女を背後から抱き締めて泣いた。


 「葉瑠子のバカ・・・、もっと素直になりなさいよ。ううううっ」

 「バカなのはアンタの方でしょ! ううううう」


 葉瑠子の涙がオレンジ色のテーブルクロスにポタポタと落ちて行った。

 私たちは人目も憚らずに抱き合い、声を挙げて泣いた。


 「早紀、死にたくないよおー」

 「大丈夫、大丈夫だから」


 レストランには気怠い午後の白い光が差していた。


 


第19話

 久しぶりに葉瑠子と清彦が演奏している店を訪れた。

 清彦のピアノはまるでウサギが鍵盤の上を跳ね回るような、軽快なタッチだった。

 今夜はチック・コリアの『スペイン』を弾いていた。



 演奏が終わり、清彦が私たちのところへやって来た。


 「チック・コリアは忙しいから大変だよ」

 「テクニックがより上がったんじゃない?」

 「まだまだだよ。まだ納得出来るレベルには程遠い」

 「ジュリアードに行くんだってね?」

 「うん、もう一度基礎からやり直そうと思ってね?」

 「向こうは本場だもんね?」

 「まあカネは掛かるけどな? また親に泣きついたよ」

 「音楽をやるにはそれなりの財力が必要だもんね?」

 「金持ちじゃないと音楽がやれないなんておかしいよな? 才能のある奴はゴロゴロいるのに。

 それに音大に合格するだけでも大変だ。その音大の先生の高額なレッスンを受けるのは必須だからな?

 俺の友人なんか、北海道から毎週飛行機で東京までレッスンを受けに来ていたよ。

 それに何よりもまず、ピアノが家になければならない。ピアノ科を目指すにはグランドピアノは必要だ。

 箔をつけるための海外留学にもカネが掛かる。コンテストの受賞歴も重要だ。

 それでもプロになれるのはほんの一握りだしな?」

 「お金がないとクラッシックは無理だもんね?」

 「その点、JAZZは平等だ。アカデミックな教育を受けなくてもプロの道はある。実力の世界だからな? 心に響くか響かないか、ただそれだけだからな?

 ハーレムの子供でも才能があればチャンスはある。それがJAZZだ」

 「赤ちゃんは向こうで産むつもりなの?」

 「アメリカ国籍ももらえるからその方がいいかなあって思ってる」

 「私もアメリカに行きたいなあ。でも飛行機はもう無理、気圧の変化が心臓に負担になるから」

 「子供が産まれたら一度帰国して、葉瑠子にも赤ちゃん、抱かせてあげるね?」

 「その時を楽しみにして・・・、うっつ」

 

 葉瑠子が胸を抑えて急に苦しみ出し、意識を失いその場に倒れた。


 「葉瑠子、葉瑠子! 救急車! 救急車を早く!」




 享年36歳、早すぎた人生だった。

 葉瑠子らしいあっけない最期だった。葉瑠子の人生の幕が降りた。

 私たちに最期を看取られ、葉瑠子は果たしてしあわせだったのだろうか?

 死とは人生の中断だ。私や清彦だって明日、何が起きるかわからない。

 私たちは葉瑠子の冥福を静かに祈った。

 



 安定期になり、私たちは渡米した。


 「早紀、本場のJAZZを聴きに行こうか?」

 

 清彦は私をブルックリンのJAZZクラブへと連れて行ってくれた。

 


 そこは驚愕の世界だった。

 黒人たちの迸る熱いJAZZソウル。音楽とカラダが一体になっている感覚が見える。

 まるで日常会話でもするかのように突然始まるJAZZに心が震えた。


 (本当のJAZZを歌いたい)


 私も出産を終えたらジュリアードかバークリーに通いたいと思った。

 それに私の英語は文法こそ間違いではないが、発音はまだ甘い。

 ネイティブのように歌いたかった。



 その黒人女性シンガーは、最後にBillie Holidayの『Strange Fruit(奇妙な果実)』を歌った。

 ドラッグとアルコールに溺れた悲劇のシンガー、ビリー・ホリデイ。

 その曲は黒人奴隷が白人にリンチされ、見せしめのために木に吊るされた悲しい歌だった。


 

     南部の木には奇妙な果実が実ります

 

     Southern trees bear strange fruit.


Blood on the leaves and blood at the root.


Black bodies swinging in the southern breeze.


Strange fruit hanging from the popular trees.




