あかるい深海

蘇芳ぽかり

鏡とハサミ





 もしも海の底で泣いたとしたら、涙なんて見えないだろう。



 水の量も含まれる塩分も、全て透明なまま周りに溶けてしまうだろう。目の縁に染みるものなど何もないし、だから手で拭ったりする必要もない。

 傍目からはきっと、ただ突っ立っているように見えるはずだ。



     ✵



「よくお似合いですよ」とか。

「あなたはこうするといいよ」とか。

 相手に合っていると思うものを示唆したり勧めたりする場面は日常の中にありふれているし、自分だってまた友達に簡単なアドバイスをしたり、面白かった漫画を紹介したりは当たり前のようにしているわけだ。そこに大した意図も何もない。

 とはいえ、誰かに良いと言われたものを自分が好きになるとも限らない。

 自分が好きになったものを、周りが「いいと思う」と言ってくれるとも限らない。

 誰に認められずとも、俺は自分が「いいと思う」ことを守るのだ。

 ……そう思えたら楽なのだろうが、しかしそんなことを言い放ち、実際に貫けるほどの強さを持った人は残念ながらそんなに多くはない。少なくとも自分はそうじゃない──と、夏目なつめは思う。

 それを装っているだけだ。

 他者に対してそうだと見せたいだけだ。


(────本当にそれだけだったのかな)


 洗面所の鏡の、白い水滴の跡が点々と散ったその向こう側。

 いつも通りに眠そうでだるそうな顔をした自分がいる。ごく普通の、名前もつかないような短髪の髪型に、全国チェーンの服屋で売っているダークグレーのTシャツ。同じ店の細身のジーンズ。どこにでもいそうな、ありふれたティーンエイジャーの男。

 内面で渦巻いているものなんてガラスの表面上に何も映りはしない。当たり前だ、内面とは目に見えない。目に見えないから、数学の問題のように公式を使って証明したりなんてできない。あるなんて、誰にも断言できない。

(なんでもいい。なんでもいいけどさ)

 夏目はふっと笑った。

 笑ったのか微妙なラインだ。もう1人の自分の口元がふにゃりと眠そうに緩んだだけだった。




     ✵ ✵ ✵




 床屋に行ったのは、前回行ってからそろそろ3ヶ月になる頃だと思ったからだ。

 3ヶ月、という数字に意味があるわけではない。ただスマホのカレンダーを何気なく振り返って「ああもうそんなに経つのか。じゃあそろそろ行っとくか」と筋道の通っていない脈絡で考えた。

 後ろ髪を切ったのだって同じような論理のない脈絡だ。

 店主が道具の用意をしている間の待ち時間に、新品同然ではないけれど綺麗に磨かれた鏡を眺めながら、唐突に思い立った。そろそろこの髪型も見飽きたし、切っちゃおうか。そうだな、これからもっと暑くなるんだし、ちょうどいい。

 男にしては長く伸ばしていた髪だった。俗に言うウルフカットというやつだ。上はマッシュルームっぽく、襟足だけ少し伸ばして。去年の秋からそうしていたから、たまに切り揃えてもらったりしていたとはいえ、うなじに掛かる毛はだいぶ長くなっていた。

『じゃあ切っちゃうよ? 切っちゃいますよ?』

 店主はハサミを入れる前、惜しそうに、でもなんとなく楽しそうにそう言った。黙りこくっているのもどうかと思って、夏目は微笑んで「はい」と頷いた。直後にジャキ、ジャキ、という鋭さと鈍さの混ざりあった音が耳の後ろで聞こえた。

『何センチぐらいですか?』

『切った毛のことかい?』

『はい』

『8センチ……いや、9センチかな? 10はいかないくらい』

『そうですか』

 切り終わった後、再び鏡に映った自分を眺めて、少し妙な心地がした。何かがおかしい、というような違和感とは微妙に違う。……むしろ、全く違和感がないことに対して驚いていた。ばっさりと切ったから、結構変わったような感じがするかと思ったのに。

 しかし、考えてみれば、奇抜な髪型をしていたのは数えてしまえばたったの半年と少しの間だけであって、今はまたもとに戻っただけなのだ。しっくりくるのも、見慣れた感じがするのも、当然と言えば当然のことなのかもしれない。

