楔の外れたそのあとで
下村りょう
1.致命的な宿命は私たちの顔をしていたか
海を見ると思い出す。
小学校の校外学習で、防災教育センターに行った。
入ってすぐ、子供向けアニメーションビデオを見た。
私たちどころか大人も生まれていないような大昔の、1人の男の奔走劇。大災害が起こった時に、男が自己犠牲や自らの危険も顧みずに多くの人々を救った、とかいう話だった気がする。
ビデオが終わると職員は前に出て力説した。ビデオにあった災害は本当に起こった出来事です。でも、その前も後も、何度も何度も繰り返されてきたのです。これから先も繰り返されるものなのです。というようなことを小学生の私たちに訴えかけ、別のビデオを幾つか再生した。
過去の災害のイメージ。
現在の町が壊れていくシミュレーション。
人々に降りかかる災害、そしてそれらのメカニズム。
女の子の何人かは途中泣き出してしまって、先生に背中をさすられながら外に連れ出されてしまった。茶化すような子は誰もいなかったように思う。私たちは流れ続けるビデオをただ見つめた。
怖くなかったわけじゃない。強すぎた冷房も相まって、身体の芯から震えるような感覚だった。
恐怖というよりももっと、もっと根源的な畏れだった。
自然とか、運命みたいなものに私たちは抗えないということ。いつかは壊されてしまうのだということ。
それが必然なのだということ。
免れることができないなら、終わりを迎えることが決まっているのなら、私たちはどうして生きているのだろうと、そんなことを考えていた。
ビデオが終わってから職員は繰り返した。この出来事はいつか起こります。災害からは逃れられません。この国にいる限り、いつかは遭うのです。備えましょう。生き延びましょう。助け合いましょう。
海を見ると思い出す。私たちはいつか呑まれて、営みさえ崩れてしまうのだということ。虧盈に従い瞬いているのだということ。それでも私たちはしぶとく生き残ってきたのだということ。
大昔の男が燈し続けていた、仄黯い海の中でポツポツと浮かんでいた、あの火が。
あれが私たちの楔なのかもしれない。
「来週、地球終わるらしいよ」
昼休憩中にクラスメイトの1人が他人事みたいに放ったのが最初だった。私がそれを知ったのは。
地球最後の日といえば、世界各地で暴動が起きて、隕石よりも先に生命の危機が訪れるんじゃないかと私は思っていた。でも、少なくとも私の周りはそれに限らなかった。昼休憩が終わっても眠くなる数学の授業はいつも通り始まったし、嫌いな体育の授業では全く知らないK-POPの曲でダンスのテストがあって足がもつれるばっかりだった。
平和な学校生活。馴れ合いばっかりでくだらないって思う自分が結構嫌い。友達がいないからって僻んでイキったことを考える自分が嫌だったし、そういう嫌なことを考えてるから友達がいない悪循環。そういう時は考えがどんどんネガティブな方へ逃げていって食傷気味になる。
帰りのホームルームが終わって礼をした直後、あれ、もしかして地球って滅亡しないの? って過ぎった瞬間から、人生n回目の飽き飽きするような大反省会が始まった。
あの時の会話で返事がちょっと食い気味だったの相手からしたら気持ち悪かったよなとか、体育の前にもうちょっとあの曲聞いてれば振り付け間違えなかったのかなとか。思い出しただけで背中がゾクゾクしてきてうわ~! ってなる。人前で叫んだりしたら恥の上塗りになるってわかってるから全身を走らせる。人知れず脛の筋肉を伸ばして逃がそうとするけど上手く逃がせなくて、ゾクゾクしたものがまた背中へ跳ね返ってきた。
そういう時に私は音楽を聞く。ヘッドフォンをして、音が漏れないギリギリのボリュームで再生マークを押す。曲名はなんでもいい。クラシック、洋楽、K-POP、アニメ、そのどれにも知見があるわけじゃない。作曲者も歌手も知らない、インターネットで偶然出会っただけの曲ばかり。誰も知らない。私の事を知り尽くしたプレイリスト。後から流行に乗っていることに気付くこともあって、そういう時はちょっと悔しい気持ちになる。
でも反省会の途中はアップテンポの曲が好きだ。歌詞が早くてラップみたいだと尚良い。歌詞の背中を必死に追いかけて、語り手になりきると自分という存在が少し透ける気がするから。
家に帰った頃にはSNSは地球滅亡の話でもちきりだった。どうやらバカでかい隕石が地球に衝突して、津波とか火山活動とかが起こるらしい。
