甘味の勉強会
紫鳥コウ
甘味の勉強会
僕が大学で、
図書館の二階にある、大学院生だけが使用できる勉強スペースは、騒がしくない程度の会話が許されている。そこでふたりきりのときでも、研究に関する話をするときは絶対に「丹羽先輩」と呼ぶことにしている。
水曜日の午後は図書館の出入りが少ない。教授会が行なわれるため授業が開かれないのだ。昼には駅へ向かうバスの待機列が、一匹の大蛇のように、キャンパスの中まで続いていた。
そんな日の午後。僕たちは、静かな図書館の二階で、ふたりきりで一冊の洋書を丁寧に読んでいる。英語が得意な丹羽先輩に、洋書の読み方を教えてもらっているのだ。向かい合うのではなく、隣り合いながら。
大学四年生のとき、ティーチングアシスタントとして授業の補助をしていた霞に
春学期の十五回目の講義。この日を逃せばもう霞と会えないと思い、覚悟を決めて告白をした。あっさりと断られた。しかし
「もし、大学院に受かったら、一年だけでいいんで、僕と付き合ってください!」
霞はあきれて物も言えないようだった。そんな理由で大学院の試験を受けても合格するはずがないし、その後のハードな研究生活にも耐えられないだろう。
そう考えたからこそ、霞はその条件を飲んでみたらしい。
だけど見事に、僕は大学院に合格した。勉強をしていくなかで、研究したいことが見つかり、それを追究したいと考えるようになった。だから研究生活も充実しているし、霞と付き合うこともできた。
しかし一年だけのお付き合いだ。それは約束としてもそうだし、霞は来年の春に卒業をしてしまうのだから、現実的なことでもある。
「ここ、Imagined Communityという用語が強調されているでしょう。これは、ベネディクト・アンダーソンの〈想像の共同体〉を意識している、という風に解釈するの。この部分から、著者の議論には、アンダーソンの影響が少なからずある、と読み取るのね。
「この前、読みましたよ」
「そう……」
「意外ですか?」
「あのときは、こんなに研究者気質になるとは思わなかったから。毎回、適当な質問を作ってきて、こちらが答えても上の空だったし。わたしのことを目当てにしている子なんだって、決めこんでいたから」
「最初はそうでした。でも、丹羽先輩と付き合うために勉強をしているうちに、態度が変わったんですよ。だから、先輩には感謝しています」
「感謝される筋合いはない気がするけれど……とりあえずいまは、読解を続けましょうか。次のパラグラフは、〈従来の研究では〉という言葉から入っているでしょう。ここからしばらく、先行研究の整理が続くという構えで読んでいく。この部分は、しっかりと読むこと。いままでこの分野では、どのような議論が行なわれてきたのかが理解できるから」
――と、丹羽先輩との勉強会は六時まで続いた。
「先輩、今日もありがとうございました」と頭を下げたあと、「帰ろうか、霞」と手を差しだした。
駅の近くにある回転寿司で夕食を共にすることにした。タッチパネルで注文したポテトが、レーンに乗ってやってきた。
霞は食べものをつつきあうのが好きではないから、あらかじめふたつに分けてしまう。食べ終えたサーモンの皿の上に、取り分けたポテトを乗せて、僕に渡してくれる。
「食べるところ、じろじろと見られるのはイヤなのだけど」
大学では、ずっと一緒にいられない。だからいま、満足するまで霞を見ていたい。
「霞の好きなネタを当てていい?」
「……どうぞ」
あまり乗り気ではない霞。
「ブリとハマチ」
口に手を当ててハマチを飲み込んで、お茶をゆっくりとふくむ霞。
「ふたつ言うとは思わなかった」
「ブリが好きなのは知ってたけど、さっきハマチをもうひと皿頼んでいるのを見たから」
注文した品が届くことを報せるメロディが鳴り、ハマチの皿がやってくる。霞が手にする前に横取りをする。
「恋人らしく、あーんをさせてほしいな」
「……ハマチが落ちるから」
「じゃあ、僕がシャリを食べるから、ハマチだけあーんってしていい?」
もう口を
すると霞は、急にこんなことを言い出した。
「
それは僕が聞きたいことだった。だから問い返す。
「霞はどうするの?」
霞は僕の方へと眼を向けた。そしてまたレーンへと逸らした。ゆっくりと流れていくワサビを詰めたお盆を見送りながら、少し悲しそうな表情を見せる。
「博士課程に進むつもり」
「うちの大学院の?」
「そう」
どうしてそんな表情をしているのだろう。希望に満ちた未来が、そこにはあるはずなのに。
僕はといえば、卒業は再来年の春だ。そのころのことは分からない。就職先が見つかっているかもしれないし、霞と同じで研究を続けたいと思っていることだってありうる。
どちらにしろ、霞と付き合うことができるのは、一年きりだ。でも、霞が博士課程に進むとしたら、来年、別のところへ行くわけではない。しかしそのときは、恋人ではない。ただの先輩と後輩という関係になる。
「渡、ひとつ約束をしてほしいのだけど……」
「約束?」
「そう……」
霞は両手で顔を隠して、かろうじて聞き取れる声でこう言った。
「もし、わたしが無事に博士課程に進むことができたら、その……ずっと、わたしの恋人でいてほしいの。約束をしてくれるなら、トントンって、足でしてくれると嬉しい……かも」
きっといまは、だれも僕たちを見ていない。そう信じて――霞の唇を奪った。
「うん、そういう訳し方であってる。でも、もっと正確に言い換えると……あの、やっぱり、もう少し離れてくれない?」
「先輩がもっとこっちに寄ってっていうから、そうしているんですよ」
僕たちは、先輩と後輩という関係では済まされない距離で、一冊の本を読んでいる。雨が降っているせいで、辺りはうす暗い。図書館を出入りする学生の数も、いつも以上に少ないようだ。もちろん、ほかの大学院生の姿はひとりも見えない。
「だって、恥ずかしくなってきたから」
「この時間は、だれも来ませんよ」
「でも……」
「じゃあ、十秒だけ、こうさせてください」
先輩の手を握りしめて、肩をくっつける。びくんと震えたのが、はっきりと分かった。でも先輩は――霞は、僕に身体をあずけてくれた。雨が屋根を叩く音のなかから、こころの高鳴りが浮かびあがってくる。
「がんばってるから、二十秒」
「先輩だって。だから三十秒……こうしていましょうか」
〈了〉
甘味の勉強会 紫鳥コウ @Smilitary
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます