人食うユリの話

遠部右喬

第1話

「なあ、本当に食わないんだろうな?」

 口元から真っ白な着物の胸元までを血で染めた女に、俺は縋るような目を向けた。

「アンタもしつこいわね。あたしを満足させられたら食わない。何度も言ってるじゃない。ほら、次の話は?」

 女の催促に、俺は口を開く。百物語の語り部のように。千一夜物語のシェヘラザード妃のように。

 俺がこの女――ユリに捕まって、既に一日以上が経っていた。



「明日の休みに夜撮に行く心算なんだけど、一緒にどう?」

 昼休みにKがそう言いだしたのは、一昨日のことだった。同期入社、カメラという趣味も一緒、おまけにどっちも女っ気なしの俺達は、時折つるんでプチ撮影旅行に行ったりしている。

「夜撮なら今時なつより冬の方がいいだろ……まあいいけど。何を撮る予定だ?」

「湖とヤマユリ。いい場所があるっぽいんだ」

 先週、法事で実家に帰った際に、山歩きが趣味の叔父さんからその場所について聞いたらしい。

「小さい湖なんだけど、ヤマユリが沢山自生してるんだって。丁度開花時期だし、ほら、明日は満月じゃん。月光に煌めく湖面と群生するユリなんて、被写体に良さそうだろ?」

 少し不思議に思った。ヤマユリはどちらかというと水捌けの良い土地を好んで生える。湖の周りに自生なんてするだろうか。そもそもそんな映えスポットなら、人が集まって撮影どころじゃなさそうだ。

 首を傾げる俺に、

「すげえ不便な場所らしいよ。ちょっと気味が悪いって感じる奴も居るから、地元民もあんまり立ち寄らないんだって」

 話半分としても、珍しい景色を撮る事が出来るかもしれない。俺はそれ以上深く考えることも無く、Kの提案に頷いた。


 明けて翌日の夜。

 蒸し暑い、静かな夜だった。

 目的地に一番近い駐車場にKの車を停め、それぞれの機材を肩に、林の中に伸びる道に向かう。

 それに先に気付いたのはKだった。

「あれ、こんなところに案内板がある」

 Kが向けた懐中電灯の先に古ぼけた案内板が立っている。

「『夜間は大変危険です』だって。どうする?」

 確かに、水場に続く街灯も碌に無い道なんて危険だろうが、俺達は寧ろそれを撮る為に来ているのだ。「どうする?」とは言ったものの、俺もKも答えは決まっている。

「行くぞ」

「だな」

 足下を照らす懐中電灯の明かりは十分とは言えなかったが、一人じゃないという安心感と、時折木々の隙間から差し込む月明かりは、俺達から恐怖心を奪っていた。

 二十分程林の中を進むと、先方からユリの香りが漂って来た。

「すごい香りだな」

「ああ、これは期待できるぞ」

 更に十分程歩くと、突然視界が開けた。

「!」

 月光が湖面に鱗状に踊り、一面に咲き誇る大振りの喇叭状の花が闇に白々と浮かんでいる。生ぬるい空気に満ちる強い芳香は眩暈を覚える程だ。

 カメラを向ける事も忘れ、「風光」という言葉すら陳腐に思える光景に、二人して見惚れた。

「すげえ。大輪のユリだ」

「ああ、見事だな」

 思わず呟いた俺達の背後から、

「そりゃどうも」

 声がした。振り返ると、懐中電灯の丸い明かりの中に、白い着物を着た女が立っている。

 女が名乗った。

「あたしは『ユリ』。お前達、ここらの者じゃないね」

 真っ白な着物。卵型の美しい顔にかかる長い黒髪。切れ長の瞳と真っ赤な唇。

 その名の通り、ヤマユリの花のような女だった。あまりにも当たり前のように風景に溶け込んでいるせいか、俺もKもこの女の存在に、微塵のも覚えなかった。

「もしかして、ここって立ち入り禁止ですか?」

 我に返ったKが訊ねた。

「別に。滅多に人など訪ねて来ないけどね」

「あ、もしかしてここ、お姉さんの土地?」

「まあ、そうねえ」

「すいません、すぐに出ていきます」

 俺達が慌てて頭を下げると、ユリが小さく笑った。

「出てくことないわ、丁度退屈してたの。折角咲いても、だーれも見に来ないんだもの。お前達、何か面白い話を聞かせてよ……そうしたら、食わないであげる」

 俺とKは顔を見合わせた。人懐っこいKは戸惑いながらも、

「えっ……と……よく分かんないけど、面白い話……全身真っ白な犬がいました。尾っぽの先まで真っ白で、『尾も白い』……『おもしろい』。なーんて……」

 ユリはKに、つ……と歩み寄り、懐中電灯を持っていない方のKの手首に、ほっそりとした真っ白な両手を添えた。喜色を浮かべたKの手が、ゆっくりと持ち上げられ……


「あがああああ!」


 悲鳴が響いた。


 くちゃくちゃ、ごくり。


 ユリが、食いちぎったKの指を飲み下した。Kが取り落とした懐中電灯の明かりに、下生えに飛び散った鮮血が浮かぶ。

 ユリは指の欠けたKの手を取ったまま、血で染めた口元をきゅうっと持ち上げ、

「ああ、美味い。こんな場所に咲くには精が要るのよ。ほら、これ以上食われたくなかったら、面白い話をして」

「あ、あ……」

 それ以上言葉の出ないKに溜息を吐き、

「……もういい。さっきの話もつまらなかったし、お前は要らない」

 ユリがKにしなだれかかる。


 ゴリッ


 Kの首にユリが齧り付いた。Kの身体がビクンと跳ね、手足が痙攣する。やがてKの身体から完全に力が抜け、その光景に俺がゲーゲーと嘔吐している間も、何かを咀嚼し、液体を啜る音は続いていた。背を丸めえずく俺が顔を上げた時には、僅かな血だまり以外、Kの身体は洋服ごと存在しなくなっていた。

