【完結】夏空に放物線を描いて消えた恋(作品240502)

菊池昭仁

夏空に放物線を描いて消えた恋

第1話

 牧草の匂いと風にあおられて揺れる草の波間。

 僕と花音かのんはそこへレジャーシートを広げて大の字になり、コットン・キャンディのような積乱雲を眺めていた。


 「空ってこんなに広かったんだねー?」

 「そうだよ、このまま吸い込まれてしまいそうだな?

 普通の生活ではこんな贅沢な空の鑑賞は出来ない、まるで昼間のプラネタリウムを見ているみたいだ」

 「いつも当たり前のように見ている空も、こんな風に見ると何だかとても素敵よね?」

 「ああ、夏空っていいよなあ」

 「うん、好き。夏空も竜馬も」


 花音は僕の手を探り、僕と手を繋いだ。


 「こうして空を見ていると、ふたりで空を飛んでいるみたい」


 僕は上体を起こし、花音を見詰めた。

 眼を閉じる花音。

 僕は花音にやさしくキスをした。


 その時、遠くで放牧されているホルスタインの鳴き声が聞こえた。

 その牛の鳴き声を聞いて、僕と花音は大きな声で笑った。

 つむじ風が吹いて、彼女の薄いグリーンのスカートがめくれた。

 慌ててスカートを抑える花音。


 「見たでしょう?」

 「見てないよ」

 「うそ、絶対に見た!」

 「白いパンツなんて絶対に見てないよ」

 「ほらやっぱり。うふっ」


 僕たちはまた、楽しそうに笑った。

 真夏の高原に、ふたりの笑い声が響いた。

 そして今度は花音も起き上がり、私をじっと見つめて言った。


 「私のこと、好き?」

 「凄く好きだよ、愛している」

 「私のどこが好き? 具体的に言って」

 「かわいいところ」

 「それから?」

 「字がきれいなところ」

 「それからそれから?」

 「そういう、質問攻めにするところもみんな好きだよ、花音」

 「私はね、あなたのことがもっともっとずっーと好き。大好き!

 この大きな空よりも好き。ねえ、キスして」


 僕は花音を強く抱き締め、花音と口づけを交わした。




 それが8年前の夏のことだった。

 花音は永遠の旅に出掛け、僕は独りぼっちになってしまった。

 そして今年も、8度目の夏がやって来た。



 「どうしたの? 田中係長。黄昏ちゃって。

 もうお昼休みは終わったわよ」

 「すみません課長。社食で少し、食べ過ぎました」

 「前田さんが亡くなってから、もうすぐ8年ね?

 短いような、長いような・・・」

 

 花音とは同じ職場の同期だった。

 私たちが付き合っていることは周知の事実だったので、柴田課長もそれを知っていた。



 「ねえ係長。今夜、ふたりで「前田さんを偲ぶ会」をしない? デパートの屋上ビアガーデンで」

 「柴田課長とですか?」

 「私じゃイヤ?」

 「そうじゃありません。課長は家でも忙しいと思ったからです」

 「大丈夫よ。それに今日は何だか飲みたい気分なの。

 じゃあ後でLINEしておくわね?

 さあ、それじゃ夜のビールが美味しくなるように、さっさと仕事を片付けましょうか?」

 「はい」




 僕たちは別々に会社を出て、銀座のデパートの屋上ビアガーデンで待ち合わせをした。


 僕が課長を探していると、課長が手招きをしていた。

 すらりと伸びた長い脚。会社では髪をアップにして留めているので忘れていたが、会社での飲み会の時のように、美しい黒髪を下ろした柴田課長は、まるで女優のように輝いていて、周囲の客たちも振り返るほどだった。



 「まずは大ジョッキで乾杯しましょう。おツマミはやっぱり枝豆と熱々の唐揚げよね?

 すみませーん! ナマ大2つに枝豆と唐揚げを下さい」



 僕と課長は大ジョッキを両手で持ち、花音に献杯をした。


 「天国の前田さんに、献杯」

 「ありがとうございます」


 私たちはゴクゴクと喉をならしてビールを喉へ流し込んだ。

 都会のぬるい夏の夜風が、より一層ビールを美味しく感じさせた。

 ビールを飲む度、課長の白くて細い喉が上下し、それがとてもなまめかしく思えた。



 「あー、仕事の後のビールは最高ねー。

 お風呂上りだともっといいんだけど。うふっ」


 柴田課長は悪戯っぽく笑ってみせた。


 「今日は誘っていただいて、ありがとうございました」

 「ううん、今日は私が飲みたかっただけ。独りで飲む気分じゃなくてね。

 ごめんなさいね? 前田さんを出汁にしたみたいで」

 「いえ、わざわざすみません」

 「まだ彼女のこと、忘れられない?」

 「はい」


 私は素直に頷いた。


 「前田さんはしあわせよね? 8年経っても忘れないでいてくれる恋人がいるなんて。

 でもそれってどうなのかしら? ずっと思われていられるのって。

 私ならイヤだけどなあ。ちょっと重いかも。私のせいでしあわせを放棄している彼って。

 私が恋人だったらの話だけどね?」


 そう言って課長はまたビールを飲んだ。

 私の時間はあの時から今もずっと止まったままだった。


 「僕、他の女性には興味が湧かないんです。花音の時のように心がときめかないんです」

 「そう。係長はまだ若いしね? じっくりと描けばいいんじゃない? これからの未来予想図を。未来予想図?をね?」


 課長は枝豆を口にした。

 ハワイアンの生演奏とビル風が心地いい。


 「私もね? 北海道での学生時代に好きだった人がいてね? 山の好きなひとだった。

 もう死んじゃったんだけどね? 冬山で」

 「初めて聞きました、そんな話」

 「だから立場は違ってもわかるの、係長の気持ちが。

 私は彼を忘れるまでに7年かかったわ。新しい恋を始められるようになるまで。

 でもね、今でも彼のことは忘れられない・・・」

 「その時の新しい恋人が今のご主人ですか?」

 「ううん、今の主人はその次、二番目。

 彼が死んでから付き合った人とはやっぱり駄目だった。どうしても死んだ彼と比べてしまうのよ。彼ならこう言う筈だとかね? だって、寂しくて付き合った人だったから。

 そしてその後、冷静になって結婚したのが今の夫。

 でも結婚して10年も経つと、ひとりでもよかったかなあ、なんて考えることもあるわ」

 「そうだったんですか? 恋人が死ぬって辛いですよね?