といっても、「可能性があるだけで大きく逸れるかもしれない」「騒いでるだけ」「陰謀論」なんてソースの分からない意見があるばかりで、正確らしい情報は英語の記事ばっかりだった。まとまっていないだけの情報を見ていたら、スケールが大きくてまた反省会が始まりそうだったのでイヤホンをして寝た。
学校が休校に、というか最後の登校日になったのは地球滅亡予定日の3日前だった。
その頃には地球滅亡のシナリオの輪郭がしっかりしてきて、発表直後のオカルトじみたガセは随分と減った。テレビでは地球ができたばかりの頃とか恐竜がいなくなった時の隕石がどういうものだったかを懇切丁寧にしつこく特集してくれたりして。みんなちょっとだけ浮足立っている。金環日食の前に似ているかもしれない。「なんか分からないけど、金環日食っていうのがあるらしいよ」「へえ、ちょっと見てみようかな。いつなの?」「さあ?」 みたいな。
「3日後に隕石が地球に衝突すると発表がありましたが、羽目は外さないように。以上。起立」
その日ですら、先生は夏休み前の諸注意を話すようなテンションだった。大人は「地球滅亡」なんて言葉を死んでも使いたくなさそう。あくまで隕石が落ちるだけです。それ以外、私たちの生活は何の起伏もありません。地球の裏側の関係のない場所の話です。そんな言葉が語尾についていそうな話し方。
そういった大人の態度は、私たち子供が「地球が滅亡する」って騒いでいるのを恥ずかしい事のように感じさせる。クラスメイトは「明日なにする?」とか浮足立ってて、話している内容だけ聞けば、確かに地球じゃなくて学期が終わるだけなんじゃないかと疑ってしまいそうだった。
今日だってそう。遠くで救急車のサイレンが聞こえる、いつも通りの閑々たる田舎町のままなのである。私もそれに倣って、自室のベッドに寝転んで、ヘッドフォンでお気に入りの音楽を聴きながらゲームをしていた。
畑の多い町だ。観光地もなければこれといった名物もない。かといって田舎すぎるわけでもなく、最寄りのコンビニは家から歩いて30分くらい。山と海に挟まれただけの、そんな田舎。年寄りは時間の流れが緩やかなこの土地を愛して、若者は刺激を半ば諦めて根を張っていた。
私は畑のその向こうに広がる海が好きだった。強い緑の奥で負けじとギラギラ輝いて、ときには黒くて雄大なひとつの生き物のように見える海が好きだった。学園モノみたいに海で仲間とはしゃぐ、とかは嫌いだけど、頭皮をジリジリと焼かれながら生暖かい波に足を飲み込ませるのは好きだ。満ちて、引いて、たまに生き物とかそうだったものが流れ着いて、それを眺めて。目を瞑ると平衡感覚がなくなってグラグラする、海とひとつになったような感覚がするのは心地が良い。
同時に、それを感じることはもうないのだと思うと、ちょっと空しい。
海の音を思い出していると、操作していたキャラクターが死んでしまった。ゲーム好きのお父さんが「俺が子供の頃は~」なんて言いながら、膝に乗せた私にコントローラーを握らせた。そんな人気タイトルのリバイバル。といっても何年か前に発売されたものだけど。
その新作がもうすぐ発売されるらしい。サブキャラクターが主人公のスピンオフ作品。名前はなんだっけ……。
海の臭いがする。
クーラーで機械的に冷やされたのとは違う熱気で、自室のドアが開いていることに気が付く。仰向けのまま首を後ろにグッと伸ばして出来損ないのレスラーブリッジみたいな姿勢で目を向けると、白寄りのショートパンツとひょろ長い脚が見える。ちょうど内海がドアを閉めようとしていたところだった。
内海が口をパクパクさせる。
「ひやまー」曲と曲の合間でようやく私を呼んでいることに気がついた。
飛び起きながらヘッドバンドに指を入れてベッドの上へと放り、内海の方を振り返る。日向に足を踏み込んだ内海の丸い顔が白く反射して眩しい。「元気だった?」と尚更白い歯を剥き出しにした。ヘッドフォン越しのくぐもったそれとは違う内海の声。顔に似合わない高めの掠れ声。あーこれこれ。内海の声だ。
「なんか部屋きれいじゃん」
私はそうでしょうと得意げに口の端を上げてみせた。一昨日までの自室は足の踏み場もないくらい散らかっていた。「生ごみはないからもういい」とお母さんすら匙を投げた汚部屋を、訪れる度に片付けてくれたのは内海だけだった。それが勉強机とベッド、その脇のカラーボックスに収まる程度の物だけになったのだから、そう言われて然るべきだろう。机の引き出しとクローゼットの中は悲惨なままだけど。とは口が裂けても言わない。
内海は部屋一面に敷いたラグの毛を足で逆向きになぞる。床に散らばっていた赤だとか黒の本とテキストの山は昨日捨てたから、いつもより広く見える。そして寂しさもひとしおに染みた。浅い緑のラグはさながらビルも何もなくなって野生に還った広原ってところかも。
「自分で片付けたの?」
「もち。誰も片付けてくんないしさ。地球滅亡するし、最期くらいキレイにしとかなきゃだよね。立つ鳥跡を濁さずってやつ?」
「跡ごと消し飛ぶのに?」
「うるさいな。気持ちの問題でしょ」
さいご、さいごね。と内海は呟く。
「ね、散歩しようよ」
「今から?」
「当たり前じゃん。『思い出したら吉日』って言うでしょ。ほら早く着替えてよ」
パジャマの私のベッドから引き摺り下ろす。乱暴なその手つきは私に対する何かを訴えているようだったけど、私がそれを考察する間もなく、内海はクローゼットの方へ向かった。
「あ、そっちは!」
私の静止に内海は首だけで応対しながら、手は既にクローゼットのハンドルを引いていた。首から下は脳の急停止が間に合わなかったらしい。
押し込められていた物が決壊して、私は天井を仰いだ。
数日ぶりの外は夏の気配ばかりが際立って、陽を避けて空調に当たり続けていた体には堪えるものがある。本来なら夏休みに入る手前だったのだ。「外に出る」という選択肢に結構後悔。
家を出て10分と経っていないにも関わらず、私たちは近所の公園の木陰に閉じこもったベンチで休憩していた。ため息のように大きな口呼吸はパンティングそのもので、首の後ろを流れる汗が不快だ。
通称『電車公園』と呼ばれるこの公園は小学生にとって格好の遊び場だ。他の公園や小学校にはない珍しい遊具がある。それが電車ブランコで、『電車公園』と呼ばれる所以のひとつだ。
鬼ごっこやかくれんぼができるほどには広くて、遊具も多種多様。近くに車通りの多い車道もないときた。子供たちが集まるには充分だろう。今日もこんな暑いっていうのに、公園の中央では小学生低学年であろう子供たちが缶蹴りに興じている。それを見ていると懐かしさが芽生えてきて、私たちが地球滅亡のすぐ隣にいることを忘れてしまいそうになる。嫌だな。こういうしんみりしたのは。
かぶりを振って内海の方を見やる。彼女はというと子供の方を熱心に見つめていた。
私よりも頭一つ上背のある内海をわざわざ見上げるのは、正直疲れる。それでも見上げなければならないという思いに駆られるのが不思議だった。
内海は可愛いかと問われれば首を傾げる容貌だ。ヒョロリと伸びた背と脚に不似合いな丸顔で、顔のパーツはどちらかというと中心に寄っている。お世辞込みなら10人中8人は「可愛い」と言いそうな見た目。
クラスメイトが「スナネコみたい」と言っていた。確かにちょっと似てると私も思った。
また下世話な男子曰く「ベッドでは甘えるタイプの顔」らしい。1日1回は足が攣る呪いにかかれと思った。
十人並の顔の、一等目立つところにある目に、どうも私は吸い寄せられているらしい。
獣みたいだ。瞬きをせずに見開いて、じっと見つめているようで時々焦点が合わなくて、心の内は読めなさそうな、そんな目。正面から見ることはしないけど、私はこうやって目が合わないようにしながら内海の目を見上げるのが半ば癖になっていた。
内海がこちらを向いた。汗の臭いと石鹸の匂いがアンバランスに混じり合って、湿った空気に乗ったそれば鼻腔を強く、ゆったりとなぞる。そのすぐ後を少し甘い臭いが付いてきた。どこかで嗅いだことのある臭いだった。海の臭いに似た、何か強烈な。内海と目を合わせたくなくて、私はなんとなしにすぐ後ろの藤棚へと目を移した。
「ひどい目にあったよ全く」
内海はそう言いながら缶ジュースをグイっと呷る。公園から見て道路を挟んだ向かいにある市民センターの自販機で、私がお詫びとして奢った炭酸ジュースだ。
「だから、ごめんって言ったじゃん」
「可哀想だよね、私って。友達の部屋で生き埋めにされるなんてさ。もうちょっと誠意が欲しいよねえ」
意地悪にそう笑って、内海は缶を左右に揺らした。水滴を散らしながら揺れるそれは、中からチピチピという音が聞こえる。もうないということだろう。
「あとでアイス奢るからさ」
喉から絞り出したような声が歯の隙間から漏れ出る。相変わらず変な笑い方をする奴だ。
内海のクマの下まで伸ばされた、汗で額に張り付いている前髪を端に流してやりながら私は尋ねる。
