リスタート・マイ・ターン

水野 文

第1話 リスタート・マイ・ターン

 ピッ、ピッ、ピーッ。笛が三回コールされる。25mプールに設置されたスタート台に俺は立った。隣をチラリ見れば、真一も俺を見ていた。すぐに視線を前に向ける。ゴーグルから見えるプールの水は濃く青かった。


「take yure mark」


 低い声のアナウンス。スタート台に手をかけ、右足をひく。短距離走のスタートの格好だ。時が止まったように音がすべて消えた。この瞬間、俺の頭になぜか3か月前の出来事が浮かんできた。



 大学を卒業し、電力技術系の会社にストレートで入社した。それなりに経験も積み、いまは50代のベテランクラス。家族持ちでもおかしくないが、結婚は一度も経験がない。それには理由があるが、いまさら一人が寂しいとは思わない。ただ、気になるのは「健康」だ。聞いた話では、動けなくなったら、時間もお金も飛んでいくのだとか。これは心に響いた。ビールを飲みながら、ゆるんだお腹を撫でると納得できた。「腹がやばい」この思いつきが全てであった。


 翌日には、スポーツジムに駆け込み、「城戸浩一きどこういち」と申込書に名前を記入した。俺が選んだのはプール設備があるジムだ。会費は多少割高であるが、筋トレと水泳ができるのが嬉しい。おまけに風呂やサウナに入れるのならお得だ。ジム通いが習慣になるには、時間はかからなかった。正直、3日で飽きるのではないかと思ったが、プールに入ると気持ちよく泳げるのだ。いまでこそ腹が弛んでいるが、小中高とスイミングと部活で泳力を競っていたのだ。


 ジムに通い始めて1か月、体も慣れてきた。自分なりにメニューを決めてトレーニングをする。1時間の筋トレ後に1時間水泳をする。効果は実感できた。


「はーい。ラスト50。15の針からスタート」


 隣で女性コーチの声がする。早い時間にプールに入ったこともあり、子供の水泳教室をやっていた。夜8時までこの状態が続く。窮屈きゅうくつではあるが、スイミングにお世話になった者としては微笑ほほえましく見ることができた。

 

 50mダッシュを行う子供達に、元気な声をかけるコーチへと目が移る。明るい声、肌には張りあり、若く感じる。やましい気持ちで観察したわけではないが、一瞬、血が熱くなった。いや、体調を崩したとか変な気を起こしたわけではない。高校時代まで記憶が飛んだのだ。


(間違いない。亜紀子あきこだ)


 一目見て分かった。何も変わっていない。歳は重ねているが、プールにいるコーチは、間違いなくスイミングの友達であり、ライバルであった。というのも、亜希子とは同じ歳にスイミングに入り、同じタイミングで昇級していった。学校は違うが、小中高と総体で顔を合わせた。スイミングではチームメイト、部活ではライバルチームのメンバーなのだ。だが、俺にとって重要なのは初恋の相手だということだ。


「亜紀子!」


 思わず声を上げてしまった。亜希子が目を細めて見ている。すぐに「あらっ」という表情で、手で『待ってて』という合図をした。すぐにコーチの顔にもどり、子供達を指導していく。



「ワーッ!」


 練習メニューの大半を終えたとき、亜希子が声をかけてきた。小学生の時から変わらない明るい声を響かせ、手を広げて脅かしてきたのだ。


「いやー、ほんと久しぶり。高校の時以来だね。こっちにはずっといたの?」

「転勤族だよ。この歳でようやく地元に帰った。まあ、しばらくはいるかな」

「ホーホー。じゃあ、子供さんも安心だね」

「いや、子供はいないよ」

「えっ、そうなんだ。じゃあ、奥さんと悠々自適ゆうゆうじてきな感じで」

「嫁もいない」


 そう言って指輪のない左手を見せた。


「ありゃま。モテナイわけじゃないでしょう。随分と女の子泣かせたんじゃない」


 俺はイヤイヤと首をふり、お返しとばかりに亜希子のことを聞くと、指で×印をして笑っていた。


 亜希子と再会してからは、日に日に若返っていくのを実感した。これは気のせいではない。初恋の相手を前にして気持ちがこみ上げてきたのは確かだ。その思いが高校生の自分を呼び起こしているのかもしれない。あの時から、止まっていた時間が俺の中で動き始めたのだ。


「よかったら、挑戦しない?」


 亜希子がチラシを差し出した。


「11月のマスターズ大会?」

「そう。浩ちゃんなら、50代でけっこういい成績出せるよ。どうせ泳ぎ始めたのなら、挑戦しないと」

「いまさらねえ」


 腰が重い俺に、亜希子は冊子さっしを見せてきた。


真一しんいちも出ているよ」


 その名前を聞いた瞬間、冊子を奪い取り文字を追った。亜希子は知っているのに、さも初めて見るような顔でのぞき込んでくる。自由形100m、50~54歳クラスの選手に視線が止まった。林真一、忘れられない名前だ。


 真一とは総体で常に顔を合わせた。記録会では何度か勝ってはいるものの、本戦では負けっぱなしだった。ライバルと呼ぶには辛いが、そう思わせたのが亜希子の存在だ。亜希子は、小中高と真一と同じ学校だった。スイミングクラブこそ違うが、亜希子にとっては同じ部活の仲間なのだ。つまりスイミングでは俺、学校では真一が幼馴染みということだ。いつ頃かは分からないが、水泳よりも亜希子に関して真一に嫉妬していた。


「これ見て尻込みしたらお前、引くか?」

「それは浩ちゃんの都合だから、何とも思わないよ」


 そうは言ってるが、言葉のリズムから期待満々の気持ちが溢れているのが分かる。ただ、これが真一に対しての期待なのか、俺なのかが分からない。亜希子の気持ちがずっと謎のままだ。しかし、こうなっては「エントリーする」という答えしか選択肢がないように思えた。実際、小さな炎であるが、赤く燃え上がったのも事実だ。この日からトレーニングは本格化した。


 マスターズ出場者を対象としたレッスンを亜希子が担当していたので、必ず参加した。ターンと飛び込みの練習ができるのが有難かった。


「ターンのタイミングが遅いから、身体が沈んでる」


 亜希子が潜って俺のターンを確認している。ターンは、突っ込む勢いを計算に入れないと、回転するときに壁に近づきすぎて足をくの字曲げ、体を縮める体制になる。こうなると回転スピードが落ちるためタイムロスになるのだ。現役を遠ざかりなまっていた身体は、筋トレの効果もあって締まってきたものの、泳ぎの感覚を取り戻すには少し時間がかかるようだ。うまくターンができない焦りはあるが、亜希子の声が励みとなり、ひたすら練習をした。


 亜希子のもとでトレーニングを開始してから2ヶ月が経った。週2回も通えればいいかと考えていたが、毎日通うようになっていた。分かってはいるのだが、亜希子の顔を見ることが目的になっているようだ。いまさら自分を誤魔化す必要もないだろう。そう、俺はいまでも亜希子が好きなのだ。


 この日もトレーニングを終え、9時半の電車に飛び乗った。座れる席があるので遠慮なく座った。心地良い疲れから目を閉じかけていたそのとき、近くでブツクサと話す声が聞こえた。見れば、少女が中年の男性に絡まれている。他の乗客は助けることなく、無視をしていた。呂律ろれつが回っていないところを見ると、酔っ払いだ。


「こんな遅くまで子供が遊んでいるなんて、いいー身分だよな」


 酔っ払いが凄み、少女に絡んでいく。見覚えのある褐色のジャケット。地元の女子校の制服だ。少女が黙って俯いているとさらに絡んでいく。


「こんな時間まで外で遊んで、無関心な親の顔が見てみたいものだよ」


(女の子に絡むほど飲んでおいてよく言う。お前が羽目外して飲んでる間、こっちは亜希子のハードなトレーニングに耐えていたのだ)


 俺の身体は席から離れ、少女の方に向かっていた。自分でも不思議だったが、自然な動きで気がつけば酔っ払いの前に立っていた。


「もう、そのあたりで勘弁していただけますか」


 毅然と立つ俺に酔っぱらいは面を食らっていた。俺の弛んでいた腹はすっかり引き締まっていた。体型もそれなりに整い、根拠のない自信もついていた。ひょっとしたらトレーニングでテストステロンが増えたせいかもしれない。


「あんたは、この子のなんだ」


 酔っ払いの言葉に俺は動じることはなかった。後ろには、少女がいる。背中に当てられた手が震えているのが分かった。


(独身で子供なしの俺だ。何言っても後ろめたさはないな)


