兄と皮

紫陽_凛

兄の皮

 夜の七時、家に帰ったら兄の皮が落ちていた。双子の兄の皮である。この世に自分と同じ顔をした男は兄しか居ないのだから自然この皮は兄のものと決まっている。私も皮を脱いだ覚えはないのでおそらくいや確実にこれは兄の皮である。兄はリビングでさして面白くもないお笑い番組を見ており、私に気づくや、「お帰り」と首を上向けた。

 兄はいつも通りに見え、その上普通である。私は仕事帰りに買ってきた玉葱のネットを定位置へ置いて尋ねる。

「今日は何をしていたんだい」

「特には」

 いつもこの繰り返しである。私は暑苦しいネクタイをほどいて冷蔵庫からビールを取り出して一気にあおった。兄は笑い、「おれの分まで呑むんじゃないぞ」という。私も笑う。笑うが、どうやってこの始末をつけようかと思っている。

 兄は殺人をする。現地人だけは殺してはならないとあれだけ言いつけられたのに、どうしてもやってしまう。老若男女もこだわりなく、さっとやってしまう。そして自分のしでかしたことを自分の口から漏らす前に、皮をぬいですっぱり忘れてしまう。やっかいなことに兄の犯す殺人は大抵雑この上なく、ゆえに私はその後始末をせねばならなくなり、さらに面倒なことには、兄の記憶をたどるために兄の脱いだ皮を被っていなければならず――そうしている間私は私でなく兄の皮を被った私になってしまうので、前後不覚になる。ビール一杯程度では済まない。自我が揺らぐ。そして、

 兄がこのことを知っているかどうかは知らない。知るつもりもない。もとより記憶を脱ぎ捨ててなかったことにするような男だ。私が兄になって後始末をつけているなんてことは気にも留めないだろう。いつこの惑星の文明の法の網に引っかかるかしれないのに、のんきな男だ。

「楽しかったか」と私は尋ねる。兄はうなずく。

「んー、楽しかったよ。な、おれにもビールくれ」

 ビールを渡すと、無邪気にプルトップを上げる。その指先で今日は何をしてきたのだろう。私は部屋に戻るついで、兄の皮をずるりと引っ張った。兄が意識をそらした瞬間、私は、兄の皮を被る。


 兄になった。


 殺人鬼の兄と何も知らない兄の二人がこの地球上に存在している今、(広義の)世界には「兄が二人いる」というちいさな矛盾が発生するのだが、私たちはそれを「平行世界的現象」と呼び表すことで解消することになっている。殺人を犯した兄と犯さなかった兄とが今同時に存在することの言い訳――それが私たちの方策だ。時空管理局の敷く網目のような法則をかいくぐる唯一の方法だ。

 ともあれ私は兄になった。兄は面白くもないテレビを見ているが同時に自らが犯した殺人の記憶を思い出そうとしている。兄はテレビのチャンネルを次々と変えるが、兄は今日殺した女の死体がどこにあるか、そしてどれだけ人目につきやすい場所に放置してきたかを思い返して途方に暮れている。兄は言う。

「公園で女の死体が見つかったらしいぜ」

 時すでに遅し。兄はうなずいて飲みかけのビールを流しに捨てる。「ちょっと今から出かけてくる」

 兄は首をかしげる。「酒入れた状態でどこに?」

「ちょっと、片付けに」

 兄は言う。そして窮屈な革靴ではなく、くたびれたスニーカーを選ぶ。よくよく見ると血のようなものがついている。


 兄はゆっくり歩き、公園の近くに捨て置いた刃物を間一髪で回収する。兄には指紋がないため、個人を特定できるようなものは何一つ残らないのだが、念のためそれをシャツの裾で拭い、兄の皮と私の体の間にしまい込む。

 

 それから、ビールを入れたのは失敗だったと兄は思う。兄も私も地球人に比べてアルコールに弱いので、兄の皮を見つけた時点でビールはやめておくべきだったかもしれない。だが呑まずにはやっていられない時がある、と私は先輩に教わった。

 呑まずにはやっていられない、と兄は思う。

 これまでこうして兄の皮を被った回数は五回を超えていたし、五回を超えた時点でもう数えるのをやめようと思った。兄はそういう性分なのだ。呑まずにはやっていられない人間がいるように殺して皮を脱がずにはいられない。


 兄は家に居るが、同時に川辺を歩いている。川辺を歩く兄はうつむいている。これから面倒なことに巻き込まれないだろうかと憂う。たまったものではないと兄は思う。いつかこの惑星の法に引っかかる。そうしたらおしまいだ。死なない兄は死ぬまで刑務所で過ごし、死ぬまでつるされることになる。


 そしては考える。そうか、んじゃないか。

 兄は想像する。兄の皮をどこまでもどこまでも剥いていったら最後に何が残るだろうか。兄は兄だが、皮を剥いてしまえばなんと言うことはない。兄という存在の情報がはげて、はげて、はげて、その中心に何か「兄だったもの」が残るに違いない。

 兄は死なないが、皮を剥くことはできるのだ。


 家に帰ると兄が玉葱を剥いていた。兄は言った。

「なあ、玉葱ってさ、剥いても剥いても皮なんだな」

 兄は包丁を兄に向けた。

「それはお前も同じだ」

「おれのせりふだよ」

 兄は言う。「お前が人を殺すたびに尻拭いしてるおれの気持ちを少しは考えろよ」

 兄は言う。「だからそれはこっちの台詞だって言ってるだろう。お前のほうこそ」

 兄は言う。「いつもいつもこの繰り返し、まっぴらだ」

 兄は言う。「そっくりそのまま返してやる。今日の女を殺したのはお前だ」

 

 そして兄と兄はもつれ合った。包丁が床に突き刺さり、つかみ合う腕と蹴り合う足と、皮をむしり合う二人の男がいた。夜の八時頃から始まった喧嘩は十二時を回っても決着がつかず――明朝。



 時空警察の到着する頃には1人分の遺骸が──ようするに芯の部分のみになった異星人が残っていた。時空警察はこれを事件として立件し、犯人たる「私」を探すことにしたという。

 一つ疑問がある。

 私は兄だろうか。

 それとも私の皮を被った兄だろうか?

 死んだのは、一体誰だ?







 

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