アンダーコントロール

時雨薫

アンダーコントロール

 真木メグという少女を、三人は失い、それから取り戻した。メグはこんなふうに話をするものだった。問題なのは少女がよそ見できない無数のものの象徴だったということ。三人が再会した後も、やはりメグはこんなふうに物語っただろう。

 蛍光灯が床のタイルを白く照らす——濡れてる。冬の生真面目さを吸い込んだ結晶だから、タイルはみな正方形。

 店内放送は聞いたこともないバンドの宣伝。しかし狭間ギリコは、それよりも秒針の音が気になる。夜の十一時をすぎた頃。ギリコが着ているのは、化学繊維で出来たファミマの制服。前髪を鬱陶しく思ってヘアピンを留めなおす。時間のわりに客が多い。どの客も棚の間で突っ立っていたり、雑誌を読んでいたりして、早く用事を済ませようというつもりはない。青い作業服を着た男、赤ん坊を抱いている神経質そうな母親、それと性別も、属していそうな社会階級もばらけた、関係が定かでない三人組。みな外向きにはこの店を利用する必要を装いながら、内心ではただ留まることが目的になっている。その理由は天気。外ではみぞれが吹き付けているのが、ギリコが立っているレジの裏から見える。今日は二〇一二年の二月上旬。気温の上では三寒四温の初めの温が訪れたようだけれど、北風が強い。こういうとき、コンビニは避難所になる。

 世界が終わり、あなたはコンビニエンスストアで目を覚ます。きっと拍子抜けする。しかし死後の世界は深夜のコンビニみたいなものだろうと、ギリコは思う。というのも近頃、祖父が急に宗教的になり、さも若い頃からの習慣みたいに数珠を持ち歩きはじめたことに、反感を覚えるからなのだけれど。

 この店舗は福島県郡山市富久山町久保田にある。福島県という場所は日本という国の東北という地方の南端にあって、郡山市という都市はその中央にある。人口三十万ほどの、ありふれた、しかし東北には稀な規模の都市だ。コンビニの近くには変電所があり、裏を磐越西線が通っている。向かいの道は古い街道だけれど、住宅街に呑まれていて遺風を偲ばせるものはない。ただ新国道(国道四号/東北の背骨/大地の傷)の裏道として都合がいいから、しばしば道幅に不相応な大型トラックが走る。そういうとき、店内にも振動が伝わる。

 一組の若い男女が入店し、外の寒気が吹き込む。どちらも二十歳前後に見える。少年のほうは門馬ユーダイ、少女のほうは真木メグという。実のところ二人は十九歳で、まだかろうじて少年や少女ということばの領域にある。だから二人はギリコと同い年だ。ギリコは少年のほうを見、背が高く運動ができそうな体格をしているのを見てとる。モテるだろう。好青年の印象と気難しそうな印象が同居している。一方で少女のほうは一重で切れ長の目をしている。肩甲骨に掛かるロングで、その色がふつうでないほど黒い。季節外れの薄着。肉の脂身の色の、ドレープのあるブラウスを着ていて、その軽さが彼女のもつ重油のような印象を中和している。自分にはその服が似合うまいとギリコは思う。総合して言えば愛嬌のある方ではない——というより冷然とした印象が先行してしまいかねないのだけれど、振る舞いか、あるいは声の調子か、容姿以外の要因がその印象を覆い隠している。少女はきっと自己演出が上手い。意地の悪い言いかたをすれば、要素を縫い合わせるのが上手い。少女は少年にしつこく話しかける。その声が大きいので、ギリコはどうしても彼女のほうに注意が向く。

 メグは天気に文句をつけている。中途半端にあったかくなったりしなかったらさ、ちょっとだけ春の気配を見せたりしなきゃさ、こんなに濡れなかったんだよ。わたし、みぞれがいちばん嫌い。雨より冷たいから。ユーダイは商品のビニール傘を手に取り、うなずきもせず店内に進む。そのとき外が白く明るく光る。雷鳴が轟く。近かったねとメグが言う。ユーダイが「ああ」と答える。ギリコはこのときはじめて彼の低い声を聞いた。少年が店に入ってから、どんな声でしゃべるのか気になっていた。メグが言う。お馬さんの話してよ。散々した、とユーダイは不機嫌になって答える。外で誰かが叫ぶ。

「火事だ!」

 ギリコは様子を見るために外へ出る。みぞれが冷え切って鋭い。それが激しく吹き付け、頬や手の甲を刺す。道を挟んで向かい側が赤黒い煙を上げている。「おい、どうしたんだ!」店内からユーダイの大きな声が聞こえ、ギリコは振り返る。メグと目が合う。

暗転

町中から明かりが消える。落雷が引き起こした、一瞬の停電。数秒のうちになにもかも元通り光の世界に返っていく。ギリコはメグに見つめられている。ユーダイが横からメグの肩を固く掴み、彼女に呼びかける。黄色い砂が彼女の足元に散らばる。何枚ものまっ黄色のCD。彼女の視線がそれる。メグは、白く濡れた首を——

 白い馬が両方の前脚を上げていななく。馬は我を忘れるほどに怯えている。動物のきついにおいがこもっている、ここは、暗い厩舎の中。木造の建物で、粗末だけれど、まめに手入れされている。一頭の動物がそこで生まれそこで死んだとして、そのことが一応は幸福に思える空間。馬は暴れまわり柵や壁にからだをぶつける。そうしているうちに一人の少年が懐中電灯をもって厩舎に入ってくる。「シャボンダマ」馬を見て少年が言う。それが馬の名前。馬は平穏を取り戻していく。

 足の踏み場がないほど散らかっている六畳ほどの細長い部屋。締め切られたカーテンから昼の光がわずかに漏れ入る。フルタワーの仰々しいパソコンの周りにだけ秩序がある。パソコンは床に置かれていて、その上を事務机が覆っている。机上にはそれなりに高級なウェブカメラとマイク。ギリコはパソコンの電源を入れる。それからツイキャスで配信を始める。ギリコの姿が画面に映る。鏡とちがって左右が反転していない。

モイ!

 ギリコはセーラー風の襟がついた黒いワンピースを着ている。胸の下くらいの高い位置をベルトで留めているから、布が広がらず、シルエットがなめらかに見える。ギリコのつるりとしたからだには、そういうふくらみのない衣装が似合う。昨晩のあの少女とは対照的。立ち上がり、すそをつまみ上げ、カメラに見つめられて回り、開きすぎた黒いチューリップみたいになる。マイクに向かって言う。「こんな真昼でごめんね。みんな夜行性だもんね」

 ギリコの女装配信はじきに一周年を迎えようという頃だ。週に一度か二度、バイトが無い日の夜に配信をする。ファンは多い。同時視聴者数三桁は安定していて、四百だの五百だのという数字を経験したこともある。だからこうやってカメラの前にいるとき、ギリコは大きな学校の全校集会ほどの人数と向かい合っていることになる。そんな実感はない。数字は数字。それよりはむしろ、彼に呼びかけるコメントの方に強く実在を感じる。とはいえ今の視聴者は二十数人。昼ならこんなものだろう。コメントはみな歓迎と賞賛。

 昨日のバイト、騒々しくて疲れちゃった

 それがね、よく眠れなくなるような疲れなの

 だからこんな時間に起きちゃった

 近くで、事故があってね

(ギリコは火事ということばを避ける。特定されるおそれがあると考えたから)

 それとね、変なお客さんが来た

 ぼくと同じくらいの歳の女の子と男の子でね、カップルなのかな

 女の子のほうがすごいの

 近くに雷が落ちたんだけど、それを聞いておかしくなっちゃって

 何かが乗り移ったみたいにことばが通じなくなって

 うん

(ギリコの右の手の甲にできたあざを心配するコメントが流れる)

 これはそれで

 大丈夫だよ

 動かすとまだすこし痛いけど

 画面の向こうの人たちはぼくに関心がある。ギリコはそう思う。だからこそ急な配信でも見に来てくれる。文字だけの彼らは幽霊に似てるかも。

 次の衣装は——

 次の衣装は、どうしよう。コスプレっぽいものが続いたから、思いっきり当たり前の格好にしてみようかと思う。何か春らしいものに。それだって女の子のコスプレみたいなものだけれど。

『水着!』というコメント。

 水着?

 夏はまだ遠いよ

 春物、お店に並び始めてるでしょ

 ギリコは昨晩の少女が着ていたものを思い出す。少女は頭のてっぺんから爪先まですっかり春物だった。重く少女らしいふくらみと、軽やかな装いのコントラスト。自分には異なるよさがあるとわかっていても、心惹かれるところがある。

『ギっちゃんの水着、細くてきれいだろうな』

『へそ出しちゃったりしてさ』

『すごく少年美って感じになりそう』

 そういうのがいいんだろうか。ギリコはこころなしか不快に思う。

 きっと、そのうちね

『すぐ着て』そう書いたのは、はじめに水着とコメントしたアカウント。

『ワイ、ギっちゃんの住所特定済み()』『近くで火事あったっしょ』『古参ファンに応えてほしい』

 ギリコは気味悪く思って配信を切り上げる。コメントのことを考えながら席を立ち、全身鏡に自分を映す。薄いからだが黒い布をまとっていて、とがった骨格が透けて見える。

 ギリコはムーミンのテーマを口ずさみながら部屋を出て階段を降りる。歌詞は覚えていない。ほんの少しかすれた幼い声で、トゥという音節を繰り返す。唇を丸く突き出したウがムーミンのお腹みたいに聞こえる。彗星よ、彗星よ。何もかも吹き飛ばしてください。

 居間は部屋と同じように散らかっている。核家族(「家族」ということばは面白い。一切を吹き飛ばしてくれそうだ。ギリコはそう思ったことがある)の一軒家に尋常でない量の書籍や、さまざまなゲームソフト、趣味の道具が詰め込まれていて、それでいてその一切にギリコは理解も関心もない。電気ケトルで湯を沸かす。原発は核分裂でお湯を沸かしタービンを回します。そのうちに母が現れる。母はこの家に似ている。彼女の幼い顔つきはギリコによく似ている。ただ、ギリコと比べるとずっと肉付きがいい。今日は早いね。母が言う。たしかに普段ならギリコが起きているような時間じゃない。母はギリコのワンピースをつまんで言う。それ新しいやつ? ギリコはうなずく。

「ギリコは何を着てもかわいい。お人形さんみたい」

 それから、唐突に母の表情がこわばる。母はギリコの手を取る。その手は白く柔らかく、大人の手であるにはあまりに小さい。

「このあざ、どうしたの?」

 昨日のバイトで。ギリコは握られた右手で母の高い体温を感じながら答える。「バイトで何があったの?」母が動揺するのがわかる。

「おかしなお客さんが来て——

「そんな仕事続けちゃ駄目!」

 母は抱きしめる。

「ギリコはお仕事なんてしなくていい。ほしいものがあったらお父さんに買ってもらおう。ね?」

 豊満な胸と腹の感触、桃の匂い。彗星、彗星!

グラグラグラグラ

と一切が震え、がらくたが崩れる。地震が短い初期微動を終える。数秒のうちに震度四程度の揺れになり、ギリコはテーブルの縁につかまる。母はギリコにしがみつく。揺れがおさまる。こんな余震が、あの日以来ありふれてしまっている。世界はまだ終わらない。

 久米光太郎——店内にいた作業服の男は、メグがばら撒いた黄色いCDを一枚持ち帰っていた。外ならぬそのCDが欲しかったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。頭の中が覗けるわけじゃないのだから、彼の考えを知ることはできない。確かなのは、彼には物心ついて以来記録媒体への執着があったということ。久米は数年後雷に打たれ命を落とすことになるのだけれど、それはまた別の話だ。その黄色いCDを同じく黄色いCDラジカセで再生した。彼の家にはCDラジカセが少なくとも十一あり、そのうち三つが完全に動作した。それらはそれぞれ赤、青、黄の色をしていて——赤は土、青は波、黄は雷の象徴——、久米はそれぞれでそれぞれの色のCDを聞こうと決めていた、と死後発見された彼の日記には書いてある。久米は翌日から忽然と消息を絶ち、数年後の大雨と地震の日に再び姿をあらわし、雷に打たれて死んだのだろう。久米はきっと赤のCDと青のCDを聞いたから死んだのだろう。久米が記録媒体に執着したのは死への抵抗に魅了されたからだった(と、これも彼の日記に書いてある)。しかしこれは別の物語。語られることはあるまい。彼の日記は死後しばらく警察で保管されたのち、不手際で処分された。

 久米光太郎が拾ったCDには少女の声が吹き込まれていた。真木メグの声。彼女の声は透明で、その語りは溌溂。背景の環境音は夏。つまり、甲虫の羽ばたき。そよぐ笹。

『ハロー、ハロー。ディス・イズ・グラウンドコントロール。超終末期誘導灯機構を始めます。間違いが無傷であるために、ムーサ女神よ、説き明かしてください。ムーサよ、お守りください』

 シャーベット状の雪が昼のさくら通りを覆っている。バスの車輪がその半透明なぬかるみを切って進んでいる。さくら通りは郡山を東西に走る幹線道路の一つで、駅前と市役所周辺という二つの中心地を結ぶ。市役所を越えさらに西へ進み、バイパス(この区間では地面に彫られた溝の中を走っていて、夜にはテールランプが赤い河川に見える)との立体交差を跨ぐと、新さくら通りに名前を変える。通りは大槻に至り自衛隊の北辺を走る。それから東北自動車道の高架をくぐり、市街を去る。道の左右には水田が広がり、松の林や農家の家並みが散らばっているのが見える。六月には水のにおいが、八月には稲のにおいがする。冬には土のにおいがする。しだいに逢瀬川が寄り添ってくる。県道二十九号線——町の西の端を定める道に突き当たって、この通りは終わる。しかし逢瀬川はさらに西へ遡っていく。大滝渓谷がこの川の水源地。その山地の向こうに猪苗代湖がある。猪苗代湖の水面は郡山の市街より三百メートル弱高い位置にある。市街のどんな建物からも、その水面を望むことは叶わない。ビッグアイといって上部に巨大な球体(内部がプラネタリウムになっている)がはめ込まれている市内一高い象徴的な高層ビルからさえ。

 バスは何度目かの停車を終え走り出すところ。ユーダイは後方の座席でエンジンの振動を感じる。窓のガラスが結露していて、水滴が振動に合わせジグザグを描きながらずり落ちる。迷っているように見えるそれがユーダイには腹立たしく、拳を作って水滴を押しつぶす。それから手のひらでガラスを拭く。手が露で濡れる。この瞬間が前にもあったように思う。デジャヴの原因は疲労、ネットで読んだ。最近になって睡眠時間がめっきり減った。昼に家や自分のことを済ませ夜に仕事に行く生活が、なんら破綻せず成り立っている。気づかないうちにそれに無理が生じ始めたのか。郡山に来てすぐの今の生活が始まった頃を思い出す。しばらくは寝てばかりいた。繭になって変態を待っているかのようだった。繭の中で、古い邦画のように聞き取りづらい女の声が聞こえていた。ユーダイは確たる理由もなしに、その声を女神の声だと思った。あの子は呪い子。あの子はあなたのもとを去る。あの子というのはきっとメグのこと——

 目を引くほどきよらかで幼げな人物が、通路側を向いた中央の座席に座っている。さっきの停留所から乗ったのだろう。ユーダイはその人があのときのコンビニの店員だと気づく。どのくらい美しいかと言えば、赤い砂漠とか、酸の湖とか、日常のことばを超えたところ。

「先日はすみません」

 目の前に立って声をかけてきた男性が誰であるか思い出すまでに、ギリコは時間を要する。女の子のほうばかり印象に残っていた。その少年はいま吊革につかまってギリコを見下ろしている。

「謝ろうと思ってあのあと何度か行ったんですけど、お会いする機会がなくて」

 えっ、ああ。

「辞めちゃったので」

「それってやっぱりあいつのせいで?」

 そうじゃないんです。ギリコは言いよどむ。彗星よ。

「ぼくは辞めるつもりなんてなかったんだけど、あざを見てお母さんが動転しちゃって」

「それならあいつのせいです」

 ギリコは「あいつ」に興味を引かれる。

「あの子ってああいう子なんですか?」

 ギリコは少年がかすかに不機嫌そうな表情になるのを認める。それはそうだろう。ぶしつけな質問だ。でも、ぼくはいま謝罪される側なのだからとギリコは思う。少年が答える。ああ、そういうところがある。

「恋人?」

「そんなとこ」それからユーダイは黙り込んでしまう。

 ユーダイは考える。メグは何者で、自分はなぜメグを求めているのか。恋人か、悪友か。メグと自分の関係は暴力的だ。罵りあうことを好んでいる。彼女の話を聞くのが好きだ。メグは広大な海のようだ。メグの中にこの世界の一切があるように思う。こんなことがあった。

 無数の土嚢。月は無く、街灯の明かりだけ。ぼたん雪が降る。積雪は三十センチを超え、東北としては大したことないけれど、この町では年に数回の深さ。ことに浜通りから来たユーダイにとって、くるぶしが埋まる雪は非日常に属する。

雪玉が彼の左の頬に当たって砕ける。ユーダイは左を見る。土嚢が積まれ何枚かの壁になっている。あれらの土嚢には、地表からこそぎ落とされた土が詰められている。というのもその土は汚染されていて、人の近くにあってはならないから。

 メグ——雪玉を投げた少女の姿は見えない。メグはいずれかの土嚢の裏にいる。この陣地はまるで戦争をするため作られたかのように、殺風景で大規模。ユーダイは武器を手にする。大きなからだを遮蔽物で隠す。耳を澄ます。外界の音よりも、自身の呼吸、鼓動、そういう音がよく聞こえる。ガラスを擦り付けたみたいに不快な音。雪を踏みしめたときの音だ。ユーダイは振りかぶり、その方向を見定め、投げる。雪の中で少女が割れる。鋭い破片になって飛び散る。

 メグは赤いダッフルコートを着、耳あてとニットの手袋をし、ブーツを履いている。雪玉は彼女の左胸にあたり、白い痕跡を残す。本当の冬にダッフルコートを着ちゃいけないとメグは言った。雪が張り付いて必要以上に濡れてしまうから。ニットの手袋も同じ理由で禁忌。だというにメグが今それらを身に着けているのは、ハンデのつもりなのだろう。ユーダイはかがみこみ二つ目の雪玉を作る。迫ってくる気配に気づく。顔を上げると、メグはもう彼の目の前まで迫っていて、ひどい冷たさで息が止まる。首元から服の中へ雪を入れられていた。冷やっこいのは背中なのに、頭痛。

——反則だろ」

「反則じゃない。みんなやったことあるし、やられたこともある」

 まだ続けるよとメグが言い、ユーダイは勝利条件を尋ねる。

「勝ち負けなんてない。でも、相手により大きな苦痛を与えるって快楽がある」

 競技以前じゃないか。言おうとするユーダイの顔にメグが雪をかけ、口に入る。ユーダイはかっとして彼女を押し倒す。二人は雪の中に飛び込む。ユーダイの額がメグの頬に触れる。雪と区別がつかないほど冷たい。メグが言う。

「雪じゃ満足できないでしょ」

「腹いっぱいだよ」

 嘘つき、とメグ。「立って」

 ユーダイは立つ。手を引いて彼女を立ち上がらせる。メグが言う。

「殴って」

 ああ、あの映画だとわかった。脳みそが既製品で出来ているタイプの馬鹿なのかと思う。メグは実際、既製品が好きだ。食玩みたいに安っぽい。

「殴らねぇよ」

 メグは殴る。固く冷たい、氷。先に殴られるとは聞いてない。

 だからって、殴り返そうなどと思うものか。自分と同じくらいの背丈と体重を持つ男なら、思ったかも。でもそれはメグじゃない。メグのフックがみぞおちに入る。加減を知らない威力にたじろぐ。「殴れ!」メグが叫ぶ。鍛えてるんだから、馬鹿にしないで。直後、彼女の肩を強く押したのは、ユーダイ。その衝撃だけで柄にもなくか細い悲鳴。メグはしぶとい。俺の息は熱い。メグはきれいだ。メグの細い手首をひねりたい。その指をへし折りたい。メグの表情が見たい。

 メグは吹き溜まりの雪の中に座っている。冬と寒さの底。ユーダイは彼女の膝の上に寝かされ、まぶたを重く感じる。メグは彼の頭を撫でながら言う。息が乱れ、呂律が回っていない。「わたしたちは家畜や、原子力、そういうものと同じ。つまり力」ユーダイには彼女のことばが半分も理解できない。耳を殴られたからでもあるし、疲れ切ったからでもある。わからないまま、メグは続ける。「そのことから頻繁に目を背けそうになる。災害の後なんて特に。というのも、そういうとき、わたしたちは動揺するから。だからこういう機会が必要」一人でやれよ、とユーダイはつぶやく。「それはよくない。自分だけで完結する物事には、変革の力がない。わたしたちはむしろ、わたしたちの現実に影響するため、公共的な方法を模索しなきゃならない」殴り合いがそれなわけない。メグを殴った。だというに、彼女を殴ることでこみ上げてきたのは、ほの暗い興奮。小学生の頃、生きている昆虫をバラして似た興奮を覚えたことがある。昆虫と彼女の違いは、なんといっても、メグは殴られてより溌溂とするということ。膝の上での字になるユーダイに、夜伽のようにおだやかに、メグはこんな話をする。

 某国特殊部隊が今まさに作戦を完遂しようというところ。小隊長と、彼に心酔してる部下と、きみがいる。ここは敵のアジトの地下で、きみたちは銃を構え、慎重に進む。そのとき! きみたちが見逃していた細い通路から少年兵が不意を突いて駆けてきて、彼の持つ即席の槍が小隊長の喉元を貫く。同時に少年兵が血を噴き上げて倒れる。きみともう一人、どちらの弾が彼を殺したのかわからない。きみの戦友、小隊長に心酔してたそいつは言う。隊長の訓練時間は三万時間を超えてたんだ。このライフルは三千ドル、この暗視装置は二千ドル、このプレートキャリアとヘルメットは三百ドル、ここへ降りるのに使ったオスプレイは七千万ドルの価値があるんだ。我々の目的は正義であり、国民の四十二パーセントに支持されてるんだ。それがこのガキに殺されるはずがないんだ! このガキは俺たちが持ってるものを一つだって持ってないんだ! このガキは、何も、持ってないんだ! そいつは少年兵の死体を蹴り飛ばす。踏みつぶす。きみはその光景を呆然と見つめる。とはいえこれは、私たちの現実とは交わらない物語。『フルメタル・ジャケット』の最後に似ているとユーダイは思う。次はきっと『時計仕掛けのオレンジ』の話を聞かされる。真木メグはツタヤに巣くう怪異か。

 わたし、弱ってるきみが好きとメグが言う。そして言う。

「おめでとう。世界はまだ終わらない」

 ユーダイは会話が絶えたあともギリコの正面に立ち続ける。ギリコはそれに居心地の悪さを覚え、バスが早く目的地に着くよう念じる。左の窓に自衛隊の高いフェンスが滑り込む。ギリコが止まりますボタンを押す。「俺もここ」ユーダイが言う。ギリコを追って降りる。

 七十代に見える男がバス停のかたわらに立っている。底が剝がれかかった靴。何カ月も雨ざらしの落とし物を拾ってきたような、古く不潔なダウンジャケット。手首に数珠。ユーダイはこの老人から距離を取るべきと直感する。夜道で見かけたら、遠回りになってでもすれ違うことを避けたい人物。ユーダイの腕力なら実際大概の不審者は脅威にならないだろうけれど、そういうものに進んで向かっていきたいわけじゃない。だというに、華奢なギリコは彼の目の前でその老人に話しかける。老人が言う。

「武に話つけてくっちゃか? それで、いくらもらえんだ?」

「だめ」ギリコは毅然として答える。

「今日は家の様子を見てくるようにって言われて」

 倫か? 老人の問いにギリコがうなずく。老人はギリコの頬を平手打ちする。ユーダイはすかさず二人の間に割って入り、七十キロの体重を乗せ、右ストレートを老人の顔面に沈ませる。歪む表情、波打つ皮膚。骨格の形状が変化したと察せられる高く固い音。地震の後のブロック塀のように崩れ落ちる老人。

 怒りの隅で、まずいことをした、と感じながら、ユーダイは振り返る。ギリコが声を上げて泣いている。その頬に赤い平手打ちの跡。ユーダイは胸と下腹部に同時に熱い温度を感じて、その様子を長くは見ていられない。原発は核分裂でお湯を沸かしタービンを回します。ユーダイは時に、自分にこういう趣味があることを思い出し、倫理にもとると思う。この子は俺のものじゃない。メグがそうでないのと同じことなのに、意識できなかった。老人がむせながらどなる。

「なんだお前ェ。ギリコのこれか?」

 老人は顔をおさえしゃがみこんでいる。血がアスファルトにたれる。汚い血だ。汚い奴の血は汚いと、ユーダイは信じている。メグの血は綺麗だった。力の差は歴然で、これ以上の暴力は正当じゃないから、もう一度殴りつけてやろうというきもちを抑え込む。ギリコが老人に駆け寄る。じいじ! ギリコは老人をそう呼んでいたわる。お前ェ、ユーダイがギリコをよぶ。にらまれる。ギリコのその表情があまりに美しいので、ユーダイは冬を感じる。

「こんなのを構ってやるこたない。すぐに帰ってこいつとはもう会うな」

 ギリコは首を横に振る。

「それじゃ、どうすんだ?」

「じいじの家に行く。お母さんにそう言われてるから」

 ユーダイは泣きたくなる。不器用で報われない。

「だったら、俺もついてく。そうでないならゆるさない」

 ほんとに? とギリコが怪訝な顔をして尋ねる。

 傾いた電柱。ブルーシートが張られた屋根。崩落した非常階段。古代遺跡のようにしっちゃかめっちゃかな墓地。遅々として復旧しない景色の中、粗末な家がある。瓦屋根の建物を塀が物憂げに囲み、最小構成の一階に一部屋だけの二階が乗っている。そこで営まれる生活も相応に小さなものに違いないとユーダイは思う。

 玄関は引き戸。老人がそれを開けると、薄暗く掃除の行き届いていない廊下が前方に伸びる。かびのにおいと積もったほこりが鼻を刺激する。居間は六畳の和室で、酒の空き缶や競馬新聞があふれんばかり。ちゃぶ台。リモコン。掛け時計。会津観光のみやげらしい五色沼のポスターが額縁に収められている。そのすべてが黄ばんで見える。布団が見当たらないから寝室は別にあるのだろう。寝る場所と暮らす場所の区別ができているということは、この老人の第一印象と比較すると不釣り合いなくらい立派なことだとユーダイは思う。

 老人はテレビの方を向けて置かれている座椅子であぐらをかき、言う。様子見るったって何を見んだ? ギリコが答える。ちゃんとご飯食べてるかとか、お風呂入ってるかとか。

「それなら、なんだ。もし俺が一人で便所も行かんなくなったら、世話してくれんのかい。そうではねェんだばい?」

 ユーダイは座っているのも妙な気がして部屋をうろつく。他所の家の話なのだから、神妙な顔をして聞くようなものじゃない。とはいえ次第に彼らの事情が呑み込めてくる。少年(!)は狭間ギリコ。歳はわからないが見た目通りに中学生というわけではないらしい。武というのが彼の父で、倫というのが彼の母。老人はギリコの父方の祖父にあたる。老人は息子である武に金銭的に依存しているが、浪費家。嫁の倫は義父が苦手だ。それでギリコを派遣して面倒を見させている。倫って人物はギリコが祖父にどう扱われてるか知ってるのか?

 積み上げられたダンボールや古新聞の裏に、ユーダイはいやに片付いた一角を見つける。仏壇があり、老人の妻らしき人物のまだ新しい写真が立てられている。そのほかにも無数の写真があり、ほこりをかぶっていない。ユーダイはそれらを手に取る。競馬場の写真。馬と妻。

「また馬でお金使いはたしたんでしょ?」

 それまで意識からシャットアウトしていたギリコのことばが、ユーダイの耳にいやによく聞こえた。馬ということばが含まれていたせいだ。

「ジジイの趣味に口出すんでねェ」

「やめなよ。稼げるわけないんだから」

「稼ごうとしてやんのは何十年も前にやめたよ。どうせ畜生のことだかんなィ」

 じゃあ、なんでやってるのさ。ギリコが言う。ユーダイがふりかえると老人と目が合う。老人はユーダイが仏壇を物色したことを明らかにこころよく思っていない。ユーダイはいまさら気まずくなり、そのきもちを紛らわそうとして言う。

「俺もじいさんの言うことがわかるよ。賭け事なんて関係なしに馬はいい」

 老人の表情に光が差す。さっき殴られたばかりだというのに、馴れ馴れしくプライドのない、器用な奴。お前ェも馬やんのか? 老人が尋ねる。

「そうじゃないけど、飼ってたんだ。田舎育ちだからさ」

「そうか。俺も子どもの頃は家さ馬がいた」

 そうなの? ギリコが尋ねる。その話は初めて聞いたらしい。

「どこの田舎だい?」

 ユーダイは答えにためらう。「浪江です」

「それじゃ避難してきたんだなィ。避難者か」

 いいな。老人は心底うらやましそうに言う。

「見舞い金、いくらもらった? ずいぶん贅沢してるって話だかんなィ」

 ユーダイは再び老人を殴りつけたいきもちに駆られる。でも、そんなのは馬鹿げてる。殴ればきっとギリコは自分をにくむだろう。補償金、たしかにそういうものはあった。しかしだ。こういう偏見がここかしこで黒く渦を巻き、竜になって大地を走る。竜どもはけたたましく笑いながら、国道を、県道を、一方通行の細い路地を走る。竜どもを狩る狩人はいない。

 逢瀬川沿い、内環状線近く。歩いて渡るのが怖くないほどその交通量が減った夜深く。木と錆で出来たアパートの一階。ユーダイは台所で携帯から電話をかける。台所は手狭で、肘がときおり冷蔵庫に当たる。魚の生臭さとにんにくのにおいがかすかに残っている。居間から漏れる明かりで鍋やフォークの表面が輝く。居間には父と母がいる。ユーダイは両親に電話の内容を聞かれたくない。相手がメグだからというのじゃない。相手が誰であっても、自分の交友関係を家族の中に持ち込むことに忌避感がある。それじゃまた殴ったの。殴ってないよ。でも一回は殴ったんでしょ? 金の話をされる前にな。じゃあ殴ってるじゃん。自分のためじゃないからノーカンなの。

『その理屈は嘘だよ』メグが言う。

 メグは酒蓋公園のベンチにかけている。屋外の夜ははだかだ。屋外の夜は、屋内の夜とは全然性質がちがう。壁とか天井とか、大げさな言いかただけれど、守ってくれるものがない。木々が鬱蒼としていて平らな地面はせまい。風の音が電話に入る。ユーダイが言う。外にいるの? 寒いだろ。

「家のほうがよっぽどしんどい。きみと話してるのがお父さんやお母さんに見つかったらどうなるか、想像できる?」

 ごめん、とユーダイ。

「きみの想像の五倍はしんどいことになるね」

 メグはベンチに横たわる。その固さを背中で感じる。しばらくの沈黙。メグは化繊の上着、真冬のいちばん寒いときに使うやつを着ている。二月になっても夜はまだこれが必要だ。手袋は左だけ。iPhoneをにぎる右手が冷たい。ガラケーから機種変して感じた短所はこの一点に尽きる。iPhoneを耳の横に置き、右手を上着のポケットに入れる。ユーダイと添い寝しているみたいになる。

「それでさ、その子はなんて名前なの?」

 狭間ギリコ。ユーダイが答える。

「やっぱり男の子だったんだよね?」

『ああ。信じてなかったけどたしかに男だった』

「わたしあの子にまた会いたい。あの子、おもしろいと思わない?」

『気味が悪かった。中身と外身があってないみたいで』

「わたしたちにはあの子が必要だと思う」

『それってどういう意味さ』

「あの子には誘導灯の才能がある。確かめたもの」

 白い馬が——シャボンダマがメグの頭のほうに現れる。メグはシャボンダマの顔をなでる。湿った毛並み。熱い体温。馬というのは大きな生き物だ。四百キロの質量が夜の空気を掻き分けてそこにいる。メグは身を起こしシャボンダマの耳元にささやく。

「あの子を連れてきて」

 電話が切れる。誘導灯ということばは前にも聞いたことがある気がする。きっとメグが言ったのだ。ユーダイは居間に戻りこたつに入る。こたつの温もりを感じているうちに、しかし、そんな考えはどうでもよくなってくる。母と生気のない顔をした父が向かい合っている。地震が起こってからこの方、父は廃人も同然で、ときどき病院に行くほかは外出しない。もう六十代になる。やせこけた頬にごましお色の無精ひげ。母が買ってきた格子模様のはんてんを羽織らされ置物のように見える。

 テレビが遅い時間のバラエティ番組を流している。口の悪い芸人二人がとげとげしいユーモアを披露して若者の習俗を切って捨てる。テレビというものは世代の話が好きだけれど、対象としている年齢層がどこなのかはっきりしない。きっとどの世代が見ても等しく腹が立つし、夜の時間をすりつぶす目的にかなう程度には面白い。父が好きで見ていたこの番組を、母は毎週見せている。子供に見せるのは厳しいところのある番組。自分がいつから平気な顔をして母のいるところでこれを見ていられるようになったのか、ユーダイはよく覚えていない。しかし郡山に越してきてからのことのように思われる。「ねえ、お父さん。いまの子は郵便番号知らねんだって」母はテレビが言ったことをそのまま繰り返して父に伝える。父は反応を示さない。若者はネットに生きてます。若者に物理的所在はありません。若者は宙に浮いてます。馬鹿言うんでねぇ。