 自分はどんどん年を取って行くのに、彼女は年を取らずに僕の思い出の中で、美しいまま生き続けているんですから。それが辛いです」

 「私なんか女だから特にそう思うわよ。こんな仕事と家庭でボロボロの私なんか、絶対に彼には見せたくはないもの」

 「最近なんです、テレビを見て笑えるようになったのは」

 「人間って不思議よね? ここにいるみんなもいつかは必ず死ぬのよ。

 あのかわいいバイトちゃんも、あそこの禿げたオジサンも。そしてその隣のイケメン・サラリーマンたちもみんな死ぬのよ。そして私も係長も。

 人間ってどうせ死んじゃうのに、どうしてこんな辛い人生を生きているのかしら?」

 「どうしてなんでしょうね?」

 「私にもわからない。生きなければいけないのは何となくわかるわよ、寿命が来るまで死んじゃ駄目だってことも。

 でもそれが何故そうなのか、その理由が私にはわからない。

 すみませーん、お替りくださーい! ナマ大ふたつ!

 ほら、もう温くなったでしょ? 係長も早く飲んで飲んで! 今日は無礼講なんだから!」


 花音が死んだ時、僕は無意識に死のうとした。

 でも出来なかった。

 そしてそれが出来ない自分を僕は責めた。



 その日、課長はかなり気持ち良さそうに飲み続けていた。


 「じゃあそろそろ帰りましょうか?」

 「はい」


 テーブルを立ち、課長と私は屋上のすみから銀座の街を見下ろした。

 頬を夜風が撫でてゆく。



 「田中君、いえ竜馬。ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

 「何でしょうか?」

 「あなた、その死んだ私の彼に似ているの。

 今まで黙っていたけど、もう限界・・・。

 私の名前を呼んでくれない? 私の下の名前を」

 「景子・・・、さん」

 「そうじゃなくて! 「さん」はいらない!」

 「景子」

 「慎也!」


 課長は僕に抱き付き、キスをして泣いた。

 そして僕も課長を抱き締め、思わず叫んでしまった。


 「花音!」


 デリカシーのないクラクションの音が、夜の銀座四丁目の交差点に響いて虚しく消えた。




第2話

 「竜馬、今夜だけでいい、今夜だけでいいからお願い、私の、私の慎也になって欲しい」


 僕は極めて自然に、黙って静かに頷いてみせた。


 「その代わり、私も係長の花音さんになってあげるから」




 エレベーターに乗り、僕たちは唇を重ねた。

 それはとても甘く、切ないキスだった。




 腕を組み、僕たちは夜の銀座を歩いた。


 「ねえ、慎也って呼んでもいい?」

 「どうぞ、いいですよ」

 「私のことも下の名前で呼んでね?」

 「わかりました。景子、さん・・・」

 「あはは 何それ、小学生の学芸会じゃないんだから」

 「すみません」

 「何も謝ることはないわよ。これはお遊びなんだから」

 「はい」

 「ずっと会いたかった。もうどこへも行かないでね? 私だけの慎也でいてね?」

 「もちろんだよ。もう景子を独りぼっちにはしないよ」

 「絶対によ? もう絶対に私をひとりにしないでちょうだいね?

 私ね、悲しくて寂しくて、死んじゃいそうだったんだから。慎也のバカ!」

 「ごめん景子、今まで辛い思いをさせて」


 僕はまるで花音に話しをしているようだった。

 課長は僕の腕にしがみついて甘えた。


 「慎也・・・、大好き」


 そして柴田課長は泣いた。

 僕はその時、花音のことを想い出していた。



 その日、花音は東西線の茅場町駅で電車を待っていた。

 花音からメールが届いた。


  

     これから電車に乗るね?



 そこへ白杖はくじょうをついた目の不自由な老婆がホームを慎重に歩いていたらしい。

 危なげなその老婆を誘導してあげようと、花音はその老婆の元へと近寄った時、バランスを崩して老婆がホームから転落してしまったという。

 電車の来る音が近づいて来ても、誰もその老婆を助けようとはしなかった。

 駅員が非常停止ボタンを押した。

 花音はその老婆を助けたい一心でホームから飛び下り、老婆を助けようとした。

 小柄で華奢きゃしゃな花音がだ。

 助けることなど出来るはずもないのに、花音は咄嗟とっさにその行動に出たのである。

 みんなが見て見ぬふりをしている中で。


 花音はその光景から目を背けることが出来なかった。人として。

 それは罪ではない筈だった。花音が自分の命を優先したとしても、誰もそれを咎める者はいないのに。

 どうして見ず知らずの老婆を助けようとしたんだ、花音。

 遅かれ早かれ先に死にゆく老婆を、何で花音が助けなければならなかったんだ。


 そして花音と老婆は死んだ。

 老婆を助けることも出来ず、僕を残して花音は死んだ。

 花音はそのやさしさ故に、自ら命を落としたのだ。




 汐留にあるシティ・ホテルの部屋に入ると、柴田課長は待ち焦がれたように僕に激しくキスをした。

 それはまるで上質なトリュフチョコレートのように僕を蕩けさせるキスだった。

 ブラの上から触れた乳房は、少し硬い弾力があった。


 「あ うんっ・・・」


 それはいつもの課長からは想像も出来ない、くぐもった声だった。


 「慎也、一緒にシャワーを浴びましょうよ。今日は私が洗ってあげる」


 僕と課長は各々服を脱ぎ始めた。

 課長は黒の下着を身に着けていた。


 (黒? 会社で着替えたのだろうか?)


