2.馬鹿の馬にはなりきれず

「海といえばかき氷だよね」

「海の家的な? 昔はあったよね」

「これだから田舎は!」

 よく考えれば海なんて車で走っても10分はかかるのに、そんな距離を夏真っ盛りに走りきろうなんてどうかしていた、と私たちは早々に諦めた。というかいくら待っても内海が追い付いてこないと思って来た道を戻ったら、バテて息を切らしながらトボトボと歩いていたのに居た堪れなくなったからだ。

 途中のコンビニで内海とチューブアイスを割り勘で買った。味は色々あるけど、定番のチョコ味しか買ったことがない。そのチューブアイスもすっかり溶けきって、生温い液体と化している。プールの水を思い出した。私たちの高校はプール授業がないから水着なんてもう何年も着ていない。

 2人して白線に並んで歩く。湯気が出そうな黒いアスファルト、これはマグマだ。そこに足がついたらおしまいだ。

「昔はおじいちゃんと比山と3人で潮干狩り行ったりしたよね」

 小学6年生の秋のことだ。内海のおじいちゃんに連れられて、私たちは潮干狩りをした。人はまばらで、成果はそれほどでもなかったけど、しっかりと記憶には残っている。内海は採るのが下手すぎて、確か貝を入れる用のバケツ持ち係だったはずだ。

 内海のおじいちゃんはゲームでいうところの師匠っぽい見た目で、小学校の農業イベントでは実際に「師匠」と呼ばれているらしい。ちょっと小汚い恰好をすればホームレスに見えかねないおじいちゃんだった。長く伸ばした髭がトレードマークで、笑い方は内海にちょっと似ていた。孫の内海がかわいくて仕方ない、アウトドアが好きな好々爺だった。潮干狩りのほかにデイキャンプやフィールドアスレチックなんかにも連れて行ってもらった。

 名前は確か幸三、いや幸三郎……そんなような名前だった気がする。2年ほど前の葬式の入り口付近、その名を刻んだ看板を見て、三男だったのかなあと、私は考えていたはずだ。

「あのとき食べたガンガン焼き、美味しかったのに私だけ牡蠣に当たったんだよなあ。絶対他にも生焼けのやつあったはずなのに……」

 内海の声が右から左へ流れる。

 死んでしまった。内海何某は戒名を与えられて、内海のおじいちゃんではなくなってしまった。遺影は内海が運んだ。お墓は近所の丘の上にある集団墓地に建てられた。

 内海はあのとき、どんな顔をしていたっけ?

 海が近づいてくる。

 なんだっけ。なんだっけなあ。思い出しそうで思い出せない。喉の中ほどで空気の塊が引っかかったような。

「あれ、うっちー?」

 肩の向こうから声がした。チューブ容器の中身が溢れ出る。頭皮が急速に汗を分泌させて、額から鼻筋にかけて流れ落ちた。

 ————聞こえないフリをしてこのまま歩いて行ってしまおうか。

 そうしようとして、すぐにやめた。内海が振り返ったからだ。

「まいまい組だ! どうしたの?」

 まいまい組と呼ばれたのは、全員が名前に「まい」がつくクラスメイトだ。女男女の3人で構成された彼らは、クラスの中でもよく発言する部類で、内海を「スナネコみたい」と評したのも彼らの内の誰かだった、はず。

 太ももまである裾のトップスを着て、下を履いているのか履いてないのかわからないくらいに脚を曝け出している方のまいが、走り寄ってきて内海に抱き着く。馴れ馴れしい態度が教室の中でさえ癪に障ったのに、こんなに近くで味わう日が来るとは。

「うっちーお久じゃん。何してたん?」

「自転車で惑星旅行をちょっとね」

「ETかよ、おもろ」

「宇宙人ってわざび醤油つけて食べたら美味しいと思うんだよね」

「タコちゃうねんぞ」

 暑苦しくも見苦しく内海に腕を絡めだしたまいは、とりわけ内海と話も波長も合うらしい。授業終わりに2人だけで話しているのをよく見かける。

 メガネを掛けたまいもこちらに来てしまった。目を合わせないよう、かといって無視しているようには見えないよう……、とにかく目を合わせちゃダメだ。

 男のまいは途中で足を止め、街路樹の影でスマホを取り出した。やたらしかめっ面なところを見るに、画面が暗いのだろう。メガネのまいは内海たちのところまで近づき、盛り上がる内海たちとこちらを交互に数度見て、最後にこちらを向いた。

