展示パネルにマイクを向けて
翠雪
展示パネルにマイクを向けて
降水確率十%。商業施設を晴天が覆う、七月の週末。気象予報士が言うところの「絶好のお出かけ日和」に、私は、池袋駅の人混みで目を回している。
「あとは、魚をトリックに使うとかですかね。水槽が出せますし、ミステリもご無沙汰でした」
そう話したのは、一つ前の水曜のこと。来夏に発刊するのであれば、涼を感じられる小説にしてほしい——編集長からの要望、もとい指定へ応えるため、どの種の「涼」を選んだものかと議論していた。定番のホラー、変化球でイヤミス、バランス型ならミステリ。最後の案を提示した瞬間、モニター越しの担当編集はにわかに瞳を輝かせ、水族館へのフィールドワークをカレンダーにねじこんだ。そういえば、彼女が贔屓にしている有名人は、さかなクンと桝太一だった気がする。前者はともかくとして、万が一アサリを推されても、砂抜きに乗じて毒水を仕込むくらいしか思いつかない。
陽光を名前に冠する魚の巣、サンシャイン水族館は、深夜を除いて部外者の回遊が許されている。昼夜が狂いかけていた体内時計を矯正し、二分ごとに五個かけたアラームのおかげで、待ち合わせの場所には余裕をもって到着できるはずだ。コロナ禍からはビデオ通話での打ち合わせが大半となったため、彼女と直に顔を合わせるのは、ちょっと久しぶりである。スリープ状態のスマホを鏡代わりに、さほど乱れてもいない前髪を直す。指と一緒に映りこむ、三十路女の冴えない顔は、道具なしでは整えられそうにない。
目頭に触れる毛束を払うと、不意に、沈黙していた液晶パネルが目を覚ます。通知に迫り上がったのは、チャットアプリを経由した、担当編集からのメッセージだ。どうやら、時計がPMからAMに切り替わる頃合いに、編集部でトラブルが起きてしまったらしい。約束に間に合いそうもないので、二時間ほど予定を後ろ倒しにさせてほしい、とのこと。憐憫の情を覚えつつ、できるだけ穏やかな返事を考えていると、車両が駅に着岸した。扉の近くに立っていた私は、急ぎ陸地へ駆け降りる。ホームドアの脇は若者たちに埋められていて、とても避難できそうにない。間もなく最寄り駅ではあったはず、という勘に任せて出た賭けは、サンシャイン水族館の在り処を示す矢印によって、勝利を収めた。餅だかなんだか分からない、ゆるいシルエットがマイブームな「お疲れ様です」のスタンプを送る。
目的地が近いとはいえ、担当編集が到着するまでは、それなりに長い暇を潰さねばならない。先日寄った横浜駅とは毛色が異なる、眩しい盛りの若人たちを掻き分けてまで、ウインドウショッピングという気分でもない。強行すれば、無敵な彼らにこんがり焼かれ、熱中症にもなりかねない。おひとりさまの避暑地には、数年前に一度訪れてからご無沙汰だった、梟書茶房のラウンジを選んだ。
ブラインド形式の本たちと、手挽きのコーヒーを売りにしているこの店は、いつの間にか人気スポットへと化けていたらしい。東京メトロと繋がる駅近、エソラ池袋の四階は、空席待ちの人々であふれている。隠れ家のような顔をしていた頃とは比較にならない、大層な賑わいようだ。好きなインディーズバンドがメジャーデビューをしたかのような、確かな感慨と一抹の寂しさが胸に去来する。受付台で記名してから三十分後、ポニーテールの店員に、左手側のカウンター席へと案内された。伝票代わりに鍵を受け取るシステムは、既に失われているらしい。バインダーに挟んで渡された、モバイルオーダー用のQRコードを読み取り、商品の目録を眺める。メニューのタブを切り替えて、一番下まで手繰ってみると、季節限定のドリンクとして「ハワイコナエクストラファンシーブレンド」なる呪文を見つけた。目が滑走路に乗り上げかねない十九文字は、どうやらコーヒーの名前らしい。画像をタップしてみると、「ハワイコナ」というコーヒー豆の最高級品が「エクストラファンシー」であり、それを主軸として他の豆とブレンドしたのが、この一杯とのこと。説明を読んでしまったので、とりあえず、アイスの方で「リストに追加」ボタンを押してみる。
マクドナルドでは「氷ぬき」のオプションが裏技として知られているが、この店では、特に隠されてはいなかった。切り替わった画面には、ガムシロップ、シュガー、ミルクの有無を選択させるチェックボックスたちの列に、「氷ぬき」も整然と並んでいる。私は、アイスコーヒーでは溶けにくかろうシュガーを避けて、残りの全てにチェックを入れた。
スマホを置き、辺りのざわめきと融けあう。左の席では、二人組のマダムによる小さな会合が開かれているようで、後腐れのない愚痴が聞こえてくる。キッチンからは、食器が崩れる音に次いで、すみませんと謝るスタッフの声が漏れている。右隣に座った大学生は、書きかけのレポートを睨みつつ、焼きたてのフレンチトーストを頬張っていた。黒い鉄の器と銀色のナイフが、カチカチ擦れて話し合う。ふわり漂うバターの香りで、咥内の湿度が上昇する。
空き始めた腹を埋めるかのように、ふと、私は自身にとっての最適解を選ばなかったのではないかという疑念が、むくむく膨れ上がってきた。いかに末席とはいえ、一応は物書きの端くれ。時間の経過を表す定番の小道具「氷が溶けて薄まったアイスコーヒー」を、この機に学び直すべきだったのではないか? それに、呪文のように長い名前のコーヒーには質の高い豆を使っているとのことだったが、生憎と私は美食家ではない。丹念に淹れられたコーヒーの魅力を、持ち前の貧相な舌では十分に汲み取れやしないだろう。グランドメニューにもアイスコーヒーの用意はあった上、そちらの方が安価でもある。限定の文字列にとことん弱い、典型的な日本人の振る舞いをした自分に、段々と頭が痛くなってくる。小銭数枚、されど数枚の差が、銀色のスクラッチのように、幸福の表層を浅く削る。
