のぼせて

おおきたつぐみ

のぼせて

 綺麗な背中だな、というのが最初の印象だった。


 濡れたショートボブの毛先が少し日に灼けた首筋に張り付いている。なだらかな肩のラインから続く、肩甲骨が目立つほっそりした背中。脇のほうには生まれつきなのか、赤茶色のあざが線香花火のように散っている。余分なものがついていない腰、筋肉質なお尻、すんなり伸びた足。


 まだ明るい夏夜の7時。高いところにある窓からの光が彼女の濡れた裸体を輝かせて、目を奪った。

 振り向く気配がしたので慌てて顔をそむけたけれど、脳裏に彼女の美しい身体が焼き付いた。

 それが私と彼女の出会い。

 引っ越しした先の近所に見つけた銭湯、「日の出湯」に初めて行ってみた日のことだった。


 彼女は番台に座ったおばちゃんと喋っていたし、浴室でおばあちゃんたちにも挨拶していたので、常連さんなんだ、とわかった。少しかすれたようなハスキーな声だった。

 レトロを通り越した古い銭湯。玄関にはあちこちにしみがあってちょっと湿り気のある赤い絨毯が敷かれ、脱衣所の板張りの床は歩くとぎしぎし音がした。さびついたロッカーは鍵が壊れているところもあったし、棚に置かれた藤のかごは穴が開いている。鏡の前に設置されたドライヤーは10円で3分使えるものだった。

 おっかなびっくり浴室に入ると、洗い場には黄色いプラスチックの桶と椅子が綺麗に並び、設備の古さは感じられたけれど清潔感があった。高窓からは日の光が射し込み、正面には海に面した桜満開の富士山の壁画。湯船はいくつかに分かれ、それぞれから湯気が勢いよく立ちのぼっている。この湯気と、お客さんが使う石けんやシャンプーが混ざった香りがたまらなく好きだった。

 彼女は一カ所にじっとはしていなくて、洗い終わったあとはメインの湯船、小さな薬湯、サウナ、水風呂とちょこちょこ移動していた。背が高くて、ほとんどタオルで隠さないから、伸びやかな身体がよく見えた。胸はそんなに大きくなくて、……毛は、少なめ。

 私は気づかれないように彼女を目で追いながら、また来ようと決めた。


             *


 何度か通って、彼女が来るのは水曜の7時過ぎか、日曜の6時頃だということがわかった。

 黒縁の眼鏡をかけていて、柄シャツにチノパンみたいなラフな格好に、毎回違う印象的なピアスをつけてやってくる。年齢は私と同じ二十代後半くらい。

 もちろん時間通りに来るとは限らないし、体調のリズムや予定があって私も行けなかったり、彼女が来ない日もあるから、お湯につかりながら待っていてのぼせそうになったこともある。

 彼女とおばあちゃんたちとの会話に耳を澄ませてみても、天気や景気の話くらいで、何をしている人なのかはわからなかった。

 

 出会って一ヶ月ほどしたある水曜日のことだった。

 髪を洗っていたら、「ここ、いいですか」と、ハスキーな声と共に隣の洗い場に彼女が座った。

びっくりして見開いた目にシャンプーの泡が入って、「あ、いたっ」と小さく叫んでしまった。

 ――せっかく彼女が話しかけてくれたのに、最悪……!

