第2話 後半

 世界の東部のほとんどを占めるシンアルの隣国に、ヤマトという国があった。この国はシンアルとは違い、かつての文明が作り上げた国の在り方を否定し、独自の国家を作っていった。その中心人物は文明の遺物を発掘し研究したシンアルの建国者の一人だった。その人物名をナータと言い、東の拠点を離れ、一度南へ下りて海辺まで到達した後、そこから少し離れた場所で孤独に自給自足の生活を始めた。

 暗黒時代の影響が依然色濃く残る時代に、知識と工夫を持って生きるナータの下には次第に人が集まり、村となり、町となり、国となっていった。この国はシンアルの真西にあるパティエンシア平原すべてを抱え込み、なお「ヤマト」と名乗った。この国は王を持たず、複数の都市が共存し、窮地には手を貸しあい、吉事には祝いあい、国としてのあらゆる意思決定にすべての都市の人民が参加する。明確な国境や統治権力を持たないヤマトは、新たにシャティナータと名乗るようになったナータによって「ヤマトへの帰属意識」が形成され、それを唯一の手段として国民を束ねていた。シャティナータはその帰属意識の原動力に、もともと存在していた「平原に生きる者」としての矜持に加え、シンアルへの敵意を取り入れたのである。これによって『塔』とそれに起源を持つシンアルへの疑惑と憎悪を生み出し、一層ヤマト民族としての同一性を強めた。

 ところが、その国造りの中で、かつて最初期に国を開き、その後ひっそりと暮らし続けていた海辺の一派は、シンアルとの関係性を疑われ始めた。そしてシャティナータ自身も、ヤマトの国民によってシンアルの影を着せられた。

「我らの王はシンアルの回し者である。国を作り、やがてはシンアルに都合よく乗っ取るつもりなのだ」

ヤマトの弾圧に耐え兼ね、シャティナータと海辺の一派は南から北上し、山地を乗り越え、その向こう側へ逃れ、国を捨てた。

 その後王を追放したヤマトは分裂するでもなく、一層つながりを強めた。王など最初から必要なかったのである。ヤマトの民は度重なるシンアルによる侵略から平原を守った。時にはシンアルの技術を盗み、兵器を改良した。ヤマトとシンアルの間に幾重もの防衛線と砦を築いた。しかしそのような努力は、もはや風前の灯火となりつつあった。


 ヤマトでは、シンアルの圧倒的な軍事力の前に苦戦を強いられていたのである。


 シンアルの軍はヤマトとの国境である南北に流れるバルムファシ川を渡り、河川を囲む森を抜け、ついにパティエンシア平原の南西部、ヤマトからすれば『タイヤン』と呼ばれる土地を踏んだ。そして、全戦力でもって迎え撃つヤマトの軍と対面した。すでに二国は空軍や前線部隊の交戦自体は始まっていたが、主力をぶつけあう戦闘はこれが最初だった。しかしその数戦で、もはやシンアルとヤマトの軍事力の差は明確に現れ、ヤマトにとってはすでに『最終決戦』であった。それはすなわち兵器の性能差であり、運用能力の差であり、数の差であった。両者は平地を挟んでにらみ合い、シンアルはじりじりと距離を詰めていく。あたりは静まり返っていた。

「敵軍が第一線を越えたら砲撃を開始します」ヤマトの総司令が参謀本部に無線を入れた。

「……許可する」

シンアル軍の進撃は続き、ついにヤマトが第一防衛線とした境界を越えた。その瞬間、ヤマトの重砲が一斉に火を噴き、一瞬で最前線に到達し、シンアルの歩兵を吹き飛ばした。シンアルも歩兵の後方から報復射撃を開始し、ヤマト軍陣地でも爆炎が上がった。こうして、シンアルとヤマトの本格的な戦闘が始まった。

シンアルはヤマトが兵力を集中させていると知っていたことから、短期決戦は目指さず、相手の物資を損耗させることを優先し、距離を保ったまま攻勢はかけるつもりはなかった。

「すぐに相手は戦闘を継続する能力を失う」。シンアル軍はそう信じて疑わなかった。実際、ヤマトの将官たちは浮かない顔で開戦の様子を眺めていた。

「戦況は?」

参謀は報告を急がせた。

「地上戦は拮抗しています。こちらの損害は無し」そばにいた軍大佐は口早に説明した。

「空は?」

「現在は拮抗しています。数は相手の方が多いですが、兵の練度で言えばこちらが勝っております。このままなら制空はできるでしょう」

「このままならな」司令官は眉を寄せた。「シンアルは軍を小出しにしてあの数と火力だ。それに対してこっちは全部出し切ってようやく拮抗か」

「……いつまでもつでしょうか」

「はっきり言って、これが続けばすぐに防衛線は崩壊するだろう。何かの変化を待つしかない……」

ひときわ激しい破壊音がして、二人ははっと顔を上げた。大佐は踵を返し、「私は持ち場に戻ります。ご武運を」と言ってその場を去った。

 タイヤンの兵士はシンアルの黒い軍隊を見て嘆く。

「いつからでしょうか。いつから我々はこの望みの無い戦争を始めたのでしょうか。我々はもう全滅するのでしょう。もう限界です。数十年前シンアルを蹂躙した『平原の英雄』もすでに敵に捕まりました。もう帰らぬ人となったのでしょう。

 ですが、守るために戦わなければならなかった。受け入れることなどできなかった。シンアルの民はヤマトを損ない続けてきたのです。己の欲望のままに。『塔』の脅威など、ヤマトが知ったことではありません。シンアルの民はシンアルの国で死ねばいいのです。塔の嵐に身を裂かれて」







『落水の谷』の襲撃後、オトニエル、ゼフラ、コルホネンは一度集まり、少しの間言葉を交わした。

「ノアが連れ去られた? 馬鹿な」

「連れ去られたということはまだ希望はあります。殺すつもりならわざわざ連れ去ったりはしません。それに、シンアルには潜伏する反抗勢力もいます。彼らに託して、あなた方は自らの使命を果たしてください」

コルホネンの言葉に、二人は苦渋の顔で頷いた。


ゼフラは北東へ進路を取り、青洲へ向かった。彼女は一人で行くと言ったが、コルホネンは「我々にも責任の一端はある」と二人の護衛をつけた。シンアルや青洲の監視を避けるため、徒歩での出発だった。

従者としてコルホネンに選ばれた二人の男女はトラルフとエディスという名で、コルホネンの親戚であった。彼らは森に慣れていないゼフラの代わりに先頭を歩き、正確に青洲への方角を進んだ。

「あなたたちは外に出たことがあるの?」ゼフラが聞くと、トラルフが答えた。

「僕とエディスはちょっと変わり者で、よく落水の谷を出て森の中を探索していたんですよ。そのおかげでこの周りの森は僕らにとって庭みたいなもんです。まあ、他の人たちからは変な目で見られるんですけどね。道についてはご心配なく。このまままっすぐ行けば森を抜けられます。ああ、その前にヴィトゥス峡湾を越えなければなりません。この北部樹海に北側から切り込む大峡湾です。極地の海水が流れ込むのでこの時期は全て氷が張っていますから、歩いて渡れますよ」

トラルフは話好きのようで、ぺらぺらと次々に話題を作りながら喋る。屈強な体つき、勇ましい眼差し、背中に背負った重装備に似合わず、明るく振舞っていた。その一方でエディスは寡黙で、トラルフの後をすごすごとついて行くだけだった。ゼフラはあまり深くは考えず、青洲のことについて考えながら歩いた。

三人は入り組んだ木々の隙間をくぐりながら歩き、時折足を速め、走ることもあった。南方の木々は曲がった幹に広い葉をつけているものが多かったが、北方の木々はまっすぐに高く伸び、葉をあまりつけていない。あるとしても、細く長い。そして全体的に色が抜けているように見える。

「落水の谷を千年守り続けてきたのは、この木々の幹の頑丈さだけではなく、一種の防御作用です。幹が傷つくと、ある物質をそこから放出して、周囲の有害物質を無害化するのです。千年前は極めて微弱な力でしたが、暗黒時代を越えて、今や毒素や病原体を殺すだけではなく、あらゆる生命体に悪影響を与えるほどに強い反応を見せることもあります。むやみに木々に触ってはいけません。もっとも、落水の谷の人々はすでに耐性を持っていますが」

トラルフが説明する。南から谷へ行くときは気づかなかったが、というより北と南で木々の特性が違うのかもしれないが、かすかに幹が光を放っている。そのために遅い時間にしては辺りはまだ明るかった。

「あと一日もあれば峡湾に着くでしょう。このあたりで今日は野宿です」三人は淡い光の中、ひときわ大きな木の下で寄り添って眠った。

ゼフラはトラルフとエディスに起こされ、再び三人は北東に進路を取った。寒さが身を刺す。防寒の装備はしてきたが、それでも骨まで凍るかと思われるような寒さの朝だった。三人はこの日ほとんど走り続けた。ゼフラの焦りが伝わったのか、トラルフはもうあまりしゃべらず、エディスも黙々と駆けていく。

「峡湾を抜けたらまだ森があるんだよね?」ゼフラが走りながら尋ねた。

「ええ、ですが私たちもあまりよく分かってないんです。行ったことがないものですから。峡湾は西側世界と東側世界の境界にあります。東側の森は『灰の森』と呼ばれていることだけは知っています」