 なのにどうしてだろう。

 何か腑に落ちずにふわふわと浮ついたものがある。どうしてか、胸の中に、煙のような実態のないものがもやもやと充満している。

 その形を見定める前に、気のせいだと半ば自覚的に思い込んだ。

『どう? こんな感じで大丈夫かな』

 訊かれて、夏目は目元で笑った。

『はい、大丈夫です』

『うん。結構さっぱりしたね。いい感じいい感じ』

 蓄えた顎髭をジョリジョリと撫でて、店主は頷いた。夏目は鏡越しに見つめてくる自分から目を逸らして立ち上がり、茶色い合皮の財布から1000円札を2枚取り出した。



 家に帰ると、昼ご飯の焼きそばを炒めていた母親は、一目見て「あら」と眉を上げた。

『切っちゃったの? 尻尾』

 襟足の長い毛は、周りの人々からはだいたい「尻尾」と呼ばれていた。「くらげの足みたい」と言われたことも、まああったけれど。

『うん。切った』

『なんで?』

『なんか、気が向いたから』

『ふうん』

 母親の横で人参の皮むきをしていた妹が、「なんか普通になっちゃったね」と呟いた。残念そうだった。

 妹は夏目の尻尾を気に入っていた。面白がって三つ編みをした時には、「あれみたいだね」と言った。「チャイニーズの、あれ。なんだっけ?」「辮髪?」「それ。ベンパツベンパツ」休日だしどこにも行かないからいいやと思って、1日中その髪型で過ごしたことも、あった。

 ──ああそうか、普通だ。

 さっき感じた、違和感のないという違和感の正体はこれだったのかと思う。俺は普通の髪型になった。なんだか普通になってしまった。

 どこからか帰って来た父親も、焼きそばの上の海苔と鰹節だけ指でつまんで食べながら、夏目を見て「普通」という言葉を使った。

『お、今度は普通じゃないか』と。

 そう言えば、これまでのあの髪型を父親が気に入っていたのかどうか知らない。母は「個性的でいいじゃん」と言ったし、妹もよくいじっていたが、父親に何か言われたことはなかった。

 うん、と夏目はただ頷いた。

 個性的じゃなくなった。もとに戻った。普通になった。

 自分で心の中で反芻した言葉たちに、自分が何故かショックを受けていることに気付いた。いや、なんでショックを受けているのだ。別に大して落ち込むタイミングじゃないだろ。

 でもまあ、なんだかんだ自分も尻尾を気に入っていたのかもしれない。

 別に似合っているとは思っていなかった。でも、日頃「大人しい族」である自分が、それでいて高校生にして清潔やお洒落に無頓着な「ズボラ族」である自分が、身近では誰もやっていないような奇抜な髪をしていることは面白かった。

 いや、していたことは、か。

 切った髪がばさばさと床に落ちて、身体の1部からごみに変わるのと同時に、あれは過去になった。




 とはいえ周りの全ての人が好意的にあの髪型を受け入れてくれたかと言えば、別にそうではなかった。学校でつるんでいる友達2人からは、散々の批判を浴びた。彼ら──原田と中山は、事あるごとに「その尻尾をさっさと切れ!」と言った。

 2人いわく、「絶対もとの普通のの方が良かった」し、「前の方が似合ってた」らしい。

 「そんなに似合わない?」と敢えて首を傾げてみせた時、中山は「悪目立ちしてる感じがする」と言い、原田は「性格がきつそうに見える」と言った。

 そんなだったから、夏目が再び元通りに散髪して学校に行くと、2人とも親指を立てた。

『似合う似合う』

『ようやく戻してくれる気になったか』

 窓から入り込んでくる初夏の日の光は、朝でも眩しいほどだ。普段通り既にそこそこ賑やかな教室内で、普段通りに携帯をいじって遊んでいる2人を目を細めて見つめ、夏目はうんと頷いた。『なんか、切る気になったから』