 それはまるで今夜を意識したかのような、薔薇の花をあしらった刺繍が施されているランジェリーだった。

 つまり課長はこうなることを既に計算して僕を誘ったことになる。


 「慎也、ブラのフォックを外して」


 僕は恐る恐る背中のフォックに手をかけた。

 課長は自分でパンティーを片足ずつ脱ぐと、それを丸めて服の下に隠した。

 パンティーのその部分は室内のダウンライトに照らされ、既に濡れた部分が光って見えた。



 浴室に入ると課長はシャワーの温度を左手で確かめ、僕にそれを優しくかけてくれた。


 「熱くない?」

 「大丈夫です」


 すると課長はスポンジにボディーソープを付けて自分を洗い始めると、その石鹸の付いたカラダを僕に押し当て、ポールダンスのように腰を上下させた。

 はち切れそうになった僕のペニスを課長が握ると、その手をゆっくりと動かし始めた。


 「もうこんなになっちゃって」

 「すみません・・・」


 課長は僕の耳元で、吐息まじりにそう言って僕を挑発した。

 僕はやさしく課長の花弁に触れてみた。

 そこにはシャボンとは違う感触の「ヌメり」が存在していた。

 忘れていた女の温もり。


 「あん・・・」


 課長は僕のカラダに付いた石鹸を洗い流して膝をつき、僕のそれを口に含んで舌を絡ませて来た。

 それはやがて次第にエスカレートして行き、課長は口をつぼめると、ジュポジュポと淫らな音を立てて僕のそれをしゃぶってくれた。

 酒を飲んでいたせいか、僕は少し遅漏ぎみになっていた。


 「さあベッドへ行きましょうか?」

 「はい・・・」


 僕たちは入念にバスタオルでカラダを拭いて、ベッドに上がった。


 「さあ来て、慎也。そして何もかも忘れさせて・・・」


 僕は横たわり、両手を広げる課長に激しくキスをし、乳房を強く揉んだ。


 「あ はあ はうっ いいわ、もっと強くよ、そう、もっと激しくちょうだい! うあっ あ あ・・・」


 僕は耳、うなじ、脇の下へと舌を這わせ、乳首を軽く甘噛みし、それを舌で転がして時々強く吸ったりした。

 そしてその間も右手はもう一方の乳首を摘まんだり、乳房を揉んだりした。



 「んんん はっ ふう・・・ あ あん、ふううう・・・」


 次第に課長の吐息が荒くなって行った。僕は舌を下腹部へと移動させ、正確にクリトリスを捉えることに成功した。

 そしてそれを焦らすようにゆっくりと舐め続けた。

 課長はそれに敏感に反応した。課長のそれはちょうど小豆あずきくらいの大きさになり、すでに硬く、コリコリとした感触があった。

 アイスクリームを舐めるイメージでそれをねっとりと舐め回し、右手の中指をそこへそっと侵入させ、Gスポットを攻め立てた。


 「あ うんんんっ もう少し下・・・。そう、そこよ、そこなの、あうっつ」


 僕は更に興奮し、課長に指示されたように課長の名前を呼んだ。


 「景子、このまま入れるよ」


 と僕は宣言し、課長のそこにペニスを宛がうと、それを一気にヴァギナへと突き立てた。


 「あうっ 太い、壊れそう!」


 僕は痛いのかと勘違いをし、そのまま動きを止めた。


 「止めないで、とてもいいの、凄くいいのよ、もっと激しく突いて欲しい・・・」


 僕はその中断していた動作を再開し、僕と課長は行為に没頭して行った。


 「はあ はあ はあ はあ・・・」


 僕も次第に息が上がり始めていた。

 課長の蜜壺の中で、僕の肥大して硬くなったペニスが暴れていた。


 「慎也、慎也、イキそうよ、はあ はあ イキそうなの・・・、うっううう・・・来て」

 「景子、一緒だよ、同時にイクよ!」

 「うん、もうダメか、も・・・。イク、来そう、来そうなの、そのまま出してえええ!」

 「花音っ!」


 僕はその時、目を閉じ、思わず花音の名前を叫んでしまった。

 僕はかなり溜まった精液を、課長の中に放出した。

 脈打つペニス。


 ドクン ドクン


 規則正しく送り出される精子に呼応するかのように、課長のヴァギナも収縮を繰り返していた。



 「慎也。あ、い、してい、る、わあ・・・、はうっう」


 と課長は両足をピンと張って爪先を内側に曲げて快感を貪っているようだった。




 やがて痙攣けいれんが収まると、課長は僕に言った。


 「ありがとう、竜馬」

 「すごく素敵でした、柴田課長はとても美しい」

 「ありがとう、これでやっと願いが叶ったわ。

 慎也は冬山で遭難して、遺体が出て来たのは雪が融けはじめてからだった。 

 まるで眠っているようだったわ・・・」


 そして課長は私を強く抱き締め、嗚咽おえつした。



 「私も竜馬と同じなの。本当は誰も愛せない。彼が死んだあの日からずっと私の時間は止まったままよ」

 「僕ももう愛し方を忘れてしまいました」

 「ねえ、これからも寂しくなったら会ってくれない? さっきは今夜限りって言ったけど」


 僕は「Yes」という代わりに、先ほどの行為の復習を始めた。

 課長の喘ぎ声が再び部屋を彷徨い始めた。

 それはお互いの寂しさをを満たすだけの、「愛のないSEX」だとわかっていても。


 そして僕たちはいつの間にか、深い眠りへと落ちて行った。




第3話

 「今日はホテルじゃなくて、竜馬のマンションでもいいかしら?

