そのチョコレートはボルドーの指先の熱で溶けだした

@harukareno

第4話

 毎朝毎晩、お仏壇に手を合わせる。

「今日も一日見守っていてくださってありがとうございました。明日もどうか私たちを見守っていてください」

5年前までは、私の両親と義理の両親に向かって話しかけていた。今では、義理の息子にも毎日手を合わせている。忙しく働いている娘に代わって孫の成長のことを話している。遺影写真の彼の目尻に皺を寄せた笑顔を見ると5年経った今でも胸が痛む。入院中、年を越せた!年を越せた!と喜んでいたのも束の間、容態が悪化し帰らぬ人になった。孫は15歳だった。未亡人になった娘と孫と夫と私で暮らすようになってから、もう5年。孫の成人式の日は、孫がお父さんに振袖姿を見せたいからと墓参りにも行った。手を合わせた孫と娘の後ろ姿を見つめていると、肩を震わせて泣いていた。

 明日はバレンタイン。今日は、そのチョコレートを作る日だ。夫の経営しているカフェでは毎年無料のサービスで提供している。なんてことはない生チョコレートだ。製菓用チョコレートに無塩バター、生クリームにはちみつ、固まったら仕上げにココアをふる。強いて言えば、はちみつにはこだわってマヌカハニーを使っている。ただ、これは企業秘密にしたい。常連の男性のお客様はお母さんの生チョコレートは、バレンタインだけじゃなく毎日食べたいと言われるほど気に入ってもらっている。足が悪くなる前は、店の切り盛りを夫とともにしていた。杖をつかないといけなくなった時は、来てほしくない未来がもう来てしまったのかと整形外科を出てから涙した。情けない。申し訳ないと何度も夫に謝ると、自分が無理をさせたからだと謝られた。杖を店に見に行く時も一緒になって選んでくれた夫。どんな時も支えてくれる心強い味方なのは結婚する前からだった。私が店を退くことでアルバイトを雇うことになった。夫から面接時は、一緒に立ち会ってほしいと言われたのは嬉しかった。

 とろりとしたまだ固まっていない生チョコレートをバット8枚に入れる。最初はバット2枚だったのが、今では8枚。お客様に愛される店、お客様に育ててもらったことに感謝している。時計を見ると、午前零時だ。年々時間が遅くなってきていることを家族から心配されているが、