 目を合わせちゃダメだ……それを悟られてもいけない。下へ、下へ。胸がでかい。

「ひー、山さんは、どうしてたの」

 どうやら私の名前すらまともに覚えられないほどに興味がないらしい。それならいっそのこと、教室の中でもそうしているように、いないものとして、路傍の草のひとつとして扱ってほしいのに。頭の中ではきっとクズ芋呼ばわりしているくせに、内海がいる手前、人間扱いしているんだ。————なんて。

「え、いや、ああ、まあ。げ、ゲームとかやって…………、へへっ」

「てかうっちー、なんかおばーちゃんのにおいすんね」

 脚出しまいが内海の汗で濡れた胸元に顔を寄せた。

 ————内海はおじいちゃんと一緒に住んでたんだ。おばあちゃんはもうずぅっと前に死んでいる。

「田舎のおばあちゃんの家的な?」

 日陰の方から声がする。

「いや、マイカのおばーちゃんでっかいマンションに住んでたけど。なんだろな、家のにおいじゃないんよね」

「お菓子の匂いとか?」

「甘いってのは合ってんだけど~、んー……なんかおばあちゃん! って感じのにおいなんだよね。お墓詣りしたら思い出すかなあ」

「死んでるんかい」

「今からいくべ?」

「イオン行くっていったじゃん……」

 私を差し置いて内海と話してたくせに3人で盛り上がるな。内海が困ってるのが見てわからないわけ? 人偏だけが取り柄のくせに。さっさとどっか行って乳繰り合ってろよ。

 ————早く黙ってほしい。頭の中身が鬱蒼として、鳴きやんでくれない。ぜんぶひっくり返って吐き戻しそうだ。

 私のこういうところが嫌い。そんなもんだってわかってるくせに。まい達に悪意がないことくらい。多少は含まれているかもしれないそれは、実のところ、私が思っているよりはるかに微々たる他意なのだろうということは、ちゃんと分かっていた。勝手に相手の脳内を想像して、真実とも区別がつかないことを信じきって膨らませている。

 内海と家族以外が相手だとどもってしまう自分が、内海以外に友達のいない自分が、内海を介さなければ教室の誰とも発言する権利がないと思い込んでいる自分が、惨めで情けなくて卑屈だって、頭の冷えた方ではちゃんとわかっている。それなのに怒りが増幅して、うるさくて、考える隙なんて与えたくないのに。

 私だってこの3人の苗字すらまともに覚えられていない。クラスメイトなのに、頭文字すら浮かばない。それぞれの「まい」がどんな漢字なのかなんて頭の隅にも置こうとしていない。それでも。「何をしてもいい」と免罪符を与えられた今でさえ。彼らに歩み寄ろうという気は毛頭なかった。

 音楽が聞きたい。ポケットをまさぐる。イヤホンを自室に置いてきてしまったのに気が付いたのは尻ポケットまで叩いた後だった。

「都会といえば、比山さんは大学、行くんだったよね?」

「えあ! や」

「まじ? ひやまん天才さんじゃん」

 知らない間に話は飛跳していた。予想だにしなかった質問と知らぬ間のあだ名は、夏の空気のようにじっとり湿った考えから現実へと引き戻す。

「そうなんだ。知らなかった」

「いや、内海に言ってなかっ、た……っけ?」

 これだから田舎は嫌いだ。個人情報とかプライバシーとかあったもんじゃない。本屋で漫画なんて買おうものなら、帰宅するころには親にタイトルから内容まで知られている。

「なんだよぉ! 心の友なんだからちゃんと報告してよ!」

 背中を強く打つ内海の顔が見れない。薄く伸ばしたような笑い声が、いやに間延びして。こんな時に彼女がどんな目をしているのか、手に取るようにわかるから。

「いや決まったのも最近だし、いろいろあったし、タイミング……うん」

「てかまいひーはなんで知ってんの」

「私も大学進学組だから。お噂はかねがね」

「はあ……」

 思い出した。メガネのまいは「舞姫」だ。クラス名簿を見て「森鴎外だ」と1人ではしゃいだのを思い出した。「舞姫」だから「まいひー」……脚出しまいもといマイカの名付けは意外とテキトーだ。私だったらもっと————やっぱり「まいひー」が一番いいかもしれない。

