第7話 スリップとループ

 前述のタイムスリップという考え方に、もう一つの考え方がある。

 それが、

「タイムリープ」

 という考え方だ。

 これは、

「タイムスリップのように、時代を渡っていくものが、肉体と身体が、別の時代に飛んでいく」

 というものである。

 しかし、このタイムリープというのは、

「精神だけが、別の時代に飛んで行って、そして、そこで、存在している自分に乗り移る」

 という考え方である。

 だから、基本的には、

「過去に行く」

 という発想から出てくるものであり、もっといえば、未来での自分であれば、

「存在しているかおうか?」

 ということが分からないので、

「現実味に欠ける」

 ということになる。

 そもそも、この

「タイム何とかもの」

 というのは、すべてにおいて現実味には欠ける。何しろ、すべてが、想像でしかないからである。

 この、

「精神だけが過去にいく」

 という考え方を、

「タイムリープ」

 というもので、これは、

「そこにいる自分の身体を憑依する」

 とでもいえばいいのか、

「記憶を持ったまま、その時代に自分に入り込む」

 ということで、その時代の自分のことを分かっているわけではないのだ。

 これは、一つの考え方として、

「自分の願望が生かされた」

 ということになるのかも知れない。

 普通であれば、

「過去に戻れるとしたら、いくつの時からやり直したい?」

 という質問をされると、

「小学生の頃」

 などという漠然とした思いがある場合はあるだろうが、中には、

「小学校3年生の、あの時」

 などという、明確な部分もあったりするだろう。

 もちろん、

「何年の、何月何日などということを覚えているわけはないので、信憑性はないだろうが、場面としては、あるだろう」

 例えば、

「友達と一緒にいて、好きになった女の子から、質問されたことを、その時はわからずに、答えてあげられなかった」

 ということを、トラウマのように思っているとすれば、

「その時に戻って、やり直したい」

 と思うことだろう。

「小学生の自分なら分からないが、大人になった自分だったら」

 ということであるが、問題は、その時から、

「大人の自分が、子供としてやり直すということになる」

 ということである。

 つまりは、

「大人の自分が、今から急に子供に戻って、果たして。子供として生きていけえるだろうか?」

 ということである。

 大人だから分かることがあり

「このまま突っ走ると、危ない」

 と大人になっているので分かることを、子供がいうとして、まわりは、

「どうしたの?」

 といって不審がることだろう。

 あくまでも、

「子供だと思っている」

 ので、急に大人の考え方を示すと、

「どうかしたのかしら?」

 と、何かの精神疾患を疑われないとも限らない。

 もちろん。疑われて当たり前のことである。

「どうもしないさ」

 といっても、大人は気持ち悪がるに違いない。

 それを、大人になってある程度社会を理解していると、今度は、

「子供には帰れない」

 と思うことだろう。

 そもそも、

「子供に戻って、やり直したい」

 と思っているのだから、大人の気持ちでいかなければ、子供に戻った意味がないというものだ。

 分かっているだけに、大人の行動ができないというのは、それこそ、変なストレスを抱えるだけであり、それが、人間の成長というものが、

「年相応でなければいけない」

 という理由になるのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「タイムリープ」

 というのが可能で、過去に戻れたとしても、それが、

「大人の自分」

 でないと意味がない。

 ただ、そうなると、その時代には、子供の自分がいるわけで、同じ人間がいくら年が違っているとはいえ、存在しているというのは、いわゆる、

「タイムパラドックス」

 というものに反する。

 ということになるのであろう。

 ちなみに、この、

「タイムリープ」

 という考え方は、

「タイムパラドックスというものが、起こらないということへの証明として考えられたものだ」

 と言ってもいいだろう。

 確かに、過去の自分に、乗り移るのだから、それも当たり前だといってもいいだろう。

 ただ、この考え方として、小説などでよく言われるものとして、

「タイムリープ」

 をした人間は、実はちょうどその時に、死んだということではないか?

