うやまゆう


 人は、同じ川に二度入ることはできない。 ―― ヘラクレイトス

 人生は川のようなもの。時には静かに流れていき、時には急流がどこからともなく現れる。 ―― エマ・スミス

 川が岩を切り裂くのは、その力のためではなく、その持続性のためだ。―― ジェームズ・N・ワトキンス

 この堕落した時代に川のせせらぎを聞く者は、決して絶望することはないだろう。 ―― ヘンリー・デイヴィッド・ソロー


 *


 一人の男が水を掻いていた。その掻きかたは必死そのもので、その表情は切り裂かれているような本気だった。平時、泳法のうちどれが最も推進力を生むのかについて、男はなんの意見も持っていなかった。たぶん犬かき以外ならなんでもそれよりは速いんじゃない? しかし今、男が縋っているのは、その犬かきに他ならなかった。

 押し寄せる濁流は男をぐんぐんと下流へと運んでいた。この数分間、状況はまったくといって男の有利にはならず、その気配も無かった。自然の前にいかに人間が無力であるかについて、これほど有益な実体験は無い。それでも男は水を掻きつづけた。腕を伸ばして、何かが指にひっかかることを期待するかのように曲げて、常温で液体の無抵抗な表面に沈むのを感じるや否や、ほとんど自動的に胸筋を働かせて体側に引く。自分の背骨が曲がっているのか、真っ直ぐなのか、上下があっているのか、自分が今空気を吸えているのか、すべての情報はいまや小脳を平行に通過しているだけで、前頭前野に存在する男――普段、アイデンティーと名乗っている部分――は、ただ、この現象は何かしらの幻覚であるべきで、上手く頼み込めば無かったことにできると大声でわめいていた。

 少し黙ってろと扁桃核が苛立たしげに言った。凄まじい恐怖の化学物質で、アイデンティティーはただちに麻痺させられた。

「おお――あわれな男よ。おまえの人生は残りわずか。この川の主が、おまえの最期の時を看取ってやろうぞ」

 男の魂の部分は、その肉体の部分から離れ、いち早く死者の領域にあった。そこでは川の主を名乗る神的な存在が、うなだれている男の肩に手を当てて慰めていた。

 黒い髪をした、袴姿の少女である。目は細く鋭く、現実離れした雰囲気を放っていた。

 二人は沿岸部を下流へ向かって歩きながら、徐々に滝壺へ近づいていく男の肉体を眺めていた。

「ああ、なんて不幸なんだ」と男の魂は言った。「宝くじに当たったばっかりだったんですよ。いくらだと思います?」

「さあ……カネの価値はすぐに変わるゆえなあ……」

「5憶ですよ、5憶!」

「ジンバブエドルでもなければ、おおよそ一国を動かせるであろうな」

「当たりくじを落としちゃったんですよ」

 ぴたりと、二人は足を止めた。いや、足を止めたのは男で、川の主はそれに従ったのだった。男はうつむいていたので地面がよく見えた。アヤメやイグサの群生を浮草が囲っているのだが、そこに赤い小さな紙切れが混じっているのだ。男の魂は、恐る恐るそれを拾い上げた。

「当たりくじだな」川の主は言った。

「ふざけるなよ、マジでな。なあ?」

「わしに言われても、な」川の主は、己のちっちゃくて白い頬に人差し指を立てた。

 あんたに言えないなら、誰に言えばいいんだよ、と男は思ったが、口には出さなかった。今のはなぜか見逃されたが、あまり無礼になりすぎるともっと不幸になる可能性があった。神々がいかに気まぐれかは神話を読まなくてもよくわかっているつもりだ。神が実在しているならなおさらだ。

 男の肉体は、さきほどよりもずっと滝壺に近づいていた。一瞬、男の魂は視線が交わったような気がしたが、気まずくて目を逸らしてしまった。

「死んだあとはどうするつもりなのだ」川の主が言った。

「わかりません。三途の川を渡るんでしょうか」

「いちおう知り合いだから、口利きをしてやろうか」

「いいんですか?」

「かまわん。久々の死人だことだしな。どうしてこの山に来た? もっと良い観光地があるのではないか」

 苦い思いがした。できるだけマイナーな山でバーベキューがしたいと言い出したのは男だった。幼馴染のマサルが、先祖代々山を所有しているということで、良い感じの川もあることだし、できるだけお金は払いたくないし、バーベキューって許可とか取らないといけないのかな? ゴミとか持って返るのめんどくさいし、紙コップくらいなら自然に還るんじゃない? と言ったのも男だった。特別な計画を立てることで、桜子に良い顔をしたいという気持ちもあった。一味違う男になりたかったのだ。