「ユーちゃんは言える?」

「963の8026、福島県郡山市並木2丁目19の3、安東ハイツ103。こっちに越してからの書類、俺もいろいろ書いたべ」

 それもそうだなィ、母が言う。父がこんなだから、引っ越してきてからの手続きはすべて母とユーダイで済ませた。門馬家はもう長いこと三人だけ。ユーダイには年の離れた兄が二人いるけれど、上は行方知れず、下は鹿児島にいて疎遠。浪江の家は先祖代々の立派なものだけれど、たった三人で生活するには広すぎた。郡山のこのアパートこそ自分たちの生活にふさわしい規模だとユーダイは思う。

 よしみさんの様子どうだった? 母が尋ねる。嘉さんは大槻の自衛隊のそばに住んでいる女性だ。その前は浪江の家の近くに住んでいた。親戚らしいけれどユーダイは具体的な続柄を知らない。ともかく、そういう人。

「こんなことならお母さんもデヴィッドちゃんのお散歩もっと手伝っておけばいかったんだけどね。いい子だったべ、デヴィッドちゃん」

 ユーダイは嘉さんとの今日のやりとりを考える。デヴィッド、かわいそうな犬のデヴィッド。

 真木家にはサンルームがある。サンルームというのは日光を取り入れることが目的のガラス張りの部屋で、屋内と屋外のあいま。そういう空間があるのは望ましいことだ。悲しいかな、大概の住居は内と外をきっぱり分けてしまう。真木家はその意味で幸福。家の南西に突き出た真木家のサンルームには、テラス席みたいなテーブルと二脚の椅子が置かれ、アザレアだとかフクジュソウだとかがそれを囲む。日差しが白々しく白い。恰幅よく彫の深い四十代後半の男が白い大型本を読んでいる。メグが入ってきても男は活字を追っている。父がいま読んでいる種の本を白難解とよぶのだとメグは聞いたことがある。白い装丁で難解だから白難解。メグも多少は手を出した。人文系のイワユル人類の叡智ってやつで、要するに、現実のものごとに引きつけて読むにはあまりに多く想像力が要求される。父にそれだけの想像力があるかメグは疑わしく思う。しかし父はそんな本ばかり好んで読み、彼の脳を白く、掴みどころなくしている。彼のことばは白い灰だ。

 メグは向かいの椅子に座る。ジャージ、卒業後も部屋着として使い続けている高校のやつを着ている。テーブルに置かれている全国紙を一つ手に取る。真木家は地方紙を二部——『福島民友』と『福島民報』、それと全国紙をいくつか講読している。民友と民報をどちらも取っている家は珍しい。それに負けず劣らず、全国紙を取っている家というのもこの町では稀だ。わが家は喫茶店を開業できそうだと思う。昔は、といってもここではないわが家が、実際そうだったらしいのだし。

 政治面には野田首相の顔。世論調査。カラー印刷の恩恵を存分に受けたあざやかなグラフ。競ってるね、メグが言う。支持率は与党民主党と最大野党自民党がともに二十数パーセント。民主党がわずかに上回っているとはいえ、今にも腹をかすりそうな低空飛行。父が言う。

「退屈だろ、よく読めるな」

 俺は仕事じゃなきゃ読まない、と続くのだろう。

「その本よりは面白いと思う」

「民主党はもう無理だ」

「そう? 自民だって別に期待されちゃいないでしょ?」

「みんな馴染みのあるものが好きだ」

 そんなものだろうか。そうは言ったって——

「対決より、根回しと合意が好まれる。現実を奪い取る戦闘的なオルタナティブが求められてるわけじゃない。だから結局、現実と無数のそれ以外」

 メグの考えを先取りして父が言う。彼の予言はマクロなものごとに関する限りおおむね当たる。だからこれもきっと当たる。つまらないことでござんすねと思う。世の中がダイナミックなら、身の回りが退屈でも多少気がまぎれるだろうに。身の回りも、世の中も、あまりに揺るぎない。

「でも、現実ってことばの使い方に異議があります」

「日常、平常、通常」

 今日この日は例外です。揺らいでしまうのは、そういうわけなのです。その後には現実が帰って来るのです。そんな現実はあまりに薄っぺらい。後の記事はひたすら東京。テレビ欄の番組紹介までが東京。全国紙なんてそんなものだ。父が言う。その視線は文字に縛られたまま。

「また遅くまで帰らなかったらしいじゃないか」

「お父さんよりは早かった」

「そういうことじゃないのはわかってるだろ。どこで何してた」

「カラオケ」嘘だ。

「またあの門馬って子とか?」

「だから何? 心配しすぎ」

「心配しすぎってことはない。お父さんはその門馬って子が信頼できると思わない。この前は真夜中にびしょ濡れで帰ってきた」

 みぞれの日だ。

「その前は怪我して帰ってきた。そのときもその子がいたんだろ?」

 そんなこともあった。誘導灯の帰りだった。いいじゃないかと思う。目立つような怪我じゃなかったのだから。

 女の金切り声! 水たまりを覆う油膜みたいに不快な声が、家の中から聞こえる。父は読書をやめない。声の主は母で、哀れな羊は祖母。もとより失望しているけれど、メグは尋ねてみる。止めにいかないの? 父は答えない。読んでいる本の背表紙には『見えるものと見えないもの』。わたし、気になります。まさかお母さんは「見えないもの」なんでしょうか。父はメグを置き去りにして時間をさかのぼる。この人の態度はそういうところがある。父はうつむいていて、まるで本に話しかけるかのよう。

「大した怪我じゃなかったから構わないと思ってるんだろ。それはいいことじゃない。嘘をつくな、ことばを大切にしろ、っていつも言ってるよな。同じように、からだを大切にしなさい」

「それ、女の子だからってやつ? 気色悪い」

 ちがう。父は言う。メグは彼を軽蔑する。

「からだはことばと同じように、きみが世界に出会う場だってことだ。にもかかわらず痛みや傷を無視すれば、きみがあるところの世界も——

絶叫

 母の声。攻勢を仕掛けるチャンス。メグはそう考える。

「お母さん、おばあちゃんを殴るかもね」

 あいつはそんなことしない。父はこの期に及んでまだそんなことを言う。わたしの銃はもう撃鉄を起こしてある。

「わたし殴られたことあるよ」

 父は手を止める。そして本からおそるおそる顔を上げる。痛快。もっと表情を歪ませて。この人がどんなことから目を背けてきたか、わたし、知ってる。

絶叫

食器が割れる音。父は本を置き様子を見に行く。一人になったサンルームは感じたことのないほどに開放的で、肌が光と交じっていくように感じる。

 メグは祖母の手を引き、酒蓋公園の遊歩道を歩く。北の方角に公会堂の小さく装飾的な時計台が見える。ひょうたん型の池は水が抜かれていて灰色の底があらわ。そのくびれに赤い橋が架かっている。二人は橋の中央まで来る。

 祖母は腰が曲がり、立つとメグより頭一つ背が低く見える。皺まみれの手、表情。これほどかわいらしい生き物をメグは他に知らない。祖母は認知症が進行しているから、母といざこざがあったときは一度散歩に連れ出せばそのことを忘れてしまう。彼女の時間は直線じゃない。彼女の時間は迷路になっている。人は老いて球になる。彼女の世界は終わりを失ってしまった。彼女にとって、メグはまだ中学生だ。今日は学校休みかい? そうだよ。学校たのしい? 悪くないかな。

「パパがメグちゃんのこと心配してましたよ」

 本当に心配していたからそう言うのじゃない。祖母にとってはそれが父の不変の性質なのだ。そういう人じゃないのに。

「実はね、好きな人ができたの」

 あらあらあら。祖母は十代の女の子みたいに反応する。

「始はそれで気が気でないのね。どんな子?」

「ユーダイって言ってね。喧嘩っ早くて不良漫画の主人公みたいなやつ。かっこいいんだよ。理屈に合わないことがあると誰より反抗する。でもそれが冷静さって言うか、変なことをしたくないって気持ちと葛藤してて、それがなんて言うかな——

「色っぽい」

 そうだね、そう思う。メグは苦笑する。しかしその評価は合っている。

「おばあちゃん、わかるわ。そんな子なら、わたしも好きになると思う。そりゃ確かに、パパは心配に思うかもしれないけどね。あの子はそういうのと正反対の性格だから」

 パパの若い頃、知ってる? 祖母が言う。繰り返し聞かされた話だから、一字一句たがわず知っている。それでも、メグは彼女の球形の時間に寄り添うための呼吸をする。メグは誰よりも祖母がすきだ。

 むかしむかし、おじいさんとおばあさんが、まだお父さんとお母さんだった頃。小さな坊や、どんな坊やも小さなものだけど、特別小さな、始ちゃんという坊やがおりました。

   間

 始ちゃんが幼稚園に通ってた頃。遠足がある日の朝、始ちゃんがわんわんと泣いてる。楽しみなはずの遠足なのに、どうしてかしらと思って理由を尋ねてみたら、始ちゃん、なんて答えたと思う?

   間

 お父さんがついてきてくれないのが悲しいって、そう答えた。

 仕方がないので、お父さんは仕事を休んでついていった。始ちゃんは満足した。

 始ちゃんが大きくなって、お父さんが言いました。東京へ出なさい。大学を出なさい。そうすれば怖くない。

 というのも、始ちゃんは高校を出てすぐ働くにはあまりに頼りない、こんな子が生きていくためには立場がなきゃいけないって、お父さんは思ったのね。だけど始ちゃんは、お父さんの言うことにすぐにはうなずきません。

 始ちゃんは、あれこれと仕事を変えて、お金がたまったら海外へ行って、帰ってきたらまた働く。そういう生活がしたいって思ってたの。お金には苦労せず育った子だから、そういう根っこのない暮らしが怖いものだって、知らなかった。

 お母さんは、お父さんの言うことがよくわかったから、お父さんの言うとおりにしなさいって、そう言いました。始ちゃんはうなずかない。

   間

 それでも、結局、始ちゃんは学生になって東京へ行った。お父さんは鼻高々。だけど始ったら、全然連絡をよこさないし帰ってもこない。

 お父さんは怒って、仕送りをやめてしまいました。そうしたら話をしに来ると思ったから。でも、始ちゃんだってもう子どもじゃない。

 さて、始ちゃんは東京でどうしていたのかしら?

   間

 そう。その通り。東京でお嫁さんを見つけて結婚してた。お嫁さんとお店を開いて、自分の稼ぎで生活してた。始ちゃんは大学を出ても帰って来なかった。娘が出来た。わたしたちには見えないところで、立派な大人になっていた。

   間

 でも、でもね、それっておかしなことなの。だって始ちゃんは、お父さんが一緒じゃなければ遠足に行けない、さびしがりやの坊やなんだから。だからお母さん、始ちゃんのお嫁さんにこっそり話を聞きました。

 お嫁さんは言ったわ。始ちゃんはお父さんのことが気がかりで仕方ない、できることなら郡山へ帰りたい、そう思ってるって。始ちゃんは意地を張ってたの。

 お母さんは始ちゃんのお嫁さんと約束しました。いつか始ちゃんが傷つかない方法で、帰り方を見つけてあげようって。

   間

 それから何年か経って、お父さんの具合が悪くなりました。お母さんは、お父さんに会ってあげなさいといって始ちゃんを呼んだ。だけど始ちゃんは返事をしない。

 お母さんは、今度は、お父さんの病状を細かに書いて始ちゃんを呼びました。始ちゃんはそれでも返事をしない。

 それでとうとう、お母さんは、お父さんに孫を見せてあげなさいと書いて送りました。それは絶対に守らなきゃいけない、お父さんの権利だもの。

   間

 そしたらあの子、お父さんの跡を継ぐって言って、東京のお店を畳んで帰ってきた。これからは家のことを考えるって。お父さんのためじゃなく、あなたのためだって言ってた。強情なところがかわいかった。あの子はやさしい子ね。やさしすぎるくらい。

 それでつまり、何が言いたかったのかと言えば、メグちゃん、あなたは始ちゃんが傷つかず帰ってくるための、何より大事なピースだった、とそういうことなの。

——ほらね。

 メグの生まれは東京。物心がつくかつかないかの頃に郡山へ越してきた。両親が経営していた店は喫茶店が書店や画廊を兼ねたものだったらしいのだけれど、メグは記憶していない。もっぱら父の友人たちが出入りしていたと聞いている。

 祖父とは病床で会ったことがあるはず。しかし印象に残っているのはむしろ、棺の中の姿。初めて見る死体だった。興味本位でその頬に触れ、冷たさに驚いた。わたしの目つきの冷たさは、そのとき彼に譲られたのだと思う。祖父が営んでいたのは不動産業。真木家はもともとこの町の地主で、アパート経営の事業が拡大して商業ビルをいくつも管理するようになった。祖父が現役だった時代は郡山がまさに東北第二の都会として栄えていた頃で、父が継いだときにはもう衰退が始まっていたけれど、西武もマルイもあった。ビッグアイはまだなかった。短くない時間が過ぎ去った。メグは十九歳になった。世界はまだ終わらない。

 富田の自動車学校は門馬家のアパートから見て逢瀬川の対岸にある。そこのロビーにある給水機はあまりに冷えた水を出すので、ユーダイはその点が気に入らない。気に入らないと思いつつすでに三杯も飲んだ。紙コップは繰り返し使われてふやけていて、力加減をすこし間違えればつぶしてしまいそう。ユーダイはそのスリルをもてあそんで待つ。曇天の昼。閏年だから二月は明日まである。彼の他には三十代に見える男性が二人いてこの土地のことばで談笑している。耳障りに聞こえる。耳障りに聞こえてしまうということが偏狭に思われて自責の念に駆られる。そんなことでいちいちこころを動かされるのが馬鹿らしく思えてきたから、無を念じる。何も考えない。感じない。なぜ自分はこうもよくいらだつのか。いらだちが基本の感情みたいで、俺はそういう自分がきらいだ。白い天井からつるされたブラウン管に三桁の番号がいくつか表示される。自分の番号がある。仮免試験に合格した。雪のような水を飲み干す。緊張が和らぐけれど、喉の渇きと落ち着かないきもちは収まってくれそうにない。

 朝からずっと、嘉さんが死んだということを考えている。嘉さんは家で死んでいた。それを発見したのは母で、デヴィッドに線香をあげるため午前のうちに大槻へ向かっていた。ユーちゃんを第一発見者にしなくてよかったと母は言う。「だってそんなの、十九歳の子どもに見せるには残酷だべした」ユーダイはそんなわけないと言い返したくなる。自分は嘉さんの死を見届けるか、そうでなくても嘉さんの死を世界で最初に知るべき人だったと思う。またひどくいらだちを感じる。気晴らしがしたい。たとえば、デヴィッドの散歩をするとか。デヴィッドはもういないっていうのに。ユーダイはメグと会うことを思いつく。メグに会ってむちゃくちゃにキスしたり抱きしめたりしたい。そうしたら、モールであいつの好きそうな安いものをいっしょに食べ、それから仕事に行こう。しかし、キスしたり抱き合ったりをどこでするかが問題だ。自分の車があればよいのにと思う。ユーダイはメグにメールを送る。すぐに返信が来る。わたしの部屋がいいよ。来て。

 ユーダイが自転車で真木家に着いたのは午後四時を回ったころで、日はすでに西の低い位置にある。真木家は酒蓋公園の南面の坂の上にあり漆喰の塀に囲まれている。角に蔵が突き出ていて、塀はその壁と接続している。塀の内側で、築百年に届きそうな木造の平屋と無個性で新しい住宅が肩を寄せ合っている。木造が西、無個性が東。ユーダイは門をくぐり、新しい建物と古い建物の間の人一人が通れるほどの隙間を抜けていく。庭に出る。この庭は道の側からは見えない。庭には池と小さな菜園がある。木造の建物の縁側が池と向かい合っている。新しいほうの建物からは南西にサンルームが突き出ていて、メグはまるではじまりの村の村人Aのように決まってそこにいるのだけれど、見当たらない。敷地の南は擁壁の上になっていて、細い路地が入り組む古い住宅地が見下ろせる。下の道を人が行く。そこでしばらく待ちぼうけていると、古いほうの建物から物音がする。メグの祖母だろうと思う。

 足音が聞こえてふりかえる。いたのは肩幅が広く眉の太い男性。つまりメグの父。ユーダイは平日にこの人と遭遇するとは思わなかった。さっき下の道を歩いていたのは彼だったのだと気づく。メグの父は彼の娘に似て対峙する人を委縮させるところがある。ユーダイをサンルームから隔てるように池のほとりに立ち、黙って水面を見つめる。

「メグに待たされてるんだね?」

 ええ、はい。ユーダイは答える。気まずい時間が流れる。自分が何をすべくここに来たか、この人が知らないはずない。メグの父が言う。真木始だ。僕はきみに関心がある。娘は交遊に積極的な方じゃないから。ユーダイは曖昧にうなずく。メグはたしかにたくさんの友達に囲まれるというタイプじゃない。

「きみは労働をしてる?」

「倉庫管理の仕事です。夜勤で」

「うちの娘とは違うな。だって、そうだろ」

 メグの父はふくみわらいをする。ユーダイはどう反応すればいいのかわからない。というよりは、何を思ってそんなことを言うのかわからない。彼のこころを知ってか知らずか、メグの父はことばを継ぎユーダイを困惑の淀みから引き上げる。

「きみはあの子が四月からどうするつもりか聞いてる?」

 ユーダイは首を横に振る。「四月に何があるんです?」 

 意外だという表情でメグの父はユーダイを見る。

「きみはあの子がどういう人物か知らないで付き合ってるの?」

 彼の声には非難と呆れの調子がある。

「どういう意味です?」

「あの子の社会的立場だよ。学生なのか、働いてるのか」

 聞いてません。ユーダイは答える。実際、聞いていないのだ。

「はじめのうちは浪人生だろうと思ってたんですけど、センター試験っていうんですか? それを受けたって話を聞かなかったから違うのかなって」

「尋ねなかったの?」

「気にならなかったんです」

 古いほうの建物の縁側にメグの祖母が現れる。小柄で上品なところのある老人。自分の父との比較においてかもしれないけれど、どんな世代よりも老人が階級の違いを感じさせるとユーダイは思う。老婆はユーダイにコ・ン・バ・ン・ハと声をかける。きっとモノリンガル——つまり、土地のことばを話せない。そうでなきゃこんなふうにはっきりと五拍も使わない。年寄りでも、金持ちにはしばしばあることだ。ユーダイは会釈する。この家の家族構成を正確には知らない。ただメグの母もこの家にいるということは確実で、にもかかわらずまだ顔を合わせたことがない。メグの父が話を続ける。

「あの子は休学中なんだよ。東京の私大に学籍がある」

「初耳です」

 ユーダイはメグの休学の理由を尋ねようとする。そのとき、新しいほうの建物の二階から練乳をかけたかき氷みたいな声が降ってくる。メグの声。メグは窓から身を乗り出してユーダイに手をふっている。「くれぐれも非行はするなよ」メグの父は縁側から古いほうの建物に入っていく。

 メグの部屋は小学生向けの学習机や不相応に幼い雑貨の類で出来ていて、彼女に人並みの幼年期があったことを想像させる。彼女の場合、それは意外なことだ。ユーダイがこの部屋に来るのは何度目かになる。メグは、あぐらをかいて座るユーダイを抱き寄せ、唇にキスをする。蛭のような唇という表現があるけれど、メグの唇はまさにそれだ。

「お父さんと何話してたの?」メグが言う。

「非行はするなってさ」

「お父さん、きみのこと信頼してないからね」

 メグがユーダイにしがみつき体重を預け、からだが密着する。それなりの重さを感じる。注意する相手を間違えてるよ、とユーダイ。メグの休学の理由はなにか病気だろうかと考える。彼女の奇妙さはよく知っている。通院しているのか。甘い匂いがメグの背中から首にかけての部位から香る。彼女の白いうなじに六センチほどの切り傷の跡が横一文字に走っている。ユーダイはそこに指をはわせる。薄くなったね。メグはユーダイのことばにうなずいて言う。

「消えないと思う」

「お母さんはまだそういう調子なの?」

 え? メグが聞き返す。

「まだお前に手をあげたりするのかってこと」

 そうだね。メグはユーダイを強く抱きしめる。苦しいくらい。

「地震の後はずっとそうだよ。東京に帰りたいって、そればっかし。昨日はおばあちゃんにも手をあげた」

 大変だよな、それは。ユーダイはメグの長い髪をなでる。そうしながら、彼女に慰めてもらおうとしてここに来たことが馬鹿らしく感じられてくる。気にしなくていいんだよとメグは言うだろう。だというに頼ることに違和感があるのは、実のところ俺が対等な関係を望んでないからじゃあるまいか。一方的に頼られたいというきもちは自分の大きさをあまりに見誤っている。その考えをことばにできないまま、ユーダイはメグを抱きしめかえす。腕の中の柔らかい感触にこころを任すのは、弱い。メグが言う。

「しよっか」

 ゴム持ってないとユーダイが答えると、メグは子供っぽい学習机の引き出しから煙草箱大の箱を取り出す。それ常備してるわけ? ユーダイが尋ねる。メグはそうだと答える。ユーダイは質問を悔いる。別にそんなことで彼女に何らかの印象を抱いたわけじゃない。お父さんが持っとけって言うからさ。メグはそう言ってまたユーダイの手を取り、立ち上がらせ、彼女のベッドに寝かせる。ユーダイが言う。女の子の父親ってそういうもんなのかな。男の子の父親と女の子の父親って、きっと役割が違うだろ。メグはベッドのふちに座り、頬杖をついてユーダイの表情を見つめる。「あの人に父親をするつもりがあるなら、そうかもしれないけどね」違うの? そう尋ねるユーダイの口を、メグがキスでふさぐ。ユーダイにうつぶせになって覆いかぶさり、彼の服のボタンに手をかけ肌との距離を縮めていく。ユーダイはなすがままにされておこうというきもちになる。指。なめらかな肌。メグは白い雷だ。メグは遠くへ連れて行ってくれる。それを見て、ユーダイは思い出すものがある。

「誘導灯って何だっけ。前の電話で言った」

 メグは手を止める。長い髪を耳にかける。

「誘導灯。超終末期誘導灯機構はね、世界を終わらせないための手段。辞書通りの誘導灯は知ってる? 非常口の上にある、緑の。その扉の外に望む通りの世界がある。でも誘導灯は内側になきゃ機能しない」

 へえ。ユーダイは納得したのかしないのかわからない返事をする。メグはユーダイをまじまじと見る。かわいい人だ。おばあちゃんの次くらいにはかわいい。

「超終末期誘導灯機構ってのは、たぶんあれなんだな。思考するための、現実の何かを指してないことば。お前、そういうの好きだもんな」

 違う。実践だよ。メグが言う。ここは高校の校舎の屋上。人が上がることなど想定されていないから柵がない。そのふちを、制服を着たメグが平行棒の上みたいに歩く。見下ろせる景色は気が遠くなるほどの雪原で、はるか果てに黒く高い山並みが見える。あの山肌は何の象徴だろうかとユーダイは思う。風が吹いてメグの髪やスカートがひらめく。メグが振り返ってユーダイを見る。眼鏡をかけていて、頬にそばかす。出会う前にコンタクトに替えていたのだと知って、ユーダイは自分の知らないそのメグに恋しさを覚える。メグは言う。彼女の蛭のような唇が、いくつかの母音を愛らしくかたどる。

世界は、ぜんぶことばなの

借り物のイメージだけれど、メグはそういう振る舞いが異様に似合う。——何の映画だったか思い出せない。こんな場面はありきたりだから、候補が多すぎる。

「ねえ、わたしたちの関係の名前、見つけた?」

 メグはユーダイのからだの上にいて、ユーダイは彼女の二つの目に見つめられている。メグの指先がユーダイの美しい乳首を押し込んでいる。そんな宿題が出されていた。ユーダイはまばゆい銀世界の中にいると感じて目を背ける。

「いいだろ。恋人ってことでさ」

 ユーダイはメグに恋しているし、それ以上の何かを彼女に求めている。その表現がこれでいいのか、しばしば不安に感じる。もっと上手い方法があるのじゃないかと思う。そんな考えは馬鹿らしいかもしれないけれど、結局のところ、俺はまだ十九なのだ。メグは首を横に振る。おめでとう。世界はまだ終わらない。

「借り物じゃだめ。わたしたち二人って、恋人よりもっとずっと幼稚で激しい関係。知ってる? わたしたちは月とソユーズだったこともある」

「中身のあることばで話せよ」

 荷物が届いた。宛先は間違いなく狭間家だけれど、宛名が「ギっちゃん(狭間様方)」。こんなことは初めてだからギリコは動揺する。ギっちゃんと住所が結びつくようなヘマはしていないつもりだ。荷物は中型のダンボール箱。ヤマトの配達員から受け取ったとき、ギリコはその箱がとても軽いことに気づいた。三月五日の午前十時で、肌寒く、空が黄みがかっていた。配達員は二メートルに届きそうな長身で、腕が長く、ギリコのサインをもらうときからだ全部が影になるほどかがみこんだ。

 母は留守にしているから、この荷物のことを知られる心配はない。なんにせよまずこの問題を自分一人のものにしよう。そう思って荷物を抱え自室に戻る。閉じたドアの内側にもたれ箱のビニールテープをはがす。熱いものを食べたあと硬口蓋の皮がはがれるみたいに、ビニールテープがダンボールの表面の繊維を巻き込む。中身は女物の水着。ギリコはしりもちをつくほど長くため息を吐く。こんなことになるのなら、その理由は間違いなく前の配信。真っ白になった頭に下水のような不快感が流れ込む。ギリコはその荷物を部屋のがらくたの中に投げつけ、それから毛布をかぶってベッドで自分を抱いて丸まる。下の階で電話が鳴る。ギリコは耳をふさいでやり過ごそうとしたけれど、電話の主に思い当たる。ユーダイと電話番号を交換していた。

『門馬です。ギリコか? ごめん、急に。まずこないだのこと謝らせてくれ。よその爺ちゃんを殴るのはどうかしてる』

 ギリコはうなずく。

『それで、用事なんだけどさ。あいつ——お前に怪我させた奴から話があるんだ。いま代わるから。さあ、ほら』

 電話の向こうでユーダイが女の子と話す声が聞こえる。いつまで経っても代わる様子がない。ギリコは受話器を耳に押し当て、ほつれた糸が一本だけ袖からはみ出ているのをもてあそび待つ。

『ごめん。いまはちょっと都合が悪いみたいだ。ほんとうにごめん』

「いいよ、別に。じゃあね」

 ギリコは受話器を置く。これでよかったように思う。あの少女と話す心構えがない。すぐに着信音が鳴り、ギリコはユーダイが掛けなおしてきたのかと思う。

 ちがう。表示されている番号は父のもの。コール音がしつこく反復し応答を迫る。彗星よ。ギリコはその音に脅迫されているように感じて電話のプラグに手をかける。今まさに引き抜こうというところで留守電対応の音声が流れる。父は一言も発することなく電話を切る。守られていようと思ったら、今日は家に留まっているべきじゃない。まだ午前で、晴れているのだし。ギリコは母と共用のコートを羽織る。玄関をくぐる。

 開成山球場のライト側前列。ギリコは白い馬が内野を駆けまわるのを見下ろす。馬は一塁を踏み抜き二塁へ向かう。三塁へ向かうのだとギリコは思う。しかし馬は直進し、深く外野へ走る。白球が伸びる。馬はフェンスに阻まれて立ち止まる。その向こう、行きつくべきだったところ、レフト側の座席にギリコは少女を見つける。あの日見た少女だ。停電したかのように夜が来る。銀色のナイター照明が流れ落ちる。馬はいない。

 自販機の取り出し口にほっとれもんが落ちる。ギリコはかがみこんでそれを掴む。かじかんだ手には熱すぎるほどの温度。少女がすぐ隣に立って中腰になり、ギリコの顔を覗き込む。「ほうら、この子だ。言ったでしょ、電話なんてしなくていいって」その少女はまぎれもなくあのときの子。後ろから誰かが近づいてくる足音が聞こえて、ギリコは振り返る。ユーダイがいる。ユーダイは独り言つ。「なんだよ、それ。納得いかねえ」

 ここは大町の廃ビルのふもと。大町というのは郡山駅の西口にある地域で、百貨店や映画館があるけれど、それより目立つのは風俗店と虫食い状のコインパーキング。そういった衰退の兆しの最たるものがこの廃ビル。アーケードの北に位置し、窓がないから、何階まであるか外観から判断がつかない。薄汚れたクリーム色が四方を覆っている。生まれる前、二十年ほど昔は駅前にいくつかあった百貨店の一つだったらしいのだけれど、そこが撤退して以来もしかすると東北で十指に入るかもしれない規模の廃墟だ。だったというのが正確かもしれない。ここから東にわずか数十キロの避難区域ではおびただしい数の建物が放置されていて(人の帰りを待っているのだから廃墟ではないかも)、その中にはもっと規模の大きなものもあるだろうから。ともかく、そういう建築物が駅から三分とかからない距離にあって狭くない空間を占有している。

 メグが言う。「どうしてこんなところにいるの? きみも映画の帰り?」ギリコは首を横に振る。

——そう。わたしたちははやぶさの映画見てきたとこ。駄作だけど良かったよ。たとえ映画はつまらなくても、あの子のしたことは確かだから。わたしよく、使命のある無機物になりたいって思う。じゃ、来て」

 メグはひとり猫のように歩いていき丁字路を折れ、廃ビルの影に隠れてしまう。ギリコは説明を求めてユーダイを見上げる。ユーダイは自分のこめかみに人差し指を当てくるくると回し、それからその手がパーの形になる。古臭いジェスチャーだとギリコは思う。祖父がよくやっているからいい印象がない。ユーダイが言う。

「さっきまで二人で映画見てたんだ。昼に呼び出されて、お前が来てくれなきゃいけないだなんて言い出して、でも電話をかけたらそんなのはいいって言うんだ。待つだけでいい。その間に映画でも見ればちょうどいいって。無茶苦茶だよな。それで出てきたらあいつの言う通り本当にお前がいる。なんもわかんねぇよ」

 ギリコは熱いほっとれもんを啜る。甘酸っぱい味がする。「あの子のこと殴らないの?」と尋ねる。

「きみのほうがずっと力が強いでしょ」

「馬鹿言うなよ!」大きな声が出る。

「だって、こんなことするんだもの」ギリコはユーダイのジェスチャーを真似る。

「そんなに気に入らないのならどうして殴らないのかなって。そういうことする人だと思ってた」

 ユーダイは黙り込んでしまう。ギリコは彼の横顔を見上げる。さっき彼の首元にキスマークがあることに気づいた。そういう仲の人なら暴力の対象じゃないということか。メグが戻ってきて言う。「一人にしないでよ」はいはいとユーダイが答える。それからギリコに向けて言う。付き合わなくていいぞ。ユーダイはメグを追って去る。

 ユーダイがまた言う。付き合わなくていいって言ったのに。何の用事もないんだとギリコが答える。ユーダイは心底面倒くさそうな顔をする。「わかるだろ? あいつどうかしてるんだよ。近づかないほうがいい」二人の前を歩くメグが廃ビルを囲う柵を要領のいい身のこなしで乗り越える。

「本気かよ? 不法侵入だぞ」

「パパは直にここを買うって」

 だから立ち入っていいなどとユーダイは思わないけれど、放っておけばメグは一人で奥へ行ってしまうのだろう。それなら選択肢など元からない。ユーダイが柵をよじ登るのをギリコが見ている。

「来るか?」

「行く」

 ユーダイはギリコを引き上げる。ぞっとするほどに軽い。

 壁伝いに歩いていくと、すりガラスのはめ込まれた窓が一つ開け放たれている。メグを先頭にしてそこから中に入る。一階はがらんどう。光が差し込み床に点を打つ。空気は外より張りつめていて、しかし風が遮られているから、体感は暖かい。鍵につけてあったLEDライトをユーダイが灯す。床のタイルがところどころ割れていたりはがれていたりするのが見える。きっと地震がそうしたのだ。こんなところで大きな揺れに遭遇したくはない。ユーダイの不安を掻き消そうとするように、円柱が何本も立っている。メグが言う。最上階に行くよ。メグは迷いなく階段を見つけ、その闇の中を上っていく。ユーダイとギリコはためらって互いの表情を見る。こんな顔をするのはどんなときだろう。もう腹いっぱい食べたというのにトンカツなりステーキなりが出たとき。「きみが来ないと明かりがないでしょ」メグが上の階から言う。ギリコが闇へ溶けていき、ユーダイもそれを追う。ユーダイの明かりがメグの背中を照らす。メグはユーダイに先頭を譲るつもりがない。手ぶらで闇をかっ裂いて進む。建物は高い。ユーダイが尋ねる。