 止めどなく涙が零れた。

 これが本場のJAZZだった。   

 

 


第20話

 ジュリアード音楽院はマンハッタンのセントラルパークの近くにあった。

 世界最高峰の私立音楽大学である。名前こそ「School」ではあるが、学生1人に対して教職員が4人という、極めて恵まれた環境にあり、実質的なマン・ツー・マンの指導体制には定評があった。

 もちろん学費もそれなりに一流だった。授業料だけでも年間50,000ドル以上が必要で、並の経済力ではとてもおぼつかないのも事実である。

 清彦は受験の準備で毎日が大忙しだった。



 「入学願書を作成するだけでもこんなに大変なのね?」

 「ああ、TOEFLは80点以上の英語力が要求されるし、学業成績証明書、教授からの推薦状、指定されたテーマを英文で作成するエッセイ、演奏を撮影した動画ビデオなど、目が回りそうだよ」

 「清彦なら大丈夫、絶対に合格出来るわ」

 「合格率はたった10%くらいしかないんだぜ? そう甘くはないよ」

 「でも大丈夫、清彦は私の愛した人だから」

 「頑張るよ、早紀のために。そしてこのお腹の子のためにも」


 清彦は私のお腹を愛おしそうに擦ってくれた。




 一次は書類審査と演奏している動画ビデオの審査だった。

 一次審査を無事に通過した清彦は、二次審査の実技試験へと臨んだ。


 12、3曲の課題曲の中から、居並ぶ大勢の教授陣たちの前で演奏をする。

 「それでは第三小節から」とか「第二小節目を」と指定された曲の一部分だけを実演するのだ。

 そして演奏は適当なところで中断されてしまう。


 「わかりました。もう結構です」


 その間、僅か15分ほどである。

 だが左近寺には確かな手応えがあった。教授陣が「信じられない」というようなオーバー・リアクションをしていたからである。


 (俺は絶対に合格する!)




 合格発表はメールで通知される。合格発表の日、私たちはドキドキしながらメールを待った。

 そして定刻通りメールが届いた。


  Congratulation!


 合格だった。

 私たちは抱き合って歓喜した。



 「今度は私の番ね? がんばって丈夫な赤ちゃんを産むからね!」

 「名前を考えてみたんだ。男の子の名前を」


 子供の性別は男の子だった。


 「どんな名前?」

 「英語でも日本語でも親しみやすい名前がいいと思ってね? 左近寺拓斗はどうだろう?」

 「指揮棒のことね? 素敵な名前じゃない! いいと思う!」

 「じゃあそれで決まりだね? 元気に産まれておいで、拓斗君」


 

 

 初めてのお産ということもあり、予定日を過ぎても中々陣痛は起きなかった。

 陣痛促進剤を使い、私は元気な男の子を無事に出産した。

 清彦は初めての男の子ということもあり、大喜びだった。


 「ほら見てご覧よ早紀、凄く長いピアニスト向きの美しい指をしている」

 「この子も清彦パパと同じ、ピアニストになるのね?」 

 「ああ、世界中を演奏して回る、世界一のピアニストにね?」


 私たちはしあわせの絶頂の中にいた。



 

 ジュリアードの一般入学は秋に行われる。それまでの間、私たちは十分に子育てを楽しんでいた。


 生後6ヶ月が過ぎた頃、拓斗の写真や動画ビデオを撮って清彦の実家の両親にメールをするために、セントラルパークへとやって来た。

 気持ちの良い、穏やかな初夏だった。


 「はいはい拓斗、こっちこっち、笑ってごらん。パパだよ~」

 「ほら拓斗、 パパの方を見て」


 拓斗が笑った。



      パン パーン



 乾いた銃声が2発聴こえた。そしてスマホを構えたまま、清彦が胸から血を流して芝生に倒れた。

 私は狂ったように清彦の名前を呼んだが、既に反応はなかった。


 「清彦! 清彦! いやーーーーあああああ!」




 それからのことは記憶にない。

 捕まった犯人はチャイナ・ウイルスによって母親を亡くしたアメリカ人青年だった。

 

 「ウイルスを世界中に拡散させた中国人は死んで当然だ」


 犯人はそう供述したらしい。

 清彦は中国人に間違えられて射殺されてしまった。

 私は突然の出来事に頭がフリーズしてしまい、悪夢を見ているのかと思った。



 