エディスが申し訳なさそうに答える。

「『灰の森』ね」

ゼフラはそれ以上話さなかった。

その日は一日中移動した。三人は疲れると少しだけ眠り、また走り出すという強行軍のような旅を続け、トラルフが十日はかかると考えた峡湾までの道のりを四日で踏破した。突然現れた、土や岩がむき出しになっている山――トラルフによれば、峡湾ができる過程で削られた礫が堆積した、巨大な土手のような地形――をよじ登り、越えると、そこに真っ白い氷の大地が広がっていた。

「これがヴィトゥス峡湾か……」

ゼフラは想定外に広大な氷の世界を見て、思わずつぶやいた。薄く霧がかかっていて、向こう側は全く見えない。

「吹雪いています。この峡湾は南方へ下れば迂回することはできます。ですが、十日は余計に時間がかかるでしょう。峡湾を横切れば、一日で東側大陸に渡れます。どうしますか?」

「この吹雪は収まることはないの?」

「収まりはするでしょうが、いつになるかは分かりません」

「この中を抜けられると思う?」

「僕はこの先へ行ったことが無いですし、足元は不安定な氷です。前も見えない。雪や風を防ぐようなものも持ってきていない」トラルフが淡々とつぶやくように答える。

「それで?」

「行きましょう」

トラルフはそう言い、エディスは頷く。

「同感だよ。三人でなら抜けられる」三人は吹雪の中へ足を踏み入れた。


ゼフラは吹雪の中で心底後悔していた。この中を一日歩く? この地獄の中を? 横殴りの強烈な風雪が容赦なく彼女を吹き飛ばそうとする。視界は真っ白で何も見えない。トラルフとエディスどころか、自分の手さえおぼろげにしか分からない。口や鼻に風と雪がまとわりつき、息も絶え絶えになる。突起のついた靴のおかげで滑りはしないが、足を運ぶごとに余計な体力を奪われる。その中でゼフラが最も厭わしく思えたのは、その寒さであった。もともと温暖な砂の王国で育ったゼフラは、このめまいのするような寒さに心が折れかけていた。

「トラルフ! エディス! 無事?」ゼフラが叫ぶと、二つのかすかな声が両脇から聞こえ、一応安心した。二人はゼフラを守るように挟んで歩き、方角を確かめながら慎重に進んでいる。ゼフラよりはいくらか吹雪に慣れているようだった。

「右手に吹き溜まりがあります。雪が積もっていて少しだけ休憩できそうです」

トラルフらしきかすかな影がささやくような声で言い、腕を伸ばして指をさしているように見えた。右へ少し進むと、確かに大きな岩のように雪が固まっている。三人はその陰に身を隠し、しばらくの間風と雪を凌いだ。

「どのくらいまで来たと思う?」

「ただの勘ですが、四分の一ぐらいだと思います」

「嵐が収まるまで少し待とうか」

「収まる気配はありません。それどころか強まりつつあります。ここまで三人はぐれずに来られたのも奇跡です」

「方向は大丈夫?」

「氷の色が違うんです。北から流れ込む海水は、交互に異なる海流に乗っているので、ここが凍り付いた時、氷の層が南北に対して垂直に現れます。その層を目安に進んでいけば、いずれ東側にたどり着けます。これは、この峡湾を調査した探検家がもたらした情報です」

「じゃあ、とにかく歩いていれば着くってわけね」

三人は再び雪壁の影から出て、ますます強まる吹雪の中に飛び込んだ。

ゼフラはもう、何も考えず、何も感じず、ただ歩く人形になろうと思った。この場に人の感情はそぐわない。暴風が雪を舞い上げ、雪は大きなうねりとなり、彼女の身体に打ちつける。

 ゼフラは、風が弱まるのを感じた。顔に当たる雪も減っている。吹雪自体が収まっているわけではない。何かが壁となって防いでくれているのだ。弱まった吹雪の向こうに、大きな黒い影がある。その輪郭には覚えがあった。いつも彼女を窮地で救ってくれた、あのくちばしが頭をよぎる。彼女は力を奮い起こし、歩調を速めた。何十日も歩いたかと思った時、薄く、黒くぼやける大地が見えた。ゼフラは向こう岸にたどり着いたのだ、とほっとした。

 氷の大地から抜け出し、西側にもあった崖のような土手を越えると、すぐに森が迫っていた。もう暗かったので、三人は土手で体を休めなければならなかった。ゼフラたちは凍傷に耐えながら火をおこし、体を温めた。少しだけ食事をとって、ろくな会話もせずに火を囲んで眠った。

 強い輝きを感じて、ゼフラは目を覚ました。二日かけて越えてきた峡湾の氷が、朝日をまばゆく反射している。まだ体中が痛み、手足が凍ったように冷えていたが、三人は出発する準備を始めた。

「まさか越えられると思いませんでした」

「行けるって言ってなかったっけ?」

「あの場ではあのように言うしかなかったんですよ」

「みんな体は大丈夫?」

「昨日よりはましになりました。体温も戻ってきたようです」

「この先は森を越えるだけなので簡単ですよ」

「分かった。じゃあ、出発しよう」

三人が踏み入れた森は、今まで彼女たちが見てきたものとは全く違っていた。ゼフラは走り抜けようと思っていたが、思わず足を緩めて森を見回した。木々は低く曲がりくねっていて、何より炭のように真っ黒なのである。葉は一枚も付けておらず、先細りの枝が途中で折れたり、崩れてなくなっていたりしている。

「これは、木炭です。木々がそのまま炭になって崩れずに生えている。『灰の森』です」

彼が木の幹を触ると、表面が少しだけ崩れた。

「どういうこと? 誰かがこの森全ての木々を表面だけ燃やしていったということ?」

「いや、おそらくですが、この先の山脈にある大火山のせいだと思うんです。暗黒時代じゅうずっと活発に活動していて、東側大陸の北側半分は溶岩と火山灰に覆われていたと言われています。この森は、溶岩に飲み込まれ、溶岩に耐え残った木々でできているのだと思います。もしそうだとしたら、ここは『灰の森』というより『化石の森』です」

「木が溶岩に耐えられるの?」

「木の幹は耐熱性に優れています。それに、炭化した部分が断熱材となって木の内側を守ったのでしょう」

森を見ると、木々は密集しているというよりまばらに生えていて、暗く澱んだ空が広く見える。おそらく、元は豊かな森だったのだろう。それが溶岩に襲われ、地面の草花は灰となり、大半の木々は耐えきれずにすべてが灰となって崩れ落ちた。

 この森は、決して火山を恨んだりはしないのだろう、とゼフラは思った。いつかこの地に新たな生命が芽吹き、元の豊かな自然を蘇らせる。その時はこの黒く朽ち果てた森の灰が養分となり、次の時代の輝きを惜しげもなく祝福するのだろう。そう考えると、彼女にはこの真っ黒な忘れ去られた森が、何よりも美しいと思えるのだった。

 三人は火山灰の柔らかい土の上を走り抜けた。東へ進むにつれて、空はどんどん暗くなっていく。やがて、進む先の奥に黒い山脈の影が見えてきた。

「あれがパティエンシア平原とスワルガロカ高原を分かつ山脈です。つまり、ヤマトと青洲の国境になります。一応、この森は青洲が管理下に置いていますが、実際はどうなっているか分かりません」

「ここがもう青洲の中かもしれないということね」

三人は灰の森で再び休息を取ることにした。まだ峡湾越えの疲れが取れていないのだ。ゼフラは二人を大きな炭の木の下に残し、偵察に出た。


 ゼフラが帰ってくると、言い争う二人の声が聞こえた。

「いつまでも引きずるなよ。もう取り返しはつかないんだから」

「トラルフは馬鹿なんだから、気にしてないだけだよ」

「お前も最初は来客を喜んでたじゃないか。いまさら何を言ってるんだ」

ゼフラは二人の間に割って入り、

「どうしたの? こんなところで大声出したら、敵に気づかれるよ」

と言って唇に指をあてた。彼女を見て二人は気まずそうに眼をそらし、いそいそと何か準備するふりを始める。ゼフラは、特にエディスが思いつめた顔をしているのが気になった。この度の出発あたりから様子がおかしいとは思っていた。

「エディス、話してみて」「いや、これは話すべきじゃない。特にあなたには」トラルフが口を挟んだが、ゼフラは制してエディスを見つめた。「何か言いたいことがあるの?」

エディスはゼフラにぽつぽつと説明した。コルホネンが二人を送り出したのは、唯一『外』にあこがれを持っていた二人を『落水の谷』の運命に巻き込むことが許せなかったからだという。シンアルに存在が気づかれれば、落水の谷は、根絶やしにされるだろう。ここにはシンアルが欲するものが山ほどある。そして、落水の民には、それに抵抗する気は無かった。自分たちは外に干渉してこなかった。人類の危機さえ無視した。ようやくその報いとしてここで滅びるのだろう、という冷めた諦めがあったのだ。

ゼフラは二人の心中を察した。エディスはコルホネンに送り出される時にそれに気づいたのだろう。やがてシンアルが攻めてくる。この谷は滅びる。それは仕方がないのだ。歴史がそうなっているのだから。それでも、ああ、シンアルに気づかれさえしなければ、あの旅人たちがこの谷に来さえしなければ、こんなことにはならなかったのに――

ゼフラは額を抑えた。エディスはゼフラを憎みこそすれ、身を挺して吹雪から守ってくれていたのである。彼女はかける言葉を失った。

その時、ゼフラの頭上を銃弾がかすめた。銃声はしなかったが、彼女の背後の木が半分に割れた。三人はすぐに銃弾の方角から身を隠し、息をひそめた。ゼフラは銃を構え、じっと敵を探した。