「美大だったか?」

「芸大ね」

「え、すごい、ね」

「すごくないよ。まだ試験も受けてないし、予備校でも評価はそんなにだし。親もあんまり良い顔はしてくれてないから、記念受験になるかもね」

「お前いっつも『私はミューズに愛されてるから』って言ってるじゃん」

「一々言うなって。……まあ受かったとしても、隕石落ちるし行けなくなっちゃうよね」

「ひやまんとまいひーの大学レビュー聞きたかったな~ん」

「隕石なあ……アメコミのヒーローがバンッ! って出てきてドンッ! って破壊してくんねえかな」

「マイハマは漫画の読みすぎ」

「それなんてサイタマなん?」

「お前らだってそう思うだろ! 俺、まだやり残してること1000個くらいあるし」

「はいはい。……でも、実感わかないよね。今日で終わりなんて」

 舞姫がメガネのブリッジを持ち上げる。眉が少し寄っていた。

「そうだよねえ。年越しのカウントダウン観てるのと同じカンジ?」

 全員が黙りこくる。年越しのカウントダウンのあとには新年の挨拶が待っているけど、死んだ先には何があるのか、きっとその答えが導き出せないからだ。

 進路よりもずぅっと遠い先にあると思っていたそれが、私たちのすぐそばまで来ている。波みたいに満ちて、引いて。揺れるように、思考を削り取ろうとする。

「そろそろ解散しようよ! みんなそれぞれやり残してることもあるだろうし。まいまい組はイオン行くんでしょ?」

 誰よりも先に内海が口を開いた。

「そだね~。うっちーたちはどこ行くの?」

「私たちは海!」

「っそ。俺たち、そろぼち行くわ。電車もうすぐだし」

 マイハマがマイカの手をつかんで歩き出す。舞姫もその後ろをついて行った。

「じゃ、ヒヤマさんも、また」

「うん、また、ね」

 我ながら下手な笑顔だ。

 今日でこの世界は途切れてしまうというのに、彼らが「またね」と短絡的な言葉を使ってしまうところが羨ましかった。

「私たちも行くよ」

 内海は背を向けてさつさつと歩き出した。私もあとを追う。途中、何度か隣を歩こうとしてみたけど、脚長族の早歩きと歩幅が合わずにずれていく。

「舞姫さんさ、すごいよね。夢がちゃんとあってさ」

「夢でご飯が食べられるなら大したもんだけどね」

「……内海は進路どうするの?」

「今日で死ぬのにそんな話して、意味あるの?」

 距離を取りたいのが丸わかりの言い方にムッとしてしまう。

 内海は誤魔化したがりのくせに、不機嫌を隠すのは途轍もなく下手だ。いつもより早口で、うわずって、聞き取りづらいったらない。

 交わす言葉はないままにひたすら脚を往復させる。途中、横を軽トラックが排気ガスを出しながら通り過ぎた。古い車特有のエンジン音が耳に障る。そういえばセミの声は聞こえない。昼前には聞こえていた気がしたけど。生存本能が意味をなさないのだと気付いてしまったのだろうかと勘繰ってみる。人間以外の生き物は災害に敏感だと聞く。人間はそうではないとも。だとしたら、人間は退化したのだろうか。それとも進化しているのだろうか。だめだ。さっきまでは気にならなかった暑さも、汗も、気持ち悪い。

 ダメだ。頭に考える隙間があるとすべてが不快に思えてしまう。音で支配されたいのにそれすら叶わない。この道路の至るところに設置されている有線ではラジオパーソナリティが喋っているはずだが、車の騒音を全く考慮していないだろう音量で心許ないばかりだ。

 内海の顔色を伺おうとして、視線を鎖骨の辺りまで上げてすぐに下ろした。獣の目で見つめられて非捕食者になるのが怖い。

 細道を左に曲がり、銀河通りと呼ばれるオシャレな店が集まる通りを抜けると、本通りへと合流する。端にそれぞれ駅と海岸をぶら下げたこの大通りは、この土地に名ばかりの生を受けたゆるキャラの像が途中に鎮座していることそれ以外は車が通ることに特化した道づくりとなっている。

 ポケットの中ですっかり火照ったスマホの電源ボタンを押す。14時を少し回っていた。多分いちばん暑い時間だけど、建物が増えて幾分かマシになった。アーケード屋根の真下に狙いを定めて歩いていく。