 日本から清彦の家族と父がすぐにニューヨークに駆けつけて来た。

 清彦の遺体に縋り、泣き叫ぶ義母。呆然と立ち竦む清彦の親兄弟たち。



 遺体は日本で荼毘に付すことになり、私たちはアメリカを離れ、清彦の亡骸と共に帰国の途に就いた。


 


第21話

 葬儀が終わり、四十九日が過ぎても納骨する気にはなれなかった。

 あまりの突然の出来事で、清彦が死んだという事実を受け入れることが出来ない。

 私は夢を見ているのだと思った。


 私は自分の実家でしばらく暮らすことになり、父は私を慰めてくれた。


 「人生は長い、これからの拓斗と自分の人生を考えなさい」


 私の時間はあの日から止まったままだった。

 そんな私を気遣ってか、息子の拓斗はあまり泣いたりぐずったりもしなかった。

 日増しに清彦に似てくる拓斗。それが嬉しくもあり、切なかった。

 あの日、私たちも一緒に殺してもらえば良かったとさえ思う。

 スヤスヤと眠っている拓斗を見ていると、無意識にこの幼子の首に手を掛けそうになる自分がいた。


 (この子を殺して私も死んでしまいたい)


 それほど私は憔悴していた。



 清彦の両親も私を気遣いながら、清彦の忘れ形見である孫の拓斗によく会いに来てくれた。


 「こんにちは園部さん、また来ちゃいました。よかったらこれ、一緒に食べませんか? シャインマスカットです」

 「こんなに高価なものをいつもすみません。私たちは家族なんですからどうぞお気遣いなくいらして下さい」

 「いただき物なんですよ、お気になさらずに。拓斗、バアバのところにおいで」


 義母は拓斗を抱き上げると頬擦りをした。


 「早紀さん、体調の方がどう?」


 義母はこんな私を心配してくれた。

 義母は強い人だと思う。末っ子である最愛の息子を失い、失意のどん底にいるはずなのに、いつも笑顔を絶やさなかった。


 「私ね? まだ清彦が死んだっていう実感がないの。あまりにもあっけないお別れだったから。

「母さんただいま」なんて帰ってきそうで。

 あの子の死がどうしても受け入れられない。早紀さんもそうよね? 涙も出ないでしょう? 突然目の前からあの子がいなくなるなんて」

 「そうですね・・・」


 義母は泣いていた。そして孫の拓斗に向かってこう言った。


 「ホント、清彦にそっくり。このお口、目元。そして長くてしなやかな指。

 実はね、この人とも相談したんだけど、拓斗をウチで引き取るわけにはいかないかしら? お父さんはどうですか?」

 「それは娘が決めることですから私にはお答え出来ません」

 「そうですよね? 不躾なことを申し上げてごめんなさい。拓斗は息子が残してくれた左近寺家の大切な子孫でもあります。早紀さん、拓斗を私たちに育てさせて貰えないかしら?

 もちろん母親である早紀さんが拓斗に会いに来ることは自由よ。そうすればあなたもまたオペラを続けられるでしょう?」


 それは義母の私への心遣いだった。

 ありがたいと思った。だが拓斗を失えば私は生きては行けない。


 「色々ご心配をお掛けして申し訳ありません。拓斗は私の子供です、私が責任を持って育てますのでお気遣いなく。それに私はもうオペラは辞めたんです、才能の限界を感じて諦めました」

 「それじゃ音楽はどうするの? 歌手ではなく、指導者になるつもりなの?」

 「もう音楽は辞めるつもりです。私にはもう歌う気力もありませんから」

 「あなたは音楽を続けるべきよ。続けて欲しいの、実現出来なかった息子の夢を早紀さんに叶えて欲しい。 

 私はあなたに託したい、それって迷惑なことかしら?」

 「すみません、今は何も考えることが出来なくて・・・」


 私は嗚咽した。

 そしてその日は何も決まらぬまま、義母たちは拓斗との別れを惜しむかのように帰って行った。


 「拓斗、ジイジとバアバ、また来るからね?」

 「拓斗、バイバイな?」



 義母たちが帰ってからポツリと父が言った。


 「左近寺さんたち、お前たちのことを心配して言ってくれたんだな?」

 「わかっているわお父さん。でも拓斗は私が育てたいの。あの人の子供だから」


 

 拓斗がいてくれるお陰で私はなんとか生きていることが出来た。

 