「どうして急にこんなことしようと思ったんだ?」

「急じゃない」メグの答えには腹立たしげな調子がある。——前にも来た」

 反時計回りの回転を何度繰り返したか、誰も数えていない。三人が三人とも息が上がっている。階段が果てる。すぐ正面に円柱。その右奥、方位で言えば北東のほう、建物の中央に当たる位置は吹き抜けになっていて、のぼりとくだりで一対のエスカレーターが設置されている。吹き抜けのさらに東に四本の柱があって南北に並んでいる。三人は吹き抜けが正面に見える位置へ歩く。さっき正面にあった柱のうしろに隠れていた三本の柱が見える。だからこの階には合わせて八つの柱がある。規則的に並んだ八つの円柱。それはまるで神殿のような景色だ。祭神は何だろうかと誰とはなしに思う。冥府に降りたペルセポネ、イシュタル、イザナミ。それら死と再生の女神たちこそふさわしいんじゃないか。あるいはインドラ、ゼウス、わかりやすく言って雷様。ここまで昇ってきた高さを思えば、それらの神々もまた適任と思える。だってここはこんなにも明るい。ギリコはこの場所の往時の姿を思う。

 フロアの南東はゲームコーナー。古びた筐体が肩を寄せ合いかまびすしい電子音。平日の昼間だというに小学生に見える子どもらがいて、めいめいに遊んでいる。自販機とベンチが並んでいるあたりを越え、吹き抜けの向こうは催事場だろう。大人たちはみなそちらにいてひどく混雑している。なんらかの物産展をやっているのだろうけれど、それが北海道であれ九州であれ、百貨店の物産展である以上扱っているものは大同小異。ギリコが物思いから帰ってくるとメグもユーダイも彼の横にはおらず、ゲームコーナーの方でクレーンゲームの筐体に張り付いている。

 メグが筐体の中の馬を指して言う。「見て、これ。ダズリー」少女漫画のような目が付いた白い馬のぬいぐるみ。これ取ってとメグがユーダイに求める。自分でやればいいとユーダイは断る。

「駄目だよ。わたしクレーンゲームやったことないもん」

「なら教えてやるけどさ、こういうのってそうそう取れるように出来てないんだ。確率機っていってアームの狙いが正しくても勝手に放しちゃう」

 機械のくせにかわいいじゃん。メグが言う。

「取って」

「いくらかかるかわかんねぇよ」

 ユーダイは百円玉を投入する。UFOを模したアームが湿度の高い日の惑星みたいにギラギラときらめく。二つの軸を合わせた後、アームが緩やかに降下する。あまりにも慎重で、不発弾の処理を思わせる様子。ハズレ。白い馬は後ろ脚をわずかに上げただけで再び重力になびく。メグが言う。もう一回。

ハズレ

ハズレ

ハズレ

ハズレ

財布の百円玉が尽きたのでユーダイは仕方なしに両替をする。映画を見た後だから手持ちはさほど残っておらず、紙幣は千円札がただ一枚。両替機の挿入口にあてがったところでそれが旧札だと気付き、惜しいような気がする。千円札が飲まれていって十枚の百円玉になる。

 数の子。バター。イクラ。カマンベールチーズ。白い恋人。ジンギスカン。夕張メロン。ホタテ。羅臼昆布。ズワイガニ。紅鮭。その他、大部分は食品。わずかばかりの非日常感で彩色された生活の空気の中、黒山の人だかりが我を忘れている。その楽しげな表情と来たら! たかだか二十年前には、形ある物の消費が娯楽の中心だったのかもしれない。メグにはわからない。九十年代のフィクションは好きだけれど、彼女の知る二十世紀の姿は、せいぜい百二十センチにも満たない背から見たものだけ。メグは壁によりかかっている。非常口の誘導灯が緑色。メグの右手にシャボンダマが座っていて、彼女以外の誰にも見えていない。メグが言う。

「過去が必要なんだね、きっと。たくさんの過去。ここはそういう場所。過去を燃やした灰がことばだ」

 シャボンダマは答えない。メグはそれでも話すのをやめない。堤防を越え、田畑を浸し、家屋の中に入り込んで生活を無秩序にする、有害で放埓なことばの濁流。真木メグはそういう存在だ。メグはそう思う。

「言った通りでしょ? ギリコ、あの子がいれば渡れる。あの子には誘導灯の適性がある。でもどうしてあの子なの? 過去が必要だっていうのなら、あの子はあまりにも不適当だと思う。十代の終わりになってやっと物心ついたって感じ。あの子の中に何がある?」

 シャボンダマは歯を見せてあくびをする。唇がめくれて歯茎が見え、いかにも草食獣らしい匂いが漂う。わかりよく言えばホームセンターの園芸コーナーのにおい。

「蚤虱馬の尿する枕もと——所詮畜生か。ひどいな。わたしここを去るときはあんたみたいなブサイクじゃなくてダズリーに見送られたかった。ダズリー、知ってる? ユニコーンだのペガサスだのを集めたアメリカのおもちゃがあってさ、そのシリーズに白いポニーがいるの。小さな頃のお気に入りのキャラクター。でもいかんせんマイナーで、幼稚園の子たちは誰も知らなかった」

 メグは固く握っていた右のこぶしを開く。さっき試食品としてもらってきた白い恋人が一つ。

「わたしは注意深いから、こういう場所で何かを口にするということの意味を知ってる。神話的な想像力というのは、ヒトという種の本能の投影。だから神話的な空間における限り、わたしときみは動物どうしの資格でお話しできる。ねえ、わたし優しいからバイバイする前に教えてあげるんだけど、きみの大好きなユーダイくんの本当の好みはね、わたしでも、もちろんきみでもなくて、あの子」

 メグは吹き抜けのほうを指差す。ギリコが吹き抜けの下を覗いている。一階が見え、ひとびとがせわしなく往来しているのだ。シャボンダマははじめてメグのことばに反応する。長い耳がメグの方を向き、横長の瞳孔がメグの方を向く。メグは菓子を飲み下す。直後、美しい真っ赤な血が彼女の鼻からこぼれ、とっさに受け止めようとした手と袖を染める。メグの正面を祖母が通りかかる。と言っても、まだ白秋のはじめ、六十代の姿。メグの視線が彼女に吸われる。

 「取った!」とユーダイの叫び。抱き上げてみるとデフォルメが中途半端で不気味だ。メグがなぜこれを欲しがるのか、ユーダイにはわかりかねる。振り返るとメグはいない。そればかりかギリコも。ユーダイの腕の中で、馬のぬいぐるみが小刻みに震える。その震えを感じてその表情を見る——いや、恐ろしく思って見たのじゃない。ただ震えると思っていないものが震えたから、意識するより先にからだが動いた。と、そのぬいぐるみは息をしている。また一つ大きく震え、数が増える。メグがダズリーとよぶ馬のぬいぐるみは、二体、三体、五体、八体と数を増やしていき、ユーダイの腕からこぼれ落ち、床の上を四方八方へ駆けていく。ユーダイはそいつらを捕まえなければならないと思って、ともかく正面へ走り去った一体を追う。馬のぬいぐるみはゲームコーナーを抜け、自販機の前を越え、催事場の雑踏の中を縫って進み、ユーダイはそいつを見失う。いますれ違った一人、ユーダイはその人に見覚えと懐かしさを感じて足を止める。縮れた髪と丸眼鏡。しかし歳は最古の記憶よりなお若く見える。その人はどこへ? 叫ぶ。

「待ってよ! 行くな」

 駆け寄ってきたのはギリコ。どうしたのと尋ねられる。ユーダイは困惑しながら答える。何でもない。ただ、親戚に似た人がいたから。それからギリコに尋ねる。

「メグはどこ?」

「メグって?」

 馬鹿なこと言うな。ユーダイはそろそろ電池の残りが不安になってきたLEDライトを四方へ向ける。どの方向も闇。少女の姿は見当たらない。ただ白い馬のぬいぐるみが一体落ちているのを見つけて、ユーダイはそれを拾い上げる。

グラグラグラグラ

と大地がわきたつ。揺れはすぐ大きくなり、立っていられないほどになる。ユーダイはギリコに覆いかぶさって彼をかばう。

 ギリコは吹き抜けの下を見下ろしている。一階が見える。人々がせわしなく往来している。「待ってよ! 行くな」ギリコはユーダイの声を聞いて振り向く。催事場は物産展で賑わっていて、その人込みの中にユーダイを見つけることはできない。足元へ歩いてくる白く小さすぎる馬。ギリコはそれを抱き上げる。

 その日、それから、黄色い雲が町中を覆った。気が滅入るほどの黄色い雲。

 語りの順序が入れ替わるというのはよくあること。メグもそんなふうにして語った。彼女の場合、時間も、場所も、出来事の筋も制約にならなかった。そういう意味において、メグは全知全能に似ていた。今は二月。ユーダイは大槻の嘉さんの許を訪ねる。ユーダイがバスでギリコと会った日の、その後。

 ユーダイが慣習的に嘉さんと呼んでいる人物は、母と同年代か、もしかするとそれより若い女性だ。十代半ばになって一般的な親族関係という概念を手に入れてから、ユーダイは嘉さんが彼の知るどんなことばにもぴたりとは当てはまらないことに気づいた。だからといって尋ねることは気が引けた。父の愛人というやつかと思ってもみたけれど、父がそんな関心や欲求を持つとは思われないし(強いて言うなら家畜たちが彼の愛人だった。長い冒険から帰ってきた後のガリヴァーみたいに、父は家よりも厩舎を愛した)、嘉さんもまた門馬という姓を持つことがこの解釈を苦しくしていた。それでなんとなく、親戚ということばの埒内にはあるのだろうと考えるようになった。考えることを放棄したと言ってもいい。

 地震の前、嘉さんは門馬家から歩いて五分ほどの距離に一人で住んでいた。国道に面した白い家だ。その地域というのは、浪江の市街から西に数キロの紛れもなく山の中。だから門馬家からそこへ行くには、両脇に草木の生い茂る細い道を降りていかなければならなかったし、その白い家は文明が滅んだ後の石碑みたいな荘厳さで孤立していた。地震の前にあの国道を通ったことがある人なら、白い、異様なほど庭の整った家が、車窓を流れていくさまを記憶している。そここそがユーダイの記憶の踊る場所。

 ユーダイは幼いころから嘉さんの家に足繫く通った。泊まっていくことも稀でなかった。その理由というのは、嘉さんが所蔵していたビデオテープ。さまざまなビデオテープがあった。DVDもあったけれど、VHSのほうがはるかに多かった。嘉さんという人は少なくともユーダイにとっては職業不詳で、いついかなるときも庭の手入れをするか、それらのビデオテープを鑑賞するかして過ごしていた。夜が来るたび、ユーダイと嘉さん、それとデヴィッド(猪に襲われないよう、日が落ちる前に屋内に入れていた)が大きなブラウン管の前で横一列に並び、照明を落とした。

 郡山に移ってからの彼女の家は大槻にある借家。便利さと静かさを兼ね備えた場所には違いないけれど、門馬家のアパートからは遠い。外気温は一度。だというに嘉さんはユーダイを外で待っている。杖をつき、空の犬小屋を見下ろしている。それを見て、ユーダイは声をかけづらく思う。デヴィッドは死んだ。嘉さんがたった一人で借家を借りる理由になったところのセント・バーナード、忠犬デヴィッド公は死んだ。北風が強く吹く。非難すべき人格があるかのように、嘉さんは不満げな表情で風上を見る。ユーダイと目が合う。やせ型、背は低く、まるで似合っていない鯉の刺繍のスカジャン、丸渕の瓶底眼鏡、ゆるいパーマがかかった髪はすっかり銀になった。ああ、いたの。彼女の呼びかけに、ぼーっとしちゃってとユーダイは答える。嘉さんが言う。わかるよ、俺も最近はぼーっとすることが増えたから。嘉さんは歳のわりに共通語めいた話し方をする。そのくせ一人称は頑なに「俺」。

「これが食糧。こっちが日用品。で背負ってる荷物がお米」

「重かったでしょ」

 いいのいいのとユーダイは答える。郡山へ越してきてから、嘉さんは急に歩くのが難しくなった。それでこうやってユーダイと母が代わりに買い出しをする。母と嘉さんの関係は露骨に険悪というわけじゃないけれど、よそよそしく事務的で、だからユーダイは嘉さんが父の愛人なんじゃないかという妄想をしもする。できることなら嘉さんのことは自分一人に任せてほしいと思う。

 荷物を運び込み戻ってきても、嘉さんはまだ空の犬小屋の前で突っ立っている。これを建てたのはユーダイ。犬小屋は一種の建築だ。犬小屋は犬が死ぬ日まで仕事をする。だからこれは既に仕事を失った、犬小屋の廃墟。「お仕事、順調?」と嘉さんが尋ねる。思考に引きずられ、人の廃墟というイメージが浮かぶ。

「悪くはないっす」

「職場の人はやさしい?」

「どうだろ。会話のとぼしい職場だから」

 そう。嘉さんはそう答えて黙る。倉庫整理の夜勤で、実際、静かで無機質な職場だ。

「でもお友達はできたんでしょ?」

「職場の外でなら」

 ユーダイはメグのことを考えて答える。それならよかったと嘉さんは自分事のように安堵する。嘉さんは言う。

「俺は若い頃こっちに住んでたこともあっけど、ユーちゃんにとってはまるで知らない場所でしょ? そんなところに放り込まれて、ユーちゃんがどうなってしまうか、心配で」

「大袈裟っすよ」

 ユーダイは北風を肌寒く感じる。嘉さんのやせ細ったからだでは自分以上に寒く感じるのじゃないか。中入りましょうよ。ユーダイが言うと嘉さんは彼とほんの少し目を合わせ、それから言う。

「ごめんね。そういう気分じゃない。デヴィッドが死んでから、この家がどうしようもなく広くなって、それで——

「でも風邪ひきます」

 嘉さんは不穏なほど不安げな表情でユーダイを見る。

「それで、ユーちゃんのことが心配になるのね。だって、あのお馬さんのことすごくかわいがってたでしょ。なんて子だっけ?」

「シャボンダマです」

「そう、シャボンダマ。きれいな子だった。ほんとうにきれいな子だった。ユーちゃんより二つか三つ年上でね。ユーちゃんは生まれてからずっとあの子といた」

「だから、どのみち寿命だったんですよ。馬なんだから」

 ごめん。嘉さんが言う。ユーダイはいらだつ。ユーダイは謝る理由がないのに謝る行為が嫌いだ。謝らせることも。嘉さんは続ける。

「俺が何を言いたかったのかっていうと、つまり、浪江から急にこの町へ放り込まれて、ユーちゃんがどうやってユーちゃんでいられるのかわからないってこと。継ぐつもりだった田んぼも、ずっと一緒にいたシャボンダマも、失くしてしまったから。でもユーちゃんは強いね。若いからかな? 反対に、俺は駄目そう」

「駄目ってどういう意味です?」

 ユーダイの声の調子は強い。人が駄目になる、そういうこともあるのかもしれない。父は実際そうなった。人の廃墟。しかしそんなことは考えるだけで忌々しく、まして嘉さんが言い出すのは受け入れ難い。嘉さんは強い人でなければならない。北風が強い。ストーブが恋しい。

「今度泊まりに来ます。ほんとうはこのまま泊まってきたいけど、今夜は仕事なので。見たい映画があって、嘉さんなら持ってるかなって」

 何が見たいのと尋ねられる。ユーダイは実のところ答えを用意していない。メグがした話を思い出す。

「俺にそっくりな俳優がいるって友達が言うんです。何て言ったかな。歌手が本業で——

「ボウイだ」嘉さんが言う。

「デヴィッド・ボウイ。うちのデヴィッドはそのデヴィッドから取った。俺もね、ユーちゃんが大きくなるにつれて段々ボウイに似てきたと思ってたの」

「持ってます?」

「もちろん。ボウイの出演作は手に入る限り集めてあるから」

 それじゃ通わなきゃいけませんね。ユーダイが言う。嘉さんは微笑んでいる。嘉さんは微笑んでいる。

「でもユーちゃん、いいの? お仕事してるんだし暇じゃないでしょ」

「いいんです。こっちに来てから不思議と体力が付いたみたいで、ほとんど寝てないくらいだし。それにそろそろ免許取れるんです。そしたら買い物ももっと頻繁に頼んでもらって——

 レールが十対、二十本も並ぶ長い踏切。厳密に言うとその踏切は二つの部分から成っていて、ギリコは東側の踏切を横断しつつある。郡山駅のすぐ南にある車両基地だ。踏切の南側に車庫があり、何本かの線路はその中へ続いている。走っているところを見たことがない、どこか遠くから来た列車が屋根のない場所に停めてある。この場所では車両基地の引き込み線と、東北本線、それと東北新幹線が並走している。さっきギリコが通ってきた東の方向に新幹線の高架がある。晴天が今日もなお続いている。まだ明るい午後だ。ギリコはイオンからの帰り。次の配信に向けて衣装を探していたけれど、結局何も買わなかった。水着事件以来、配信をおそろしく感じている。まだ横断しきらないうちに警告音が鳴りはじめる。東側の踏切を渡り終えたところで、背後の遮断機が下りる。前方のもう一つの踏切もまた警告音を発し、いままさに列車がやってこようとしている。ギリコは二つの踏切の間に閉じ込められる。列車が目の前と背後を走り抜けていく。列車の音が馬のいななきになる。

 暗い厩舎の中。ギリコはこの場所を知っている。白い馬に近づく。馬は興奮しているけれど、ギリコの姿を認め次第に落ち着いていく。馬の頬に触れる。馬の黒く大きな目に彼の姿が映る。ギリコはその目を借りて自分を見る。馬が見るギリコはギリコではない少年の姿。少年はギリコよりずっと幼く十代のはじめに見え、陰影がありいくらか面長で、彼自身馬に似ているかもしれない。ギリコは困惑する。しかしその困惑は宙に浮いている。いま感じていることばにできない情動、というよりもっと未分化な快、これは何だろう。それはこの少年と関係しているんじゃないか? それは実のところ、この馬が感じていることなんじゃないか? もしそんなことがあるとすれば、何か。家畜の安逸、支配されるここちよさ、とか。ギリコの意志と関係なしに、少年は馬の頬を撫でる。少年は言う。まだ声変りを迎えていない声。

「シャボンダマ」

 外が白く明るく光る。雷鳴が轟く。ギリコは仰天し、全身の毛が逆立ち、怯え、叫ぶ。その声はギリコのものじゃなく、獣の声。存在は透明になって厩舎の外にある。雨の中でシャボンダマが火だるまになってもがいているのを見下ろす。

 薄暗くほこりっぽい、ここは、狭間家の居間。狭間倫がソファに寝転がり、腹の上で開いたノートパソコンで写真を見ている。見ているものはこれまでのギリコの女装。ギリコが着たものは全て撮りためてある。どの写真でもギリコは中庭に立たされ、下手なスマイルでカメラを見ている。ギリコが帰ってきてソファの空いているところに座る。母は足をかがめて場所を作り、尋ねる。どんなの買ったの?

「ううん。結局、買わなかった」

 ギリコは母が残念そうな表情をするのを見てとる。女装に関する限り、彼女もまた画面の向こうの人々かもしれない。

「ギリコ、今月はまだ配信ってのやってないね」

 よく見ているなと思う。母は配信が何かわかっていないのに。

「疲れるんだよ、あれ」

「それにこないだはよそへ遊びに行った」

 母の言い方は子どもみたいだ。ねえ、ギリコ。母は粘っこく呼びかける。ギリコの膝に重い足をのせる。それからノートパソコンをローテーブルの上にどけて、身を起こし、ギリコに抱き着く。桃色の声を出す。

「お母さん、いじわるされたら悲しい」

 外気温は今季最低、ということは氷点下十度前後で、しかも風が強い。地吹雪がやすりのように感じられる。たった数メートル先の景色が定かでなく、ヘッドライトの存在に気づいたときにはバンパーが手の届く近さまで迫っている。

 この部屋は壁も天井も黄色い。ユーダイとギリコとメグはカラオケの一室にいる。メグの発案だ。ユーダイは彼女にも案外理性があるのだなと思う。今日のような日にいつものような場所で集まれば、三人して凍死しかねない。エアコンの乾いた風が温かいけれど、むしろ隣に座るメグの肩や太ももが時折触れることのほうに幸福を感じる。ユーダイはナポリタンを不器用に啜っているところ。ここへ来るまでの寒さのせいでやたらとお腹が空いていたから、神も仏も本気にしていないなりに祈りのような感情が生じて、味覚の満足に先立つ。テーブルの上には彼のナポリタンの他にも大学芋だのマルゲリータだの揚げ物プレートだのが並んでいる。メグがマイクを握り『残酷な天使のテーゼ』を歌っている。テーブルを挟んで向かいの席でギリコがタンバリンを叩いている。九十七点を背にしてメグがこちらを見る。次の予約、誰? ユーダイがマイクを受け取る。デジモンの『Butter-Fly』のイントロがかかる。彼に代わってメグが食事を始める。マルゲリータを几帳面に六枚に切り分け、一枚を自分の口へ運ぶ。ユーダイとメグは歌いに来たのだか食事しに来たのだかわからないところがあるとギリコは思う。猛烈に食べ、猛烈に歌い、それでいて少しも気持ち悪くなる様子を見せない。もともとの体力が自分とはまるで違っている。メグが言う。

「ってことはさ、そいつらやっぱりギリコが性的に好きだったんだよ。そうでもなきゃ男が男のお尻触ったりしないって。ユーダイもそう思うでしょ?」

 メグは歌っているユーダイに尋ねる。ユーダイは構わず歌い続け、間奏に入ってから答える。マイクを握ったままだから声にエコーがかかる。

「わかんねえよ。運動部にはそういうノリの連中もいる」

「でもそれって性欲なわけじゃん?」

「偏見が過ぎるっしょ。甘えたいだけだって」

 そういうもんか。メグは二切れ目のマルゲリータを頬張りながら低く言い、立って歌うユーダイの尻を平手で叩く。固そうな音がする。目の前で露骨なスキンシップをされてギリコはむずがゆい思いがする。マイクがメグに返り、『おジャ魔女カーニバル』を歌う。こんな魔女見習いがいたら、力強過ぎてちょっといやだ。おどけた歌詞と裏腹に短調のメロディがメランコリックに響く。ユーダイの歌唱力が全然平凡な一方で、メグのそれには目を見張るものがある。声量。癖のある声質。音域はアルトでギリコとほとんどかぶっている。しかしときどき、ギリコには到底出せそうにない細いファルセットを使う。ギリコが言う。

「甘えるってよくわかんないな。それって子どもが親にするものでしょ」

 食えよ。ユーダイに促されてギリコは大学芋を一つつまむ。正直なところもう胃に余裕がない。

「そうとも限んねえべ。一般に大人のほうがよほど甘えてると思う。ただ甘え方が巧緻だから、幼児のそれほどわかりやすくないってだけ」

「きみも甘えるの?」

 ユーダイは顔を赤くする。

「言わせんな馬鹿。お前らに甘えてるから、こうやって一緒にカラオケ来てる」

「となると、ますますわかんない。きみは甘えないと思ってたから。甘えるって、つまり、好ましいと思うきもちを期待して誰かを頼り、支配されて心地よくなること。そうだよね?」

「辞書にはそう書いてあっかもしんねえけど。でも、露悪的っていうか、いいものたりうることを無視してる」

「ぼくはきみとメグに甘えてる?」

 そうに決まってっぺ。あんまりあっさり受け入れられたので、今度はギリコが顔を赤くする。慣れていない。

「ぼくが出た高校って、定時制の、割と特殊なとこでさ——

 ビッグアイの中層階にある高校。ビッグアイは郡山駅西口にある官民複合の高層ビルで、思うようにテナントが集まらなかったから高校が入った。

「そういう高校だったから、生徒も相応に特殊だったわけ。特殊ってのはオブラートに包んだ言い回しだけど。ぼくも長いこと不登校だったし。だからあの子たちは歳のわりに子どもで、甘え方が下手だった。上手い間合いがわからず、行き過ぎた期待をし、過剰に支配されようとした。そういうことなのかもね」

「お前は案外大人だよ」

 ユーダイが予想外のことを言うのでギリコは注意を引かれる。

「中学生か、もしかすっと小学生じゃないかって思ったんだぜ。でも、確かに世間知らずだけど、人の思ってることや考えてることをよく見てるし。文学文学した小説の主人公ってそういうとこあるよな。自分を観察者として世の中に位置づけてる感じ」

 小説読まないからわからないな。ギリコの答えに、ユーダイはそんなとこだと思ったとだけ返して揚げ物をつまみ、歌うメグを見ている。今度は九十八点を背にしてメグが言う。

「ギリコ全然歌ってないでしょ。歌いなよ」

「でも、ぼく何も知らない」

「知ってるのでいいんだよ。音楽の授業でやったのとかさ」

 ギリコは『しろくまのジェンカ』を歌う。彼から奪い取ったタンバリンをメグが愉快そうに叩く。

「わたし、これ踊らされたな。どうやるんだっけ」

 横に座るユーダイがメグの肩に手を置く。

「こんな風にしてさ、電車ごっこの形でステップ踏んでくんだ」

 ユーダイはその姿勢のままメグを立ち上がらせる。二人はステップを踏んでテーブルの周囲を繰り返し回る。曲が終わり、二人がハイタッチをする。ギリコもハイタッチを求められる。こんなことで盛り上がるのはあまりに馬鹿馬鹿しく、心地がよい。ギリコの掌が、わずかに汗ばんだ二人の掌に触れる。ユーダイが気志團の『One Night Carnival』を歌う。テーブルの上の料理はもう食べつくされていて、メグがフロントに追加の注文を入れる。ユーダイは続けて『only my railgun』を歌う。ギリコはこの曲を高校の文化祭で聞いた気がする。ポッキーといちごクリームのクレープ、フライドポテトの二倍盛が届く。メグが『ハレ晴レユカイ』を歌う。ギリコはこれも文化祭で聞いた。二人と自分は思っていたよりはるかに多くの背景を共有しているのかもしれない。だとしたら、嬉しい。

「あっ、ギリコ、駄目——

 メグが叫ぶ。メグは歌っている最中だった。

「飲んじゃった?」

 ごめん、気づかなくて。そう言ってから、ギリコは彼女の焦りの原因が間接キスじゃないことに気づく。そんなことならメグは気にしない。果汁0パーセントのジュースだと思って飲んだ半透明のそれは、アルコールの味がする。アルコールの味なんてもの、自分はいつ知ったのか。ユーダイが言う。

「あーあ、バレちゃった」

「きみも飲んでたわけだ」ギリコが言う。だからユーダイは妙に陽気だった。

「お前も飲む?」

 やめなって、とメグ。「ギリコまで悪の道に引きずり込まないで」

 ギリコは頬が温かくなるのを感じる。原発は核分裂でお湯を沸かしタービンを回します。一口でこうも温かくなるのは、お酒が強いのか、それともぼくの肝臓が貧弱なのか。ギリコはグラスの中の酒を飲み干す。味と名前が対応しているのなら、梅酒というやつ。メグが慌てる。「ちょっと、大丈夫? 倒れない?」ユーダイが言う。「水飲めよ、水」

 ギリコはただなんとなく心地よさを覚えたまま、ユーダイの隣に移り、彼の肩に頭をもたせ、それから——よく覚えていない。ギリコのまどろみは十分だったかもしれないし、三十分だったかもしれない。しかし九十分には足りなかった。眠りの単位は九十分だという胡乱な話がある。だからギリコが経験したのは眠りの欠片。

 メグが『女々しくて』を歌っている。ギリコは目を覚ます。ユーダイは向かいの席、ギリコが元いたほうに移っていて、うつらうつらしている。ああ、起きたかとユーダイが言う。

「あんな風に飲んじゃなんねぇよ。急性アルコール中毒ってのがあってな」

 そう言うユーダイの顔も随分赤くなっているように見える。ユーダイは言う。

「なじょしてあんな風に飲んだの?」

「一人だけ仲間外れにされるのがいやだったから」

「そうは言っても飲み方ってものがさ」

「あんたが誘ったんでしょうが」エコーのかかったメグの声。

「気持ち悪い。ぼく、トイレ行ってくる」

 ギリコは吐いた。便器の中の吐瀉物からアルコールの匂いがした。それで胃が軽くなると、この場所の不衛生さが気になり、手を洗ってそそくさと廊下へ出る。廊下の両側に部屋が配置されていて、人々の歌う声がくぐもって聞こえてくる。部屋と比べると廊下は寒い。鋭い頭痛を感じる。一方で、酔いというやつはこの寒さのせいで急速に覚めていきつつある。ギリコは廊下の突き当りまで歩く。窓の結露をぬぐってやると、西の内の交差点が見下ろせる。こんな瞬間が前にもあった気がする。外はまだ吹雪いていて白く明るいけれど、車通りの少なさから、夜が深まりつつあるとわかる。今日のような日は初めてだとギリコは思う。今日のような日が終わらずに続けばいい。外がどれだけ吹雪いていても、ぼくたち三人は暖房の効いた建物の中で身を寄せ合い、楽しいことと美味しいものに囲まれていればいい。しかしぼくはこんな瞬間を前にも経験したことがある気がする。それはいつ? もしかするとそれは、今この瞬間だったんじゃあるまいか。だとすれば、この瞬間は時の流れのどこに位置づければよいのだろう。

 ふと、ギリコは何か大切なものを失ってしまったんじゃないかという不安に駆られる。あの嘔吐は何か象徴的な嘔吐だったんじゃないかと思う。そんなのは馬鹿げている。ぼくは象徴の世界を生きているわけじゃない。

 ギリコは駆け足で部屋に戻る。メグがおそらくは二度目の『ハレ晴レユカイ』を歌っている。ユーダイはソファに仰向けに寝転がっている。見る限り、何も失われていない。何も変わりない。ギリコは安堵する。ポテトちょうだいとユーダイが言い、ギリコは長いのを選んで彼の口に差し込む。ユーダイはヤギが草を食むようにしてそれを食べる。わかりやすく甘えている。ギリコにマイクが渡り、今度はさほどためらいを感じず『エーデルワイス』を歌う。小学校でしつこく歌わされたから、校歌よりこちらのほうがすらすらと歌える。ユーダイが『情熱の薔薇』、『リンダリンダ』、『人にやさしく』、『月の爆撃機』、『1000のバイオリン』を続けて歌う。声が枯れているのが却ってよい。三人で『ウルトラソウル』を歌う。ギリコは音楽というものを全然知らないけれど、この曲はサビだけなら聞き覚えがある。残ったものを黙々と食べる。

 わたし、最後に歌おうかなとメグが言う。メグが入れた曲のタイトルは英語で、ユーダイとギリコにはその意味するところがわからない。しかしユーダイにはそのメロディが組曲『惑星』より「木星」だとわかる。よくテレビで聞くやつとは違う。伝統的な歌詞というものが別にあるのかもしれない。メグの澄み切った歌声は今までの疲れを感じさせない。

「すげーよかった。どういう内容?」ユーダイが尋ねる。

「軍歌の親戚」

 軍歌と言えば『同期の桜』、ユーダイはそう思う。『同期の桜』のじめじめした世界観はどうしたって「木星」と結びつきそうにない。

「くだらない帰属意識を煽るくだらない歌ってこと。ただ困ったことに、そういうものはしばしば怖いほど魅力的なんだな」

「キゾクイシキ?」ギリコの知らないことばだ。

「自分が何かに属してるって物語。居場所の物語。さっききみたちは甘えの話をしてたけど、それがいくらか浮き足立って、抱き合うからだを失ったとき立ち上がるのが、それ。わたしたちの失敗の、一つの可能性。きみも、わたしも、そういう危機に瀕する」

 そういうきもちの取り扱いには気を付けようとメグが言う。メグがそう言うと、きもちというものが瓶に入った薬品のように、取り出したり、仕舞ったり、あるいは買ったり、売ったりできるもののように思えてくる。瓶詰の今が売られていればいい。

 会計は一万二千円。ユーダイがすべて払う。それでいいのかとギリコが尋ねる。ユーダイが答えないうちにメグが答える。「収入があるやつに払わせる方が無理ないでしょ。それに今日は、わたしの誕生日」ユーダイは嫌そうな表情をするわけでもない。そんなものかとギリコは思う。外の吹雪は既に収まり、北風に飛ばされてきた細かい雪が散るばかり。そういうときの空気のにおいが、ギリコは好きだ。メグが街灯の下を、『サンタが街にやってくる』を歌いながら行く。ギリコの横を歩くユーダイが言う。クリスマスは一昨日だったんだけどな。ぼくはユーダイが好きだ。ギリコはそう思う。

 倉庫の空気は乾燥している。在庫より労働者にやさしい環境であってくれとユーダイは思う。目も鼻も喉も痛い。二十五時の時報が鳴り、今日の勤務がようやく終わる。実際の労働時間は七時間。しかも休憩もあったのだから、特別長いというわけじゃない。とはいえ不安を抱えながら過ごす七時間は、十時間とも二十時間とも感じられる。ユーダイはロッカールームに急ぎ、携帯を取り出す。メールの着信がある。ひとまずの安堵。それから、それを読むことへのためらい。そのメールは、自分を落胆させるかもしれない。そのメールは、自分を絶望させるかもしれない。だけれど、これを読まなければ事態が進展しない。

 ユーダイはギリコからのメールを隅々まで読んだ。ひどい日本語で、ところどころ意味を取るのに苦労した。十分な教育を受けていそうにない奴だとは思っていたけれど、そういう人の書くことばがどのようなものかについて、想像力がまるで及んでいなかった。ギリコのメールの趣旨は次のようなものだった(と、ユーダイは読んだ)。一、自分は真木メグという人を知らない。二、しかしその人とは夢で会ったことがある。馬鹿馬鹿しさのあまりユーダイは携帯を床に投げつけたくなるけれど、壊してしまってはいけないから、代わりにロッカーの扉を思いっきり蹴り飛ばす。アルミの扉がユーダイのきもちを汲んでへこみ、爪先の痛みでわずかに気がまぎれる。

 真木メグは消えた。行方不明になったというのじゃなく、忽然と、存在しなかったことになってしまった。ありえない事態だけれど、世界は本当にそうなっている。廃ビルに忍び入ったあの日が、この世界にメグが存在した最後だ。

 ユーダイはメグを探し出さなければならないと思う。メグがどんな理屈で、どんな力で隠されてしまったのか、とんと見当が付かない。メグに会って、問いただしたい。どんな不可思議な力も、彼女なら説明できる。メグはそういう自信に満ち溢れていた。

 ユーダイが携帯をしまおうとするところで、ギリコからさらにメールが届く。メグと会う方法に心当たりがあると言う。

 薄暗い、ここは、ギリコの部屋。白い蛍光灯が灯る。ディスプレイの裏に設置してある撮影用の照明も灯す。手元には発泡スチロールの板が角度をつけて置いてあって、これが天井から落ちる明かりを反射し下からの光源になる。準備は万端。光の中。机の上のデジタル時計が二十二時を表示する。ギリコは今夜の配信を始める。

モイ!