 これもテストステロンの影響なのか随分と大胆な考えだった。自信をつけるには、酒を飲むよりも筋トレが効果あるようだ。


「私がこの子の父親だ。この子があなたに何かしましたか? もし、これ以上騒ぐのでしたら、警察を呼びます」


 瞬時に酔っぱらいの顔色が変わった。


(説教たれていたくせに憐れな姿だ。歳だって俺とそう変わらないだろう。子供のくせにとは言わせない。俺もそれなりに社会の波には揉まれてきたんだ)


 俺の視線に耐えられなかったのか、酔っぱらいはブツクサとつぶやきながら隣の車両へと移った。背中に当てられた手はまだ震えていた。


「座りませんか。できれば近くにいてください」


 空いている席に座ると少女も隣に座った。


「ありがとうございます」

「落ち着きましたか。あんなこと言って驚いたでしょ。あの場面では、知り合いを演じた方が無難なので勘弁してください。本当のお父さんが見ていたら怒られちゃいますね。私は次の駅で降りますが、どこまで行きますか」

「同じです」


 少女は視線を落とし、細い声で何か呟いていた。動揺させてしまったのかもしれない。駅で少女を見送ると、俺は誰もいない家へと帰った。


 数日後。仕事を定時で終えると、ジムに直行しないで寄り道をした。行先は、アクセサリーブランド「スタブラ」のショップである。スタブラは、俺が高校生の時に誕生した。手頃な値段とブランド品という付加価値が人気を呼び、瞬く間に女子たちに流行った。いまでは多くのデザイナーを抱え、世界でも中堅に位置するブランドである。そのスタブラが、誕生35周年を記念して、第1号作品であるブローチを予約なしの数量限定で復刻販売したのだ。実は当時、同じものを亜希子にプレゼントしていた。そのときは肝心なことを言えずに渡しただけだった。いまとなっては、コーチのお礼も兼ねて笑い話としてプレゼントできそうだ。


 ショップで店員に声をかけると、1個だけ残っているという。最新のデザインでもないのに人気があることは驚きだった。店員がブローチをケースから取り出して見せてくれた。月と星をかたどったデザイン。そう、これだ。あの時のままの姿だ。


「申し訳ありません。ただいま、完売となりました」


 俺の後ろで別の店員の声が聞こえた。声の方に目を向けると、見覚えのある制服、あの少女だ。店員の応対に呆然としている姿は、見ていて切なくなってきた。考えてもみれば、この復刻版は若い子向けのデザインだ。亜希子も同じ年頃には、憧れていた。この子も、きっと憧れがあるのかもしれない。もし俺が少女と同じ歳だったら、ここは譲れないだろう。だけどいまは、独身子供なしのオヤジだ。こんな切ない気持ちで亜希子に渡しても詰まらない。俺は店員に声をかけた。


「あの、これはあの子に売っていただけますか。私はやめておきます」

「お客様。かしこまりました」


 店員は驚いていたが、俺の気持ちを理解して少女にブローチを見せに行った。


「ありがとうございます」


 ショップを出ると少女が声をかけてきた。このとき初めて少女の名前が亜弥あやだと知った。お互い自己紹介をしたのだ。立ち話も格好が悪いということで、近くのカフェに足を運んだ。亜弥は甘く香るキャラメルフラペチーノを手にしていた。


 俺が学生の頃は、気軽に行けるカフェなど無かったが、亜弥と同じ年頃であれば亜希子も同じものを注文するのかなと想像を膨らませた。亜弥はコーヒー代くらいはお礼にと言っているが、さすがに親子ほど歳の離れた相手からご馳走になるわけにはいかない。結局、俺がご馳走をした。自然なことだろうと思っていたが、亜弥は申し訳ないという表情で席に着いた。


「それにしても、あれ35年前のデザインだよ。よく知っていたね。自分用かな?」

「プレゼントなんです。母の」


 亜弥は恥ずかしいのか、小声で母を付け加えた。


「それは譲った甲斐があったよ。じゃあ、お母さんはアラフィフでしょ。うーん、もしかしたら52あたりとか」


 亜弥は驚いて俺を見ている。どうやらズバリ正解だったようだ。自分でも不思議なのだが、全く世代の違う亜弥に笑顔で話しかけている。他人が見れば親子に見えるだろうか。そうでなければ、援交と見られてもおかしくはないのだ。ひょっとしたら、亜弥の雰囲気が高校生の俺を呼び戻していたのかもしれない。