「おそらく、青洲の兵だ。東側から撃ってきた。敵は一人じゃないだろう。君たちは、戦闘には慣れていない。ここまでついてきてくれて、本当にありがとう。だけど、これ以上君たちを危険に遭わせるわけにはいかない」

「帰れってことですか? ここまで来て? ここで帰ったら、僕らは何のために落水の谷を出たのですか? たとえ最後には殺されようが、僕らはあなたを青洲の首都まで守ります」

「君たちは、落水の谷が滅ぶと言っていたよね。君たちは故郷が滅ぶのだから、自分は死んだっていいと思っているのでしょう。だけど、私はそうは思わない。彼らは、必ず抵抗する。そして、シンアルとヤマトの決戦に参加するでしょう。君たちはここで死ぬべきではないと言っているの。ここからまっすぐ南下すれば、大山脈のふもとに出られる。おそらく、剣山の戦士たちが挙兵するから、それに加わればいい。もし落水のために生きたいのなら」

「落水の民が平原の戦いに加わるのですか?」

「そう。それとも、あなたが見てきたあなたの仲間は、それほど臆病な民族なの?」

トラルフは黙り込む。

「ゼフラは、どうするの?」

「私は一人でここを抜けて、青洲に侵入する。そして王を救う」

「一人でなんて不可能です。敵は何人いるか分からないのに」

「私はゴルン王国軍の精鋭だよ。変な宗教に目がくらんだ奴らになんか負けない。それに、正面から戦うわけじゃないから、一人の方が都合がいいんだよね」

トラルフとエディスは、笑顔で話すゼフラをじっと見ていた。

「分かりました。そこまで言うのなら、僕は南の戦場へ行きます。エディスは?」

「南へ行きます。ゼフラさん、私はあなたを恨んではいません。故郷を見捨てた自分が情けないのです。私は平原の戦いに加わります」エディスは力強く言った。

「それでいい。今まで本当にありがとう。君たちがいなければ、ここへはたどり着けなかった。今なら敵の反対側だから、南へは抜けられる。行って」

トラルフとエディスは、何も言わずに背を向け、ゼフラのもとを離れた。足音は遠ざかり、やがて消えた。ゼフラは振り返ることなく、ずっと前を見ていた。




ノアが目を覚ました時、彼が連れ込まれた黒い飛行機は飛行場に降り立っていた。彼はまだ指先一つさえ動かせないほど全身が痛み、降りるよう促されても席に座ったままだった。黒い軍服の兵士の一人がため息をつき、ノアを抱え上げて飛行機から運び出した。彼らはそのまま無言で歩き出す。ノアは兵士の一人一人を見たが、ヨセフスは見当たらず、先にシンアルの都市へ行ったのか、あるいは飛行機に残っているのだろうかと考えた。ノアは抱えられたまま空を見上げ、そのあまりの暗澹たる天候に思わず目をそらした。それは彼が今まで見てきた中で最も不安にさせる色であり、もうこの地は二度と晴れることはないだろうとさえ思われた。

 彼は、ある方角から冷たい風が吹いてくるのを感じた。その方を見ると、奥へゆくほど空は黒くなり、まるで向こう側だけ夜が来ているように影が落ちている。あの下に塔がある。ノアはなぜか確信した。そこからは、心を誘うような、それでいてすべてを拒否するような未知の気配が漂ってくるのである。しかし、初めてこれほどまで近くで塔の力を実感したにもかかわらず、ノアの心を占めていたのはヨセフスのことだった。

 目を閉じると、落水の谷で最後に見た光景が思い出される。剣を抜いたとたん崩れ落ちる兵士たち。そして全く意に介さずノアの剣を払いのけるヨセフス。彼は無慈悲にもノアの頭に手を置く。そのとたん目の前に閃光が走ったように感じて、その後は全く記憶していない。

 ノアはあの時、剣の力を介してヨセフスが目覚めてくれるかもしれないという淡い期待を込めて、彼と正面から対峙したのである。彼は、ヨセフスなら敵の洗脳など振り切ってくれると信じていた。だが無情にも、その望みは一瞬にして掻き消された――かに見えた。だが、完全に消えたわけではないと、ノアは思うのである。というのも、彼が最後に見たヨセフスの顔は、かすかに懐かしい優しさを取り戻していたからである。ノアは、ヨセフスの目が少しだけ揺れて、自分を確かに見ていたような、そして自分を掴む腕が、かすかにふるえて、力が一瞬緩んだような気がしていた。それは鮮明な感覚として残っている。

 ノアを連れた部隊は、シンアルの中心都市へ近づいていた。ノアは暗黒の空の下にそびえる灰色の都市を見上げた。立ち並ぶ建物は、落水の森にあったものと酷似している。しかし、規模は全く違う。まるで地下で見た先史文明の都市が地上で再現されたのではないかとさえ思えた。ある程度進むとノアは目隠しされ、どこをどう進んでいったか全く分からなくなった。

 目隠しを取られたとき、ノアは薄暗い部屋にいた。一面真っ白な壁に囲まれて、一つだけ小さな窓がある。覗くと、外側に鉄格子がはめられていた。ノアは、なぜ自分が殺されていないのだろうと疑問に思った。そもそも、自分が「捕らえられる」ことも不思議だった。塔に対抗する存在なら、問答無用で即座に殺されていてもおかしくないのでは、とノアはなぜか冷静に考えていた。もしかして、何かに守られているのだろうか、という期待も少なからず抱いていた。

 外から足音がして、彼は息をひそめた。足音はノアの部屋の近くで止まり、少ししてささやくような声が語りかけた。

「ノア、聞こえるか?」

ノアは聞こえたが、質問には答えなかった。

「僕を殺すの?」

「とんでもない。俺はレイスという。ヨセフスの友人だ。君をここから助けようと思っているんだ。今までも、殺さぬよう生け捕りにしろと命令したのは俺だ。だが、追跡を止めさせることはさすがにできなかった。申し訳ない」

ノアは思わず身を乗り出し、窓から外を見た。鋭い目つきの男が真剣な顔をして立っていた。オトと同じくらいの年齢に見える。

「あなたが命令したの?」

「私はシンアルの王ナラムの部下、それも一番の信頼を得ている忠臣でありながら、塔に反抗する勢力の一員だ。シンアルに潜伏し、反撃の手段を探っている。だけど、それも今は俺一人になった。かつては数十人ほどで活動していたのだが。ヨセフスもその仲間だったが、ついに敵に囚われた」レイスは続けて言った。

「今、ヨセフスは危険な状態なんだ。敵に精神を操られ、抵抗する感情が辛うじて自我を維持している。このままではすぐに彼は無慈悲な殺戮兵器となるだろう。特に、ここにいてはいけない」

「やっぱりヨセフスは、僕を捕まえようとしていたわけではないんだね」ノアはレイスを見て、にっこりと笑った。レイスは言葉を詰まらせたが、ノアの顔をじっと見て、静かに口を開いた。

「君に問いたい。君は、ヨセフスとどういう関係なんだ?」

「僕はヨセフスに、小さいころから育ててもらった。いろんな話をしてもらった。だけど、僕の身代わりになって敵に捕まってしまった……。

 レイスさん、ヨセフスを助けてくれるのなら、僕はとても嬉しい。だから、さっき、僕を助けるって言ってくれたけど、無理して僕まで逃がしてくれなくても大丈夫だよ。僕は、体が全く動かないんだ。あちこちひどく痛むし、足手まといになるよ。幸い、こんなに塔の近くにこられたんだから、今から塔へ行って、できるだけのことをやりたいと思う」

「塔へ行くのは、今はダメだ。だが、その時は必ず来る。だから、今はここを離れるんだ。それに、本当の意味でヨセフスを助けられるのは君だけなんだ。それまでは俺が手助けする。そこからは君の仕事だ」

「僕の仕事? 僕にできることがあるの?」

「そうだ。ヨセフスを目覚めさせられるのは、彼の記憶に唯一残っている君だけだ」

ノアは口を真一文字に結び、頷いた。

「分かった。でも、僕はどうすればいい?」

「君は今どれくらい動ける?」

「立ち上がれもしないよ」

「分かった。私はまず『技術部』にいるヨセフスを攫ってくる。おそらく君を担いではいけないだろうからね。その後、君を助けに来る。だけど、もしかしたら君は連れていかれるかもしれない。俺の命令を聞かない奴もいるから」


 レイスは『技術部』へ向かった。『技術部』はシンアルの軍の中枢である。ナラムの命に従い、先史文明の遺物を解析し、『塔』の研究を進め、兵器の開発と生産を進めてきたシンアルの心臓を、レイスは徹底的に破壊すると決めた。

光の廊下を渡り『技術部』に着くと、

「レイス様、何用で?」

と『技術部』が問うた。

「ヨセフスを軟禁しているな? 私に預けて欲しい。少し話があるのだ」

「もう彼は話などできません。完全にコントロールが効かないのですから。今から処分する予定です。例えあなたでも連れ出すことは許しません。それに、なかなか興味深い身体をしているので」

