第一幕 四頁 僕の道


ーーー


 戻ってみれば誰もいない、己だけの我が家。


 何の為に飛び出したか分からない儘に、何時もの安楽椅子に腰掛けると、虚しさの様な物を感じていた。

 何時もと同じ……感情を掻き立て過ぎない程のクラシック音楽が漣の様に、僕の心を宥めてくれるに違いない。


 そう思っていたが、三曲目が終わっても僕の心に漣は訪れてはくれなかったのだ。


 それどころか、曲数を重ねる度に増す此の騒ついた物は何であろうか。


 漣の先が揺れ始め、ピシャピシャと跳ね上がる様な小さな動揺が、次第に大きな波となり、停泊している船を揺さぶる。


 揺れる船の中で独り不安になり、あたふたと身を屈め、船底を辿り端の手摺りになりそうな場所を探す。


 そんな脳裏の景色と気分の所為か、全くクラシックが耳に入っても頭迄響きもしない。

 集中すら出来ずに、其の音は遥か遠くの音色なのだ。



 そして僕は思い出す。

 クラシックが耳から消えた時、ラジオでクラシックばかり聴き始めた最初の理由(きっかけ)を。


 僕の目が未だ見えていた頃、好きな音楽は専らJAZZだった。

 未だ若かった僕には、それが洒落た大人の音で魅力的に感じたのだ。

 真似事で、中古のサックスと教本を買い、拙いなりに吹けたのは「マイ•ウェイ」ぐらいであった。


 最初は下手なサックスを何回聴いても、妻は笑って拍手をしてくれる。

 「上手い」からでは無い。

 そんな理由からでは無かった。

 「良く頑張りました」と、言う意味らしい。

 下手な上に音が大きいので、良くあの海へ行きその辺の流木、船のヘリ、岩等……好きな所へ座り、僕はサックスを持って行き二人で話した。


 夏になると、暑さに燥ぎ海へと飛び込んだ。

 夕暮れ時……影になった君の乾いて行く髪が靡く。

 まるで南国のポストカードの様に、其の姿が夕陽と其れを揺らす水平線に美しく浮かんだ。


僕が忘れられない君の横顔は、影から少しだけ僕を見て照れ笑う、君の横顔だった。


 視力を失っても、そんな君と一緒にいたいと願った。

 僕の気持ちは、何一つ変わらなかった筈だと……そう言えたならば良いのに。

 妻への気持ちは何一つ変わらない。

 悔しいとは人並みに思ってはいる。

 此の目がもし、見えたならば……妻の気を取り戻す様な事も出来るのだろうか……。


 いいや……そう思えるのは、若い頃だけだ。

 何か一つ変われば何とかなるなんて思うのは楽観的だと僕は思う。

 己を変えるのとは、訳が違うのだ。

 多くを変えて、初めて己と違う人間を突き動かす事が出来る。

 僕は……そう思っている。

 簡単に割り切れたなら、そんなに楽な物はない……。

 そんなに人の心は単純では無い。


 未だ幼い義治も守り、妻も守り……そんな友人達が大変だと言ったものも、僕はあまり感じた事が無い。

 大きく成ったらなったで大変だと口揃えて、それしか感想は無いのか?と、同窓会で聞いてみるが、皆に嘲笑(わら)れるだけであった。


 悔しい程……羨ましかった。


 そんな言葉を言える、苦労とやらが出来る友人達を。

 僕は苦労どころか関わりも薄い。

 育児にも妻は独り悩んでいたであろうに、僕には何も気にするなと気丈に笑うだけだった。

 何時もこう言う。


 「貴方は其の安楽椅子で、偉そうに構えているだけで良いんですよ。父親と言う物は、貫禄だけ見せていれば、怖がって義治だって悪さ一つ出来ませんから」


 などとね。


 そんな物が何の役に立つかと分かりきってはいたが、視力が無く気力すら薄れた僕の為にもなるならばと、結局は正論ばかりの父親になってしまった。

 義治の成長が此の目で見れないもどかしさも、決して見せる事も、言葉にする事も無く過ぎ去る。


 

