第三章 三節 黒ノ技能-"ブラックアーツ"-
日暮れの街道に、学生鞄を提げて歩く
隣には日傘を差して小気味よく歩くミーアがいる。彼女を連れて歩くのは、繁華街へと続く大通りだ。黒川市は年配層が多い地域であり、凹凸を少なく舗装された歩道はバリアフリーで歩きやすかった。
杖を突く老夫婦にすれ違いざまに挨拶され、同じように軽く会釈する。車道を挟んだ反対側では、夕飯の買い出しに出かけたらしい主婦たちがエコバッグを片手に談笑していた。
(一般人がこれだけいる路上でいきなり襲われるなんてことは、考えたくないな……)
大神は注意深く気を張っていた。もし鏡を見たら、試験勉強前の徹夜明けのような目つきをした自分がいることだろう。元から目つきは悪いのだが。
午前、午後、そのどちらも追っ手の襲撃は無かった。公共の場にミーアを匿ったことで襲撃を防げたのか、あるいはたまたま相手の準備が出来ていなかったのかは不明だ。敵の正体がわからない以上、まだ油断するわけにいかなかった。
大神は能力の副次作用で五感が鋭い。特に嗅覚と聴覚に関しては、まさしく狼のように敏感だ。背後から近寄る不審者がいれば、まるで後頭部に目があるかのように聴覚で察知できる。前方は視覚、後方は聴覚。五感に神経を集中し、ミーアと肩が触れ合うほどの距離で並んで歩く。
そして最も優秀な嗅覚は、ある一つの匂いを察知するために使用していた。それはミーアも同じだったようで、二人は揃って足を止める。
「……ミーア、感じるか?」
「うん、風に乗って漂ってきたよ。強い血の匂いが」
錆びた鉄の香りが人間の体臭と混ざり合ったモノが、西日に照らされた平穏そのものな街道に漂っていた。それは決して転んだ子供が擦りむいた膝から流れた血だとか、路地裏で喧嘩する猫が引っ掻き合って出来た生傷だとか、そんな話ではない。二人の鼻孔を強く刺激する、しかし一般人には感知できないレベルで香るその正体は、人間一人が致命傷となるほどの出血でしか生まれない鮮血の香りだ。
この場合、考えられるパターンは二種類だ。一つは近くで誰かが重傷を負い、多量出血したパターン。
そしてもう一つは、体に出来た孔から黒血を噴き上げた何者かが、
「気をつけろ、ミーア。もう既に血の匂いに囲まれてる。遠くから漂ってきたとか、そんなんじゃあない。この血の主は、すぐそばにいるぞ」
背後は警戒していた。大神の聴覚が背後に捉えていたのは、自分たちの数十メートル後方を歩く女学生のグループだけだ。一定の距離を保って近づいてくる不審な足音は存在しなかった。
大神はこれでも探偵事務所にバイト感覚で出入りしている。
「俺たちを追うような足音は無かった。背後は警戒しなくていい。どこかで無関係な誰かが重傷を負った可能性はゼロじゃないが、それにしては悲鳴が聞こえなかった。つまりこの血の匂いは、近くで誰かが
「もしかして、今この通りにいる誰かが、その
すれ違った老夫婦。談笑しているご婦人たち。赤信号で停止しているバンの運転手。交差点の角にあるコンビニから出て来たサラリーマン。その誰からも、鼻を突くような強い血の匂いはしない。少なくとも、大神の目に映る人物たちは一般人だ。
「断定はできないが、間違いなく近くにいる。もしこれがミーアを狙う
派手な動きは見せないことに期待して人通りのある場所を選んで移動した大神だったが、その期待は後悔へと変わった。この大通りで襲撃されたら、関係のない一般人を巻き込む可能性が高い。
「クーヤ、どうする? 二人でやっつけちゃう?」
「……血の気が多いなお前は。逃げるにしても迎え撃つにしても、ここじゃダメだ。……走るぞ!」
大神が踵を返して走り出し、ミーアが後を追う。血の香りから遠ざかるように、歩いてきた道を戻る。先ほどすれ違った老夫婦を追い抜き、後方を歩いていた女学生のグループを避けるようにして走り去る。しかし、血の匂いは二人に纏わりつくかのように消えない。
「血の匂いがどんどん広がってやがる。広範囲を攻撃するタイプの
大神の脳裏に最悪の事態がよぎる。姫路の火炎能力のように、一瞬で周囲を焼き払うような
大通りを逆走し、雑居ビルが並ぶ路地を目指す。無関係な被害者が出ないよう、通行人の少ない場所へと逃げ込むことを選んだのだ。
「ミーア、そこの角を曲がれ! 路地裏に入るぞ!」
「うん!」
二人はほぼ同時のタイミングで、ブロック塀で仕切られた雑居ビルの角を曲がる。そこは日当たりの悪いジメジメとした狭い路地で、表通りから風に運ばれて入り込んだコンビニのレジ袋や古新聞といったゴミが散乱し、タバコのポイ捨ても目立つような薄暗い路地……