大丈夫ですか、と言いながら彼女がシャワーを出して持たせてくれたので、慌てて髪と顔をざっとすすぐ。

「ありがとうございました」

 顔をぬぐいなんとか目を開けると、彼女は吹き出しそうな顔になっていた。

「まだ泡だらけですよ」

きっとどんなにか私は間抜けな表情をしていただろう。

でもかっこ悪いところを最初に見せたからか、彼女の屈託ない笑顔を見たからか、私の緊張も泡の残りと共に流されていった。


 私たちは身体や髪を洗いながら話をした。

「なんだか、最近よく会うなあって思って。お隣空いていたので思い切って来ちゃいました」

と、彼女はナイロンタオルでごしごしと腕をこすりながら言った。

「銭湯好きなんですか?」

 彼女が気づいていてくれていた。私も嬉しくなって答える。

「はい、小さい頃から祖母に連れて行ってもらっていたので、銭湯大好きなんです。先月近所に引っ越してきて、ここを見つけてレトロでいいな、と思って」


 ほんとは、あなたの背中に一目惚れしたから会いたくて通い続けているんです。

 ――なんて言えるはずもないけど。


「そうなんだ! 私も近所なんですよ。家がユニットバスだから広いお風呂に入りたくて通ってます」

「あ、うちもユニットバスだから家ではシャワーで済ませちゃって」

「そうそう。銭湯だったらいろんなお風呂やサウナもあるし、身体を洗うっていう義務みたいなものがエンターテイメントになるっていうか」

「わかります。引っ越し先にはスーパー、病院、銭湯がないとって思いますもん」

「あはは、筋金入りだ」

 それまでずっと目で追うだけだったのが嘘のように、私は彼女と自然と話していた。でも、出会ってから少しずつ胸に溜まっていった、聞きたいことはなかなか聞けなかったけれど。


 ――名前は? お仕事は何ですか? 何歳ですか? 休日は何をしていますか? 趣味は何? お酒は飲める? 恋人はいますか? ――女性は恋愛対象になりますか?


 私の初恋は周囲の友人たちより遅くて、中学一年生の時だった。

 部活の先輩のことを寝ても覚めても思い浮かべるようになり、廊下で偶然見かけると胸がキュンとして、部活ではドキドキして顔が見られなくなった。そうなってようやく、他の子たちがずっと騒いでいた恋というものが自分にも訪れたのを知った。

 ただ、私が好きになった相手は女の先輩だった。

 周りの女子が恋する対象は男子だったし、男子は女子を目で追っていた。成立するカップルは男女のペアばかり。だから私は自分の恋を誰にも打ち明けられなかった。もちろん当の先輩にも。

 そのうち男性に恋をすることもあるのだろうかと思っていたけれど、初恋が先輩の卒業と共に終わってからも、私が好きになる相手は常に女性だった。そして恋はなかなか実らなかった。


 誰かを好きになっても、恋人はいるか、女性は恋愛対象になるか、私のことを好きになってくれるか……純粋に性格や気が合うかという他にもたくさんの確認事項がハードルのようにあった。

 最初から女性が恋愛対象の人と出会えばいいのかと女性向けの出会いアプリを使ったこともあったけれど、もちろんそこだって虚飾や見栄、嘘は多い。お互い探り合うようなやりとりを重ねながら、信頼できる相手かどうかを見定めようとするのは神経を使った。ようやく付き合っても、だんだんと見えてくる価値観の違いや身体の相性の問題、そしてやがて来るしんどい別れ。


 次第に私にとって恋愛は、出会うまでも維持するにも別れるにもひどくエネルギーを消耗し、日常生活まで振り回されてしまう大変なことにしか思えなくなり、それよりもただひとり平穏に日々を過ごしたいと思うようになった。

 ――もう恋をしなくなって三年になる。


 その私が初めて一目惚れした。

 名前も知らない相手の裸の背中に。

 でも、こうやってたまに銭湯で会えて話せれば充分だと思った。


 それでも会うたび話していると、だんだんと知りたかったこともわかってきた。

 名前は美和さん。私も佳世、と下の名前だけ伝えたので、美和さん、佳世さんと呼び合うようになった。

 私より二つ年下の26歳で、メーカーの社内デザイナー。主に宣伝用商材のデザインをするらしい。趣味でアクセサリーを作っていて、お風呂で仕事やアクセサリーのデザインアイディアが湧くことがよくあるという。だから、ノー残業デーの水曜は早く帰ると日の出湯に来るけれど、月末は忙しくて残業が続き、来られなくなる。