第22話

 食欲もなく、母乳の出も悪かった。

 生きる気力が湧いて来ない。

 拓斗のためにもこのままではいけないと思い、消化器内科と心療内科を受診することにした。



 心療内科では「うつ病」と診断された。


 「取り敢えず抗うつ薬と睡眠導入剤を処方しておきますね?」


 その若い精神科医は事務的にそう私に伝えた。


 (うつ病? そんなのわかっているわよ)



 消化器内科では思いがけない結果が告げられた。

 

 「初期の食道癌ですね。でも心配することはありません、これから入院していただくことになります。手術は早い方がいいですから。

 色々と病状や入院の説明がありますのでご家族様をお呼び下さい」

 「食道癌・・・」

 「驚かれたでしょうが今なら切除は可能です。再発の可能性も低いはずです」


 拓斗を抱っこしてくれていた看護士さんが、気の毒そうに私を見ていた。


 


 父と一緒に説明を受け、手術の同意書にサインをした。


 「お前が入院している間、拓斗のことは俺がみるから心配するな。

 俺もお前を育てた経験がある、安心して手術を受けなさい」


 年老いた父に幼い乳飲み児の面倒を見させるわけには行かなかった。

 私は義母に拓斗のことをお願いすることにした。


 「拓斗のことはお義母さんにみてもらうことにするわ」

 「そうか、拓斗も一番懐いているしな? 辛いだろうが左近寺さんに世話になるか? 今は病気を治すことが先決だからな?」

 「私、どうしてこう酷い目にばかり遭うのかしら・・・」


 私は両手で顔を覆って泣いた。父は黙っていた。悪いことを言ってしまったと思った。

 私は父を苦しめてばかりだった。


 「お父さん、ごめんなさい・・・」

 「何も謝ることはない、人生は良いことと悪いことが半々だ。それに俺は早紀の父親だからな?

 お前の辛さは俺が受け止めてやる」

 「ありがとう、お父さん・・・」




 翌日、拓斗を連れて義理の両親がお見舞いに来てくれた。


 「早紀さん、色々大変だったわね? でも発見が早くて良かったわ」

 「食道癌のオペはそう難しいものではないから心配はいらないよ。数週間で退院出来る筈だ。

 それにここの院長とは知り合いだからよく話しておくよ」

 「ありがとうございます」

 「大丈夫、拓斗のことは私が責任を持って預かるから。早紀さんは病気を治すことだけ考えてね?」

 「マーマ」


 拓斗が手を伸ばし、私の頬に触れた。

 私は拓斗を抱き締めて泣いた。



 (一体私がどんな悪いことをしたというの?)


 みんなが帰った後、私はひとり、病室で泣いた。

 このまま死んでしまいたいとも思ったが、拓斗を残して死ぬわけにはいかない。

 私は拓斗の母親なのだから。


 

 


第23話

 手術には4時間を要した。かなり痛みはあったが、翌日から病院内を歩かせられた。


 「歩かないと治りが遅くなるからがんばって下さいね?」


 そう看護士は言った。

 

 (早く拓斗と一緒に暮らしたい)


 私は毎日そればかりを考えて痛みに耐えた。



 義母は毎日拓斗を連れて私に付き添ってくれた。


 「早紀さん、経過は順調なようね?」

 「おかげさまで。白血球の数値が安定したら来週には退院出来るそうです」

 「そう、でも無理はしちゃ駄目よ。拓斗のことは私がしっかり責任を持って面倒を看ているから安心して頂戴ね?」

 「ありがとうございます。でも甘え過ぎですよね? すみませんお義母さん」

 「何も謝ることなんかないわよ、家族なんだから。それに拓斗は私のかわいい孫なんだから。

 このままずっと手元に置いておきたいくらい。うふっ」


 義母は本気だと感じた。

 どんどん自分の息子に似てくる拓斗を見て、義母は拓斗と離れたくない様子だった。


 「益々清彦さんに似て来ますよね? 拓斗」


 義母は拓斗に頬擦りをして言った。


 「タクちゃんはパパにそっくりでちゅもんねー」


 私はそれに釘を刺すように言った。


 「拓斗は私にとっても清彦さんが残してくれた唯一の生き甲斐ですから」


 義母は私に拓斗を抱かせた。


 「そうね? やっぱりタクちゃんにはママが一番だもんね? 

 双子だと良かったのに。そうすればひとりは私が引き取れたのにね?」

 「双子でも私が育てますよ、義母さん。私が産んだ子供ですから」

 「あはははは そうよね? やっぱり自分のお腹を痛めた子供ですものね?