 視覚障害者用の杖を持ち、妻に手を引かれ、今よりかは外へ出ていたと思う。


 僕だけでは無い。

 妻も慣れないガイドだ。

 点字ブロックを覚えても、駅前になれば車が堂々と跨いで停車しているので、次第に近かった駅からも足は遠のいた。



 仕方無くテレビを着けてみれば、こんなニュースが頻繁に耳に入る様になった。


 ーー駅のホームから視覚障害者がまたもや転落すると言う……


 そんなニュースだ。

 軈て、突き落とした若い人は捕まったが、その後もそんなニュースは絶えなかった。


 理由は、聞くに絶えない物ばかり。


 ーー税金食いが……働きもしない癖に……。

 ーー生きてる価値が無い……。


「失礼しちゃうわね。お父さんは自分で頑張って掛けた保険で食べているのに」

「あっ……ああ。でも他人事では無い」


 妻はそう言ってチャンネルを変えたが、僕は偶然早くに保険に入っていただけだ。

 僕と同年代は未だ先に考えていてもおかしくは無い。

 家業の事もあり、父が早めに何口か終身タイプの障害と療養の付いた、定期預金付きの保険に入るよう勧めただけなのだ。

 僕は乗り気じゃ無かったが、父が半分以上も持つと言うので、二つ返事で加入していたに過ぎない。


 余りにも早く受け取る事になり、保険屋は渋い顔をしていたと妻は笑ったが、父の助言が無かったらと思うと……。

 将又、半分以下でも嫌だと自分が断っていたら、とても我が子迄面倒が見れたかも分からない。


 其れにそんな家庭事情等は関係無いのだ。

 外見からは何も見えないのだから。

 杖を付き、真っ黒なサングラスをして歩いていれば、誰もが同じ。


 妻は其の時、触れもしなかったが、生きている価値が無いと言われている中に、僕がいる事を如何思っているのだろう。


 悲しくも世は無情で、良くそんな言葉を聞くが……。

 妻が今……どんな顔で僕を見ているかすら、僕には分からないのだ。


 僕は其の時、初めて目が見えないと言う、本当の恐怖を知った気がした。


ーー


 翌朝、僕は妻にこう告げる。


「もうテレビは聴きたく無い。ニュースは暗い事ばかりだ。……そうだ。ラジオにしないか。出来ればニュースの無い音楽が良い」


と。


 パソナリティーのいる多ジャンルの音楽番組は、間にニュースを挟んでしまう。


 其れで妻が選んだのが、クラシックだった。


 聴きたく無いニュースが耳に入らない。

 其れは僕の唯一の安息の地の様でもある。


 誰も介入しない心地良さ。

 誰にも傷付けられず生きられる安心感。


「突然災害があったら、如何するんです?」


 と、妻は心配したが、


 「災害無線もあるし、ニュースは自分のスマートフォンで見れば良いじゃないか」


と、僕はたかがテレビをラジオに切り替えたぐらいでと笑う。

 

 寝室にもテレビは在ったのだから、観たいと思えば妻は何時だって家でもテレビを観る事が出来た。


 僕がラジオを聴き始めると、妻は僕の座る安楽椅子の真後ろで、暫く何を思ったか立った儘無言でいる。


 何か言いたい事でもあるのかと、僕は顔だけ少し後ろを向ける。

 正確には、耳だけで向く様な物だ。

 其の時妻は何も言わなかった。


 小さな溜め息を聞いた様な気もするが、良く覚えていない。


 無理に出掛けて、馬鹿にされ、危険な目に遭うのだとしたら、家でこうして……そんな物にも怯えず生きていた方が、幾分か気が楽だ。



 其処迄回想した時であった。


 今、己の心を騒めかせる此の感情が、忘れ掛けていた「孤独」と言う物だと気付いたのだ。


 妻は出掛けても帰って来たら、此の部屋に極力いる。

 寝室のテレビはあれから着けられた覚えは無い。

 最近は出掛けも増えたが、気が離れているのだと、気にしない様に……其れだけを考えていた。


 けれど、義治に久々に会って気付かされたのだ。

 僕は己の心を音楽で見えない様にしていただけだと。

 

 

 久々に出た外の土が、未だ素足に僅かな冷ややかさを残す。


 義治の為に、今何が出来るのか……目が見えないならば、僕のその他のありとあらゆる全てを使ってでも何か出来ないかと考えた。


 そう考えたから……僕は目が見えずとも、此の心に突き動かされ、此の家を飛び出したのだ。

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