「年に一度の私の大事なお仕事を取り上げないでちょうだい!」

と声を荒げてしまったのは去年だったか一昨年だったか思い出せない。


「母さん、終わったかい?」

「あら、あなた、まだ起きていたの?明日にさわるわよ」

 夫が台所に来て、なにやら微笑んでいる。店の開店時間は午前七時だというのに、まだ起きていることに驚いた。

「母さん、お誕生日おめでとう。そしていつも本当にありがとう!」

「誕生日?!」

「おや!また自分の誕生日を忘れるほど仕事に打ち込んでしまったのかい?すまないねぇ」

「忘れてたわ!また本当によ!うふふ。こちらこそ、いつもありがとう」

「忙しくさせてしまったねぇ」

「いえいえ、明日の朝の味見係よろしくお願いしますね」

「がってんだ!」

「うふふ、ほら、もう寝なさいな」

「はい。先に布団に入っておきます。お待ちしてます」

「はいはい」

 私は夫の背中を優しくさすった。


 次の日の朝、固まった生チョコレートを朝食にだした。夫は親指を立てながらグッドサインをし、娘と孫は「とろける〜」と声を揃えて喜んでくれた。

「おばあちゃん、お誕生日おめでとうございます!」

 娘と孫が、再び二人で声を揃えて誕生日を祝ってくれている。

「ありがとうございます」

「おばあちゃんは昨夜また誕生日を忘れるくらい頑張って生チョコを作ってくれていたんだよ!」

 夫がもう一つチョコレートを食べながら微笑んでいる。

「こら、恥ずかしいから言わないの!早く行く準備しなさい!」

「はいはい」

 夫は立ち上がってリビングを出た。

「おばあちゃん、今日は私たちと出かける約束は忘れてないよね?」

孫が不安そうな顔をしている。

「もちろん、忘れてないよ!今日は何の買い物に行くのかい?」

「秘密だよ!」

孫は、あははと笑って9時出発だからね!と時計を指差した。


 娘が運転する車の後部座席に乗り込む時、きまって孫は手を添えて介助してくれる。本当に優しく育ったなぁと毎度思う。

「どこに行くんだい?」

「市立美術館だよ!」

「あ!お母さん!秘密にしてたのにー!」

「いいじゃないの、もうすぐ着くんだから」

「市立美術館!?私の絵は何度か飾られてそれはそれは嬉しかったよ。閉館になるって噂じゃなかった?」

 私は近づいていく美術館の建物を見た。

「うん、たぶんこれがきっと最後の町おこしよ」

 娘は少し寂しそうな声だった。娘や夫と何度も一緒に展覧会を観に行った思い出が蘇る。古い建物ではあるが、あの蔦の絡まったところは洒落ているようにも感じた。本当に閉館になるのだろうか。

「何の展覧会なんだい?」

「ネイルアートだよ!この前またネイルチップを注文したんだけど、あのネイリストさんが手紙に美術館に出展するって書いてたんだよ」

「あら!あの人の?すごくセンスもいいし、それは楽しみ」

「よかったぁ!私も楽しみ!おばあちゃん着いたよ!降りよう!」

 孫はまるで遊園地にでも来たように、目を輝かせていた。美術館は相変わらず、蔦が絡まっている。それは以前よりもだ。しばらく行っていなかったせいからか、ずいぶんと古ぼけて見える。

 孫がガラス扉を開けて中に入ると、壁に大きな文字で「地域ネイルアート特別展」と書いてあった。辺りを見回すと、若いカップル、子ども連れの親子、女性団体と賑わっている。パンフレットを受付でもらってから持ってきた老眼鏡で見ると、たくさんのネイルサロン名やネイリストの名前が書いてあった。

「お母さん、人が多いからゆっくり歩こうね」

「ありがとう」

「おばあちゃん、見て!おっきなネイルチップ!」

 展示室に入ると、息を呑んだ。そのネイルチップは、電子レンジ二つ分よりも大きい。ダイヤが散らばってどの角度から見ても輝いている。

「鷲澤(わしざわ)あおいさんを探そう!」

 孫は、これから宝探しでもするように、手を額につけて探す仕草をしている。孫が辺りを見回すように私も見回してみると、ショーケースや壁にはネイルサロンごとに展示をしているようで小さな文字でネイリスト名が書いてあった。これはこれは時間がかかりそうだと右上を見た。

「見つからないね、広くてわかんないや〜、あ!すっごい可愛い!」

「このネイルサロン、駅前のよね?綺麗なデザインねー!」

娘と孫は顔を見合わせて笑っている。絵は描くのは好きだけど、よくわからないと言っていた娘や孫だったが、ネイルアートからなら良さや楽しさがわかるのかもしれない。しばらく歩き回るが、なかなか見つからない。本当に展示されているのだろうかと思い始めてきた。

「おばあちゃん見て!これ、おばあちゃんが好きな、なんだっけ、ゴッホ?ゴッホのひまわりじゃない?」

「どれどれ?おや!これはすごい!小さなチップによくここまで!」

 私は胸が躍りはじめた。絵画をモチーフにしたネイル。素晴らしい。

「待って!この絵画のネイル!?」

 孫が、指を指す。

「鷲澤あおいさんじゃん!!」

 孫と娘、そして私までもが声を揃えた。

「嘘!アップルネイル…って!私の職場の近く!」

 孫はハッと驚いた顔で私の腕を掴んだ。

「会いに行って仲良くなったら、お店に連れてきておいで。ね!」

 孫は、うん!と元気の良い返事だった。鷲澤さんのネイルチップは他にもあって、海をテーマにした作品は、水面のアートが美しく見惚れた。

「あ〜よかった。もう見つからないんじゃないかって焦ったよ。さぁ次の予定に行きますよ!お母さんトイレ行っとく?」

娘が腕時計を見てから言った。

「次の予定?あぁ、トイレは行こうかね」

私たちは、展示室の出口に進みながらも、気に入ったネイルチップがあると立ち止まりながら進んだ。本当は少しばかり膝が痛む。けれど、娘と孫が楽しそうにしているから言いたくない。本来ならもっと痛いはずだが…これもアートの魔法だろうか。