 空は白んで、隙間から太陽が覗き込んでいる。雨の気配はまだないものの、ゲリラ豪雨になりそうな予感もある。

「比山」

 頑張って低くした声。怒ってますよの声だ。言葉が続くかと思ったら少しの沈黙。返事をしようとしたら、先に口を開いたのは内海の方だった。

「なんで黙ってたの」

「黙ってたって、なにを」

「大学行くこと」

「黙ってたわけじゃないよ」

「でも言ってくれなかった」

「流されるままに決まってたと言いますか……」

「決まったなら教えてくれたっていいじゃん」

「確約はされてても確定はしてなかったもので……2学期にならないと受付も」

「そんなことわかってるんだけど……ぁ、なんでこんなこと」

 内海は頭をガシガシ掻き毟った。彼女が不機嫌なことも、その理由も、なんとなくわかる。問題はそこからどうやってご機嫌をとるかだ。今日はもうおやつでは釣れないだろう。

 ゾオッと風が吹いた。次いで潮の匂い。違いない。違いない。海風だ。強い風はどうしようもなく熱気を帯びていて、私はスマホをリュックサックにしまった。

 最後の交差点を渡ると、海は真っすぐとこちらを見つめている。反射する光がなく、いつになく大人しい。波の音が聞こえる距離ではまだない。

 鬱蒼とした松の木々をくぐり抜けて真っすぐ浜辺へと向かった。グネグネと舗装された小道は無視して。途中、内海は方向転換して帰ってしまうものかと思っていたけど、存外彼女の方が率先して歩いている。松に囲われたその内側の公園で、子供たちは鬼ごっこをしている。ここもか。立ち止まって下を向いている子供が数人いるところを見るに、どうやら氷鬼みたいだ。

 人がいたのは手前の公園までで、そこから先には人がいなかった。

 ランダムに埋め込まれた石畳の凸凹を踏みしめて突堤の先へと向かう。2人分の足音、真横の水深は徐々に深くなっていく。内海と私たちの歩く位置はいつの間にか逆転していた。このまま後ろから突き飛ばされたりなんかしたら、完全犯罪になるんじゃなかろうか。

「隕石って何時に落ちるの?」

「知らない」

「知らないってさあ、もう……あ」

 スマホの検索画面を開いたその足元に毛の塊がじゃれついた。島太郎だ。

 でっぷりとしたフォルム。の割には細い前足。茶色に黒の縞模様が全身に入っている彼は港の番猫として密かに人気になりつつある。

 最初に見かけたときはガリガリの子猫だった。それが漁師や釣りに来た人が魚やエサを与えるごとに成長し、気付けばわがままなボディになってしまっていた。1年ほど前に他校の女子高生が動画をアップしたことでプチバズりしてしまい、現在では海水浴場に来たついでに島太郎に会いに来た人々によって大量の貢ぎ物をされている。現在は自治会長が貢ぎ物を管理しているとかなんとかかんとか。北のたま駅長なら南の番猫・島太郎だ。

 私が屈んで頭に手を伸ばしたところ、彼はつま先を返して走り去ってしまった。前足と後ろ足の動きが大げさで、効果音をつけるとしたらボッブボッブって感じ。デブかわの代名詞だ。

「塩対応たすかる……」

 海に背を向けて左斜め向こうにある駐車場では、男性の姿が陽炎に揺られている。島太郎がその男性の方へ真っすぐ向かっているから、きっとあの人が自治会長なんだろう。追いかけるにはあまりにも距離が離れているので、さっきコンビニで買ったちゅ~るはリュック以外に行き場を失ってしまった。

 彼がいなくなってしまってはここにいる意味はない。来た道を引き返して、駐車場とは反対方向、砂浜へと真っすぐ足を運ぶ。見渡す限りに人はいなかった。この時期なら海水浴場として賑わっているはずなのに。海の家も当然ない。砂浜へ近付くにつれ、後ろにあったローファーのコツコツという音は躊躇いをみせて、やがて静止した。

「どうしたの」

 内海は時が止まったように動かなくなり、息も僅かばかりにしかできないようだった。視線は不健康に骨ばった脚にばかり向いて、珍しくつむじが見えている。足先で振り返ると、内海は僅かに後ずさった。

「どうしたの」

 今度はゆっくりと。繰り返した。内海の『ちょうどいい』を壊さないよう。

「————————」

「なんて?」

 内海はその場に蹲る。

「取り返しのつかないことをしちゃったら、どうしたらいいの」「誰にも赦されないことだったとしたら」

「なんでそんなこと聞くの」

 内海は膝に顔を埋めたまま、背中を大きく膨らませて萎ませた。

「あの、あ、ヒッ、ひやま……ったし、」

「内海ちゃんいたー!」

 公園の方から誰に甘えてるんだよっていう声が聞こえた。こちらに近づいてきていて、内海が顔を上げると、ヒールの鳴る音はさらに大きく早くなった。

 今日はどうしてこんなにもクラスメイトに遭遇するんだろう。————いや、すれ違うことはあっても、話すことがなかっただけだ。こんなにも話しかけられているのは、きっと内海がいるからだろう。それくらい内海は人を寄せ付ける。