 日曜は明るいうちにひとっ風呂浴びて、ビールを飲みつつアクセサリー作りやサイトに載せるための撮影に没頭するのだと笑って、数ヶ月前に登録したというハンドメイドサイトを見せてくれた。個人が販売するサイトを初めて見たので、たくさんの商品が並んでいて驚く。美和さんがつけているピアスもあった。

 つまり、暇な時間があれば銭湯か趣味に費やすということは、一緒に出かけるような恋人は多分いないのだろう。

 恋愛は望まないと思いつつもつい考えを巡らせてしまう。

 とはいえ、出会って一ヶ月半が過ぎていっても銭湯で会えたら話す、ただそれだけの関係には変わりない。

 のれんをくぐって道に出れば、それじゃまた、と挨拶して左右に分かれてそれぞれの家へ帰る。時間が前後してその挨拶すらない時もある。次に会う約束があるわけでもないし、連絡先も知らない。


 それでも会うたび少しずつ距離が縮まっていくのが嬉しかった。

 友達とも言えないような淡い関係であっても、日々に張り合いができて下着や服を新しくしたり、中断していた脱毛サロンに再び通ったり。

 私たちの年代で定期的に銭湯に通う客は珍しいらしく、顔なじみになったおばあちゃんたちは私たちをペアのように扱い、先に彼女が来ていると、美和ちゃんサウナにいるよ、なんて教えてくれた。

 そうやっていつの間にか自然に日の出湯以外でも二人でいられるようになったらいいのに、と願ってしまう自分がいた。


 だから8月の終わりの水曜日に一緒に薬湯に入っている時、何気なくこう告げられた私は心臓が止まりそうになった。

「私、今週末でちょっと離れたところに引っ越すから、しばらくご無沙汰しちゃうと思います」

「え、引っ越し?」

「今住んでいるアパート、更新時期なんです。狭かったし、どうせならこれから家でもデザインの仕事をもっとしたり、アクセの販売も本腰入れようかなって思って。デスクや機械を入れ替えて、作業や商品の撮影ができる広めな部屋に引っ越すかと。でも家賃は今とそんなに変わらないように、となると古くて不便な場所にはなっちゃったけれど、風呂トイレ別なんですよ」

 話している美和さんの表情は明るく、心はすでに新しい場所にあるように見えた。引っ越し先最寄りの駅は電車の路線も違ったし、わざわざ銭湯に入るためだけに電車を乗り換えてまで日の出湯に来るとは思えなかった。

「それじゃあ、ここに来ても美和さんと会えなくなっちゃうんですね……」

 私はそう言うのが精一杯だった。

「日の出湯好きだし、落ち着いたらまた来ます。さ、サウナで整えましょ」

 美和さんは困ったように微笑んだ。

 実際、困ったのだろう。

 すっかり新しい生活への希望が膨らんでいるのに、銭湯で会うだけの私にすがりつくようなことを言われて。


 その日、そんなことを告げられるとも知らなかった私は購入したばかりの新しいブラとショーツを着けて行っていた。

 美和さんの前で裸であることはすっかり慣れたけれど、いそいそと選んだ新しい下着を美和さんの前で身につけることが、なんだか今日はひどく恥ずかしく空しく思えた。

 一体私は何を期待していたのだろう。

 連絡先を知らなくても約束がなくても、また当然のように会えるから繋がっていけると思っていた。

 ずっと繋がっていって――その先にもしかしたら何かあるかもしれないと。

 でもそうじゃない。

 こんなに簡単に泡のように消えていく関係だった。

 

「お待たせしました」

 荷物を持って、休憩室で待ってくれていた彼女に声をかける。髪が短い美和さんのほうが身支度が早く終わるから、一緒の時はいつも待っていてくれた。

「じゃ、帰りますか」

 美和さんがにっこり笑って立ち上がる。

 私たちは並んで下駄箱から靴を取り出した。彼女は年季が入ったニューバランスの青いスニーカー。私は真似をして買った色違いの黄色いスニーカー。でも、美和さんは気づいていないみたいだった。

