第三章 二節 日常を守る者たち
太陽が西に傾き始めた、黒川高校の放課後。
終礼を終えた二年C組の生徒たちが荷物をまとめて教室を出ていく。土日はどこに出かけようか、誰々の家で泊まりでゲームだ、などなど金曜日の終わりらしい会話が聞こえてくる。
「みんな、また来週なー!」
放課後という時間は窮屈な授業から解放された多くの生徒にとって、趣味あるいは夢のために部活動に取り組む時間である。
しかしながら部活動に所属していない大神にとって、終礼後は単なる帰宅時間に過ぎない。早々と帰宅するために、ミーアを待機させている空き教室へと向かうことにした。
(外はまだ明るい。追っ手がミーアの正体を隠して人知れず始末しようとしてるなら、目立つ時間帯に動く可能性は低いはずだ)
学校という日常生活の拠点。自分たちが置かれた境遇を一時でも忘れさせてくれた安全地帯から抜け出す算段を立てる大神。
吸血鬼であるミーアにとっては日が暮れた夜間の方が動きやすいだろうが、それは追っ手にとっても好都合となるだろう。暗闇で待ち伏せされ、銀のナイフで急所をブスリと刺されれば全てが終わりだ。それならば、人の目につくことは覚悟の上で、明るい間に帰宅した方がマシだろうという判断だった。
大神が教科書や文具を詰め込んだ学生鞄を担いだところで、隣の席の鳥目に声をかけられた。
「あ、大神くん。私もついていくね」
大神は鳥目を一瞥して頷き、彼女と共に廊下に出る。鳥目が仲の良い女子生徒たちに声をかけられ、「大神くんと帰るのー?」と茶化されているが、彼女が必死に「そんなんじゃないってー!」と顔を赤くして否定している理由は大神にはわからないのであった。
幅広の階段を降り、まずは昇降口へと向かう。下駄箱を開けて上履きをしまい、シューズを取り出すがその場では履かず、手に持ったまま一階の白い廊下を歩いていく。進むほどに人の声が遠くなり、誰ともすれ違わなくなったところで、やがて例の空き教室に辿り着いた。
「ミーア、待たせたな。帰るぞ」
「…………」
「ミーア?」
空き教室に入った大神が声をかけても、ミーアの反応がない。またトイレにでも行っているのだろうか、と思った矢先。
窓からの視線を遮るためにパーテーションとして設置していた机と椅子の山、その向こう側に、力無く横たわったミーアの足が見えた。
「…………ッ!」
ゾッとした大神が床を蹴って駆け寄る。その後ろを遅れて鳥目も追いかけ、パーテーションの向こう側を確認する。そこには、硬い床にぐったりと倒れているミーアの姿が。
この教室で履き替えるために持ってきたシューズを投げ捨てて駆け寄る。
「ミーア! しっかりしろ!」
「ミーアちゃん……?」
大神と鳥目が姿勢を低くして覗き込むように様子を伺う。
すると。
「う、うーん……むにゃ……」
「……………………寝てるだけかよ」
「びっくりしたぁ……」
呆れと安堵が半々に混ざり合った溜め息をついた大神が、ミーアの白い額に軽くデコピンする。ぺちっ、という小さな音と共に、ミーアが飛び起きる。
「むにゃあ! な、なに!」
「帰る時間だぞ寝坊助。狙われてる身だってのに緊張感ねーなお前」
「だって、退屈だったんだもん……誰も来ないし」
額を抑えながら、不服そうに声を漏らすミーア。床には大神が昼に購買で買ったパンと、奇跡的に売っていたプロテインバーの袋が転がっている。
「誰か来たら困るから隠れてるんだろ、まったく。休み時間になるたびにお前のことを聞かれて、誤魔化すのが大変だったんだぞ」
「それはトイレの場所を先に教えてくれなっかったクーヤが悪い! 吸血鬼だってオシッコするんだから! オシッコ漏らしたら汚れちゃうんだから!」
「はいはい、俺が悪かったからオシッコ連呼やめような」
小学生でも口にするのを恥ずかしがりそうな単語を惜しげもなく連発するミーアに、やや食い気味なストップをかける大神。この白いの、いろいろな意味で人前に出すのが怖い。
「とにかく、そろそろ帰るぞ。またそこの窓から出て、裏口から出来る限り大回りで家に向かう」
「大回り? クーヤ、どこか寄り道するの?」
ミーアが立ち上がり、コートについた埃を両手で払う。
「念の為の待ち伏せ対策だ。ミーアを逃した人物の住所くらい、そろそろ特定されててもおかしくないからな。最短ルートは避けて、人混みに紛れ込める繁華街を通っていく。そこから電車に乗って、途中下車して歩いて帰るつもりだ」
「クーヤの家で待ち伏せされる可能性は? キョースケのところに集まった方が安全なんじゃないの?」
「それは俺も考えたから連絡してみたんだけどな。アイツ、今は事務所にいないらしい。仕事だとか言ってたが……探偵業の依頼が入ったって話は聞いてない。ったく、頼れるものは全部頼れとか偉そうに言ったくせに、肝心な時にいないんだからテキトーだよな」
大神が外に出るためにシューズに履き替えていると、鳥目が口を開く。
「てことは、二人はこのまま家に帰るんだよね? 方向は同じだし、朝みたいに私も一緒に……」
「……いや、これ以上は関わらない方がいい。ミーアに関わりすぎたら、お前まで巻き込まれる可能性がある」
鳥目は朝から大神たちと行動している。もしその様子をどこからか監視されていたら、これ以上の同行は危険だろう。ミーアを追い詰めるほどの実力者を相手に、二人も守りながら戦えるほど大神は器用ではない。