 今回の衣装は母が選んだもの。ギリコは服飾の語彙に乏しい。しかし母の選んだこの服は、オオスカシバに似ている。オオスカシバ、透き通った羽を持つ、スズメガのなかまで、黄色い体色。世界についてのギリコの知識は、幼い頃に父が買い与えてくれた『ニューワイド 学研の図鑑』シリーズに由来している。蜜を吸うオオスカシバを横から捉えた写真。胴が太く、小鳥のようにさえ見える。しかしこの服を選んだ母は、オオスカシバを知らないだろう。ギリコにはそのことがひどく不幸に思える。水着を送り付けてきたあの視聴者が今週はいないらしい。あるいは、いても大人しくしているのか。

 夢の話をしようかな。将来の夢じゃなく、眠ってるときに見る夢

 場所はきっとぼくの生活圏なんだけど、夢だから、まるで違う

 ほんとうはないファミレスがあったり、あるいは、国道に出るのに歩道橋を渡らなきゃいけなかったり

 反対に、あるはずのものがないこともある

 変な話だけど、体が欠けてたりね

 胃が無かったんだ。見えないのにわかった

 心地よいことじゃないはずなのに、ぼくの感じ方は違った

 すごく清潔になったように思った

 食べることから解放された! っていう興奮

 本当に見た夢では、ギリコはもっと多くのものを失っていた。脳や肺も無かった。あるいは指や唇、乳首、性器、肛門を失っていた。その体はきっと粘土をこねて人形を作るときの最初の段階のように見えただろう。その体はあまりに清潔で、あまりに心地よく、あまりに外の世界から切り離されていた。しかしそんな話をするのは破廉恥なことに思える。食欲は比較的穏当な話題のように思うから、この配信では、ただ胃の喪失だけを明かす。

 こんな夢も見たよ

 ぼくは学ランを着てた。本当は着たことないんだ

 場所は高校だった

 そう、前にも話した、ちょっと特殊なとこ

 (ギリコは話をぼかす。高層ビルの中に入った高校など、そういくつもあるものではない)

 車椅子の女の子がいた。この子は実在

 建物の中に段差がないし、エレベーターがあるからね

 そういう理由でその高校を選ぶ子も、珍しくない

 それでね、夢の中では、その子の顔も体格も、ぼくと瓜二つなの

 黒い服を着ていて、カミサマトンボみたいだった

 「カミサマトンボ」という項は、『ニューワイド 学研の図鑑』には立っていなかった。薄暗く水の綺麗なところに住む、羽の黒いトンボだ。そういう場所というのは大概、田んぼの用水路の水神様の林。だからあのトンボをカミサマトンボと呼ぶのだと、ギリコは思う。

 その夢の中で、その子はぼくだった

 『前の配信で着てたみたいなやつ?』とコメントが付く。ギリコはそれを読んで初めて、自分がその夢に影響されていたと気づく。夢と配信のどちらが先かということさえ忘れていた。

 つまりね、ぼくは最近、ぼくじゃないぼくがいるような気がする

 自分のバージョン違いがたくさんいる感覚

 『平行世界仮説だ』『GitHub使いな』『ダイヤモンドとパール』『オカルト系配信者?』『そういうのもあり』『ギッちゃんたくさんいるなら一人くらい持ち帰ってもバレない』『通報しますた』

 そう、そう。本当にオカルト

 だけど今、オカルトの話をするというのはよくないのかもね

 もうすぐ地震から一年だから

 今日は三月六日。まだ誰も、三月十一日がどんなふうにイベント化されるのか知らない。とはいえ阪神淡路大震災や中越地震の例を見るに、テレビはきっと特集を組むのだろうし、終戦記念日みたいに黙禱の時間が設けられるのだろう。イベントは好きじゃないけれど、敬意がある。そして、三月十一日というイベントは、きっと非オカルト的でなければならない。死者や霊と話してはならない。そんな思惟はあまりに厳しさを欠いているから。

 だというに、ユーダイから届いたメールは全く不謹慎な内容だった。ユーダイは真木メグという女の子を探しているのだという。その子はぼくと彼の共通の知り合いで、しかし、数日前に廃墟を探検したのを機に世界からすっかり消えてしまったという。メグという子がユーダイにとってどんな存在なのか、あの混乱したメールだけからでは推測が付かない。しかしきっと、彼を混乱させるに足る程度には重要なのだ。

 真木メグとは誰だろう?

 仮説一、ユーダイのかつての恋人であり、すでに故人。ユーダイは浪江の出身だというから、その子は津波で亡くなったのかもしれない。ユーダイは彼女の死を受け入れられず、彼女の命日が近くなり、錯乱している。この仮説はいかにももっともらしい。ユーダイという人は心理的に不安定なように見えるから。

 仮説二、真木メグはユーダイのイマジナリーフレンドである。ぼくの想像力において理解しやすいのは、こっちだ。ぼくにはイマジナリー用心棒がいる。ユーダイには真木メグが見えなくなってしまったのかもしれない。それは確かに、取り乱してしまうくらいに衝撃的なことだろう。しかし、十九歳にもなってイマジナリーフレンドの実在を周囲に押し付けるのは、行儀がなっていない。

 ユーダイがこんな話を吹っかけてきたせいで、ぼくは配信で夢のことなど語っている。彼のせいで、ぼくの意識は、怪しく不衛生なものに引きつけられている。そういうことばは、口にすべきじゃないのだ。

from: ghiriko@ecxite.co.jp

to: amnom92@dwmail.jp

件名:

ぼくわメグとユー人推しらないでもメグとユー人がぼくときみの虚―ツーの友達だとユーきみの新年わ大事にしなくちゃいけないでもそれわほんとーじゃないきみわその子とお受け入れなきゃならないぼくわメグとユー人推しらないでもぼくわきみに虚―関するなぜならソーユーフーに悲しーとき見放されることわ残酷だ身体ぼくわその巡って人がいなくなったときみがU日の夜からある夢追見てるその夢でぼくわ寂しくて騒がしーところにいる見覚えのある街並みや着たことあると思う所に出るけど掟から思い出してみるとどれも現実庭無い景色ですぼくわ底で女の子に会います女の子わいつも同じ子ですその子がメグ七日わわからない

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件名:真木メグと会う庭

見たいと思った夢追見るホーホーについてkeyたことがありますでもとても難しー話だからぼくわそれ御メールに欠けないいつ会えますか?

 ユーダイは先輩に話しかけられる。その先輩というのは、二つか三つ年上で(ということはシャボンダマと同世代か、とユーダイは思う)、彼と同じ社会階層に属し同じ常識を備えていると見える男。あごひげを伸ばしていて煙草の匂いがきつい。髭の組成はニコチンとタール。携帯を覗き込んでいるのが先輩の気を引いたらしい。面倒な奴だ。早いとこ帰ればいいのにロッカールームで長々話し込み、それをタイムカードに反映させるようなやつ。そういった悪事の全てで共犯者を探しているやつ。換気扇が回る音。梱包材の紙とビニールのにおい。先輩に似ているものは、深夜高く空を指す時計の針の、非生命的な振動。

「女か?」

 いいえ、と答える。でも女みたいなやつですだなんて面倒なこと、こいつと話すときに付け加えるべきじゃない。

「とは言ってもお前ェモテっぱい?」

「そう思ったことはないっす」

 つまんねえなと先輩が言う。それからこうも言う。

「お前ェ、客観視ができてねえんだよ。だから自分がモテることにも気付かねえの。そういうのっていいことじゃないぜ。暴力的で加害的」

 それを聞いてユーダイはどうしようもなく腹が立つ。先輩はいつもそうだ。好きに言わせておくと他者を加害者に仕立て上げようとする。卑劣なやり方。でもこいつはきっと、こうすることが最も応答を引き出せると知ってやっている。反論すれば彼の策に乗せられる。そうは言っても、しかし、俺は馬鹿だ。ユーダイは彼の胸ぐらを掴み、ロッカーに叩きつけ、ひるんだところで顔を真正面から殴り、赤黒く汚い血が流れ、ユーダイの拳にもそれがまとわりつき——

「田舎育ちでそういう機会がなかったからかもしれませんね。高校だって、学年あたり十人とちょっとで、しかも大部分はほんのガキのころから見知ってるんすよ。そんな環境でモテるもモテないもないでしょ」

「想像できねえや」

 先輩がつぶやく。この顔を殴ったらどれほど気持ちいいかと思うけれど、そんなことで解雇されてはつまらないから抑える。

「先輩はどうなんです? 彼女いないんすか」

 反対に尋ねる。メグについてナイーヴになっているときに、恋愛について詮索されることは耐えられそうにない。詮索されたくなかったら詮索することだ。

「いない。気になってる子はいっけど。小っちゃくてさ、めんこいんだ」

「犯罪っすよ」

「モテるやつっていいよな。世界の軸になれる。たくさんの注意がそいつに向く」

 三月七日、正午。というのはつまり、メールが送られた翌日、読まれた当日。ユーダイはギリコの家を訪ねる。ギリコの家はあのときのファミマの近くにある。そのすぐ隣に、二階が全て焼け落ち、一階の壁が崩れ中が覗ける廃屋がある。だから狭間家は、あのみぞれの夜、延焼の危機にあったのだ。どんな意志が、とユーダイは考えたくなってしまう。どんな意志が狭間家を火事から守ったのか。わかりきっている。意志なんてない。それらは偶然が支配する問題だ。

 インターホンを押し、ややあってギリコが玄関を開ける。ギリコが着ているパジャマは襟の角が丸く右前で、女物とわかる。くたびれ具合を見るに普段からこればかり着ているのだろう。人形みたいな子だとユーダイは思う。他人の家のにおいがする。家のにおいはそれぞれに違うはずなのに、不思議と他人の家とひとくくりにできそうなにおいがある。何もうちへ来る必要はなかったのにとギリコは思う。会おうと言ったのは自分だけれど、よそで会うことを想定していたし、今日だとは思っていなかった。ギリコは尋ねる。ほとんど寝てないんじゃないの? ユーダイはそうだと答える。かと言って眠たげな様子は見せない。問題を抱えている人は往々にしてこうだとギリコは思う。問題を抱えている人は、寝すぎるか、寝なすぎるか、どちらかだ。

 玄関は東側にある。入ってすぐ、ユーダイはここが異様な家だと直感する。推理小説なら間取り図が挿入されるのだろう。平均的な広さの玄関は正面奥に引き戸。それとは別に右に折れる動線が用意されている。二人は右に折れる。すると目の前に広い居間がある。その広さは、しかし、直ちに受け入れられるというものじゃない。ソファやテレビといった生活の品を押しのけ、無数のダンボール、書籍、玩具の類が密林を成す。吹き抜けの天井が遠く暗い。歩み入ると右手、つまり東に広い窓がある。同じように広い窓が西にもあって、ユーダイは少しの間混乱する。西の窓の向こうにあるのは正方形の中庭。タイルが敷いてあって、何年も乗られていないだろうクロスバイクがあるばかり。植物はないが、吹き込んできたらしい枯れ葉が隅に溜まっている。ギリコは居間のさらに奥へ進む。中庭を中心に反時計回りに回るようにして西を向く。ユーダイは居間がL字になっていることに気づく。中庭の北に当たる面にアイランドキッチンがある。だからこの広大な居間は実のところLDKで、折れ曲がるという操作によってKだけが曖昧に分離されている。この一つながりの空間はさらに奥へ伸び、折れ曲がり、中庭の西側にも続いているらしい。しかしそちらの面の窓はカーテンが閉じられていて中庭越しにようすがうかがえない。おそらくは来客を想定していない秘せられた空間。キッチンの裏に階段がある。ギリコがそれを昇っていき、ユーダイも従う。蹴込板のないストリップ階段というやつで踏面の間から一階が見下ろせる。ユーダイはなにかの拍子にあの秘せられた空間の内部が窺えないかと目を凝らすけれど、そんな偶然は起こらないまま二階に至る。二階は中庭の西側にあり南北に長い長方形。両側の壁の高い位置に板が渡してあって収納になっている。左側、つまり吹き抜け側の壁には建付けの長い机があるけれど、居間と同様雑多なものに埋め尽くされていて使用されているようすはない。その壁に潜水艦のような丸い窓が三つ開けてある。この空間は書斎兼物置として設計されたのだろうとユーダイは思う。その突き当り、左手に扉。ここがギリコの部屋だ。上方向へ移動しながら中庭を中心に反時計回りに一周し、玄関の真上にあたる空間に来ていた。カタツムリの殻みたいだ。

 ギリコの部屋は五畳か、あるいはもう少し広いかもしれないけれど、奥に長い形状のため実際より狭く見える。南側の壁にテーブルが置いてあって、その上にディスプレイが大小各一つとキーボード、ウェブカメラとマイク。パソコンの本体はフルタワーの仰々しいやつで、机の下に置いてある。ユーダイはつい、立派なパソコンと呟く。ギリコが言う。お父さんが送ってきたんだ。急に。部屋の反対側は金属のパイプが手前から奥へ渡してあり、そこに少女趣味な服が無数に掛けてある。ギリコがそれらを着るのだとユーダイにはわかる。いかにも彼に似合いそうなものばかり集めてあるから。「そこに座って」ギリコが適当な箱を指差す。ギリコ自身はパソコンの前の回転いすに座る。南にある小さな窓は曇りガラスで、その面積のほとんど半分が本棚に遮られている。この部屋の明かりはそれだけ。蛍光灯をつける気がないらしい。窓の明かりがギリコを背後から照らしている。パソコンを使うときはあの窓を完全に隠してしまうのだろう。腰を落ち着け、ユーダイはやっと、この家の違和感の本質を言い当てる準備ができたように思う。ユーダイは言う。

「南半球みたいな家だな」

 ギリコは彼の意図を測りかね首をかしげる。

「この家、裏返っちゃってるんだ。一階の居間の窓が東側を向いてるだろ。北半球なら普通、大きな窓は南か西を向いてる。そうすれば居間に人が集まる昼に日が入るから。一方で東と北の窓は、建物の影になって冷気が入り込む原因になるから、小さく作る。この家の場合、反時計回りの動線を時計回りにして配置しなおせばすべて解決するだろうに、そうはなってない。妙だなって」

 ユーダイはギリコの後ろにある南側の小さな窓を見つめている。この窓を広く作れば、この部屋が昼に暗くなることはなかっただろう。この家の他の空間と違い、ギリコの部屋は扉で仕切られていて独立性が高い。にもかかわらず南側の窓を避ける傾向が貫かれているのは、もはや偶然ではなく、設計者の意図のはず。ギリコが言う。

「変なことに気が付くんだね。物心つく前から住んでるけど、思いもよらなかった」

「中庭、使ってる?」

 ギリコは首を横に振る。外が嫌いだから、外を切り離し、中庭を作った。しかしいざ住んでみると中庭を使う機会はなかった。そういうことだろう。ユーダイは言おうとしてやめる。これはもう建物への評価というより、おそらくはギリコの親であるところの設計者の人格に対する罵倒だ。こんな造りになる要因は素人が出しゃばったこと以外考えられそうにない。

 用件はメールで知ってると思うんだけどさ。ギリコが言う。メグに会う方法とユーダイが言うと、ギリコはあっけにとられたような表情をし、それから微笑んで言う。いや、ぼくは微笑んでなんかいない。

「ぼくが教えられるのは見たい夢を見る方法。メグに会う方法じゃない。ただ、きみがそれを会うこととして解釈できるってだけ」

「夢の話をしに来たんじゃない」

「わかる。でもきみは、事実と虚構の区別をつけないことが許されるほど子どもじゃない。そのことはわきまえなきゃ」

 ユーダイには、この少年も、少年のことばも理解できない。そもそもこういう小めんどくさい警句を発するのはギリコの役割ではなく、むしろ「その」だの「でも」だのと言ってもじもじするのが正しいのじゃないか。いや、あるいは、彼のこういう側面を窺い知る機会がまだなかっただけのことかもしれない。俺がこいつと会ったのはたったの四回なのだから。尋ねる。

「俺とお前は大町の廃ビルに行った。それは覚えてる?」

 ギリコはうなずく。戦いの比喩が適切な会話をしにきたわけじゃないのに、ユーダイは攻守逆転の手触りを感じる。

「俺たちは三人で廃ビルに入った。メグを先頭にして、長い階段でどれほど昇ったか定かじゃないけど、最上階へ行った。それから地震があった。メグは消えた」

「三人だったってこと以外、ぼくもそう覚えてる。きみはその後、地震でパニックになったぼくを家まで送り届けた」

 信じらんねえ。ユーダイが言う。ギリコは彼のことばに非難の語気を感じる。ユーダイは続けて尋ねる。

「それなら廃ビルに入った理由は?」

「どうでもよくなってたんだ」

 どうでもよくなってたって、どういうことだよ。ユーダイに尋ねられ、ギリコは、不快なことがあったとだけ答える。水着のことなんて、言いたくない。

「気晴らしに散歩してたら偶然きみに会って、きみが廃ビルに入るからぼくもついてった。きみって明らかにアブナイ人でしょ? そういうとき、アブナイ人の犯罪に巻き込まれるというのは崖や縄と同じくらい魅力的」

「右手のあざ、誰につけられた?」

 ギリコは右手を見る。あざはないが、記憶をたどれば、確かにあった。

「先月、バイト中に。でもそれがどうしたの?」

「隣の家が燃えてた。あの火事のとき、何を見た?」

 どうして知ってるの! ギリコは立ち上がり、叫ぶ。あざが出来たのはそのときで、ファミマでバイトをしていた。でもファミマの店員だったなんてこと、彼に話した覚えはない。

「きみがあの荷物を送りつけたの? どうしてそんなことをするの!」

 荷物ってなんだよ? ユーダイが至極冷静に言う。それで、ギリコは自分が早とちりした可能性を疑う。おずおずと椅子に掛け直す。

「俺はそのとき店内にいたんだ。お前と話しはしなかったけど、二度目に会ったとき、お前は俺を覚えてた」

 おじいちゃんを殴ったとき? ギリコが尋ね、ユーダイがうなずく。あのときより以前にユーダイと面識があったかというと、ギリコは確たることが言えない。初めて見た気がしないという第一印象だけを覚えている。誰か芸能人に似ているのだと解釈すれば、会ったことがないとしても不思議でない程度の感じ方だった。

「そのとき、俺はお前にどう話しかけた?」

「おじいちゃんがぼくをぶって、きみがおじいちゃんを殴った。それからきみは、おじいちゃんの家へ行くならついていくと無理を言った」

「その前。バスの中で」

「覚えてない」

 くそっ。ユーダイは自分の膝を殴る。それを見て、ギリコは彼と暴力の結びつきをもう一段深く確信する。

「俺は夢じゃなく現実の話をしに来たんだ」

 メグはこんな話をした。略奪をしよう。色を、形を、ことばを奪おう。

 沈黙のまま時間が過ぎる。ギリコはユーダイを見つめる。ユーダイは前触れなくぼくの生活に入り込んできた。彼の不思議なところは、ぼくに関心があるのかわからないということ。おじいちゃんを殴ったのはぼくへの同情や共感からじゃなく、それが正義に反すると思ったからだろうし、今ここにいるのもぼくのためではなくメグという子のため。画面の向こうの人々とは違う。誘導灯は義賊、とメグは言った。ことばは再分配されなきゃいけない。

「でも、きみの言うことは十分現実離れしてる。失踪したんじゃなくて、きみ以外誰もその人を覚えてないんでしょ?」

 ユーダイはうなずく。

「メグの父親はあいつのことを覚えてないみたいだった」

「メグのお父さん?」

「家を訪ねて、何度か会ったことがある」

 仮説一、メグは故人。仮設二、メグはイマジナリーフレンド。どちらも外れていそうだとギリコは思う。何よりこれらの仮説は自分の体験にひどく嘘をついている。それを見ないふりしてユーダイの主観を否定している。だからって、自分から切り出そうなどと。誘導灯は侵略者、とメグは言った。なんとなればそれは抵抗の意志をへし折って膨張するから。

「お前、あのとき最上階で、何が起こったか知ってるんじゃないのか?」

 知らない! と答えたい。きみにも、ぼく自身にも嘘をついて、その嘘で世界を保ちたい。廃ビルに入ったあの日以来、ぼくは声に出さず嘘をついてきた。ぼくが責を負う必要なんてない。ユーダイが、こんな話題を持ち掛けてきた側が言えばいい。

「きみは? きみもまだ話していないことがあると思う」

 ユーダイは苦い顔をする。運命の分岐がここにあるとギリコは思う。可能な態度は二つに一つ。物語の時間は実のところ選択によって進むのだと、現代文の先生が言っていた。唾をのむ。ユーダイは答える。

「ほんとうに覚えてないんだ。俺の記憶が欠落してる、それは感じられる。起きてから、その晩見た夢を再構成するときのきもち。解釈を試みすぎて別物になってしまってることはわかるけど、元の夢がどんなものだったか、たどり着けない。夢なんてたとえは使わなくていい。いや、使わないほうがいい。幼い頃の記憶をつなぎ合わせ、自分の存在の時間的な幅を過去の方向へ延長しようとするときのきもち。わかるか? それにしても、こんなふうにことばを使うのは変だ。もっと簡潔に、そのものずばりを言い当てたいのに、そうは話せない」

——ほんとうに、覚えてないんだね?」

 ユーダイはああと答える。

 話さなかったのは、考えようとしなかったのは、そんなことを信じようとは思えなかったから。主観は所詮主観であって、真剣な検討には値しない。にもかかわらずその主観が求められるとき、どうすればよいのか。なんて損な役回りだろう。ユーダイは忘れることで馴染みある現実に留まれたのに、ぼくはそうじゃなかった。そればかりか、幸運なユーダイは不幸なぼくを求める。

 メグはこんな話をした。事実と虚構って区別は、気が利かない。わたしにとって関心のあるものは、そんな関係にはないから。ここは逢瀬川と阿武隈川が交わる中州。ここは美術館へ続く長い上り坂。ここは新幹線の線路の上。気に入らなくたって必要な区別だろ、とユーダイが言う。だってそうでなきゃ、世界が破綻する。メグは納得しない。間違いが無傷であるために、わたしたちにはできることがあるのだと言う。

 ギリコは腹をくくる。全部話すと宣言する。

「あのビルは廃墟だったのに、最上階に入ると営業中みたいに当たり前に照明がついていて、当たり前に人がいて、ぼくときみはそれを変に思わなかった。だから、やっぱり、夢に似てた。夢ってそうでしょ? 突然場面が変わるのに見てる当人はそれを不思議と思わない」

 言っちゃった。破滅だ。言ってしまったからにはきっと、この世界はなんでもあり。そんなこと許したくはないのに。ギリコはユーダイの表情を見る。彼の表情は驚きと怒り、諦めが混沌としている。次第に諦めが他を支配していく。彗星よ、彗星よ、彗星よ。

「お前が夢で見るっていう女の子がその場にいなかったか?」

「あそこにはとにかくたくさんの人がいた。その中にその子もいたのかもしれないけど、ぼくにはわからない」

 そんなはずないだろ! ユーダイが声を張り上げる。それから滔々と、自らを説得するかのように言う。

「でも、そういうふうに言うってことは、きっとほんとうに消えてしまったんだろうな。あいつがお前の印象に残ってないはずないんだ」

 ごめん、とユーダイ。彼の会話に謝罪という選択肢があるとは、ギリコは思ってもみなかった。そんなことはない気もする。ユーダイは暴力性を自覚している程度にはまとも、そういう印象。そうだ。あの日、出かける前に要件が不明瞭な電話を彼から受け取った。ユーダイはきっとじいじの件について謝罪を意図していたのだろうけれど、謝られた気がしない。よほど謝り方が下手だったのか。だとしたら損な人だ。これまでも必要以上に警戒されてきたのだろうし。

「でも俺はそんなこと信じたくない」

「信じなきゃいけなくなっちゃったね」

 ユーダイはうなずかない。

「それでも、駄目なんだ。メグは現実のものだ。現実に働きかけるには、現実の手段でなきゃ」

「見たい夢を見る方法は必要ないってこと?」

「そんなのは忌々しい。俺に必要なのはそれじゃない」

「となると、ぼくにできることはない。残念だけど」

 時間取らせて悪かった。帰るよ。ユーダイが言う。彼をこのまま帰らせたくはないとギリコは思う。なぜそんなふうに思うのだろう。衝動が先走り、後付けの理由を探している。結局は、あのときぼくを庇ってじいじを殴ってくれたから、か。それよりずっと前から彼を好ましく思っていたような気がする。

「会おうと言ったのは、ぼくが助けになると思ったからだよね?」

 そうだけど、とユーダイは答える。

「そのメグっていう子をネットで探してみる。ネットには知り合いが多いから」

 そうだろうとユーダイは思う。机の上の機材と、その画角に明らかに映り込むように吊るされている女物の衣服を見れば、ギリコがどんな世界をネット回線に乗せているのか、おおむね推測できる。

「意外と外向的なんだな」

「わかんないよ。最近はちょっと怖くなっちゃって」

「見に来るやつがいるの?」

「たくさんいる」

 見たいとユーダイが言う。ギリコはそのことばにぎょっとする。

「部屋に入ってすぐ思ったんだ。どれ着ても似合いそうだって」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「じゃあさ、ちょっと待ってて」

 ギリコは手近な一揃えを取って着替える。その間、ユーダイはギリコを見ないようにしていて、ギリコにはその配慮がおかしく思える。

「できた。ほら」

 レースのカチューシャ、ただの白シャツ、と片方の裾だけ襞が入りスカート風になっているアシンメトリーのワイドパンツ。こんなことで女装と言い張れるのは社会の文脈の力ゆえだとギリコは思う。ユーダイが言う。

「ああ、やっぱりよく似合ってる。本当に女の子みたいだ」

 それは素材の性質です、とギリコは思う。

「世界観があるのがいい。白の時代って知ってる? むかーしむかしル・コルビュジエって人がいて、ある時期に白い建物ばかり建ててたらしいんだ。その建物に似てる」

「よくわかんない」

 だろうなとユーダイは言う。

「表現の手段を持ってるというのは、すごくいいことだと思う。俺はそういうのを持ってないから、うらやましい」

「持ってないなんてことはないでしょ?」

「ないんだ」

 それからユーダイはギリコをまじまじと見る。生の人に見られるということに慣れていないから、ギリコは赤面する。ユーダイはギリコを立派なものだと思う。よく出来ている。どれほど注意深く観察しても、幻滅させられるところがない。所詮はこんなものだと冷静にさせられてしまう箇所がない。こんなものが現実に存在するということが、大変な驚異として感じられる。

「すごいな。これはお前の才能だな」

 母以外から面と向かって女装——というより服飾による表現を褒められたことがあっただろうか。ないはず。そんな機会は今までなかった。配信が怖いのならこの人に見てもらえばいいんじゃないかとギリコは思う。そう考えると、ユーダイが替えの効かない人物に思えてくる。やさしくしてやってもいいのじゃないかと思えてくる。

「ぼくの配信で人探しの広告を打ってみる。日本中の、どこにいるかもわからないような人たちだけど、数は多いから」

 おねがいとユーダイが言う。目の前の一人のため、画面の向こうの無数の人々を使おうという不均衡。こんなことをしたらギっちゃんはおしまいかもしれない。でも、終わったっていいのかもしれない。

「これもお前が着るの?」

 ユーダイの質問でギリコの物思いは中断する。ユーダイが指さしているのはがらくたの上に無造作に置かれている例の水着。着るわけないと思った後、好奇心に負けて箱から取り出し、こっそりと試して自分の欲求を満たした。この部屋に誰かが来るなどと思っていなかったからそのままにしていた。入ってきたほうが悪い。

「着ないよ。送られてきたの」

「これもお父さんから?」

「お父さんを何だと思ってるの? 視聴者から」

 へえ。ギリコはユーダイが水着への興味を失ったように感じる。安堵とも不満ともつかない感情を覚える。

「そういうやつもいるんだな」

 ユーダイはむしろ「それも着てみてよ」と言うべきだった。その水着を着たぼくはそんなに悪くなかった。はだかよりよかった。はだかじゃ健康的すぎるけれど、その水着を着ると付け入る隙があるように見えて、言い換えれば支配を誘っていた。ユーダイが言う。

「広告、頼むよ。なるべく視聴者がつくように、とびきりよい衣装で」

 ユーダイが帰り、ギリコは夢を見ようとする。ユーダイのために用意していた、見たい夢を見る方法を試す。適切な手順を踏んでから床に就き、三つの扉をイメージする。一つ目は赤、二つ目は青。そして三つ目の黄色い扉の向こうに、見たい夢がある。しかし、寝付けないまま時間が過ぎる。ぼくは夢に何を期待したのだろう。

 日付が変わろうというころになる。ギリコは服をすべて脱ぎ、自分の頭を、顔を、全身の肌をくまなく撫でる。こうすると安心するから。チョークの粉を練って作ったような陰茎が勃起している。性的な興奮で勃起したことがない。こころの底から安心したときにこうなる。支配。ぼくは支配されたいのだと考えれば、納得がいく。母でも画面の向こうの人々でもない、より居心地よく現実味のあるものに。思うに、ぼくには二つの相反した欲求があるのだ。徹頭徹尾ぼく自身でいるか、あるいはぼくをすっかり任せてしまうか。それが落ち着くのを待って、あの水着を着る。

 酒蓋公園の池のふち、メグは祖母の手を引いて歩く。祖母の目を見て言う。今度はわたしの話を聞いて。

「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでおりました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。おじいさんが山で柴刈りをしていると、もと光る竹なん一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしゅうていたり。そのころ、おばあさんが川で洗濯をしていると、川上のほうからどんぶらこどんぶらこと大きな桃が流れてきました」

 妙な話だねと祖母が言う。「急に二人も子どもが出来たら、容易でない」

「それでね、大きくなったかぐや姫は、求婚してきた貴公子たちに無理難題を課すんだけど、桃太郎は姉が誰かのお嫁さんになるのが許せないからって、先回りして全部の課題をこなしちゃうの。そうするとおじいさんもおばあさんも困っちゃう。姉弟がそういう仲だというのは外聞のいいことじゃない。おじいさんとおばあさんは相談して、桃太郎を鬼退治に行かせることにしました。桃太郎が鬼ヶ島で死んだら、かぐや姫の結婚の邪魔がなくなるし、もし鬼退治に成功してしまったら、それはそれで桃太郎にもぜひうちの娘をって人が現れるでしょ。このお話のおじいさんとおばあさんは、悪いおじいさんとおばあさんなの。

 さて桃太郎が船出しようという満月の夜のことです。送別の宴を抜け出して、かぐや姫と桃太郎は二人きり。かぐや姫が言います。わたしもあなたも、来世こそ添い遂げたいと月で願ったばっかりに、こんな風になって人の世に降りてきてしまいました。今もしあのときと同じように二人で海へ身を投げたなら、次は修羅道で、やはり添い遂げられぬ苦しみに悩まされることでしょう。それよりはいっそ、おじいさんとおばあさんへの恩を忘れて、この人の世で添い遂げたいと思うのです。桃太郎はこくりとうなずくと、おじいさんとおばあさんが用意してくれた粗末な舟にかぐや姫を乗せ、夜の海へ漕ぎ出しました。

 桃太郎がかぐや姫に言いました。実のところ、わたしもあなたと同じように考えていたのです。この海を東へ何日も行ったところに、蓬莱という清らかで苦しみのない土地——あなたがそこから玉の枝を取ってくるよう命じた土地があります。わたしは玉の枝を取りに蓬莱に降りたとき、こここそわたしたち二人のために用意された場所だと思ったのです。蓬莱へ行っておじいさんのこともおばあさんのことも忘れて死ぬまで過ごしましょう。

