第一幕 五頁 砂上の城②
そんな或る日の事だった。
またヒロアキと会い、自分を見失って行く感覚に襲われ乍ら、また……あの息の詰まる部屋へ帰るのだと思って、玄関の扉を開ける。
本当に愛する人がいると言うのに、ただ冷たくされ、時が流れるだけの空間……。
私は、部屋へ入ると、意を決して安楽椅子を見た。
今日は絶望するだけの鏡も見ず、真っ直ぐ貴方に戻って来たのよ?
……なのに……
何でいないの?
「何時も此処で待ってくれたじゃない!」
私は安楽椅子を回転させたが、やはり貴方がいない。
考えた事も無かった。
貴方が此処からいなくなるなんて!
警察?……未だ近くに?
……如何すれば良いのか、頭に色んな事が一斉に駆け巡る。
浮気の事は知っていた筈……。
まさか……貴方まで他の人の所へ?
「嫌よ!そんなの、絶対に嫌っ!……許さない……そんな事、許さないんだから!」
私は頭を横に振り、其の考えを振り解こうとした。
貴方がいないなんて……考えられない。
クラシックの音楽だけが、優しく貴方がいた気配を残していた。
身勝手な女よ、私は。
自分は他の男と遊び抱かれて帰って来たのに、貴方がそうなったらと思っただけで、苦しくて……気が狂いそうになる。
毎朝貴方の髭もそって……毎朝一番素敵な貴方でいて欲しくてワイシャツとズボンを渡す。
貴方は……今も……私の理想の夫なのよ!
貴方は駄目よ……浮気なんて。
目が見えないから……女っ気が無いからと、貴方を甘く見ていたのかも知れない。
そうよ……良く考えて見れば、男をチヤホヤする為の店なら腐る程あるじゃ無い。
スナックにクラブにキャバクラにソープも……。
私に呆れて、せめてそんな所に行ったのかしらん?
大の大人だもの。
目は見えないとは言え、一時は駅まで歩けたのだから、散歩にでも行ったのかも知れない。
……そうだわ……でも、目が見えないのよ。
心配と不安が募る。
「貴方?!……ねぇ、貴方!」
他の部屋かトイレにいるかも知れない。
……もしかして……家の何処かで転倒したのかも……。
私は不安になり、貴方の姿を探して家中を走り探す。
……私の馬鹿っ!
何でこんな時に気付くのよ。
私……貴方がいないと駄目なの!
何でこんなに不安にさせるの?
これは私への罰?
貴方がいない世界なんて、考えられないのに……。
貴方は寡黙だけれど……
私は……何時の間にか、其の寡黙ささえも愛していたのかも知れない。
家中を探しても見当たらない。
私は貴方を探しに家を飛び出した。
駅迄の道を貴方を探しに……。
ーーー
其の数時間前の事である。
「ただいま」
先程と同じ車の音がした。
義治の……声だ。
僕はいてもたってもいられず、安楽椅子を回し立ち上がる。
……もう、背を向けたままではいたくなかった。
ずっと何もしてやれなかった義治に、何でも良い……出来る事をしてやりたい。
叱って嫌われても構わない。
真っ直ぐな人間でいて欲しい……。
それだけを伝えるくらいならば、今までの駄目な親父だった僕でも許されるだろうか。
何を今更親父面してと言われようが構わない。
二度と会えないと思っていた義治が来たのだ。
それだけで……何もかもが構わないのだ。
未だひんやりとした裸足の冷たさが、呆然と安楽椅子と音楽に逃げて時を過ごした僕には、生きていると感じるには十分過ぎる刺激だった。
「義治……」
僕は……其の名を改めて呼んだ。
妻と……二人で決めた名前。
「何だ?親父、取り敢えず座りなよ。今、お茶作るからさ」
と、義治が言うのだ。
反省して戻って来たのだろうか?
やはり大胆過ぎたと諦めただけか?