 ホテル代が勿体ないでしょ?」

 「別にかまいませんよ」



 僕は初めて自分のマンションに花音以外の女性を招き入れた。

 花音の位牌は花音の実家にあったが、花音のフォトスタンドにはロウソクと線香、お供えと花を毎日手向たむけ、リビングボードに安置してあった。

 課長はロウソクに火を灯し、線香を立て、花音の遺影に静かに手を合わせてくれた。


 「ありがとうございます」

 「いいわね? 前田さんは歳を取らないからずっとキレイなままで」

 「珈琲でいいですか?」


 僕はスーツの上着を脱いでキッチンに立った。


 「珈琲じゃなくて、お酒がいいなあ」

 「ビールとウイスキー、どちらにします?」

 「それじゃあウイスキーをロックで」



 グラスをふたつ用意して氷を入れ、『山崎』を注いだ。

 ウイスキーを注ぐとジュエルアイスの透明感がさらに増した。

 私と課長は静かにグラスを合わせた。

 課長がウイスキーを口に含むと、僕にそれを口移しで飲ませてくれた。

 課長の甘い味と、微かなルージュとウイスキーの芳醇ほうじゅんな香りがした


 「凄くしあわせ。こうして竜馬といると何もかも忘れることが出来るわ」

 「景子さん・・・」


 私たちは寝室へと移動した。



 「すみません、今朝起きたままで。今、シーツを新しい物に替えますね?」

 「いいわよこのままで。どうせ汚してしまうんだもの、私とあなたの体液で」

 

 私はその「体液」という課長の言葉に欲情し、激しく課長を求めた。

 課長もその僕の行為に呼応した。


 課長がスキンが嫌いだということもあり、課長とのセックスはコンドームは使えなかった。だから避妊はいつも膣外射精が殆どだった。


 「あ あ あ 今日は大丈夫だから、はあ はあ あう お願い、そのまま欲しいの」

 

 柴田課長はそう言って白いシーツを手で掴んだ。

 だが私はその課長の願いに応じようとはしなかった。

 それは課長にはご主人もお子さんもいて、家庭があったからだ。

 万が一にも妊娠させてはいけないと思った。

 私は射精の寸前で素早くペニスを引き抜き、精液を課長の下腹部にかけた。

 課長はがっかりしていた。


 「中に頂戴って言ったのに。竜馬のばか」


 私は課長の腹に放出したザーメンを丁寧にティッシュでぬぐい取った。


 「ありがとう」

 「いえ、すみませんでした、中に出さなくて」

 「でも竜馬のそういうところ、嫌いじゃないけどね?」


 課長はそう言って私のカラダを抱きしめてくれた。


 「あったかい。人のカラダってこんなにあたたかいものなのね?

 あなたの心臓の鼓動が聴こえる。ドクン ドクンって」

 「いいんでしょうか? このまま課長に甘えてしまって」

 「いいに決まっているじゃない。別れたいの? 私と。私はイヤよ」

 「別れなければいけないとは思っています。でも・・・、別れられない」

 「うれしいわ、竜馬にそう言ってもらえると。

 それじゃあ帰るわね?」

 「シャワーを浴びなくてもいいんですか?」

 「浴びなくてもいいの、竜馬と愛し合った記憶を残して置きたいから」


 課長はそう言ってそそくさと下着を着け、服を着てマンションを出て行った。

 おそらく課長は子供さんや旦那さんにスイーツでも買って帰るつもりなのかもしれない。

 今日のひそやかな贖罪しょくざいとして。


 


 依然、私と課長の不倫関係は続いていた。

 課長は私の家でエプロンを着けて待っていることもしばしばだった。


 「お帰りなさーい。お腹空いたでしょう? 男性のひとり暮らしだから「おふくろの味」が恋しいかなあと思って、ベタだけど今日は肉じゃがを作ってみたの? お口に合うかどうかはわからないけど。

 ビール、冷蔵庫に冷えているわよ」


 課長にはマンションの合鍵を渡してあった。

 私が勝手に渡したのではない。課長から要求されたから鍵を渡した。


 「ねえ、合鍵、もらっておいてもいいかしら?

 時間が出来た時にお料理やお洗濯、お掃除もしてあげたいから」

 「はい」

 

 それから課長は頻繁にマンションを訪ねてくるようになった。




 課長と食事をしながら僕は課長に尋ねてみた。


 「お家の方、大丈夫ですか?」

 「大丈夫よ。今のところはね?」

 「私と付き合うこと、ご迷惑じゃありませんか?」

 「怒るわよ、そんなこと言うと。私は平気、もしもの時は竜馬に迷惑がかからないようにするから心配しないで」

 「私のことではなく、課長のことが心配なんです」

 「その課長って呼ぶの、いい加減止めてくれない? ここは会社じゃないんだから」

 「景子さん・・・」

 「竜馬」



 彼女はいつも、平日は2時間ほど私と一緒に過ごして家に帰って行った。

 それはおそらく、家族には「残業」だと言い訳しているからだと感じた。

 私は次第に良心の呵責かしゃくさいなまれるようになっていた。


  


第4話

 僕はひとりで海に来ていた。初秋の海に。

 もちろん秋の海に海水浴客の姿はなく、ウエットスーツを着た、サーファーたちが波を滑っていた。


 ギラつく真夏の太陽のもと、白いビキニを着て微笑む花音。

 寄せては返す波音が、花音の幻を僕に想起させた。


 焼けた砂浜で飲む、冷えたスプライト。

 それを飲み干し、海へと駆けてゆく花音とそれを追いかける俺がいた。

 消えることのない花音との楽しかったあの夏の日。それが俺を苦しめた。



 (このまま景子さんとの関係を続けていてもいいのだろうか?

