黄色い帽子

増田朋美

黄色い帽子

その日も暑い日であった。まあ夏であり、梅雨の季節というのだから、暑いのも当然といえば当然でもあるけれど、でもなんだか居づらいなと思ってしまうのは、仕方のないことであろうか。それでも、なんだか疲れてしまうのは、なぜなんだろうか。

その日も、ピー助さんが、清笛のレッスンのため、製鉄所を訪れた。もう夢路くんは、補助がなくても、茉莉花の旋律を吹けるようになっていた。まだ、ちょっと間違えるところもあるけれど、一生懸命吹いているのを見て、水穂さんが思わず、

「お上手ですね。」

と、言ってしまうほど夢路くんは上手だった。

「それなら、他の曲も吹いてみましょうか。ついでに、音符の種類とか、楽譜も覚えようね。楽譜が読めたり書けたりするようになれば、作曲もできるようになる。そうなるとね、誰かに曲を作ってプレゼントしたり、誰かが描いた詩に曲をつけて、それを更に立派にすることだってできるんだよ。音楽って、そういうものだから。そういうね、すごいものだって、夢路君もわかってくれると嬉しいな。」

ピー助さんは、にこやかに笑った。

「じゃあ、僕も曲がかけるようになるの?」

夢路くんがいうと、

「はい。基本的に楽器を扱えば、作曲もできるようになる。それができたら、世界が変わって見えるよ。ほんと、自分の言いたいことを、曲に現して、相手の人に伝えることができるって、すごいことだよ。じゃあ、今度は、九連環を吹いてみようね。」

ピー助さんは、そう言って、夢路君に五線譜を渡した。

「ありがとうございます。おじさんこの曲のタイトルはなんて読むんですか?」

夢路くんは、にこやかに言った。

「ええ、きゅうれんかん。明清楽の代表的な曲だよ。他にも曲は色々あるんだよ。」

「みんな漢字ばかりなの?僕どうしても読めないや。」

ピー助さんがそう言うと夢路くんは言った。

「それなら、学校へ通ったらいいよ。学校は、そういう必要なことを教えてくれる。そういうところなんだよ。」

ピー助さんはそういったのであるが

「でも僕学校は嫌い。ママに叱られるから。」

「そうなんだ。学校の成績が悪いと、お母さんに叱られるのであれば、叱らない人になんとかしてもらいなさい。それはね、君が持ってた大事な権利でもある。」

ピー助さんは夢路君に言った。

「いいかな、夢路君。別に産んでくれた人が、一番偉いというわけじゃないんだよ。ここにいる、水穂さんだってそうだったの。水穂さんは、パパとママに、捨てられて、村の代表に代わりに育てて貰った。だから、こうしてピアニストとしてやれるようになったんだよ。そうだよね、磯野さん。よく言ってたじゃない、音楽学校に入学する列車では、村中の人が見送りに来てくれて、まるで出征するのと同じような感じだったって。水穂さんは、村全体がそうやって見送ってくれたんだね。だから、産んでくれた人のそばに居れば必ず愛されるということは無いんだよ。そこはちゃんと考えておいてね。」

「あんまりそのことは、話さないでくださいね。」

水穂さんが、ピー助さんに言った。

「いいえ、水穂さん、人間の人生なんて不正解というものはありませんし、正解もありません。誰の人生でも教訓は得られます。得られない人生なんてありません。僕は、いろんな人を見ましたが、いろんな人生があって、いろんな人がいて良いと思うことが大事なんですよ。」

と、ピー助さんはにこやかに言った。

「そうなんだねえ。僕も学校へ行ければ、楽しくなるかなあ。」

夢路君は、考え込むように言った。

「うん、学校はいろんなことが学べていい場所だからね。それに最高のところじゃないのかな?だって、何でも知っている先生から、いろんなことを教えてもらえるんだよ。そんな幸せは、子どものときだけの特権。だから、ふんだんに使って、先生を困らせるくらいの生徒になってあげてね。先生もそういうことすれば、喜ぶんだよ。」

「そうですね。あんまり学校のことをいいところだと言うのは、どうかと思いますが、でも確かに、学校は本来そういうところですよね。本当は、成績のことで差別したり、いじめたりしては行けないところだよね。そういうのがない学校を探すのが、今は難しいんだろうけど。」