 という考えであった。

 死ぬと、肉体から魂が離れるということは、一般的な考えだが、

「そのたましいが、どうなるか?」

 というのは、結構いろいろな発想があるようだ。

 中には、

「同じ時代の誰かに乗り移る」

 という考え方であったり、

「成仏できずに彷徨う」

 などという形で、あの世に行かずに、この世を彷徨うというものだ。

 だったら、死んだ時に、

「小学生からやり直せたらな」

 と思ったとすれば。その時に、タイムリープが起こったとしても、無理はないことではないか。

 つまりは、

「何でもあり」

 ということではないかといえるのだろう。

「タイムリープ」

 によって、過去にいけば、

「じゃあ、過去の自分に乗り移ったとして、過去の自分の魂というのは、どこに行ったのだろうか?」

 ということになる。

「それこそ、憑依したということになるので、元々いた魂は、眠ってしまって、奥に隠れているということになるのかも知れない」

 といえる。

 もしそうであれば、ある時期、

「記憶喪失になっていた」

 という時期があり、その間に、その人の知らないような記憶があった。

 あるいは、

「普通ではありえないような、それこそ、未来の話をし始めた」

 ということで、

「誰かが乗り移った」

 と考える人もいるかも知れないが、それよりも、

「気が変になったのではないか?」

 と言われるであろう。

 だから、逆に、

「未来のことを話し始めたとしても、それは、戯言であって、誰も未来を知らないことから、まるでオオカミ少年のような、狂言壁という様相を呈するというような、隠れていた性格が表に出てきたのではないか?」

 と言われるようになったのではないだろうか?

 それを考えると、

「タイムスリップ」

 というものには、かなり、いろいろな制約があり、タイムスリップをしても、見つからなければ、そして、その時代に何ら影響を与えなければ、本当であれば、

「何もない」

 といってもいいだろう。

 しかし、同じ自分が出会って、

「相手が自分だ」

 と認識してしまうと、その危惧は、

「限りなく問題が起こる」

 ということに傾いてしまうことだろう。

 それを考えると、

「今の世の中において、タイムスリップは、本当に危険だ」

 ということになり、

「時空警察」

 なるものがいても、おかしくはないだろう。

 その連中が、タイムスリップを、

「犯罪だ」

 ということにしてしまっているとすれば、今度は、それを逆手に取り、金が動くというようなことで、暗躍をするやつもいることだろう。

 まるで、

「ドッペルゲンガー」

 であり、もう一人の自分が、存在しているというのは、何も、

「まったく同じ時代の自分である必要はない」

 といえる。

「タイムスリップとの抱き合わせ」

 という考え方であれば、ドッペルゲンガーという存在もありえるわけだ。

 もし、近未来で、

「タイムマシン」

 が完成し、

「タイムスリップ」

 が可能ということになれば、それは、

「ドッペルゲンガーを可能ならしめるという証明」

 としても、考えられるのかも知れない。

 つまり、

「未来において、過去を変えてしまう」

 ということが可能な者が発明されれば、

「過去がすべて変わってしまう」

 といえるだろう。

 ただ、中には、すでに、タイムマシンのようなものが開発されるということを、信じて疑わないという人がいるとすれば、

「その人にだけ、ドッペルゲンガーというものが見える」

 ということになったとしても、無理もないことに違いない。

 といえるだろう。

 だから、

「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来に4死ぬ」

 というものが、

「精神疾患によるもの」

 などともいわれているが、有力な説として、

「タイムパラドックスの証明になる」

 というものもあるようで、その発想が、

「今の時代にも、有力な説として言われている」

 ということになるのだった。

 そんな、

「タイムスリップ」

 というものは、いろいろと危険を秘めているようだが、

「ドッペルゲンガーの存在」

 であったり、

「ドッペルゲンガーを見たので、死んでしまった」

 という人が多いということから、

「タイムパラドックス」

 という説も、

「まんざらではない」

 と言われるのも、無理もないことだといってもいいだろう。

 そもそも、

「タイムスリップ」

 というものが主流で、

「タイムリープ」

 という考え方は、あまりなじみのあるものではなかった。

 どこから来たのかは、分からないが、

「タイムパラドックス」

 というものの矛盾を解消するということから、言われるようになったというのであれば、「その説もあり得ないことではない」

 といえるのではないだろうか?

「タイムリープ」

 というものは、小説にすると、辻褄を合せるのは難しくはないかも知れない。

 というのも、忘れているかも知れないとはいえ、

「自分が生きてきた時代に、年を重ねてから戻るのだ」

 しかし、その時に戻って、

「懐かしい」

 という気持ちになったとしても、どうしても、その時の自分に戻ることはできない。

 なぜなのかというと、

「自分が戻ってきた身体には、前からいた自分がいるのだ」

 ということだ、

 たぶん、行動不能という形になっているのだろうが、

「同じ自分がいる」

 ということで、ここで、一種の軽い形の、

「タイムパラドックス」

 のようなものが働いて、

「自分の意識の、子供の頃に戻ることは絶対にできない」

 となると、本人は、

「戻れるはずだ」

 と思っているとすれば、戻れないことでの、ジレンマであったり、憤りのようなものが働いて、

「結局、どうにもならないという現実と、ぶつかってしまう」

 ということになるのではないだろうか?

