有終の死

棗颯介

有終の死

 人生のピークを迎えると共に、その人は安楽死する。

 それがこの世界ものがたりの“ルール”だ。

 誰が何の目的でそう取り決めたのかも、具体的にいつそうなったのか、どういう原理でそんなルールが例外なくこの世界全域の人々に拡散されたのか、すべてが謎。

 少なくとも今年で三十三歳になる俺が物心ついた頃には既にそうなっていて、両親をはじめとする周りにいる大人たちもそのルールを受け入れていた。拒む方法を誰も知らなかったのだから受け入れるしかなかったのだが。

 努力を重ねて報われた者ほど、幸運に恵まれた者ほど、願いを叶えた者ほど、この世界では早死する。

 長く生きたければ心の羅針盤が示す先とは真逆の望まぬ道を進むこと。それが今の社会で多くの人の処世術として浸透していた。

 そして俺自身も、“死”という生者が未だ経験したことのない正体不明の闇から逃れるために、山も谷もない平らで変化の乏しい道を今日まで歩き続けている。


***


「………」

 さてどうしたものかと思案する。

 俺は今日もいつも通り生徒たちのほとんどが下校した放課後の校舎で巡視と備品のチェックに回っていた。死にたくない一心で夢を追う情熱を冷まし過ぎた結果流れ着いた学校用務員という職だが、教職と違って子供たちと接する機会がほぼない分さほど苦労はない。もとより、俺は子供が苦手だ。

 今、自分の視線の先には校舎の屋上のフェンスを飛び越えて次の瞬間にも身投げしようとしている女子生徒の姿があった。

 普通なら慌てて止めに入るのだろう。『馬鹿な真似はやめろ、命を粗末にするな』とでも叫んで。

 だが例の“ルール”が蔓延したこの時代には、そうでなかった時代とは比較にならないほど自殺者の割合が増加している。

 理由は単純。生きる意味が見いだせないから。

 誰しも一度は思い悩むことだ。どれだけ努力しても、運に恵まれたとしても、何にも代えがたい夢や理想があったとしても、ようやくそれを手にして頂上に登りきったと思ったところで人生は幕を閉じてしまう。ならば自分が、人間が生きる意味とはなんだ?と。

 そのことに対して多分に理解できる身としては、自ら死を選ぶ人を殊更に声を上げて制止する気にもなれなかった。事実、自分だってこうして生きていて特に楽しいとも思わない。何もない起伏の少ない道をダラダラと歩く毎日。変わり映えのない景色を見続けて、自分がどうして生きているのか考えることすら随分前にやめてしまった。

 別に、自分の職場で一人自殺者が出たところでどうとも思わない。早いか遅いかの違いでしかないのだから。

 そう考えて彼女の姿を見なかったことにして屋内に戻ろうと背を向けたとき、一つの疑問が浮かんだ。

 あの女生徒は、どうやって屋上に出たのだろう。

 校舎から屋上に出る扉は今自分がいるこの場の一つだけ。当然普段から鍵は施錠されており立ち入り禁止だ。鍵の管理は職員が行っているし、一生徒の彼女が担任に貸出を願い出たところで承諾されるとは思えない。

 そしてふと半年前に起きた出来事を思い出す。職員室で保管していた屋上のドアの鍵が紛失したことがあった。保管といっても机の引き出しや金庫に入れていたわけではない。フックのついたボードに紐で下げていただけ。盗難の可能性もあったが、結局犯人の宛てもなければその後誰かが屋上に不正侵入したという話もなく、今の今までそのことをすっかり忘れてしまっていた。

 飛び降りようとしていたあの女生徒が鍵を盗んだ、あるいは盗んだ相手から受け取ったということか。

 そうなると、少し話が変わってくる。

 彼女は職員室で管理していた鍵―――その気になれば誰でも持ち出せる杜撰な方法で管理していたもの—――を使って屋上に上がり、今にも自殺しようとしている。

 そうなった場合、その責任の所在は誰にある?

「ちょっと待ったぁっ!!」

「―――っ?」

 気付けば俺は一度閉めた扉を勢いよく押し開き、大声で叫んでいた。遠目に見える例の少女は明らかに俺の登場に意表を突かれて驚いている素振りをしていた。自分にとって最悪なことにならないうちに、俺は急いで彼女の立つ屋上の縁傍のフェンスまで駆け寄る。