 どうしてあの子は親の私よりも先に死んでしまったのかしら・・・」


 義母は泣いた。

 時が経つにつれ、息子の死が現実味を帯びて来たようだった。

 そして私は今度の入院で拓斗と離れたことで、清彦の死の悲しみが少し和らいだ気がした。



 

 退院してまた実家に戻り、私は父と拓斗と暮らし始めた。

 日増しに成長して行く拓斗。


 

 拓斗が三歳になって、私は拓斗にピアノのレッスンを受けさせることにした。

 ピアノの手ほどきは芸大の准教授に依頼した。

 拓斗はすぐに天才ぶりを発揮した。


 「こんな子は見たことがない。5歳になったら早速本物のピアノでレッスンを始めよう。拓斗は世界を狙えるよ」


 准教授の垂水たるみはそう言ってくれた。

 私はようやく生きる希望が湧いて来た。




第24話

 拓斗の音楽に対する才能は尋常ではなかった。

 グランドピアノを弾く拓斗を見て、清彦の両親は歓喜した。


 「まるで清彦が生まれ変わったようだ」

 「もうグランドピアノを弾けるようになったのね? なるべく早くいい先生につけた方がいいわよ、早紀さん」

 「今、私と清彦さんの母校である藝大の磯崎准教授にレッスンを受けています」

 「それで先生の評価は?」

 「世界を狙えるそうです」

 

 義母は拓斗を後ろから強く抱き締めた。


 「ばあば、苦しいよ」

 「ごめんなさい、あまりにも拓斗がかわいくてつい抱き締めたくなっちゃったのよ」

 

 すると拓斗はベートーヴェンの『トルコ行進曲』を弾き始めた。

 驚く義母たち。


 「早紀さん、タクちゃんは天才だわ!」

 「大切に拓斗の才能を伸ばしてあげたいと思っています。天国の清彦さんも喜んでくれるはずですから」

 「そうね? JAZZピアニストにするつもりなの?」

 「いえ、拓斗はクラシックに進ませようと思っています。清彦さんの最初の夢でしたから」

 「楽しみだわ、ベルリン・フィルとのピアノコンチェルト」

 「ラフマニノフですか?」

 「もちろん!」

 「私も大好きです。ラフマニノフ。

 大学院で清彦さんが弾いているのを聴いて心が咽び泣きました」

 「私も聴いたわ。清彦のラフマニノフ」


 義母はまた泣いていた。

 それは悲しみの涙ではなく、孫に息子の面影を見ていたからだった。





第25話

 拓斗と私は音楽漬けの毎日を送っていた。

 息子のクラッシック音楽の妨げにならないようにと、JAZZは拓斗が幼稚園にいる時にだけ聴いていた。

 歌わなくなってすでに5年が過ぎていた。歌手にとって5年間のブランクは致命的だった。レッスンを1日休んだだけで元の状態に戻すまでに3日は掛かる。私は試しにSalena Jones の『If don't mean a thing』を歌ってみた。

リズム,音程こそ衰えはなかったが、歌に艶がなく、伸びやかさもなかった。私は途中で歌うことを止めた。




 拓斗は小学生になると作曲をやり出した。


 「なんていう曲?」

 「音楽には名前がいるの?」

 「拓斗が好きなショパンの曲だって名前があるでしょう?」

 「この曲に名前はないよ、勝手に浮かんだメロディーを弾いているだけだから」


 私は嬉しくなった。


 (この子は本当に指揮者になるかもしれない)


 その時、携帯が鳴った。尾形からだった。


 「尾形だ。覚えているか? お前に逃げられた間抜けなマネージャーだよ。色々と大変だったようだな?」

 「お久しぶりです尾形さん、お変わりありませんか?」

 「生きていりゃ変わりもするよ。お前との契約が切れてもう7年だからな? 今度、エグゼクティブ・プロデューサーに昇格したよ」

 「おめでとうございます」

 「お祝いしてくれよ、ラーメンと餃子でいいから」


 私は尾形さんと食事をすることにした。




第26話

 新橋で待ち合わせをして、尾形さんの行きつけだというラーメン屋について行った。


 「ラーメンでいいか? もっともここは醤油ラーメンと餃子しかねえけどな?」

 「はい」

 「ラーメンと餃子をふたつ。それからビール」

 