『普通にそっちの方がいい』

『顔まで心なし良く見える』

『そ? なら良かったわ』

 夏目はにっと歯を見せて笑った。それから自分の机の上に背負ってきたリュックを適当に置いて、適当な2人の雑談に混ざった。




     ✵ ✵ ✵




 夜、夏目は寝付くのが遅い。そのくせ1度眠りに落ちてしまえば、絶対に朝が来るまでは目覚めない。起きてしまえば眠気を引きずることもない。完全に寝ているか完全に起きているかの2つの状態に、夏目の1日は、日々はぱきっと割ることができる。

 30分ほどの時間を、布団の中で目が冴えきったまま過ごす。

 仰向けに寝転がっていると、両耳は何にも塞がれていない状態になる。1階から父親の観ているテレビの音が聞こえて、網戸の向こうからは僅かな風の音が聞こえる。それでも、夜とは妙に沈黙している。現実に聞こえる全ての音は、どうしてかすごく遠い。

 だからその分、そうじゃない時に聞いた色んな音や声が、耳の奥で繰り返し繰り返し再生される。感触すら伴って。

 首筋に沿って当てられたハサミは、閉じるのと同時にぐぐぐと何か引っかかったような音を立てる。握る重さ、刃の抵抗。椅子ごと掛けられた白いケープの上を、短い毛はさらさらと滑り落ちる。そのほんの微かな摩擦。


 ────普通になっちゃったね。


 床屋に行ってから数日間、同じことばかりが頭の中を巡る。

 言われたあの時、心のなかでは反抗的に言い返したのだ。髪を切ったくらいのことで無くなる俺の個性なのかと。そんなことで、個性を持っていた俺は、個性を失くすのか。そんなことあるものか。どんな髪型をしていたって、自分は自分じゃないか。そうだろ?

(だけど、個性ってなんだろう)

 自分とはどんなであるか。

 寝返りを打った。薄い綿毛布から足を出して、小さい頃からの癖で体を海老のように丸めた。

 キャラ作り、という軽薄な響きの言葉があるけれど、しかし自分がこれまでやって来たのも実際はそれだったような気がする。自分は自分の性格というものに、自覚的だったと思う。

 群れるよりも1人を好むこと。1人でも生きていけること。でも数人の自分を慕ってくれる友達を大切にしたいとも思うこと。多くの人から気に入られたいとは思わないこと。大雑把な言葉を話し、大雑把に物事をすること。多くのことに関してどうでも良さそうであること。人目を大して恐れないこと。

 もとからそうだったのかと聞かれれば──多分そうじゃない。別に誰かにそうしろと言われたわけでもないのに、夏目は無意識的に自覚して自分を作り上げてきた。考えてみれば、そんな気がした。

「それを選ぶのは自分らしくないから」

「これを選んだ方が自分らしいから」

 そんな理由を掲げて行動を選び取ったことが、一体何度あったことだろう。

 作り上げた「自分」は、自分だろうか。わからない、もうそれもまた自分の1部としなければ不自然だというところまで来てしまったようにも思う。だが、繕ってきた「自分らしさ」を全部取り払ってしまった後に、そこには何が残る?

 「本当のあなたを見せて」などという言葉を漫画やら映画やらのドラマチックな場面で見かけることがある。でもそれは、言っている人は相手のことを「今のお前は本物じゃない」と言っているのと同義じゃないか。何を根拠にそんなことが言えるのだろう。何をもってして「ありのままの姿」だ。

 本当の自分とは誰のことか。俺は一体どこにいるのだろう。

 どこかには──いるん、だよな?

 あぁ……とまた目を閉じた。もう何度目だろう。……そんなことどうでもいい。それどころじゃない。大変なんだ。ゲシュタルト崩壊だ。アイデンティティの拡散だ。大地震だ。

 髪を切ったことくらいでこんなに自分が揺らぐなんて思っていなかった。こんなの、らしくないと思うのに。でもその「らしさ」とは、いつ決めた、いつからあるものなのかすらわからないのだ。

 夏目はふっと闇の底に身を投げるように眠りに落ちた。



     ✵



 いつの間にかぼーっとなっていたのだと思う。

「なつめっ!!」

 名前を呼ばれて、我に返って目を見開いた夏目の真横を、サッカーボールが転がっていった。それを眺めて、今のが自分に対するパスだったのだと気付く。気付くのとほぼ同時に、「あーあ」と息を漏らしながら、同じ色のビブスのチームメイトがまたすぐ横をボールを追いかけて走っていった。