「リナ。どうしたの」

 内海はパッと表情を変えて、膝を伸ばした。脂肪のない皮が隆起して萎む。内海が食肉として売られることになったら、脚はきっと使い物にならないんだろうな。

「まいまい組からここにいるって聞いてさ、リナ、もー急いで来ちゃった!」

 一人称が自分の名前で、教室にいれば頻繁に「リナはねぇ」を繰り返すのを耳にした。1年生から同じクラスだったから、誰かが私の名前を呼んだ回数よりも、彼女が自認する時の名前の方が多く聞いたかもしれない。

 マイカの声も似たような高い声だったけど、リナの声は明確に違う。初めてその声を聞いたとき、媚びる声というのはこういう声なんだと私に確信させた。

「それで、なんの用があるの」

 内海は早速苛立ちを隠せなくなっていた。ローファーのつま先をトントンと鳴らし、性急に話しを終わらせようと言いたげだ。

 リナのほうもそれに気付いたようで、矢継ぎ早に話した。

「内海ちゃんってさぁ、前に虐待? みたいなのされてるって噂、流れてたでしょ」

「あのとき、ちょっとやりすぎちゃったかなぁ、って、思ってェ」

 彼女の口から「やりすぎた」なんて言葉が出てくることに驚いた。そんなことは微塵も思っていないだろうというのが私の見立てだったから。

 というのも、リナは内海のいじめ騒動を先導し、収束するまでしつこく絡んでいたからだ。

 きっかけは昨年の暮れ、内海が母親に虐待されていることがクラスに広まったことから始まった。別クラスの男子が塾の帰り道、母親に殴られている内海を動画に収めたらしい。大スクープと言わんばかりのそれが私たちのクラスの男子のスマホへと渡り、無神経にもクラスのグループラインに放り投げやがった。元々「デリカシーなさすぎ」と女子から袋叩きにされている問題児だった。「内海ってギャクタイされてんの?」という彼の一文が全ての発端だったように思う。その動画は騒動が落ち着く間際に消えるまでずぅっと履歴に遺されたままで、私も一度だけ見たことがある。母親の振り上げた手が内海の頬へ、それはそれは綺麗にクリーンヒットし、内海がその場に尻もちをついている動画だった。あまりにも綺麗な流れだったことから、なんかのドラマのボツシーンだったんじゃないか説まで出ていた。

 母親に虐待されていること自体は事実だった。おじいちゃんが死んでしばらくして、小学校以来行方を眩ませていた母親が、内海とおじいちゃんが2人で暮らしていた家にやってきたのだ。娘に会いに、とか、そんなのは口実ですらなく、内海のおじいちゃんが残した遺産が目当てだったらしい。らしい、というのは内海から伝え聞いたことだから、根も葉も生えそろってはいないだろう。が、そこはなんとかごまかしていた。でも田舎の人間の探偵ばりの観察眼には負けてしまった。

 そういえば先週、顔腫れてたよね。体育の時やたら隠しながら着替えてるし。なんか制服汚くない?

 正確なものからイチャモンじみたものまで色んな情報が飛び交った。嘘でも価値のあるものなのだ。そしてそれを主に内海のことを気に入らない連中が囁いて、喧伝していた。その内の1人がリナだった。

 空を掴むような知識では飽き足らず、今度は本人に絡みだした。「あー……たただの親子喧嘩だよ」と濁した物言いがお気に召さなかったらしい。連中は遂にいじめまがいのことをしでかした。内海の自転車を上下逆さまにしたのは序の口で、着替えを邪魔したり、ノートを窓から投げたり、移動教室の隙に内海の席にイタズラをしたりなどなど、次第に大胆な行動に出始めた。内海はこういう事をされて然るべき人間なんだと吹聴して、同調を求めた。実際、内海のことをよく知らないであろう何人かはそれに加担した。

 しかし高校3年生の目は大人と比べても意外に冷ややかなもので、「社会人目前に何馬鹿なことやってんだ」と揃って睨みをきかせれば、先生の出る幕もなくその騒動は落ち着き、内海の虐待疑惑も自然消滅した。それが2年の学期末のこと。

 私は騒動が終結するまで、そのどちらにも参加しなかった。内海が虐待されていることが事実だということは、もうずうっと前から、それこそ小学生の頃から知っていたけど、どうしようかと思案したこともなかった。だって私にはどうしようもない。虐待なんて告発でどうにかなるものじゃない。今や高校生にもなって親に反抗ひとつできないなんて、と言われるような気さえする。讃えられることではなかったかもしれないけど、今となっては砂の底を探るようなものだ。たかが子供が、高校生ができることなんて大してないんだから。