「馬鹿な真似はやめろ、命を粗末にするな」

「あなたに何が―――」

「俺の責任になるだろうが!!」

 別に目の前にいる名も知らぬ少女が死のうが俺にはどうでもいい。

 だがしかしこの校舎の屋上から身投げされては困る。大いに困る。事態が明るみになれば管理責任を怠ったとしてどんな処罰やバッシングを受けるか分かったものじゃない。

 ただでさえ冷めたつまらない人生だが、そこまで苦しみぬいて死にたいほど俺はマゾじゃないんだ。

「君、一体どうやって屋上に出た?鍵がないと出られないはずだろう」

「………職員室にあったのを借りました」

 こちらの予想通りだったが、それは“借りた”じゃなくてそれは“盗んだ”って言うんだ。

「はぁ………」

「止めないでください。自殺は一瞬が命なんです」

「いろいろ矛盾した表現な気はするが、とりあえず落ち着け。死にたきゃいつでも死ねるだろう。ひとまず腰を落ち着けて話でもしようや」

「どうしてあなたみたいな知らない人と―――」

「俺の名前は山上幸次やまがみこうじ。ここの用務員をしてる。君の名前は」

「………大岡里奈おおおかりなです」

 向こうの意思を無視して俺は一方的に捲し立てた。こういう手合いは自分のペースに持っていくのが一番手っ取り早い。俺はその場にしゃがみ込んで懐から煙草を取り出した。

「煙草、いいか?いいよな」

 これから死のうという相手だしそんなこと気にしないだろう。一応勤務中だが今はイレギュラーな事態だ。この屋上に監視カメラがないことは把握しているし、普段閉まっているはずの屋上にわざわざ来る物好きもいないはずだ。

 煙を一服吸って吐いたところで改めて質問した。

「で。君はなんでこんなことをしてるんだ?」

 フェンスの向こうでいつの間にか同じようにしゃがみ込んでいた里奈という少女が答えた。

「生きてる意味が分からないから」

「はい出た」

 思わずそんな言葉が口をついていた。そんなニュアンスの台詞はテレビやネットで皆が毎日のように言っている。田舎の道沿いで見かける宗教ポスターやテレビCMなんかと同じだ。繰り返し繰り返し見聞きすることで頭に刷り込まれてしまっているフレーズ。

「好きなものがあっても必要以上に好きになれない。目指したい夢があっても道半ばまでしか目指せない。理不尽ですよこんな世界。こんな人生に何の意味があるって言うんですか?」

「俺に聞くな。そんなこと俺も含めたみんながそう思ってるよ」

「だからもう死にます。邪魔しないでください」

「だからここではやめろって言ったろ。死ぬのは勝手だが他人に迷惑をかけるな」

 煙草を指先で軽く叩くと吸殻がぽろぽろと屋上のコンクリートに零れていった。どうせ後で掃除するのは自分だ。

「大岡さんだったか。君には何か好きなものや目指したい夢があるのか?」

 別に興味はなかったがこの場所での自殺を思いとどまらせる時間稼ぎと思ってとりあえず話を振ってみることにした。

「漫画家です」

「ほう」

 今のこの世界において、漫画家をはじめとしたクリエイティブな職は修羅の道だ。プロとしてデビューできた時点が人生のピークとなり、初作品がそのまま遺作となって命を落とす作家が後を絶たないから。本当に才能があるかハングリー精神の強いものでないと長く続けることは難しい。目指した時点で死と隣り合わせになり、そうでなくても芽が出なければ人生の貴重な時間を棒に振ってしまうことになる。

「漫画を読むことも描くことも好きで、他のことなんて私はどうだっていい。こんなに好きで、なりたいものがあるのに」

「周りの親や先生から反対されたか?まぁされるよなそりゃ」

 『夢は諦めるもの』。それがこの時代における教育方針の一つだ。そうでないと長生きできない。これ以上なく分かりやすい理由だ。もちろんそれを知った上で踏み越える勇気のある人が一定数いるからこそ、今も様々なコンテンツや娯楽が世に送り出されているのも事実だ。だがそれも氷山の一角に過ぎない。

 俺のような大半の物分かりのいい人種は、ある程度歳のいったタイミングでそういう夢を見ることを諦めて、少しでも生き永らえるために情熱があるわけでもない平凡な道を行く。

「きっと私、生まれる世界を間違えたんだって思うんです。それか、そもそも生まれてきたことが間違いだった」

「だからもう死んでしまおうって?」

 コクリと彼女は頷いた。大きな溜息と共に一際長く煙が吹き出る。

「君は運命の存在を信じるか?」

「え?」

「今の世界にこんな“ルール”がいつの間にか生まれてから、世間じゃ運命論者が増えてる。人が生まれてから死ぬまでの出来事、もっと言えば人類の歴史は最初からすべて決まっているっていう考え方だな。君はその存在を信じるか?」

