第8話 大団円
「タイムループ」
というものが、
「タイムスリップ」
に違反したことでの、罰則ではないか?
と考える人もいるようだ。
普通であれば、
「タイムループ」
を繰り返していることを、
「知られてはいけないことだ」
ということであれば、
「同じ日を繰り返している人がいる」
ということに気付いた人がいるというのは、
「理論的におかしい」
といえるだろう。
だからこそ、
「言わなければ分からない」
ということであり、もっとも、
「言ったところで、誰も信じるわけなどありえない」
といえるのではないだろうか?
ということを考えるのは、
「同じ日を繰り返しているのだから、次の日には、その人はいるはずがない」
という考えになるからだった。
しかし、もし、昨日まで一緒にいた人が急にいなくなったとすれば、友達であったり、家族は、
「おかしい」
ということで、騒ぎ出すはずなのに、何もないということは、
「実際に、翌日には、自分という存在がいる」
ということになるのだろうか。
その場合、
「同じ日を繰り返している自分とは違う自分が存在しているということであり、昨日からの延長線上ではない」
と言われるのだろうが、もしそうだとすれば、意識はどうなのだろう?
昨日までのことを言われて、まったく記憶が繋がっていなければいけないのっで、
「同じ日を繰り返す自分とは別に、見性に向けての自分もいる」
ということになる。
ということは、もっと考えれば、
「明日の自分も、毎日同じことを繰り返している自分であって、意識は昨日から受け継がれたものであるということから、同じ日を繰り返している自分と同じなのではないか?」
と考えるのであった。
つまり。
「同じ日を繰り返しているというのは、そう思わされているだけで、意識しなくてもいいことを意識させられることで、頭が混乱する状況に追い込まれた」
ということにある。
だから、
「タイムスリップに違反したバツではないか?」
と言われたとしても無理もない。
「意識しなくてもいいことを意識しているだけだ」
ということで、しかも、タイムループの理屈に一番近いところにいることと、それをわかっているくせに、せっかくの答えが目の前にあって、それを掴むことができないという辛さのようなものが、
「バツだ」
ということであれば、
「何も、このまま意識しないことが、幸せで、知らぬが仏として、意識をしないことにしておこう」
と考えるのが、一種の、
「辻褄合わせ」
なのだろう。
そんな中で、
「デジャブ」
というものがあるが、それは、
「一度も見たこともないはずなのに」
ということであるが、
「実際に見た意識がある」
という。
それがどうしてなのか、ハッキリとした理由が分からないというが、その理由として、
「辻褄合わせのためだ」
というのを、しばらく、信じていたのだった。
しかし、その辻褄合わせが、
「タイムループ」
のようなものだとすれば、理屈に合うと思うようになったのだった。
だが、そのタイムループというものを、一種の、
「カラクリのようなものだ」
と考えるようになると、
「今日の自分が、果たして、明日の自分に乗っ取られるという、タイムリープのようなものなのか?」
それとも、
「明日の自分は、最初からいた存在であって、そちらに、タイムリープしたのか?」
と考えると、
「タイムループ」
の場合にタイムリープしようとすると、
「理屈が合わなくなる」
というような気がしたのだ。
もっといえば、
「タイムループ」
というものが、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
という理屈の答えにもなりそうな気がする。
もし、これに答えを強引にでもつけるとすれば、それぞれのパターンで考えられる理屈を考えて、そのどちらに信憑性があるかということで、
「考えられる数が多い方が、先だ」
という、強引な考え方というものをするように考えることができるのではないか?
というものだった。
真面目に考えると、意外と、答えはすぐに思いつくような気がするのだ。
なぜかというと、昔の漫才のネタにあったことが、今、真面目に考えると、本当に、
「夜も眠れなくなる」
というほどに、その結論を見つけることはできないだろう。
それが、どこに結びついてくるのかというと、それが、
「無限ループ」
というものだ。
その発想は、どのような、ネタだったのかというと、
「地下鉄って、どっから入れた」
というものであった。
なるほど、真面目に考えれば、
「部品を先に入れて、中で組みたてればいい」
ということだってできなくはない。
そういう意味で、
「発想など、いくらでもあるというものだ」
ということになるのだ。
これは、他の発想でも同じで、そう考えると、やはり、その環境や状態から、
「一番スッキリとするものを、多い順で考える」
ということが、理屈に合うと考えると、
「それこそ、民主主義というものだ」
という結論になるというものだ。
結局、
「難局を乗り切るのは、多数決しかありえない」
ということになるのだろう。
自分が、
「タイムループを繰り返している」
と思ったことで、何か、嫌な予感がした。
その予感というのが、
「ドッペルゲンガー「」
のようなものだったからである。
ただ、これまでに、もう一人の自分と会わなかったことで、
「この世界に自分というのはおらず、だから出会うとすれば、明日の自分ということになるのではないだろうか?」
と思うのだ。
しかし、そうなると、自分は、
「タイムループから抜けた」
ということになり、その理屈は、通らない気がするのだった、
だが、
「タイムループを抜けるためには、本人が、ループを抜けたという意識がなければ、抜けられるわけはない」
と自分で思っていた。
「それはただの思い込みだ」
と言われるのだが、
「これだけは実際に譲れない」
と考えた。
これは、桜沢青年の考えている、
「小説のお話」
だった。
この話には、
「SF」
や、
「ミステリー」
さらには、
「ホラー」
が下り混ざったお話であった。
自分の中で、その中で一番重要視するのが、
「SF」
というジャンルであった。
SFというのは、架空の話ではあるが、その中でも、
「理屈を合さなければいけない作品」
ということになるだろう。
ミステリーもそうなのだが、SFというのは、
「サイエンティフィック・フィクション」
と言われるくらいに、理屈の正当性が必要なものである。
「ミステリー」
の場合は、理屈というよりも、
「いかに辻褄を合せるか?」
ということが大切で、SFよりも、もっとリアルで、狭い範囲で考えられることであろう。
そして、
「ホラー」
というと、話が漠然としていて、
「最後の数行で、読者の意表を突く」
という話が多いという。
桜沢という男も、その流れに乗って、
「SFを基調」
として、タイムループと、タイムスリップの話を、それぞれのキーである、
「理屈に合わせる」
ということと、
「辻褄合わせ」
の、
「どちらに重心を置くか?」
ということを焦点として、最後にはその焦点をぼかすことで、ホラー色を生かそうと考えていた。
彼としては、最後に、
「明日の自分」
と会うことで、
「辻褄は合っているが、理屈は合っていない」
と考えるか、それとも、
「明日の自分とは合わない」
ということにすると、今度は逆に、
「理屈は合っているが、辻褄が合わなくなるのだ」
この二つは、本当は、紙一重であり、
「合っている」
と思うのは錯覚ではないだろうか?
そんなことを掻きながら、桜沢は、その翌日になると、
「もう一人の自分と会う」
ということになるのだ。
それは、
「交わることのない平行線が、交わった」
ということになるのであろうか?
( 完 )
「辻褄と、理屈の合致」 森本 晃次 @kakku
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