 私は尾形さんのグラスにビールを注いだ。


 「良かったですね? 偉くなられて」

 「偉くなるのが目標だったからな? 多少強引に成果をあげたよ」

 「エグゼクティブ・プロデューサーに乾杯」

 「ありがとう」


 病気になってお酒は控えていたが、久しぶりの冷えたビールが美味しかった。

 

 「お通しのザーサイも旨いぜ。これ大将の自家製なんだ」


 私はザーサイに箸をつけた。とても美味しかった。歯ざわりもいい。


 「旨いだろ?」

 「はい」

 「大将、こういう店はテレビに出て欲しくねえよな?」

 「大丈夫ですよ、テレビ向きの顔じゃないんで」

 「味はテレビ向きだけどな?」

 「あははは ありがとうございます」


 ラーメンと餃子が出て来た。シンプルな昔ながらの中華そばだった。

 餃子は皮が命だ。皮も手作りで、注文を受けてから包んでいた。


 「どうだ? 中華そばも餃子も旨いだろう?」

 「こんな美味しいラーメン、初めて食べました! 餃子も凄く美味しいです!」

 「俺はここの大将が作るラーメンと餃子が大好きなんだ。他を圧倒するこの絶対的な存在感、似てると思わねえか?」

 「JAZZにですか?」

 「早紀、お前にまたチャンスをやろうと思ってな? 俺はそのために偉くなった。

 俺は諦めが悪いプロデューサーだ。お前をブルーノート東京のステージに立たせてやる」

 「ブルーノート東京?」 

 「そうだ、お前をあの舞台で歌わせたい。それが俺の夢だ」

 「もう7年も歌っていないんですよ? 無理です」

 「無理かどうかはお前が決めることじゃない、それは俺が決めることだ。

 飯を食ったらちょっと付き合え」


 

 私は尾形さんについて行った。

 



第27話

 その渋谷にあるJAZZクラブは小規模ではあったが熱気に溢れていた。

 彼らはビル・エバンスを演っていた。

 日本でこれだけの演奏をするJAZZメンは稀有だった。


 演奏が終わり、店内がざわめき始めた。


 「中々いいエバンスだっただろ?」

 「日本にもこんなすごい人達がいるんですね?」

 「みんなビッグ・アップルからやって来た連中だからな?」

 

 ピアノだけが日本人で他はみんな黒人だった。


 「それじゃあ次はお前が歌え」

 「えっ? 無理ですよそんな」

 「誰も期待なんかしちゃいねえよ、もう話はつけてある、いいから歌って来い、これはオーディションだ。お前が再デビューする価値があるかどうかの」

 「でも・・・」

 「ごちゃごちゃ言わずに歌って来い。言っただろう? これはお前のテストだ。ブルーノートに相応しいJAZZシンガーかどうかは俺が決める」


 私は少し酔っていたこともあり、仕方なくステージに上がった。

 マイクスタンドに立ち、尾形さんと仙台で共演した『想い出のサンフランシスコ』をアカペラで歌い始めた。

 最初の一音でお店が静寂に包まれた。

 私の歌に合わせてピアノとドラムがついて来る。ウッドベースにサックス、そしてフルートも追従した。

 心地良いベッドに横になっているようなこの感覚を私はすっかり忘れていた。


 拍手とアンコールの声に包まれ、その後も3曲ほど歌って私はステージを降りた。

 バンドのメンバーが私を見て深く頷き笑っていた。


 「駄目だな? あれじゃカネにはならない」

 

 結構上手く歌えたと思ったので私は凹んだ。


 「今日はありがとうございました」

 「今は駄目だがまだ可能性は残っているようだ。今度は途中で逃げるなよ」

 「・・・」

 「来週からレッスンを始める、お前に断る権利はない。お前は俺に借りがあるんだからな? いいな?」


 諦めていたJAZZシンガーの扉が再び開いた瞬間だった。



 


第28話

 尾形さんの厳しいボイトレが始まった。


 「0. 001秒遅い! よく音を聴け! それでも元ソプラニスタか! もっと伸びやかに晴れやかにもう一度! 三小節目から」

 「はい!」


 尾形さんのしごきがうれしかった。




 三ヶ月間、毎日基礎レッスンが続いた。


 「そろそろいいだろう。だいぶ音域も安定して広く出せるようになったからな?」

 「後は感情表現ですか?」

 「それはいい、お前は多くの悲しみを乗り越えた。それが歌に心を与えたようだからな?」

 「尾形さん・・・」

 「しっとりとしたJAZZバラードはもうお前の物になっている。今度はボサノヴァを中心に練習を重ねて行こう」

 「ボサノヴァですか?」

 「そうだ、お前の哀愁に満ちた歌声にはJAZZアレンジしたボサノヴァが合っている。今度はそれを学べ。それにより聴衆はお前のJAZZバラードにより魅了されるはずだ」

 「わかりました。それでどんな曲を?」

 「これだ。まあ聴いてみろ、まずは体で覚えるんだ。ボサノヴァというのはBossa Nova、直訳すれば「新しい傾向」という意味がある。黒人と白人の音楽の融合であり、リゾート的でもあり、都会的要素も含んでいる。