「………いいえ」

「どうして?」

「強いて言えば、存在が不確実なものだから、でしょうか」

「そうか。俺は運命はあると思ってる。俺と君のどちらが正しいという話がしたいわけじゃない。というか俺だって存在が確定してるか知ってるわけじゃないしな。あるかもしれないしないかもしれない」

 もし神と呼べる存在が居たと仮定して、その神が人々の生涯における最高到達点がどこか分かるのだとしたら、この世には運命という歴史年表が既に存在していることになるだろう。

 彼女はそういったものの存在を信じないと言った。俺とは違う。

「あなたはどうして運命を信じてるんですか」

 その問いに特に侮蔑のような感情は感じられなかった。

「別にこれといって譲れない信条みたいなものがあるわけじゃない。単純に、“ルール”から逆算して考えたらそうなんだろうなって思うだけだ」

「それは昔からずっと?」

「いや、そうでもないな。君くらいの歳の頃はもうちょっと違ったことを考えてたと思う。道というのは自分で切り開くものだ~、みたいな。今にして思えば青臭くて顔から火が出そうだねぇ」

 本当に、若気の至りだった。

 昔の俺は役者に憧れていた。高校の頃に演劇部に入部して芝居の楽しさに目覚めた。あくまで学生のレベルだが大会で賞を受賞したこともある。卒業したら大学できちんと演技を学びたいと思っていた。

「でも成長するにつれてこの世界の理不尽さとか自分の限界みたいなものを知っていって、少しずつ今の自分になっていったって感じだな」

 『引き返すなら今のうちだ』。教師と親を交えた進路相談でそう言われたのを今でも覚えている。あの頃の俺にはきっとこの先も大丈夫だという自信は確かにあった。けれどどこかで結局、自分を信じることができなかった。死ぬかもしれないという恐怖に屈した。