私は困惑したが、義治がそう言うからには急いで話す事も無いようだと理解する。
ゆっくりと話せる時間があるのか……。
そう思うだけで安堵し、安楽椅子を茶の間のテーブルにきちんと回して座る。
背中からクラシックが流れている。
今まで、それがまるで主役であったが、今はBGMの様に不思議と聴こえるのだ。
耳は、義治を探して集中している。
義治が冷茶を僕の手に握らせた。
マグカップだが、其の取っ手からも氷のひんやりした冷たさや汗が分かる。
「……もう帰って来ないかと……。義治……お前、さっき母さんの部屋で何をしていたんだ」
何をしていたかなんて、もう知っている。
聞きたくない事は先に聞け。
僕の昔からの考えだ。
嫌な事は後回しにしようが、何時か知る。
誤解や錯誤が長く続くよりかは、先に明らかにした方が幾分か早く気が済む。
なのに……妻にだけは、聞けない事があった。
怖かった……のだろうな。
其れ程迄に聞きたく無い事を聞いてしまえば、目だけでは無く、今度は耳さえも閉ざしてしまう気がしたのだ。
「其れより……手、出して」
と、義治は言う。
「それより?」
「まぁまぁ、早く……」
こんな大事な話より、大事な事なのだろうか。
まぁ……そうで無かったら後で注意すれば良いだけの事。
僕は徐に、冷茶を一口飲みテーブルに置くと、濡れていない反対の手を義治に向け開いて見せた。
「……これは父さんの物だ。もっと大事に使わないと」
そう言って渡すと、義治は両手で僕の手をとり包んだ。
クシャッと、中で紙が折れた音がする。
……これは……お金だ。
一体何の事であろうか。
幾らかは分からないが、かなりの枚数の札と小銭もある。
「……これは……」
僕が不思議そうに言うと、義治はこう言った。
「母さんが買いまくった恋人と合う時用のアクセサリーを質屋に売って来たんだ。元はと言えば父さんの金だし、これで少しは反省して買わないだろう?良い歳して、毎回恋人に合う為にアクセサリーを新調して背伸びしちゃってさ……」
と……義治はそんな事を言った。
僕が一切触れて来なかった……否、知ろうとしなかった事を、一刀両断した訳である。
「……然し……それじゃあ母さんが激怒するんじゃないか?」
僕はそんな事を聞いた。
「それは逆ギレって言うんだろう?父さんが怒るべき事なんだから」
そう義治は言うが、何年も仮面夫婦の様な物だった妻に、僕がそんな安易に怒る事など出来ない。
「……引け目を感じていたんだ。……母さんには視力を失ってから苦労ばかりかけた。近所でも肩身の狭い想いをさせている。今更……怒る理由など無いよ」
僕は冷茶を飲み、己を落ち着かせ言った。
今更……何か言える自分では無い事ぐらい、弁えていたつもりだった。
「……父さん……。じゃあ、視覚障害者の人は皆んな浮気されても、黙っていると言うのかい?違うんだよ……違うんだ。一個不自由があっても、他は元気じゃないか。例えば、一個の大病をしたからって、浮気されて良いなんておかしいと思う。父さんは元々母さんに弱いんだよ。……それが良い所でもあるけど、度が過ぎれば悪いと言う事もあります」
と、言うではないか。
「何だ……まさか、久々に会った息子に説法をされるとは思わなかった。……然し、よくよく考えてみたら、確かにたった一つ……なのだな。大きなたった一つを失ったぐらいで、卑屈になっていたのかも知れん」
僕はふと考え……見えない天井を癖で見上げ乍ら、そう言った。
たった一つ……何だこれしき……たった一つに……
僕は翻弄され……恐怖すら覚え、何もかもを閉ざし生きていたのか……。
義治に言われてみれば、なんてちっぽけな事だろうか……。
今更……情けなさと言う物を存分に味わっている。
愛する妻さえ……僕は、閉じた殻から追い出したのだ。
僕が悪いも一理あり。
けれど……如何してか、悔しさと情けなさは似ているのか……同時にどっと此の心を大きな波で埋めて行くのだ。
「……なぁ、親父……」
「ん?何だ……」
「……サックス……買いに行こう」
「えっ?」
義治からの突然の提案だった。
一体義治は何を考えているのだろう。
「其の為に母さんのアクセサリーを売ったのか?」
と、聞いた。
「勿論だよ。断捨離して、父さんの金は父さんの為に使うんだよ」
義治の一連の不思議な行動は、僕にまたサックスを吹かせようと言う計画であったのだ。
唸り腕組みをする。そんなに上手とも言えなかったサックスをもう一度……か。
僕には月日の観念が無いが、あれからどのくらい時は経ったのだろう……。
妻に素直に「愛してる」と言えた頃……。
波音に下手なサックスを響かせたあの日……。
妻よ……僕の心は未だ君を許す許さないも分からないのだ。
けれど今、想い出すのはあの頃とずっと変わらない景色の君だ。
今一度……己が手放した幸せを探す事が出来るのならば
例え此の目が見えなくとも
妻との愛の結晶である義治が齎したこのチャンスは
たった一筋ではあるが確かに見えた光であった。
今更乍らに勝負に出ようと思うのだ。
家族を……取り戻せるならば
消えた笑い声を聞けるのならば
目が見えずとも幸せであったと
僕は僕の人生に言える気がした。
BGMは優しく……今までの妻の事も
己の不甲斐ない怒りも鎮めて行く気がする。
「主よ、人の望みの喜びよ」……
もう一度考える事が出来た此の瞬間に
光を見詰め感謝しよう。
如何か……祈りは静かに……我が心の中に。
君はあの夏を覚えているか。 黒影紳士@泪澄 黒烏るいすくろう @kurokageshinshi
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