 桃太郎は来る日も来る日も舟をこぎ続けました。けれど蓬莱には着きません。ある夜、しくしくという声を聞いて桃太郎が目を覚ますと、かぐや姫が袖を濡らして泣いています。かぐや姫は言いました。どうしておじいさんとおばあさんのことを忘れることができましょう。これほど遠くへ来てしまったことが寂しくて泣いているのです。わたし、やっぱり、恩を忘れてあなたと二人で過ごすなんてできません。そんなことになるくらいなら、わたし、死にます。そう言うとかぐや姫はひとり舟から夜の海に身を投げ、どこまでも深く沈んでいってしまいました。

 一人取り残された桃太郎がそれからどうなったのか、誰も知りません。しかし桃太郎とかぐや姫の運命はここで途切れ、もう二度と、添い遂げられぬ恋人どうしとして生まれ変わることはなかったということです。ちゃんちゃん」

 ねえ、おばあちゃん、とメグが言う。わたしのお話、面白かった? 面白かった。けど、桃太郎にはかぐや姫の気持ちがわかったのかしら。それがわからないで終わったのだったら、すわりが悪い。 

 ねえ、おばあちゃん。次はずっとすごいお話を聞かせてあげる。それはただのお話じゃなくて、おばあちゃんとわたしにとって、最高に最高のお話なの。そこにお母さんはいないし、おばあちゃんを包む霧はすっかり晴れていて、何もかも雨上がりみたいに鮮明に見える。

 三月八日の午後三時。日が傾きつつある。北西の風が朗らかさをかき乱し、今年最初の花粉を人々の粘膜に届ける。ユーダイは真木家を訪れる。

 ユーダイは真木家の電話番号を知らなかったけれど、真木始の名前を調べれば簡単に見つかった。一回目の電話で明らかになったことは、メグの父がメグと同時に自分を忘却しているということ。迷惑電話だと思われて切られた。二回目の電話はつながらなかった。それでユーダイは番号を変えて三回目の電話を掛けた。それまでは携帯電話からかけていたのを、家の電話に変えた。家の番号を使うことはメグをめぐる出来事に家族を巻き込むことのように思われて気が引けたけれど、なんとしてもユーダイはそれをしなければならなかった。電話は繋がり、メグの父は彼の訪問を認めた。

 ユーダイは瓦葺の門をくぐり、新しい方の建物の呼び鈴を鳴らす。ややあってメグの父が現れる。来たね。メグの父が言う。ユーダイは彼の目元がメグに似ていることにはじめて気づく。だというに冷たい印象を受けないのは、年相応に重力に引かれているからか。太い眉が虫みたいに動く。

「でも家の住所は知らせてなかったはずだ」

「元から知ってます」

 それに、この家に来たことも何度かあるんです。庭の池であなたと話したことがあります。そう言おうと思ってこらえる。正気を疑われては不利だ。

「なのに電話番号は知らなかったのか?」

 理解できない。

「きみがかけてきたのは事務所の番号だったんだ。不在のとき家に転送されるようにしてある。僕はきみが事務所へ訪ねてくるものと思って承諾した。しかし僕は家にいる。なぜと言えばきみに会うつもりがなかったからだ。面倒を避けたつもりだったんだ。きみが事務所に訪ねてくるのなら、監視カメラに顔が映るし」

 狡猾な人だとユーダイは思う。

「じゃあ、今居留守を使わなかったのはなぜです?」

「会おうと言ったのはきみだ」

 答えになってないじゃないですか。口をはさむ隙を与えず、メグの父が言う。

「そのあたりを歩いて話そう」

 メグの父が門を出る。自分を家に上げるつもりがないということにユーダイは不満を覚える。

 二人は酒蓋公園の中を池に沿って歩く。池は水が抜かれ底が露出し、赤い橋が架かっている。ユーダイがこの公園を歩くのははじめて。真木始が言う。「よかったら教えてくれないか、きみがどういう人物なのか」ユーダイは自分の来歴を語る。十九歳に来歴なんてあるだろうか。話題として興味深いだろうことはどうしてもこの一年に集中している。家のこと、避難してきたこと、仕事のこと、自動車学校に通っていてじきに免許が取れること。自分の経験を要約することにユーダイはいらだちを覚える。それはどうも白々しい。「それなら僕ときみは縁がある」真木が言う。

「その自動車学校の土地はうちが持ってる。あのあたりって低い湿地だろ? いつまで経っても空き地が減らなかったり、そのくせ幹線道路の計画が遅々として進まなかったりするのはそういうわけなんだ。でもあれこそがこの場所の本来の姿だ。明治になって疎水が引かれる前、ここら一帯が安積野と呼ばれる手つかずの原野だったことは知ってる?」

 ユーダイはうなずく。県内の人みんなが知っているわけじゃないけれど、郡山の人ならば知っている。そのくらいの知名度の話。面白いことには、この町の人々はこの町についてそれ以前の記憶を全然持たない。封建制を知らない。ただぼんやりと二本松藩の所領だったらしいことを知っているだけ。地元では相馬の殿様の話を散々聞かされたから、風土が違う。真木が言う。

「かつてこの土地は草原、粗放な松林、名を持たず灌漑には向かない無数の小川、緩い地面、そういうもので出来上がっていた。しかしどんな土地も使いようだ。広さがあれば特に。実際、自動車学校が出来てそこにきみが通っている。仮設住宅も建った。僕の仕事はこの町の土地や建物を適切な主に引き合わせること。尊大な言い方だけど、この町に住んでいる限り、きみが見る景観は僕がかかわっている」

「神みたいですね」

「そうなりたいって小学校の文集に書いたよ。現実の弱く不完全な神じゃなく、虚構の世界の」

「弱くたって現実のほうがいいです」

 二人は赤い橋のちょうど真ん中へ来る。メグの父は、こんなふうによくしゃべるものだっただろうか。メグの饒舌さが彼に移ったように感じる。

「きみが言ってたのは、僕に娘がいるって話だったね」

「真木メグです」

「その子が自分で真木を名乗っているというのなら、当然その子の自由だけども。きみとその子はどういう関係?」

「友達というか恋人というか」

「尊重する。どちらかでなきゃいけないわけじゃない」

 意外に思う。自分の態度の煮え切らなさが彼に不信感を与えていたと思っていたから。とはいえそれはメグがいたときの話であって、今の彼には無関係かもしれない。メグがいるせいで、メグの父は口数少なく、内向的な人でいたのかも。真木が続ける。

「きみが言うには、そのメグという子は行方不明なんだね。僕ならその所在を知っているかもしれないと思って訪ねた」

 うなずく。

「しかしきみの予想に反して、僕はその子を認知していなかった」

「でも知らないはずがないんです」

「知らないんだよ。僕に娘はいない」

 そうじゃないんですと言う。真木はコートのポケットに深く手を突っ込み、爪先でしつこく足元をたたく。階段の踏むところは踏面というけれど、橋のそれは何と呼ぶのだろうと思う。世界を切り分ける語彙がどれほど増えたところで、メグに近づけるわけではないのだけれど。

「それで、きみの要求というのは」真木が言う。——僕の知らない僕の娘について、彼女を探す手伝いをしろということなんだね」

「そうです。あなたは知ってるはずなんです」

「白状すれば、心当たりはある。こっちに戻ってきて、親父が死んですぐ、関係を持った相手が何人かいる。東京という土地と、あの土地で作った文脈から切り離してみると、妻がおそろしいほどつまらなく見えた。彼女らとは結局そのとき限りの関係だったけど、まさか、生んだ奴がいたなんてな」

 メグの部屋での出来事を思い出す。娘に備えをさせておいた理由は彼自身に似た輩を想定してか、と思う。納得がいく。腹が立つ。

「僕はてっきり、きみが口止め料なり養育費なりをゆすりに来ると思ったんだ。だけど今朝になってメグという名前を思い出した。もし娘が出来たらそんな名前を付けようと思ってた。夫婦の間で考えてたその名前を、僕はそのときの相手に明かしてたんだろうな。その子について話を聞いてみたいと思った。そうしたら、きみがあやまたずうちを訪ねてきた。その子は今十五くらいか」

「十五?」

 真木は十五と繰り返す。

「真木メグは十九歳です」

 ユーダイは踏み込む覚悟をする。そういう話をしに来たのだから。

「それにメグがいなくなったというのも、普通の意味においてじゃないんです。つまり——俺の記憶以外の一切から、メグは消えました」

 真木は病人を見る目になってユーダイを見る。ユーダイは動じない。その態度を見て、真木はある種の容認、あるいは諦めみたいなシグナルを発する。ユーダイにはそう見えた。それから真木は値踏みするように言う。

「それで、どう思った?」

「世界が終わったみたいに思いました。生の実感っていうよくわからない言い回しがありますけど、俺にとってメグはそれでした。力、とか」

 力とというのはメグのことばだとユーダイは思う。真木が言う。

「そういうのは好きでない。力だの意志だのというのは魅力的でない語彙だ。そういうことばを使う人々が作った世界は、必要以上に厳しく、独りよがりで、人間性を欠いてると思う。そういう世界が終わることは、俺にはいいことに思える」

「でも、メグは少なくとも俺のことは気遣ってくれました」

「俺も昔、妻ときみみたいなことを考えた。劇作家志してたんだ」

 真木が言う。彼のことばから東京式のアクセントが消える。この土地のことばは、韓国語を思わせるイントネーションがあり、無声音が有声音のように聞こえ、拍が均等でない。母音が頻繁に無声化し、普通の声とささやき声が頻繁に入れ替わるように聞こえる。共通語と土地の言葉を随意に切り替えられる人はそう多くない。土地のことばで話しかけられたとき、引きずられて、そのように話す。真木のことばはなぜ切り替わったのか?

「東京の大学を出たんだ。親父は俺を実業家にすっつもりだったらしいんだけども、その考えを無視して文学部に進んだ。そこで演劇を始めて、劇団を立ち上げた。そんときのメンバーに妻がいた。書物に向き合うのと違って、実践はリアルな人間との接触を伴った。その頃の俺は映画監督だったり、小説家だったり、そういう人々と日常的に交流があって、俺自身近いうちに彼らの一員になって表現の第一線に立つんだと思ってた。随分立派な演劇をやってて、少なくとも彼ら表現の担い手たちからは高く評価されてた。彼らにしかわかんねぇ身内の演劇をしてたと言えば、それも正しい。

 卒業後も、芽が出るはずと信じて東京に残った。妻と喫茶店を開いて、東京の作家たちが集まる閉鎖的な場を作った。ちっこいけども悪くない店だった。んだども、俺はみじめになっていった。彼らの輪に入るんでなく、彼らを結びつけることに甘んじるってのは、落伍者の仕事だと思った。それに、妻が俺よりいい本を書くんだ。十年はそうしてた。俺はその十年を浪費した。

 そのうち親父が病床に臥せって、母がしつこく俺を呼び戻した。東京を去るべき頃だと思った。俺と一緒にこの町さ来っことを、妻は固く拒んだ。詭弁だと知っていながら、郡山でも店は開けるっつって説得した。妻が求めてたのは作家たちとの繋がりであって店でねかったんだから、こんなことには全く意味がないのに。妻は最後には折れてくっちゃ。当時の俺は、そのくらい深く妻に愛さっちた。

 東京にいた頃の妻はいい女優だったし、いい作家だった。子どもなんていないのに、母親の演技ができた。男に生まれたことなんてないのに、老いて男を失う不安が書けた。そうではなくなってしまった。

 世間の人々は作家に狂気を期待すっけども、あれは全然間違ってる。きみたちはきみたちの現実が虚構でないことを確かめるために、虚構であるという信号を発し続ける虚構を享受する。その仕事は徹底した正気の許でしか成り立たない。そのことはわかっかい?」

 ユーダイはうなずく。

「妻はそうでなくなった。ことに地震の後は悪化してる。東京と違って、ここの地面には虚構が染み込んでない。虚構が染み込んで現実を支えてる土地ってのは珍しくねんだ。郡山はそうでねかった。そのせいで妻は現実と虚構のバランスを崩した。妻がいい作家でもいい女優でもなくなって、魅力を失っていくのを、俺はほくそ笑んで眺めてた。俺は妻に惚れたんじゃなく、妻の能力に惚れてたんだって気づいた。そしてそれは東京のあの店というコンテクスト、現実に顕現した虚構的空間なしにはありえないものだった。きみは虚構の力を信じっか?」

「胡散臭いと思います」

「なのにきみはメグって子を求めるんだな」

「関係ない!」ユーダイは叫ぶ。——それとこれとは、関係のない話だと思います。現実の話をしに来たんです」

「きみにそう言わっちゃな」真木は苦笑する。

「あらゆる虚構は現実より秩序だってる。特に物語って形式は原因と結果によって構築される。それはつまり、現実は俺らにとって耐えがたいほど無秩序ってことだ。現実とは例えば、知らぬ間に娘が生まれていて、十五歳になってるってこと。わかっか?」

 ユーダイは首を横に振る。真木の言う十五歳のメグという少女だって、おそらくは彼の頭の中にしかいないじゃないかと思う。どちらもことばの上の存在だ。強いて言えば、俺のメグのほうがありそうにないのだろう。だからなんだ。

「とはいえ、きみときみの話は面白いと思う」

 橋の東のたもと、二人が来た方はきつい傾斜の斜面に続いている。その中に小さな平地があって、そこにいくつかの遊具がこじんまりと身を寄せ合っているのが見える。ユーダイは一瞬、何かそこにあるはずのないものの気配を感じ取った気がする。しかしすぐ、無意識のうちに、そんなものは勘違いだと否定する。「たっぷり寝てるか?」真木が尋ねる。ユーダイはいいえと答える。寝るといい。睡眠は概して正しい。それから真木は斜面の方へ向かっていく。その背中。ユーダイは手掛かりになるかもしれないことばを思い出し、尋ねる。

「超終末期誘導灯機構が何か知ってますか? 真木メグが言ってたんです」

 真木が振り返る。

「知らない。でも、パロディのように聞こえる。きっと悪口だ」

モイ!

 水着、着てみたよ。寒いけど(『垢バンされないで』『えっち』『キタ━(゚∀゚)━!』『最高』『サービスしすぎじゃない?』)

 すごく大事なお願いがあるんだ

 いなくなっちゃった人を探してる

 名前は真木メグ。女の子、十九歳。住所は、ちょっと言えない

 こういう顔

 ユーダイが描いた似顔絵を見せる。気の強そうな顔。ユーダイの絵が表現しているのは容貌や内面というより、むしろその人物が世界に及ぼしている力。シャープペンシルで引っ搔いて描いた絵だ。その顔は、少なくともギリコには似ていない。夢で見る女の子はこんな顔だったろうか。夢は曖昧で、現実だったはずの彼女もそれに引きずられていく。

 実は会ったことないんだ

 ぼくはこの人が誰なのか知らない

 『それってギっちゃんじゃないギっちゃん自身なのでは?』まさか。前回の配信でした話に引きずられている。とはいえ、ぞっとしない。万が一そうだとしたら、ユーダイがその人を求めていることに、どういうわけか、胸が騒ぐ。

 そんなことないよ

 この人は、現実にいて、ぼくじゃない誰か

 夜更け。開成山球場、バックネット裏二階席、最後列。天高く突き出た球場の尾。月と、地を覆う雪だけが明るい。メグは読んでいた全国紙を畳む。尋ねる。考えてくれた? ユーダイが答える。まあ、いいけどさ。

「でも何すんだよ」

「そりゃあ演劇でしょ。劇団なんだから。劇団、超終末期誘導灯機構。わたしたちは非常口の誘導灯で、しかも災害の後だから超終末期。超は超えてという意味ね」

「いつ、どこで、誰に」

「あらゆるとき、あらゆるところで、すべての存在に」

 何言ってんだよ。全然わかんねえよ。ユーダイは憮然とする。メグはそれをかわいいと思う。メグは言う。

「わたしたちは実践をする。わたしたちと世界の関係を取り結ぶ。わたしたちのことばが世界であるように」

 メグはユーダイの肩にもたれる。「それってハルヒとかエヴァとかの話だろ」とユーダイがつぶやく。

「ギリコ、きみも賛成でしょ?」

 ギリコはうなずく。プラスチックの座席の上、三角座りをして膝に顔をうずめている。真冬用のコートを着ても寒い。白い息を吐きながら、ギリコはメグとユーダイを観察する。二人はぼくほど寒く感じていないらしい。メグが言う。

「それって、必要なことなんだ。東京とか京都とかさ、大きな街ってそこが舞台の虚構がたくさんあって、そういうものが現実の位相と重なってその場所を作ってるでしょ。でもここってそうじゃない。逃げ込むべきところがない。それが気に入らない」

 ユーダイは興味なさげに「ああ、そう」と言ってメグの髪を柔らかくなでる。メグは言う。

「なので、宿題を出します」

 メグはまっ黄色のCDを取り出し、ユーダイに渡す。それからもう一枚、ユーダイに抱き着いたまま腕を伸ばし、ギリコに受け取らせる。

「次までにこの役をこなしてくること」

 雨天、三月九日の朝。大町の駅前商店街、アーケードの下で、ユーダイはギリコを待つ。アーケードは東西に長い十字になっていて、ユーダイの立っている場所はその北の端。飲食店ばかりが並び、どれもシャッターを下ろしている。商店街というよりむしろ歓楽街だ。新幹線が通過していく音をユーダイは何度か聞いた。郡山が通過される駅になったのは去年からのことで、そのことが町の人々の自意識に何かしら影響しているのじゃないかと思う。体躯に合わない大きな傘、めまいがするような黄色いやつをさしてギリコが来る。ユーダイがつぶやく。「行こうか」

 廃ビルがクリーム色の肌を雨に晒している。背景は雨雲。ユーダイが尋ねる。前はどうやって入ったか覚えてる? 柵を越えて、開いてる窓から。ならいいんだ。ユーダイが柵をよじ登り、その上にまたがる。ギリコは傘を置き、彼の手を取る。ユーダイがギリコを引き上げる。開いたままの傘が持ち手を上にして路上に残される。濡れたアスファルトが星々の隙間を満たす闇に見える。黄色い傘は月。

 前回開け放たれていた窓が内側から板を打ち付けて閉ざされているのを見つける。やってみよう、とユーダイ。まずは両手。それから両手と額で、力の限り板を押し込む。板は音も立てない。ギリコが手を貸す。ぬかるみのせいで足を滑らせ、顔を泥の中に突っ込む。手に擦り傷ができる。ユーダイはハンカチでギリコの顔を拭いてやる。擦り傷とにじみ出る血液を見て、途方もない穴に飲まれそうになり、すんでのところでその考えを振り払う。原発は核分裂でお湯を沸かしタービンを回します。ユーダイの不穏な表情。ギリコは思う。こんな表情が見たかったのだ。ギリコは言う。もう一度やろう。板を押し込み、手から滲む血が木に染みる。そこからじゃなくたっていいとユーダイが言う。どこか適当な窓を割ろう。

「駄目、ここからじゃなきゃ。前に来たときと同じ方法じゃなきゃ。これって、そういう物事だよ」

 ユーダイは思う。こいつは今、メグみたいなことを言った。メグはこういうことを言うやつだ。ギリコに覆いかぶさるようにして板を押す。繊維が断裂して叫び、板は真ん中から割れる。そのとき、水たまりを踏む足音が迫ってくることにユーダイだけが気づく。強まりつつある雨が世界を白く暗く見せる。早く、行け。ユーダイはギリコを担ぎ上げ、窓をくぐらせる。「何をしてる!」懐中電灯の明かりがユーダイの顔を照らす。警備員が来ている。窓の内側でギリコが囁く。どうするの? ユーダイは手で小さく合図をする。一人で行け。

 ギリコは明かりになるものをもっていない。建物の中は暗闇で、足音が高く響く。壁に左手を当てて進む。そのうち前回来たときの記憶がよみがえってきて、頭の中にぼんやりと地図が出来る。ギリコは階段にたどり着く。その階段を用心深く上る。何度か足を滑らせそうになる。疲労を感じる頃になって、上のほうから明かりが差し込む。いくつかの蛍光灯が点灯していて、人影はない。前回と同じ、かまびすしいゲーム筐体の音。ギリコは吹き抜けの向こうに人の姿を認める。その姿は、まぎれもなくギリコ自身。

 ギリコはぬかるみの上で仰向けになっている自分に気づく。空は本物の青さじゃない。無数のブルーシートが重層的に無秩序に宙に張られ、それらに遮られつつ降り注ぐ太陽の光。頻繁な雷鳴。ブルーシートの空は真上ではその輪郭がはっきりと見え、山の端に近づくほど形が見分けづらくなっていく。ギリコは立ち上がる。周囲を見回し、気分が悪くなる。おそろしく強い土のにおいを嗅いだから。

 歩きはじめる。次第に、この場所に馴染みがあると感じる。泥に脚を取られるうちに、それが地形のせいだとわかる。この場所の地形は郡山の町そっくりそのまま。ただし、地表からありとあらゆるものがとり払われ、その地面自体も滅茶苦茶に掘り返されている。表面を失った土地。左後ろに丘が、手前に川がある。ギリコはまさに自宅の近くにいると悟る。南へ向かって歩いていた。そうとわかってから再び四方を見わたすと、山の形はどれも見慣れたもので、疑いのない方角を教えてくれる。安達太良も見える。ほんとうの空、ないじゃないかと思う。逢瀬川には堤防がなく、橋もない。見慣れないいくつかの小川が流れ込んでいる。ギリコは川に足を踏み入れる。いちばん深いところでも腰くらいのはず。水は痛いほど冷たく、信じがたいほどに澄んでいて、においもない。ほんとうの川の水がこんなに清潔なはずないと思う。泥にまみれた顔を洗う。川を渡りながら、廃ビルにあたる場所へ行こうと考える。ここからなら遠くはないし、他に行先の候補があるわけでもない。

 進行方向に色鮮やかな花畑を認める。そこへ辿り着こうとして足取りが早くなる。着いてみると、それらは全て削り花。削り花とは春のお彼岸に使う素朴な造花。薄いかんなくずを着色し、二枚か三枚を竹串に刺し、花に見立てる。本物の花じゃなかったことにギリコは失望する。その中の一輪を抜く。マゼンタ色の花。

 身をかがめたギリコの横に、一人の少女がいる。真冬用の化繊の上着を着ている。

「きみはぼやけていて、複数の曖昧な像を結んでる。それが誘導灯の才能だったってわけ、か。覚えがあるでしょ、こっちの様子」

 ギリコはうなずく。少女が尋ねる。

「どうして来たの?」

「ユーダイがきみを探してる」

「じゃあユーダイは?」

 少女は尋ねてみてから、首を横に振る。

「駄目だね、あいつは。こういうことに全然向いてない」

「きみはここで何をしてる? 真木メグは誰で、ユーダイの何?」

「教えたげる」

 メグはギリコの手からマゼンタ色の削り花を取りあげる。メグは南へ歩いていく。ギリコはそれを追う。メグが言う。

「お話をしましょ。わたしは真木メグ。当代の。彼岸はわかる?」

 うなずく。

「でもは知らない」

「ユーダイがわたしをどう思ってるのかはわからない。わたしはあいつが好きだけど、あいつの感情は対称的じゃないし、わたしだってあいつを何よりも大切と思ってるわけじゃない。彼岸の王ってのは、そうだね、世界に骨組みを与えるための名前。超終末期誘導灯機構もそう」

 二人は無数の小川をまたぐ。どの小川も不自然に澄んでいる。ギリコが言う。

「きみの説明はよくわからない。きっと、きみがぼくの知らないことばで話してるからだと思う。彼岸の王だとか超終末期誘導灯機構だとか」

「ことばより視覚的なものが好みかな。たとえば、この場所は好き? この場所はあまりに視覚的」

「ここはどこ?」

 メグが答える。アンダーコントロール、わたしはそう呼んでる。

「ぼくはこの場所を知ってる気がする。夢で来たんじゃないかって思う。でもそういう感じ方は、あてにならない。夢の中で、この架空の場所はずっと前にも来たって思うこと、あるんだ。でもそれは誤りだと思う。夢の中で難しい問題が解けた気がする。でも起きてみると意味が通らなかったり、あるいは思い出せなかったりする。それと同じ」

「怪力乱神を語らず。見ざる聞かざる言わざる。そういう態度は独りよがりだと、わたしは思うね。公共的じゃない」

 色とりどりの削り花を積んで出来た山、腰ほどの高さのものが、二人の進行方向にある。ここはきっと廃ビルにあたる場所。メグが、ギリコから取りあげた一輪をその山に投げ捨てる。ギリコに尋ねる。火、持ってない? 持ってると思った? 持ってなきゃ困る。

「だって、ここ、寒いでしょ。きみはそんなに濡れちゃって」

「気づかなかった」

 気づかなかったのだ。

「死んでもないのに。生きてるから、凍えるんだよ」

 ギリコは違和感を覚える。反論、というか困らせてやりたいきもちになる。ユーダイを通じて世界を無秩序にするこの少女。というか、何もかも揺らがしてしまう制御できないことばの主。だというに彼女のことばは彼女自身を表現しない。それは卑怯だ。

「生きてるだの死んでるだのって話をするのは妙だ。ここは、ユーダイか、きみか、あるいはぼくの妄想の中で、生きてるも死んでるもない。それってのはつまり——

「それはわたしたちが考える必要のないこと。きみはしゃべりすぎ」

 話そうと言ったのはきみじゃないかと思う。しゃべることをやめると寒さがわかりはじめる。鼻腔の奥が痛いから、零度前後だろう。さも深刻そうにメグが言う。

「これだけ燃料があっても、火種がない」

 削り花の山を見てギリコが尋ねる。「これが燃料?」

「そう。象徴だから燃やせないなんてことない」

「石とか?」

「川底になかった?」

「なかった」

 雷鳴が繰り返し轟き、しかし稲光は見えない。あれがここに落ちてきてくれればと、メグがつぶやく。

「天のものを地に。地のものを天に。こんな話知ってる? むかしむかし、まだ人と獣の区別がなく、天が地で地が天だったころ。馬は首を下にして地に引っ付いていた。だってそうでしょ、上下が逆さまなんだから。馬は草を食べて生きていた。草は逆さまの地から天へむかって垂れ下がっていた。ところがあるとき、馬は天にも草があることに気づくのね。天の草は目にもとまらぬ速さで地へ駆け上ってくる。金色に輝いてる。馬はよくばりだから、天の草も食べてやろうと考える。さて、馬は駆け上ってきた天の草の一つに食らいつくんだけど、馬がどれほど踏ん張ってみてもその草は抜けない。それでも馬はしつこく引っ張り続けて、そのうちに馬の歯の間で火が起こって、馬も、天の草も、すっかり燃えてしまった。馬があんまり頑張って天の草を引っ張ったものだから、天と地がひっくり返ってしまった。これが今の天地と、火と、雷の起源」

「馬は死んだ?」

「死んだ。これが死の起源。馬は死んで、その灰が地を汚染した」

「それは何についての話?」

 束縛されない、自由な話、とメグは答える。

「ここで何をしてるのかって聞いたね。わたしはあの馬——シャボンダマに呪われた。あいつがわたしから通行権を奪った。あんたじゃなくてユーダイを連れてきてほしかったんだって。シャボンダマは身勝手だし、ユーダイは意気地なしだし、きみはしゃべりすぎるし、破綻だ」

 ギリコはメグの表情に、自信のない視線の震えを見てとる。十九なんだから、おしゃべりなんて卒業すればいいのにと思う。みっともない。卑怯だ。みっともない。

 過剰に明るい部屋。原発が止まってからどこも節電節電とやかましく、税金が投入される施設ではその傾向が顕著なのだから、この場所は特殊だ。その特殊な場所というのは郡山警察署の取調室。ユーダイはパイプ椅子に座らされている。取調室は薄暗いものという先入観をテレビドラマのせいで持っていたけれど、考えてみれば明るいほうが合理的。そうでなければきっと反抗の最初の徴候を見逃すだろう。濡れた上着がストーブの前で干してある。警官は二人。若いのと中年。若いほうが言う。

「だからさ、やったんだべ? そうでなきゃお前ェ、あんな場所にいるわけねェべした」

「ただそこにいただけです」

「やったんだべ?」

 中年のほうが部屋の外から呼ばれて退室し、扉の向こうで報告を受けるのが聞こえる。その報告に日記ということばが現れるのが聞き取れ、興味を引かれるのだけれど、全容は想像できない。若いほうは目に見えて態度を軟化させる。一対一の気迫では押し切れないという判断か。その冷静さと、自白強要に少しも疑問をもたない態度がユーダイを憤らせる。大体、何についてやっただのやってないだの押し問答しているのかすら忘れてしまった。今そこに石油ストーブがあって、俺の上着がその前で干してある。上着はもう乾いている。突然立ち上がり、ストーブを押し倒して上着に火を付け、この若い警官に投げつけ、警官は取り乱し、さっき外に出た中年が戻ってこようとして扉を開け、その瞬間に俺はそいつもぶっ飛ばし——

 さっき退出した中年が戻ってきて言う。

「きみ、真木さんの知り合いか。でも、こういうことはやめてほしい」

 真木さん? ユーダイの疑問をよそに警官は続ける。

「帰っていい。先生にお礼しておきなさい」

 日没後で雨は弱くなっている。警察署はユーダイの行動範囲から数キロ外れている。今から職場に行くとなると、家に帰って着替える時間があるか怪しい。というより、ほとんど今日の仕事を欠勤する気分になっている。メグは随分と体力のあるほうで、普通のカップルみたいに激しくいちゃつこうというとき、ユーダイがいつも先にバテてしまい、メグは不満を口にする。ハグしたり手を握ったりするのじゃ駄目かと尋ねると、ダウナーなことはデザートであってその前の過程が必要なのだと言う。性愛より暴力が好き? と冗談めかして尋ねられる。残念ながらその通り。でも、そのことで俺をからかわないでほしい。なぜ長々とそんなことを考えたかと言えば、まさにメグとそういうことをした後みたいにひどく疲れているから。真木さんというのがメグの父親だと気づく。あの建物を既に買っていたわけだ。

 ギリコに連絡を取ろうと思って携帯を取り出すけれど、電話で連絡してよいものかためらう。知っているのは家の番号。ギリコはびしょ濡れの泥まみれになって帰っただろう。電話がかかってきて、それを彼の父なり母なりが取る。電話の相手は知らない人物で、ギリコと話したいという。不審がられるし、ギリコも疑いをかけられる。だからそんなことはすべきじゃない。バスの巨体が水たまりを切って迫り、ユーダイはそれに乗る。暖房が効いていて蒸す。心地よくない人間のにおいが座席から立ち上がり、排気ガスと混じる。電話を断念しメールを送る。それから、睡眠にとらわれる。郡山に来てからこれほど深く眠ったことはないというほどの、深い眠り。あの子は呪い子。あの子はあなたのもとを去る。あの子というのはきっとメグのこと——

 ギリコは一人で帰った。濡れた服を床に脱ぎ捨て、毛布にくるまる。乾いた泥が固くなって顔や手にこびりついている。この泥の由来はどこだろうと思う。こちらで泥まみれになり、あちらでも泥まみれになった。ぼくが読んだ数少ない小説はどれもファンタジーで、主人公が異界から何らかの形あるものを持ち帰り、それが異界の存在の証明になる。この泥はそういう役割を果たしてくれない。

 先日の配信の反応が気になり、パソコンを立ち上げる。はだかのままでカメラがこちらを見ているというのが気になり、そっぽを向かせる。ユーダイからメールが来ている。それを読む。何と返信すればいいか考え込む。スクリーンセーバーが走りシャボン玉が液晶の中を跳ねまわる。そうだ。あの馬、あの場所で見た馬は、シャボンダマというのじゃなかったか。ぼくはなぜそのことを知っているのか。自分が経験した事態を要約しようと試み、何度か書いてみて、それを全て消去してしまう。ユーダイが望む報告はもっと客観的で簡潔なものだろうと思う。

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ぼくが付いた場所わアンダーコントロールと言います底で真木メグに会いましたメグお連れて帰ることわできなかったメグわきみがい公地梨だと言いました

 それから、しかし、ただの報告だけでは足りない気がして書き足す。

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件名: Re:

ぼくが付いた場所わアンダーコントロールと言います底で真木メグに会いましたメグお連れて帰ることわできなかったメグわきみがい公地梨だと言いました前にやった人探しのドーが見ました鴨しまだなら六があります

 車両基地、その建物の中。夜で、明かりはキャンプ用のランタン。床も柱も薄い緑に塗装されている。天井にはいくつかのクレーン。床にはレールが張り巡らされていて、車両の台車部分がある。ギリコは思う。鉄道は風景として眺めるばかりで乗る機会が全然ない。最後に乗ったのは小学生の頃で、祖父母に連れられ新幹線で山形へ行った。中学の修学旅行には行かず、高校のは任意参加だから申し込まなかった。また、こうも思う。野球場のときもそうだったけれど、メグは不法侵入にためらいがなく、しかも非常に巧みだ。メグはいまゼンリンの住宅地図をながめているけれど、それもきっと次の侵入先を決めるため。メグは地図を閉じて言う。