「今日まで何してたの?」
最終登校日はもう3日も前だ。内海ならもっと早くに来るものだと思って健気に待っていた自分が今となっては馬鹿らしい。
「んー、その辺をブラブラしてたかな」
内海は空を仰いで舌を出し、その上で缶を返す。少量のジュースがチョロっと音を出して飛びでて、それっきり振っても出てこなくなった。
「1人で?」
頷く内海、うなずみ。顔が揺れた拍子に分けた前髪が元に戻る。いつもならくるんと内側に巻いているのに、今日はカートゥーンのギークみたいな前髪だ。
「私も誘ってくれれば良かったのに」
「人間ひとりになりたいときもあるのよ。そんで、最期は大切な家族と過ごすのさ~あぁ~」
「ロマンチストのオペラ歌手かよ」
家族じゃなきゃお隣さんでもないし、と付け足す。
「人はみな泣きながら生まれてくる」
私は思わずどういうこと、と吹き出した。
誤魔化されるのは嫌いなはずなのに、内海のそれはどうしても許してしまいたくなる。突き放しているとかじゃなくて、それが内海の『ちょうどいい』だと分かっているから。寂しさよりもそういう気持ちになるんだろうと思っている。
少し間隔を空けて並ぶ2つ隣のベンチで、3人の母親らしき女性たちが話しながら時折子供たちのほうへ目配りしている。夜に散歩へ出かけるようなラフな格好で、化粧は多分、そんなに濃くない。私たちは休みになっているとはいえ、カレンダーは平日だ。なのにここにいるということは、専業主婦か、あるいは————
一番端の、私から最も遠い位置に座る女性と目が合う。3人の中で唯一髪が長く、心なしか一番ツヤがあって若々しく見える女性は、こちらを訝しんでいるように見えた。あっ、と私は内海の方へ視線を戻す。不審者だと思われたかも。
「そういいえば、おばさんとおじさんは?」
内海は額に張り付くのが鬱陶しいと言わんばかりに前髪を掻き上げた。
「仕事。もうすぐ終わっちゃうっていうのに薄情だよね。お金なんて稼いだって、もう意味ないのに」
お母さんは私が中学に入った途端、正社員で働き始めた。「あんたを大学に行かせるためにお母さんたち頑張るからね」が口癖だった。お父さんは定時で帰ってくることがなくなった。
平日はラップのかかったお皿を冷蔵庫から取り出して、電気の点いていないキッチンで電子レンジの赤いような、オレンジみたいな色を見ていたのが昨日のことみたいだ。そういえば昨日もそういう感じだった。あれは何時だったんだろう。まだうっすらと青い光が外に見える頃、辛うじて家具の輪郭が見える部屋で、独り晩御飯を食べた。
この地域は大学進学率が異様に低い。そもそも親世代が中卒も珍しくない風土だからだ。
高校3年生になってから知ったけど、私の通う高校は7割くらいの生徒が就職を選んでいる。残りの3割でさえ大半が専門学校希望で、金のかかる上に大して手に職つくわけでもない4年制大学に、わざわざ実家から出てまで入ろうなんて考える頭がないのだ。
実際身の回りで大卒なのは学校の先生か、独身のツンケンした態度の親戚のおばさんくらい。大人は「すごいわねえ」と口では褒めるけど、どうせこっちに帰ってくるんだから勉強する意味なんてないじゃないと言いたげな人が多い。
そんな中で私の両親は意外にも私に大学へ進学することを推奨していた。小学校の頃は普通に成績が良くて教師からの評判も悪くなかったから、「高卒の私たちにこんな子が生まれるなんて……!」と特にお母さんが親バカを発動させたらしい。元々そんなに勉強が好きだったわけじゃないのに、期待されてはやるほかなかった。
でも親は「大学に進学した娘」が欲しかっただけなんだろう。
結局、地元から近いというだけで名の知れている私立大学に指定校推薦が決まった。まだ募集の段階だから確定ではなかったけど、聞くところによると指定校推薦でその大学を希望していたのは私だけらしい。あとは名前だけ知っているクラスメイトが2人ほど4年制大学への進学を希望していて、1人は違う大学への指定校推薦を、もう1人は入りたい大学がないから大学受験を希望しているらしい。だから私は出願さえすれば10割の確率で合格すると担任は三者面談で言った。それって100%じゃん、と突っ込まれるのを待っているような風だったから意地でも言わなかった。お母さんはよくわかっていないようで隣でうんうんと機械みたいに動かしていた。