「驚くことはないよ。あのブローチは、当時の女子はみんな憧れてたからね」

「もしかしたら奥さんへのプレゼントですか」


 亜弥がハッと思い詰めた表情をする。その顔がいじらしく、胸の内をくすぐった。


「いや、笑うかもしれないけど独身だから」

「では、お子さまに?」

「それもなし。婚姻歴なし。あーっ、引かないで。買おうと思ったのは、お世話になっている人へのお礼だよ。でも、35年前に同じ物をプレゼントしているから、ひょっとしたら迷惑だったかも。だから、亜弥さんの手に渡って正解だよ。きっとお母さん喜ぶはず」


 嘘ではない。本当にそう思った。亜希子には35年前に告白こそできなかったが、プレゼントしたのだ。


「先日はありがとうございました。それにいまもお世話になりっぱなしで何とお礼を言っていいのか」


 亜弥の言葉はしっかりしていた。電車での弱々しい雰囲気から一変し、しっかりと伝えるべき言葉が出てきていることに好感がもてた。 


「電車のことは気にしなくていいですよ。怖かったでしょ」

「はい。あの日はアルバイトの最後の日で、送別のイベントがあっていつもより帰りが遅くなってしまって」

「アルバイトは、お母さんのプレゼントのためかな」


 亜弥は頷いた。


「なるほど。でも、ブローチのことよく知ってたね」

「ブローチは、母が大切にしていた物なのです」

「お母さんは同じ物を持っているんだ」

「はい。正確に言えば、持っていたです。私が無くしてしまったんです」


 亜弥の話では、生まれてすぐに両親は離婚をして、母親のもとで育てられた。父親とは会ったこともなく、顔は知らないということだ。亜弥の母は前向きで明るい性格なので、亜弥に寂しい思いをさせることはなかった。その母がいつも大切にしていたのがブローチで、ときどき亜弥にも見せていたようだ。いつごろか、亜弥にとってもブローチは憧れとなり、駄目だと思いながらも小学生の時にこっそり持ち出して友達に見せに行った。ところが、帰り道でなくしてしまったのだ。


「それはお母さんも亜弥さんもどっちも辛いね。怒られなかったかい」


 亜弥は首をふった。


「母は仕方がないと笑ったきり、叱ることも責めることもしませんでした。残った箱は大切に持っているようです。一度だけなのですが、母がその箱を眺めているのを見ました。謝るように箱を見つめてました。いつも明るく笑う母の姿からは想像できないほど悲しげな目は忘れません。いっそ怒ってくれた方が楽だったかも」


「それでお母さんにプレゼントするんだ。亜弥さんの気持ち、きっと分かってくれるよ。ブローチは大切な人からの贈りものかな。お父さんかな」

「違うと思います。父の物は写真一つ残っていないんです」

「ごめん。余計なこと言ってしまった」


 我ながら話題がまずかったと申し訳なく思った。


「いえ、何とも思っていません。思ってはいませんでしたが、電車で私を庇ってくれたとき、凄くうれしかったです。お父さんってきっとこんな感じなのかなって、大きな背中がとても頼もしく見えました」


 亜弥の笑顔にキラリとした光を感じた。


「休みの日は何をしているのですか」

「いまはトレーニングに目覚めてジムに通ってるよ。あっ、でも以前はバイクでブラブラしてたよ」

「バイクですか。ウワーッ、乗ってみたいな」

「乗るかい。今度の土曜日にどう」


 自分でもよく誘ったなと思った。断られると想定しての社交辞令のつもりだったが、亜弥は喜んでいた。これには俺の方が返事に困った。


「それじゃあ、ヘルメットあるかい」


 亜弥が首をふるので、近くのホームセンターに連れ出した。ヘルメットコーナーに来ると、ワッと瞳を輝かせていた。


「これくらいかな」


 水色の可愛らしいジェットヘルメットを手渡して、被るように勧めた。制服でヘルメットを被る姿は、予想以上に可愛いかった。シールドを下ろしても輝いた瞳が見える。小さな子供がお姫様の衣装を身につけて喜んでいるような笑顔だ。


「気に入ったみたいだね。じゃあ、これを買おう」


 亜弥が声をかけるより速く会計をすませた。


「あの、これは」


 驚くのも無理はないが、言い出したからには責任がある。


「バイクに乗る彼氏ができたとき、これがあれば便利だろ。じゃあ、土曜日8時に駅前に集合」


 亜弥はヘルメットをポカンと見つめていたが、すぐに宝物のように抱え込むと大きな瞳が細くなるほどの笑みを見せた。その笑顔に鼓動が高鳴り、自分でも信じられないが、その笑顔に見とれてしまった。