の、はずだった。
「なっ……⁉︎」
大神は勢いよく路地に入り込んだその瞬間、足をビタッと止めて目を丸くした。
そこに広がるのは都会の路地裏の光景ではなく、真っ黒な煙のようなものが充満した異常な空間だった。
「クーヤ、これは……!」
「しまった、先回りされたか……!」
路地に入るまでは気付かなかった。角を曲がった瞬間、まるで銭湯の脱衣所から引き戸を開けて浴場へと入った時に湯煙で前が見えなくなるように、クリアだった視界が突然奪われたのだ。それも漆黒に。
あまりに濃厚な黒に、一寸先も見えない状態だ。その上、大神とミーアの鼻孔を刺激するのは、先ほどまでとは比べ物にならない血の香りだった。
「
「有毒なガス系の能力だとしたらヤバイ、もう吸い込んじまったぞ……」
咄嗟のことで身構えるのが遅れた大神は、既にその黒煙を取り込んでしまっている。慌てて左腕で鼻と口元を覆うが、もし本当に猛毒ガスの類であれば意味をなさないだろう。
しかし大神の焦りとは裏腹に、体調に変化はなかった。ひたすらに強烈な血の匂いが充満し、隣にいるミーアの顔すら拝めないほどに視界が悪いだけだ。ミーアにも何か変化が起きた様子はない。
とにかく、この黒い煙から脱出するべきだ。そう考えた大神が体を反転させ、路地の入り口へ引き換えそうとする。角を曲がってたかが数歩、すぐに抜け出せるだった。
しかし、どういうわけか走っても視界は開けず、歩道に出ることが叶わない。
「なんだこれ、どうなってやがる……!」
「クーヤ、これ空間操作系の
「結界だって?」
ミーアの言葉に大神が立ち止まる。三百六十度、天すら覆う黒い影の中で、どこにいるかもわからない敵の気配に神経を尖らせる。
「霧は異世界との境界線として描かれることがあるの。この黒いのが毒ガスなんかじゃなくて、わたしたちを閉じ込めるための異空間だとしたら、
ミーアの予想は的を射ているかもしれなかった。どこまで走っても出口はなく、硬いアスファルトの感触が靴底に返ってくるだけだ。またあれだけ狭い路地だったにも関わらず、左右に方向転換してもアパートの外壁にぶつかることもない。物理法則を歪め、永遠と水平に続く結界の中に、二人は迷い込んだのだ。
そして何より、この黒い気体をガスや煙ではなく、霧と表現したミーアの言葉に大神は納得した。匂いこそ強烈な血の香だが、肌に纏わり付く不快な湿度がその正体を証明している。
これはまさしく、黒い濃霧だ――大神がそう感じた時、何か風切り音のような空気を裂く音が聞こえた。
「ミーア、下がれ!」
「わっ……!」
大神は叫ぶと同時にミーアを突き飛ばし、自分も後方へ飛び退いた。咄嗟の衝撃にバランスを崩したミーアが尻餅をつきそうになりながら、なんとか転ばずに仰反る。
カキンッ、と。さっきまでミーアが立っていた硬い地面から、軽い金属音が響いた。黒い濃霧の中だが、至近距離ゆえにその正体を拝むことができた。
「銀の、ナイフ……!」
アスファルトに深々と突き刺さった恐ろしい切れ味のそれは、宮廷で使われるような銀食器の類では無い。ガードのないシャープなシルエットで、投擲を目的に作られた暗器だとわかる。刃渡は小さく、内ポケットに収まりそうなサイズだ。
ミーアが追い詰められたという、銀の刃。吸血鬼の天敵とも呼べる凶器が飛来した方角から、濃霧を通り抜けて声が聞こえてきた。
「やっぱり避けられちゃったかぁ。貴重な純銀製の対魔武器、もっと慎重に扱わないといけないね」
その声に、大神の体温がゾクンッと下がる。
爽やかな好青年そうな声の持ち主は、友人に語りかけるいつもの調子で。
「おっと、こんなに霧が深いとせっかくの演出も台無しだね? 少しだけ霧を薄くしようじゃあないか。キミが今どんな顔をしているのか、僕に見せて欲しいな……空也?」
大神たちの周囲だけ霧がわずかに晴れていく。相変わらず空は見えず、霧の奥は目視できないほどの闇が広がっているが、声の正体と再会するにはそれで十分だった。
そこには、馴染みある声と一致してほしくない見知った姿が立っていた。
「霧島……お前……!」
「やぁ空也。さっきぶりだね。数学の授業は結局三人とも寝ちゃったから勝負は引き分けになったけど、今回はキッチリ白黒つけようよ」
Lunatic Black 黒槍 火雨 @kuroyari9681
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