野に羽ばたいた仲間とともに
『私立伝染病研究所』という新たな活動の場を手に入れた柴三郎は、そこで再び研究に明け暮れる毎日を過ごし始めました。
東大を始めとするアカデミックな業界からは睨まれていても、やはりそこは『世界のキタザト』。圧倒的な業績のある彼ですから、その門を叩く研究者は意外と多く、また柴三郎自身も意欲的な研究者……特に『実学』を大切とする自身と芯を同じくする者に対しては門戸を広く開け様々な人材を受け入れました。
こうして、次の年には研究所は早々と手狭になり、より大きな場所へと移転することとなったのですが………。
移転先となった新たな研究所では、思わぬ妨害を受けることになります。
「彼らはここで、ひどく危険で有害な研究をしている」
などと、謂れのない噂を立てられ、なんと東大総長らまでが加担しての近隣住民の反対運動に遭い、窓には石を投げ込まれることさえあったそうです。
しかしここでも、福沢諭吉は北里を献身的に支えます。
なんと、福沢は自身の次男を研究所近隣に建てた別邸に住まわせ、「彼らの研究は安全なものです」と実施を
時は明治27年────
ここで北里と伝研にとって大きな出来事があります。
当時、死の病『黒死病』として猛威を振るっていたペストが海外で大流行。日本政府はこれを水際で阻止すべく、感染著しい香港の地へ調査団を派遣することとなりました。この時に北里は調査団の一人としてメンバーに選ばれております。
そして、当然日本医学界の実質的なトップ組織である東大側からも調査員は選出、その中に……後に因縁浅からぬ関係となる『
日本調査団の香港での調査活動は2チームに分かれて実施されることになります。
青山胤通を代表とするチームと北里率いるチーム、共に患者から病気の原因となるものを突き止める作業に入りました。
………しかしその最中、『青山胤通』は自らもペストに感染、生死の境を彷徨うことになります。
一方、北里チームはペスト患者の患部より膿を摘出、その中からペストの原因菌と見られる物を発見、その後、血清の製作に着手します。
製作した血清が有効(腺ペストのみ)であることがわかると、北里はその感染源と経路についても調べ上げ、すぐに日本国側に対して感染予防策をまとめ提言するに至りました。
………ここでも北里の『実学』主義が光ります。
研究者としては、原因菌の特定が出来れば万々歳。大手を振って凱旋帰国で、あとは他の研究者と政治家の皆さん対策案の検討よろしく~、で済ませてしまいそうなところ。
彼の唯一無二たる真価……即ち、病原菌の特定から純粋培養方法とその血清の製造(臨床対処手段)、感染ルートの特定とその根本原因の究明までも果たし、更には対策案……実際の行政側への具体的な対応方法(予防手段)までも併せて作り上げたことにあります。
───当時の主なペストの感染源は『ネズミ』であったとされ、日本ではネズミの駆除を積極的に実施、ネズミの買上げや猫を飼うことまでもが奨励され、全国民一丸となってその感染防止に努められました。
……この一件では当時、青山胤通と親交の深かった森鴎外が自身の著書の中で、「北里の発見したペスト菌なるものは偽物である」などと持論を載せています。このあたりから、東大教授陣をはじめとするエリート層と北里との対立構造が顕著になり始めていきます。
───森鴎外はその後、明治40年に、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、帝国陸軍省医務局長(陸軍軍医のトップ)に就き大正8年まで務めました。
彼は、当時多数の死者を出していた『脚気』の対策として発足していた『臨時脚気病調査会』の会長でありながら脚気の原因究明にあっては日和見的でありまた、原因を『栄養欠乏』とする説にも懐疑的な立場でもあったのです。そのため、『実学』を旨とする北里とは意見が食い違うことになったとされています。
※『脚気菌』で検索すると興味深い当時の状況が紐解けます。
※ちなみに、この『臨時脚気病調査会』は正に当時の知の偉人揃い踏みといった錚々たるメンバーが集っています。
その後も、北里の研究所は順調に活動の幅を広げ、明治32年には「私立」であった研究所に国からの予算が投入されます。本懐である「予防医学」の実現には行政との連携は不可欠、この働きかけは北里の考えとピタリ一致するところでもありました。