「あっ、ごめ……」

 咄嗟に出した声は、誰にも届かない。太陽のぎらつくような光と白いグラウンドの照り返しの間に、陽炎のようにふうっと溶けて消えてしまう。

 白々と上からも下からも照らされて、蛍光オレンジのビブスを着た自分は馬鹿みたいだ。コート上で役に立てることなど何も無いのに、一丁前に光をがんがんと反射する。影を消すことができない。

 サッカーボールはかなり遠くに飛んでいったらしく、取りに走っていった彼は今ようやく拾い上げた。その姿が、向こうの方に小さく見えた。

 申し訳ないな、と思う。

 でも俺にパスを出すのが悪いのだ、とも思った。

 一生懸命目立たないようにしているのに。授業内のちゃちなゲームの勝ち負けなんてどうでもいい。体育の成績だってどうでもいい。きちんと毎回参加してさえいれば単位は取れる。やる気なんて初めからないのだから、出しゃばって足を引っ張ることだけはしないようにしているのに。サッカーに限ったことではないのだ。

 大体のことはどうでもいい。適当にやり過ごせばいい。

 それが夏目の振りかざす、常の姿勢だ。よく「まあどうでもいいけどね」「適当にやっとけばいいんだ」と声に出す夏目を、友人たちは「低体温」と評す。その通りだと思う。

 だって熱くなるのは馬鹿らしい。大して上手くもないのに。熱くなったって何ができるわけでもないのに。作ってきた「自分」は、本気で体育のサッカーなんかには取り組まない。そんなのくだらないと言って、少し離れたところから人の群れを見つめている。1人、涼し気な顔をして立っている。

 作ってきた「自分」?

 いや、違う。

(それはただの、理想的な、こうでありたいと思う俺の姿だ)

 自分が良ければそれでいい、誰にわかってもらえずとも構わない──そう思えたら楽なのだろう。でも、夏目にはそこまで振り切れてしまうことができない。

 試合が再開する。思考も感情も一生懸命無いものにして、走り続けて、走り続けて────その果てに試合終了のホイッスルが鳴る。走るのをやめて、立ち尽くす。

 暑いのにジャージの上からビブスを着た、冴えない自分。体操服の白いTシャツだとまるで本気になっているようで嫌だから。ちっぽけな意地。

 「お疲れ」などと言い合っているチームメイトの輪からの距離は、物理的にはそこまででもないのに精神的にはすごく大きい。どうしてだろう。ううん、そんなの、なんでもいい。なんでもいいじゃないか。鼻の頭に浮かんだ汗の粒を手の甲で押し拭った。

 ボールを追いかけてダッシュなんてしない。でも、動かずに突っ立っているのはどうにもいたたまれなくて、中途半端に走る。必死に存在を消しながら。白い砂埃が舞う。眩しいグラウンド。

 1人で生きていきたいけど。

 1人では生きていけない。

 全ての人に認めてほしいわけじゃないけれど、誰にも認められないのは嫌だ。すべての人に目を背けられる状況なんて、本当は考えるだけで身がすくむ。陰口なんて些細なものだとも思うけれど、それでも怖い。

 強い自分とは幻想か。都合のいい時には強さを演じて、でも俺は演じきれていないのか。俺の人生とは演技か? 

(俺は俺を生きてはいないのか)

 整列の指示を聞く前に、夏目は再び意味もなく走り出す。叫び出したいような衝動が、回り回って惰性のように無理矢理に足を動かした。ざっざっとスニーカーの裏が粗い砂利に引きずられて擦れる感覚。