「宿題、やらなかったね。失望してる」

 ああ、やってない、とユーダイが答える。

「常識に反してるだろ、そんなこと」

 ユーダイのCDには何が吹き込んであったのか。ギリコはそれが気になる。

「でもギリコはやったもんね?」

 ギリコはうなずく。

「やったよ。言われたとおりの文章をおさつに書いて、お釣りとしてお客さんに渡した。ユーダイが来たからユーダイにも渡した」

「俺に渡した以外にもあんな風に落書きしたわけ?」

「指示は全部で十一あった。レジの千円札十一枚にボールペンで書いた。きみに渡したのがどれだったか、わからないけど」

 メグが言う。わたしも知りたい。「そこが一番大事な仕掛けで、この舞台の不確定なところだから」

 受け取ったCDにはメグの声が吹き込まれていた。その声は、ギリコが働いているファミマで買い物をし、千円札でお釣りを貰い、その指示に従えと言った。千円札にはこう書いてあった。『上映中にこっそりと席を立ち、天球の非常口を開けた。春休みの女神に会った』過去形なのはきっと、誰かの記録だからだ。日記とか。天球というのはビッグアイのプラネタリウムに違いない。ビッグアイというのは駅前に立つ市内一高い高層ビル。最上部に銀色の球体が嵌っていて、その球体の内部がプラネタリウムになっている。

 曇り空に小雪が舞う中、ビッグアイへ来た。市内のどこにいても見えるビルだから、こちらへ越してきてから見ない日はなかったけれど、入るのは初めて。奇異な見た目に反して一階は普通の商業ビル。ユーダイはエレベーターに乗る。中は豆電球ほどの明かりしかなく、はじめ故障かと思ったけれど、女性の声で案内が流れそういう演出だとわかる。曰くこの箱はロケット。床が赤く光り重低音が轟く。体の重さで加速度を感じる。幼い頃に来たら、きっと恐怖のあまり泣き出していただろう。このエレベーターの演出は非日常へ誘い込む力があまりに強く、死を意識するほど。二十三階、銀の球の側面に至り、扉が重苦しく開く。

 プラネタリウムというものを見るのは初めてだけれど、特段感動するものじゃない。田舎の山の中の育ちで、本物の星空を見慣れているからか。ただ本物と比べると星々の輪郭がずっと澄んでいて、切り分けられない光の集まりという感じがしない。観客は彼の他に七、八人。星座の伝説や見つけ方の話が続き、それが終わってはやぶさの話になる。出ていくなら今だと思う。あたりを見回して非常口の誘導灯を探す。メグが指示したのはきっと普通の出入り口じゃない。メグが好むのは不法侵入だから、非常口というのは普段閉ざされている扉のこと。真後ろ、最も高い位置にある座席の裏に誘導灯を見つける。音を立てぬよう席を立ち、そこへ向かう。

 金属の扉。ドアノブに手をかけてみると、施錠されておらず、確かに回る。重そうな扉だから、これを開ければ小さくない音がするだろう。

背後から照らされてユーダイは振り返る。白い表面が天球を覆う。これははやぶさの視点で、あの白はイトカワの地表。ユーダイは圧倒され扉に寄りかかる。扉は冷たく、彼の背中を支え、少しも動かない。

 ユーダイがメグに尋ねる。

「お前は? お前も役があったんだろ」

「放火魔」

 おい、それって。ユーダイはメグの答えにぞっとする。

「本当に火を点けたりしてないよな?」

「心配ご無用。長者のさ、高校の裏にでっかい空き地があるでしょ。わたしその高校出たんだけど」

 この町の最古層に属する、白い木造の校舎がある高校。ユーダイは前を通りかかって悪くない建物だと思った。

「あそこで、まだ工場があるかのように見立てて」

「つまり、その空地で火を焚いたってこと?」

「あそこなら延焼なんてしないよ」

 だから放火にはカウントされません、とメグは言う。ユーダイはあきれる。万が一にもあの木造建築に燃え移ったらと思うと、恐ろしい。

「ねえ、きみ」

 メグはランタンを跨ぎ、白く長い人差し指をユーダイの鼻の先に置く。

「次こそはちゃんと演じて」

 メグはもう片方の手で黄色いCDを差し出す。

グラグラグラグラ

と、大地がわきたつ。

 母が言った。「ユーちゃん宛に電話来てたよ。真木って人から」

 三月十日の午後。ユーダイが昨日無断欠勤したことを、母は知らない。メグか? ユーダイは飛び上がりそうになるけれど、しかしすぐ冷静になり、後悔を感じる。やはり家の番号を使うべきじゃなかった。その電話は真木始からにちがいない。

「それで、なんて言ってたの?」

「都合がいいときに掛けてくるようお伝えくださいって」

 母は出掛けていく。父は寝ている。ユーダイは電話の前でたたずむ。意を決して、真木家の番号にかける。真木始が出る。一通り謝罪の言葉を述べようとするのを遮り、真木が言う。「うちへ、なるべく早く」ユーダイは時計を見る。今から急いで出れば、仕事が始まるまで、三十分程度滞在できるはず。電話での謝罪に失敗するのは二度目だと、どうでもいいことを思う。

 真木は門のところに立ってユーダイを待ちかねていた。服も髪も取り乱している。「こっちだ」真木は挨拶も説明もなく、ユーダイを古いほうの建物に通す。広縁は薄暗く床板がきしみ、心なし歪んだ硝子窓越しに庭の池とサンルームが見える。広縁の突き当りにアルミの戸がはめてある。真木がそれを開ける。目の前に蔵の壁が見える。この建物と蔵の間にはトタン板が渡してあって、雨をしのげるようになっている。真木は広縁を降りてサンダルを履き、ユーダイも同じようにする。蔵の外扉は開け放たれていて——というよりもう何年も閉められたことがないという様子で、真木はその内側にある格子の引き戸を開ける。

 笠付きの電灯が梁から白い光を落としている。その下でイーゼルと、壁に立てかけられた無数の絵が照らされている。無数の瞳、無数の唇、無数の鼻。イーゼルにかかっている絵は人物画。少女。ユーダイはそれが誰か知っている。真木メグ。冷たいまなざし、重苦しく、一度すれ違っただけで忘れられなくなってしまうほどの鮮烈な印象。そんな少女はメグ以外にありえないから。

「やっぱり知ってるんじゃないですか、メグを!」

 真木の表情は変わらない。

「そうだろ。そう思ったんだ。きみが言うのなら、この絵は、メグって子なんだ。教えてくれ。この子は誰だ? 母が描いていたんだ。この子を、何枚も、執拗に」

 真木は壁に立てかけられている絵を見やる。それらの絵は、ユーダイも知らないさまざまな年齢のメグ。

「母はいま危篤だ。母はずっとこの少女を描いてた。この少女に会わせたい」

 こっちへ。ユーダイはそう言って蔵を駆け出る。サンダル履きのまま庭へ向かい、サンルームの扉を開ける。サンルームから新しい方の家へ上がれる。目で合図をして、真木に鍵を開けさせる。ユーダイは家の構造を知っている。案内なしに階段を上り、メグの部屋の扉の前に着き、ドアノブを回す。

 メグの部屋じゃない。ほこりが舞って西日に照らされ、その下のこまごました記念品を実際以上に過去のものに見せる。写真——真木の若い頃であろう男性と、直接見たことはないその妻らしき神経質そうな女性が、大勢に囲まれ写っている。無数の本とビデオテープ。ユーダイも知っている作家や映画監督の名前が所狭しと書かれた寄せ書き。その真ん中に、アンダーコントロール閉店に寄せてということば。ユーダイは茫然と立ち尽くす。しかし、確かに、ここがメグの部屋だった。真木がユーダイに続いて部屋に進み入り、懐かしそうに部屋を見回す。それから机の引き出しを開け、原稿用紙の束を取り出す。

「メグって名前はあの頃に演じた戯曲からとった。いま思い出した」

 下階から女の叫び声が聞こえ、ユーダイは注意を引かれる。

「でもどうして、母がそれを」

彼岸の王 おお、乙女よ。惨めなる乙女。吾、汝に王冠を譲らん。凄まじき彼岸の王位を

     ば。然るに、乙女、吾に供物を捧げよ。かつて吾が主にてありし男をば。彼、

     今、此岸の王なり。

彼岸の王 汝求むるに因りて応えん。彼岸の王に影あり。此岸の王なり。彼岸の王新たに

     立つとき、此岸の王も亦立つ。二者の紐帯固きこと比類無しと雖も、常に斥力

     あり。両王の国、交わらざる定めある故。

彼岸の王 おお、吾彼岸の王なれども、此岸の王を求めて已まず。火炎愈々激しくして吾

     が身を焼く。然るに吾、吾が王冠を放擲してその務めを辞し、尋常の亡者とな

     らん。

 メグが上着を脱ぐ。上着は泥に落ち、下に着ているのは薄い春物。メグはそれも脱ぎ、肌が見える。ギリコは目を背けようとし、しかし「見て」と言われる。少女と呼ぶには機を逸した、女のにおいがしそうなからだで、青あざが腹や胸や肩にある。冬山で遭難すると、正気を失いはだかになるという。それかと思う。メグは背中を見せる。背中もあざまみれ。それと、横一文字の切り傷の跡がうなじにある。メグが言う。

「ユーダイが殴った」

「あいつ、やっぱり殴るんだ。そんなことしないって言ってたけど、嘘だった」

「嘘というか宣誓。でもわたし、ユーダイに殴られるの好きだから、宣誓なんてしないでほしい。ギリコ、きみはわたしをうらやましいと思う?」

「というと?」

「きみもユーダイに殴られたくはないかって話」

「殴られたいわけないよ」

 そうかそうかと言って、メグはにやつく。のろけ話をされたのだと気付く。メグという少女はユーダイが好きなのだろう。どうしてあんなやつがと考えてから、自分も彼に好意を持ったことを思い出す。ユーダイは奇妙だ。メグが言う。

「殴り合うのが好き。ユーダイと殴り合うんだ。あいつも全身にあざがあるから、見せてもらうといい。こんなにあざだらけなのに、あいつ真面目で古臭いから、顔は殴ってくれなかった。そういう関係の上手い名前がほしいんだけど、見当たらない」

だよ。一人っ子だから、正しいかはわからないけど」

 メグが繰り返す。、か。

「わたしも一人っ子だけど、すごく正しいと思う。ありがと。きみが教えてくれなかったら絶対に思い至らなかった」

 そんなことより、寒い、火がほしい、とギリコは思う。

「ここはどこ、わたしは誰、ユーダイの何、全部答えた。他に聞きたいことは?」

「おしゃべりはやめて、火を起こす方法を考えよう」

「このまま薄着でいれば、死ねるかな」

 死にたいわけ? と尋ねる。メグは支離滅裂だ。なんのつもりなのか。

「ちがう。死んでしまえば、この場所を不快に感じることもないと思っただけ。わたしたちって死んでこちらへ来たわけじゃない偽物なのだし」

「そんなこと考えるより先に火を起こせばいいでしょ」

「プラグマティックな人だね」

 プラグマティックということばを、ギリコは知らない。

「呪術がたえず失敗しながらも繰り返されるのは、その神話と見世物性によって。だから、わたしの目論見は、きみみたいな態度とは相いれない。わたし、そんなふうにほんとうのことばかり考えて生きてられるほど、強くない。それに、誰もかれもが強くあるべきだなんて思わない」

「火を起こそう」

 メグは削り花の山の前にしゃがみこみ、ギリコを見上げる。服は着ない。

「わたし、現実のことは全然できない、というか意欲がわかない。きみもそうだと思ってた」

「ぐちぐち言わないで!」

 と叫んで、自分はメグの言うように強いのかもしれないと思う。腹が立って、髪を引っ張って、ヘアピンが火起こしに使えるかもしれないと気付く。

「固い板、そういうものある?」

「あると思った?」

「でも死にたいわけじゃないんでしょ?」

 それは理屈が通ってないと言って、メグは面倒そうに脱ぎ捨てた服をまさぐる。「あっ」と小さく叫び、上着のポケットからiPhoneを取り出す。

「固い板ってこういうもの?」

「ちょうどいい」

「今ここのきみはおばあちゃんを知ってたっけ?」

 ギリコが答える前に、メグはすり寄ってきて、iPhoneの中の祖母の写真を見せる。メグは唇を紫色にしている。早く服を着てほしい。写真の中の老人は撮られることに承服しているというふうではなく、はにかんだり、目を背けたりしていて、メグと意思の疎通ができていないように見える。そんなふうにしつこく身内の写真を撮るということに、嫌悪感を覚える。なぜかと考えてみれば母に似ているからだ。

 iPhoneをメグの手からひったくる。背面は予想に反して金属じゃなく、ガラスか、あるいはアクリルか、なにか透明なもので覆われている。だから側面を使う。ヘアピンは傷を付けこそすれ、火花を散らさない。しかし繰り返すうちに表面がざらついていって、滑る感触が弱まる。これならやれると確信する。

「どうしてこんなもの持ってるの? 高いんでしょ、これ」

「ハイソだから」

 とメグが細い声で答える。それがあまりに弱弱しいので、ギリコは報復心みたいなものが満たされるのを感じる。

「わかることばでしゃべって」

「高級でおしゃれって意味」

「じきにありふれる。何も特別でない、何も表さないものになる」

「うっつぁしいな。だから今のうちから持ってる。おばあちゃんのことを尋ねて。おばあちゃんが死んだ」

 興味ないと答える。メグは気に留めない。

「お話を作るのが上手かった。一つの声から成る気持ちのいいお話ばかり作る。聞いた後、道徳的になったかのように錯覚する。おばあちゃんのことばを通じて受け取る世界は、インチキで安逸で甘い。それはほんとうにほめてる? なんて聞かないで。ほめてない。でもそれを聞いて育ったから、愛着がある。おばあちゃんね、無理して共通語で話すの。そうでないとおじいちゃんに恥をかかせると思って、若い頃必死で覚えたんだって。外聞を気にした作ったことばで、ひとりよがりのわがままな話をする」

「ここって彼岸だよね?」

「その名前はみっともない。使われすぎてる。彼岸と此岸って構造は、ほんとうの災害の後じゃ野蛮。だからわたしはここをアンダーコントロールとよぶ」

「それならどうして、ここには死者がいないのかなって。きみのおばあさんもいていいはずだ」

 ぼくは本気になんかしてない。

「それはつまり、死んでるから。死は主観の喪失だから、死んだもののための世界なんてない。でも生きてるわたしたちは、死んだ彼らのための領域を求める。そういう場所が、ここ」

「おばあちゃんが死んで悲しい?」

「急に平凡じゃないこと聞くね。悲しい。あらかじめ覚悟してたより、ずっと」

「ぼくのおばあちゃんも死んだ。でもそうは思えなくて、むしろ怒ってる。今も怒ってる。どうして断りなくぼくの住む世界を変えてしまうのかって」

「死にはそういう性質がある。きみはおばあちゃんより死に怒るべきだ」

「怒って、どうなるの?」

「怒って、怒って、無意味だと悟って、合理化する。きみが納得できる物語にする。個人用ならそれで十分」

 わかるように話して。メグは答えない。

「きみの困りごとの本質を、わたしは知ってる。きみは物語がきらいなんだ。だからそういうものを拒み通して、冷たく生きて死のうと思うこころが、一つ。もう一つのこころというのは、きみの物語をすっかり他人に委ねてしまうことで、きみはお望みの主人公を探してる」

「ちがう」

「きみとユーダイの話、聞かせて。わたしが知ってることばかりじゃない」

「突然現れてぼくのおじいちゃんを殴った」

「らしいね」

「ユーダイは災害だ」

 メグが尋ねる。あいつがきらい?

「好きとか嫌いとかって、馬鹿げてる。そういう考えって、意識して思い込み続けなきゃいけない。ぼくはそういうことをしたくない。考えなければ存在しないものを、わざわざ考えて存在させるってのは、妙だ」

 火花が散り、泥に落ちる。メグが物言わず削り花をばらし、かんなくずの花弁を細かく裂く。二回目の火花がかんなくずに包まれて育つ。十分に大きくなった火を、メグが黄色の削り花に移す。メグの手の、燃える花を、二人で眺める。ほんとうの火、とメグがつぶやく。ギリコは火に飽きる。メグは飽きない。

「わたしはきみに共感できる。生存は、あるいは生活ってよばれる概念は、一人で抱え込むには不健全で、重たくて、その火を消してしまいたくなってしまうような、不誠実で薄汚い虚構の束だ。でも、それを手放すのは容易じゃない。でも、そんなものを一人で抱え込まなきゃいけないだなんて、ちがう。超終末期誘導灯機構が目指すのは、みんなの生存をちょっとずつ肩代わりして、虚構と、それを秩序付けるための物語の重圧に耐えきれなくなってしまう人を減らすこと。わたしたちは曖昧に、依存的に、恣意的に、あったりなかったりしていい。生真面目に生や死を見つめるより、そうするほうがよほどいいと、わたしは思う。芯を持たず、アドホックな物語に頼り、でもそれがちょっとずつわたしたちの非常口」

 わかる? と尋ねられ、ギリコは首を横に振ろうとするけれど、メグの言うことが全くわからないということもないから、困る。魅力的な提案とは思わない。

「ねえ、ギリコ。きみじゃなくてユーダイがこっちに来てくれたら、わたしはシャボンダマに呪われなかったし、こんなややこしい事態にはならなかった」

 白い煙がたなびかず真上へ伸びる。ギリコはずっと風がなかったことに気づく。

「シャボンダマはあの子を欲しがってた。わたしはシャボンダマと約束してて、ユーダイをあいつのところに連れていくことで、彼岸の王の位を譲ってもらうことになってた。ところがいざ試みると、ユーダイはこういう物事が大の苦手、まるで金槌。想像力の海を渡ってくれない。それで、曖昧で恣意的なきみを共演、共犯、触媒として使った。ところが不測のノイズが入って失敗。あの廃ビルで、きみ、ダズリーを捕まえたでしょ。ほんとうはあれがユーダイの役割になるはずだったんだけど。ちなみにシャボンダマはいま尋常の亡者。あいつの提示した条件は満たされなかったけど、王位は移った。わたしは図らずも詐欺師になった」

 聞いていい? ギリコが言う。「彼岸の王って何?」

「舞台の骨組み。先代はシャボンダマ。今はわたし」

「舞台とか役とかってのは?」

「天と言い換えてもいい。無宗教でも便利に使える概念だから」

 メグは火を削り花の山に移す。じりじりと焦げて大きくなる。それでやっと、メグは脱ぎ捨てた上着を着込む。

「これからどうしよう。死んだ人は生き返らない。でもアンダーコントロールは続く」

 メグは猫のように高い声を上げ、伸びをする。そうさせるほどに火が暖かい。

「ねえ、ギリコ。きみにベアトリーチェはいる?」

「ベアトリーチェって?」

「その人のためのなら地獄の底へだって行ってやろうって人」

「いない、そんなの」

 嘘、とメグが言う。

「でも、わたしじゃない。わたしはウェルギリウスのほうだから」

 三月十二日の午前。『助けて。すぐに来て』ギリコからユーダイに電話が入る。ユーダイはどんな非常事態かと思って彼の家へ駆けつけ、ギリコに迎えられる。玄関の、前に来たときは素通りした正面の戸が開いていて、その奥は四方全てに扉がある縦長の空間。左側がトイレ、右側が風呂らしい。奥の扉も空いていて、前に来たときは遂に見ることの叶わなかった西側が暗く見える。ユーダイはまさにそこへ通される。夫婦の空間なのだろう。プライベートな空間が実用の空間で玄関から遮られているという仕掛け。

 ギリコの母が目を開けたまま、二人分の広さのベッドで寝ている。ユーダイは、死んでいるのかと思って後ずさってから、そのよく膨らんだ腹が上下しているのを見て息があることに気づく。努めて冷静に言う。救急車を呼ぶ。携帯電話を取り出したところで、ギリコが彼の手を掴む。

「お母さんは大丈夫。よくこうなる。きみを呼んだのは、そうでなくて、お父さんのコレクションのこと」

 コレクション? と聞き返す。ギリコはベッドの周囲を指さす。棚やクローゼットが開け放たれている。祝い事で衣類を投げる風習があるとして、地震とそれが一度に来たという観。ギリコはこれだけじゃないと言ってユーダイの手を引き、母を置き去りにして家中を連れまわす。前回来たときと比べてがらくたのかさが減っている。ビデオテープや玩具、なんらかの機械。一つ一つはたしかにコレクションを形成するのにふさわしい品かもしれないけれど、こうも無秩序に貯めこまれているという状態は、コレクターの矜持を感じられない。最後にギリコの部屋へ来て、ギリコは一切合切を締め出すようにドアを閉じる。ドアに背をもたせ崩れる。

「朝早くにおじいちゃんが来て、お父さんのものを勝手に持ってっちゃった。次の競馬の軍資金だって言って」

 高松宮記念だろう。

「まずいの?」

 この家は散らかりすぎてたんだから、却ってありがたいくらいじゃないか。さすがに言えない。

「お父さんが知ったら大変なことになる。お父さんとおじいちゃん、仲が悪いんだ。こんなこと、もし、知られたらさ——

 ギリコはすすり泣く。それが次第に、無遠慮な感情の表出に変わっていく。ユーダイは居心地の悪さを覚え、目を逸らし暗い天井を眺める。いつまでもそうしてはいられず、言う。

「それなら俺はどうすればいい。お前のじいちゃんをもう一度殴ればいいのか」

 わかんないよ。ぐしゃぐしゃになりながらギリコが答える。

「わかんないから、助けてもらおうと思って、きみを呼んだ」

「持ってったものを返してもらうよう、一緒に説得しに行くってのは?」

「もう売り飛ばされてるかもしれない」

「そのときはお金だけでも取り返す。ギャンブル狂に金を与えるのは、縁のない奴に土地を預けるより悪い」

 ギリコと彼の祖父の関係に首を突っ込んだのは自分なのだから、責任があるとユーダイは思う。それにこの少年はどう見たって外部の庇護が必要だ。ギリコは肯定の返事をしようとしてやめる。一緒には行けないと言う。

「お父さん、今日帰ってくる予定なんだ。それってまずいでしょ。だからぼくの方から出掛ける」

 ギリコじゃなく、彼の母が行くべきじゃないかとユーダイは思う。しかし実現性はありそうにない。

 嘉さんが死んで以来、久しぶりの大槻。曇りガラスの引き戸を開け、ギリコの祖父を呼ぶ。ふすまの向こうから老人が姿をあらわす。老人は顔をしかめて言う。

「田舎もんが。人の家に上がるとき、そうはしねぇんだ。それにお前ェが来る用事なんて」

「あんたの孫に頼まれた。家のものを返してほしいって」

「ギリコはなして来ない?」

「父親に会いに行くって」

 帰ってくれと老人は言う。ユーダイは聞こえなかったふりをしてその場にとどまる。どうせ実力で排除することはできないのだから、これでいい。わかったよ。上がりな。老人は折れる。

 老人は座椅子にかけて言う。

「倫は? ギリコが来ないなら、来るのは倫だばい」

「寝込んでる」

「しょうもない嫁だな。息子がなしてあんなのと結婚したのか、未だにわからねぇ」

 都合がいいからだと思う。住むことを考えず前衛芸術みたいな家を建て、そこを物置にして別居しても文句を言わない。そういう気配を、結婚する前から漂わせていたのだろう。見る限り、物が増えているということはない。前と同じく仏壇とその周りだけがかろうじて片付いている。

「返してやれ。息子さんのコレクションだって聞いた」

「もう売った」

「だったら、その金は返さなきゃいけねんでねェのか? ギリコも言てったべした。ギャンブルなんてやめなきゃなんねって」

 稼がれなくたっていい。老人がつぶやく。「馬に金を払いたいんだ」

「息子の金を?」

 老人は否定も肯定もせず、不機嫌そうな表情になる。老人の視線が仏壇を向いているとユーダイは気づく。共通の趣味だったのかもしれない。

「ギリコ、泣いてたぞ。父親に知られたら大変なことになるって」

「それなら遅い。もう知らせた」

 ユーダイは壁にかかった時計を見る。正午を過ぎた頃。福島へ新幹線で向かったとすれば、既に到着しているはず。ユーダイが帰ろうとするのを、老人が引き留める。

「何もしねぇで帰るな」

「何をしろって?」

「ギリコの代わりに、ばあさんに線香あげてくれ。どんなに言っても、あいつそれだけはしねぇんだ」

 ユーダイは老人から数珠を借り、仏壇の前に正座し、一礼してリンを鳴らし、線香を供え、狭間家の宗派がわからないから般若心経を唱える。後ろで老人が感心しているのがわかる。神も仏も本気にしていないなりにこんなことができるのだから、自分は器用だ。その器用さがあるのに、この老人を殴った。なぜ殴ったのかと言えば、ギリコが魅力的で、腹が立って、仕方なかったから。俺がおかしいのじゃない。ギリコがおかしいのだ。そんな考えを許しそうになる自分が怖い。

 新幹線の改札をくぐり、連絡橋と接続する通路へ出る。利用者はまばら。清掃員が回転するモップの機械を押してホワイトノイズを散らしている。迎えに来た父にギリコは否応なく気づく。青白く、高身長、針金。誰とも目を合わせようとせず、口数少ない。ギリコは思う。こんな人物が刑務官を勤めているとは、誰にもわかるるまい。父はどんなふうにして労働しているのだろう。スーパーなり工場なりに勤めているのなら、親の労働を見学する機会もあるだろうけれど、刑務官じゃそうはいかない。

 二人で駅構内を出、彼のアパートまで在来線一駅分を歩く。新幹線を使うことで節約した時間がすっかり無駄になる。福島市の見慣れない街並みは郡山と比べて灰がかり、ほこりっぽいほどに乾いている。東北新幹線から分岐した山形新幹線の高架が、彼らの道のりに寄り添う。父はよく歩く人だ。考えてみれば、同居していた幼いころにも、この人はしばしば散歩に行くと言って家を離れ、何時間も帰らないことがありはしなかったか。そんなときはいつも、ギリコは不機嫌な母と二人きりで残された。父の歩幅は広く、ギリコとは簡単に距離が開いてしまう。だから父はときどき立ち止まってギリコが追いつくのを待つ。そういうときにも、しかし、振り返るそぶりは見せない。

 線路沿いのアパートに着き、父の部屋に上がる。整然としているというよりは、殺風景、無機質、その極み。十畳はある。父は座布団すらない床の上であぐらをかき、ギリコはその正面に座る。父が尋ねる。

「あのパソコンどうしてる? 親父に持ってかれてはいないよな」

 既に事情を知られていたわけだ。それにしては父の態度は落ち着いていると、ギリコは思う。祖父が電話していたに違いない。

「それは、持ってかれてない。知ってるならどうしてこっちに来なかったの? ちがう。ぼく、おじいちゃんの味方をしようと思って押し掛けたんじゃない」

 わかってる。父はうつむいて答える。

「俺は帰りたくなかったんだ」

「どういうこと?」

 どういうことって、そりゃあ。ギリコは父のことばの続きを待つ。しかし父はついに答えず、話題を変える。

「パソコン、どう使ってる?」

「動画の配信」

「見に来る人がいる?」

 たくさん、とだけ答える。具体的な数を挙げるとたじろがれそうだから。

「よかった。お前にはそういう機会があればいいって思ってたんだ。だって、よそへ遊びに行ったり全然しないだろ。高校を卒業してからはなおさら」

 ギリコはカミサマトンボの女の子を思い出す。あの子になりたいと思ったことが女装のきっかけ。

「俺もお前の配信見ていいかな?」

「いやだ!」

 父は爪をはがされた捕囚みたいな顔をする。いやだ。ともかく、いやなのだ。父は無感情を装っておびえながら(ぼくにはそう見える)、新たな話題を試みる。

「お母さんと上手くやってる?」

 まあ、うん。それならいいんだと言って、父は骨ばった手を膝の上でもむ。出し抜けに、早口になる。

「スマホほしくないか? お前くらいの年の子はみんな持ってる」

「みんなじゃない」

「でも、携帯すら持ってないのは珍しいだろ」

 そりゃそうだけど。ギリコは気圧されて答える。やおら立ち上がる父。一八〇後半の背。

「じゃ、行こうか」

 行こう、って。西日が差し込む。白かった部屋の壁や天井が、心なし黄色く染まる。

——やめてよ。そういうの」

 なぜ腹が立つのか。なぜ父に配信を見てほしくないと思うのか。この人の間抜けなところは、その気がないのに、つながるための道具ばかり続けて買い与えようとしたところ。どうして、よりによって、そんな地雷を踏み抜いてみせるんだろう。

「真面目に話をしてほしいんだ」

「え?」

「もっと話してほしいんだよ。それをしないで、ぼくの配信を見ようなんて言わないで。お父さんはすぐに逃げようとする。お父さんはさ、家に住むつもりはないわけ? おばあちゃんが死んでからさ、ぼくがずっと一人でおじいちゃんとお母さんのあいだを取り持ってる。これからもずっと、ぼくが一人でそんなことしなきゃいけないの?」

 父の表情を見上げる。父は目を背ける。いつだってそうだ。

「家は居心地が悪いか?」

「真面目に話してって言ってる。そんなふうに無理に前へ進まないで」

 父はごめんと言う。「俺は帰りたくない」

「お母さんのこともおじいちゃんのこともぼくに押し付けて、死んだ人みたいにふるまうんだね」

——もう好きにしていい頃だ。お前は十九歳で、健康なんだから」

 ずるい。

「それなら、ぼくがこっちに来てお父さんといっしょに住むってのは?」

 父の鼻の形が自分に似ていると気付く。あなどられそうな、中性的な顔立ちで、これでどうして刑務官が務まるのだろう。ぼくも同じ職業に才能があるのか。

「駄目だよ、それは」

 動画に反応とギリコがメールをよこした。三月も下旬で、彼の祖父を訪ねてから十日以上経っている。ギリコに頼んだ内容を思い出すのに、短くない時間を要した。配信でメグを探す。確かに頼んだ。ここしばらく彼とはやりとりがなかったから、その頼みばかりか、ギリコのことさえ忘れてしまいそうだった。ギリコが遠ざかっている間、ユーダイのこころを占めていたのは、やはりメグのこと。ギリコと似ているのは、すぐに去っていってしまう季節の草花のにおい。一方でメグはそんなふうに儚げじゃなく、地球全部が凍り付いてもしぶとく生き延びていそうに思う。その点でメグのほうがずっと好ましく思える。ユーダイは昼の布団の上で、携帯の、ギリコからのメールの画面を漫然と眺めている。短いメールなのに、相変わらず変換があらぶっている。

 メグはどこにいるのだろう。メグの部屋だったはずの場所から立ち去るとき、ユーダイはあの原稿用紙の束を持ち帰っていて、今も手元にある。枕元を探ると、廃ビルで拾った白い馬のぬいぐるみの足元にそれがある。並木のアパートに自室はない。とはいえ母は思うところがあるらしく、寝る部屋は分かれている。両親が寝るのはこたつのある居間、ユーダイに与えられているのは五畳弱の洋間。あくまで彼の部屋ではなく、ほとんどの面積が共用の家財で埋まっているし、入る前にノックをするなんて上品な習慣は門馬家にない。ユーダイが持ち帰ってきた白い馬のぬいぐるみを見て、母は「あっ、シャボンダマ」とだけ言った。

 原稿用紙の束は戯曲。真木始とその妻の、東京時代の記憶だろう。そんな小恥ずかしいものを、持ち帰らせてくださいと言ってそうさせてもらえるとは思えないし、ユーダイは実際頼まなかった。真木はあの直後、病院へ行かなきゃならないと言って慌ただしく去り、ユーダイは他人の家に取り残された。だから、その品、メグがいるというその品を盗み出すことができた。戯曲には「彼岸の王」と「此岸の王」ということばが繰り返し使われている。神話的なファンタジーで現代劇。女の筆跡だから、執筆者は真木の妻だろう。メグという名の人物は主役じゃない。本物のメグのほうが、はるかにまぶしく照らされている。

 連絡をよこした人は渡辺佐智子という。午後にビッグアイの展望階で待ち合わせる。時刻と場所を指定したのは佐智子。郡山の人で、春休みの帰省で来ていると知らせてきた。大学生の春休みというのがどんなものか、ユーダイにはわからない。メグは年中無休で春休みみたいなものだから。

 展望階には大規模な鉄道ジオラマがある。横幅は二十メートル弱、三つの区画が三つの時代に対応している。縮小され、再構築された郡山の町並み。平成の区画はビッグアイと逢瀬川、開成山球場が見分けられる。駅の南に位置する車両基地は実際よりはるかに大きく、市街全体の半分ほどの広さで表象されている。知っている土地を夢で訪れるとき、こんなふうに歪んでいるものだ。昭和の区画は冬で、それと対照して平成の区画が春だったとわかる。走っている模型も新幹線から蒸気機関車に代わる。回転式の操車場がある。それよりも以前、大正か明治の区画は秋で、そもそも市街と言えるほどの町並みがない。実際の郡山が当時ほんとうにそんなふうだったかと言うと、不毛の地とはいえ街道沿いの宿場ではあったのだから、さすがに嘘をついているはず。鉄道馬車が走っている。この奇妙な様式が県内でも行われていたとは知らなかった。「門馬さん?」模型の街とユーダイを隔てるガラスに、茶髪のボブで一五〇センチに満たない背の少女が映り込む。ユーダイは振り返る。渡辺佐智子ですと少女は名乗る。

 売店で二人分のアイスを買い、窓沿いの席に座る。テーブルは円形、その中央に凹面鏡と木星の模型がはまっている。直径三センチほどの木星の像がテーブルの表面より上に浮かび上がっている。ここには同じ仕掛けの施されたテーブルが太陽系全ての分ある。プラネタリウムが入った銀の球体が窓と反対の側にあり、空間を圧迫している。佐智子はリスのような仕草であたりを見回して言う。

「ギっちゃんはいらっしゃらないんですか?」

 ギリコの配信を見ている人なのだから、彼に会いたいのは当然だろうとユーダイは思う。どれほど怪しい人物が来るかわかったものじゃないから、ギリコは連れてこなかった。今日は来られないんです。ユーダイが言い、佐智子は落胆する。気づかないふりをして本題に入る。ユーダイは言う。

「真木メグを知ってるんですね?」

「知ってるっていうか——

 佐智子は言いよどむ。何を言いよどむことがあろうかとユーダイは思う。変な人だと思わないでください、と佐智子は前置きする。

「わたしが描いてる漫画によく似た子がいるんです。それで、メグという人についての話を聞いてから考えてみると、わたしどうしてもその人をモデルにしてたとしか思えなくて。描いたものを持ってきてあります」

 佐智子はトートバッグから、数冊の冊子と、黒くにじんで涙のような文字のワード打ちの資料を取り出す。資料はキャラシというやつで、佐智子がメグと似ていると言うところの人物のものらしい。利き手だとか姿勢の癖だとか、小説では無視できても漫画では不可避と思われる設定が記してあり、容姿を描いた絵がいくつか。ほんとうのメグに似ているとは思われないけれど、ユーダイが以前書いた似顔絵とは確かに通ずるものがある。舞台は火星。トルストイのサンクトペテルブルクをブラジルに移設したような、大衆がうごめく石造りの憂鬱な都市。革命をするという筋に、理屈がましい設定がまるで嚙み合っていない。冊子のほうは設定を共有するシリーズで、メグ(仮)が登場するのはその一部分だけ。世界に引っ張られ、その箱庭で動かすための適当な人形として人物が作られれている。ユーダイの好みじゃない態度だけれど、そんなふうになってしまうことには同情の余地がある。線の数が過剰で丁寧とも汚いとも評価でき、コマの進行が不可解。画力はあるのだろう。

 「変ですよね」と佐智子が言うのでユーダイは視線を上げる。恥じらって頬を赤くする佐智子は愛らしく、たとえ漫画の出来が散々でも、この子が描いているという事実のために高く評価してしまいかねない。

「こんなこと言って、自分が描いた同人誌なんか見せちゃって。でもギっちゃんの配信を見て思ったんです。これってそういう問題なんじゃないかって」

 ユーダイは面食らう。ギリコはそんな新興宗教めいた配信をしていたのか。

「ギっちゃん、言ってたじゃないですか。夢の中に自分じゃない自分がいるって。真木メグって人がわたしの漫画の中にいるのも、似たことじゃないかと思うんです。あっ、その回見ました?」

「いや、見てなくて」

 実のところユーダイはギリコの配信を一つも見ていない。

「えー、もったいない。わたしあの回の衣装がお気に入りで。あの黄色いやつ。素直で元気! って感じ。あんな子を生で見たら、わたし理性を保てる気がしないくらい」

 生で、どころか彼の部屋で生着替えを見たことがあると言ってみたら、佐智子はどうなってしまうだろう。ユーダイは想像する。首を絞められるかもしれない。佐智子は強烈なファンだ。ギリコを連れてこない選択をしたのは、彼女には申し訳ないけれど、適切な選択だった。佐智子は息継ぎをして言う。

「それと、そう。真木メグという人の住所、言えないって言ってましたよね。ギっちゃんと同じ町の人で、住所バレを避けたからだというのはわかるんですけど。そう、それでわたしびっくりしちゃった。まさかギっちゃんが郡山の人だとは思わなくて。ってことは真木メグも郡山の人なんですよね?」

「ええ」

 そう、それなら。佐智子は黙る。表情が真剣になる。

「その人の出身校って安積払暁ですか? 長者の、白い木造の旧校舎がある」

 遠く深いところから、白い尾を引いて記憶がよみがえる。

「たしかに安積払暁です。メグはそう言ってた」

 じゃあ、そうなんだ。佐智子はつぶやき、それから震える。この場所が寒いのかとユーダイは思う。ユーダイが心配するのがわかってか、佐智子が言う。

「ううん。寒いんじゃないんです。こんなふうに震えちゃうのは、怖いから。これから言おうとしていることが、わたしの生きてきた世界をバラバラにしちゃう気がして」

 何て?