 いや、いいわけがない。僕は景子さんの家族を、そして花音をあざむいているのだから)




 そして景子も考えていた。スマホに忍ばせた慎也の写メを見詰め、景子は慎也に話し掛けていた。


 「ごめんね慎也。私、ようやく好きな人が出来たの。もちろん、慎也のことは忘れない。でもね、凄く好きなのその人が。私よりも年下だけど、とても穏やかな気持になれるの。

 だからお願い、いいわよね? その彼を愛しても」


 そう景子はスマホの慎也に問いかけた。



 

 

 僕が社員食堂で海老フライ定食を食べていると、景子さんが昼食を乗せたお盆を持ってやって来た。


 「今日、田中係長は海老フライなの? 美味しそうねえ? 私も海老フライにすれば良かった」

 「柴田課長は天ぷらウドンとお稲荷さんですか?」

 「麺類だけだとちょっとさびしいじゃない? 少しご飯も食べたいなあと思ってね?

 だから今日はかき揚げウドンとお稲荷さんにしたのよ」


 そう言って景子さんは僕に2つあったお稲荷さんのうちの1つを僕の皿の上に乗せてくれた。


 「美味しいから食べてみなさいよ」

 「いいんですか? 貴重なお稲荷さんを」

 「貴重だからこそ食べさせてあげたいのよ、係長に。食べてみて、すごく美味しいんだから」

 「実は僕も大好きなんですよ、社食のお稲荷さん。美味しいですよね?」

 「お稲荷さんを作るのはけっこう面倒なのよ? ここのスタッフさんは既製品ではなく、油揚げを煮るところから始めるから大変なのよ。だから心が籠もっていて凄く美味しいのよ。包むのも大変だしね?」

 「そんな貴重なお稲荷さんをありがとうございます」


 そして僕は二本あった海老フライの一本を、景子さんの皿の上に乗せた。

 

 「いいの? 二本しかない貴重な海老フライを」

 「貴重だから課長にあげます。僕から課長への賄賂わいろです」

 「あはははは それじゃあ遠慮なくいただくわね? この賄賂」

 「どうぞどうぞ。あっ、タルタルソースも付けて食べて下さいね?」

 「ありがとう。私ね、海老フライにはウスターソースを掛けた上にタルタルソースなのよ。

 どう? 美味しそうでしょう?」

 

 そう言って景子さんはおいしそうに海老フライを食べて見せた。


 「うーん、すごく美味しいわ! さあ早く食べて午後からも頑張りましょうね?」

 「はい」


 僕はその時、景子さんの左手薬指に光る、結婚指輪を見ていた。

 金とプラチナでデザインされたシンプルな結婚指輪が僕の心を締め付けた。

 昨夜の景子さんのベッドで喘ぐ苦悶の表情が蘇った。

 本当に今、目の前でウドンを啜っている女性が同じ人物なのであろうか?




 仕事をしているとLINEが届いた。景子さんからだった。


 

    今日は華金だから

    渋谷で飲もうよ


              了解です



    会社を出たら電話

    するね?



 そうして僕と景子さんは渋谷のショットBARで飲む約束をした。


 

 「素敵なお店ね?」


 この店は花音とよく来ていた店だった。


 「松田優作もよくここで飲んでいたそうですよ?」

 「へえー、そうなんだ。前田さんとも来たことあるの?」


 景子は少し意地悪をしてみたくなった。なんとなくそんな気がしたからだ。


 「ええ、何度か」

 「そう。どうして男は別れた女との想い出の場所に新しい女を連れて来たがるのかしらね? うふっ」

 「別の店にしますか?」

 「ううん、ちょっとヤキモチを焼いただけ。

 でもね、私と一緒にいる時は私のことだけを考えて欲しいなあ。だってそれがエチケットでしょう?

 私がいない時はいいけど」

 「僕は今、花音のことは考えてはいません」


 僕はウソを吐いた。

 そして花音とここへ来た時にはいつも注文していたジン・トニックを注文した。

 景子さんはマルガリータをオーダーした。それは花音も好きなカクテルだった。

 テキーラをベースにしたコアントローとレモンジュースを加てシェイクする。グラスの縁をレモンで湿らせ、塩をスノースタイルで付けたカクテルだ。


 「スペイン語のマルガリータって、ギリシャ語の真珠やマーガリンの語源でもあるらしいわ。そしてマルガリータには悲しい物語があるのよ。

 ロスの有名なバーテンダー、ジャン・デュレッサーが狩猟場の流れ弾に当たって不慮の事故で亡くなってしまった恋人の名前をこのカクテルにつけたの。それがカクテルのコンクールで入賞した。

 スペイン語でデイジー、つまりマーガレットのことを「マルガリータ」っていうでしょう? 

 その女の人の名前らしいわ。

 死んだ自分の名前をこの美味しい世界的に有名なカクテルにしてくれたんだもの、彼女もしあわせよね?

