ストーリーの評価

 『史上最強のレベル1主人公』という情報は、当時雑誌などで読んで印象に残っている情報だった。主人公は記憶喪失で、正体不明の来歴が強さの秘密らしい。この導入は良いと思った。未知の世界の主人公にプレイヤーを同化させるための手段としては定番とはいえ効果的である。


 シナリオ面でまず気になったのは、やたらと人が死んだりとか、酷い人格の登場人物が出てきたりとかの露悪的な部分である。前作や前々作でも多かれ少なかれ見られた要素だが、今作では特に多い気がする。まあ本作はそういう作風でいくということなのだろう。個人的な好みではないが、受け入れられないこともない。


 主人公の正体については少しずつ匂わせていくのかなと思いきや、思ったよりも早いタイミングで答え合わせされたのがちょっと意外だった。変身は序盤くらいしか使いどころがなかったのは残念(かつての力を取り戻すパワーアップイベントとか期待していたのだが)。


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 ゲーム進行中に気になったのは理不尽な通行止めイベントである。主人公はクラン(冷血党)と敵対しているにも関わらず、なぜか「道を塞ぐクランの連中をぶちのめして強行突破」という選択肢が取れない場面が多い。ツリシ峠やエルルースがそれで、フラグを立ててイベントを起こさないと通れないのだ。


 主人公の行動理由として戦闘をためらう理由はまったくない。ただシナリオ上の整合性の問題で、特定のイベントを経由しないと話が繋がらなくなっているからそうなっているだけである。要は自由度よりシナリオのほうを優先したいという開発者のエゴに過ぎない。


 また、テッペンタウンに海路から来訪したとき、なぜかビルの出口を通せんぼされてしまう。こちらは敵対する人物ではないが、道を塞がれる理由もない。ただゲーム進行上の近道をさせたくないという、こちらも開発者のエゴしか感じられない。


 『2』には多少あった(序盤の仲間加入や、なんといってもデスクルス!)が、初代にはこの手のイベントは皆無に等しかった。最序盤で戦車が無いと関所で止められる程度で、それ以外の通行止めイベントはすべて単純な戦闘(ビックキャノン・ワルゲリョ・ロボポリス等)か、簡単な会話イベント(コロナビル)で通過できるようになっている。その自由度がシリーズの売りだったのではないのか。


 初代のリメイクである『リターンズ』では、地下通路の追加によって初代の必須イベントのいくつかをスルーできるようになり、さらに自由度が高くなっていた。後のコメント(30周年「メタルマックス」&「サーガ」歴代作品総まとめ)によると宮岡寛氏は『リターンズ』開発には関与していなかったとのことで、どうも『2』以降や『鋼の季節』にも感じた不自由さの主な要因こそが宮岡氏だったのではないかという疑惑が生じてしまった。


 これは推測に過ぎないが、初代の自由さは筆頭開発者である宮岡氏が本来意図したものというよりは、単に容量や納期の都合でそうせざるを得なくなった結果に過ぎず、宮岡氏としては自由度を落としてでもシナリオを見せる方向で作りたかったのではなかろうか。そうだとしたら、今後も宮岡氏が手掛けるRPGには手を出さないほうがいいのかも知れない。


(調べる過程で、同じく宮岡氏が関わっていなかったという『メタルサーガ 砂塵の鎖』に強い興味を持った。購入したので、あとでプレイして記事にする予定)


 さんざん酷評されているように、終盤のテスラセル集めは苦痛でしかなかった。移動の不便さとエンカウント率の高さで、ただでさえ移動が苦痛なのにクリア済みのダンジョンを再探索させられる。さすがに攻略情報を見てしまった。たとえばテスラシリンダーと並行して合計100%にすればいい(セル1個で10%として、敵からも電気を回収できる)ような展開なら自由度も出て素直に面白かったと思うのだが。強制される収集要素ほど萎えるものはない。