「分かった。ヨセフスは奥の検査室にいるんだな?」

「はい。今完全にあれを停止させようとしているところです」

そこまで聞くと、レイスは瞬時に走り出した。『技術部』の横をすり抜け、障害物をなぎ倒しながら奥へ突き進む。警戒音が鳴り響き、彼の身体を無数のレーザーが貫く。しかしレイスは全く意に介さず、瞬く間に部屋にたどり着き、扉に体当たりした。扉は粉々に砕け、ベッドの上で目を閉じて仰向けになっているヨセフスを見つけた。周りの『技術部』たちは、レイスがヨセフスを抱き起し、背中に背負って部屋を出ていくのを呆然と見つめるだけである。レイスが部屋を出る時には、あらゆる出入り口がシャッターで封鎖されていたが、彼はお構いなしに突撃し、轟音と共にシャッターを破壊していった。

「世話になった」

最後の壁を突き破ると、彼は奥に向かって手榴弾を投げ込んだ。『技術部』の光の廊下を渡り終えた時、巨大な建物が崩れ落ちていく音が聞こえた。

 レイスは飛行場までたどり着くと、意識のないヨセフスを物陰に隠し、戦闘機のエンジンをつけた。彼は機体から飛び降りると、ノアの地下牢まで走った。『技術部』の破壊で都市は大騒動になり、皆が中央へ走っていくなか、がらんとした地下を下りていく。

「レイス、どこへ行く気だ」

呼び止めたのは、セムだった。

「『技術部』は、お前の仕業か。あんなことをできるのはお前しかいない。次はあのガキか。総裁にどう説明するつもりだ」

「ナラムは『侵略せよ』という命令を出しただけだ。ノアとヨセフスのことは何も知らない。それと、俺はこの国を出る。『破壊者』の運命に命を懸ける」

「『破壊者』か……。お前が敵だということは分かっていた」

セムは銃を構えた。

「お前では私を殺せない」

レイスは静かに語りかけた。

「お前も、この国の民も、『塔』に支配されている。洗脳ではない。ただ何かを考える力が弱められるだけで、彼らは『塔』の恐怖を受け入れ、外敵への憎悪を膨らませるようになる。巧妙な支配だ。だが、やがて気づくだろう。恐怖の根源に気づく」

セムは黙っていた。そしてその背後から、ナラムが現れた。彼はレイスを見た。まるで赤の他人と会ったかのように、無表情な顔。

「レイス、お前が逃げるのなら、今から全戦力を西に向ける。そうすれば、ヤマトはすぐに滅びる」

レイスはナラムを見た。彼はその瞳の中にある、苦悩と諦観に気づいた。決して怒りや憎しみではない。

――ナラム、教えてくれ。何か苦しみを抱えているんだろう? 俺なら、あなたの力になれる。

――レイス、長い付き合いだった。だがもう言うことは何もないし、言ったところでどうにもならない。特にお前には……。

レイスは目を伏せ、しばらく黙っていたが、おもむろに顔を上げ、はっきりと言った。

「ヤマトは、平原の民は負けない」

「そうか。行け。一分以内にこの国を出ろ。さもなくば即処刑する」ナラムはそう吐き捨て、背を向けて去っていった。


 レイスは地下牢まで降り、うずくまったノアを抱え上げると、飛行場まで運んでいった。ヨセフスとノアに飛行服を着せ、後部座席に乗せる。彼の視界の端に、ばらばらと出てくる護衛兵の姿が見えた。戦闘機の方に銃を構えている。レイスは直ちに戦闘機を発進させた。

 レイスの戦闘機は飛び立ったが、すぐに追尾する無人機体が数十機見えた。セムが所有する最新兵器である。彼の差し金であることは容易に想像がついた。レイスは反転して撃墜するより、確実に逃げ切ることを選んだ。敵はもうなりふり構わず撃ってくる。レイスは高度を上げ、機体を揺らしながら逃げた。敵の機銃が火を噴き、レイスの戦闘機の薄い装甲を貫く。さらに片翼と燃料タンクも被弾し、彼自身も肩を撃ち抜かれていた。彼はこれ以上の逃亡を諦めざるを得なかった。

レイスは後ろのノアを見た。うずくまるヨセフスを見た。

「死ぬなよ」

レイスは親指を立て、前を向いた。

彼は自爆することを決めた。その前に、後部席の二人を離脱させなければならない。

二人を脱出させた後、全ての敵機を同時に行動不能にしなければならない。さもなければ、二人は生身のまま戦闘機の銃口の前に晒されることになる。

 レイスは急激に高度を下げた。敵は一瞬振り切られ、目標を見失った。レイスはぎりぎりの低空で二人を脱出させた。それと同時に高度を上げ、こちらに気づいた敵機群に向き直る。敵は射出された二人を狙い一斉に射撃したが、全てレイスの機体が盾となり、受け止めた。レイスの機体は燃え上がり、もはや操作は利かなくなった。レイス自身も、意識を失いかけていた。それでも彼は、全ての装甲がはがされた機体でよろよろと高度を上げながら、操縦桿の側面のボタンに指をかけた。しかし力が入らず、押し込むことはできなかった。彼ががっくりと頭を垂れた時、敵の銃弾が彼のひじをかすめ、その拍子にボタンが押された。

 胴体部に取り付けられた爆弾が炸裂する。周囲の空気がよどみ、ねじれ、一瞬の閃光が辺りを照らす。轟音と共に空は黒い爆炎に覆われ、全ての機体は塵になった。




 ノアは全身の痛みを感じて目を覚ました。最初に目に飛び込んできたのは、めちゃくちゃに破壊された戦闘機の座席だった。人の気配は全くせず、おそらく自分は緊急脱出したのだろうと思った。周りにも誰もいないようだった。ただ鳥の声だけが聞こえてくる。


 ノアに覆いかぶさるように、大鷲が見下ろしていた。ノアはゴルンでカクレが呼んだ大鷲を思い出した。似ているが、少し翼の色や顔つきが違う。ノアは、何かになめられている感触がして、自分の足をみた。小さな犬がむき出しの足の切り傷を撫でるように舐めている。ノアは逃げようとしたが、全身に激痛が走って微動だにできなかった。そのままどこかの部位が動かせるか試してみたが、ただ苦痛に襲われるだけなのですぐに諦め、仰向けのままどうにでもなれ、というように目を閉じた。

目を閉じると、最後のレイスの姿が思い出された。最後に見たのは、レイスの戦闘機がすぐ頭上で大爆発した瞬間だった。彼は死んでしまったのだろう、と思った。自分の村で、ヨセフスがいなくなった時と同じような喪失感があった。

――誰かに助けてもらってばかりで、自分が何か役に立ったことなんか一度も無いじゃないか。僕は旅に出るべきじゃなかった。何もできないってわかっていたはずなのに。これ以上誰かを危険に晒すようなら、僕の方からこの身を投げ出そう。ああ、それでもレイスさんは帰ってこないし、何度もヨセフスに声をかけたのに、何も変わりはしなかった。声が届かなかったのだろうか? ヨセフスはあの爆発でどこに飛んでいったのかも分からない。僕もここで死ぬんだろう。もう手遅れだ……。

ノアの後悔と懺悔は、胸中で悶々と暗闇の中へ落ちて行き、彼は再び気を失った。


「おい、大丈夫か?」

誰かが肩をゆするのを感じた。太く力強い声だった。ノアは目を開けようとしたが、その力さえなかった。薄目を開けると、遠くの方で青年と少女がこちらを見ている、ということは分かった。ノアはまずい、と思ってどうにかその場を逃げようとしたが、全く体は動かない。

「飛行機に乗ってたのか?」

「うん。逃げてきた」

「逃げてきた? なんで? どこから来た?」青年は一気に質問した。ノアは声を出すのも苦しかったので、しばらく答えられなかった。

「もうすぐ軍のやつらがここに調査に来るかもしれない。他国のやつらは追放されるかずっと牢屋だ」彼は続けた。「お前は敵か?」ノアは答えられなかった。

「ねえ、私らのところまで運んであげようよ」か細い声の少女が、自信なさげに頼んだ。

「こんな不審者を匿ってばれたら俺たちも牢屋行きだぞ」

「でも……」

少女は俯いてそれ以上何も言わなかった。

「敵じゃない」

ノアはやっとのことで声を絞り出した。声はしばらく止み、じっと考えているようだった。

 ついにこちらへ歩み寄る足音が聞こえ、青年が

「しょうがねぇなぁ」

といってノアを抱え上げ、早足で歩き出した。


彼らは数時間歩いて林の中にある小屋に着いた。小屋はところどころ痛んで穴が開いていたが、二人で住むにはちょうどいい大きさに思える。藁の寝床にノアを下ろすと、青年は少女に言った。

「サマ、こいつの面倒はお前が見ろ。お前が言い出しっぺなんだから」

「ありがとう。任せて」

サマはノアをきちんと寝かせ、そして体が極めて熱くなっているのに気づいた。彼女は溜めてあった水に麻の布をひたし、ノアの体を拭いて熱を冷ます。傷の手当てをされるとノアは落ち着いて目を閉じ、深い眠りに入った。

