娘が本を読まなくなったのは

近藤銀竹

娘が本を読まなくなったのは

「いってらっしゃい」

「ん……」


 返事なのか咳払いなのかわからない音を立てて、娘は車を降り、塾へ向かっていく。ポニーテールの尾が揺れて小さくなっていく。

 掴み所のない子供に成長してしまったものだ。

 娘は16歳。

 思春期まっただ中のはずだが、別に手の掛かることはない。毎日学校へも行けているし、親と口を聞かない、といったこともない。


 迎えは2時間後だ。

 私は車を発進させる。

 中古で買ったシルバーのベンツA180は、遠くでエンジン音を響かせながら、車寄せから滑り出た。


 だが――

と、ステアリングを握る私の脳裏を違和感がよぎる。

 娘があるときを境に、本を全く読まなくなってしまったのだ。

 幼い頃、娘は本が大好きだった。

 幼少の頃から、私と妻とで寝る間はもとより、暇さえあれば読み聞かせを行ってきた。娘も本が大好きで、文字が読めない頃は読み聞かせをせがみ、気に入った本は諳んじ、文字を読める様になってからは、外食に行けば本を読み、おやつを食べながら本を読み、就寝前にも本を読み、といった状態だった。


 いつからだろう。

 娘が本を読まなくなったのは――






「お父さん、私ももう中学生だし、スマホがほしい」


 娘が中学生になった年、スマホをねだられた。

 頃合いだった。

 スマホの所持率は小学生は約半数だが、中学生になると一気に八割を超える。もはやインフラだ。コミュニケーションの輪に入る為にも必要なツールだっただろう。


「母さんと相談してからな」


と返事をしたものの、特に妻も反対せず、我が家は娘にスマホを買い与えることにしたのだ。

 家族3人で家電量販店に行く。

 早速、娘は国内で多くのシェアを誇るペアー社のコーナーへ一直線に向かった。

 洗練されたデザインのスマートフォンが並んでいる。いま大人気のlPhoneエルフォーンというやつだ。ペアー社なんて、クリエイター関係の人が使う機種だと思っていたのに、時代は変わるもんだ。


「…………」


 最新のlPhoneエルフォーン16シックスティーンを見つめたまま動きを止める娘。


「流石に……高い……よね?」

「そうだなあ」


 高額商品だ。買おうと思えば買えなくもないが、中学生の持ち物としては贅沢すぎる。値段に驚きつつも、娘の金銭感覚がある程度まともに育ったことに嬉しさを覚える。


「隣の13サーティーンはどうなんだ? デザインはさほど古くなっていないと思うけど?」

「ケースが、どんどん売られなくなっちゃうんだよねー」


 唸る娘。葛藤が見て取れる。

 ケースでスマホを選ぶのか? 通話と撮影とメッセージが使えればいいだろうに。

 思案していると、娘が振り返った。


「リサイクルショップ、見ていい?」

「ああ、構わないけど……なにを見るんだ?」

lPhoneエルフォーンの中古品」

「携帯電話の、中古? 危なくないか?」

「なにが? お父さん、古いね」

「いや、ストレージってのは仮に全消去したとしても……」

「知ってるよ」


 なら何も言うまい。

 その足でリサイクルショップへ向かうことにした。


 果たして、lPhoneエルフォーンの中古品は存在した。14フォーティーンだけでなく、15フィフティーンすらも。

 娘は慣れた様子で店員を呼び、ショーケースを開けてもらっている。

 ストレージ容量だけでなく、外装の傷とかでも価格が変わる。流石にバッテリーの酷使具合は分からないから、そこはギャンブルだろう。


「お父さん。これにしようと思うんだけど」


 娘が1台の端末を差し出した。


「どれどれ……!」


 ひやりとした感覚。

 金属の冷たさ、だろうか。

 画面を見る。

 黒い画面に、自分の目がやけにくっきりと映っている。

 裏返すと、斜めに、ほぼ右上から左下に一直線に刻まれた、傷。


「……これは、やめたほうがいいんじゃないかな。ほら……大きな傷も付いているし……」

「でも、傷一本で15フィフティーンがこの値段なんて、お買い得だよー。傷なんてケースで隠すし」

「いや、しかしな……」

「いいんじゃない? その代わり、壊れるか、最低でも中3まではそれを使うこと。壊したら以後キッズケータイ」

「やったー!」


 妻の鶴の一声で、そのスマホを買うことが決まったのだった。






「ただいまー」

「おじゃましまーす」


 休日、娘がふたりの友人を連れてきた。

 奇妙な出来事はあれっきりで、別に超常現象などが起きることもなかった。娘はスマホ購入後も勉学を疎かにすることもなく、そこそこ上位の高校に入学した。家族ともそれなりのコミュニケーションを取っている。