 ボサノヴァは8分音符主体の音楽が多い。これはナラ・レオンが歌う『小舟』というボサノヴァだ」


 ポルトガル語で歌う牧歌的なリズムの音楽だった。

 サウダージ。ノスタルジーを超えたより深く身近な郷愁、切なさがそこにはあった。

 ポルトガルの民族音楽、ファドに通じるものがあるという。

 

 「いいか? 誰の歌も目指す必要はない。お前はお前独自の歌を歌え。唯一無二のお前だけのJAZZを」

 「私だけのJAZZ?」

 「そうだ、囁くようで深く心に沈んでゆくようなJAZZだ。

 ジョアン・ジルベルトの妻、アストラット・ジルベルト。彼女はただの主婦だった。

 だがボサノヴァのような語り歌にはその声がよくマッチした。『イパネマの娘』が有名だ。

 ガブリエラ・アンダースの『イパネマの娘』も中々いいぞ」

 「でもポルトガル語はよく知りません。大丈夫でしょうか?」

 「早紀はイタリア語はネイティブだから大丈夫だろう。何事も挑戦だよ」


 

 

 それから2年間、都内のライブハウスやJAZZ・BARを中心に巡った。


 「早紀、来月からレコーディングだから体調を整えておけ」

 「レコーディングですか!」

 「イヤなのか?」

 「凄くうれしくて」

 「選曲は俺が決める。いいな?」

 「はい!」


 アルバム制作は順調に進み、ファースト・アルバムが発売となった。

 初めてCDショップに自分のアルバムを見つけた時、父と拓斗と三人で記念写真を撮った。

 父も拓斗も喜んでくれた。


 「早紀、やっと夢が叶ったな?」

 「お母さんおめでとう」

 「ありがとう拓斗。親子でCDデビュー出来るといいわね?」

 「それは爺ちゃんも楽しみだな?」


 ラジオやテレビ、SNSでファンが増えていった。


 「ユーチューブでドキュメンタリー動画も流すぞ。プロモーションは俺にまかせておけ」


 尾形さんのお陰で爆発的にファンが増えていった。


 「機は熟した。半年後の10月11日金曜日。ブルーノート東京をおさえたからな?」


 ブルーノート東京。私と尾形さんの夢がようやく現実になろうとしていた。

 

 


 


第29話

 ブルーノート東京の当日、私は清彦のお墓に報告に行った。


 花を供えた。お線香の束に火がつきにくい。


 「清彦、今夜ブルーノート東京で歌うわ。見守っていて頂戴ね」


 私は手を合わせ、祈った。

 その時、確かに清彦の香りがした。清彦が側にいるような気がした。


 「清彦。傍にいるのね?」


 義母からラインが届いた。

 


   チケットありがとう

   家族みんなで聴きに行くわね

   

                 精一杯歌います

                 お気をつけておいで下さい



 