「バトヤ、寝たよ」

サマはじっと考え込んでいるバトヤに言った。

「多分調査が始まればこの小屋もその対象になる」バトヤは冷静に言った。

「奴らが来たら引き渡すか? それともこの小屋を捨てて逃げるか?」

「見つかっちゃうかな?」

「この小屋に隠せる場所は無い」

「でも、この子は多分ひと月は動けないよ」

「引き渡したくは無いんだな?」

「うん」

「そうか」

バトヤはため息をついて続けた。

「よし、こいつが元気になるまでここで看よう。乞食の仲間ってことで通せればいいが。それに、俺たちにもやるべきことが他にあるんだからな」

「うん」

サマは頷いた。

サマは数日寝ずにノアの看病を続けた。傷は癒え始め、だんだんと体力も戻ってきた。その間、まだ動けないノアとサマはいろいろな話をした。ノアはここがシンアルと国境を接するヤマトという国であること、ヤマトの中でも中央部分で、近くに大きめの街があること、サマとバトヤはヤマトの都市を途中で出会った動物たちと共に旅をして回っていることを教えてもらった。彼らは食糧や家の材料を動物たちから受け取り、逆に雨風をしのぐ小屋を作ったり、けがをした動物の治療をしたりして生きていた。

ノアは、二人に動物と意思を通わせる術を教わった。平原の動物たちは人間には慣れているとは言え、二人は驚くほど簡単に相手の心を掴んでみせるのだった。


ノアは自分のことについてずっと黙っていたが、徐々に打ち解けていき、ヤマトに来るまでの経緯を話すことを決めた。

「僕はシンアルのやつらに狙われてるんだ。塔に対抗する力があると言われた」二人は息を呑み、ノアを見つめた。

「それで、敵に捕まってた。けど、シンアルのスパイが僕を助けてくれた。戦闘機で逃げてきたんだ。でも、すぐに敵に囲まれて、その人は僕とヨセフスだけ逃がしてくれた。ヨセフスはどうなったのか分からない。脱出する時にはぐれてしまったんだ。それに、多分、僕らを逃がしてくれた人は爆発して死んでしまった……」

ノアはしばらく黙った。

「その人は、仲間なの?」

「うん。レイスさんっていって、シンアルの幹部として潜伏していたんだ。ヨセフスの友達で、また僕のせいで死んでしまって……」

サマは口を開かずノアをじっと見ていたが、やがて彼の頭をなでながら元気に言った。「その人はお気の毒だけど、代わりに私たちが君を助けてあげるよ。そうすれば、レイスさんも救われるんじゃない?」

「あの人は、もっと大きなもののために動いていたし、そのために命を懸けるべき人だったと思う。僕なんかでは計り知れない、国を動かすような大きな仕事をしていたから、自分が、情けない」

「確かに、シンアルの幹部として潜入するなんて、並の人間じゃできないでしょうね。でも、それはつまり、そんな人が命を懸けて逃がそうとするほど、君には何か特別なものがあるということじゃないかな?」

ノアはぶんぶんと首を振ったが、しばらくしてぽつりと思い出すように言った。

「『塔を破壊する力』……。僕はそれをやらないといけないらしい」

「塔? 塔って、あの塔?」

「うん、あの塔だよ」

ノアは答えたが、すぐに俯いた。

「でも、なんで僕なんだろう? 塔を、人間を支配して嵐や雷を起こすような『塔』を破壊するのは、もっと強くて頭のいい人なはずだ。僕じゃなかったんだよ。たまたまそんな力があっただけで、僕がそれを果たせるはずがないじゃないか」

ノアが苦しそうに胸を抑えるのを見て、サマは背中を撫でながら優しく包み込むように語りかける。

「君はどこから来たの?」

「西の小さな村だよ。山脈を越えて」

「かなり遠い場所だね。そこで捕まったの?」

「いや、そこから東へ旅立ったんだけど、えーっと、僕は何のために旅に出たんだろう?」ノアは視界がぐるぐると回るのを感じ、同時に体がまた熱しはじめた。呼吸が荒くなり、汗が噴き出てくる。

「喋らないほうがいいよ。まだ治ってないんだから」

サマはノアの目を閉じさせ、額に濡れた布を置いた。すぐにノアはすやすやと眠りに入った。

「信じられる?」サマはバトヤに尋ねた。「私たちがあの塔を――いや、塔そのものは見ることさえできなかったけど――訪れた時、あれは地獄の入り口に見えた。人が入っていい領域じゃなかった」

「だが、破壊できるとしたら、破壊したいと思える者だ」バトヤはきっぱりと言った。

「『破壊者』は過去にいたんだ。だが、少なくとも、破壊しようと思う人間はもはやいない。今のシンアルでさえ、ただ恐れおののくだけで立ち向かうことをしない。ヤマトだってそうだ。彼らはシンアルとは戦うけど、『塔』そのものに勝てるとは思っていないだろう」

「でも、まだノアは少年だよ」

「そうだ。今のノアじゃ、到底塔を壊すことなんてできない。あんな迷いのある心じゃだめだろう。自分が壊すんだという決意がいる。実際にシンアルに捕まっていたところを見ると、なにか特別だということは間違いない。ただ決意さえあれば、俺は何だって手を貸す」

バトヤにそういわれると、サマは仕方なくうなずいた。まだ苦しげなノアの顔を見ると、彼女には何か大きな役目を背負った彼が、悲しく思えた。


ノアはもうすっかり回復し、ときおり外の動物たちとじゃれ合ったり、一緒に木の実を採集したりして暮らしていた。

「なんで動物たちと一緒にいるの?」ノアはサマに聞いた。

「この子たちは皆群れから追い出されていたんだ。ちょっと体つきが違うから」

確かによく見ると、普通の動物たちに加えて、奇妙な毛色の犬や、翼が小さすぎて飛べない鳥といった動物たちが時々目に入った。

「僕は知っている。彼らは山の上にいるんだ」ノアは大きな白銀の竜を思い出しながら言った。

「いつかあそこに行けるといいね……」

ノアに特によく懐いたのは体にまだらの模様がある小さな犬だった。名前は『モト』と呼ばれていた。最初にノアの足にすり寄ってきた子犬である。彼らは食事の時も、寝る時も一緒にいて、お互いを強く信頼していた。ノアがいた村ではわずかな家畜としての動物しかおらず、さらに山頂の『野伏』の動物たちの、普通の生き物と距離を置いたような性格に、そしてどこか神々しく気高い生きざまに触れていたので、彼は動物に対して近寄りがたいイメージを持っていた。その分、それと対照的に明るく人懐っこいモトは、ノアの心をよく解かし、癒した。サマは片時も離れない彼らを見て微笑み、ちょっとうらやましそうに「兄弟みたいだね」と言った。


ノアがレイスに助け出されて一か月が経とうとしていた。

バトヤは小屋から飛行機の残骸の方を観察していた。一度軍用車の一団が飛行機の方へ向かったのを見たが、その後一週間が過ぎても全く動きは無かった。逆に町の方がざわめいているように感じた。

「おかしい。何か町で起こっている」

バトヤは町を見に行くと言って出ていった日の夕方、神妙な面持ちで報告した。

「ここ何日かで、徴兵がされてるらしい」

「徴兵?」

ノアとサマは同時に聞いた。

「ああ。数日前、アルスにシンアルの軍が小規模戦力を派遣した。その勢力自体とは拮抗していたが、特殊部隊にアルスの城を奪われた。だがアルスの軍はその城の包囲に成功し、敵と交渉している。分かっている情報はこれだけだ」

「シンアルと交戦?」

「とにかく、町へ出てみよう。何かまだありそうな雰囲気だから」バトヤは膝を打って立ち上がった。

 ノアたちは小屋から馬の脚で数十分ほどの場所にある町に出た。町というよりは都市というべき規模で、何より彼が今まで見てきた都市とは全く違っていた。建物には曲線や直線の組み合わせ、幾何的な模様、豊かな色彩が施されている。ふさぎこみがちだったノアだったが、この時ばかりは見るものすべてが彼の心を躍らせた。加えて雰囲気がノアの村に近いように思えて、彼はすぐにこの町が好きになった。

しかし、そんなノアの心と裏腹に、どこかただ事ではない雰囲気が満ち満ちていた。

周りから情報を得たバトヤがノアに説明した。

「シンアルの一部隊が街の中枢を襲撃したらしい。それで中央城を制圧したと。たかが一部隊がなぜあそこまで力を持っている?」

「多分、僕とヨセフスを取り返しに来たんだ」ノアはすぐに分かった。

「僕を捕まえていたシンアルの敵」

「なるほどな。ノアはずっとシンアルの最精鋭に追われていたわけか」

町の中心部まで行くと、人だかりができていた。その中央では、武装した何人かの兵士たちが人々に声高に何事か宣言していた。徴兵では無かった。

「何が起こったんですか?」

バトヤは近くで聞いていた人に尋ねた。

「シンアルのやつらは首長を人質に取っているんだ。分かるだろう、首長のアルスランはヤマトの最大都市の首長の弟だ。失うわけにはいかない。それで、敵は彼と引き換えに要求を出した」彼は中央の方を睨みつけながら続けた。「シンアルのコソ泥野郎どもめ、アルスラン様を取り戻したらめちゃくちゃに切り刻んでやる」

「要求って何?」

恐る恐るノアは尋ねた。

「ん? ああ、敵の要求は三つだ」相手はてきぱきと言った。「まず、一つはすでに果たされた要求だが、このあたりに不時着した一人のシンアルの将校をよこせってやつだ。王宮に確保されてたから、そのまま身柄が引き渡された。で、あと二つなんだが、まず脱出用の足を用意しろ。それから、ここらあたりにいるはずの『ノア』という人物を引き渡せ」彼は二本の指を立てた。

「今からこの町とその周辺全てが捜索される。全市民が血眼になって探しているんだ。すぐに見つかるさ。そいつの特徴は十から十五歳の少年で、黒い髪と茶色の瞳、背中に剣を背負っている……。ん?」