 のれんをくぐり、美和さんが手を上げて挨拶をしようとするのを私は見ないようにして言った。

「考えてみれば変な関係ですよね。名字も知らない、どこに住んでいるかも連絡先も知らないけれど、裸はお互い知っている」

 私より10センチくらい高いところから美和さんは私を見下ろし、ふっと笑った。

「確かに、そうですね」

「――最初は、美和さんの背中が素敵だと思ったんです」

「え?」

 美和さんが目を見開いて私を見つめる。

 私はうつむき、自分のまだ新しいスニーカーのつま先を見た。

「私だけ、のぼせちゃったみたいです」

 動悸が激しかった。

「引っ越し作業、頑張ってください。またここにも来てくださいね」

 最後まで美和さんと目を合わせることはできず、言い終わらないうちに私は背を向けて歩き出した。


 言い過ぎたかな。

 私が美和さんを好きだとわかっちゃったかな。

 それとも、何も伝わらなかったかな。


 わかって欲しい気持ちと、今まで通り気楽な知り合いでいたい気持ちと。

 何なら追いかけて欲しかった。

 でもできるだけゆっくり歩いても、美和さんが追いかけてくることはなかった。

 ただ、今までのように日の出湯で会えていたらそれでよかったのに。

 人を好きになるってなんてやっかいなのだろう。望んでもいないのに勝手に生まれて膨らんでいく感情。始まりもしないであっけなく終わったくせに、なぜこんなに胸が痛むの。

 苦い思いがこみ上げて、鼻の奥がツンと痛んだ。


 *


 美和さんが引っ越したあとも、もしかしたらまた来てくれるかもという期待を捨てきれず、私は水曜・日曜になると忠犬のように日の出湯に通い続けた。

 予想通り美和さんが現れることはなかったけれど、おばあちゃんたちと交わす何気ない話で少し心は晴れた。

 祖母も、同じようにこの世の憂さを晴らしに銭湯に通っていたのかもしれない。たっぷりの熱い湯に浸かって、なじみの人と話して、帰りにカップ酒を買って、少し元気になってまた現実へ戻っていく。


〈申し訳ありませんが、年内を以て日の出湯は閉店します。長い間のご愛顧に感謝致します〉

 日の出湯の玄関にそんな筆書きのポスターが貼られたのは9月下旬、季節が秋に変わろうとしている頃だった。

 慌てて番台のおばちゃんに理由を聞くと、そもそも後継者もおらず人手不足でもあり、資金もなく修繕もままならなかったところに、不注意からボイラー室で軽いボヤを起こしてしまったのが決め手になり決断したという。

 同じようにポスターを見たおばあちゃんたちも落胆していた。

 美和さんとの繋がりが消えてしまう。

 ――美和さんに伝えなきゃ。そしてもう一度一緒に日の出湯に入りたい。

 そう思った。


 それから私は、日曜日には美和さんが引っ越した先の町の銭湯を訪ねることにした。

 きっと美和さんは新しい地元の銭湯にも通っているとだろうと思ったのだ。とはいっても最寄りの駅名しか聞いていないから、地図で調べた駅から歩いて行ける範囲の五つの銭湯を一つずつ順番に行くだけ。

 日の出湯閉店までに再会できる可能性がどれほどあるのかもわからなかったし、効率がいいやり方だとも思えなかったけれど、私にはその方法しか思い浮かばず、大きなトートバッグに銭湯グッズを入れ、電車を乗り継いで美和さんの町へ向かったが、私も毎週は通えない。会えないままするすると一ヶ月が経ち、風が冷たさを増していく中、焦った私は土曜日も美和さんの町に通い出した。

 