 ひとつ変わったのは、娘はそのスマホを買って以来、本を全く読まなくなったことだ。

 娘達は私室に消えていった。


「なあ」


 私はキッチンで趣味の菓子作りに興じる妻に声を掛けた。

 妻はブラウニーケーキを予熱したオーブンに入れると、ミトンを外しながら「ん?」と返事を返した。


「あいつ最近、全然本を読まないよな?」

「んー、そうかもね」

スマホを買ってからだと思うんだが」

って? よくわからないけど、ちゃんと高校生として勉強もやってるんだから、いいんじゃない? 紙の本を手に取らなくなったからって、

今日日きょうびデジタル書籍とかウェブ小説とかもあるんだから、そんなに目くじら立てなくてもいいんじゃない?」

「そうかなぁ」


 思わず首を傾げる。考えすぎなのだろうか。私はソファに座ると、娘達の出迎えで一旦閉じたビジネス書を再び開いた。


 娘の友達が階下に下りてきた。トイレだろうか。我が家はリビング階段という間取りなので、リビングを通らねばどこにも行けない。

 妻が顔を出した。


「ねえねえ、うちの子って学校でどんな話してるの?」


 妻が娘の友達に声を掛ける。


「え? えーっと、塾の先生の話と……韓国コスメの話ですね」

「あらあら、ありがとう」


 娘の友達はぴょこっと会釈すると、トイレの方へ消えていった。

 入れ違いに、二人目の友人が階段を下りてくる。こちらの顔には見覚えがあった。彼女は娘の中学校からの友人だ。

 妻は同じ質問をした。


「中学校の夏辺りから、急に勉強ができるようになって、どこの塾に行っているのか聞いたんですよ。で、ウチも親に聞いたら『遠くて連れて行けない』って……」


 夏?

 スマホを買った時期だ。

 私の背筋を得体の知れない震えが走った。

 友人が二階に去ると、妻が私の横に座った。


「大丈夫でしょ? というより思ったよりいい感じじゃない? さ、ブラウニーが焼けたから、お茶にしましょ」


 妻の焼くブラウニーは絶品だ。私は心配を一度しまい込むと、紅茶を入れて焼きたてのブラウニーをいただくことにした。






 暫くして。

 相変わらず私の疑念はくすぶり続けていた。あれだけ好きだった本を、フェイドアウトならともかく、急にぱたりと読まなくなるのには違和感がある。食事の趣向だってそうだ。なんでも食べるが、「これが好き」「これはいまいち」という傾向もあの日を境に消えてしまった気がする。


 今夜もまた、塾のお迎えだ。

 今日は朝から、纏わりつくような雨が降り続けていた。停車していてもオートワイパーがひっきりなしに目の前を横切る。

 歩道を通り、娘がやってきた。

 リアドアを開けると、流れる様に洗練された動作――まるで車に乗るときは傘を閉じるのが人間としての自立運動であるかのような――で傘を閉じて後部座席に乗り込む。


「お疲れ様」

「ん」


 短い返事。

 私は右足をブレーキからアクセルに乗せ替え、車を発進させた。

 夜もだいぶ遅く、大通りを避けると車通りは殆どない。

 フロントガラスに絡み付く細雨が、微かなノイズを車内に運ぶ。

 私は生唾を一つ飲み込むと、意を決して娘に話しかけることにした。


「……お前さ、最近本読まなくなったな」

「……ん」


 一瞬間が空いて、娘が短い返事をする。

 ルームミラー越しに目が合う。


「……結構、忙しいのか?」

「……忙しい……し……面白そうな……本が……見つからない」


 細切れな返事が返ってくる。一言ごとにハードディスクにアクセスしているかの様な喋り様だ。


「そうか。すぐに出会えるといいな、面白そうな本に……」


 私はそこで息を吸い、再び口を開いた。


「小さい頃は、暗唱するほど本を読んでいたよな。確か『いないいないばあ』ってやつ」

「ああ……よく読んでいた」


 誰もいない赤信号で、車を停車させた。


「お前がよく読んでいたのは『どうぞのいす』だ」

「…………?」


 ルームミラーの向こうで、『娘』が首を傾げた。 


「誰だ、お前……」

「…………」


 再びルームミラーに目を移したとき、『娘』の顔が縦に裂けた。


 ハエトリソウを動物にしたらこんな感じだろう、という縦に並んだ牙が、ミラーに迫る。車内に生臭い空気が充満した。


「うおっ!」


 アクセルペダルを全開にする。

 車が急発進し、シートベルトを外して腰を浮かせかけていた『娘』が後部座席に押し付けられた。

 赤信号だったが、車通りがなかったせいで事故にならずに済んだ。


 片側2車線の大通りへ出る。

 助手席の背もたれを掴み、再び『娘』が迫る。第2通行帯に車体を振ってから第1通行帯へ急ハンドル。『娘』はドアへ叩き付けられた。

 スピードを緩めず車線へ戻る。左前のサスペンションが底突きしてごつっと不快な音と衝撃を伝えてきた。


 どうすれば?

 娘はどうなった?

 そもそもあれは娘なのか?