相手は急に俯いたノアをじっと見た。『ノア』という言葉が聞こえた瞬間、彼の心臓は激しく跳ね上がり、胸が痛くなった。

「お前……」

「何ですか?」

「『ノア』にそっくりだな」

「いやいや、黒髪に茶色の瞳なんてそこらへんにいっぱいいるでしょ」

バトヤは大声で言って相手の腕をバンバンと叩いた。「こいつは乞食の仲間の、ハオレンですよ」

「乞食か、そうだなあ……。まあ、剣も背負ってないしな」相手はそう言うと踵を返した。

「お前ら、どこに住んでるか知らないが家の中の隅々まで捜査対象だぞ。今のうちにおうちに帰れ」

相手は去っていった。

ノアたちはいったん町の外まで逃げ出した。まだ捜索は始まったばかりのようだった。「びっくり過ぎて息ができなかった。ありがとう、バトヤ。剣を服の中に隠しといてよかったよ」

ノアはにっこりして言った。

「そんなことはどうでもいい。逃げ場はない。どこにいたってどうせ捕まるぞ」

「僕は出ていくよ」

「出ていくって、捕まりに行くってことか?」

「うん」

「ダメだよ、ノア。絶対に殺される。もう君を庇ってくれるシンアルのスパイはいないんでしょう? それに、君は塔を壊すんだから」

サマが悲しい声で言い聞かせたが、ノアは聞かなかった。

「僕は、ヨセフスが本当に好きなんだ。僕はヨセフスとずっと一緒にいたんだ。でも、僕は今ヨセフスに追われている。操られて、敵の仲間になってしまった」

「だからって、どうするっていうんだ。何の手も無いだろう」

「僕はヨセフスを助けるために旅に出た。今は、そのためにできることをするんだ。多分、もう少しなんだ。もう少しで僕を思い出してくれるはずだ。僕はヨセフスが元通りになるのなら、塔なんて、どうだっていい」

「君の命もか?」

バトヤは鋭く言った。

「うん」

ノアは即答した。

「そうか。なら、そのヨセフスってやつを奪還しよう。手はあるんだな?」

「え? どういうこと?」

「協力するって言ったんだ」

「バトヤ、これは僕の責任なんだ」

「ごちゃごちゃいうな。もう友達同士だろ」

「私も行くよ」

サマも横から言った。ノアは泣きそうな顔で二人を見た。

「でも……」

「君がダメって言っても勝手についていくから」

サマは毅然としてノアを見た。ノアは俯いたが、ついに頷いた。


「それで、実際どうするんだ。ヤマトの軍は協力してはくれないだろう。アルスランの命さえ助かれば彼らにとってそれでいいんだからな」

バトヤはノアに尋ねた。三人は捜索を逃れるため、いったん小屋まで戻り、作戦会議を始めていた。

「僕の剣で目覚めさせるんだ。あれには塔の力があって、周りの人たちを……倒すことができる」

「へえ! そいつをもって突入すればいいわけか!」バトヤは何度もうなずいたが、ノアは首を振った。

「でも、相手はもうそれを知っているから、簡単には近づけてくれないと思う。そんなに範囲は広くないんだ。人質もいるんでしょ? それに、ヨセフスには効かない」

「ヨセフスの目を覚まさせるんじゃないの?」サマがノアを見た。

「多分、今は効果が落ちてるし、ヨセフスも抗っているんだ。レイスさんもそう言っていた。だから、今なら操っている命令を剣の力で打ち消せるんじゃないかと思うんだ。でも、それには時間がかかると思う。それにヨセフスは強いよ。銃なんて効かないし」

「要するに、飛び道具を持っている数人の武装兵を遠ざけつつ、ノアとヨセフスが二人きりになれる時間が要るわけか」

「うん。あと、剣の力は僕には効かないけど、バトヤとサマは危ないと思う」

「分かった。時間は無いが作戦を立てるぞ」バトヤは腕組みをして考え始めた。


ノア、バトヤ、サマの三人は、計画を立て終わるともう一度ひそかに町へ戻り、準備に取り掛かった。やがて準備が終わると、彼らは成功を祈った後、それぞれの持ち場に向かった。

占拠した城の最奥の一室でヨセフスと数人のシンアル兵、そして拘束されたアルスランがこもっていた。アルスランは自らを囲む武装兵を睨みつけていた。

「『ノア』とは何だ? シンアルの最精鋭が出張るほどの相手なのか?」アルスランの問いには誰も答えなかった。続けて彼は言った。「お前たちはどちらにしろヤマトからは出られない。どうせ撃墜されるぞ」

「そうされないために人質が必要なのだ。ヤマトを出るまであなたを解放する気はない」リーダーらしき兵士が答えた。「そして『ノア』も殺す。もう生け捕りにはしない。それで我々の仕事は終わりだ」

「ここはヤマトの第二都市だ。こんな騒ぎを起こしてさらに私を殺すようなことがあれば、この国の人間は決死隊となってシンアルに攻め込むだろう」

「ヤマトの愛国者どもは確かに恐ろしい」同じ男が答えた。「だがヤマトの民がシンアルの兵器を相手に何ができる? シンアルの真似事しかできぬ遅れた国の民が」

「さあ、何ができるのだろうな。私にも分かっていない。やってみなければわからんと言うことだ」

「分かるさ」

アルスランは黙ったが、部屋の奥に俯いて座っている一人だけ白い軍服の老人を見た。その老人は苦しい表情で目を固く閉じ、額に汗を浮かばせている。

「あいつは何だ」

「やめろ。何も言うな。絶対にあの人に話しかけるな。さもなくばハチの巣にされるぞ」

「なんだ。シンアルの最精鋭もお荷物付きか」

アルスランがそう言った途端、ヨセフスは一瞬で冷酷な表情に変わった。瞬く間に拳銃を抜き、アルスランに向けて発砲した。弾は彼の足をかすめ、床に焦げた穴を残した。アルスランは声も無く怯え、周りの兵士はヨセフスを慌てて抑えつける。

「駄目だ……駄目だ……」

ヨセフスはまた苦しげな表情に戻り、頭を押さえて呻き、つぶやくように言った。隊員たちは顔を見合わせてささやき合った。

「総司令に報告しろ。もう隊長は限界だと。これ以上続けば壊れてしまう。そして壊れれば、我々も取り返しのつかない傷を負う」

「しかし我らはまだ『ノア』を相手する必要があります」

「『ノア』と剣を離してしまえば問題ない。この状況ならそれができる」

「しかし……」

隊員の一人はためらうように無線機を見た。

「そもそも隊長がシンアルから逃げ出さなければ、結局解剖されるか、あるいは単純に処刑されるかのどちらかだ。今やってしまっても何の変わりもないだろう」彼は早口でまくし立てる。

「早く、処分の承諾を仰げ」

そう言った瞬間、嵐が起こったような音がして、どこからか侵入した小鳥と蜂の群れが小さな部屋を隙間なく埋め尽くした。城は徹底的に閉鎖されていたが、バトヤとサマが調教した動物たちは小さな隙間に入り込み、目的の部屋まで難なくたどり着いた。そして託された任務にとりかかった。

一方で、一気に視覚と聴覚を失ったにもかかわらず、シンアルの隊員たちは全く動揺しなかった。小動物の妨害を何ら意に介さず、冷静に状況を整理し、それぞれが最善の行動をとった。一人は完全に視界が奪われる前に、正確にアルスランの足を撃ちぬいた。その中でも、小鳥と蜂たちは異常に発達した爪と歯で拘束具を全て壊し、壁に穴をあけてアルスランを脱出させることに成功した。シンアルの最精鋭たちは、さすがにアルスランの行動は把握できていなかったのである。外で待機していた隊員も駆け付けたが、小さな襲撃者たちの群れにことごとく妨害された。


この中でただ一人、自前の能力でヨセフスだけは何が起こっているのかを理解し、視覚も聴覚も無しにアルスランの行動をすべて把握していた。ただ、彼は動かなかった。動けなかった。彼の頭の中では相反する命令と感情が交錯し、行動の自由は奪われていた。この老人を他の隊員から引き離す役目を受けていた鳥たちは、不思議そうに彼の周りに静かにとまり、美しく囀った。

アルスランは新たに現れたネズミの群れに導かれるまま、最適の道を進んだ。撃たれた足を引きずりながら、鳥たちが支えてくれるのが分かった。後ろで銃声が聞こえ、バサバサと鳥たちは撃ち落されていった。銃弾が彼の肩をかすめ、血が噴き出した。

ついに屋外にたどり着いたが、アルスランは倒れこんだ。

――この動物たちはいったい何なのか。誰の差し金だ? 何にしろ、ここからはもう逃げられない。

アルスランが諦めかけた時、目の前に大鷲と、それに乗ったサマとバトヤが降り立った。

「早く!」

サマはアルスランに駆け寄り、抱え上げ、鷲に乗せてすぐに飛び立った。そして武装をしたバトヤは屋上に残り、引き連れた肉食獣たちを追手にけしかけ、サマとアルスランの脱出を援護した。バトヤは両手に手榴弾と機銃を持ち、一人で数人のシンアル兵を相手に銃撃戦を繰り広げた。彼らはバトヤと猛り狂った獣に気を取られ、モトと一緒に建物に忍び込んだノアに気づかなかった。