 それに今さら参加するということは、内海の虐待疑惑の事実を知りながらも何もしてこなかった私がお気持ちを表明するということで。それこそ内海への侮辱に繋がるんじゃなかろうか。そう思い悩んでいる間に露呈してしまった。

「リナは、内海ちゃんがかわいそうだと思ったから、仲間に入れてあげたくってぇ……別に、リナはいじめてるつもりとかはなかったんだけどォ、その、内海ちゃんには伝わんなかったのかな~って」

 嘘だ。こいつ1ミリも反省してない。「ごめん」と一言だけ言えばいいのに思ってもないような歯切れの悪い言い訳ばかりを連ねて。この時間って一体なんになるんだろう。私まで舌打ちをしてしまいそうだ。代わりに吐いた大げさなため息にすら空惚けて、リナは尚も話すことをやめなかった。

「リナだって精いっぱい頑張ったのにさァ、いじめとか言われちゃって……ねぇ? リナは内海ちゃんのためを思って色々考えて行動してあげたのに、内海ちゃんはみんなに嘘ついて気を惹こうといてさァ。ちょっと酷くない? 内海ちゃんが虐待されてかわいそうだからっておかしいよね?みんなから変な目で見られて、先生からも怒られたんだよ? 内海ちゃんのワガママのせいで、リナ、傷ついたんだよ? わかるよね?」

 はじめは多少謝る気もあったのだろうスピーチは、徐々に「内海が悪い」という言説に置き換えられていった。

 雲は厚みを増して、辺りは急激に暗くなる。眩しさを感じて細めた眼裏は、内海の母親をチカチカと明滅させた。繰り返し再生されたであろうあの動画の中の、コンビニの明かりでぼやけていたのを含めても、顔を見たのは4、5回くらいのはずなのに。内海の愚痴の中で会った気になっていたのかもしれない。

 内海がこっちを見ているのを肌で感じる。つま先のスタッカートは聞こえなくなっていた。きっと今、番猫みたいな顔をしているんだろう。

 どうして内海はリナに大して本気で拒否しなかったのか、ちょっと分かった。リナは内海の母親に似ているのだ。もっと言えばクソガキに似ている。いつまでも駄々をこねている、子供になり損なったアラフォー。逆らえば、意にそぐわなければもっとひどいことをされると理性で理解していたからこそ、半年前も、今も、内海は何もできないんだろう。

 これは内海の問題だ。私には関係ない。関係ないけども……。

「あやまりなよ。みっともないよ。第三者から見てさ」

 リナはみるみるうちに赤くなる。「チッ……ハアッ!?」反撃されるとは思ってなかったって顔で大げさに舌打ちをした。私がさっき我慢したやつだ。

「アンタに関係ないでしょォ!」

 大きく1歩、踏み出した。向こうも負けじと目を見開く。犬の威嚇みたい。

「関係あるとかないとか、そういう話じゃないじゃん。第三者から見て、って言ったのが聞こえなかった? 悪いと思ってるならさっさと謝ればいいのに、出てくる言葉ぜんぶ自己保身の言い訳ばっかり。流行ってなくても小学生だってできることでしょ。それともなに。ひとりじゃ何もできないの? 内海のこといじめてる時もずぅっと取り巻き連れてたもんね。あの子たち、言ってたよ。『リナのせいで私たちまで白い目で見られてほんとメイワク~』って」

 私ってば、悪口と言い訳と口喧嘩の時は言葉がつらつらと出てくる。発している言葉の何割が真実なのか自分でも定かではないし、羅列の前後が合ってなかろうが関係ない。相手を逆上させられるであろう言葉であればそれでいい。こちらが冷静に見えるほど、相手が激昂するほど、分が悪くなるのは向こうだ。

「んなワケないじゃん!」

「今日だって、本当なら何人か連れてくるつもりだったのにひとりで来たんでしょ。おおかた、『関係ないから』とでも言われたんじゃない?」

「うっさい! きもいきもいきもい! なんなのォ!? アンタもリナが悪いって言いたいの! どうして。こっちは一生懸命してあげたじゃん! なんでみんなリナに謝れって言うの」