考えれば考えるほど、弾いた選択肢の方が正しかったように思えてくる。この悪循環は、テストや入稿が終わった瞬間から、背筋が冷えだす感覚とかなり近い。コントロールできる範疇からは既に離れ、手遅れになったことを理解していながら、不都合な仮説ばかりを強固にする。作家となった今だって、誤字や脱字がある気がして、自著を満足に読み返せた試しがない。ああ、コーヒーばかりを見ていたけれど、真っ赤なさくらんぼが乗ったメロンソーダも、考慮に入れるべきだった。テーマに「昭和レトロ」が設定された、アンソロジー用の短編が書けていない。明るい緑と、人工甘味料の丸すぎる甘みを書くだけでは、多分きっと他と被る。情報を得ているのは視覚からだというのに、耳を塞ぎたくてたまらなくなってきた。
もつれる思考を断ち切らんと、手元で横たわっている店の備品を取り上げる。星新一の『きまぐれロボット』、角川文庫版。手を変え品を変え装丁を変え、年号を一つ越えてまで、長年愛されている掌編集である。数多の客が開いてきたことが分かる柔らかさは、日清カップヌードルのちぢれ麺を思い出させた。コシのない、けれどもそれが好ましい、ふわふわとした感触。一人だけで読んでいたら、中々こうはしてやれない。淡く揺れるタッチが特徴的な、片山若子の装画ともよく合っている。
黙々と文字の海に潜っていると、体感五分で注文の品が届けられた。氷ぬきのアイスコーヒーが、ポーション二つと、紙袋入りのストローに、積読柄のコースターを従えている。道半ばの文庫本は、手元の引き出しへと避難して、スマホを利き手の近くへ置き直す。左手で持ち上げたガラスの縁を喰み、喉を動かして、刺激を言葉に落としこむ。右手では、スマホのロックを解除して、メモアプリを立ち上げる。五感を用いて、読者に想像を促すことができる食事の描写は、いくらストックしておいても損はない。過去の私が積み重ねてきた断片たちは、スクロールバーを五ミリ長まで縮めていた。
スマホを叩く。マダムたちの賑やかな声が、鈍く遠ざかっていく。
・渋くはない
・後味はすぐ消える、舌残りなし
・香りは口に含んだ時が一番濃い
・ホットコーヒーは口の中にテントを張り、アイスコーヒーは舌を滑り台にする
・どうなったらビターチョコ?
・カカオ九十%、と明記すれば伝わりそう
・三分の一ほど減らし、ガムシロップを投入
・個包装のストローは灰色
・プラスチック製
・風味の邪魔をしない
・甘すぎるかも?
・コーヒーの量が少ないほど、ガムシロの濃度は高まる
・当人が飲み慣れているかどうかで塩梅が決まる
・角砂糖なら止めやすく、ポーションは使いさしにするのが難しい
・三分の二になる前にコーヒーフレッシュ(注文画面ではミルク)を足す
・底面へぶつかった白濁が、くらげのように水面を目指す
・海中火山の噴火模様
・表面に溶け残る、粒状
・マドラーなし
・油分が素地をたわませる
書いては消し、水面を舐めて、また連ねる。画面の上部に降って湧く、細長い通知をちらと見る。おおかた、写真アプリのアーカイブだろうと推測していた欄内には、短い文章が表示されていた。
『お待たせしてます、着きました。先生はどのあたりにいますか?』
両目を剥いても、もう遅い。画面の左上に表示された時計は、当初の待ち合わせ時刻を二時間と十分過ぎている。都会の人混みでは、走って向かうことすら難しい。マダムと大学生が座っていた両隣は、OLと高校生にすげ変わっていた。
慌ててコーヒーを飲み干し、レジまで駆けて、QRコードを挟んだバインダーを取りにカウンターへ戻る。天板の上には、アイスコーヒーの抜け殻がぽつんと居る。たった一杯で長居してしまった店舗と、現在進行形で待たせている担当編集への詫びとして、マスターの判定では「誰かにあげたくなる」度が満点の本を二冊買う。ポニーテールの君から、ロゴマークが印字されたレシートと、本を孕む銀色の手提げ袋を受け取った。
次にアイスコーヒーを頼む時は、絶対に氷を抜いてやるまい。「氷が溶けて薄まったアイスコーヒー」は、時間の経過を表す小道具だ。『きまぐれロボット』の博士たちが生み出した、数多の発明品にだって劣りはしない。それさえあれば、私はタイムスリップを免れただろうに!
下層行きのエスカレーターに乗りこみ、トーク画面へ既読をつけ、受話器のアイコンをタップする。第一声には謝罪を、次に失態を打ち明ければ、通話相手は心底おかしそうに笑っていた。申し訳ないやらありがたいやらで肩身を狭くしていると、根明な彼女は「新作にフグかアサリを出してくれたら許します」という冗談を付け足して、返事を待たずに電話を切った。いや、本当に冗談のつもりかどうかは、顔を見てから判断するべきことだろう。「涼」のイメージからは絶妙に遠い二種類の飼育方法、犯人の手口とアリバイに唸りながら、早歩きで待ち人のもとへと向かった。
展示パネルにマイクを向けて 翠雪 @suisetu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます