花羽(ファユィー)

犀川 よう

花羽(ファユィー)

 真実を打ち明けるためのささやかで不思議な出会いの機会は、身近で遠慮のない相手からの提案によってもたらされた。曇りでやや涼しい夏前のことだ。

 わたしは手酷い失恋で何もする気がおきなくなっていた。日本から台湾へと渡ると台北市立動物園でひとり、ガラス越しのパンダたちを眺めながらぼんやりとして過ごすようになっていた。

 そんな状況の中、日本にいるわたしの妹から電話がかかってきた。日本とは違い、大きな着信音を出そうが会話してようが咎める人など誰もいない。ガラスの向こうの住人であるパンダたちも驚いてわたしを見るようなことはせず、せっせと笹を食べたりタイヤを抱きしめたりしている。そんなパンダたちを地元の高齢者たちと眺めながら、わたしはスマホの向こうの妹の声を聞くために画面をスワイプした。

「もしもし?」

「あ……お姉?」

「そう、あなたのお姉だけど」

 やや尖った口ぶりになってしまったわたしに、妹は少しだけ動揺しながらも、わたしに問いかけてきた。

「今、台湾にいるんだよね。――なら、お姉は猴硐(ホウトン)って村、知っている?」

「ええ。たしか猫がたくさんいることで有名な村でしょう? ガイドブックには必ず載っているわね」

 妹はフーンとワザとらしい声を上げてから、クイズを出すときのような少しだけ挑発的な口調で問うてきた。

「じゃあ、その隣にある花羽(ファユィー)って村は知っている?」

 その村の名前に惹かれたのだろうか。あるいは妹のたどたどしい発音に興味が湧いたのだろうか。それとも、わたしたちの会話など何の意味もないとばかりに、タイヤのブランコから滑り落ちて尻もちをついているパンダをかわいらしいと思ったからであろうか。わたしは妹の問いかけに返事をする前に、猴硐駅への行き方を思い出そうとしていた。

「……いいえ知らないわ。せっかくだから、行ってみようかしら」

 なんの意味もなくこの動物園にいることに少し飽きていたわたしは、夜に行く予定だったワインバーにキャンセルのメールをしてから、タクシーで最寄りの台鉄の駅まで向かった。――妹が最後に放った言葉を聞かなかったことにして。


 台鉄の駅に着くと切符を買い、猴硐駅を目指すことにした。たしか瑞芳(ルイファン)という駅でローカル線に乗り換えるはずた。

 うまく電車に乗ることができ、台鉄の無骨な車両に揺られながらスマホで花羽村を検索をした。しかしながら、一件もそれらしい情報が出てこない。類似項目すらひっかからないのだ。近所の村やローカル線の路線名など、キーワードをつけて検索しても同様だった。――これは騙されたかな――。わたしは雲がまるで雪のように積もって空に重くのしかっていく様を車窓からぼんやりと眺めながら、どうしてこうなったのだろう、という気持ちになってきた。日本に置いてきたはずの失恋の傷痕というかさぶたを、思わず手で引っ搔いてしまったのだ。

 恋愛に善人も悪人もいない。誰に何を演じさせたがっているのかで決まるのだから。そんなことはとうに二十歳を超えているのだから理解はしている。わたしは自分も妹も善人役であらねばならないと思っている。悪いのはわたしから妹に乗り換えたあの男だけなのだ。わたしは取られたわけでも、妹が盗んだわけでもない。ただ、あの食べて遊ぶしか取り柄のない男がすべて悪い、悪の権化なのだと思いたいのだ。――せめてあのパンダたちくらいの愛嬌があれば、まだ許せたのに。

 瑞芳駅に着き、ローカル線に乗り換えようとした。週末であるせいなのか、大勢の観光客が乗り換えのために並んでいた。ほとんどが隣国か台湾の観光客のようで、どうやら日本人はわたしだけのようであった。

 ほどなくローカル線の電車がやってきて、わたしは観光客たちと一緒にぎゅうぎゅうの車内へと入っていく。まさかこんなところでラッシュ電車に乗るとは思わなかった。おかげでというにはやや大げさかもしれないけれど、わたしは人ごみに揉まれることで、少しだけ嫌なことを忘れることができた。


 猴硐駅は他の観光の帰りに寄る程度の場所なのか、ここで降りる者はわずかだった。いかにも猫好きな女性や老夫婦とわたしとあと数人だけを駅のホームにおろすと、電車はゆっくりと過ぎ去っていった。

 改札を出ると、猫の村らしく、飾り物からグッズまで猫にまみれていた。本物の猫に会う前だというのにテンションが上がりきってしまった先程の女性は我先にスタンプを押すと、あちらこちらを撮影している。老夫婦は本物の猫がお目当てなようで、それらには見向きもせず、村へとつながる長い渡り廊下をゆっくりと歩いていた。おばあさんの手をしっかりと握ったおじいさんには何の照れもなく、おばあさんのペースで一緒によろよろと歩いていく。――わたしにもそんな人が現れるのだろうか、いや、あの男は遠い未来、妹にもそうしてくれるのだろうか――。この長い廊下のような出口の見えない迷子な気持ちに陥りそうになりながらも、わたしは自分を立て直して、老夫婦の後ろをついていくことにした。数歩進んでは立ち止まらないと追い抜いてしまうようなペースで。

 村の入り口に辿り着くと数匹の猫たちが出迎えてくれた。正確には地面や道路に寝そべっているだけなのだけれど、彼らなりの出迎えらしい。なんの躊躇もなくおばあさんが猫たちを撫でながら挨拶をしている。口調を聞いていると、おそらく台湾の人なのだろう。猫一匹一匹に対して丁寧に語りかけ撫でていく。観光客相手にしても怠け者にしか見えない猫たちだけど、おばあさんたちにはウエルカムのようで、おじいさんに対しても警戒することなく少しずつ寄っていく。わたしはそれを後ろから見ているだけだった。わたしは動物が好きだけれど、動物からはなぜか好かれない。実家で飼っていた飼い猫すら、わたしには指一本触れさせようとしないくらいに動物とは相性が悪いのだ。だから、この老夫婦と猫たちの邪魔をせぬよう、彼らとは別れて花羽村への道を探すことにした。

 うろうろとすること一時間近く、猫と観光客と地元民しかいない山間の狭い街をさまよっていた。日本とそれほど変わり映えのない猫たちにも家や風景にも飽きはじめていたとき、一件の家のドアに貼られた「請勿進入」という文字に目が入った。どこにでもある「進入禁止」のひとつでしかなかった。ただ、ひとつだけ違ったのは、その家の人なのだろうか、わたしより少しだけ年上の女性がそのドアを開け、入るなと書いてありながらもわたしを招くような仕草をしてから、流暢な英語で話しかけてきたのだ。

「花羽にご用かしら?」

 

 ネットにも存在しない、しかも海外の情報を妹がどうして知っているのかはわからなかったが、花羽は実在した。ただし、村の名前ではなく、どうやら人の名前のようであった。

「花羽にご用かしら?」

 女性がもう一度優しく問いかけきた。ピンクのサンダルに短パン、サイケデリックな色合いのTシャツ。長い髪は縛ってお団子に。この国によくある風貌だった。

「花羽とは村の名前ではないのですか?」

「ええ。彼は村の名前ではないわ」

 女性はわたしの耳でも十分に聞き取れる明瞭な声で、Heと言った。やはり人の名前のようであった。

「花羽さんに会うことはできますか?」

 Mr.という敬称がおかしかったのか、女性は笑いながらドアを開け、わたしを正式に家に招き入れた。

 どこにでもある台湾の家だった。しかし、わたしの目の前にはあまりにも特別な光景が広がっていた。花羽と呼ばれてるのは、人ではなく一羽の孔雀であったのだ。

「この子が花羽。あなたが会いたがっていた子」

 女性が何か固形物を手にすると、花羽は静かに寄ってきて、それをつつきながら食べていた。時折羽を少しだけばたつかせながら食べる様がとても優雅に見えた。

「で、あなたは花羽とどんなお話をしたいのかしら?」

 わたしでもわかるような単純な単語の羅列。でありながら、わたしはその意味も意図も理解できずに困惑していると、女性は何かを察したようで、わたしに説明をしてくれた。

「彼、人間の相談に乗ってくれるの。そして、その反応によって瞳や羽の色を変えて答えてくれるの。――あなたは失恋した。だから花羽に会いにきた――。そう顔にかいているから、説明はこれでいいはずよね」

 「かいている」という単語に女性の優しい気持ちが乗せられているようで、わたしはすんなりと事態を受け入れることができた。だから、わたしは女性に「花羽と話してみたい」とお願いしてみた。女性は「オーケー」とだけ言うと、あのドアから出ていった。


 リビングと呼ぶには広いながらも簡素なスペースだった。一脚の椅子と孔雀の花羽とわたしだけのいる、とても不思議でそれでいながら落ち着く空間だった。花羽はじっとわたしを見ているだけで、動こうとはしない。

 わたしは三歩進んで椅子に寄り座ると、花羽もまたわたしに並行するように移動をし、座っているわたしの正面に立った。わたしが花羽の目を見ると、彼の瞳は漆黒の闇から、琥珀のような金色へと変わった。――さあ、あなたが言いたいことを言ってごらんなさい――。わたしはその変化を見て、心の中にそんな言葉が落ちてくるのを感じた。もう一度、花羽を見ても何も答えてはくれない。ただ、その魅力的な金色をわたしに向かって放っているだけであった。

 わたしは花羽の瞳に吸い込まれるような気持ちを感じながら、言葉を漏らしてみた。最初に出た言葉は、自分でも驚くくらいに醜く、そして、なさけないものだった。

「――くやしかったの」

 あとは堰を切ったように、わたしの口から呪詛という感情が流れ出ていった。誰が悪いとか妹が心配だとか、そんなことを話そうと思っていたのに、びっくりするくらいに子供のような感情丸出しの喚き声しか出てこなかった。

「あんな男でも、妹に、妹にだけは取られたくなかったの。ただ、それだけなの。この惨めな気持ちは、たったそれだけでしかないの。ええ。馬鹿みたいに幼稚な気持ちだったのよ」

 花羽を見る。あの孔雀らしい細やかな文様は消え失せていて、真っ黒な、本当に汚らしい真っ黒な羽に変わっていた。花羽ただそれを広げてわたしに見せつけた。呆然として見ているわたしに向かって、何の恥じらいもなくそのどす黒い羽を広げると、花羽は静かに泣きはじめた。黄金の瞳は元の漆黒に戻り、もはや真っ黒で大きなカラスにしか見えない花羽は涙を流しているのだ。ただ静かになにも言うことなく、人間と寸分たがわぬ透明な涙を床に落としている。

 わたしは椅子から立ちあがると、床に膝をついて花羽を抱きしめようとした。すると理解してくれたのか、花羽は真っ黒な羽をたたみ、わたしの醜さを受け入れようとしてくれた。だからわたしは、「くやしい」という断末魔の叫びを繰り返しながら、まるで幼子のように泣いた。わたしの胸に包み込まれた花羽は、「ごめんね。でも、今まで何をやっても敵わないお姉から奪えるものができて、あたしはうれしかったの」と、あの電話の最後で泣きながら言っていたことを、わたしの胸の中へと送り込んできた。

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