 そもそもテスラセルを集める目的である「マスドライバーで移動」に至る展開も支離滅裂というか、グラトノスのほうから要求したアイテムを届けるためになぜこちらが無茶をする必要があるのかという話である。素直にラスボスの拠点に乗り込むぜ!  で良かったのでは。オズマの件で無理やり悲劇をねじ込んだ感じが否めず、ここでも露悪的な匂いを感じた。


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 さて、自由度を犠牲にしてまで見せたかったストーリーだが、これは基本的に主人公とコーラの物語となっている。序盤ではコーラの印象が悪い(特にバイク泥棒は最悪)というか、シセのほうがヒロイン的な要素が強かったのでぼやけていたのだが、崖っぷちの家のイベントあたりから可愛くなってくる。


 しかし、そうなってくると仲間たちの存在が邪魔になってくる。本作に限ったことではないのだが、シナリオ性が高いにも関わらず無個性の仲間が存在しているとイベントシーンでの違和感が強くなる。シナリオ的には明らかに主人公の一人旅が適していると思うのだが、戦闘を考えるとパーティプレイの戦術性は必須だろうから、さじ加減が難しいところだろう。


 同時期のRPGでは、DQ9でも仲間の存在が違和感しかなかったので一人旅でクリアした。本作もやろうと思えば一人旅も可能なのだろうが、経験値が分配されない(メンバー数に関係なく1人あたりの獲得は一定)のがもったいなくて、普通にパーティを組んでしまった。せめて犬だけでプレイするというのも一つの手だったかも知れない(これはこれで、オズマの後継者っぽくて面白いかも)。


 エンディングはかなり不満。記憶を取り戻すことなくラスボスと心中しておしまい。一応その後は生き返った(というか生きていた)という演出が入ってENDとなるのだが、なぜ助かったかの理由付けが無いし、コーラとの関係も投げっぱなしのまま。まあ『2』も絶望的な状況から生還してるし、泳いで逃げたのかも知れないが(ブレードトゥースの遺伝子に虎やジャガー等の泳ぎが得意なネコ科動物が含まれている可能性)。


 ちなみにコーラを連れたままだとイベントシーンが入るようだ。その場合は仮に主人公が助かってもコーラの生存は絶望的な気がするが、やはりコーラ(ついでに仲間たちも)を背負って必死で泳いだのならなんとかなる……のか?


 なおクリア後はエンディングの続きから始まるように見えるが、ジャガンナートは元に戻っているので時間の巻き戻りというか夢オチ的なコンティニューになっているようだ。これ自体は初代のノアが復活するようなプレイヤー向けのサービス要素だろう。


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 主にサブクエストなのだが、水や衣服など、アイテムを複数要求される(しかも必要数を具体的に教えてくれない)イベントがやたら多いことに辟易。しかも「ロープの長さが足りないから服を使って代わりにする」というイベントのために服を買ってくるのは非常にバカバカしいというか、素直にロープを買ってくればいいだろ! と画面に向かって叫びたくなる。ゲームにはアイテムとしてのロープは存在しないが、この世界においてそれほど珍しいものではないのは明らかだろう(依頼者も使ってるし)。そもそも牽引用として常備しているはずではないか。


  他にもバイオタンクのぬめぬめ細胞や、イービル不動産の枯れ木など、数が明示されている一方で要求数が異様に多いイベントも存在する。単純作業で集められるとはいえ、このようなイベントを作っていて本当に面白くなると思ったのだろうか。たとえば『2』のデスクルスのようなダルいイベントがファンの間で語り継がれているのを見て、そういうのが本当に面白いと勘違いしてしまっているのではないか?


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 このように、メイン・サブともに冷水を浴びせかけられるような展開が多く、そのたびにプレイを中断してしまった。つまりはゲームに没入できなかった。それでも若い頃なら勢いでプレイしただろうか。それとも声高に期待外れの駄作だと喧伝しただろうか。大して期待してもいない積みっぱなしのゲームだったからこそ、ある程度の距離感で接することが出来たのは幸いかも知れない。

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メタルマックス&メタルサーガ雑文 矢木羽研(やきうけん) @yakiuken

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