ノアはモトを先導者として周囲の建物の陰をひそかにつたい、誰にも見られることなく中央城のそばにたどり着いた。モトは小さな隙間から入り込み、内側から閉鎖されたドアを器用に開け、ノアを迎え入れた。

「モト、道は分かる?」

モトは剣に残っていたヨセフスのにおいをたどり、正確にその部屋への道を見出した。事前に城内の情報を小動物たちに共有されていたモトは、監視の目をすり抜け、かつ最短距離でノアを導いた。

やがてその部屋に彼らはたどり着いた。ノアは扉に手をかけ、少しためらった後、覚悟を決めて押し開けた。部屋の奥に、ヨセフスは立っていた。その足元には、小鳥たちが息絶え、その美しい羽を散らしていた。ヨセフスはうつろな目で、突然現れたノアを見ていた。顔は蒼白になり、立っているだけで精一杯なのではないかと思えた。

「ヨセフス、これでもう……」

ノアは部屋の入り口の近くで立ち止まり、剣の柄に手をかけたが、ヨセフスの顔を見て気づいた。あの老人には、もはや何も残っていないのだ。命令も、感情も、全てが抜け去って、空っぽになってしまったのだ。誰かが何かを吹き込んでやらない限りは、もう彼を動かすものは何もない。

ノアは剣から手を離し、引き寄せられるように表情の抜けた顔の老人に歩み寄る。ヨセフスは歩き出しかけてがくりと膝をつき、前に倒れ掛かった。ノアはそれを力の限り受け止め、耳元でささやいた。

「ヨセフス、僕はノアです。分かりますか? あの時、ヨセフスのおかげで、僕は助かった。でも、あなたがいなければ、僕は、何もできないんです。だから、どうか、できることなら――目を開けて下さい。お願いだから――」

彼の声はヨセフスの耳に優しく響いた。声は、彼の頭の中を慈愛と希望で満たしながら、あらゆる深い闇を払いのけ、吹き飛ばし、明るく照らしていく。やがて、ヨセフスの目に光が差した。

ヨセフスは目を覚まし、傍らのノアを見た。

「ヨセフス! 僕が分かる?」

ノアは目を輝かせてヨセフスの顔を見た。

「分かるよ。君は笑っているし、泣いてもいる」

ノアは確かに泣いていた。ヨセフスはそれを見て微笑み、すぐに真剣な顔に戻った。

「ノア、君が私を救ってくれたんだね。君には感謝してもしきれないくらいだ。それに、私が今まで取り返しのつかないことをしてきたことも分かっている。でもその前に――ここはどこだ?」

ノアは置かれた状況を思い出し、救出作戦のことを手短に説明した。

「ならば、屋上のバトヤが危ない」

ヨセフスがそう言った途端、バタバタと音が聞こえ、向こうから数人のシンアルの兵士が現れた。彼らは負傷しているが、武装は万全に見えた。

「バトヤが足止めしてくれていたはずなのに」

ノアは途端に大きな不安に襲われた。敵がここにいるということは、バトヤの身に何かが起こったということだ。

「今はこの場を切り抜けることだけ考えろ。彼のためにも」ヨセフスはノアに言い、相手を見据えた。

「やはりそうなったか」敵はそう言って、銃を構えた。彼らは事前に分かっていたかのように状況を把握した。「処分させてもらう」

「ノア、剣を抜くんだ。私には銃が効かない」ヨセフスはノアとモトの前に立ち、手を広げて銃弾を防いだ。「このまま強行突破だ」ノアは頷き、すぐに剣を引き抜いた。しかし、相手は倒れなかった。

「なんで? この前はうまくいったのに」

ノアは剣を見つめ、一生懸命振り回す。ヨセフスは銃で撃ち返しながらそれを見て、しばらく考えた後、モトに向かって言った。

「別の道は分かるな? お前がノアを連れて行け」

モトは一声鳴いて応えた。ヨセフスは頷き、数人の敵に向かって突っ込んだ。ノアとモトは開いた空間からその場をすり抜け、狭い通路に脱出した。ノアはすれ違いざまヨセフスの背中に声をかけ、走り抜けた。二人は互いを振り返らず、それでいて同じことを考えていた。

ノアは城の正門までたどり着き、ガラスの扉を蹴り破って外に脱出した。その瞬間後ろで轟音が響き、城の中ほどが爆発し、ついで城すべてが崩れ落ちていった。ノアは呆然とそれを見ていた。

――ヨセフスは? 屋上で戦っているバトヤは、サマは?

ノアが絶望して膝をついた時、空から大鷲がふわりと彼のそばに降り立った。サマと負傷したアルスランを乗せている。

「サマ、良かった。首長も救えたんだね」

ノアが顔を上げるとサマも笑顔で応えた。「彼はアルスランというんだ。傷を受けてあまり意識がはっきりしてないけど。ノアは無事だね」

「でも、バトヤは? ヨセフスもこの瓦礫の中なんだ」

「バトヤは、分からない。予想より敵が多くて苦戦しただろうけど、だけど多分大丈夫だよ」

「でも、バトヤと戦ってたはずの敵が下りてきたんだ。もしかしたら……」

「もしかしたら死んでるかもっていうのか?」

二人の後ろで声がして、彼らは同時に振り返った。そこには大きな狼に乗ったバトヤがいて、二人を見下ろしていた。

「悪かった、ノア。敵に屋上から押し出されて、落っこちたんだ。足止めしきれなかった」

「落っこちた? 何で生きてるの?」

「俺がピッと口笛を吹けばどこからでも動物たちが助けに来てくれるのさ」

バトヤは何でもないように言った。三人は城の崩壊に巻き上がった埃の中で、一時は再会を喜び合った。バトヤは不安そうに瓦礫を見つめるノアを見て尋ねた。

「ノア、ヨセフスはどうなった? 彼は救えたのか?」

「ヨセフスは、僕を思い出してくれた。元気にもなったけど、敵が追ってきて、僕を逃がしてくれた。そのまま城は崩れて、どうなったか分からない」

「そうか、成功したのか。だがこの城は俺の責任だ」バトヤは申し訳なさそうに瓦礫を見て、唇をかんだ。

「そんなことない。バトヤは本当に頑張ってくれたし、ヨセフスはあんなことじゃ死なない」

ノアは瓦礫の山を見つめ続けた。ふいに、その一部が崩れ落ちたのが見えた。そしてその下から、白い軍服に白髪の老人がはい出てきて立ち上がった。ノアはよたよたと瓦礫を駆けあがり、抱き着いた。ヨセフスは優しい顔でノアの頭を撫でた。バトヤとサマは遠目からそれを見守っていた。

「どうやって脱出できたの?」

「しつこかったんで、持っていた爆弾で目をくらませた。城全体が壊れるとは思わなかったんじゃよ。すまなかったな」

ノアとヨセフスは瓦礫を下り、下で待っている仲間たちに加わった。

「君がバトヤとサマか。それに動物たち……。本当に感謝する。そして、すまなかった。彼らを傷つけたことは」

「彼らは僕らが操ってるわけじゃなくて、彼ら自身で行動しているんだ。だから俺たちには謝らなくていいですよ」


「私はあなたにひどいことをしてしまった気がしているのです。もしかしてその傷は……」

ヨセフスはアルスランを見て跪いた。アルスランは首を振った。

「あなたは敵に思えなかった。大きな苦しみを抱いているように思っていた。それが晴れたというのなら、それでいい。何も言うべきではありません」ヨセフスは深々と頭をたれ、許しを乞うた。

「それより、今を見ましょう」


倒壊した城を、アルスの街の住人と護衛兵が囲んでいた。駆け付けた軍団長は、アルスランが見知らぬ者たちに囲まれて瓦礫の山の前に立っているのを見て、困惑の表情を浮かべた。

「首長、何が起こったのですか?」

「心配いらない。この者たちに助けられた。リセン軍団長、あなたが難しい立場にあったのは知っている。今回は彼らが良い手段を持っていただけのことだ」

軍団長は頭を下げ、ノアたちにも謝辞を述べた。それからアルスランだけ呼び、二人で顔を突き合わせた。

「アルスラン首長、伝令兵から緊急の知らせがありました」リセンは深刻な声で報告を始めた。

「まず、シンアルの中規模の戦力がここへ向かっています。この都市に迎え撃つ戦力はありません。そして、タイヤンでの戦線でヤマトの軍は全滅し、シンアルは首都を目指して進軍しています。シンアルは、全戦力を動員しているとのことです」

「タイヤンが全滅? ヤマトはあの戦線に全戦力を投入したはずだ。もう何も残っていない。それに、なぜシンアルは止まらない?」

「シンアルはヤマトの申し入れを全てはねのけ、ただ首都を目指して進撃しています。途中の都市をすべて荒野に変えながら」

「首都は何と言っている」

「首都に集えと。他の全都市が答え、首都ロガに集まりつつあります」アルスランは腕を組んで少し考え、苦しそうにリセンに言った。

「俺はロガに行かなければならない」

「分かっています。ですが、あなたが行けばこの都市は滅びます」リセンは冷静に答える。アルスランは黙り込んだ。

「このあたりに、他に戦力は無いのか?」

いつの間にか近寄ってきて話を聞いていたバトヤが、横から口を挟んだ。

「ないことはないが、望みは薄い。南の辺境国だ」アルスランは苦い顔で続ける。

「南の辺境国は南西部のヒマラヤ山脈を南下した場所にある穀倉地帯『オルザ』を守っている。シンアルに対抗する我らは、オルザを占領されたらどうしようもない。さらに辺境国は南方の脅威の番人でもある。南方では何があるか分からない。辺境国はそれを分かっているから、おそらく平原の戦いには参加しないだろう。それに、ヤマトとは深い確執がある」