ピー助さんと水穂さんが相次いでそう言うと、

「そうなんだね。僕のこと見てくれる学校があるかな?」

夢路くんは小さな声で言った。

「はい。ただですね。小学校というのは、非常に難しいと思います。中学校や高校は最近作られるようになっていますが、小学校は、なかなか作るのが難しいと言うことです。なのでこのあたりに、夢路君のような事情がある生徒さんを見てくれる学校があるかどうか、、、。」

水穂さんが心配そうに言った。確かにそういう事情がある生徒さんを受け入れてくれる学校は、なかなか例がない。

「海外なら、カヴァネスとかチューターを雇って、ホームスクーリングと言って、自宅で学問を学び、アビトゥーアとか、バカロレアなどと呼ばれている試験を受ければ、大学に進学をすることが認められますが、日本はそうじゃありません。一応、国際バカロレアというもののありますが、その合格者を受け入れてくれる大学は、日本ではほとんどありませんね。だから、そういう制度が、日本にもあればいいんですけどね。そうすれば、もっと、教育を受けるのが楽になってくれるんじゃないかなあ。僕も確かに学校というものに縛られなくても、高等教育を受けられる制度があれば、もう少し世の中が変わると思います。」

ピー助さんは教育者らしく言った。

「まあ、そんなことを言っても仕方がありません。そういうことなら、夢路くんを受け入れてくれる小学校を探しましょう。富士市内には確か、林田林間学校とかありましたよね?」

ピー助さんは、タブレットを出して調べ始めた。

「林田林間学校?」

水穂さんが聞くと、

「ええ。一度、演奏に行ったことがあります。慰問演奏で。もしかしたら、なにか相談に乗ってくれるかもしれないから、聞いてみましょうか?」

と、ピー助さんは言った。彼の顔の広いところは、水穂さんもびっくりすることがある。それと同時に、事情がある子どもたちを預かるビジネスがうなぎのぼりに増加していることも、ピー助さんは慰問演奏などで教えてくれている。それも、彼が慕われている理由の一つだろう。

「ああ、ありました。ほら見てください。富士市の天間にある、事情がある生徒さんを預かる小学校です。生徒さんは、いじめられて学校にいけなくなったり、うつ病などになってしまっている生徒さんばかりです。ここであれば、彼を引き取ってくれるのではないかな。一応、寮もついているようなので。」

ピー助さんは、タブレットを動かしながら言った。最近は、そういうふうに、すぐに調べることができるから嬉しい限りであった。そういう施設は割と検索に引っかかりやすくなっており、すぐ見つけられるようになっている気がする。

「そうですか。そうやって、見つけてくださってありがとうございます。あとは、夢路くんを育ててくれる人物が現れてくれるといいのですが。」

と、水穂さんがそういった。それと同時に、

「それは、決着がついたわ。この人が、夢路くんを引き取ることになった。」

そういきなり女性の声がした。例のオレンジ色のスーツを着た、伊達五月さんである。

「優子さんが、夢路くんを引き取ることにしたの。あの女性、竹中千鶴さんは、親として失格よ。もし、彼女が外国人であることで、引き取ることに支障が出たら、あたしが力を貸して、彼女と、夢路くんが親子関係を結べるようにしてあげる。」

「そうなんですか。」

水穂さんが思わず言った。

「すごいですね。女性の国会議員さんは、そういうことができてしまうんだから。それでは今回はそうさせてもらいましょう。伊達さんがいてくれて良かった。それなら、夢路君のお世話をしてくださる人は、すぐ見つけられるんですね。」

「よろしくお願いします。」

少しつかれた顔をしていたが、優子さんが、夢路くんにニコッと微笑んでくれた。

「じゃあ、書類上の手続きはあたしたちがお手伝いしますから、夢路くんは、優子さんのところで暮らすのよ。そして、優子さんのところから学校へ通ったら良いわ。これからは、学校の成績の悪いことで、叩かれたり、放置されたりすることは無いのよ。良かったね、夢路君。」

伊達五月さんがそう言うので、もうガチンコバトルは決着がついたんだなと水穂さんもピー助さんも思った。

「わかりました。そういうことなら夢路くんは次のステップに進んだんだね。それでは、良かった。これでおじさんも安心した。」

水穂さんがそう言うと、

「おじさんそんなことは言わないでね。」

と夢路くんが言った。水穂さんが頭を傾けると、

「だってそんな顔してる。それでもう思い残すことは無いっていうような。」

と夢路くんがいうので、水穂さんは、そんな事ないよと静かに頭をなでてやった。

それから、大人があれよあれよと手続きをしてくれて、夢路くんは優子さんのもとで暮らすことになった。でも、時々夢路くんは製鉄所に遊びに来て、ピー助さんに、笛を習ったり、水穂さんにピアノ伴奏してもらうことをお願いしていた。ときには杉ちゃんに浴衣を縫ってもらって、お祭りに行ったこともあった。やっと、夢路くんは普通のこどもが味わうような幸せを手に入れることができるようになったのだ。