憧れの○○さんがいるから絶対に受からなきゃ! とか、センター試験に向けて悔いなく勉強するとか、3年間の努力とか、そんなもんなかった。対して思い入れもないそこそこの大学に、適当な理由で学校の名前を使って受かっただけに過ぎない。担任は「今までの頑張りが認められたからこそ推薦という切符を手に入れられたんです」なんてクッッッサイことを言ってお母さんの目を潤ませていた。
そんなこと今はどうだっていい。せっかく内海といるんだから。
「————そっちは?」
「……こっちもそんな感じ。案外、大人は信じてないのかもね」
「信じられない気持ちはわからなくもないけど」
病気でもなんでもないのに、あと数時間後にはマントルに飲み込まれてポックリ逝くんですよ~なんて、信じる方が本来は馬鹿らしいんだろう。でも、これが本当。信じないという姿勢は自分たちの死体を直視できないだけの臆病さに直結しているんだと思う。
「下を向く人間に現実はわからないものさ」
ほら、と内海が上を指す。小手をかざして眩しさに耐えながら見上げると、空に黒い点が一つ。
隕石である。ニュースでその姿は何度も見た。今はまだアリみたいに小さく見えるそれが、この広い地面に立つ人間全てを消してしまうのかと思うと、スケールの大きさに背骨がザワつく。
「ね、海行こうよ。隕石落ちる瞬間とか見れるかもしんないし」
振り上げた足を地面に叩きつけるようにして立ち上がる。反動で少し跳ねて。痛くないのかな、それ。
「えー……無理だって。だってグアムとかその辺に落ちるんだよ? それに暑いし」
私の部屋に戻ってのんびりしようよ、と続けようとした。内海とプレイしたいと思って買ったゲームがクローゼットの奥底で熟睡しているから。
ちぇ、と内海は缶を放った。大きな弧を描いてゴミ箱の縁に当たり、漫画みたいにカコーンと跳ねる。それを見た缶蹴りをしていたうちの1人が蹴飛ばして、今度はゴミ箱へ真っすぐ落ちた。隣から歓声が聞こえる。「将来はサッカー選手ね!」なんて白々しい。
女性たちのもとへ走る子供を追う内海の輪郭を視線でなぞった。唇をキュッととがらせているその横顔は港に居ついているボス猫にそっくりだった。
「なに? 島太郎みたいな顔して」
「島っ! そんなブサイクな顔してないってば! ……どうする? 部屋でゲームする?」
考えていることはいつだって内海にお見通しだ。きっと最初から私が断ることも想定していたに違いない。だから内海の声には落胆した調子がなかった。私という人間にそういう期待をされている。そんなことが分かってしまって、付き合いが長くて良いことなんて何もないな。単純な奴って思われてるみたいでちょっと嫌いだ。
「まあ、走って行けばすぐなんじゃない?」
すっくと立ちあがって私は駆け出した。状況が飲み込めずに慌てた声を出している内海に向かって声を張り上げる。「海まで競争して私に勝てたらアイス奢ってあげる!」
私が公園を出たとき、内海はまだ木陰の中にいて、大慌てでショルダーバッグを肩にかけているところだった。
「待ってよ比山ぁ~」
待つもんか。反抗するのが私の密かなマイブームかもしれない。情けない内海の声を無視して、私は走った。
太陽がジリジリと頭を焼いている。頭皮から生まれた汗が鼻根に沿って流れる。途中、風圧に負けて右目に入った。ナトリウムが染みて咄嗟に右目をぎゅっと瞑る。
まだ走り出して10数秒も経っていないのに、どこもかしこも汗だくで、リュックサックが揺れてお尻に何度もぶつかる瞬間に背中の汗が冷たいことに気付く。ズボンと服の重なりが恨めしい。
夏って嫌いだ。陽キャが騒ぐし、35度超えるし、空調に当たり続けると逆に寒くて温度調節難しいし、胸を刺激するし、ナマ足疑惑のマーメイドもきっといるし。
でもこうやって走って空気に溺れるこの時間は嫌いじゃなかった。
上を見上げた。青い空の中で黒いシミがさっきよりも広がっているような気がする。
今日、地球は滅亡する。つまらない作品の出涸らしみたいなありきたりの出だしだけど、どうやらフィクションじゃなくてリアルらしい。
町のどこかを走っているサイレンみたいな声量の比山の声が聞こえる。
子供を見つめていた内海の横顔を思い出した。一瞬、一瞬だけ。夏の光が彼女の目に反射して違う人みたいに見えて、少し怖かった。
楔の外れたそのあとで 下村りょう @Higuchi_Chikage
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