 いつの間にか、頭の中も心のなかも、ハレーションを起こして弾ける。

 真っ白な光の中に飛んでいく。





 昼食の林檎を机に出したものの、生ぬるくべたつくような空気の中でどうにも食べる気がしなかった。仕方なく、球体とも言えないような林檎の形を眺めていた。

 くらくらする、とまではいかないけれど、頭が少しぼんやりとしていた。あの暑さと眩しさの中で体育なんてやったからいけないのだ。そのせいだ、きっと。

「いっつも思うけどさ」言いながら、前の席に原田がどかっと座った。

「夏なのにどっからそれ仕入れてんの?」

「スーパー。近所の。1個、298円」

 単語を並べて答えていると、中山も来て、適当な近くの席の椅子を出してきた。

 教室の喧騒。その中の、1番隅で夏目たちはいつも昼休みを過ごす。適当に喋って、適当にスマホをいじって、適当に時間を潰す。原田と中山は多分親に作ってもらっている弁当を食べて、夏目はその横でシャクシャクと林檎をかじる。2人も、それから遠巻きにクラスメイトたちも、初めはぎょっとしたように夏目が赤い果実を丸ごと食べるのを見ていたが、日々を重ねるごとにその驚く様子は薄れていった。

 夏目の親だって、頼めば多分弁当を作ってくれる。でも、自分でどうにかするからと高2になって跳ね除けた。その時ばかり自立を重んじた。初めの1か月は真面目に卵焼きを朝から焼いていたが、やがて買う日が増えて、いつの間にか昼食は林檎1個になった。

 美味しい、とは思っていない。

 スーパーの安い果物に美味しさなんて求めてはいない。実際味は薄いし、大して新鮮でもない。でも適当に水分が取れて、適当に腹が膨れればそれでいい。

 強いて言うなら、林檎のフォルムが好きだ。それに教室で丸ごと1つかじるのは、いい感じに現実味がない。そんなやつは他に誰もいない。

 ……そこまで考えて、じゃあつまりこれだってポーズじゃないか、と思わず笑った。

 変なやつ、と思って貰えるように、敢えて自分から変なことをしているんじゃないか。

「食べないの?」

 顔を上げると、中山が訝しげにこちらを見ていた。ああ食べる、忘れてたと答えようとして、やっぱりやめて、今は食べる気分じゃないんだよねと言おうとした。

 でも結局そうも言わなかった。夏目は少し笑って見せた。

「今食べたら吐きそう」

 なんだそれ、と中山は笑った。冗談だと思ったのだろう。原田は我関せずでスマホを横持ちして、何やら素早く指を動かしていた。

 自分という存在がわからなくなったのだろうか。今自分は、「自分」を見失っているだろうか。

 何がなんだか、全てのことが今わからない。何か重いものが胸のあたりから喉の奥に、そしてみぞおちにまで横たわっているようで、気持ちが悪い。

 いっそ吐けたら。

 「つらい」と声に出せたなら、きっと楽なのだろう。だけど。

(声に出すほどに、俺は何がつらいんだろう。そもそも、つらいのかも実際はよくわからない)

 教室のあちこちから聞こえるいくつもの声が、うるさい。笑い声もそうじゃない声も耳障りだ。それでいて全ての音が僅かに、何枚かの布を被せたようにくぐもって聞こえる。原田が何かスマホの画面の中のことに対して呟いて、中山がそれに反応する。何も考えないうちに、夏目も何か返して、肩を揺らして笑う。

 幽体離脱をするかのように自分を離れて、一切のものから切り離された場所から見下ろせば、夏目たちもまた教室の1角に沈んでいる。

 あ、と気付くように思う。

 つらいかどうかはよくわからない。だけど今の自分は何だか参っている。笑ってしまうほどに参っている。

 泣いている。

 他の誰にも見えない涙だ。だって雫の形を作ることもなく、あっさりと周りの透明の中に溶けてしまうから。俺1人、水の底にいる。


 変なやつだと、俺は思われたいのだろうか。



 


 夏の日は長くて、まだ当分落ちそうにない。

 バスを降りて家までの道を歩いた。別に栄えているわけでもなんでもない街だが、それでも道を行けば何人かの人とすれ違う。

 「人々」や「大勢の人」、という言葉を使った時、思い浮かべるそのうちの1人1人には顔がない。またはみんなフリー素材のイラストのような、同じ平面的な顔をしている。意識して見ない限り、街を歩く人たちだって同じようなものだ。教室の中の人たちだって、きっと同じだ。外からぱっと見ただけではその人が他にはいない固有の人間だなんて、多くの場合はわからない。