でも、夏の暑い日。夢路くんが、製鉄所を訪ねてきた。ちょっと落ち込んでいるような夢路くんに、水穂さんがどうしたのと声を掛けるが、夢路くんは何も話さない。一緒にやってきた小久保さんが、水穂さんとピー助さんに小さい声であることを話した。それを聞いて、水穂さんたちは、一気に顔色を変えてしまう。

「そんな無責任な。」

水穂さんが思わず言った。

「だけど、伊達五月さんは、それで良かったのではないかと言っていました。だって、悪はちゃんと成敗されたほうが良いんだって。だって、彼女のしでかしたことは、そういうことなんだって笑ってましたよ。まあ、女は怖いですね。」

小久保さんがそう言うと、

「でも、極端すぎるというか、そんな、留置場で、自殺するなんて、ちょっと行き過ぎではありませんか?」

と、ピー助さんが言った。

「それで、葬儀とか、そういうことはやるんでしょうか?」

水穂さんが小久保さんにいうと、

「ええ。なんでも、彼女のご家族が、葬儀をやりたいと言って、遺体を引き取ったそうです。」

と、小久保さんは答える。

「はあ?彼女にも家族はいたんですか?ああ、でも人間家族無しでは、生きていかれないものですよね。木の股から生まれたわけじゃないんだし、人間から生まれてきたということですよね。」

ピー助さんは、考え込むように言った。

「とりあえず、夢路くんは参列しなくてもいいでしょう。それはあまりにも可哀想すぎますから。」

水穂さんがそう言うと、

「はい。そういうことなら私が行きます。もちろん、オレンジの服は着ませんから安心してくださいね。ちゃんと、竹中千鶴の家族をこの目で見てきます。」

と伊達五月さんが言った。

「待って!」

と夢路くんが言った。

「僕も行く!」

みんな驚きを隠せない。水穂さんは行かせないほうが良いと言ったが、ピー助さんは、彼の意思にまかせて見たほうが良いのではないかといった。少なくとも、子供であっても、こういう壮絶な体験をしたのだから、悪いことはしないだろうと言った。

その次の日。夢路くんのお母さんである、竹中千鶴さんの葬儀のため、伊達五月さんは紫の着物に黒い帯を締めて、夢路くんは、黒い洋服を着て、葬儀場に行った。葬儀場は、警察署近くにあった。何人か警察関係者も来ていたが、それにしても、参列者の数が多いのが気になった。

「あの、失礼ですが、皆さんは、竹中千鶴さんのどういうご関係で?親族か、なにかですか?」

と伊達五月さんが、急いで参列者の女性たちに、そう聞いてみる。

「ええ、テニス部で一緒でした。」

と、一人の女性が答えた。

「そうですか。千鶴さんは、テニス部で活躍されていたんですね。人気者だったんでしょうか?」

伊達五月さんがいうと、

「ええ。確かに人気者でしたよ。千鶴は容姿も綺麗だったし、将来は女優さんになったらって彼女をからかったことがありました。でも、彼女はそういうことはしないで、まともな仕事がしたいって言ってました。」

と、別の女性が言った。

「そうなんですか。そんなにきれいだったんですか?」

伊達五月さんが聞くと、

「ええ、みんなの憧れですよ。すごく綺麗だったし、シワ一つ無いしねえ。お母さんだってすごくきれいだったんですよ。にたもの親子だなあって、私達よく話してました。でもね、千鶴は、にたもの親子だと言われるのを嫌ってました。」

と、初めの女性が言った。

「どうして嫌っていたんですか?お母様ににていて、損をすることは無いと思いますが。」

と、伊達さんがいうと、

「ええ実は、千鶴、お母さんに暴力を振るわれていたって聞きました。あたしたちも、たまに見かけましたよ。腕や足に、結構痣がありましたよ。養護の先生も、なんとかしようと思っていたみたいですけど、千鶴は、何も応じませんでした。それは、外部の人が入ると自分の生活ができなくなってしまうからということだったようです。」

