A little escape

香月 優希

A little escape

「ふぅ……やっと落ち着いた」

 啼義ナギは、新緑の眩しい大きな樹木のかなり上、太い枝の間に危なげなく身を挟んで、黒い瞳で辺りを見渡すと独りごちた。柔らかな風に、背中にかかる真っ直ぐな黒髪がふわりとそよぐ。

 彼が、イリユスの神殿の中で受け継がれてきた"蒼空の竜の力"の正式な継承者として迎えられてから、そろそろ半年。

 まだ十八とはいえ、そう遠くないうちにこの神殿の長として立つことを期待されている啼義には、覚えなければならないことが山盛りで終わりが見えない。それだけではなく、一部の人間からは、全く外から現れた自分を受け入れ難い態度をとられている事実も、定期的に堪えた。

<分かっちゃいるけどさ>

 故郷にいた時だって、全員が自分を受け入れてくれていたわけではない。そんな状況には慣れている。それに、今の自分には、イルギネスとしらかげという、九歳上の頼もしい護衛が二人もついているのだ。


<あいつら、もう俺が抜け出したことに気づいているだろうな>

 先ほど自分が上手いこと巻いた新米護衛のエリオスが、二人に青ざめて報告している様子が目に浮かぶ。自分より年下の青年に迷惑をかけたことを思えば、罪悪感が湧かないわけではないが、ここしばらく生真面目に勤しんでいたのだから、少しくらい休息が許されてもいいだろう。

 

 それでも一応は見直そうと持ってきた歴史書を開いたものの、読む気になどなるはずがない。啼義は頑丈そうな枝に背を預けて身を横たえると、歴史書を胸の上に乗せ、そっと目を閉じた。


<ちょっと休んだら、リナに会いに行こう>

 愛おしい恋人は、もうじき魔術研究所での修練が終わるはずだ。なんだかんだと、気づけば二週間も会っていない。彼女を早くこの胸に抱き、深みのある金の髪の、花の香を纏ったような柔らかな匂いに顔を寄せ、ホッとしたい。

<そしてそのまま……>

 甘やかな妄想に浸ろうとしたその時──


「啼義様ー!」


 響いたのは馴染みのある、低めなわりには通りの良い声。

 その主が誰なのか分かっている啼義は、聞こえない振りを決め込んでじっとしていたが、声は止まない。

「啼義様ー! その木にいるのは分かっています。聞こえてるんでしょう?」

 ほどなくして木の根元には、左肩側で束ねた白銀髪が映える赤いマントを纏ったイルギネスの姿が現れた。

「やっぱり」

 彼は周りに人の気配がないことと、頭上の枝に揺れる啼義の鮮やかな青いマントを確認すると、先ほどとは違ってくだけた口調で呼びかけた。

「啼義、いきなりいなくなるのはやめてくれ。エリオスが半ベソかいてたぞ」

 啼義はため息をついて身を起こし、眼下で自分を見上げている海色の瞳と視線を合わせる。そしてあからさまに眉間に皺を寄せてみせた。

「前もって言ったって、外出許可なんか降りないだろ? 詰め込みすぎだよ。ここ数日は特にひでえや」

「仕方ないだろう。先生や師範方の都合もあるんだから」

 イルギネスは木の下で腰に手を当てて、端正な顔にやや険しい表情を浮かべて答える。二人はしばらく、譲らない様子で見つめ合った。が、沈黙はほんの少しだけで、あっけなく緊張を解いたのはイルギネスだ。

「ま、俺もちょくちょく、神学院の授業をサボって街へ繰り出してたからな。もう先生も帰っちまったし、後で見つけたってことにしといてやるよ」

 悪戯っぽく笑うと、ゆったりした所作で腰を落とし、その場に胡座をかいた。

「でも、護衛はせんといかんからな」

「……恩に着るぜ」

 啼義は胸に広げたまま乗せていた歴史書を閉じた。それを腰帯に挟み込むと、いそいそと木から降り始める。木は、登る時よりも降りる時の方が難易度が高い。先ほどより慎重に足を置き換えて進み、無事に地面に着地すると、無意識に安堵の息が漏れた。

 イルギネスが驚いた様子で顔を上げる。

「もう移動するのか?」

「リナのところへ行くには早いから、その前にルタの店で定食が食いたい」

 主人の申し出に、イルギネスは眉根を上げた。

「しばらく見つからなかったって報告の予定なのに、一緒にメシ食ってただなんて、誰かに見られたら面倒だぞ」

 啼義はにんまりと微笑む。

「上手いこと誤魔化すのは得意だろ?」

 イルギネスが苦笑した。

「お前……人を悪人みたいに言うな」

 言葉とは裏腹に、立ち上がって啼義が差し出した歴史書を受け取ったイルギネスの眼差しは楽しげだ。

「じき、追いつかれそうだな」

「え?」ドキッとした啼義に、イルギネスが笑う。

「エリオスたちのことじゃない。背の高さだよ」

 こうして並ぶと、もうそんなに身長の差はない。出会った頃には、明らかにもっと差があったのに。

「ああ……」啼義は自らの頭に軽く触れて確かめると、「へへ」と嬉しそうにイルギネスを見返した。「あんたより伸びるかな」

 イルギネスがおどける。

「おいおい。お前に抜かれるのは想像がつかん。そのくらいでいい」

「えー、そうかよ」

 だが確かに、イルギネスとの身長差はこのぐらいでちょうどいい気がする、と啼義は思った。

 二人は今や、公の前では主従関係にある。それどころか、イルギネスは啼義の護衛長だ。しかし、誰の目もない時は、出会った頃と変わらない、兄弟のような和やかな空気のままだ。それは啼義にとって、気を緩めることができるささやかな拠り所だった。

<ずっと、兄貴みたいでいてくれよな>

 照れ臭いので口には出さずに、胸の内でそっと呟く。イルギネスがいるから、自分はこの立場のプレッシャーにも耐えて行けるのだ。でもそんな感謝の言葉も、やはり伝えるのは気恥ずかしい。


<まあ、言うほどまだ何もできてねえしな>

 言葉にするのは、もっときちんと、自身の立場に確固たる裏付けを作り上げてからでも、遅くはないだろう。そこに至るまでの道は、まだまだ長そうだが。


「行こうぜ。腹が減った」

 啼義は足取り軽く踏み出した。イルギネスが続く。「全く、とんだご主人様だ」

「楽しんでいるくせに」

 言うと、年上の従者はカラカラと笑った。

「ああ。楽しいさ」その青い瞳は、穏やかな肯定の意思を反映している。この海のように凪いだ眼に、何度救われただろう。


 啼義は立ち止まって身体を伸ばした。心地よい風を感じながら深く息を吸うと、爽やかな緑の香りが、早くも心を解いていくのが分かる。


<今日しっかり息抜きをしたら、明日からまた、ちゃんと頑張ろう>

 もうじきリナと会える。そしたらもう、許されるギリギリまで一緒にいよう。

 啼義は心を決めると、もう一呼吸ついて走り出した。


「あ! 待てっ!」

 イルギネスも走り出す。

「嫌だよ。早く行きたいんだ」


 二人は転がるようにして、町へ向かう坂道を駆け下りていった。


(了)

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