 そんなことを考えてみると、

「タイムリープ」

 というのは、本当の、

「タイムパラソックスの証明」

 ということになるのだろうか?

 そう考えると、

「タイムパラドックスが起こる映画」

 などでは、いくつかのラストがあるが、その中で一番しっくりくるものとして、

「歴史を変えてしまう瞬間に訪れる前に、もう一度、タイムパラドックスが起こり、結局何もできないまま、意識だけを持って元の世界に帰る」

 ということだ。

 そうなると、

「では、なぜ、タイムパラドックスが起こって、過去に行ったのか?」

 ということになる。

「じゃあ、タイムパラドックスというものに、何かの信憑性というものがあるということなのか?」

 ということになるのだ。

 というのは、

「ただ、タイムパラドックスが起こった時、世界は破滅する」

 あるいは、

「宇宙がビックバンを起こす」

 などと言われていたが、

「必ず。最後には辻褄を合せるように、何も起こらないようになっている」

 ということを映画で証明しようとしたに過ぎないだろう。

 確かにそのラストの方が、

「いかにも、当然」

 という感覚になるのだが、その発想は、当たり前のこととして、

「宇宙的な発想」

 であっても、結果、辻褄を合せるということを証明しただけで、

「タイムパラドックス」

 というものが、

「歴史にいかに影響を及ぼすのかということは、ハッキリと分からない」

 ということだ。

 だから、

「歴史は答えを与えるよりも、何も起こらない」

 といった証明の方が大切だと考えてのことであろう。

 あくまでも、

「人間が考える、理屈である」

 というわけなので、いくらでも解釈ができるわけで、映画などは、その面白さ、つまりは、

「エンターテイメント性」

 というものが、大きな問題となるということである。

 また、この、

「タイムスリップ」

 と、

「タイムリープ」

 との関係性とは、少し違ったものが、存在している・

 というのは、

「タイムループ」

 という考え方があるのだ。

 この考え方は、

「タイムスリップ」

 ではなく、

「タイムリープ」

 という考え方になるものだ。

 というのは、

「ループ」

 つまり、

「繰り返す」

 ということであり、それは、

「ある一定の区間を、何度も繰り返している」

 という発想だ。

 だから、戻った過去には、自分しかいないわけえ、肉体ごと時代をさかのぼるわけではない。

 そうなってしまうと。

「繰り返していきながら、自分は永遠に増え続ける」

 ということになるからだ。

 だから、繰り返したその世界にいるのは、自分でしかなく、意識を持ったまま、過去に戻るということで、

「タイムリープ」

 になるのだ。

 しかし、それは、

「一度だけ戻る」

 というわけではなく、

「何度も繰り返す」

 ということになる。

 時間というものは前に向かって五系列に続くことで、

「永遠に続いたとしても、そこに違和感はないのだ」

 ということであるが、

「過去に戻る」

 ということが、その瞬間では絶対ということになれば、

「繰り返す」

 ということが永遠に続くということだ。

 それは、繰り返されることが、

「自分の手によるものなのか?」

 あるいは、

「自分の意思にかかわらず、繰り返されるということであるか?」

 ということを考えれば、

「後者の方が圧倒的に信憑性が高いに違いない」

 といえることだろう。

「タイムループ」

 というものに、制限があるというのが、SF小説などの発想だ。

 特に、

「SF小説に、ミステリー的な要素が加わる」

 ということになれば、

「この繰り返している間に、示された謎を解かないと、お前か、お前の大切な人が死ぬことになる」

 などという脅しがあったりして、その謎解明のために、

「タイムループというものを、根本から考えるか?」

 あるいは、

「自分だけに起こっているものとして考えるか?」

 というところから始めるというストーリーの小説は読んだことがあった。

 これは、

「時代を繰り返す」

 という意味で、

「循環」

 という考え方から、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という発想に近いものがある、

 ということで、考えたことがあったものだ。

「自然の摂理」

 にしてもそうだが、

「物事には循環、これが人の一緒になると、輪廻転生という考えがあるのではないだろうか?」

 と考えられると思っている。

 小説というものだって、理屈から、エンターテイメントに発展させているのだから、甘く見るものではない。

「事実は小説よりも奇なり」

 というが、実際に、小説が、事実ということだってあったりする。そうなると、エンターテイメント性が高いだけあって、

「逆も真なりだ」

 といえるだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る