次に発言した女性が言った。

「そうなんですか!それは警察に知らせるとか、そういうことはしてあげなかったんですか?」

「ええ。だって、千鶴は他に保護してくれる人もいなかったし、頼れる親戚もいなかったそうなんです。なんでも千鶴のお母さんは、周囲に結婚を反対されて駆け落ち同然で家を出て、そのさなかに千鶴が生まれて、それで頼れる人もいなかったようです。」

初めの女性についで次の女性も、

「あたしたちはもうちょっと力があったら、千鶴の家に言って手を出してあげればよかった。千鶴は心の病気です、入院させてあげてくださいって、千鶴のお母さんと喧嘩すればよかったんです。本人は何もできないのは、よく分かることですからね。それならあたしたちが手を出してやるしかなかったんだと思います。だって今みたいに法律があるわけでも無いし、そういう専門家の方もいてくださるわけでは無いでしょう。それなら私達が手を出してやるべきであったと思います。だから千鶴は確かに息子さんに対してひどいことをしたのかもしれないけど、でも千鶴が悪いってことは言えないと思います。」

と言ったのであった。

「そうなんだ。そんな事知らなかった。」

夢路くんが小さな声で言った。

「ママもそういうことがあったんだね。」

夢路くんはそれ以上何も言えなかった。伊達五月さんは夢路くんに、

「それじゃあお焼香してこようか。おばちゃんがやるとおりに、お焼香してね。それで、ママにさようならって、言ってこようね。」

と、手を引いて、夢路くんを遺体が設置されている祭壇近くに連れて行った。もしかして遺体につばでも飛ばすかと心配していたようであったが、夢路くんはそれはせず、ちゃんと伊達五月さんとおんなじやり方でお焼香してくれた。

「ママ、さよなら。」

夢路くんは小さな声で言った。

「僕は、新しいママと一緒に暮らすから、心配しないで。学校にもちゃんと行くよ。だから、本当に大丈夫だよ。今は、いろんな人が僕のこと見てくれてるよ。僕はちゃんと、暮らすから、心配しないで。」

夢路くんは、お焼香したあと、そう呟いたのであった。伊達五月さんが、帰ろうかといったが、夢路くんは、その場に残るといった。結局、告別式が終わるまで、伊達五月さんと一緒に夢路くんは葬儀場にいた。流石に火葬場へはマイクロバスの人数の関係で行くことができなかったが、それでも、ちゃんと母親の葬儀には出席したのであった。

「じゃあ夢路君、帰ろうか。」

と、伊達五月さんが言った。

「新しいママが、待ってるところに。」

そう手を引かれて、伊達五月さんの車に乗り、夢路くんは、新しいママ、つまり中鉢優子さんの住んでいるところに向かっていったのであった。夢路くんたちを乗せた車は、今までの家があったところとは真逆のところに向かって走っている。それでも夢路くんは何も言わなかった。うつむいてつらそうにしているのでもなく、嬉しそうな表情をしているわけでもない。いつもと同じ、生活が始まるんだ、それしか考えていないような感じであった。

「じゃあ、ここでおりてね。いい匂いがするねえ。パンでも作ってるのかな?」

伊達五月さんはある一軒家の前で車を止める。

「ナンを作ってるんだ。」

と夢路くんが言った。そしてありがとうございましたと言って車を降りた。そのまま玄関のドアをがちゃんと開けて、

「ただいま。」

と小さな声で言ってみる。すると、台所から、エプロン姿の、中鉢優子さんが、にこやかに笑いながらやってきた。

「おかえりなさい。夢路君。」

「はい!」

まだ緊張しているようだけど、夢路くんはちゃんと返事ができたのであった。それでは、優子さんとうまくやっていけるかなと思った伊達五月さんは、にこやかに笑って、夢路くんと優子さんの家をあとにした。

それから、しばらくして、杉ちゃんとピー助さんが、自動販売機の前でジュースを買っていると、黄色い帽子を被った少年と、着物を着た女性が、近づいてくるのが見えた。

「杉ちゃんこんにちは。」

杉ちゃんたちが振り向くと、夢路くんと優子さんが立っていた。夢路くんは手に黄色い手提げかばんを持っている。

「お!学校へ行き始めたのか?」

と杉ちゃんがいうと、

「正確には、編入の説明会がありまして、それに参加してきました。編入はまだ色々手続きがありますが、ゆっくりやっていこうと思っています。」

と優子さんがそういった。

「そうですかそうですか。焦らずゆっくり大人への階段を登っていってくださいね。」

ピー助さんがいうと、二人はその節はありがとうございましたと、にこやかに笑って帰っていったのだった。




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黄色い帽子 増田朋美 @masubuchi4996

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