夏に置いてきた写真

卯月二一

夏に置いてきた写真

 実家の物置の奥にいくつも積まれた段ボール箱。古くなった家の取り壊しにあわせてモノの整理をしていたのだが、この秘境探索にもようやくゴールが見えてきた。


「懐かしいな……」


 そうひとりつぶやほこりを被った箱を開ける。そこには高校時代に分かりもせずに読んでいた哲学書の表紙がはっきりと見えた。パラパラとめくってみるが今なら絶対に買わない本だと断言できる。『対象aたいしょうアー』って文字がチラッと見えた。よくもまあラカンなんて……。高校時代の俺、すげえな。



 □□□□□□□□□□


 いつも使う待ち合わせ場所、学校近くの公園のベンチに座っていると咲希さきがこちらに走ってくる。夏服の白が眩しい。


たくみくん、待った? 何よ、話って」


「ああ……。なんかさ、最近お互い忙しくて時間が取れてないなぁ、なんて思ってさ」


 実際のところ俺は部活も引退して、毎日が暇である。もちろん勉強に忙しいはずの受験生ではあるのだが、彼女のことを考えるとそれも手につかない。


「そう言えばそうだったね。ごめんね。私ちょっと忙しくって……」


「なあ、何か俺に隠し事してないか?」


 咲希の表情が一瞬曇るのを俺は見逃さなかった。俺は目線をらし公園の入口にいま停車した白い乗用車の方を見る。


「隠し事って何よ」


 彼女は不機嫌そうに呟くが、その声にはさほどの感情も含まれているようには感じなかった。俺が押し黙っていると彼女は観念したのか話し始めた。


「はは、こりゃ完全にバレちゃってるか……。ごめんね。私、好きな人ができたの」


 分かっていた。いつも余計な情報を仕入れてくる友人が咲希の浮気現場を確認していたのだ。その真偽を確認するために勇気を出して呼び出したのだが、悪びれもせずこんなにはっきり言われるとは。咲希の唇から発せられた言葉が何度も頭の中で繰り返される。


「だってさ、巧くんだって何か違うって思ってたんじゃないの? 私、そういうのすぐ分かっちゃうから」


「その『何か』って何だよ?」


 心当たりはあった。俺に初めてできた彼女で、それも彼女から俺に告白してきた。初めてのキスも、そしてもちろん初めてのセックスも。何度も唇も身体も合わせたが、俺の心は満たされることはなかった。求めても求めても。


「えっと、あなたは私を見てくれているようで実はそうじゃなかった。ちゃんとこうしてその私のお気に入りの瞳で見つめてくれてるんだけど、ちょっと違うの。それはあなたが勝手に描いた幻想ね。それを私の中に見ていたのよ。うーん、あれだ。ラカンの言ってた『対象a』ってやつよ。それ自体は空っぽなのにあなたの理想的な私、いや私の心か、それを投影してたのよ。そんな美しいものは存在しないのにね」


 彼女は帰国子女であり俺らのような日本的価値観とは違うものを持っていることは承知していた。それに活動的で交友関係も広い。読んでいる本も彼女から薦められたことがあるのは、俺がまず読まない難しそうな文学や哲学の本ばかりだった。ラカンっていうのはフランスの哲学者だ。『エクリ』という翻訳書を貯めた小遣いをはたいて買ったのだが、数ページ捲って読むのは諦めた。


「い、いや。そんなことは……」


 俺は必死でなんとか言葉を紡ぎ出そうとするが、頭の回転の速い彼女を引き留めるだけのものは出てこなかったし、『ごめんね。私、好きな人ができたの』と聞いた時点で俺の心は死んでしまっていた。続けて何か言葉を交わしていたのかもしれないが、よく思い出せない。


「じゃあね、巧くん」


 咲希はいつも通りの魅力的で愛らしい笑顔を見せると、すぐに振りかえって行ってしまった。やはり停まっていた白の高級車は新しい彼氏である医学部生のもので、彼女は慣れた感じで助手席に乗り込むと、その車もすぐに俺の視界から見えなくなってしまった。


 □□□□□□□□□□


 

「あれ? なんかはさまってる」


 三冊あるラカンの『エクリ』第三巻の間から何かはみ出しているのが見えた。


「ああ……」


 そこには満面の笑顔で写る若い頃の俺と咲希の写真だった。正式に別れたというか、俺がフラレた後に郵送されてきたんだったか。これは初めて一緒に遊園地でデートしたときに撮ったフィルム写真だ。特にメッセージも何もなく写真だけが送られてきた。わざとなのかは知らないが、新しい彼氏とのツーショット写真も一緒に入っていた。もちろんそっちは粉々にしてやった。そっか俺、これを捨てられなかったんだっけ……。物置の整理を中断し、俺は別の段ボールの上に腰を下ろすと、しばらくそれを見つめていた。ノスタルジーってのはこういうのなんだろうな。


 咲希は今ごろ何してるんだろうか。


 彼女は東京の名門大学に合格し、例の医学部生の野郎とも別れ上京したらしい。同窓会やクラス会なるものに一切参加してこなかった俺には同級生の情報は何も無い。まあ、幸せにやってくれてれば……。


 ピンポーン。


 母屋の方の呼び出しチャイムが鳴った気がした。


 俺は立ち上がり埃を払うと物置を出た。



 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏に置いてきた写真 卯月二一 @uduki21uduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