「トイレ、前に来た時は混んでいてずいぶん待ったけど、今日はそうでもなかったわ」

私は、不思議に思った。以前は受付同様にトイレが混み合っていたのだ。

「2階にトイレを作ったみたいよ!本当に閉館するのかしらね?こんなに賑わってるし」

娘が、トイレの外にある「2階にもお手洗いはご用意しております」という看板を指差した。

「さぁ、行きましょう!おばあちゃん!」

孫が手を繋いできた。

「今度はどこにおばあちゃんを連れて行くんだい?」

「近くのデパートです!」

「あそこは高いでしょう?おばあちゃんは欲しい物は特にないよ」

「いいの、いいの!ねー!」

「ねー!」

 孫と娘がまた声を合わせる。双子の様で笑ってしまう。


 デパートの入り口に入ると、有名なブランドの香水や化粧品の香りがする。前よりもきつさを感じないのは歳のせいだろうか。

「おばあちゃん、こっちこっち!」

「ん?ネイルサロン?!」

「そ!おばあちゃんの爪を可愛いくしちゃう誕生日プレゼント!」

「ありがとう。でも、おばあちゃんの爪はガタガタしてるから…可愛いくなるかしら」

私は自分の爪を見たり、色とりどりの可愛いらしいネイルチップのディスプレイを見る。

「お母さん、やってみてよ!」

娘が私の両肩を優しくさする。

「…ワインレッドの…爪にしようかしら」

 娘と孫が顔を見合わせて、にこっと笑って、うなずいた。

 店内に入ると、まるでお人形さんのような細身のネイリストが「いらっしゃいませ」と明るい声で接客してきた。マスクをとっても綺麗な容姿をしているのではと期待するほど目が大きくて可愛いらしい。

「どんなお色が気になりますか?」

ネイリストは、たくさんの色のついたネイルチップを見せている。

「このワインレッドかしら?」

「ワインレッド、私もその言葉の響き好きです。でも最近はボルドーって私たちネイリストは言うんです。深い赤色には変わりないのに、日本語って時代によって変化していって面白いですよね」

「まぁ、ボルドー!かっこいい名前になったのね!素敵だわ。絵画教室のみんなにも教えないと」

「絵画教室!素敵な御趣味ですね!どんな絵を描くんですか?油絵とかです?」

「水彩画よ。最近は絵画教室のモデルさんの絵を描いてます」

「本格的ですね!それでは、ボルドーの一色でパールなどで飾りましょうか」

「えぇ、一色にするわ。おばあちゃんがゴテゴテにネイルしていたら恥ずかしいもの」

「そんなことはございません。女性はいくつになってもお洒落していいと思います。私の亡くなった叔母は救急車が来る前に化粧直しをするほど綺麗でいたいという思いが強い人でしたよ」

「あら、本当に?あなたもとっても綺麗だから、叔母さんもべっぴんさんだったでしょう?」

「あはは!ありがとうございます!励みになります!確かに叔母は美人でしたね。ネイルもよくしてて、それを見ていたせいか私自身も自分でネイルをするようになって、ネイリストになってみようかなと思い始めたらスクールを探したりと動きだしていました」

「すごい行動力があるのね!」

「フットワークは軽い方ですね!最初に勤めたネイルサロンはお給料が低かったので夜もバーでバイトしていたくらいです」

「夜もお仕事を?!身体壊さなかった?」

「それが平気なんです!でも、バーのマスターからは、みちる、ネイルアートだけで食っていけるところで働かんばばい。挑戦してみろって言われたんです。そして実家を出て、今にいたります」

 ネイリストのみちるさんは、とても軽快に素早く爪先を整えたりジェルのボルドーの色を塗りながら故郷の長崎のことを教えてくれた。後ろに座っている娘と孫も、みちるさんに話しかけて和気あいあいとしている。