北里は「私立伝染病研究所」を快く国へ寄付、「国立伝染病研究所」と名前を変え、内務省の管轄となりました。
これにより北里は、本懐でもあった国のため人民のために、今の「予防医学」の礎となる伝染病予防と細菌学に全力で取り組んで行くことになるのです。
…………………………
このあたりの時期、行政側でも北里の強力な支援者となった衆議院議員であり内務省衛生局長でもあった『長谷川泰』という人の存在があります。この方、現在の日本医師会の源流となる「医師会法案」を当時の国会に提出しているのですが、ここでも出てくる『青山胤通』『森鴎外』等の猛烈な反対に遭い廃案にさせられたりしています。
この『長谷川泰』という人の近辺も私怨と裏切りが渦巻いており、ドラマが一本できそうなほど内容の濃い人生を歩んでおられます。ご興味のある方、どうぞ調べてみてくださいね。
…………………………
北里の元に集う研究者は依然多く、いよいよこの研究所も手狭となり明治39年、伝染病研究所、血清薬院、痘苗製造所の三部門の入る国立伝染病研究所としての新たな建物が作られることとなりました。
北里は、かねてより予防医学の知見に基づき……伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき──との信念がありました。そのため、研究所は内務省所管ということに納得した上で研究にあたっていたのですが………。
そこに、衝撃が走ります。
大戦の影が忍び寄る大正3年のこと。
突如、下された通達。
北里が所長を務め内務省の所轄であった伝染病研究所が、前触れも
これは北里の理念とは反し、衛生行政から切り離され、実質、医者の養成所の付属物にされてしまうということでもあったのです。
当然、北里は納得できるはずもありません。これに猛反対します。
予防医学とは、行政とともに一体となって遂行されなければ決して為し得ない人命に関わる事業なのです。あちらの教授がどうの総長がこうのと背比べをやっているような権威主義者の東大連中の下部組織では、本懐が遂げられないのは火を見るより明らかだったからです。
そして、こともあろうに文部省移管後の国立伝染病研究所所長として指名されていたのは……あの『青山胤通』だったのですから。
この決定には、長年に渡る東大教授陣と北里柴三郎との個人的な確執と、なお続く大学側との反目が背景にあると言われています。
…………………………
────使者からの知らせを受け、北里は一人、熟慮を重ねていた。
因縁浅からぬ、あの青山の軍門に下れ、とお上は言っているわけか。
なるほど、それで医の道が全うできると云うのなら
だが、事ある毎にこちらの提案の足を引っ張る真似をしてきたあの男の元で、これまでのような研究ができるとは到底思えない。東大側の魂胆が透けて見えるようだ……。
現に、先程来た使者の言────
「………東大の所轄となれば、教授の椅子は決まったようなものです。ゆくゆくは総長さえ夢ではありませんよ。なにしろ、北里先生ほどの業績のある者など我が校には一人もいないのですから、はっはっはっ────」
………開口一番出てきたのは、研究でも衛生行政でもなく、肩書の話だった。
儂の研究所は金看板の為にあるのでは無い。一体、何を見てものを言っているのだ、上の連中は。
大学側は、この儂を何が何でも足元にひれ伏させなければ気が済まんのだろう。
くだらぬ……こんなくだらないことに精を出しおって、
自分たちの下らない権力争いに、儂の弟子たちを……医学までをも巻き込もうなど………!
………教授の椅子だと?
青山の下でそれに座って、儂が喜ぶとでも思っているのか。
そんなもの欲しがる奴にくれてやれば良い。
儂が望むのは人々の安寧だ────
それが、分からんのか
愚か者どもが……!!!
北里の脳裏によぎったのは、故郷での記憶
熊本医学校でマンスフェルトに出会い
初めて顕微鏡を覗かせてもらった時に感じた
高揚感と使命感───
と同時に浮かぶ、
幼くして病で亡くなった、三人の兄弟姉妹
そして、故郷の多くの子供たちの顔
コッホに師事し、ノーベル賞もかくやと言われ、
血清療法を開発し、臨床実績も重ねた
これで、ようやく多くの命が救えると感じたあの時………
………それが、こんな下らない泥試合に巻き込まれ、
権威の見せ合いに成り下がった医学界の腐敗の、片棒を担がされるのか
こんなことのために………!