 何度歌を諦めようと思ったか知れない。

 私は恵まれていた。

 人間が崇高なのは思考にある。つまり人間は「思った通りの人間になるのだ。



    我思う、故に我あり



 私は歌手になることをいつも心に思い描いていた。そしてその道を開いてくれたのが尾形さんだった。

 私は歌い続けて来て本当に良かったと思った。




 リハーサルの合間に尾形さんがコンビニおにぎりとサンドイッチ、温かい紅茶をいれてくれた。


 「腹減ったよな? 昆布と鮭、梅干、ミックスサンドだ、食え」

 「ありがとうございます。尾形さんは何がいいですか?」

 「おにぎりか? タラコ、明太子とか筋子の魚卵系が好きだ」

 「それは売ってなかったんですか?」

 「あったよ、でも買わなかった」

 「どうして買わなかったんですか?」

 「馬鹿野郎、折角の俺達の夢、ブルーノートで食あたりでもしたら大変だろう?」

 「それじゃあ梅干をいただきます」

 「俺は昆布にするよ。今日の打ち上げは飲むぞー! あはははは」

 「私もいいですよね?」

 「おお、たっぷり飲め、潰れたら俺が介抱してやるから安心して飲め」

 「私が介抱してあげますよ」

 「お前が俺を?心配だな。あはははは」


 食事を終え、私たちは入念にリハーサルをした。




最終話

 ブルーノート東京。

 私と尾形さんの夢がようやく叶った。


 レストラン・バーで歌うことには慣れていたが、ブルーノート東京は格が違った。

 料理は本格イタリアンのコース料理になっていた。


 勉強のために何度か訪れてはいたが、客席とステージでは全くの別世界だった。


 (いつか自分もこんなステージで歌ってみたい)


 そんなことを考えていたものだ。それが今、現実になっている。

 


 様々な音楽に対応出来る音響設備に舞台照明。スムーズにリハーサルは進んで行った。

 客席の中央では尾形さんがプログラムと演出を確認していた。



 控室に尾形さんが入って来た。


 「今日、お前は伝説になる。遠回りはしたが、それが早紀の歌にソウルを与えた。

 よくがんばったな?」

 「ありがとうございます、みんな尾形さんのお陰です。まさかブルーノートで歌えるとは思いませんでした」

 「これで終わりじゃねえからな? 次はNYだ」

 「アポロシアターですか?」

 「お前は100年にひとりの歌姫、ディーバだ」


 尾形さんは私を強く抱き締めた。


 「早紀にはいつも俺がついている。お前のその素晴らしい歌で聴衆を圧倒して来い」

 「はい!」


 私の中からゆっくりと緊張と不安が消えて行った。

  



 最初の掴みが大切だ。オープニングは意外性のあるアップテンポの華やかな曲、ジョアン・ジルベルの『サウダージ』にした。



 数曲歌い終わってトークを入れた。それはリハーサルでは予定に入れていないセリフだった。



 「まさか今日、ブルーノート東京で歌えるなんて思っていませんでした。夢を見ているようです。

 10年前は東北をどさ回りして路上で歌っていました。その頃は誰にも見向きもされませんでした。

 歌に魂が入っていなかったんだと思います。

 その時はまだ、私がJAZZを軽く見ていたのかもしれません。私は売れないオペラ歌手でしたから。

 大学で声楽を学んでいた私は上手に譜面通りに歌うことばかりを考えていました。

 でもJAZZはその時の感情で歌います。今夜は最高の気分です。それでは聴いて下さい、『イパネマの娘』を」


 会場が水をうったように静かになった。

 聴衆との一体感、音楽も演劇もライブは武道に通じるものがある。

 相手が息を吐く時は息を吸い. 吸う時は吐くのだ。


 10曲を歌い上げ、アンコールになった。

 私は『When You Wish upon a polarStar』を歌い上げた。

 少し遅れて夕立のような拍手喝采を浴びた。

 尾形さんも泣いていた。




 1年後、私は尾形早紀になった。


 高校を卒業した拓斗はジュリアード音楽院の指揮科に合格した。


 


 空港に家族で拓斗を見送りに出かけた。


 「お父さんの夢が叶ったわね? ありがとう拓斗」

 「俺の夢でもあるけどね?」

 「楽しみにしているわよ、マエストロ」

 「母さん、僕を音楽の道に進ませてくれて本当にありがとう。僕も母さんみたいな音楽家になるよ」

 「私みたいなじゃなくてあなたの音楽を極めなさい」

 「それじゃあ行ってくるよ、お母さん、お祖父ちゃん、左近寺のお祖父ちゃんお婆ちゃん」

 「ばあばも拓斗に会いに行くからね? 体に気をつけてね?」

 「うん、じゃあ待ってるね? そして尾形さん・・・、いや、お父さん、母をよろしくお願いします」

 「ああ任せておけ。気をつけてな? タク」

 「はい」



 そして拓斗はニューヨークへと旅立って行った。



 「お父さんって言われたね?」

 「ああ」


 彼はうれしそうに笑っていた。

 

 「今度は俺たちもマンハッタンだな? 銀座で鮨でも食べて行くか?」

 「そうだね?」


 私たちは腕を組んで空港を後にした。

 また新たな夢に向かって。


               『カナリヤ』完





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【完結】カナリヤ(作品241010) 菊池昭仁 @landfall0810

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