 そう思わない?」

 

 私はジン・トニックを一気に呷った。僕は再びマルガリータを飲む、花音を思い出してしまったからだ。

 そしてそれを見透かしたかのように景子さんが言った。


 「今度、竜馬が『花音』という名前のカクテルを作ってあげたらどう?」

 「・・・」

 「ごめんなさい、怒った?」

 「このカクテルの意味はご存知ですか?」

 「もちろんよ、「悲しい恋」でしょう? でもね、マーガレット、デイジーの花言葉には「平和と希望」という意味があるから、「無言の愛」とも言われているわ。ふふっ まるで竜馬みたいね?」



 僕たちは店を出て、道玄坂のラブホテルに向かって歩いた。


 「今日は大学時代の友だちと泊りがけの女子会だからって言って来たから時間はたっぷりあるわ。

 それにラブホなら大きな声も出せるしね? あはははは」


 僕たちはそう言ってきらびやかなラブホテルの中へと入って行った。



 だがその光景をじっと物陰から窺っている男がいた。

 その男は今日の竜馬と景子の姿を綿密に記録し、撮影していた。

 その男は景子の夫が依頼した浮気調査員だった。




第5話

 翌日の夕方、景子は家に帰った。


 「ただいまー、これおみやげー。小田原の蒲鉾と干物。それから『久保田・千寿』の大吟醸。四合瓶だけど重かったあー。子供たちは?」

 「俺の実家で預かってもらってる」

 「そう」

 「どうだった、女子会は?」

 「もう大変、旦那と子供の自慢話と舅や姑の悪口ばっかり。もうイヤんなっちゃう。

 今、ご飯の支度するからね」

 「最近の女子会は渋谷の道玄坂のラブホでやるのか?」

 「・・・」

 

 夫の義久よしひさは調査ファイルをソファ・テーブルの上に投げて寄こした。


 「最近、やけに残業が多いと思ったら「不倫残業」だったとはなあ。

 流石は女性管理職だけはあるよ、毎日残業続きでご苦労なことだ。

 この残業相手の男はお前の部下だそうじゃないか? 田中竜馬、企画開発課企画係、係長、36才独身。 

 お前より9才も年下じゃないか? お前が年下好みだったとは知らなかったよ。

 もっとも俺たちがレスになって、もう10年だもんなあ。そりゃあお前もやりたいよなあ、俺のイケメンと。このイケメン係長は相当凄いのか? セックス?」

 「・・・」


 夫の義久は景子の左頬を平手打ちし、左太腿を蹴り上げ髪の毛を掴んで絨毯に引き倒した。

 景子は無抵抗のままだった。


 「何とか言え! この売女ばいた!」


 すると景子はやっと口を開いた。


 「離婚して下さい」

 「離婚だあ? するわけがないだろう! お前は一生俺の奴隷だ! 家政婦なんだよ!

 これから不倫していた罰として、毎日犯してやるからな! 覚悟しろよ!」

 

 義久は景子の服を引き裂き、スカートをたくし上げると無理やりパンティを下ろし、バックから無理やり挿入を開始した。

 

 「田中とこうしたのか? こんなふうにされたのか!」


 景子は今度は必死に抵抗した。まだカラダに残る竜馬の温もりをけがされたくなかったからだ。


 「いやあーっ! 止めて! あなたになんか抱かれたくもない! 警察に、通報するわよ!」


 夫は急に大人しくなり、挿入を止め、ペニスを抜いた。


 「一体俺の何が気に入らないんだ! 俺が今までお前にあれしろ、これしろと指図さしずをしたことがあるか? 俺はすべてお前の自由にさせて来たつもりだ! それなのにあまりに酷い仕打ちじゃないか!」

 「ごめんなさい」

 「俺は景子を愛しているんだ、だから別れるなんて言わないでくれ」


 義久は景子にそう哀願した。


 「私が悪いの、みんな私が悪いのよ、私が死んだ彼のことが忘れられないまま、あなたのプロポーズを受けてしまった私が! ごめんなさい、私はあなたを愛せない。ううううう」

 「子供たちはどうするんだ? さき小夜子さよこは! 母親なしでいいと言うのか!」

 「咲と小夜子は私が育てます。あなたは自由に生きて下さい、お願いします、離婚して下さい」

 「娘たちは絶対に渡さん! 絶対にだ!

 それでもここを出て、どうしても田中と暮らすというのなら、俺は田中を訴える。もちろん会社にも告発してやるからな!」

 「それだけは止めて頂戴! 彼には何の罪もないわ! 私が彼を誘惑したの! ううううう

 お願い、何でもするから彼だけは許してあげて!」


 そう言って景子は全裸になり、絨毯の上に仰向けに大の字になった。


 「さあ、やりたければやりなさいよ。それであなたの気が済むのなら」

 

 景子はそう言って泣いた。

 夫の義久は何も言わず、服を着替えて家を出て行った。

 景子は嗚咽し、田中に電話を掛けた。


 「もしもし、夫にバレたわ」

 「えっ?」

 「今からそっちに行ってもいい?」

 

 それだけ言うと、景子は電話を切り、着替えと取り敢えず必要な物だけを持って家を出た。

 秋の西日が景子の背中を押していた。


 


第6話

 景子は合鍵を使って竜馬のマンションの鍵を開けた。


 「ごめん、竜馬・・・。ううううう」


 景子は僕に抱きついて泣いた。


 「謝らないで下さい、僕も共犯ですから。

 いや、共犯ではありませんね、主犯です。

 景子さんの魅力に勝てず、ズルズルと関係を続けて来たのですから。

 こうなることは予想していました。想定内のことです」

 「訴えると言っていたわ。それに会社へも告発するって」

 「仕方がありませんよ、それを覚悟でお付き合いしたのは僕ですから」

 「竜馬」

 「景子さん」 

 「ねえ、いい加減、もう「さん」付けで私を呼ぶのは止めて。

 「景子」でいいの。いえ、景子って呼び捨てで呼んで欲しい。

 初めは慎也の代役だと思って付き合ってもらったけど、今はあなたのことが好き、竜馬が大好き! 愛しているの。私はやっと本当の愛を掴んだのよ」

 「景子」

 「竜馬」


 僕たちは熱い口づけを交わし、愛を重ねた。


 「竜馬、竜馬、欲しい、あなたが欲しいの!」


 