「佳世さん?」

 懐かしいハスキーな声に信じられない思いで振り向くと、美和さんが立っていた。

 10月中旬、日曜日の美和さんは、伸びた髪を後ろで結い、赤いフープのピアスをつけ、黒い水玉シャツの上にオリーブ色のミリタリージャケットを羽織っていた。

 彼女の町の趣ある銭湯、「富士湯」の前でのことだった。

「どうしてここに」

 目を丸くしたまま美和さんが尋ねる。

 なかば使命感のようにこの町へ通い続けたけど、冷静に考えたら引っ越し先まで追ってきた「ただの銭湯の知り合い」なんて怖いだけかもしれない。

 言葉に詰まった私を見て、美和さんはふっと微笑んで近づいてきた。

「もしかして、私に会いに来てくれたんですか?」

 私は頬がカッと紅潮するのを感じながら頷いた。

「あ、あの、日の出湯が年内で閉まることになったので、伝えなくちゃと思って」

 私は手短に経緯を説明した。

「そっか……教えてくれてありがとうございます。なんだかんだ忙しくて全然行けませんでした。今度ちゃんと日の出湯さんに挨拶に行きますね」

 曖昧に微笑んで頷いた私には、もうそれ以上話すべきことはなかった。話したいことはたくさんあったけれど、言葉にならなかった。

「じゃあ、これで」

と頭を下げて去ろうとすると、美和さんは慌てたように言った。

「佳世さん、富士湯に行かないんですか?」

 私はトートバッグをぎゅっと持ち直した。

「いえ、私は今日はもういいかなって」

 いたたまれない気持ちでそう言い、足早に離れようとすると、美和さんが追いかけてきて私の横に並んだ。

「――それなら、私の家のお風呂、入っていきませんか?」

 予想もしない提案に、私は気づいたら「はい」と答えていたのだった。


 富士湯から歩いて15分ほどで着いた美和さんの家は、四階建ての集合住宅の三階にあり、古い間取りだったけれど確かに広々としていた。玄関を開けると四畳ほどの板張りの台所。奥のリビングには窓に面して大きなデスクが設置され、ライト、モニター2台とキーボード、ペンが備えられたタブレットが配置されていた。右横の棚にはパソコン本体とプリンター、カメラが置かれ、その上の段にはアクセサリーパーツが大量に収められた引き出しが並んでいる。デスクの左側には小さな台に布が敷かれ、撮影用なのか完成したアクセサリーが並べられていた。

 リビングの左側は寝室らしく、ふすまが閉められている。

「思い切って設備投資してみたら居心地が良くなりすぎちゃって、結構家にこもって作業するようになってしまいました」

と言って美和さんは笑い、台所に面しているドアを開けて洗面・浴室へと私を案内した。

「お風呂への投資は少しなんですけれどね」

 浴室のドアを開けると湯気があふれ出した。着いてすぐ、美和さんがお湯張りを始めたのですっかり湯船の準備はできている。

 美和さんの後ろから中を覗き込むと、水色のタイルのお風呂には日の出湯と同じ黄色い桶と椅子が置かれ、壁にはシール状の富士山の壁画が貼られていた。

「すごい、日の出湯みたい」

「そうでしょう。本物には敵わないけれど気分だけでも」

 薬湯のようなハーブの香りがする入浴剤をお湯に溶かして出てきた美和さんは眼鏡を外し、洗面台横の棚の上に置いた。そして躊躇せず服を脱ぎ出したので、私は慌てて顔を背けた。