 仮に似合っていたとしても平凡には違いない髪型で、基本自分から何か大声を発することもなく教室の隅にいる自分は、どこにでもいるような「大人しいクラスメイト」という存在にしか見えないだろう。出る杭は打たれるって言うし、そのありふれた場所に落ち着くのは簡単で楽だ。何もしなければ、何も求めなければきっとそうなるのだとも思うし。

 だが、夏目の中の何かが、それを「成り下がり」と呼ぶ。

 誰とでも同じような体裁を作った時、俺という人間の中にある確かに他の人たちと違う部分はどうなる。表面に出てこない、誰にも見つけてもらえない「自分」は、一体どこへ行くんだろう。だって周りにいる人に見えるのは表面上に浮き上がった姿だけだ。外から認識することのできる俺こそが、全てじゃないか。それ以外に「俺」なんていないじゃないか。

 自分で足掻かない限り、自然に落ちぶれていく。

 ……知ってる。社会とは工場のようで、誰がいなくなっても、きっとそこにその役割を果たす誰かが入る。「人々」の中の個性のない1人とは、代替可能な歯車のようなものだという気もする。自分の人生だって、他の誰かが生きてくれるのかもしれない。

(だけど、それじゃ嫌なんだ)

 これから先、適当に高校を出て、適当な大学に入って、いつか適当に働き出したら。何も考えずに、ただ周りの動きに紛れて流されていったら、俺の人生から意味や価値が消えてゆく気がする。

 その無意味さにふと気がついた時、本格的に生きていくことの意味を見失ってしまいそうで、怖い。でも。……本当はその恐ろしさに気付かないことの方が怖い。

 今こうしてごちゃごちゃと考えたことをいつか忘れてしまっても、きっと自分は普通に淡々と生きていくことができるだろう。自殺や自傷に、犯罪に手を伸ばすことはないだろう。そのくらいの強さと弱さを持っているとわかっている。でも、だからこそ、自分はこの「自分」を忘れたくないのだ。

 どうせ意味がないから人生を降りたいとは言わない。むしろ意味をどうにかして得たい。

 ここにいるのが俺でなくてはならないという理由が欲しい。それがないと不安だ。

 道行く人々に聞いて回りたくなる。あなたは怖くないのか。あなたは「自分」を忘れてしまってもいいのか。忘れてしまったのか? あなたはこの恐怖を感じたことがあるか。何かに急き立てられるようなこの焦りを、覚えているか。

 でも、実際に声を上げたりはしない。

 その行動はきっと奇異の目で見られ、自分は「たった1人だけ」を痛感することも、痛みや苦しみを感じることも、それでいて「たった1人だけ」に驕りの混ざる思いを抱くこともわかっている。迷うように少しだけ、ぱくぱくと開けた口から透明なあぶくが出ていくのを見た気がした。

 髪の掛かっていない、無防備な首筋を、見えない群青色の水が撫でた。


 



 床屋に行った日から鏡を何度眺めただろう。

 今日で4日目が終わる。まだあれから4日目だ。でも、もうあれから4日目だ。

 親も妹もまだ帰ってきていない家は、夕方という時間帯の不思議な静けさに沈み込んでいた。ワイシャツはそのまま、下だけ私服のズボンに履き替えて、夏目は意味もなく洗面所に行った。昼には妙にいっぱいいっぱいだったはずの喉の奥が、今はからっぽなのを感じた。吐き出したいものも、飲み込みたいものも特に無かった。

 土気色よりも、幾分上気した顔。

 しばらく見つめて、ふっと目を逸らす。

 あまりにも平凡な自分を眺めることに、夏目はまだ慣れていない。あまりにも引っかかる部分がないということに、感じる違和感を消しきれていない。

 ────でも、いいんだ、と思う。

(違和感がなくなったら、それは忘れる時だから)

 一体どれほどの人が、自分の存在や人生のことについて考えることがあるだろう。原田や中山は、母や父や妹は、考えることがあるだろうか。考えて尚、顔に出さずにいるのだろうか。戸惑いを覆い隠して、平然と日々を送っているのか。