 翌日、僕たちはいつもと同じように会社に出勤した。

 どうやらご主人はまだ会社には言ってはいないようだった。

 一緒に朝食を食べ、通勤ラッシュを2人で会社へと向かう。幸福だった。

 僕も景子も何を失ってもいいと思った。お互いの想いがすべてを超越した。

 怖れるものは何もなかった。



 その日、景子と僕は一緒に帰った。

 私たちは既に覚悟を決めていたからである。

 帰りに寄ったデパ地下でお惣菜とワインを買い、自宅で一緒に夕食を摂ることにした。




 「なんだか新婚さんになった気分」


 私たちはグラスを合わせ、買って来たローストビーフなどを食べていると激しく何度もチャイムが鳴った。

 モニターにはマンションのエントランスで苛立つ、景子の夫、義久の姿が映っていた。


 「早くここを開けろ! そこにいるのは分かっているんだ! 早く開けろ! 帰るぞ景子!」


 僕はインターフォンに出た。

 

 「今、開けますから落ち着いて下さい」


 僕はエントランスのドアを開けた。

 景子は平然とワインを飲み、食事を続けた。

 まるでこうなることを予想していたかのように。


 玄関ドアのチャイムが鳴った。

 私が玄関ドアを開けた瞬間、思い切り殴られた。

 何発か殴られ、転ばされて足蹴あしげにされた。僕は抵抗しなかった。


 「この野郎! 俺の女房をよくもたぶらかしやがって!」

 「やめて! それ以上彼に暴力をふるうなら、あなたを殺して私も死ぬから!」


 景子はキッチンにあった包丁を両手で握って近付いて来た。


 「私は本気よ!」

 「取り敢えず、中へどうぞ」


 僕はご主人を部屋の中へと招き入れた。

 三人は立ったまま、座ろうとはしなかった。


 「帰るぞ、景子!」

 「イヤよ、私と離婚して!」

 「お前は騙されているんだ、この田中に!」

 「騙されたんじゃない! 私は彼を愛しているの! この想いはもう誰にも止められないわ!

 帰って! 今すぐここから出て行ってちょうだい!」


 景子は義久を睨みつけ、包丁は構えたままだった。


 「もう何を失ってもいいの、私は彼と人生をやり直したいの!」

 「お前は何を言っているんだ! 目を覚ませ景子! 冷静になれ! お前は咲と小夜子の母親なんだぞ! いい歳をして恥ずかしくないのか! 恥を知れ!」

 「イヤ! あなたこそ帰って!」

 「いいから帰るんだ! 子供たちがお前を待っている!」


 そして僕は言った。


 「僕に奥さんを下さい」

 「お前、気は確かなのか? コイツはお前より9歳も年上なんだぞ?」

 「景子さんを自由にしてあげて下さい。お願いします」


 僕はご主人の前で土下座をした。

 景子も包丁を捨て、僕と並んで一緒に土下座をした。

 

 「あなたお願い、私と別れて頂戴。もう引き返せないの。愛しているのよ彼を」

 「お願いします、僕は許されなくてもいい、でもどうか奥さんは許してあげて下さい。 

 奥さんはやっと恋人を失った悲しい過去から開放されようとしているんです。

 もちろん慰謝料はお支払いします。そして会社も辞めます。だから奥さんを許して上げて下さい」

 「よしわかった。慰謝料はいらない。会社も辞めなくていい。女房とは離婚してやる、こうなった以上、もう一緒に暮らすのは無理だ。だが親権は渡さない、子供たちは俺が育てる」

 「あなた・・・」

 「だがひとつ条件がある、もう二度と女房とは会わないと約束しろ。そうすれば離婚してやる」

 「そんなのイヤよ!」

 「わかりました。もう景子さんとは会いません。その代わり、奥さんを自由にしてあげて下さい」

 「イヤよイヤ! そんなのイヤ! あなたと離れるくらいなら死んだ方がマシだわ!」


 景子は包丁を取り、左手首を切った。


 「景子!」

 「課長!」


 景子は止血しようと近づく僕たちに包丁を振り回した。

 

 「来ないで! 竜馬と別れるくらいなら死んだ方がマシよ!」

 「景子・・・。お前そこまでコイツのことを。

 分かった、もう好きにしろ。だがな、それでは何も変わりはしないぞ、自分が変わらない限りな。

 女房のこと、よろしく頼む。早く病院へ連れて行ってやってくれ」


 それだけ言うと、義久は帰って行った。

 僕は夜間救急外来へ景子をタクシーに乗せ、連れて行った。



 翌日、僕は直属の上司である、課長の景子にみんなの前で異動願を提出した。


 「どうして福島支社へ異動したいの?」

 「はい、福島にいる母の体調がすぐれないので、実家へ戻りたいのです。

 わがままを言って申し訳ありません」

 「それは大変ね? わかりました、部長と相談してみます」

 「よろしくお願いします」


 不倫の代償は払わなければならないと思った。

 


 

 夜、マンションに帰ってすぐにその話になった。


 「福島支社に異動なんて絶対に許さないからね!」

 「景子、別れよう」

 「どうしてそんなこと言うの!」

 「本気で君を好きになってしまったからだ。許してくれ、景子」

 「言ってることがわからない!」

 

 僕は遂に花音の遺影の前で叫んだ。


 「それは僕がまだ、花音のことを忘れられないからだ!

 僕は君を愛してしまった! 本気で好きなんだ! 愛しているんだ!