「た、たすけっ……だれかっ……」

 男の肉体は今さらながら大きな声を出そうとしていたが、そのせいで水を飲んでしまっていた。

「あーあー……いまわの際を苦痛に彩ることもなかろうに」

「どうして横に泳がないんですかね?」われながら。

「川で溺れるとなあ、まず方向感覚がなくなるものなのだ」

 また二人は歩きだした。すると茂みの奥で、何か断続的ながさがさという音が鳴っていた。

「ま、まってマサルくん……誰かに見られちゃうかも……」

「大丈夫だって……。ほら、川の音で何も聞こえないから。あいつも察してくれるって」

 男の肉体ががぼがぼ言いながら二人の後ろを通り過ぎていった。

「こいつら!」男の魂は二人に飛びかかろうとしたが、川の主に羽交い絞めにされた。すごい力だった。「お、おれを見殺しにした! 助かったかもしれないのに!」

「おちつけ。たしかにこやつらの言う通り、この辺りは急流が岩を叩くので音が大きい。おまえさんの声は聞こえなかったのだろう」

「裏切り者! 嘘つき! おまえらなんか友達じゃねえっ!」

 さんざん喚いた末に、男の魂は胃の中身を吐き戻した。バーベキューで食べた牛や豚の魂が、小さな牛や豚になって飛び出していき、山の奥へと消えていった。

「おお、交情なぞ久しいのう。今生の別れに、よい見物ではあるまいか?」

 男は川の主の言うことを無視して、自分の肉体を追いかけて走った。その行く末を見届けるのは単なる義務ですらない、何か崇高なもののように思えてきたのだ。

「えーっと……たしかこの辺りで……」

 人の声がしたので、男の魂は立ち止まった。誰かが探しに来てくれたのかと思ったのだ。

 木立の下に立って、川の方を見つめているのは――天使だった。

 真っ白なブラウスは、首元でしっかりと留まっているが、胸元と背中がばっくり開いていた。背中からは白鳥のような優雅な翼が、今は手羽先のように折り畳まれていて、胸元は服の割にはかなり控えめだった。黒いベルトはしっかりと腰を締めていて、裾は膝上のあたりまでしかなかった。靴は野外活動には向いていないような、ねじくれあがった複雑な造形のピンヒールだったが、彼女はうまく土を踏めているようだった。

 彼女はショルダーバッグを胸の前に回して(つっかえる部分がないので機能的なようだ)、そこから取り出したロトゥルス型の巻物を上下に開き、熱心に中を覗き込みはじめた。

「だいじょうぶ、落ち着いて……。あなたならできる、できる、できる。よし……。絶対にだいじょうぶ。全部合ってる。死んでることを納得させて、別の世界に飛ばしたらいいだけだから。あとは向こうの管轄なんだし……。いいこと、マキトフェル……簡単なハナシなの。ちょっと人間と話して、すぐ飛ばしたらいいだけ。えーっと、すぐに送っていいんだっけ……うん、合ってる。よし、行くわよ。すぐ飛び出していって……」

「あのー、だいじょうぶですか?」

 天使はきゃーっと叫んで飛びあがり、そのまま川に突っ込んでいってしまった。

「ちょ、ま」天使はがぼがぼ言った。「は――、え?」

「ちょっと、何してくれるんですか!」

 すぐに天使の魂が現れて、男の魂に叱咤した。男は混乱した。「え、どういうこと? いまそこに、あなたが居るように見えるんですが……」

「びっくりしすぎて、魂が出ちゃったじゃないですか」

「待っ、ちょ助け……」

 天使の身体はぐんぐん流されていってしまい、すぐに見えなくなった。

「あ……えっと、あれって平気なんですか」男は川に身を乗り出してきょろきょろと左右を見回したが、男の肉体ががんばって流れに逆らおうとしている様子以外は何も見えなかった。

 天使は言った。

「天使の肉体はエーテルで出来ているので、死んだらすぐに元通りになります。それよりあなた! 急に出てきたら危ないじゃないですか!」

「だいじょうぶかって声をかけただけなんですけど……」

 少し遅れて、川の主が男の魂に追いついてきた。

 驚くべきことには、ついてきたのは川の主だけではなく、服のはだけたマサルと桜子のふたりもだった。

「ええっ⁉ どうしたんですか、二人は?」男は頬をひくつかせた。

 二人は明らかに自我を失っていて、また足のまわりが半透明だった。さらに言えば全裸で、抱き合っていて、キスをしていた。というか、今にも始まりそうな雰囲気だった。いつ爆発してもおかしくなかった。

 川の主は言った。「どうしても気になったのでな。魂だけを抜いて連れてきた」そして天使をみると、「おお」と声を上げる。「これはまた珍しい客人だ。異界の使者ではないか」

