第一幕 五頁 砂上の城①



 眩しい光は……夏の蜃気楼の様に

 焼けついたアスファルトと……揺れるのよ。




 国道沿いの安くオンボロのお城みたいな形のラブホよ。

 貴方から逃げて私が行く先は、逃げたつもりで何も変わらない、現実と同じ……崩れそうなお城。

 貴方と巫山戯て作った海辺の砂上の城の方が、今思うと白い貝殻で飾られ、流れるまで語り合う時間が……幾分か幸せだったとさえ思える。

「上手く誤魔化せたか?」

 此の男は、見えもしないものを怖がるのが大好き。

「誤魔化せないわよ。あの人……目より、耳の方が達者だもの」

 すると、私より少し若いヒロアキは態と化け物に震える様に見せ、

「見えなきゃ何も証拠も無し。死人に口なしと言っても、耳だけはあるんだから……くわばら、くわばら。そうだなぁ……耳無し法一みたいに耳も聞こえなくなりゃあ、俺も安心なのに」

 と、ヒロアキは平気で貴方を死人と言った。

 

 貴方は気付かなかったのよ……。

 毎日毎日……飽きる事無く、貴方の時間を綺麗なだけの音楽が、私から奪って行く。

 何度話し掛けても……私は其の音楽を聴く邪魔にしかならなかった。

 其の事さえ伝えられずに、無情に過ぎた日々……。

 私はある事を恐れ始めていた。

 見えない貴方……。

 そして……口の無くなる私……。


 毎朝鏡を見る度に割りたくなったのよ。

 二人分の食材を買い、両手にスーパーのビニール袋を下げて、雪崩れる様に鏡に映った自分の姿に止まった。

 酷く焼け付く真夏の太陽に、日焼けした肌は衰え気付かなかった皺が二本増えている。


 ……もうどんなに尽くしても

 ……もうどんなに愛しても

 それでも安楽椅子に腰掛け、振り向きもしない貴方……。


 そうよ。

 貴方が選んだ人生が、私すら消し去る下らない日常に幸せがあるのならば、私だって……貴方と別の道が在っても……。

 貴方は、何一つ興味が無いのだから、気にしないわね。

「買い出し……忘れ物しちゃったわ。駅の向こう側が特売だったのに。……少し、遅くなりますね」

 そう言うと、貴方はヒラヒラと行ってらっしゃいと手を伸ばし伝えた。


 ……私と喋る口も、もう無いのだわ!