 誰もがそれぞれに1人なのか、俺だけが1人なのかわからない。……でも、そんなことは実際はどうでもいいのだという気がした。自分さえ良ければそれでいいとまで割り切ることは、まだ、いや、これからも、できそうにないけれど。

 深海にいる。

 冷たくて苦しくて、まるで周りに誰もいないかのようだけれど。「俺」を忘れていない俺には、きっとまだ何かが見えている。……のかもしれない。


 光差す、ここは明るい深海なのか。

 

 目立ちたいわけじゃない。ただ、誰とでも同じなのは嫌で、自分は人と違う部分を持っていると、まだ信じていたいのだ。まだ、……消えたくない。それだけなんだけどな……。

 がらがらと洗面台のすぐ横の引き出しを開けて、ハサミを取り出した。こうして持ってみると、思っていたよりも軽い。

 母親に髪を切ってもらっていた頃に使っていた銀色のハサミだった。床に敷き並べた新聞紙。服を脱いでご機嫌の夏目は何かを口ずさんでいて、母に「動かないで」と笑われる。もう大昔のことだ。太古の昔、恐竜が大地を歩いたり、陸地に植物が生い茂ったりする、それよりもずっとずっと遠い過去のことのような気がした。

 あの頃にはどんな概念だってなかったはずだ。きっと。どんな言葉だって痛くなかった。

 ──「似合う」?

    知らない。

 ──「似合わない」?

    知るものか。

 ──切っちゃうよ? 切っちゃいますよ?

    うるさい……っ。

 自分が良くたって、誰も認めてくれないことがあるように。そしてそれに傷つくのと同じぐらいに。誰が気に入ろうが、誰に気に入られようが、似合っていようが、似合っていると言われようが、自分には納得できないということがあるんだと思う。本当は全部の自分に対して誠実でいられたらいいけれど、でもそれは難しい。あれもこれも全てを取ることなんてできない。人の手とはなんて小さいのだろう。人の心とは、なんて、なんて。

 長らく刃を動かしていなかったハサミは、手で押し開くと固い手応えがあった。茶色い何か汚れがついていると思ったら、錆だった。じゃっ、じゃっ、と数回開閉する。大丈夫、まだ使える。

 鏡の中の冴えない自分はぐっと口元に笑みを浮かべる。顎を引いて、平気だと言うように。意外と鋭い目をしている。このハサミよりもずっと尖って、尖ったままでいることを欲している。……君は今、どんなに迷おうとも失いたくないものを背負っている。

 それなら、鏡の外の俺は、どんな顔をしているだろう。これから先どんな顔をするだろう。

 温度の低い血が流れる体。

 なのに、どこかが薄く淡くそれでいて苛烈に燃えている。そんな気がする。

 多くのことに関してはどうでもいいのだ。その分、ほんの少ししかないけれど確かにある、譲りたくない部分を守ることができたなら。

 夏目は額の辺りの髪を、人差し指と中指でつまみ上げた。




     ✵ ✵ ✵

 



 教室は、まだ電気がついていなかった。

 窓の外から差し込む光がある分、暗さはそこまで気にならない。ただ、一方のエアコンが音を立ててがむしゃらに冷気を吐き出しているので、なんだかバランスが妙に思えた。

「おはよ」

 適当に教室内に放り投げた声は、そんなに響かない。冷やされていく空気に含まれた水分が、全て吸い取ってしまうのか。それともぶつかって弾いて、声のかけらをバラバラな方向に飛ばしてしまうのか。

 それでも、届きはしたらしい。

「夏目じゃん、やっほー」

「今日、早えじゃん」

 窓際の席に横並びで座った原田と中山が、スマホから顔も上げずに応えた。中山が座っているのは中山本人の席だが、原田のいるのは別のあまり喋ったことがない女子の席だ。どうせこんなに早くに来るはずないと思って使っているのだろう。