「そっか……そうだよね。ごめんね、何も出来なくて」
「気に病まないでくれ。むしろめちゃくちゃ助かってる」
「本当に? どんなところが助かったの?」
「タクシー代とか」
「そこなの⁉︎」
がびーん、とかいう効果音が似合いそうな顔をしている鳥目に背を向け、ミーアと共に窓際へ向かう大神。窓の向こう側に誰もいないことを確認し、鍵を指で回す。
「鳥目、お前も気を付けて帰れよ。危ないのは例の追っ手だけじゃない。最近は
「
空き教室に聞こえてきた第三者の声に、大神がハッとして振り返る。その声の主が学生鞄を肩から下げた
「姫路か。驚かせやがって」
「姫ちゃん、生徒会の仕事はいいの?」
「ん、いいのいいの。用事があるから早く帰るって伝えてきたし。大切な友人の、身の安全の方が優先よ」
姫路はそう言いながらドアを閉め、汚れのない清潔な上履きで床を鳴らして歩いてくる。新学期から鳥目とクラスメートになった大神は詳しく知らないが、どうやら姫路と鳥目は以前から親しい間柄のようだ。鳥目が病院に搬送された時の姫路の反応からも、とても大切に思っていることが伺えた。
「ミーアの事情については詳しく知らないけど、吸血鬼……だっけ。大神くんから聞いた限りだと、その力を狙う人たちに狙われてるのよね」
訝しげに話す姫路の言葉に、ミーアがコクンと頷く。
「その逃げ出した
「それは……そうかも?」
緊張感なく小首をかしげる鳥目に、姫路は「そうなの!」と被せるように言う。
「とにかく、ここからは私も協力するわ。というか、探偵事務所の一員なんだから最初から頼ってよ。仲間外れみたいで気分良くないもの」
「こっちにも事情があったんだよ、色々とな」
腕を組んでむくれている姫路に、大神が言葉を選びながら対応する。何せ、ミーアの事情については本人の意向もあって詳しく伝えていないのだ。
大神としては姫路は信頼できる存在だが、情報の出入り口は少ない方が良いと考えた結果でもある。ミーアと
「ま、お前が一緒にいるなら大丈夫だろ。鳥目のことは任せたぞ」
「任されるまでもないわ。大神くんこそ無茶しないでよね。私としては今すぐにでも
姫路はミーアを見つめ、数秒の沈黙の後に続ける。
「……その事情とやらを一旦汲んでおくわ。
「そうか。悪いな、姫路」
「悪いと思ってるなら、せめてミーアのことはしっかり守ってよね。もし追っ手と出会ったらすぐ逃げて。そして、私や
「注文が多いな……。まぁ、肝に銘じておくさ」
姫路に真剣な目で詰め寄られ、大神は一歩引いて「はいはい」と首肯する。彼女が頼りになるのは間違いないが、堅物で話が長いところは苦手であった。
軽薄な態度を取った大神に対して余計にムッとする姫路だったが、そんな彼女の両肩に後ろから手を置いた鳥目が親しげにくっつく。
「きっと大丈夫だよ、姫ちゃん。大神くんはすっごく強いし頼りになるから。私も姫ちゃんと一緒なら安心だし!」
「
「ユーヤケも強いんだ? クーヤとどっちが強いの?」
折りたたんだ日傘を手に持ってくるくると遊んでいるミーアがシンプルな疑問を投げた。そういえばミーアは、まだ姫路の能力を目の当たりにしていない。
「ああ、強いぞ。俺よりよっぽどな。強いっていうか怖えーっていうか」
「よく言うわ。その右腕で、私の炎を丸呑みにしたくせに」
「そんなこともあったっけか。まぁ少なくとも、並の
「余計なことまで言わなくていいの。スカウトだって全部蹴ってるんだから。友達との日常を奪われてたまるもんですか」
日常。それを守るために、取り戻すために、大神と姫路は戦っている。
力を持たざる者から日常を守れるのは、力を持つ者だけだ。人々の日常を、そして自分たちの日常を
「クーヤより強いってことは、わたしよりも強いってコトだよね。むぅ、吸血鬼としてのプライドがうずくような……」
「うずかんでいい。なんだよ吸血鬼としてのプライドって」
姫路をじーっと眺めるミーアの頭に軽いチョップを入れ、窓をガラガラと開ける大神。モタモタしていると日が暮れてしまう。
「じゃあ、俺たちは行くからな。そっちも気をつけろよ」
「お互いにね。無事を祈るわ」
「大神くん、またね!」
姫路と鳥目に見送られながら、窓の向こう側に飛び降りる大神。ミーアも軽やかに飛び越えて、西日の差す校舎裏の土を踏む。
「あつっ……!」
「おい、西日が当たってるじゃねーか。大丈夫か?」
「う、うん。一瞬だけだったから、平気平気。顔が少し火傷したくらいだよ。すぐに治るから大丈夫」
西日に焼かれたミーアの顔が、まるで熱湯を浴びたかのように赤く炎症している。しかし見る見るうちに火傷が治り、元通りの白い肌へと再生していく。改めて彼女が吸血鬼であることを実感する大神であった。
「ったく、気をつけろよ。姫路が長袖のコートを選んでくれてて良かったな」
日傘を広げたミーアと共に、校舎の影に沿うように移動していく。グラウンドでは運動部が準備体操や運動具の設置を始め、音楽室からは軽音楽部の音色が聞こえてくるが、裏門付近には誰もおらず無事に抜け出すことができた。二人は待ち伏せを警戒したルートを通るべく、予定通りに繁華街方面を目指して歩き出した。
――その後ろ姿を校舎の屋上から見つめる何者かがいたことに、大神とミーアが気付くことは無かった。
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