 土曜の朝、大型のネイキッドバイクに跨がり駅へと向かった。トレーニングを始めてからは乗る機会が減ったが、機嫌を損ねることなくエンジンは目を覚ましてくれた。約束の時間には早いが、駅に着くと人通りが少ない歩道で亜弥がヘルメットを抱えて立っていた。オヤジと女子高生がバイクの二人乗りをするのだ。親子でなければ、どんな関係なのだと我ながらおかしくて笑ってしまった。


 亜弥が後ろに乗ったことを確認してバイクを走らせる。驚いたことに亜弥は最初からピタリと背中にくっついてきた。はじめは怖いのかなと思い、何度か確認したが、そうではないようだ。親子ほど歳の差がある女の子を乗せていると、トキメキよりも事故らないように運転する緊張の方がまさっていた。亜弥の年頃ならお父さんを敬遠する子も多いと聞くが、この状況は普通なのだろうかと考えてしまう。もっとも、親子ではないのだけど。


 海辺の道の駅まで一気に走り続ける。ここは夕日が綺麗に見えることから、恋人の聖地とも言われている。まだ日は高くないが、それでもカップルや家族連れが多く見られた。周りの人の目からもどうやら亜弥と俺は、親子に見られているようだ。売店でアイスを買ったときに、おばさんに「お父さんと仲良しなのね」と声をかけられた。俺は困った顔で笑ったが、亜弥は本当に楽しそうに笑っていた。優しい性格なのだろう。


「ブローチはプレゼントしたかい」

「実はまだなんです。母の誕生日が来月ですから、そのときに渡します」

「それはビックリプレゼントになるね」

「喜んでくれるといいのですが。それより、母は最近凄く機嫌がいいんです。もともと明るい性格なんだけど、さらに元気になった感じで、ブローチのことなんて忘れているみたいです」


 亜弥がアイスに口をつけた。


「それだとプレゼント喜んでくれるかちょっと不安だね。でも、やっぱり喜ぶと思うよ。だって亜弥さんが無くしたときに怒らなかったのだから。亜弥さんのこと大切に思っているはずだ。だからプレゼントも喜ぶはず」


 亜弥は頷いて笑顔になった。その笑顔に心が惹かれている俺がいた。でも、恋の感情ではない。それはハッキリと断言できる。


「浩一さんには、好きな人はいないのですか」 


 唐突な質問であるが、いまさら照れることもない。


「いますよ。いまもずっと好きです。だから独身なんだけどね。亜弥さんと同じ歳だったかな。ブローチと一緒に告白しようとしたんだ。でも、プレゼントできたけど、結局、告白はできなかった」

「どうしてですか?」


 亜弥は興味ありの顔で話を聞いていた。正直、オヤジの青春話に興味を持つ女の子がいることが信じられない。


「あー、なんだろう、負けたくない奴がいたんだ。恋でも水泳でも。それで、最後の大会に告白するきっかけというか、勇気がほしかった。こいつに勝ったら告白するって。でも、負けた。勝てなかった自分が告白なんてできるわけない。彼氏には相応しくないと思いこんだ。完全に告白のタイミングを逃したんだな」

「もし、相手の人が浩一さんを好きだったらどうするのですか。可愛そうです」


 反論できなかった。そうあってほしいと思いながらも、もし、好きでいてくれたのなら何とも締まらない。それはこの35年間、悩んだことでもあった。後悔がないとは言えない人生である。 


「それな。ずっと悩んでいた。格好つけて、ほんといまでは格好悪いよ。だから、これは、経験しての助言。好きな人がいるのなら『好きだ』と言った方がいい。結果がどうなっても、言わないよりずっとスッキリするから」


 亜弥は深く頷いた。親子はこんな話をするのだろうか。そんなことを考えながらアイスを口にすると、シンクロして亜弥もアイスを口にしていた。顔を見合わせて二人で笑った。何かを共感できた瞬間だった。




 パーン!