 あの時の選択を後悔はしていない。あの時の自分のおかげで今もこうして生きている。命あっての物種なんだから。

 自分の生きる希望を見失ったとしても。

「―――私は、死なないために生きるなんて生き方はしたくありません」

 徐にそう呟く彼女の表情は今も曇っていたが、その瞳には光るものを感じた。

「眩しいねぇ」

「え?」

「君自身は漫画家になる夢を諦めたくないんだろう?」

「もちろんです」

「でも周りの人がそれを許してくれない」

「はい」

「なら簡単な話だ。君にとって邪魔な連中なんて切り捨てて先に進めばいい。運命なんていうあらかじめ定まったレールの存在は信じていないんだろう、君は」

 吸い終わった煙草の火は足元のコンクリートに押し付けて消した。吸い殻入れは持っていないのでそのまま放置。

「家出でもしろって言ってます?」

「別に具体的な話はしてないが、そういう道もあるんじゃないか」

「他人のことだからって適当なこと言わないでください」

「そりゃ適当だよ。君の人生は俺のものじゃない」

「あなた―――」

「でもな、周りに分かってもらえないからってだけで易々と自分の命を捨てようとする方がよほど投げやりなんじゃないか?」

「っ………」

「周りが反対したからってだけでもう手詰まりか?そんなことないだろう。君は他の道を探す努力をしたのか?」

「………」

「死にたくなるくらい好きで譲れないものがあるなら、死ぬ気で食らいついてみろよ」

「………」

「一人で美しく終わることはいつでもできる。それまで泥臭く生きてみるのもいいんじゃないか?」

「………」

「―――なんて、外野の俺が言えた義理じゃないな」

 どこまで言葉を重ねても、虚しさしか感じなかった。

 空っぽな言葉で他人の心なんて動かせやしないし、結局今言ったことも理屈でしかない。どこまでも勝手な、外野のエゴだ。

 ぐぅぅ。

 その時、とても間の抜けた音が屋上一帯に響いた。

 音の出処は探すまでもなかった。大岡里奈少女の腹部だ。

「お腹空いたか。もうそろそろ陽も暮れそうだしな」

「っ………」

 当の本人は恥ずかしそうに顔を背けていたが、やがてフェンスをよじ登ってこちらのいる側に戻ってきた。

「あなたのせいでタイミングを逃しました」

「『自殺は一瞬が命』、だったか?」

「………」

 大岡里奈はムッとした表情で俺を睨みながら校舎に戻っていった。そしてその背が扉の奥に消えたタイミングでふと思い出す。

「あっ、盗んだ鍵返してもらうの忘れた」

「―――まぁ、いいか」

 名前は教えてもらったことだし、また日を改めて返してもらえばいい。あぁ、クラスが分からないな。後で職員室でしれっと確認してみよう。

 なんとなくすぐに校舎に戻る気分にもならず、立ち上がってフェンスに背中を預けながら二本目の煙草に火をつけた。

 ほとんど陽光の消えた空を見上げて一人思う。大岡里奈という少女のこと。そして今の自分。

 ―――あの子にいろいろ言いはしたが、本当にただの自分のエゴでしかない。

 ―――『生きてくれ』なんて、人によっちゃ『死ね』って言われるより酷な言葉だ。

 ―――でも今の俺は、生きながら死んでるのと同じだ。

 ―――生きるために、心を殺している。

 ―――なんとなく、あの子にはそういう生き方はしてほしくない。

 ―――年寄りのお節介だな、完全に。

 そう内心自嘲しながら煙を吐く。肺は曇るのに思考はクリアになるのだから煙草というのは不思議な薬物だ。

 結果を見れば将来花開くかもしれない芽を一日生かしたのか、自分は。

「まぁ、なんとかなるさ。知らんけど」

 もうこの場にはいない若い芽に、祝福を。

 煙草を吸い終わる頃には、空には完全に黒い帳が降りていた。


***

***

***


「―――ふぅ」

 最後のページの下書きを終わらせると身体が自然と大きく息を吐いた。集中しているといつの間にか身体は凝り固まってしまうものだ。

 漫画家としてデビューして十年以上。私の人生のピークとやらは未だ訪れていないらしい。新人賞を受賞したときも、大手の雑誌で週刊連載が始まったときも、アニメ化が決まったときも、単行本の累計発行部数が一億を超えたときも、その作品が惜しまれながら完結を迎えた時も、私は死ななかった。世間じゃなかなか死なない私のことを『絶倫の俊豪』なんて呼ぶ人もいるらしい。

 私はいつ死ぬんだろう。

 私の人生の絶頂はいつ来るんだろう。

 もしかして、私は漫画を描いていることが幸せじゃない?

 ないない、と笑いながら首を振る。好きじゃないとこんな仕事続けられない。どれだけ編集からダメ出しを喰らって、世間に心ない批評をされようが、どこまで行っても私は漫画が好きなんだ。

 親や先生の反対を無視して、高校卒業後に半ば家出同然に社会に飛び出した。友人の家に泊まりこんだりしながらバイトをして、漫画を描いては賞に応募したり出版社に持ち込んだり。一日一日を泥臭く、死ぬ気で頑張った。

 そうやって、今の生活がある。今更漫画と私を切り離すことなんて誰にもできない。

 あの日、学校の屋上でたまたま出会った“あの人”がいなければ、私はただこの世界を呪いながら何も成さずに死んでいた。

「名前、なんて言ったんだっけなぁ」

 ほんの僅かな時間しか会話をしていなかったのと、あの時自分の頭の中が死ぬことでいっぱいになっていたせいで覚えていない。

 正直、あの日“あの人”に説教された言葉はほとんど私には響かなかった。外野の人が一方的に耳障りの良い理屈や理想論を並べ立てているようにしか聞こえなかった。でも、その響かない言葉に耳を傾けたことで結果的に私は命を拾ったわけで。分からないものだ。

 あの翌日に“あの人”は屋上で死んでいるところを発見された。外傷もなく、病気の痕跡もなかったことから、この世界の“ルール”に則って安楽死したのだろうということだった。

 一体、何をもってあのタイミングが“あの人”の人生の絶頂と運命は判断したんだろう。

 最初に話を聞いた時に浮かんだ疑問はそれだった。

 その答えは今も分かっていない。“あの人”も言っていたけど、“あの人”の人生は“あの人”のもので、私のものじゃないんだから。

 でも、きっと私が少なからず関わっているんだろうというのはなんとなく理解できた。

 ―――“あの人”が生きたこと、死んだことにはきっと意味がある。

 ―――そしてそれを証明できるのは、きっと私だけなんだ。

 周りの反対を押し切って夢を追うために“生きる”決断をしたのはそれが決め手だった。

 その決断は間違いじゃなかった。漫画家になる夢を叶えて大成した今、“あの人”には感謝してもしきれない。

 いつも首からネックレスにして下げている小さなディンプルキーがある。高校を卒業しても結局返さないまま持っているあの屋上の扉の鍵だ。“あの人”とあの日のことを忘れないために常に身につけている。辛いとき、死にたいと思った夜にはこれを見て自分を奮い立たせてきた、私のお守り。

 もしもの話。いつか、本当にどうしようもなくなって一人で美しくこの世を去りたいと思う時が来たなら、私はきっとまたあの屋上に行くと思う。夜がいいな。天気の良い日の星を見上げて、『悪くなかった』って言いながら笑顔で飛び降りたい。

 まぁ、当分そんな予定はないのだけれど。

 泥臭く、次の一瞬を生きよう。漫画を描くときは一瞬が命なんだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

有終の死 棗颯介 @rainaon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