「ギっちゃんの配信を見た後、わたし気づいたんです。わたしには真木メグって子の記憶がある。高校で同級生だった。でも、わたし以外の誰もその子を覚えてない。それだけじゃなくて、真木メグって人の記録はどこにも残ってない。わたし漫画を描いてて自分の頭がおかしくなっちゃったんじゃないかと思って、すごく怖くて。あなたにはその人の話をしていいんですよね。そうですよね?」

「メグは現実です。俺が保証する。おかしくなったのは俺とあんたじゃなくて、それ以外の世界のほう」

 そう、そうかもと言って佐智子は笑みをこぼす。なぜ笑う。

「真木メグとわたしは合唱部にいました。払暁の合唱部って何年も全国で金賞を取り続けてて、普通じゃないんです。そういうとこだから規律が厳しくて、それがいやで辞めちゃう子も少なくない感じの。メグちゃんは部の中でも特別上手な子で、でも、合唱向きじゃなかったんです。上手なんだけど、歌い方の質も、本人の気質も、癖が強くて。それで、二年生の文化祭のとき、合唱部は歌う場面があるんですけど、それって学内のイベントとしてはいちばん大事で、部の卒業生も聴きに来てて、全然、ほんと全国と同じくらい緊張する人もいるってくらい大事な舞台なんです。そのとき、メグちゃんはちょっと前に顧問の先生と大喧嘩してて。なんで喧嘩したのかは知らないんですけど、たぶん指導のことです。メグはまさに歌ってる真っただ中で体育館のステージから飛び降りて。それって普通大騒ぎになると思うんですけど、うちの合唱部強いから、みんな動揺しても歌い続けて。メグはそれが気に入らなくてすごい形相でわたしたちをにらんで。そう。わたし、そのときのことが目に焼き付いてて。だって、わたし歌い続けちゃったんですよ。メグをかっこいいと思ってて、メグのすることに味方したいって気持ちもあったのに、怖くて。終わってからみんな泣いて怒ってました。なんてことしてくれたんだって。メグはそれきり幽霊部員でした」

 あっ、CD。佐智子が叫ぶ。

「CD?」

「メグは、わたしに、黄色いCDをくれたんです。それでわたし、それがわたしだけに宛てたものだと思い込んで喜んじゃって、でも、全然そんなことなくて。メグは合唱部みんなに同じものを送り付けてました。何が焼いてあったんだっけ。わたし、あれをどうしたんだっけ——

 ここはアンダーコントロール。メグとギリコが赤い橋を渡る。橋ははてしなく長く、両岸がかすんで見えない。海のように見えた橋の下は、実のところ大地で、雲の切れ間から黒い林が見分けられる。西の山の向こうに猪苗代湖の水面が浅い角度で見え、東は阿武隈高地の先に水平線が見える。しだいにいくつかの場所が開け草地になっていく。村ができていくのが見える。大地が振動し、橋も揺れる。ギリコは欄干にしがみつく。昼と夜が目まぐるしく入れ替わり、区別がつかないほどになる。地上には人の火。断続的な大小の揺れ。やがて人の火は大きくなり、見覚えのある町の輪郭に近づいていく。昼と夜の巡りが急速に遅くなっていく。

 知らない幼児が、サブリミナル効果を狙って仕込まれたフィルムみたいに、橋の上にほんの一瞬現れる。火山——磐梯山が噴火する。高圧電線が山と盆地を越えていく。僧侶が現れて消える。メグとギリコの頭上を銀色の光が無数に飛んでいき、町の何カ所かが吹き飛ぶ。この人たちは誰? ギリコが尋ねる。

「彼岸の王。といっても、最近の彼岸の王は在位が短い人たちばっかだったみたい。本当は、やめたいと思わない限り、いつまでも居座れる」

 背負うように毛皮を羽織り、脂で固まった髪が胸まで垂れている人物。地下足袋をはいているから、見た目に反し、せいぜい百年もさかのぼらない。その人は長い時間、橋の上で立ち尽くしている。来た。この人すごいんだ。メグが言う。

「彼岸の王はアンダーコントロールに空いた穴。その穴は此岸の王に繋がっている。さまよえるユダヤ人って知ってる? 芥川龍之介が小説にした」

 ギリコは首を横に振る。

「不死だと伝えられてる人。日本だと八百比丘尼が有名かな。人魚の肉を食べて死ななくなった。その人もきっと此岸の王。彼らの不死ってのは呪いだと思われてるでしょ。でも呪われてるのは彼らじゃなくて、彼岸の王のほう。彼岸の王ってのは、アンダーコントロール、つまりここにいて、此岸の王を誰より大切に思ってる人。その人が彼岸の王である限り、此岸の王は不死。でもこれって美しい関係じゃない。というのも不死である此岸の王は、アンダーコントロールへは来てくれないんだから」

 ギリコが尋ねる。

「それならどうして彼岸の王になるの?」

「死んでほしくないからでしょ。そういう身勝手な考えって、ある。ギリコ、これは何についての話だと思う?」

「彼岸の王とか、此岸の王とかの話。今まででいちばん真面目に答えてくれたと思うけど、結局、なんのことかわからない」

 ちがう、とメグが言う。

「何を話したかじゃなく、何についての話か尋ねた。これはね、永遠はないって話」

「だったらもっと簡潔に話せる」

 そういうやりかたは公共的じゃない。メグがつぶやく。

 人くずれ、橋くずれ、町くずれ

グラグラグラグラ

と大地がわきたつ。さっきのとは比べ物にならない恐ろしく激しくて長い揺れ。毛皮を指して、メグが言う。

「六十と数年の孤独に耐えられなくなって、この人もまた彼岸の王を辞める。世界は、王の退位を祝う」

 揺れがいよいよ激しくなるにつれて吹雪が起こり、空に張られたブルーシートがはがれていく。視界が白で埋まっていく。ギリコが言う。

「そういうのきらいだ! きみみたいに不注意な人が、世界をそんな風にする。どうして、起こったとおりのことを受け入れようとしないんだ。どうして、ありもしないことを付け加えようとするんだ」

 ナイーブだねぇ、とメグが言う。

「教えたげる。みんな弱いんだ。破壊と再生、生と死の交わる場所として災害を解釈する、ありふれたやりかた。形を変えてしつこく現れる。復興、復興って、あれも実はこの類。でも大丈夫。超終末期誘導灯機構の団員たるきみは、物語に隷属しない。むしろ偶然で複雑なトリックスター。きみは新たな解釈を示していい。本物になったっていい」

 すぐ近くに雷が落ち、視界が暗転する。

ギリコはかろうじて水面から顔を出し息を継ぐ。水は黒く、無数の瓦礫が浮かんでいる。ギリコは流れてきた屋根によじ登る。体が冷えきっていて震えが止まらない。眠りに落ちる。と、自分があの厩舎の中に突っ立っていることに気づく。馬は——シャボンダマはギリコが見えていない。彼岸の王、あの毛皮の人物が現れて、シャボンダマに言う。

「人間はわかんねだめだ。だから、お前ェ、んまのお前ェを次の王にする。そんためには試練があって、いけにえ連れて彼岸さ降りて来なきゃなんね。ほんだら俺を殺せ」

 場面が飛ぶ。若い男が厩舎を訪れる。男がシャボンダマの頬に触れる。シャボンダマは彼の魂を吸い上げる。

雷鳴

ごく近く。空気がはがれていく爆音。シャボンダマの目が、ギリコを——客席を見つめる。夜の闇の中でシャボンダマが燃える。

 再びアンダーコントロールの広大なぬかるみ。削り花の花畑。シャボンダマがギリコの目の前に。ギリコは後ずさってあたりを見廻し、メグを呼ぶ。返事がない。声はさえぎるもののない無限の空間に吸われていく。ギリコは北へ走る。シャボンダマから遠くへ。逢瀬川の岸に至るけれど、水量が増していて渡れない。対岸にメグを見つける。叫ぶ。

「メグ、これってどうしちゃったの? あいつは死んだんじゃなかったの?」

 してやられた。メグの答えはおそろしく遠くからかすかに聞こえる。

「あいつ、回想の世界からはいずり出てきたんだ。わたしとちがって通行権があるから」

「どうすればいい?」

「CD、もってない?」

 ギリコはコートのポケットがふくらんでいるのに気づく。取り出してみると、覚えのない黄色いCD。尋ねようとするも、メグはもういない。

「ぼく、女の子の服を着て配信やっててさ」

 ギリコが唐突に言うので、ユーダイは飲んでいたコーヒーでむせてしまう。場所は駅前の閉鎖された地下通路。そんな場所があることを、ユーダイはもちろん、生まれてこの方郡山に住んでいるギリコも知らなかった。メグは古い住宅地図にこの場所が描き込まれているのを見つけたのだという。昔、上の通りに屋根が付いていた時代、この地下通路には露天商がたむろしていたらしい。正規の入り口は閉鎖されて久しいが、近隣のビルの地下階がまだここに通じている。それだって不法侵入なのだけれど。人が入った形跡はまるでない。空気は冷え切っていて、どこからともなく透明な水が滴る。鼠や蝙蝠はいない。苔や黴がすこしと、水たまりの中を透明なヨコエビが泳いでいる。こんな場所が実在するとは信じられないほどの、都市から隔絶された空間。

 ギリコが言う。それで、聞いて。

「前の配信で、ぼくが誰か知っていて、住所も知ってるってコメントが付いた。それだっていやなのに、昨日、家に水着が届いた。送り主の名前なしで」

 着たら? ファンからの貢ぎ物なんでしょ。メグが言う。

「馬鹿なこと言わないで。かわいいっていうより、頭のわるいおじさんが妄想たくましゅうしたようなやつだよ」

 被害届を出してみる? メグが尋ねる。ギリコは首を傾げ、心底困ったという表情をし、答える。

「それはいやだ。なんでかっていうと、水着のことをお母さんに知られたくない。そんなこと知ったらお母さんは配信を許してくれない」

 わかんねぇなとユーダイがつぶやく。

「普通に犯罪だべ。それに巻き込まれるリスクを負ってまで配信を続けたいって思うのは——

「わたしはわかる」

 メグが割り込んで言う。

「きみもわかるべきだ。そのときの配信って録画ある?」

 ある。じゃ見せて。俺も見たいとユーダイが言うので、ギリコはぎょっとする。配信のギっちゃんと三人で会うときのギリコとには曖昧な距離があり、その距離を飛び越えてみせるには素質がいる。メグにはあってユーダイにはない。しかし本人が飛びたいというのなら、止める理由もない。

 深夜。逢瀬川にかかる橋の上を、原付が疾走していく。運転手はネックウォーマーで口元が隠れているし、ヘルメットにバイザーが付いているから目元も見えない。障害になるものなど何もないというのに、原付は転倒し、運転手は前方に投げ出される。怪我は負っていない。身を起こそうとしたところで、二人組が飛び出してきて運転手を取り押さえ、一人が背中の側から脇に腕を回し、もう一人が両脚を掴んで、運転手を河原へ運ぶ。一人が運転手のヘルメットとネックウォーマーをむしり取るように脱がせ、その手が顔をべたべたと触る。手が伸び放題のあごひげに当たる。男の声。

「合ってる」

「じゃあ手筈通りに」これは女の声。

 甘い匂いにむせ返り、ぬめりのある液体が原付の男の顔に垂れる。悲鳴。

 配信に悪質なコメントを付けた輩の正体は、思いがけず、すぐ判明した。ユーダイの職場の通販会社の倉庫には、先輩と呼ばれる人物がいる。歳はまだ二十代前半から半ばに見えるけれど、入れ替わりの激しいその職場では、彼より前から勤めている人物がいない。よってどのバイトから見ても先輩。手際が悪いし勤務態度も真面目じゃない。にもかかわらず図々しく居座って深夜賃金を吸い上げていることに、ユーダイは多少感心するのだけれど、それ以上に人間性がクズだ。先輩はしばしば職場のパソコンで成人向けの動画を見ている。あるときなど本物の児童ポルノを視聴しているのを見かけてしまい、心の底から軽蔑した。

 その夜、ユーダイは先輩が珍しく着衣の人物の動画を見ているのに気づき覗き込んだ。地下アイドルか、そうでなければコスプレものだろう。どちらにせよ遠目に見た印象から判断する限り、属性じゃなく(本当に。接待されたくない)、顔や体格がユーダイの好み。メグとはかけ離れている。メグが好みじゃないのかと言えば、ためらいなく肯定する気にはなれないけれど、容姿については事実そうかもしれない。些細な問題だと思う。メグも俺を容姿で気に入っているわけじゃない。

 豈に計らんや。画面に映っているのはギリコ。配信者としての名前を教えてもらっておきながら、結局録画を見ていなかった。いざ見ようとすると、人の日記を覗き見るような抵抗を感じた。メグはきっと教えてもらったその日のうちに見ただろうに。先輩が尋ねる。お前もこの子好きか? ええ、とユーダイは答える。不自然にならないように注意を払ったつもりだけれど、客観的には気色悪いはにかみの表情に見えるだろう。画面の中のギリコは濃いピンクでオーバーサイズのパーカーを着ていて、立ち上がると生足が見える。カメラの前で回る。パーカーのフードに長い兎の耳がついている。先輩が言う。

「この子実はさ——

 先輩はわざと間を置く。ユーダイにはその続きがわかるけれど、あえて言わない。

「男の子なんだぜ」

 先輩はにやついている。ユーダイはさも信じていないというふうを装って答える。何言ってんすか。いや、それがマジなの。へえ。ユーダイは配信に見入る。画面の中のギリコはあまりに愛らしい。

「先輩、男もいける口なんすか?」

「バーカ。この子みたいにほとんど美少女なショタだけ」

 実のところギリコは十九歳だ、とユーダイは知っている。どう譲歩しても「ショタ」という年齢ではないし、少年という括りに入れるのも無理が伴う。とはいえギリコが十九歳に見えないのも事実で、中学生が妥当なところ。先輩が言う。

「ただこの子さ、お高く留まりすぎなんだ。全然露出してくんない」

「脚出してるじゃないっすか」

「そんなの標準だばい」

 ユーダイはもしやと思い、鎌をかけてみるつもりで言う。ギリコの配信を見る人はどれほどいるのだろう。その中の一人というのは、ひどく低い確率にちがいない。

「じゃ、薄着をリクエストしてみるとか。それこそ、水着とか」

 そうなんだよ。先輩は食いつく。

「俺、実はこの子の住所知っててさ、って言うのも、この子の衣装、こっから配送されてんだ。気づいたときそりゃもう大興奮。で、その住所へ様子を見に行ったっけ、普通の家で、でも全然人の気配がない。車もない。仕方ないから帰ろうとして近くのファミマに寄ったっけ、見ちゃった。あの子変電所の横のファミマでバイトしてんだ。ヘアピン付けちゃって、声も高いし、お客さんはみんないやにロリロリしい女子高生がバイトしてるくらいに思ってるぜ」

「それで、特定して、どうしたんです?」

「水着のリクエスト、もうしてるんだ。でも着てくんない。だからここの在庫をプレゼントした。俺っていい奴。ほれぼれしちゃう」

 先輩は予想通りのルートで現れた。先輩が通る橋、その路面にはあらかじめ水を撒いてある。暖かく乾いた日が続き、前に積もった雪は縁石の影に泥と交じって残っているばかり。つまり先輩は路面の凍結などまるで意識にないということ。

 人も車もない道に、原付が過剰な速度を出してやってくる。前輪が横に流れる。とっさに立て直そうと進行方向の逆に体を傾け、路面に足を着け金田みたいなブレーキを図る。馬鹿め! 高速だし、この世界の人間に漫画と同じだけの力があるわけじゃない。慣性が先輩の努力を裏切り、車体は進行方向へ傾斜。先輩は吹き飛ぶ。腰、肩の順で打ち付け、アスファルトがヘルメットをやさしく削る。諸手を突き立ち上がろうとする。

 橋の下から躍り出たのはユーダイとメグ。報復その一はベビーパウダー。目をつぶさなければならないから、手始めがこれ。一缶の量を顔面にぶっかけ、先輩はむせ返る。次からが本番。除毛クリームを後退の気配がある生え際に丹念に塗り込む。先輩は何をされているかわからないまま悲鳴を上げる。それから木酢液。害虫除けに使う液体で、怖ろしくくさい。蕁麻疹に効くと言って入浴剤として使う人々も。それを五リットル、頭から爪先までかけていく。くっさ。くっさぁ。先輩は身をよじり逃げようとするけれどユーダイの腕力にかなうはずもない。構わず服の中へも注ぐ。ユーダイが言う。

「これで全部。どうする?」

「川に投げ捨てよう」とメグ。

「冬だぞ。死ぬべ」

「でもこのまま置いてったら、終わったって感じがしない。それはいや」

「そりゃそうだけど」

「やるよ。せーの!」

 固い音。それは先輩の体が水面に打ち付けられる音。メグが言う。「しかし、さっき一ぺん紙くずのようになったその顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした、ってわけだにゃあ」

 二人は橋の上へ戻る。ギリコが歩道でしゃがみこんでいて、その横に先輩の原付。先輩が転倒した後、余計な事故を起こさないため車道から片づけるという仕事が割り当てられていた。メグが言う。済んだよ。川に投げたのと尋ねられ、メグはそうだと答える。

「やりすぎじゃないかな」

「ギリコはこういうのきらい?」

 きらいってことはないけど。ギリコはそう言ってしゃがんだまま橋の欄干にもたれ、冬の空気を吸う。「冬の空気」というのは常套句だと思う。冬の空気を吸うと意識が張り詰め、狭間ギリコの実在が感じられる。冬の空気を吸えない季節に、どうやって狭間ギリコでいたのかわからなくなる。これはきっとぼく一人の感覚じゃなく、どこかの誰かたちがすでに感じたこと。メグが言う。

「打ち上げをしよう」

 ギリコの足元にドンキの黄色い袋。ベビーパウダーも除毛クリームも木酢液もそこで買った。三人はそこから缶ジュースと菓子類を取り出す。メグが乾杯と言う。

 扉、扉、扉につぐ扉をくぐり、ギリコは中央図書館へ至る。中央図書館だとわかるのは、取り出した本のバーコードにそう書いてあるから。扉は本来つながっていないはずの空間をつなげている。ここへ来るまで無数の図書館を経由してきたけれど、外が見えるとき、その景色はすべてブルーシートが浮遊するアンダーコントロールの空。いまも閲覧席の広い窓の向こうに見える。その閲覧席の日向でシャボンダマが座り込んでいる。あちらこちらの書架から、ギリコは本を集める。いわゆる大人向けの本は興味を引かないから、絵なり写真なりの入ったものを選ぶ。ガーデニングについて。鳥の図鑑。天体写真集。『図説 金枝篇』というのは、図説を名乗っているのに写真の意図がまるでわからないから選ぶ。腰を据えてそれらを読もうとしても集中力は一時間と続かず(本当に一時間だっただろうか? こんな場面で、誰も妥当な時間の感覚を保てるものじゃない)、積み上げた本の山を崩す。大山鳴動。

 図書館には音声資料の区画があることを、ギリコは思い出す。シャボンダマの目を盗んでそこへ行く。メグから受け取ったあの黄色いCDを再生する。街路の音。セミの声。雷鳴と雨音。これは夕立だ。メグはそんなに前にこれを録音した? メグはどうしてこんな方法を使うのだろう。

『ハロー、ハロー。ディス・イズ・グラウンドコントロール。超終末期誘導灯機構を始めます。きみの役は斥候。目的はわたしたちのランディング・ポイントを見つけること。飛び立ったことばの可能性は、二つに一つ。着陸するか、あるいは』

 音声はそこで途切れる。着陸するか、あるいは。ギリコは考える。どんな「あるいは」があると言うのだろう。飛び立ったらそれっきりの、帰ることのないことばなんて。

 ギリコは探検を続ける。明らかに図書館ではない場所に出る。個人の家で、夜。窓から月明かりが差し込む。古くはないけれど、古めかしい家で、なんと言うのだろう、趣味がいい。たくさんの小物から成る生活感が建物の心地よさと溶け合っている。ぼくの家にはない。ない、ということに気づいたのは今が初めてで、そうでなければきっと気づかなかった。テレビとソファ、壁は本棚。本棚には本じゃなくビデオテープが並べてある。その秩序だった配列を崩し、最近取り出されたらしいテープが一か所にまとめてある。『地球に落ちてきた男』、『戦場のメリークリスマス』、『最後の誘惑』、どれも知らない。

 曇天の真木家の門。ユーダイとギリコが来ている。門は閉ざされていて、ユーダイがインターホンを押す。ややあって女の声が聞こえる。この声がメグの母か。くぐもり、かすれ、古い邦画のように聞き取りづらい。真木始が門を開ける。

 二人はサンルームに通される。三月末の、梅開き桜のつぼみほころぶ頃で、風が遮られたサンルームは汗ばむほど暖かい。真木が家の中は慌ただしいんだと言う。ユーダイにはそれがわかる。身内が死んだ後というのは慌ただしい。そちらの方はと尋ねられるが、ギリコは顔を赤くして答えない。ユーダイが代わって言う。

「狭間ギリコです。俺の記憶の限りでは、こいつも真木メグと面識があります」

「でも覚えてないというんだろ?」

 ギリコはうなずく。真木が言う。

「だというについてきてくれたってのは、いい友達だ」

 俺が今日来たのは、メグについてわかったことを報告するためです。そう言ってユーダイは紙の資料とノートパソコンをテーブルの上に取り出す。保険屋の営業みたいに見える。

「メグをそのままの形で覚えてるのは、俺一人。でも、漫画とか絵画とか——そういうのを何といえばいいかわからないんですけど、そういうところでは必ずしも忘れられてないらしいんです」

「虚構の中ということ?」

 真木が言う。ユーダイは佐智子から受け取ったコピーを真木に見せる。メグに関する箇所に付箋を貼りつけてある。

「それを描いた人は安積払暁の卒業生です。俺が記憶している限り、メグもその高校を出ていて、同級生。これを描いた人はメグを知っていて、それが漫画に落とし込まれた。そう考えてます」

 真木はページを繰って尋ねる。

「メグって子は火星人なのか?」

「俺の知ってるメグは違います。似てるってのはそのキャラクターの雰囲気とか、性格とか」

 面白い。真木がそう言うのでユーダイは注意をひかれる。

「この漫画、面白いよ。描いた子は十八か十九なんだろ? すごいことだ」

「そうは思いませんでした」

「読み手に事情があるとそうもなる。僕は三島の小説がことごとく駄目だ」

「マッチョだから?」

 真木は反対の極にいそうに見える。

「僕の眉毛、ゲジゲジみたいだろ。小学生の頃に三島が切腹して、眉が似てるというだけの理由で三島とよんでからかわれた。小学生ってのは大人がいい顔しないことばが好きだ。当時は三島がそれだった」

「馬鹿ですね」

「馬鹿だったんだよ。僕はそれを二十歳過ぎてもやってた」

「じゃあ、三島が悪いわけじゃない?」

「三島も、三島の小説も悪くはない。ただそれを受け入れられるかは、ひどく偶然で外的な要因に左右される」

 真木の意識は佐智子の漫画に沈んでしまう。それを無視してユーダイはパソコンを立ち上げる。ギリコの配信の録画を落としてある。見てくださいと言って真木を連れ戻す。二月上旬、ファミマでギリコと会った翌日の回。ギリコは自分に怪我を負わせた客に言及する。それすなわちメグ。佐智子と会った後、ユーダイはギリコの配信に痕跡が残っている可能性に思い当たり、初めて視聴した。ビンゴだった。

「狭間さんはこれを撮ったときのことを覚えてないの?」

「わかんないんです。自分がこんなことを言ってたなんて、知らなかった。配信をしてるときって、いつものぼくとは距離があって、ことばに責任を取れないところがあります。嘘とか嘘じゃないとか、そういう区別が役に立たなくなる」

 ユーダイが説明を続ける。

「おばあさんがメグの絵を描いていたのも、あなたがたが東京で書いた戯曲にメグがいるのも、同じことだと思うんです。メグはそういう場所でなら留まっている」

 それはおかしい。真木が言う。

「それならどうして、きみだけがメグをそのままの形で記憶してる?」

 ユーダイは答えに詰まる。真木が言う。

「きみの話は面白い。聞かせてもらって満足してる。母のことがあったから、全くのでたらめとも思ってない。とはいえ、現実と、それを救い出すことばとは、区別されるべきだ。メグという現象を、そういうものだったとして受け入れることが、僕たちと世界の最も円満な解決。ちがうか?」

 ユーダイは聞き入れない。

「僕は実際、満足してるんだ。というのも、どういう不思議か、メグという僕の妄想に、きみが参加してくれたから。それは素晴らしいことだ思う。ただし、素晴らしく終わるためには、引き際が肝心だ。ことばは認識。存在じゃない」

 聞き入れないために言う。

「もう一度、あの部屋を見せてください」

 ユーダイとギリコは二階へ通される。下の階から、女性のひどく音痴な歌声が聞こえる。きっとメグの母。真木が言う。「びっくりさせたね。我が家には大きな赤ちゃんがいる」様子を見にいってしまい、ユーダイはギリコと二人で取り残される。ユーダイは気づく。ということは、大人はこの家に彼一人しかいないのだ。一人で住むには広すぎる家。古いほうの家と蔵は立て壊してしまうのだろうか。そうしたら、駐車場にするか、アパートを建てて貸し出すのだろう。不動産屋なのだから上手くやるだろう。しかし神みたいなものだと言うのなら、簡単に過去を手放したりせず、上手い付き合い方を魔法のように示してほしい。

 ユーダイはドアノブに手をかける。それから少し考えて、ギリコに言う。

「お前が開けてくれ」

 どうして?

「願掛け。これってそういう物事だ」

 扉を開ける。白い西日が差し込み、部屋が現れる。幼い家具と雑貨で出来た、記憶通りのメグの部屋。中へ入る。女の子の部屋だねとギリコが言う。それから、生温かく大きな生き物の気配。ぞっとして振り返る。

シャボンダマ

 ユーダイは戯曲の原稿を持ってきていた。それを机の引き出しにしまう。そこが正しい位置だと思う。それからギリコが目を白黒させて固まっているのに気づく。どうしたんだよ? ギリコが震えながらユーダイの手を掴む。見えないの? 見えないって、何が?

 ギリコの視界では、開け放たれた扉の先が空に繋がっている。無数のブルーシートが張られた空。ギリコが言う。

「この子、助けてって言ってる」

「メグが?」

「違う。馬だよ。シャボンダマ」

「シャボンダマ?」

 ユーダイはギリコが見つめるほうへ進む。シャボンダマがユーダイにすり寄る。ユーダイはそれを感じない。ユーダイがギリコに言う。

「俺、いつシャボンダマって名前を教えた?」

「助けてって言ってる」

「ギリコ、お前からそいつに尋ねてくれ。メグはそっちにいるのか?」

「いるって言ってる」

 ユーダイは愕然とする。じゃあ、メグは死んだのか?

 昼に家や自分の用事を済ませ、夜に働き、睡眠は三時間、もしくは寝ない。それが日課。四月ともなれば昼は途方もなく長く、ユーダイが帰って来る時刻でもまだ明るい。玄関をくぐる。靴を脱ぐ。上着を脱ぐ。母が電話に出ている。その声も表情も硬いので、尋常ならざる事態の気配を感じる。母が受話器を置く。ユーちゃん、大事な話があるのと言う。

「にいにいちゃんが死んだって」

 にいにいちゃんというのは上の兄。最後に会ったのは十何年前だろう。歳は十二も離れていて、ほとんど他人のように思っていたから感傷めいたものはない。ただ母にしてみれば長男の訃報であるわけだから、その心的な負担を和らげてやらなければならない。それはしんどい。

「あいつ、どこにいたの?」

 母は首を横に振り、父にもたれて座り込む。ユーダイは台所へ湯のみと急須を取りに行き、居間に戻ってポットから湯を注ぐ。白い湯気が立つ。テレビをつけるとビートたけしが笑っている。母が言う。

「浪江の家で見つかったって」

 えっ?