 美和さんがそんな私に気づいて屈託なく笑う。

「恥ずかしいですか? 日の出湯でさんざん見てきたじゃないですか」

 こともなげに美和さんはそう言うと、ショーツを足からするりと取り去って洗濯機に放り込み、「先に身体洗ってますね」と言って浴室に入っていった。

 一瞬見た美和さんの久しぶりの裸に、心臓が早鐘のように打っている。

 私は覚悟を決め、自分の入浴グッズから拭き取り式のクレンジングを出してメイクを落とし、服を脱いだ。

「失礼します」

と言って浴室に入った私の声は、緊張のあまり震えていた。

 濡れ髪でお湯に浸かっていた美和さんは、いつかのようにシャワーを出して私に渡してくれた。

 いつもより手早く洗顔とシャンプーを済ませ、持参したボディタオルで身体を洗う。水分を絞った髪をゴムで結び、美和さんが向きを変えて作ってくれたスペースに足先からそっと入った。

 美和さんの横に身体を沈めていくと、黄色っぽく色づいたお湯があふれた。

「一人だと大きいなって思ってたけれど、二人では小さいですね」

と美和さんが笑った。


 私たちはお互いの間に隙間を保つように注意深く膝を抱えながら、黙って壁の富士山を見つめた。

 一体何がどうしてこうなったのだろう。頭が混乱していた。


「……佳世さん、もしかして私のことが好きですか?」

 急に言われて、私は驚いて横の美和さんを見た。

 美和さんはまっすぐ私を見つめていた。

「好きだからここまで探しに来てくれたんですか?」

「はい」

 考えるより先にそう答えていた。

「美和さんが好きです」

 かすれた声でそう告げた私を見つめ、美和さんは泣きそうな顔で微笑んだ。

「日の出湯で最後に会った日、佳世さんは自分だけのぼせちゃったと言っていましたね。――私は、ずっとのぼせないように気をつけていたんです」

 美和さんが手を伸ばし、濡れた温かな指でそっと私の頬をなでた。

「佳世さんが私を見る視線や、色違いのニューバランスを履いてきたのを見て、もしかしたらって思いました。でも、アクセサリーの販売サイトを見せても佳世さんあまりいい反応しなかったし、そこから連絡があるかなと待ってみたけれど来なかったし、やっぱり思い違いなのかなって思って」

 まさかそんなふうに美和さんが考えていたなど思いも寄らず、私は焦った。

「私、個人のネット販売サイトって使ったことなくて疎くて、ただすごいなと思って……そこから連絡が取れるなんて知らなくて」

「そうだったんですか。でもそれで私、勝手に勇気がなくなったんです。恋愛関係になったら壊れたり傷ついたりすることも多いし、それならただのたまに会う銭湯の知り合いのまま、引っ越しで別れたほうがいいんだろうなと」

「私も同じように考えていました。スニーカーのこと気づいていないみたいだし、私のことなんてただの知り合いだから、引っ越しについても何も言ってくれなかったんだな、と思って」

「似たもの同士なんですかね、私たち」

 美和さんは自嘲気味にそう呟いて笑った。

「引っ越しして離れたらそれっきりで、そのうち佳世さんのことは忘れるだろうと思っていました。でも、佳世さんはここまで私を探しに来てくれたんですね。大変だったでしょう?」

「一ヶ月半、毎週この町に通ってようやく会えました」

 私の目を覗き込む美和さんの目尻から涙がこぼれ、頬を伝ってお湯に落ちた。

「そんなに……」

 美和さんは私に近づき、額を私の額につけてささやいた。

「だから私もようやく言えます。私も佳世さんが好きです。また一緒に銭湯に行きましょう。日の出湯も、富士湯も、――ううん、どんなところへも佳世さんと一緒に行きたいです」

 

 いい大人になると、新しく恋を始めるのは難しい。経験が重ねられた分、初恋からの終わった恋たちが亡霊のように立ち塞がって先を見えにくくさせてしまう。

 私たちは同じように不器用で慎重で、恋愛なんて求めていなかったのに、それでもお互いを好きになった。

 怖かったけれど、でも、どうしてもあなたに手を伸ばしたかった。


 あなたも私と同じ思いなら。

 ずっとあなたにのぼせていたい。

                           (終わり)     


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のぼせて おおきたつぐみ @okitatsugumi

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