 マサルと桜子はついに始めてしまった。男は渋い表情でその様子を眺めた。あまりにもショックが大きかったが、死の間際に見る光景に選ぶなら、恋焦がれていた相手の裸というのは悪くないのかもしれないなと、少し思いもした。

 天使は川の主に気がつくと、ぴょんと飛びあがって(その際、翼が少しだけ開く)、うやうやしく頭を下げた。「天津分水名彦あまつくみなびこ様、ご挨拶が遅れて申し訳ございません。マキトフェルと申します」

「よい」川の主は煩わしそうに掌をひらひらと振った。「それに、天津の名で呼んでくれるな……修験の身で恐れ多いのだ。それよりも、マキトとやら。おまえはやはり、この男を連れに来たのか」

「桜子、桜子ぉっ! このデカさでテニスは無理だろぉッ」

「本来ならば分水名彦様にお預けするのが正当とは存じておりますが……その……」

「天之御中主神は心変わりの達人であるからな。川に憑りつくわしのような霊魂に、どんな言い分があろうと詮無いことだ」「マサルくぅん!」

「霊魂などと、卑下なさらないでください」

「桜子っ! イクときはイクって言えよぉ⁉」

「テメエぶっ殺すぞぉ‼」

 男はついに我慢ができなくなって二人に飛びかかった。会話に夢中だった川の主と天使は、突然のことに対応できなかった。というか、二柱とも実は人間にはあまり干渉しない性格だったので、その行動を目にしても、まずは観察のモードに入ってしまうのだ。

 男は絡み合う二人の魂を引き剥がして、しかもマサルの顔をぶん殴ったのだった。遠くの方で「いてえッ⁉」と実際の声が聞こえた。マサルの魂は茫然自失といった様子で、近くの茂みに尻餅をついた。

 つい数分前まで恋をしていた相手の情事を見せつけられ、そして今は目の前にその裸体があった。どうせ死んでいるのだし――。男はもう、いまさら地獄に行くのだとしても、それが自分のことだとは思えなかった。これは自分の人生ではない。そうだ、おれは死んだんだ!

 男はそれを過ちと知りながら、命根を立て祈った。

「――な、なにも感じない……⁉」

 男は目を点にした。

「魂の交情は陰陽の循環――互いを思いやる気持ちがなければ、心からの喜びなどありえないように、また魂の領域では、無理やりでは気持ちよくなれないのだ……」川の主は、憐れみを滲ませてそう言った。

 川の主の言うとおりだった。

 魂の世界では――かわいそうは、抜けない。

 冷たくも、熱くも無い。まるで拒絶されているかのように何ひとつ感じなかった。男は胸が痛んだ。その痛みは実際に深い穴になって彼の胸を穿った。それ自体はどこか爽快でもあったが、爽快であっても痛みがなくなるわけではない。そしてちんちんが気持ちよくなるはずもなかった。

 桜子の霊魂は身をよじり、息を荒くして、マサルの名を呼んだ。

 男はわっと泣き出してしまった。

「なんと哀れな……」天使が呟いた。

「かわいいもんだろう、人間とは」

「はぁ……まぁ……」天使は引き気味だった。

「さあ、もう充分だろう。君、魔羅を抜き給へ」

 川の主が男の背中に手を当てた。小さいが温かい手だった。

 しかし、男はその手を振り払うと、ゆっくりと船を揺らし始めた。涙を流しながら――。

「無駄だ。君には抜けんよ」川の主は冷たく言った。

「違う――」男は言った。

「なにが違う?」

「抜けるか、抜けないかじゃない――。おれはただ、自分にできる最期のことを――ただ、ありったけを――‼」

 その操船は下手だった。目を覆いたくなるような下手さだった。まるで凪いだ湖にパドルを降ろし、延々とぐるぐる回りつづけるかのように無様で、幼児じみていた。しかし、そこには思いがあった。下手なりに、エゴなりに、与えたい、分かち合いたいと願っていた。

 すると――なんということだろう。

「……まさか?」

 男は今までのことを思い出していた。自分の人生を一から、そのすべてを桜子を中心として。幼稚園に通っていたころ、仲が良いと思っていた女子に意地悪をされて、それでもその子を好きだったこと。小学生に上がるころにはその子に半ば虐められていたが、マサルが助けてくれた。初めての友だち――そして桜子と出会った。おれたちは三人でいつも遊んだよな――。桜子は折り紙が上手だったっけ。おれはいつも大雑把に折ってしまうから出来上がる前にそれ以上折れなくなってしまって……。

 中学校では友達も増え、三人で会うことは少なくなっていった。高校は完全に別々だった。それでも互いの誕生日には連絡を取りあうくらいには、互いのことが大事だった。

 大学に入って、おれたちは再会したんだ――男は、その当時の感情を、ありありと思い出せた――桜子は信じられないくらい美しかった。はっきり言って――エロかったのだ――。

 幼馴染をそんな目で見てはいけないと思っていた。しかしマサルにまともな倫理観はなく、おれは遅れを取ってばかり。要領の悪いおれは、本当は二人の隣に居られるような男じゃなかった。おれの鶴だけがいつも左に傾いていた。

 だが――だが――!