 私は頭にきて、玄関のドアをピシャリと閉めて、夕暮れても真っ赤に輝く焼ける空に飛び出す。


 ヒロアキと始めて会ったのは、駅前の錆びれた小さなホストクラブだった。

 煌びやかとは程遠い、アットホームな雰囲気の店。

 私は旦那の愚痴をヒロアキにするだけして、安酒しか無いそのホストクラブで最も高い酒を一気に飲み干した。

「……このまま……女としても、うちの旦那と心中したようなもんだわ。ねぇ……頭にきたから、今日はあの人のお金も全部使ってどんちゃん騒ぎしましょうよ」

 私は此のぐらい許されても良いだろうと言う気持ちが先行していた。

 だって、久々だわ。

 ……家族でも無い、見栄を張り合う井戸端会議のママさん達の間で、肩身の狭い想いもない……そんなものを気にせず、付き合いで人と話すなんて。

 高級そうな薔薇の様な別珍のソファさえ、良く見れば剥がれたまま……。

 毛足が擦れた場所もある。

 羽目を外すにもたかが知れている様な場所。

 何時でも現実に戻れる……。

 一日だけの、自分へのお疲れ様会。

 誰も咎めはしない。

 貴方だって……そう思う筈……だったのよ。


 ヒロアキは酔い始めた私をマジマジと見て来た。

 私は久々に少し若い男の人にそんな風に見られたから、頬を赤らめて視線を逸らす。

「なっ、何よ!……哀れなおばちゃんとでも思ってるの?……おばちゃんだって疲れるのよ。良いから楽しくしてよ!」

 私はぶっきら棒にそう言い放つと、カラオケのリモコンを取り、破れた頁をセロハンテープで留めてある、最新曲なんてものは随分前の物しか無いであろうカラオケ本を捲る。

 何でも良いから飲んで騒げれば良い。

 ヒロアキに何か歌わせてやろうと思ったが、少し若いヒロアキが何を歌うかも分からない。


 ずっとクラシックしか……聴いていなかったから。

 男との会話も忘れたわ……。

 会話の無いラジオが……貴方だけでは無く、私までも閉鎖的にしていた事に気付く。


 私は、癇癪を起こし……店の壁に、もう思う様には行かなくなった全てへの悲しみから、リモコンと本を投げ付けた。


「あーあ……。元気なんだから」


 そう言って、ヒロアキは其れ等を拾うと、私へ手を差し伸べた。

「何?憐れみのつもり?」

 私はそう言ってヒロアキを睨み上げたが、ヒロアキは笑っていた。

「いいえ。もっと元気になる所、知ってるよ」

 と、言う。

「何よ偉そうに」

 私は毒付いてみせたのにヒロアキは、

「偉くは無いけど、楽しい事なら沢山知ってる」


 そう言って、突然手を引いて店を出たの。

「えっ?お勘定は?」

 と、手を惹かれ乍らヒロアキに聞くと、

「ツケにして貰った。だから、君はまた店に来る口実が出来た」

 そう言って笑うのよ。


 こんな小さな街……

 若い男と二人、こんな姿を見られたら、忽ち噂になってしまう。

 ……避けなくては行けないと思うのに、それが惨めな私にとっては細やかな優越感でもあった。


 ヒロアキは私を車にのせ、服装も、プチエステも、ヘアメイクも、ネイルも新品同様の女にしてくれる。


「……未だ……終わらなくて……良いの?」

 鏡を見てまるで別人になった自分を眺め、誰に言うでも無く、口にしていた。

「……ええ」

 ヒロアキは鏡の中に入り、一際優しい笑顔で答えてくれる。



 最初に誘ったのは私の方……。

 変身させてくれたお礼よ。

 勿論、変身代も食事代も私が支払ったけど、悪い気はしなかった。

 私がヒロアキを利用していると思えば……何の罪悪感も無い。

 よっぽど、此の姿で何も無くあの家へ帰ると思う方が虚しかった。

 どんなに努力し、着飾っても……貴方には見えないんですから。

 その日……私はヒロアキに始めて抱かれた。

 夜になった空に……夏の光は届かない。

 女として終わった筈の私が女でいられる唯一の時間は、ヒロアキが私を遊びでも、枕営業でも良い……それでも求めてくれた時間。

 足を開いて揺れる私は、優しく情熱的だった……あの日の貴方を探していたのに。

 何度も何度もヒロアキには私の名を呼んでと、子供の様にせがむ。

 もう……何かを取る時にぐらいしか呼ばれなくなった私の名前……。

 本当は……貴方に愛して呼んで欲しかった名前……。


 言ったじゃない……貴方。

 死ぬ迄……私の名前を呼んでくれるって。

 愛してる……そんな、今は波に攫われ消えた言葉と一緒に。


「本当に気付いても何も言わないなんて……笑っちゃう。もう帰らなくて良いんじゃないか?そんなろくでなしの旦那の所になんか」

 そう言い乍ら、ヒロアキは私を自宅へ送る。

「……ヒロアキだって……ろくでなしじゃない……」

 私は流れる景色から目を離さず言った。


 唯一ヒロアキに嫌いな所があるとすれば……

 今更だけど……それでも……

 やっぱり一番愛して欲しかった貴方の事を……

 偏見や見下した物言いで嘲笑う癖……


 ねぇ……ヒロアキ。

 私……それでも、あんな旦那でも、一度だって嫌いだとは言った事がないわよ。


 ヒロアキに抱かれた日は、あの家に戻り貴方の後ろ姿を見るだけで心が痛い……。

 あのホストクラブのおんぼろソファと一緒よ。

 現実逃避したいと草臥れた女は、きっと嫌だ嫌だと言う癖に、結局現実に戻って行くのよ。

 満たされた筈の身体も、抜け殻のやうに空っぽになり、また……雪崩れる様に鏡の前へと赴き、悲壮感に老け込んで行く顔を見上げるのだわ。


 貴方と二人……何時もと変わらない食事。

 ……ねぇ、今日は香水を変えたのよ?

 俯いたまま、貴方は気付いているのに、食事を進める。

「美味しい?」

「ああ、美味しいよ。今日も有難う」

 そう言う聞き慣れた貴方の声が、ほんの僅かでも嬉しかった。

 ……私、ヒロアキが選んだ物と違う香水を付けたの。

 また男を変えたのではないかと、流石の貴方も何か言うのではないかと期待していたのよ。


……私は砂上の城

 貴方と言う波に攫われたくて待っている


 貴方は今ある環境だけを愛し

 砂上の城を壊されない様に修復するだけ


 ねぇ……貴方……

 人は弱く脆い……。

 波の様に激しく包んでくれた貴方の腕が懐かしい

 私が消えてしまう前に……


 私には……貴方は真夏の太陽の様に

 熱く……輝いて見えていました


 ……今も……貴方を探しています。


 許さなくて良いわ。許さないでいて。

 貴方がもう振り向かないからと諦めたのだから。

 貴方を待ちきれず……諦めた……私の罪深さを。


 せめてそんな私を責めて憎んで欲しかった。

 大声で叱り付けて欲しかった。

 其の瞬間だけで良いから……

 私だけを見て欲しかった。


 ……見えない目で……

 私の事で貴方の頭をいっぱいにして欲しかった。


 捻り蒟蒻と大根のピリ辛の煮物に涙が落ちる。

 貴方の好きな……お菜。

 ……何時からだろう……

 味がしないのよ、貴方。


 其れすら私は言い出せない。

 私の口は貴方と一緒ね。

 伝えられる術を持っているのに、その術を忘れてしまったのよ。

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