「完成です!とっても素敵なお色!それでは、ハンドエステにうつりますね。タオルなど準備して参りますので少々お持ちください」

「おばあちゃん!すごい可愛いネイル!」

「本当!綺麗!」

「ありがとう!綺麗ねぇ。素敵にしてもらいました。…タオル…」

 ハッとして、ジャケットのポケットの中に手を入れる。ない。バックの中を探す。ない。ハンカチがないのだ。

「どうしたの?」

娘が顔を覗きこんで心配してくれている。

「お父さんから去年誕生日にもらったハンカチがないのよ。どこで落としたのかしら。美術館のトイレかしら」

「あの淡い黄色のハンカチ?私、美術館まで行ってくるよ!おばあちゃん大丈夫!」

 孫が、私を安心させようと明るい声色をしているが、表情は不安そうだった。情けない。どこで落としたのか。申し訳ない。孫は、ネイルサロンをやや小走りで出ていった。ネイリストが戻ってきて、ハンドエステを始める。ボールにお湯が入っていてその中に片手を入れるよう促された。ネイリストが話しかけてくれているが、混乱して話が入ってこない。

「ごめんなさい、みちるさん。ちょっとおばあちゃん疲れてきてしまったみたいで」

娘が助け舟をだしてくれて、ハッと我に返った。

「ハンカチをなくしてしまったの。大事なハンカチなのに…。見つかれば良いんですけど…」

「そうでしたか。プレゼントされた物とかですか?」

「えぇ。夫からなんです。昔美術館に観に行った絵画の色合いに似てるからと選んでくれた1番気に入ったハンカチなんです」

「それはそれは…。あ、お孫さん今探しに?」

「はい。落とし物に届いていたらいいんだけど…連絡はない?」

私は娘に問いかける。

「まだないわ。あ!え?お父さんから電話だ」

「ん?」

「もしもし?どうしたの?え?!本当に?もうすぐこっち終わるからすぐお母さん連れてくわ。はいはい。わかった。じゃ」

「何?どうしたの?」

「お母さん、大変!うちの店にテレビの取材がきてるって!お母さんの生チョコの取材したいって!」

娘がスマートフォンを持つ手を震わせながら興奮している。

「なんですって!?」

 私は素っ頓狂な声が出てしまった。

「すごーい!!もう終わりますよ。はい!完成!お肌気持ちいいでしょう?」

ネイリストは、色々なクリームを爪の周りや手指全体に塗ってくれた。保湿力のせいだろうか。本当に指の曲げ伸ばしがスムーズだ。

「はい!手が若返ったようだわ。ネイルも綺麗なボルドー!ありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました♪素敵なお誕生日をお過ごしくださいね!」

 ネイリストは頭を深く下げたので、こちらも同様に頭を下げた。

 エレベーターで駐車場に向かう。はぁーっとため息がでた。

「ハンカチも見つかっていないのに、これから店で取材?目が回りそうよ。うまく話せるかしら」

「ハンカチは最悪また同じ物を買えばいいじゃない。でも取材は大チャンスよ。お母さん頑張って!」

 娘は、エレベーターの開ボタンを押しながら笑顔だ。私は苦笑いでごくりと唾を飲み込んだ。

 車に乗り込むと、娘は孫に電話し事情を説明した。まだ美術館の受付にいるらしい。やはりなくなったか。私は鼻で息を吸って吐いた。

 カフェに着くと、夫が手を振り、社員が「お久しぶりです」と頭を下げた。それに気づいた取材者らしき女性やアナウンサーのような女性そしてカメラマンが椅子から立ち上がって「お世話になります」と言ってからまだ何か話しているが緊張で耳に入ってこない。