 金切り声と言って差し支えない高音。易々と通過させた鼓膜の奥で、キーンンと音が反響した。

「友達がチクチク言われているのは黙って見過ごせないってだけ」

「は? トモダチとかキモッ! よくそんな恥ずかしいこと言えるよね! バッカじゃないの!?」

「もういいよ」

 蚊が鳴いたのかと思った。それにいち早く気付いたのはリナの方で。彼女の半開きになった口を見て、内海の声か、と遅れて気づいた。

「もういいよ、ぜんぶ。私が悪かったから、なかったことにしようよ。だから」はやく、どこか。

 それから先は聞き取れなかった。喉の奥に留まろうとしたであろう嗚咽が、中指と人差し指を突っ込んだ時のような音を鳴らす。分が悪いと悟ったのか、リナは数歩後ずさって、こちらを目で見続けながらゆっくりと身体を傾ける。そうして甲高いヒール音は駐車場の方へ走り去った。

「大丈夫?」

 彼女の肩をさすった。二の腕から小刻みに震える手のひらは、俯いた口元に当てらている。長い前髪のせいで、見上げても表情は分からなかった。泣いてる? 口には出さない。

「海行こ、海。ね?」

 内海はコクコクと何度も頷いた。そして大きく息を吸った。

 波打ち際でウミネコらしき2羽の鳥の影が足元をつつく仕草をしている。小魚か何かが落ちているんだろう。私たちが砂浜へと足を踏み入れた途端、大慌てで飛んで行ってしまった。私が前で、内海が後ろ。リュックの左側、長さ調節用の金具を掴んで、たまに引っ張られる距離を保って歩いた。

 内海の「海行こうよ」はどこで達成されるんだろうか。今、ここで? 海水で足先を湿らせればいい?

 足を止める。ウミネコがいた場所をその足で踏んでいた。何もいない。これ以上はスニーカーが濡れる。既に全身汗だくで濡れているのと変わりはないけど。そういえば巻き爪なんだった。巻き爪って沁みるのかな。

 内海だってそうだ。一張羅————この場合は一張靴か————のローファー。濡れたら困るだろう。学校用のもので、3年使い続けられたそれは「物持ちがいい」で誤魔化せなくなっている。つま先の縫製はほつれて全体的に傷だらけだ。どうしてこんな真夏に、なんていう考えにはこれまで及ばなかった。私が疎いだけでこれもファッションだと思っていたけど、どう考えようが長歩きに適してはいない。

「……入る?」

 首は縦に僅かばかり動いた。私はスニーカー、靴下の順で片足ずつ脱いで、放った。内海もそれに倣った。裏返った内海の靴下には穴が開いていた。

 波の去り際に足を置けば生暖かい波がすぐさま飲み込む。遠くの海は青く、揺らめく足元は雲の白さを反射させた。

 目を瞑る。一瞬、乾きに包まれたかと思うとまたぬるさが覆う。踏ん張るように足の指を握りしめてみる。海は私を連れて行ってはくれない。グラグラと揺れる感覚は熱中症なんだろうか。

 振り返ると内海はまだ行儀の悪い靴たちのそばで突っ立っていた。

 引きで見る内海の身体は不自由なのだと見てわかる。「スリム」や「年相応のダイエット」という言葉を大きく飛び越えて。制服から解放された腕や脚は異様なまでに骨ばっているし、爪の先まで栄養が行き届いていないのが見てわかった。濃いグレーの緩い造りのスウェットシャツは体形を隠すためだろうか。