 蹲る俺の目に、着物の裾が映る。

「さ、アンタの番よ。ちゃんとあたしを楽しませる話が出来たら、食べたりしないわ」

 上半身を緋に染めて促すユリに、がくがくと頷く。

 俺は理解した。そうだ。この女は、ユリの花なんだ。自分が咲くためだけに人を食うユリの化生。

 逃げだす気力なんか、疾うに無くなっていた。



「で?」

「ふうん」

「それから?」


 ユリの顔に浮かぶ薄ら笑いは、話を楽しんでるのか馬鹿にしているのか分からなかったが、俺は話し続けた。不思議なことに、どれだけ話し続けても、周囲の景色は月明かりのままだ。ちらりと腕時計に目を遣ると、既に丸一日以上経っているのに。

「なあ、本当に食わないんだろうな?」

 狂った世界で、口元から真っ白な着物の胸元までを血で染めた女に、俺は縋るような目を向けた。

「アンタもしつこいわね。あたしを満足させられたら食わない。何度も言ってるじゃない。ほら、次の話は?」

 こいつには人の心なんて分からないのだろう。ユリの呆れたような眼差しに、俺の中に恐怖以外の感情が芽生えた。

 ――俺達が何をしたっていうんだ。ここを荒らした訳でも無い。花を摘んだり踏みにじったりした訳でも無い。ただ写真を撮りに来ただけだ。Kがあんな死に方をする必要が何処にあった。どうせ俺のことも、最後は食う心算なんだろ。

「……花言葉って、知ってるか?」

「花言葉?」

「花に、色々な意味を持たせたんだ。ヤマユリにも付いてる」

「……へえ。どんな?」

 こんな妖でも、自分がなんて思われてるのか気になるのだろう。ユリの口角が持ち上がる。その弾みで、口の周りに着いたKの乾いた血糊がパラパラと零れた。

「ヤマユリの花言葉はいくつもあるんだけどな、有名なのは、『純潔』『威厳』かな……ククッ、ハハハハ!」

 俺は大笑いして見せた。ユリの眉根が怪訝そうに寄る。

「威厳? 純潔? お前みたいな気持ち悪いバケモンには、似合わない言葉だよな。面白いだろ? お笑いだぜ!」

 俺は叫んだ。意に反して身体はがたがたと震えていたが、それでも最後まで言ってやった。どうせ俺も食われてしまうんだ。なら最後に、こいつが悔しがる顔を見てやりたかった。

 だが何時まで経っても、ユリの手が伸びてくることは無かった。それどころか、ユリは目を弓型にして口元に手を当て……笑った。

「くくっ……面白いじゃない。口の利き方も含めてさ、これまでで一番面白い話だった。アンタ、気に入ったわ。食うのは止めよ」

「……え……? じゃあ……」

 始めはユリの言葉の意味が飲み込めなかったが、次第に俺の胸に希望が湧く。

 結局俺は、恐怖を誤魔化したくて、Kの為に腹を立てたふりをしてただけなんだろう。こうして自分が助かりそうだと思えば、すぐそれに縋りつく。情けないがこれが俺の本性だ。

 目を輝かせた俺の顔を、ユリが覗き込む。

「アンタをあたしの宝物に加えてあげる。当分は退屈しないで済むかねえ」

「……は? 『当分』って、面白い話をしたら、帰してくれる約束だろう」

「『食わない』とは言ったけど、『帰す』なんて約束はしてないよ」

「そんな!」

 ふざけるな、と口にすることは出来なかった。突然胸に感じた強い痛みと衝撃に目を落とすと、俺の胸にユリの左手が刺さっている。

 その手は何かを探る様に俺の胸を内から撫で、やがて何かを握りしめた。

 血塗れの美しい顔がにたりと歪む。

 ユリが左手を引いた。その手が完全に引き抜かれると、支えを失った俺の身体が頽れるのが、ユリの指の隙間から

 魂だけになったは、ユリの手の中で、只ぶるぶると震えていた。

「抜け殻は食っちまいたいけど、約束だからね。後で林の外にでも捨ててこよう。さて、宝物はきちんとしまっておかないとね」

 そう囁くユリの右手には、いつの間にかユリの花の意匠が施された蒔絵細工の小箱が乗っていた。ユリは箱の蓋をずらし、その隙間に俺を押し込んだ。

 箱の隙間から目を細めて俺を覗き、ユリが囁いた。

「次にこの蓋が開く時までに、またあたしを楽しませる話を考えておきなよ……何百年後になるかは約束できないけどね」

 ……何百年? 小さな箱に押し込まれ、身動きも出来ない状態で、たった一人? 死ぬことの出来る肉体を無くしたまま、ずっと?

 これまでの比じゃない恐怖に襲われた。パニックになった俺は箱の底から必死に叫んだ。

「止めてくれ! 頼む、それならいっそ、この場で……」

「そうだね、アンタが次に面白い話が出来たら、。出来なければ、またこの中で次の話を考えてもらうことになるけどね、アハハハッ」

 頭上にゆっくりと蓋が迫り、ユリの高笑いが次第に遠くなる。

 やがて、かたん、という音と共に、嘲笑も僅かな光も消えた。

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