 化け物。

 

 あんな化け物と狭い車内に閉じ込められて。

 『あれ』だけ追い出す方法は……

 車外に放り出し…… 


 ――やるしかないのか。


 死ぬかも知れない。

 しかし、喰われるよりましだ。


 三度喰らい付こうとする『娘』。

 急ハンドルを切る。車体を振って『娘』をドアにぶつけると、怯んだ隙にアクセルペダルを床まで踏み込んだ。

 この先はT字路。正面は行き止まりだ。

 体勢を立て直す『娘』。助手席と運転席との間から身を乗り出そうとする。

 だがこちらの方が早い。

 私はステアリングを僅かに左へと切る。

 目の前には歩行者信号を付けた電柱。

 ブレーキは、踏まない。

 私はそのまま、電柱に狙いを付けてベンツA180を突っ込ませた。

 くぐもった音とガラスの破砕音が同時に響く。

 ほぼ同時に、私の顔面はエアバッグに叩き付けられた。


 急に外界の音が鮮やかに耳に飛び込んでくる。柔らかそうな衝撃音と共にフロントガラスが割れる音。シートベルトを付けていなかった『娘』は、車外に放り出されたのだろう。


 一瞬感じた全身の痛みは急速に消え去り、私は意識を手放した。



 

 

 目を開くと、大理石模様の防炎天井と、シルバーのカーテンレールが視界に入ってきた。


「あなた!」


 この声には聞き覚えがある。

 妻だ。


 意識が徐々に鮮明になってくる。

 そうだ。

 『娘』だ。

 『娘』はどうなった⁉

 慌てて体を起こそうとすると、全身に痛みが走った。


 「っづ……」

「無理しないで。全身に骨折があるそうだから」


 そうは言ってられない。

 奴が娘の姿になり、誰かを喰らう機会を窺っているのかの知れないのだから。

 無理矢理、首だけ回し、周囲を確認する。

 『娘』の姿は、なかった。


「あ……あいつは、どうなった?」

「それが……」


 妻が目を伏せる。

 仕方がない。妻は娘がああ・・なってしまったことを知らないのだから。


「全身を強く打った、としか伝えられてなくて。警察からは、火葬された遺骨しか渡されなかった」


 妻の声は虚ろだ。当然か。全身を強く打つとはすなわち「遺体が原形を留めないほど変形・損傷している」状態なのだから。


「あなたが眠っているひと月の間に、葬儀も済ませてあるわ」

「そうか……」


 不思議なことに、驚きは湧いてこなかった。自分が生きているのが不思議なくらいの事故を起こしたのだし、『娘』はあのとき既に娘ではなくなっていたのだから。

 

 その後、私は順調に回復し、自力で歩くこともできるようになった。特に後遺症も見られない。

 退院した私は妻の軽自動車の助手席に乗り、自宅へと帰った。

 電柱の破損についての手続きや保険屋への連絡は、全て妻が終わらせてくれたらしい。ベンツは廃車。当然と言えば当然だが、あんな出来事があった車に再び乗る気も起きなかったので丁度よかった。


 あの事故から四十九日後。

 最近では四十九日法要は、葬儀の時に抱き合わせて済ませてしまうらしい。

 小さな仏壇には、娘の写真を取り囲む様に、花束や縫いぐるみ、手紙などが並んでいた。

 だが、本当に娘が亡くなったのは、いつだったのだろうか。

 いつから私達は、『娘』を娘のように扱い、何も知らずに同じ屋根の下で何の警戒もせずに暮らしていたのだろうか。


「随分経った気がするわ」


 私が仏壇の写真を眺めていると、妻が二人分のコーヒーカップをテーブルに置き、向かいのソファに腰掛けた。妻もまた、懐かしそうな視線を写真へ向ける。そして愛おしそうな微笑みを浮かべていた。


「そうだな……」


 溜息交じりに同意する。

 今の私の関心は、娘の変貌――あの夜の事件をいつ妻に伝えるか、ということにあった。とても信じては貰えまい。しかし、私の心の中だけにしまっておくにはその出来事は余りに重く、大きすぎた。

 どちらからともなく、コーヒーに口を付ける。

 熱いものが喉を通り過ぎる。


 私達夫婦だけでも、元の生活に戻らねば……

 疲れたな……

 何か……甘い物でも食べたいものだ……


「そうだ。久しぶりに、君の作ったブラウニーが食べたいな」

「ん?」


 妻がカップから唇を離し、微笑みを浮かべたまま小首を傾げた。


「ブラウニーさ。ずっとご馳走になってた。何度食べても飽きない、どの店にも負けないブラウニー」

「……ブラウニーって?」


 背筋に冷たい物が走った。


 乱暴にカップを置き、ソファから立ち上がる。

 妻から目を離さないように、摺り足でじりじりと玄関の方へとにじり寄り、後ろ手で玄関のドアノブを掴む。


「誰だ、お前……」

「…………」


 微笑みを浮かべた妻の頭頂部が、不自然に蠕動したように見えた――






    【了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

娘が本を読まなくなったのは 近藤銀竹 @-459fahrenheit

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画