 すべてが変わると信じた。あの一枚の宝くじで! 5憶円で!

 きっとその間違いは取り返しのつかない亀裂を生んだことだろう。男にはわかっていた。友を敵に思いはじめたその時から、まるで抗いがたく渦へ呑まれるように、ひとつの人生が決定的な終わりへと向かっていた。そして来るべき破局はもっとも穏やかな形で――男の死という形で――やってきた、それだけのことなのだ。

 パドルを引いて、押し出す。引いて、押し出す。魂の海綿スポンジがエーテルで充血し、互いの波しぶきを立てる。怒りでも、嫉妬でも、今ではもう競争心でもない。純然たる性欲――生きたいと願う本能の残滓、魂の熾火、願い、希望。

 これほどまでに想っていたという、ただその事実だけを、ひたすらに押し付けて。

「なんとおぞましい」天使が青い顔で、ぼそっと呟いた。「これは……悪ですよ」

「両性具有のおぬしにもわからんか」川の主は寂しげにつぶやいた。「見よ、女の魂を。あれは拒絶してはおらぬ。いや、心の奥底で、まことに他者を拒むような真似が誰にできよう。そこもとのヱヽテルは何色でもあるまいに」

 天使は顔を赤くした。

「桜子――桜子ォ――ッ! イクぞ――」男は心の限り叫んだ。すべてを振り絞った。「逝゛くゥ――ッ‼」

 たとえイくときは一緒じゃなくても。

 先っちょだけじゃ、ぜんぜんなくても。

 男の慟哭は一つの生命の、ただ純粋な想いであった。

 そのとき、男の肉体は滝壺の底へ呑み込まれ、きりもみ回転をしながら、肺の中を淡水で満たしつつあった。至るところに打撲があり、赤黒く染まっていて、骨もいくつか折れていたが、事ここに至って痛みは意味をなしていなかった。落下の衝撃で頸椎も曲がっていた。すでに意識はなく、生命活動は最後の拍動を待ちわびていた。ああ、死に備わった神秘なる慈悲よ。なぜ人は安らかに逝けるのだろう?

 噴き出したエーテルは淵源へ消えた。人の墓へ。

 男はただただ、力を失っただけだった。肉体の感じるような心地よさも、決してなかった。疲れ果てていた。しかし川の主は、それを奇怪な目では見なかった。

 男は両手首を押し当てて、天使の前にうなだれた。

「連れていってください……」

「いや、刑務所じゃないんで」天使はぺしっと男の手を払った。「うッ……」そして、恍惚の表情でぶるりと震える。「――わたしの肉体の方も、たった今死にましたね。さて、行きましょうか」

「どこへ?」刑務所じゃないなら、いったい。

「もっとひどい場所、あるいはもっと大変な場所ですよ」

 天使は改めて男の手を取り、その巨大な翼を広げた。「それでは、分水名彦様、失礼いたします」

「川の神さま……いろいろと、ありがとうございました」

 男はぺこりと会釈をした。

「なべて徒然なるが善きかな――天之御中の意にあらんことを」

 翼をはためかせると、その瞬間、二人は姿を消していた。

 川の主はんーっと伸びをすると、再び絡み合おうとしていたマサルと桜子の霊魂に近づいていき、その怪力で二人をひょいと引き剥がした。そして川の主がいまだこの地に留まりつづけ、社も無く、出雲にも呼び立てられない所以を知らしめた(さる高次の貴きかたはこうも云ったという。『ギリシャのにかぶれる放蕩者の多いことよ……』)。袴よりまろびいずるかの神木は人の域をはるかに超えており、とてもマジカルだった。

「あ……あああぁ~~~~ッ‼」

 瞬間、汗が噴き出し、桜子はゆでだこのように顔を真っ赤にして絶叫した。

「ふんッ! ふんッ! ふぅ~~、この瞬間がたまらんのぅ!」

 マサルの魂はぼーっとした表情でそこに立ち尽くすばかりだった。

 現実の桜子は狂気じみた大層な善がりようだったが、マサルはそれが自分の仕業とはどうしても思えず、釈然としなかったそうである。

 産まれてきた子供は健やかに育ち、折り紙が大層得意だったそうな。

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