 確かに教室内には夏目と2人の他にはまだ誰もいない。SHRの始まる1時間も前だ。原田も中山もよく毎日こんなに早く学校に来ているものだ。

「なんで電気つけないわけ?」

「つけたら負けなんだよ」

「なんだそれ」

「だからいっつもオレらの次の人が来るまでは電気つかないんだよねー」

「自分たちでつければいいじゃん」

 夏目は笑いながら自分の机の上に荷物を置いて、黒板横へ歩んだ。冷房の室温設定が24℃になっているのに軽く呆れた。何も言わずに2℃上げておく。

 電気のスイッチを押そうと指を掛けて、何気なしに蛍光灯を見上げた──その時、あ、と思った。

 別に何か特別なものがあったわけではない。原田たちの背後、窓もグラウンドも超えた空一面に、薄い雲が散らばっているのに目を留めただけだ。日常風景には違いないが、少しだけ見惚れるように眺めた。大きな白い羽を無作為に散らしたような斑な雲は、青い空の光を受けてはっきりと輝いて見えた。

 黙り込んで動きを止めている夏目を変に思ったらしい、中山が怪訝そうに顔を上げた。

「なにして……」

 んの?と最後まで言う前に、彼は目を見開いた。

「なっ……そ、それ、どうした?」

「それって?」何のことだかは察していたが、わざと少しとぼけて見せると、中山は真っ直ぐに指さしてきた。「それだよ、その髪!」

「ああ、これ」

 夏目は視線を逸らして、むき出しのこめかみの辺りに触れた。右目の上から耳の横だけ、髪が極端に短い。房の毛先は真っ直ぐな斜線を描く。

「自分で切っちゃった」

 なるべくあっけらかんとした口調になるようにそう言うと、いつの間にかスマホの画面を消してこちらを見ていた原田が「ひどい」と呟いた。

「なんでそういうことするかなー。尻尾の方がまだましかもしれん」

「ね、せっかく普通に戻って良かったのに。ほんとなんでだよ」

 逆光で、2人の顔色はあまりよく見えないが、非難されているのはもちろんわかる。予想していたことでもあったし。自分だって、別にこれが格好いいとか似合ってるとか思っているわけではないから、そんなところにはあまり傷ついたりしない。

 「なんで」って。

 それは……、ううん。自分自身以外に対する説明も弁解も今はしない。人にわかってもらうための言葉に落とし込んだら、きっと本心は形を変えてしまう。細かなところはひしゃげ、欠けていってしまう。

 でも、強いて言うならさ。 

「普通じゃ、だめなんだ」

 ぎざぎざに切れてしまった髪を、後で軽く揃えたのは母親だ。彼女は「それでこそあんただ」と言うように少し楽しそうな顔をしていた。妹も面白がった。それと真反対に、親友2人はこうして圧倒的なバッシングの目を向けた。

 そんなもんかなと思う。それでいいと思う。

 「わかるよ」と心から言ってほしいけど、やっぱり「わかるよ」だなんて口が裂けても言ってほしくない。少しは誰かしらと同じ部分をどこかに持っていたいけれど、全部同じなんて死んでも嫌だ。お揃いだと言って喜ぶぐらいなら、誰ともわかりあえない部分を1人で抱えていたい。自分はきっと、その状態の中で、途方もなく大きな恐怖と寂しさを感じる。でも、それでも。

 はあ……と原田が溜め息をついた。

「お前さあ、そろそろ人に馴染みなよ」

 普通がいやってなんだよ、と中山も呆れた顔をする。

「…………」返せる言葉なんてなくて。

 ううん、と夏目は心のなかでだけ首を振った。嫌なんじゃなくて、だめなだけだ。俺にはまだ。

 まだ割り切ることができない。透明な水を見ている。それを「大人になりきれない」と形容するのだろうか。知らない。知らないけど──。

 考えることをやめたら消えてしまう。

 案外、溺れながら必死で「意味」というものを求めている、それこそが確かに自分の姿だったりするのだろうか。

 真の実在? 実存? ……なんて、もう何がなんだかわからない。それでも日々は続いて、俺は毎秒、1秒分の歳を取る。ちりは積もって、それは一生になっていく。海面さえいつか越えて。

 夏の日よ、もっと照りつけて、あの雲を入道雲にしてしまえ。

「なあってば聞いてんの?」

 知らねーよ、と夏目は笑って空を仰いだ。











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