「私、海は好き」

 ふと口をついて出た。「こっちへおいでよ」が正解だった気がする。どうやら頭がひとり歩きしているらしい。

「私は嫌い」内海の返事は些か冷たいものだ。

「なんでよ」

「海って、傲慢じゃん」「その日の機嫌で、私に言うことをきかせようとして……」

 台風の時の波浪警報とか、確かにそうかも。仮に隕石がなくたって、私たちの町はいずれ津波で消えてなくなってしまうのだと、予言めいた呪文を繰り返し聞いた。

 ————誰のこと、って聞かなくてももうわかる。

「今日は機嫌が良いみたいだよ」

 ほら、と海水を蹴飛ばした。内海は怪訝な顔で一歩引いたけど、水しぶきは彼女の足元にも届かなかった。

 今かもしれない。さっきの続きを聞くタイミング。

「さっきのさあ、『取り返しのつかないこと』ってなんのことなの」

 しばらく黙りこくって、内海はすぐ横に落ちていた勇者の剣みたいな木の棒を拾って、その場で何かを書き始めた。何を描いているのかはここからだとわからない。

「隕石が落ちて全部終わっちゃうからって、めちゃくちゃなことしちゃっても……いいのかなって」

「『ギャグマンガ日和』の『終末』みたいな?」

「漫画読まないからわかんない」

「そっか……」

「例えば、例えばだよ。人を殺しちゃったりとか……」

 それは何かを描きながら言うことなんだろうか。その「人」っていうのはきっと————

「赦されないよね。そんなこと」

 返事をしない私に対して自嘲気味に笑った。笑って続けた。

「お母さんがね、『最期くらい家に居なさい』って言ってたんだ。今までは家に居たら殴ってきたことだってあったのに。変だよね。だから、何を今更、ってお母さんのこと、蹴飛ばしちゃった。……揉み合いになって、その拍子にそうなっちゃって。呼んだけど返事がなくて。すごい音がしたし、脚が変な方に向いてて、怖くなってそのまま置いてきちゃった。『家に居なさい』って言われたって……あそこはずっと前から私の家じゃなくなってたのに」

 昭和までなら大罪だったんだろう。だけど、そうされても仕方のないことをあの人がしていたのも事実だ。それに故意じゃなかったなら情状酌量の余地もある。そもそも隕石でぜんぶ有耶無耶になったら、殺人罪もクソもないんだから。内海の思い描く罪を裁くことのできる人間はこの世にはいなくなっている。内海が本当に赦された気になれるのは、内海自身が赦す時だけだ。

 まあ、もしかしたら今頃は超能力者が生放送中に隕石をどこかへ飛ばしている最中かもしれないけど。

「赦すかどうかは内海が決めなよ」

 だけど同情はしない。共感は安い暴力だということを私は知っているから。

「ぁ、そ。比山はいつもそうだよね……」

 内海は「い」の口で歯を食い縛る。

「比山はッ、どうでもいいんだよ私のことなんて! 『内海に任せるよ』ってさ、いっつもそればっかり。興味ないんだよ! 私なんか!」

 悲鳴に近い声が、波の音を消し飛ばす。他のものとはどうとっても違うそれは、生命の噎び声だ。

 描いたものをクリグリとかき消して、内海は木の棒を私に向かって投げつけた。潮風に煽られたのか見当外れのほうへ飛んでいくそれを見ながら、内海の母親もこんな声でいつも喋っていたな。とか、「蛙の子は蛙」ってほんとなのかな。とか、そんなどうでもいいことばかり考えていた。

 ————私は本当に内海のこと、こんな考え事みたいにど思ってるのかな。

 肩で息をしながら内海は漸く足を動かした。

「比山がいるから我慢できたのに……ずっと、一緒だと思ってたのにさ…………」

 一歩ずつ、真っ直ぐ、こちらに近づいてくる。

「でも隕石が落ちるって知って、私、すごく安心したんだ。比山はこのクソみたいな田舎でクソみたいな私と一緒に死ぬんだって」

 内海の足が海水を踏み潰す。

「それって心中みたいだよね」

 海の臭いがする。それは内海から発せられていて、デジャヴみたいな記憶が明滅した。

 私を見下ろすその口元は笑っている。ブラウンレッドに染められた唇が、不健康にくすんだ口回りを際立たせている。目はどうなんだろう。湿っぽい前髪をかき分ける勇気はなかった。私の左腕に手を伸ばして、握力測定みたいに握られた。指先まで流れた汗が波と一体化していく。

 畏れられることはあったとしても、恐れることはないと思っていた。

「————私は」

 だって内海と私は友達で、————そうじゃない、そうじゃないんだよ。

 対等だと誤認していた。初めからこちらに傾いていた天秤が、今更そっぽを向いたところで驚くことはないだろう。

 頭が、とろりと揺れた。

「私は、どうでもいいよ。自分のことも、内海のことも」

 一瞬、緩んだ内海の手を振り払う。爪の食い込んだ痕と手形が薄っすらついていた。

 内海はいま、どんな顔で私を見ている?

「ごめん、帰る」

 左腕に向けていた視線をそのままスライドして、私は内海の脇をすり抜けて、放り投げた靴と靴下を拾い集めて砂浜を出た。途中、内海が振り返る気配がしたけど、気付かないフリをした。

 足についた砂を公園で洗い流して、靴を履いても、内海は追いかけてはこなかった。こちらからも堤防と松の木が邪魔して、砂浜の方の様子は見れない。戻る気もない。

 呆れたかな。失望したかな。振り返った内海はどんな顔を、目をしていたんだろう。

 蝉の音が頭の奥まで響いてくる。ここにはいたんだ。

 今はこれでいい。頭の中を満たしてくれるならなんだって。

 何も考えられないし、何も考えたくない。

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楔の外れたそのあとで 下村りょう @Higuchi_Chikage

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