恋人が漁師になったから

いとうみこと

道の駅

 窓を少し開けると、生温かい風と一緒に磯の香りが車内に流れ込んだ。

「外は暑そうだな」

「そうだね。見て、海がきれいだよ」

「だろ? 今日は天気もいいし、遠回りした甲斐があったな」

 運転席の公輔は満足げに鼻を鳴らした。私は閉めた窓に頭をもたせかけ、緩やかな下り坂のずっと先にある灯台を見た。その岬の向こう側には小さな漁港がある筈だ。

「麻里奈はこっちの方に来るの初めて?」

「うん、海沿いは初めて」

 私の胸がチクリと痛んだ。

「この辺りは魚がほんとにうまいんだよ。種類も豊富らしい」

 自分の事のように自慢する公輔の声が少しばかり煩わしく思えて私は返事をしなかった。

「どした? 疲れたか?」

「うん、まあ」

「だいぶ走ったからな。この先に道の駅があるから休憩しよう」

「え、でもあと少しで実家じゃないの?」

「新しくできたとこだから寄ってみたいんだよ。それに、このままだと予定よりずっと早く着きそうだし、時間調整した方が母さんも慌てずに済むだろ」

「そういうことなら賛成」

 公輔は気遣いの人だ。いつも周囲に気を配り、みんなが快適に過ごせるようさり気なく場を整えていく。本来の性質にホテルマンという職業が磨きをかけたのだろう。その気遣いが何故か不快な場合があることに最近気づいてしまった。まあ、大した問題ではないけれど。


 昼下がりの道の駅はそれなりに賑わっていた。真新しい建物は入り口が赤いとんがり屋根のよくあるビジュアルだ。駐車場に面した広場にかき氷やクレープ、焼きそば、ホットドッグの屋台が並んでいるのも他所と変わらない。ただ、その端に昭和レトロな喫茶店が連なっていて、そこだけ時代に取り残された感がある。

「意外と広いんだな。遊歩道で灯台まで行けるみたいだけど、どうする?」

「私は少し疲れたからあそこの喫茶店で休んでてもいい?」

「あんなとこでいいの? 中にも色々店があると思うよ」

「どんな店か興味あるから」

「わかった、ゆっくりしてて。俺は先にあちこち見てくるから」

 最後まで言い終わらないうちに公輔は歩き出した。こういうとき、三つ下の彼を少し幼く感じる。それもまた最初のうちは魅力だったことを思い出して私は唇を歪めた。いやいや、どうしたんだろ、さっきからいろんなことが微妙に引っかかる。初めて彼の両親に会う緊張からだということにしておこう。


 喫茶店の扉を開けると大きな鈴がカランコロンと鳴った。外の賑わいとは打って変わって店内は時が止まっているようだ。「お好きな席へどうぞ」と言われて、私は無意識に窓際の海に近い席に座った。ちょうどその時、遊歩道の先に公輔の赤いシャツが見えたので、私はスマホを取り出し窓越しに遠い後ろ姿をカメラに収めた。するとふと、十年前にもこの席から同じような写真を撮ったことを思い出した。私の脳裡にあの日がありありと甦った。

 十年前、私は大学の同級生だった智也に連れられてたまにこの海へ来ていた。大のお祖父ちゃんっ子だった彼は度々祖父の漁を手伝っていた。それがあの日唐突に大学を辞めて祖父の跡を継ぐと言い出したのだ。私たちは将来を約束していたし、彼には大手商社の内定も出ていた。泣いて懇願する私に智也は「漁師の俺が嫌なら別れてください」と頭を下げた。私は結局、漁師でもいいとは言えなかった。あんなに好きだと思っていたのに言えなかった。


 鈴の音が聞こえてふと我に返った。近づく足音に、私はタイムリープしたかのような感覚を覚えた。しかし、当然のことながら目の前の席に座ったのは公輔だった。

「お待たせ。ねえ、これ見てよ」

 公輔は大きなビニール袋の口を開けた。

「中に広い鮮魚コーナーあってさ、すごくたくさんの人が群がってた。この魚知ってる? すずきだよ。デカイよねえ。唐揚げ食べたことある? 母さんの得意料理なんだ。今夜作ってもらおうと思って」

「へえ、凄いね、お母さん魚捌けるんだ? 私には無理だなあ」

「母さんに習えばいいよ」

「そう、だね」

 目の前の公輔は相変わらず上機嫌だ。無邪気にはしゃぐ彼を見ていて考えた。もし今、公輔が漁師になると言い出したら私はどうするだろう。

 その時、私の目に懐かしい名前が映った。鱸のパッケージに「林智也」と印刷されている。思わず声が出た。

「何この名前」

「あ? ああ、野菜も魚も生産者の名前が書いてあったよ。魚の生産者って人じゃないのにな」

 公輔は薄ら笑いを浮かべた。

「ほんとに漁師になったんだ……」

「え? 何?」

「ううん、生産者が漁師って変だね」

「だろ?」

 勝ち誇ったような智也の顔。どうでもいいことの筈なのに、ほんの微かな違和感が層のように心に折り重なっていく。これまで見て見ぬふりをしてきたこの感情を無視したまま私は進んでいいんだろうか?

「そろそろ行く?」

 いつの間にか公輔のアイスコーヒーは空になっていた。

「ああ、うん……」

 伝票を手に取り、何の躊躇もなく渡してよこした公輔の後を、私は黙って歩き出した。

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