「お母さん、大丈夫かい?」

夫が背中をさすってくれている。

「ダメよ。緊張してるわ」


チリン


店のドアが開いた。ハッとした。孫が入ってきたのだ。手には黄色いハンカチ。それを振り回している。

「おばあちゃん!頑張れーっ!」

 思わず笑みがこぼれる。うちの孫娘は本当に愛らしい。

「ありがとう」

「お孫さん、とっても可愛いらしいですね!」

アナウンサーらしき女性が私に微笑んでくる。

「ありがとうございます。自慢の孫です。マスター、生チョコは召し上がっていただいたの?」

 私は職場では旦那のことをマスターと呼んでいた。久しぶりにマスターと呼ぶとなんだか懐かしい響きだ。

「母さんの話を聞いてからにしたいとおっしゃっていてね、今お持ちしますね」

 マスターは取材の方々に軽く頭を下げて、厨房へ生チョコを取りに行った。

「どうやってうちの店を見つけてくださったのですか?」

私はマスターが不在の時間を稼ぐとともに、疑問に思っていたことを尋ねた。

「SNSです。どこのカフェもチョコを有料で提供している中、無料で生チョコをサービスしているお店があるというのを見つけまして大変興味をもちました。木目調の店内に赤いバラの花が飾ってあったりととても雰囲気が良いですね」

「お褒めの言葉ありがとうございます、あ、マスター戻ってきましたので、どうぞ召し上がってください」

マスターがピックに生チョコをさして配っている。昔、爪楊枝だと危ないのではないかと話し合ったのを思い出した。懐かしい。テレビ局の方々は、いただきますと声を揃えて食べだした。

「んー!とろけますねー!すんごく美味しいです!」

「本当に美味しいです!これはすごい!」

 最近は店に顔を出していなかったから、家族以外の生チョコを食べた反応に緊張していた。でも、こんな笑顔が見れるとは。誇らしい。ネイルをしているのは、今日が誕生日で初めてでなどと雑談までしてしまった。

それから撮影が始まった。テレビ局の方々は、さっきもいただいたのにすみません、いただきますと申し訳なさそうにしながらも嬉しそうに食べていた。生チョコの美味しさの秘密はと聞かれたが、もちろん企業秘密にした。


 今日の撮影は、夜のニュース番組のバレンタイン特集に数分だけ収録されると聞いた。晩御飯を作りながら娘が楽しみだねと何度も顔をのぞいてきた。

「私もっとメイク直したかったわ」

「そんなに映ってないわよ。うちはそんな大手のカフェでもないんだし、きっとほんの一瞬よ」

「そうかなぁ」

娘は興奮冷めやらぬ様子だった。


 手を合わせて、ごちそうさまでしたと言う時の自分の指先がボルドーに艶やかに光っているのが気分がいい。食後に娘と孫とで生チョコを食べることにした。

「今日はもう、おばあちゃんはクタクタです。閉店。うふふ。でも、手を見るたびに気持ちが明るくなるわ。本当にありがとう、あ!ちゃんとテレビの録画予約はできてるかしら」

 私は娘と孫に頭を下げた後、テレビを見た。

「お母さん、さっきも言ったけど、ちゃんとできてるよ」

「本当?お父さんのためにちゃんと録画しておかないとよ。ガッカリさせたくないのよ」

 私は、仕事でちょうど見れない夫が帰宅してから録画した番組を一緒に見るのが楽しみなのだ。だから余計に心配してしまう。

「おばあちゃん、大丈夫だよ!あ、そうだそうだ、おばあちゃんのハンカチを拾ってくれたのは学芸員さんだったんだけど、すっごいハンカチを褒めててね!あれ?なんて言ってたかな?フェルなんとかの、豚に真珠の女みたいな名前の絵画に似てるって!」

「あはは!フェルメールの真珠の首飾りの女ね!」

 私と娘はプッと吹き出しながら、同時に言った。

「え、待って!もう一回言って!調べるから!…おー!この服とカーテンの黄色ね!確かに似てる!」

「おじいちゃんが見つけてきてくれたのよ」

「今年は何をもらったの?」

「まだよ、帰ってくるまで待っててって言われてるのよ」

「楽しみだね!あ、そういえば、おばあちゃん。おばあちゃんって、いくつになったの?」

孫はにこっと笑って私の顔を覗き込むように見る。私は、生チョコを手に取りながら、

「おばあちゃんはね、えーっと。あら?いくつになったかしら?あら?えーっとねぇ、あら?思い出せないわ。あら?」

「お母さん!チョコが指の熱で溶けてるわよ!!」

「あら、やだ!」

私は、カプッとボルドーの指先ごと生チョコを食べた。

 

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