 花音を失った悲しみが癒えぬまま、君を愛してはいけなかった!」

 「竜馬・・・」

 「どうか分かってくれ、そしてそれが君を愛したご主人、そしてお子さんたちへの謝罪なんだ。

 分かって欲しい」



 僕の福島への異動が正式に許可され、僕はひとり、福島で暮らすことになった。

 花音と行った、あの想い出の福島の地で。

 

 


最終話

 三年が経ち、景子は夫と離婚した。

 子供たちの親権は景子が持つことになり、景子は娘たちと一緒に東京で暮らしていた。

 親権は景子にあったが、娘たちと父親である義久の関係は変らなかった。

 義久は娘たちのためにと養育費を負担し、たまに4人で食事をすることもあった。


 「どうだ? 今度の夏休み、みんなでハワイでも?」

 「うん、行く行く!」

 「パパ、水着買ってね?」

 「ああ、あんまり派手なのは駄目だぞ。ママも一緒にどうだ?」

 「私はいいわ、遠慮しておく。あなたたちだけで行ってらっしゃい」

 「ママも行こうよ、どうせパパのお金で行くんだからさあ」

 「ママは苦手なのよ、日本人がごちゃごちゃいるハワイは」


 そう言って景子は洋食屋のカニクリームコロッケを食べた。

 竜馬とは今も連絡は取り合っていた。

 眠れぬ夜はよく竜馬に電話をした。

 だが、竜馬から電話やLINEが来るのは3日に1度程度だった。

 それが景子には少し不満だった。



 「もしもし・・・」

 「ごめん、起こしちゃった?」

 「いや、そろそろ起きようと思っていたところだ」 

 「ちゃんとご飯食べてる?」

 「ふふっ 子供じゃないんだから」

 「だって心配なんだもん」

 「お前の方はどうなんだ? 元気か?」

 「まあなんとかやってるわ。今度の人事異動で次長になることが決まったの」

 「ということは部長へのリーチが決まったということだな? おめでとう」

 「ありがとう。ねえ、何かお祝いして」

 「何がいいんだ? 送るから」

 「あなたが持って来てよ、バラの花束を48本。私と同じ年齢の数のバラがいいなあ」

 「東京は遠いからなあ」

 「東北新幹線でたったの1時間半じゃないの」

 「時間を言っているんじゃない、距離の話だ」

 「ふーん。私に会いたくんないんだ?」


 俺は話題を変えた。

 

 「人事異動かあ? もう春なんだなあ」

 「聞いたわよ、本社の私の後任を打診されたのに、断ったんですって? バカじゃないの?」

 「俺には福島が合っているよ。もう満員電車での通勤もないし、新橋で上司の悪口を言っているリーマンたちもここにはいない。のんびりしたもんだ」

 「じゃあ今度、私がそっちに遊びに行くのはどう?」

 「福島にはいい温泉旅館が沢山あるよ」

 「温泉もいいけど竜馬のアパートに泊めてよ」

 「宿泊料、高いぞ」

 「いくら?」

 「バカ、それを言うならだろう?」


 俺たちは笑った。

 だが俺は景子にまだ会うわけには行かなかった。

 俺はまだ、花音との想い出に浸っていたからだ。




 休日、花音と訪れた、あの磐梯高原にドライブにやって来た。

 季節はもう夏だった。あの日と同じ、澄み渡った空と夏雲が湧き上がっていた。

 

 俺はトランクから折りたたみ式のサマー・ベッドを広げ、横になり空を見た。

 森の方から蝉時雨せみしぐれが聞こえていた。

 俺はスマホにイヤホンをして、花音が好きだった山下達郎の『Ride on Time』を聴いた。

 達郎の澄み切った伸びやかなバラード。いつもこの曲を聴く度に、花音を思い出して俺は泣いた。

 だが、今日は清々しい気持ちでこれを聴くことが出来た。

 この三年間、俺は俺なりに強くなったと思う。僕という人称は辞め、今では自分を「俺」と呼ぶようになり、景子のことも「お前」と呼ぶようになっていた。

 


 

 金曜日の夜、古いイタリア映画『鉄道員』を観ていると、突然、スマホが鳴った。

 景子からだった。


 「今、何してた?」

 「映画を観ていた。『鉄道員』という映画だ」

 「知ってる、あの高倉健のやつね?」

 「違うよ、イタリアの昔の映画だ。死んだおふくろが好きだった映画なんだ」

 「その映画、私も一緒に観てもいい?」

 「近くにいればな?」

 「近くにいるわよ、今、竜馬のアパートの前にいるの」


 慌ててカーテンを開けると、ハザードランプを点けたタクシーの前で、景子が両手を振って笑っていた。

 俺はサンダルをつっかけて、外階段を駆け下り、景子を強く抱きしめた。


 「竜馬に会いたかった、ずっと」

 「俺もだよ、景子!」


 それを確認すると、タクシーは静かに去って行った。




 そして景子は部長になり、60歳になると定年延長には応じず、景子は会社を定年退職した。

 そして俺と景子は福島に小さな平屋の家を建て、結婚した。


 土曜日の夕方、近所のスーパーへふたりで出掛け、食材と酒を買った。

 その時俺はレモンを手に取り、ショッピング・カートの中に入れた。


 そして日曜日にはバーベキューをした。

 庭で採れた夏野菜でサラダを作り、昨夜から漬け込んでおいた肉を焼き、缶ビールを飲んだ。

 造ったピザ窯でピザも焼いた。


 俺はレモン・ソーダのために買ったレモンを景子に向かって放り投げた。


 「ほらいくぞ」


 レモンは放物線を描いて景子の手にキャッチされた。

 そのレモンは俺の景子への愛情だった。

 そして花音との美しい想い出だけが残り、辛い思いではこの夏空に吸い込まれて消えた。


 「ねえ、今度、娘たちも呼んでもいい?」

 「もちろん」


              『夏空に放物線を描いて消えた恋』完





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【完結】夏空に放物線を描いて消えた恋(作品240502) 菊池昭仁 @landfall0810

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