「───儂は……こんなことのためにっ……医の道を志したのでは無い──!!!」
…………………………
北里は悔しさに、涙を流し────叫んだことでしょう。
しかし、北里率いる研究所には今現在を以て多くの弟子と研究員、血清製造所の作業員、そして実験動物となる家畜を飼育してくれている多くの牧夫作業員たちまでもが在籍しているのです。
ここで、自分の意志を貫き研究所の方針として上と対立することは、彼らを路頭に迷わせることにもなります。
たとえ文部省所轄の東大下部組織になったとしても、就労場所としてみれば申し分のないところでもあるのは事実。ならば彼らには、このまま研究所に残ってもらうのが今後のためにもいいだろうと。
────北里は決断しました。
「私は、今日きっぱりと所長の職を辞し、自らの信ずる道を歩むこととした。私はここを去るが、諸君らは今後も研究所に残り医学の発展のために奮励されることを願う───」
北里の去った国立伝染病研究所……。
翼をもがれた北里の、最期。
しかし、事態は東大側の予想を超えた動きを見せました。
後日、北島多一、志賀潔らを始めとする研究所の要職が一斉に辞表を提出するという事態に発展……。
最終的に、研究所末端の血清製造所作業員や家畜飼育の農夫に至るまで、ほぼ全員が一斉に、下野した北里の元へ馳せ参じたのです。
後に、『伝研騒動』とよばれる出来事でありました。
…………もぬけの殻となった研究所の初代所長となった青山の顔を、私は見てみたかったと、密かに思っている────。
当時の、北里の日記に記されていた言葉……。
『──医の志と研究を全うするため、小さくとも研究所を建て、そこで馬を飼ひ※、独立せんとす──』
例え、大学や政府の後ろ楯が無かろうとも、研究と『実学』の意思を曲げず一人ででも全うしようとする、彼の意思が伝わってくるようです。
(※馬は、血清療法の研究のために細菌を注射する実験動物として一般的でした)
───そして後年、北里の右腕であった北島多一の側近の手記からは、当時の興味深い記述が見つかっています。
…………北島博士から、「当局への血清の追加製造の許可願いを提出するので清書を頼む」という指示を受けた、というものです。
これは北島が北里の意思を事前に察し、血清を追加製造して資金を稼ぎ、師の下野独立に際しての費用の足しにしてもらおうと画策していたのではないか、と考えられています。
………………………………
再び在野の人となった北里は、私費を投じて『私立北里研究所』を設立。
………そこで、仲間や弟子たちと共に、思うがままに研究に明け暮れる日々を送ることとなりました。
北里研究所でのその後の業績は、狂犬病、発疹チフス、赤痢などの血清開発に貢献。北里本人も研究者人生を全うすることとなりました────。
恩人でもあった福沢諭吉の没後──。北里は慶應義塾大学医学部の初代学長となり、その大恩に報いるため生涯無給でその役を果たしたという。
千円札の肖像に選ばれ、今後は彼の人生と業績が再び脚光を浴びることとなるでしょう。なぜ、ここまで採用が遅れたのかという答えは、一凡人の私にはうかがい知ることはできませんが……。もしかして、あの時の遺恨がまだ尾をひいているのかな、などと想像してしまう私であります。
しかし、その意志は「医は仁術」を体現する、崇高なものであったと思います。
それがために、例え下野した身であっても彼の元には弟子が全員ついて行った、という逸話が残っているのです。
そして、文中では悪役扱いしてしまった青山胤通と森鴎外ですが、彼らもまた数々の叙勲を受けるほどの立場の人間であったことは間違いありません。
あまつさえ、北里が東大派閥の敵であった事に関しては言わずもがな────
あちらを立てればこちらが立たず………。
偉人ともなれば、その下には多くの人が列を成しているものです。
特に、森鴎外は古くから地位を確立していたという事情もあります。意見の対立した北里を是とし世に喧伝するには、多くの人間に不都合な真実があったのではないか、というのが私の勝手な想像であります。
いとしのドンネル 天川 @amakawa808
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