 乾いた音がプールに鳴り響いた。

 渾身の力でスタート台を蹴る。グングンと目の前に水面が近づく。水の中に潜り込む。空気の音、自分の鼓動、それ以外の音は遮断された。スッと身体が浮かび、腕は水を掻いていく。顔を横に向けると、呼吸の音に混ざって歓声が聞こえる。考える間もなく壁が迫る。


(このタイミングだ)


 頭を沈め半回転し、半身捻った状態で壁を蹴る。魚雷のごとく一直線に進む。その瞬間、真一が見えた。差はついていない。水を掻く手に力が入る。50メートルのターンも同じだ。しっかりとあいつを捉えている。


 ラストのターン、僅かだかタイミングを外した。壁に近づきすぎたのだ。チャンスはラストスパート、あと10m。残る力を余すことなく集中させようとしたとき、異変があった。足に力が入らない。エネルギー不足、いや酸欠か。余計なことを考える間もなく、足の動きの遅れを腕でカバーする。だが、すぐに肩が回らなくなった。腕と足が完全に麻痺したのだ。


(このポンコツ!動け)


 呼吸回数を増やし、回らない腕を何とか回す。ゴールが目前だ。思いっきり腕をぶん回してタッチをした。顔を上げれば目の前は真っ白だった。コースロープにしがみつき、荒い呼吸で真一を見ていた。とにかくゴールはしたのだ。


 張り出された結果を見る。真一が1位で俺が2位だ。


(また、同じか)


 メダルと記録証を受けとった。銀色のメダルだ。何も変わらない、締まらないなと笑いそうになったとき、目の前に亜弥の姿があった。大人しい印象とは違い、まるでげきを飛ばす上司のような感じだ。


「あれ、今日は誰かの応援かな」

「はい」


 亜弥は笑顔なく、怒ったような表情で返事をした。


「俺、出場すること言ったかな。なんだか恥ずかしいな」


 堅い雰囲気を和らげるつもりが、亜弥は表情を変えることなく首をふった。照れ隠しは見抜かれているようだ。


「浩一さん、答えてください。前田亜希子まえだあきこをいまも好きですか」


 亜弥の突然の問いに動揺してしまった。ずっと自分の中に閉じ込めていた思いを亜弥が解き放ったのだ。いまの俺は、初めて会った亜弥のように言葉を失い固まっていた。


「教えてください。浩一さん、言いましたよね。『好きだと言った方がいい。言わないよりもスッキリする』って。もし、前田亜希子が好きなのなら、これを浩一さんから渡してください。今度は『好きだ』と言って」


 亜弥は小さな箱を握らせた。あのブローチの箱だ。この瞬間、俺の頭の中で全てが繋がった。これこそ俺が願い続けていたリベンジなのだ。もう、格好つける必要はない。もう、後悔はしたくない。


「亜弥どうしたの」


 亜希子が俺と亜弥を見て驚いている。


「電車で助けてくれた人」

「えーっ、あれ浩ちゃんだったの。亜弥を助けてくれてありがとうございます」


 亜希子と一緒に頭を下げた亜弥がクッと後押しする眼差しを向けた。その声がハッキリと聞こえた。


「あなたのだ」


 手にある箱の感触がスタートの合図を放った。


「見てくれよ」


 銀のメダルを亜希子に見せた。


「俺は負けたと思ってないぜ。コンマ8秒だ。次こそリベンジだ。だから言わせてくれ」


 俺は静かに呼吸を止めた。ゆっくりと口を開けて、精一杯の思いを込めて伝えた。


「ずっと好きでした。そしていまも、あなたが好きです。35年前に本当は伝えたかった。あの時は、負けた自分が格好悪いと思った。お前には相応しくないと自分を卑下した。だけど気持ちはいまも変わらない。今更、本当にいまさらだけど、もし、あなたが私を好きでいてくれるのなら、どうかこれを受け取ってください」


 俺は、箱を亜希子の前に差し出して開けた。


 ブローチが輝いていた。


 亜希子の表情が変わった。ケラケラ笑っていた瞳が潤んでいる。顔を背けると、肩を震わせて亜弥を見ている。亜希子と同じ瞳をした亜弥が何度も大きく頷いていた。沈黙が続いた。亜希子は亜弥にコクリと頷いくと、俺の方に顔を向けた。


「はい」


 可愛らしい返事とともに、ブローチを受け取った。その姿は、少女のままの亜希子だ。俺は亜希子を抱きしめて、耳元で囁いた。


「お前がいれば、俺は勝つまで挑戦してみせる」

「練習をもっと厳しくしなくちゃ」


 亜希子が囁いた。


「じゃあ、私は2人を応援するから」


 亜弥が俺と亜希子の手を握った。


 そう、これからが俺のターンなのだ。


(了)

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リスタート・マイ・ターン 水野 文 @ein4611

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