「厩舎の前で。溺死だって」

「溺死って、どういうことだよ?」

 母はまた首を横に振る。死んでからずいぶん経ってるって。きっと地震の後に死んだんだべって。

「だとしても、おかしいべ。うちは山の中で、津波は届きようがなかった」

 おかしいね、なんでだろね、と母は言う。涙で頬を濡らし、その顔を擦り付けて父の袖を濡らす。母が父にこんなふうにすがりつくのを、ユーダイは初めて見たように思う。いい気のするものじゃない。このアパートは狭すぎるかもしれない。口が勝手に動く。しゃべっていると、母の感傷だとか、痴態だとかに、飲まれずに済むから。

「津波、って考えたのがおかしいのか。そうでなくても溺死はできる。ちっちゃいときさんざん言わっちゃもんな。水を張った田んぼであおむけに転ぶと、泥で動けなくなって死ぬって。でもにいにいちゃんは子どもでないし、三月で、田んぼは乾いてた。だからやっぱし、溺死はおかしい」

 自分が何を言っているのかわからなくなってくる。おかしいのは死因より、俺の周囲が猛烈な勢いで空虚になっていくことじゃないか。にいにいちゃんが消えた。デヴィッドが消えた。嘉さんが消えた。メグが消えた。最初に消えたのはシャボンダマだった。

シャボンダマ

 熱湯が飛び散る。急須が倒れた。思い当たることがあって父につかみかかる。

「見たんでねェのか?」

 こぶしが震える。父の胸ぐらをつかんでいる。

「父さん、お前ェ、見て黙ってたんでねえのか? 地震の後、お前ェ一人で家さ戻ったときに! お前ェがそんな風になって帰ってきたときに! あの後浪江の家さ戻ったのは、父さん、お前ェ一人でねェか!」

 ユーちゃん、やめて! 母がユーダイを父から引きはがそうとする。母の力で足りるはずない。

あ、あ

と父がうなる。あまりに久しぶりに聞く父の声に、ユーダイも母も息が止まる。

「見た。あん畜生が、宏を連れてった。雷、雷だ」

 逃げた。屋外の夜なら鎮めてくれると思った。生暖かく湿り、メグの息に似た南風が吹く。母が追ってきて腕を強く抱く。風よりさらに湿っている。母は言う。宏は、死んだんだね。なじょして何年も帰ってこないで。にいにいちゃんが家と断絶した理由が、ユーダイにはわからないでもない。農家の長男ともなれば、あまりに多くのものを背負わされる。それにしたって両親への配慮のなさは擁護できないけれど。

「嘉さんもかわいそうで。あの子、なじょして嘉さんに顔を見せてやんねかったんだべ。嘉さんは、あの家を守って、ずっと帰りを待ってたんだよ」

 それなのに、と母は言う。抱きしめられた腕が痛い。なじょして嘉さんが関係すんだでと尋ねる。きもちが昂ったとき理屈の通っているやつなどいない。さっき俺もそうだった。だからと言って、そういう意思疎通の不具合を放っておくと、破綻する。破綻がきらいだ。母は驚いた表情でユーダイを見る。そして言う。

「だって、そりゃ、夫婦なんだから」

 夫婦? そう、夫婦。待って。俺、それ知らなかったんだけど。知んねかったわけないべした。

「お母さん何回もそう説明したよ。嘉さんはにいにいちゃんのお嫁さんなんだって。そうでないとお前ェ、にいにいちゃんがかわいそうになるくらい嘉さんにべったりだったんだから。お母さんもびっくりしたけどね。だっていちばん上の子がさ、お母さんとそう歳の変わらない人をお嫁さんだって言って連れてきたんだよ。これがもし宏でねくて、末っ子のお前ェだったら、そう戸惑わなかったかもしんねェけども。宏がいなくなってから、ユーちゃんはますます嘉さんが大好きで、嘉さんも嘉さんでおっきくなったお前ェに宏を重ねてるみたいで。不健全だと思ったけど、お母さん止められなくて。そうか、知んねかったんだね。お母さん、何度も教えたつもりになってた。そうでねかったんだね」

 ここは酒蓋公園、昼、その狭い平地のベンチ。ギリコは目を覚ます。メグが隣のベンチに座っているのを見つけ、尋ねる。シャボンダマはどこ?

「此岸に降りた」

「ぼくたち、帰ってきたみたいだ。ひどい冒険だった。ぼくは旅も冒険も嫌いだ。そんなものは、物事を少しもよくしない」

「ちがう。帰ってきてなんかいない」

 メグが空を指差すので、ギリコは見る。無数のブルーシートが張られている。

「ここもまたアンダーコントロールの一部。疑うなら散歩してみればいい」

 メグのことばに従い、酒蓋公園を出る。暖かく上着がいらない。アスファルト、電柱、無人の車を通りすぎる。ここからなら中央図書館が近い。思っていたよりはるかに早く着く。それで、メグのことばの意味がわかる。確かめるために文化通りを東へ。図書館がまだ真後ろに見えるのに突き当り。右手に車両基地、左手にビッグアイが見え、距離は五十メートルもない。来た道を戻る。行き過ぎてしまって、内環状線との交差点に至る。開成山球場がある。そんなわけはない。人を馬鹿にしている。開成山公園だって広いし、高い木に囲まれているから、球場の形が見えるはずないのだ。町が奇妙に捻じれている。知っている道が、ほかの知っている道につながる。しかしその繋がり方はギリコが知っているものと異なる。この町は本物の郡山よりはるかに小さい。ベンチへ戻ってきたギリコに、メグが言う。

「ここは天国。アンダーコントロールのどん詰まり」

「こんな場所が?」

 メグはそうだと答える。

「退屈でしょ。わたしたち死んでないから」

 狭間家、その正面。銀のミニバンがつける。街灯がフロントガラスに反射する。ギリコがコートを着込んで出てきて、乗り込む。免許持ってたんだ。取りたて、と運転席のユーダイが答える。「ぼろいだろ。親父の車だ」ぼろいというのはちがうとギリコは思う。実際、古い型には見えないから、猛烈に長く乗っているというわけじゃないのだろう。正確な言い方は、使い込んでいる。シートが擦れていたり、土や食べ物のにおいがしたりする。ギリコが乗り込んだ二列目の座席の裏には、窮屈な三列目があるようだけれど、いまは折りたたまれて荷台を拡張している。きみの家って何人家族だっけとギリコが尋ね、ユーダイが三人と答える。ユーダイは車を発進させて言う。バックミラーでギリコの表情を見る。

「お前、探偵になれるよ。俺はずっと違和感を持ちすらしなかった。俺と両親のほかに、家にいない兄が二人。近所の親戚が一人。それと犬一匹。これで六人と一匹。全員乗せようと思ったら、この車でなきゃいけない。そんなこと考えて選んでたんだな」

 磐越西線の踏切を渡り、新国道に出る。北へ進路を取る。前を大型トラックが走る。対向車はたいがい一人しか乗っていないから、帰る車だろう。富久山のほうで働いて大町のほうへ帰る人口がそうたくさんあるものだろうか。そうは思えない。もしかすると郡山を出て須賀川や鏡石のほうへ帰るのかもしれない。車なら大したことのない距離だ。それよりは遠いけれど、浪江だってほんとうは大したことのない距離だ。遠く隔たって感じられるのは阿武隈高地のせいばかりとは限らない。ギリコが尋ねる。どこへ行くの?

「実家」

「入れるんだ?」

「構わない。自分の家に帰っちゃいけないなんてことねぇべ」

 内環との交差点を右に曲がる。街灯と店舗の明かりの中を車は疾走していく。阿武隈川を渡るとじきに山間部に入り、ヘッドライトとたまにすれ違う対向車の明かりが世界の全てになる。二八八ニイパッパを東へ進む。ギリコが言う。

「来てほしいって唐突に言うから、何かと思った。夜中に長いドライブに連れ出されるなんて考えなかった。お母さんにどう説明しよう。きみ一人で帰るんじゃいけなかったの?」

 願掛け。ユーダイは答える。

「ぼくは縁起物じゃない」

「お前のじいちゃんと話してやったろ。その分だ」

 沈黙が車内を満たす。ラジオはホルストの組曲『惑星』から「火星」を流している。車は三春に入る。それまで真っ暗闇だった道に、まばらな街灯が現れはじめる。その明かりをきっかけと感じて、ギリコが尋ねる。シャボンダマって何?

「家で飼ってた馬だ。白い馬」

「それがどうしてメグの部屋に出たの?」

「知らね」

 ユーダイがコンビニに寄るか尋ねる。連れ出したんだから、夕飯はおごる。ギリコはいらないと答える。

「どうして浪江に向かってるの? 関係あるんでしょ?」

 ユーダイは答えない。小さな市街を抜け、ヘッドライトをハイビームに切り替える。二筋の光が闇を切り裂く。その光が絶えようとするあたりに、ユーダイは人影を見る。人影と車の距離は急速に縮まっていく。メグだ。メグは凍え死にそうな薄着で目をつむっている。

 組曲は「金星」に入っている。ユーダイが言う。

「山の中だから津波は来なかった。地震の翌日に原発が爆発したべ。その日のうちに父さんは車で——この車で、俺と母さんと、嘉さん——っていうのは近所に住んでる親戚、それとそこのデヴィッドって犬を南相馬まで避難させた。父さん以外は避難所に泊まった。父さんは浪江へ引き返した。シャボンダマを置いてきてたからな。どうしようもなかった。トラックを借りてこなきゃ馬は動かせない。だからありったけの干し草をあいつの首の届くところに置いてきたって、父さんは言った。デヴィッドの世話ができるように嘉さんは郡山に家を借りた。俺たちもひと月かそこらで郡山に移った。南相馬のほうは風向きがよくなくて、放射性物質が飛んできてたから。それから父さんはトラックを借りて一人で浪江に帰った。そこで何があったのかは知らない。父さんはあんなになって帰ってきた。お前、父さんと会ったことあったっけか?」

 ギリコはないと答える。

「何もしゃべんねぇし、何もしねぇんだ。息してるだけで死んでるようなもんさ」

 ユーダイの意識は回想に沈む。実家のある区域が立ち入り禁止になって、それがいつ解除されるか見当がつかなかった。自分がいつ高校を卒業したのか曖昧なままに春が来て、郡山で倉庫の仕事を見つけた。貯金と鹿児島の兄からの仕送りだけでは家計が持ちそうになかったし、十八歳というのはもう働くべき歳だった。

 メグと会った。メグは首の後ろを怪我して何針か縫っていた。その傷跡が好きだった。どうしてそんなものが好きなのだろう? やわらかい肌、愛嬌のある振る舞い、にもかかわらず冷たいまなざし。そういった普通の要素を好きになってもよかったんじゃなかろうか。寒くないか? ユーダイがメグに尋ねる。寒くないよ。ユーダイはメグを抱き寄せる。強く抱き寄せるほどにメグは小さく澄んでいく。

 車はまた市街へ。船引。「水星」は気づかないうちに終わっていて、「木星」がいま終わろうというところ。終わった。え? とギリコが言う。ユーダイはバックミラーで彼を見る。なんだよ?

「ちがう。メグが怪我したのってきみと会った後だよ。きみたち二人で廃ビルに行って、メグがきみをかばって——

「何言ってんだ?」

「ごめん。何言ってるんだろう」

 ギリコは黙って頭を抱える。三角座りをして、ひざの間に顔を埋めて、しかし両方の目を見開いている。信号機が赤く点滅している。林の中で鳥が針のように叫ぶ。

「ちがう。ぼくはほんとうに知ってる。メグって人を知ってる」

 車が市街を抜ける。

「ぼくときみとメグで劇団を立ち上げた。三人で何度も会った」

「お前、何を?」

「ずっと三人だった」

 何を言ってるんだ! ユーダイは怒鳴る。「前、前見て」とギリコが言う。

「ぼく、メグを知ってる」

「ちがう。それはお前の妄想だ。メグじゃない」

「メグといつどうやって会ったか思い出せる?」

 ユーダイは記憶をたどる。思い出せないんじゃないの? 馬鹿言うな。思い出せないんだよね。ギリコの言うとおりだ。思い出せるのは傷、ただそれだけ。

「ぼくの知ってるメグときみの知ってるメグは同じじゃない。たぶん、佐智子さんの知ってるメグやメグのおばあちゃんが知ってるメグがいるのと同じこと」

「ちがう!」

 そう叫んでから、ユーダイはギリコの主張を咀嚼する。自分の主張とギリコの主張のどこが食い違っているのか、解きほぐすのが思いのほか楽でないと気付く。

「お前は話を混同してる。メグがいろいろな形でこの世界に現れることは、構わない。でもほんとうの、現実のメグは俺の知ってるメグだけ。お前の主張のどこがおかしいかというと、俺の知ってるメグとそれ以外を同列に扱ったこと。わかるか?」

「きみがそう考えるのはわかる。でも同意できない」

 船引を越えるともはや通過する町はない。「土星」が終わる。「天王星」が終わる。「海王星」がだんだんとフェードアウトしていく。季節外れの雪が散り始めるのを、ヘッドライトがつらぬくように照らす。ギリコが言う。郡山では、地震の後こんなふうに雪が舞った。浪江はどうだった? どうだったのだろう。三月とは思えない積雪があった気がする。そうじゃなかった気もする。天気の記憶を、印象が書き換えている。

「ぼくがメグの代わりになっちゃいけないのかな。ぼくがメグになる。メグってそういうものだと思う」

 ふざけてんのか? ふざけてない。ユーダイがすごむ。二度と同じことを言うな。

「どうしてこんなこと言うかわかる?」

「わかるわけない。ママみたいな聞き方しないでくれ」

「きみといっしょにいたい。思い出してみると、きっかけになる場面にはメグがいる。きみの知らないメグ。ぼくらがぼくらでいるために、メグが必要なんだと思う」

「メグを道具にするな!」

 ギリコは押し黙り、それから、むせび泣く声。ユーダイは後悔する。おびえさせたかったわけじゃない。それに、ギリコを道具にしようとして連れ出したのだから、こんなことを言う資格がない。耐えがたい暗黒。引き返そう、とつぶやく。黙って車を減速させ、来た方へハンドルを切る。

 車は闇を切って進む。闇は光の不在によって定義される現象。だから闇は不在の比喩。星が落ちてきては、フロントガラスに当たり弾ける。月さえ降ってきかねない。月はどこだろう。ついてきてくれていたのじゃなかったのか。あの白い家が車窓を流れる。思いと関係なしに、車は実家へたどり着いている。

 ユーダイはギリコを残して降りる。厩舎のほうへ向かう。夜露に濡れた枯れ草がこそばゆい音を立てる。視界の隅に白い光が見える。

シャボンダマ

が月光に照らされている。月は出ていたのだ。シャボンダマが両方の前脚を高く上げる。

落雷

空気がはがれる音と閃光。つむってしまった目を見開く。シャボンダマが赤く燃えてもがいている。脚が、首が、たてがみが、目が燃える。姿勢を崩し、地面に倒れ絶命する。それを見届ける。

 車に戻ると、ギリコがいない。首の後ろににぶい痛みを覚え、手を当ててみる。どろりと生暖かい感触。

 ラジオはホルストの組曲『惑星』から「火星」を流している。ギリコが尋ねる。シャボンダマって何? 家で飼ってた馬だ。白い馬。

「どうして浪江に向かってるの? 関係あるんでしょ?」

 ユーダイは答えない。ヘッドライトをハイビームに切り替える。その光が絶えようとするあたりに、ユーダイは人影を見る。人影と車の距離は急速に縮まっていく。メグだ。メグは凍え死にそうな薄着で目をつむっている。

 組曲は「金星」に入っている。ユーダイの意識は回想に沈む。実家のある区域が立ち入り禁止になって、それがいつ解除されるか見当がつかなかった。春が来て、郡山で倉庫の仕事を見つけた。十八歳というのはもう働くべき歳だった。メグと会った。メグは首の後ろを怪我して何針か縫っていた。その傷跡が好きだった。寒くないか? ユーダイがメグに尋ねる。寒くないよ。ユーダイはメグを抱き寄せる。強く抱き寄せるほどにメグは小さく澄んでいく。

 車はまた市街へ。船引。「水星」は気づかないうちに終わっていて、「木星」がいま終わろうというところ。終わった。え? とギリコが言う。ユーダイはバックミラーで彼を見る。

「ちがう。メグが怪我したのってきみと会った後だよ——

「何言ってんだ?」

「ごめん。何言ってるんだろう」

 ギリコは黙って頭を抱える。三角座りをして、ひざの間に顔を埋めて、しかし両方の目を見開いている。

「ちがう。ぼくはほんとうに知ってる。メグって人を知ってる」

 車が市街を抜ける。

「ぼくときみとメグで劇団を立ち上げた。三人で何度も会った」

「お前、何を?」

「ずっと三人だった」

「何を言ってるんだ!」

「メグといつどうやって会ったか思い出せる?」

 ユーダイは記憶をたどる。思い出せるのは傷、ただそれだけ。

 船引を越えるともはや通過する町はない。「土星」が終わる。「天王星」が終わる。「海王星」がだんだんとフェードアウトしていく。雪が散り始めるのを、ヘッドライトがつらぬくように照らす。きみは最近何してた? ギリコが尋ねる。

「仕事。それと、嘉さんの家の片付け」

「ぼくは裁縫の勉強をはじめた。自分で作ろうと思って。ぼくも、きみも、そういうふうに話の外で何かしてる」

「メグは違うってのか?」

 知らない、そんなこと。ギリコがつぶやく。

「少なくとも、メグが作りものじゃないためには、そういう領域が必要だ」

「あいつが話さなかったのが悪い。メグは自分のことをろくに話さなかった。メグが大学生だって、俺はあいつの父親に言われて初めて知った」

「ぼくがメグの代わりになっちゃいけないのかな。ぼくがメグになる。メグってそういうものだと思う」

「お前は誰なんだ?」

 何を言ってるの? とギリコが聞き返す。

「メグもどきのどれかなのか? それともシャボンダマか? お前はギリコじゃない。もしそうなら、どうして俺の頭の中を覗けた? お前はさっき、メグが怪我したのは俺と会った後だって言った。俺はメグの怪我のことなんていちども口に出してない。それどころか、一度だって話したことがない」

 そうだね。ギリコはうなずく。

「どうしてきみの考えてることがわかったんだろう? でも、知ってた」

 ユーダイは車を止める。既に二八八を外れ、ここは葛尾村。警戒区域のゲートの目と鼻の先。ギリコに言う。

「降りてくれないか」

 どういうこと? 降りてくれ。やだ。

「降りろよ!」

 運転席を降りて回り込み、ギリコを車から引きずり出す。彼の腕をつかみ、乱暴に扱い、こんな場面だというのに、気分の底が弾む。原発は核分裂でお湯を沸かしタービンを回します。ギリコはアスファルトに打ち付けられる。

「お前は誰だ? なあ、誰なんだ?」

「狭間ギリコ——

 殴る。殴ることになるだなんて、思わなかった。でも殴った。ギリコはやわらかく、こぶしがよく沈んだ。薄いからだを突き抜けてしまうのじゃないかと思った。ギリコと目が合う。ギリコは涙ぐんでいる。殴られると知っていただろうか? 知っていただろう。メグがいなくたって、知っていたはず。こいつは俺が好きで、俺もやはりこいつに魅力を感じていたのだから、結局はこうなる。これが終わりなのだ。それはひどく濡れていて、息苦しく、美しい。美しいというのはメグのことばだった。メグの言う美しさは概して同意しかねた。メグは俺を美しいと言った。だから俺はメグがきらいだ。なぜギリコの血は美しいんだ。俺の血はそうじゃないのに。

 引き返しても破滅、進んでも破滅。それなら進もうと思う。ギリコを置いて走り去る。十分か十五分走ったところで車が異音を立て、エンストを起こす。ガソリンは十分に残っている。震えながらキーを回す。手の震えが制御できないほど大きくなっていく。この震えは何だ。怖れか? 怒りか? どうしてそれを抑え込んでおくことができないのか。車内は急激に冷えていき、外気温と大差なくなる。途方に暮れ、後部座席に置いてあった毛布をかぶりふて寝を試みる。寒くて眠れそうにない。シートベルトをろくに締めない子だった。車で出かけるというとき、よく母の膝で寝ていた。

 ユーダイを呼ぶ声。外に出、鍵につけてあるライトであたりを照らしてみると、三十メートルほど後ろにギリコがいる。徒歩で追ってきていた。

 歩いて実家を目指す。ギリコはユーダイの腕にしがみついて寄り添う。時折、ユーダイの顔を見上げる。ユーダイはライトの光が消えるあたりを見ている。四時間か、あるいはもっと。夜が明ける気配はない。黄色い砂のような星が落ちてきて、二人の足元で弾ける。月さえ降ってきそうだ。月はどこだろう。道の左右が山で、見える空は狭い。

 あの白い家! それから、実家へと続く細い道。ユーダイはギリコを置き去りにしてその道を駆けあがり、枯れ草をかき分ける。裾が濡れる。厩舎へ。視界の隅に白い光が見える。

シャボンダマ

が月光に照らされている。月は出ていたのだ。シャボンダマが両方の前脚を高く上げる。

落雷

空気がはがれる音、閃光。赤く燃えてもがくシャボンダマ。その脚、首、たてがみ、目。シャボンダマは絶命する。見届ける。

 肩で息をしながら、ギリコが追いついてくる。どうしたの? と尋ねる。ユーダイは首の後ろににぶい痛みを覚え、手を当てる。

 ラジオはホルストの組曲『惑星』から「火星」を流している。ギリコが尋ねる。シャボンダマって何? 家で飼ってた馬だ。白い馬。

「どうして浪江に向かってるの? 関係あるんでしょ?」

 ユーダイは答えない。ヘッドライトをハイビームに切り替える。その光が絶えようとするあたりに、ユーダイは人影を見る。人影と車の距離は急速に縮まっていく。メグだ。メグは凍え死にそうな薄着で目をつむっている。

 組曲は「金星」に入っている。ユーダイの意識は回想に沈む。メグと会った。メグは首の後ろを怪我して何針か縫っていた。その傷跡が好きだった。寒くないか? ユーダイがメグに尋ねる。寒くないよ。ユーダイはメグを抱き寄せる。強く抱き寄せるほどにメグは小さく澄んでいく。黄色い砂になる。

 車はまた市街へ。船引。「水星」は気づかないうちに終わっていて、「木星」がいま終わろうというところ。終わった。

「ちがう。メグが怪我したのってきみと会った後だよ——

「何言ってんだ?」

「ごめん。何言ってるんだろう」

 ギリコは黙って頭を抱える。三角座りをして、ひざの間に顔を埋めて、しかし両方の目を見開いている。ずるい。今度こそ、きみから話すべきだ。

 船引を越えるともはや通過する町はない。「土星」が終わる。「天王星」が終わる。「海王星」がだんだんとフェードアウトしていく。雪が散り始めるのを、ヘッドライトがつらぬくように照らす。ギリコが言う。

「地震の後、郡山ではこんなふうに雪が舞った。風も出て、すぐに吹雪になった。春休みだったから、ぼくはその日家にいて、お母さんも一緒だった。家中のものが崩れた。きみは意外に思うかもしれないけど、地震の前と比べると、あれでずいぶんマシになってるんだ。頭より高く積まないように決めたから」

「それで?」ユーダイが言う。

「続きってほどのものはない。ぼくの地震はそれだけ。きみのほうがきっと、たくさん話すことがある」

「話した気がする」

 だとしても話して、とギリコは言う。メグもそんな風に言った。シャボンダマの話を繰り返しせがまれた。

「津波は来なかった。地震の翌日に原発が爆発した。父さんは車で俺と母さんと、嘉さん、それとデヴィッドを南相馬まで避難させた。父さん以外は避難所に泊まった。父さんは浪江へ引き返した。シャボンダマのためにありったけの干し草を首の届くところに置いてきたって、父さんは言った。嘉さんは郡山に家を借りた。俺たちも郡山に移った。それから父さんはトラックを借りて一人で浪江に帰った。父さんはあんなになって帰ってきた」

 シャボンダマのことを話していいか? ギリコはうなずく。シャボンダマについて話したいと思ったのは、いつ以来だろう。シャボンダマと別れてから初めてのように思う。メグにせがまれて話したのは、話したいと思って話したのじゃない。今はむしろ、話さなければ。

「シャボンダマってのは、家で飼ってた白い馬。名前の由来は知らない。シャボンダマは俺より二つか三つ年上で、名前を付けたのは上の兄だから。その兄は死んだけど、これは別の話。後で話す。

 俺はシャボンダマが好きだし、家に人間以外がいるということが好きだった。人間と動物は、人間どうしほど話が通じるわけじゃない。あいつらはことばを持たない。ことばを持たないものの世界は、人間の世界ほど簡単に溶け合わない。他者でいてくれる。それって実は、人間の場合にはさほど簡単なことじゃない。自分のためじゃないから、シャボンダマのために何かをするのが好きだった。餌をやる、掃除をする、ブラッシングをしてやる。いちばん楽しかったのは、厩舎の建て替え。今の厩舎を設計したの、俺なんだ。それを家族総出で建てた。どちらの兄もいたから、六つか七つのころ。

 実のところ、シャボンダマが今どうしているかわからない。さっき言ったように、避難するとき、シャボンダマは実家に置いていくしかなった。後になって父さんが一人で迎えに行った。他の農家に引き取ってもらうつもりだった。ところが父さんはシャボンダマを連れて帰らず、魂を抜かれたみたいになって帰ってきた。

 そんな風にして置いてかれた家畜やペットが、警戒区域中で繁殖して野生の帝国を作ってるって話、聞いたことあるか? シャボンダマは実は死んでなくて、そうやって野で生きてるのかもしれない。その可能性は全然否定できない。俺はそう思う」

 それで、後は何を話すんだったかな。死んだお兄さん。

「そのためには、嘉さんのことから話さなきゃならない。嘉さんって親戚は、浪江で近所で、俺はずっとその人との続柄を知らないと思ってた。地震の前は嘉さんの家に毎晩のように通って、嘉さんとデヴィッドと一緒に映画を見た。

 実のところ映画は口実だった。俺は嘉さんが好きで、求めてたのは映画より嘉さんと過ごす時間。付け加えて言えば、映画よりも、その間に挟まる古いCMが好きだった。あの家にある映画は嘉さんがテレビ放送を録画して増やしたコレクションだったから、俺が生まれるより前のCMが挟まってることがよくあった。そういうのっていいよな。俺が生まれるより前から世界があったってわかる。

 それで、嘉さんって実は、上の兄のお嫁さんだったんだ。俺はそのことをつい最近知った。母さんはそのことを俺に何度も聞かせてたって言った。だから俺は何度も話してもらったことを忘れてた。なぜそんなことになったかと言えば、俺にとって不都合な話だったから。俺は自分にとって都合がよくなるように世界を作り変えてた。ひどい話だべ」

「ひどいなんて思わない。不器用だとは思う。そんなに極端な人、そうそういないから」

「うっつぁし。にいにいちゃんは俺より一層、シャボンダマが好きだっただろうな。シャボンダマのほうもにいにいちゃんが大好きだったみたいで、俺はいわばにいにいちゃん二号だったわけだ。シャボンダマにとっても、嘉さんにとっても」

 既に二八八を外れ、葛尾村。警戒区域のゲートの目と鼻の先。どうやってゲートを越えようと、ユーダイは今になって考える。そもそもニュースで見るようなゲートがあるのか。あるとして、この時間でも監視されているのか。歩いて山を越えれば迂回できるだろうけれど、ギリコはついてこられまい。無計画。無謀。ギリコが言う。

「ぼくたちはきっと、器用になれる。話すべきだし聞くべきだ。きみは話した。ぼくも話したい。何を話せばいい?」

「見とがめられずに警戒区域へ入る方法」

「自分で考えて」

「メグの傷、どうして知ってる? 俺はメグの怪我のことなんていちども口に出してない。それどころか、一度だって話したことがない」

 核心かも。ギリコが言う。

「メグについて、知ってるはずのことよりずっと多くを知ってる。知ってるはずのメグって、きみから伝え聞いたメグだけのはずなんだけど」

「お前はメグと会ってる。だから伝え聞いたメグばかりじゃない」

「きみがそう言うのはわかる。でもぼくが知ってるのはそのメグじゃない。それに、ぼくの視点を介したメグじゃないんだ。ぼくがメグになるって言ったけど、そうじゃないのかも。ぼくは部分的にメグだ」

 馬鹿言うな。舗装の状態が悪い。振動が手に伝わる。

「ぼくと会う前にきみとメグは二人であの廃ビルに行った。メグはきみをアンダーコントロールに連れて行こうとした。その試みは上手くいかなくて、メグは傷を負った」

「俺を? アンダーコントロール、へ?」

「アンダーコントロール。メールに書いたでしょ」

 メールは受け取った。そんなことばが書かれていたかというと、確信がない。ギリコを連れて廃ビルへ行った。メグの手掛かりを探すためだった。アンダーコントロール。店の名前だった気がする。でもギリコが言うアンダーコントロールはそれじゃないのだろう。

「メグが本気できみを好きになったのはその後」

「わからない」

「わからなくたっていい。聞いてくれたんだから」

 わからなくたっていいわけないだろ、とユーダイは思う。わからないのなら一体何を話したというのか。無駄じゃないか。

「メグのお父さん、真木始って人は、妙だったな。俺たちの突拍子もない話を聞いてくれた。無駄な時間と思わなかったんだろうか。なじょしてあんな態度が取れるのか、わからない」

「あの人が真面目に取り合ってくれたおかげで、少なくとも絶望せずに済んだんじゃない? 大事なことだと思う。世界を終わらせないための方法だと思う」

「世界、な。メグはよくそんな風に話をした」

 世界とは何だったのだろう。メグは答えを言っていた。

世界は、ぜんぶことばなの

じゃあことばってなんだ。

 ギリコが言う。

「ぼくがメグであっちゃいけないのかな?」

 ふざけんな。ふざけてない。ふざけんなって言ってる。

「きみが好き。メグということばは、きみが求めるもののことだ。だからぼくはメグでありたい」

「メグはことばか?」

「メグはことばだ」

「ちがう。メグはそういうものじゃない。メグは現実の個人だ。世界との関係じゃない。それにお前はギリコだ。メグじゃない」

「ぼくたち、ここまで来ても合意できないんだね」

「無駄なおしゃべりか?」

「そうは思わない」

 闇は光の不在。星が降って黄色い砂になる。あの白い家が流れる。ユーダイとギリコは車を降りる。枯れ草をかき分ける。白い光。

シャボンダマ

が月光に照らされている。

落雷

空気がはがれる音、閃光。赤く燃えてもがくシャボンダマの、黒く燃え尽きたそのからだ。

 これだけなわけねェべ。ユーダイが独り言つ。ここまで来て、これっきりなわけ。「黄色いCD!」ギリコが叫ぶ。

「受け取ってない? メグが配ってたんだ。世界を破綻させないために」

 ユーダイは上着のポケットのふくらみに気づく。取り出してみると、黄色いCD。馬鹿にしてる。こんなことじゃ、メグの物的証拠にならない。俺が求めてたのはメグの実在を確信する方法だったのに、メグはそうさせてくれない。メグは周到だ。メグはいやなやつだ。だからメグに惹かれる。

 車に戻って再生する。街路の音。セミの声。雷鳴と雨音。メグの声。

「ハロー、ハロー。ディス・イズ・グラウンドコントロール。超終末期誘導灯機構を始めます。あなたの役は冥界へ下る人。ヒントは灰。それでは、よいことばを」

 車に積んである道具箱から、ギリコが鉈を取り出す。「きっとシャボンダマが門だ」と言う。シャボンダマをばらせって? とはいえ、ただ死なせておくのは、ちがう。

 ユーダイはシャボンダマの焼死体の腹を裂く。ギリコが手元を照らしている。煤と血で全身が赤黒く染まる。腹の中はどこまで続くとも知れぬ闇。かがんでくぐれる程度の高さがある。ユーダイがその中へ。お前も来るか? ギリコに尋ねる。ギリコはユーダイの手を取る。

 ユーダイの手の湿度、それだけがギリコの外にある。

「思い出した。ぼくの女装のきっかけになった女の子、その子はメグじゃない」

「じゃ納得したか?」

「しない。メグはメグで記憶してる」

 何を踏んで歩いているのだろう。返ってくる感触がない。かといって水の中を行く感覚でもない。闇に質量があるみたいに感じる。ギリコは続ける。

「メグのお母さん、あの人、メグが怖かったみたいだ」

 どのメグ? とユーダイが尋ねる。

「知らない。ぼくに区別がつくわけじゃない。メグのお父さんにとって、メグは故郷と結びついてたらしい。メグのお母さんは東京に残りたかったから、メグが怖かった。どうしてだろうね? メグは誰か故郷の親戚に似てたのかも」

「少なくとも彼自身じゃないな」

「ぼくにはイマジナリー用心棒がいた。でも見えなくなって久しくて、代わりを探してた」

「俺が用心棒二号か?」

「そうじゃなかったんだ。きみは代わりなんかじゃない。それにきみは用心棒っていうより、天災」

「なめやがって」

「メグもそうなのかな。きみの言うように、メグはことばなんかじゃなくて、メグ自身がいる」

「ずっとそう言ってる」

「ねえ、此岸の王ってきみだ」

「読んだのか?」

 ユーダイはそのことばを覚えている。真木家から拝借してきた戯曲の原稿にあった。

「シャボンダマのときの此岸の王はきみだった。彼岸の王がメグに移っても、きみだった。きみってすごい。そんなに愛されるなんて」

「だというならもっと現実的に表現してほしい。くねくねしたやりかたはきらいだ」

 闇が終わろうという気配を感じる。ギリコはこの闇を抜けたくないと思う。手探りでユーダイの腰にだきつく。彼の背を感じる。ユーダイが立ち止まる。ギリコは

を浴びている。雨というよりみぞれ。見上げる。松の枝の向こうを、黒い雲が覆っている。ここは酒蓋公園、その狭く平らな地面。

メグ

がギリコに微笑みかける。メグはベンチに座っている。メグは濡れている。

「おかえり。目が覚めた?」

 ギリコは頭痛を感じ、それから猛烈な焦りを覚える。

「ユーダイ。ユーダイはどこへ行ったの?」

 メグが坂の下の方を見て、「おーい」と叫び手をふる。赤い橋の向こうから、ユーダイがこちらへ渡ってきつつある。

                                     (終)

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アンダーコントロール 時雨薫 @akaiyume2

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