「また確執か。ロガはこの都市を捨ててまで守るべきものなのか?」

「アルスランはロガの首長ユルの弟だ。首都が狙われている時に参戦しない理由はない」リセンが言った時、町人の一人が進み出て跪き、アルスランに、

「首長だけでも首都へ行ってください。この都市は我々が守ります」と進言した。

「この都市にはもう民兵しかおりません。兵器もほとんどありません。たとえここが滅ぼされても、人が生き残ればまだ再建できます。今は、ユルの力になってください」

「お前たちはここに残るということか?」

「はい。最後に少しでも故郷を守ります。そしてアルスラン首長の故郷はここではなく、首都ロガなのでしょう? たとえここの首長であろうと、最後には本当の故郷を守るべきです」

アルスランはじっとその町人を見て、重々しく口を開いた。

「名前は何という?」

「チヌアです」

「チヌア、あなたをアルスの防衛軍の長にしたい。どうか、この街を守ってくれ。だが、無駄死にはするな。頼んだぞ」

チヌアは頷いて立ち上がり、アルスランを見つめ、背を向けて町人たちのもとへ走っていった。








「剣山」と呼ばれる鋭くとがった峰が連なる山地は、南北に走る大山脈の中央部分に位置していた。剣山は周りの山脈より少し低くなっており、そのせいで日光は遮られ、暗い影の中ひっそりと、それでいてどこか神秘的に佇んでいた。剣山は草木が一本も生えず、ただ一本の川が傍を流れるだけで、生き物が住まうには過酷な環境だと言われている。岩は細く鋭く削られているが、極めて硬い鉱石が混ざっているため、そこに穴を掘って定住することも不可能だった。

「剣山の民」は、そのような土地に住んでいた。少なくとも、オトが彼らについて知るのはその程度の歴史のみである。オトは彼らがなぜそんなところを根城にしているのか知らなかった。彼らが恐るべき強靭な肉体を持ち、暗黒時代をその身一つで耐え忍んだ種族なのだとしたら、この世界に君臨していてもおかしくないのではないか。なぜ彼らは世界から隔絶された場所でひっそりと生きているのか?

王アスフの話では、自分はこの剣山で育てられたということだった。この強靭な身体はそのせいなのか。それでも、おぼろげにさえその記憶が戻ることはなかった。

オトは考えを巡らせながら、深森の国から南へ南へと下っていった。


オトは決して何の心の迷いも無く剣山へ向かっているわけではなかった。自分がその王族の末裔だとして、これまでの王たちの尻拭いをするということが受け入れがたかったのである。なぜ先祖たちの責任を私が負わなければならない? シンアルを止めるには、この命を懸けなければならないだろう。私は死ぬのだろうか? ああ、嫌だ。ただの庶民の一人として、誰かを打倒し、それですべてが終わる分かりやすい人生であれば良かったのに。

それでも、彼の胸の奥には山頂で見た動物たちの楽園のことが強く焼き付いていた。


彼は度重なる猛獣の襲撃を凌ぎ、『野伏』の案内を得、険しい峡谷を飛び越え、寝食を忘れ走り続け、ついに山を抜けた。「剣山」にたどり着いたのである。彼は山の斜面の高いところから、まるで巨大な抜身の剣が隙間なく地面から突き出ているような地形を見下ろしていた。その剣の付け根は影を黒く映した霧に覆われ、周りを囲む山からは冷たい風が吹き込んでいる。オトニエルほどの勇敢な男でさえ、その背筋が凍るような光景に、しり込みせざるを得なかった。しかしすぐに彼はその暗くそそり立つ無数の剣を睨みつけ、斜面を下っていった。彼は武器を何も持っていなかった。

斜面を下り終えると、その鋭い峰はより間近に迫り、彼を圧倒するように見下ろすようになった。彼はそびえる岩々の隙間に道を見つけ、剣山に入り込んでいった。足元はむき出しの硬い岩盤であり、生き物の気配は全くない。進んでいくにつれ、道は細くなっていくようだった。彼は身をかがめたり、そらせたりして何とか岩の間をかいくぐっていった。

ついに彼はその国を見た。そこには、外からは隠されて見えない「岩の国」があった。

 岩盤を掘り起こして作られた住処や、岩と岩を組み合わせて建てられた家々が急斜面に見渡す限り整然と並び、ところどころにたいまつの火が灯っている。そしてそれらすべての規模は、彼が今まで見てきたあらゆるものを上回っていた。予想外に壮大な国を目の当たりにし、オトは自分の置かれた状況も忘れてその光景に魅入っていた。

彼は、無数の巨躯に一瞬にして取り囲まれていたのである。相手の顔は影になっていて判然としなかった。オトは何も言わず、ピクリとも動かず、じりじりと近寄ってくるその影を見つめていた。


「ズルグ ル サー ガン?」

影の一つがくぐもった声を出した。その言葉は岩の国の言葉だった。オトはなぜかこの言葉を――まるで岩の転がる音、岩の砕ける音のような響きを持つこの言葉を――どこかで聞いたことがあるような気がした。彼には相手が自分に『どこから来た?』と質問したということが分かったのである。

「ズルグ ル サー ルス」

オトは凛とした声で『平地の国から来た』と答えた。相手は驚いたように見えた。そして再び岩の言葉で尋ねた。

――あなたは何者だ?

――私はあなた方の友、シンアルの世継ぎだ。

――シンアルの王族が何をしに来た?

――頼みごとがあるのだ。あなた方も無関係ではない。オトがそう言うと、影たちはお互いに顔を見合わせるような動きをした。彼らは頷き合い、

ある者は踵を返してその場を後にした。オトは、そのような動作の一つ一つにもどこか威圧がこもっているように感じた。突然、彼の目の前が明るくなった。相手が細長い石の先に火を灯したのである。その火の向こうに、剣山の民の姿がはっきりと映し出された。彼らの顔は彫りが深く、その丸っこい目と太い眉はむしろ優しげな印象だった。オトを囲うほとんどの民は長い髪を全て後ろでまとめ、何人かは野放図に伸ばしっぱなしにしていた。驚くべきはその胴体と四肢の、外見でわかる頑健さだった。オトの腕の二本分ほどの太さの腕に、脚は岩かと見紛うほど隆々としていた。彼らが着ている灰色の衣服の上からでも、鋼のような胴体を容易に想像することができた。そして、その身長はオトが剣を掲げても、その切っ先が彼らの頭に届かないほど高かったのである。

その身体を折り曲げ、目の前の石の明かりを持った相手がオトに重々しく告げた。

――今から我らの長に会ってもらう。彼はあなたを待っていた。

――それはありがたい。

オトは安心し、門前払いにならなかったことは内心喜んだ。その一方で、長と聞くと余計に身が引き締まる思いがした。

――それで、あなたがたのことを何と呼べばいい?

――我らはクレムの民だ。

――分かった。私はオトニエルだ。

――私はガレガスだ。

二人は握手を交わした。オトは、自分の手が潰れるかと思った。


長の住処はかなり上の方にあるようで、オトはガレガスについてかなり急な斜面を登っていった。その道中、オトニエルはガレガスや他のクレムの民と語り合った。長の名前はルガというらしく、ガレガスはその側近の一人だった。クレムの民は厳格な身分階級のもと暮らしており、その位列は明示されることはなく、自然に決まっていく。従って単なる力の強さや頭の良さでそれが決まるのではなかった。そしてクレムの民自身もそれを説明することはできなかった。

 オトニエルはこのような石の大都市をどのように作り上げたのかと聞いた。ガレガスは、クレムの民ならこの程度の硬さの岩をその指で削り取ることは何ら難しいことではないと言った。彼は傍の岩盤に指を突き立て、そのまま柔らかい土を掘り返すかのように、そこに深い穴を開けて見せた。

 ガレガスは、オトニエルになぜそれほど流暢にクレムの言葉を話せるのか、と聞いた。オトニエルは、自分がここで育てられたということを打ち明けた。そしてその記憶がシンアルによって消されたのだと説明した。だが、ガレガスはオトニエルがここにいたことは知らないようだった。


 斜面に立った岩の建物のうち、最も高い場所にあるものの前で、ガレガスは立ち止まった。両開きの扉を押し開け、オトニエルを導き入れた。ガレガスとその他の付き人は入り口のあたりで立ち止まり、扉を閉めた。オトニエルはそのまま進み、奥に見える火に照らされた台座へ歩み寄った。そこにルガは無造作に座り、オトニエルを見下ろしていた。ルガはガレガスよりも小柄で、もちろんクレムの民の中で比較しての話だが、力も劣っているように見えた。そしてオトが今まで見た民たちの中で一番優しそうな顔立ちをしていた。一方で、彼は容赦なくオトを見つめ、その目はまるでその心の奥底まで露にしてしまうようなまっすぐな光を宿していた。それでもオトは怯まず、見つめ返した。オトニエルは少し離れた場所で立ち止まり、二人はしばらく黙ったまま向かい合っていた。

「ボッズ クレムネ(あなたがオトニエルですか)?」ルガはクレムの言葉で話した。

「ルガ クレモン ヒューレ ゴーディ(そうです。あなたがクレムの長、ロガですね。謁見のお許し感謝します)」

オトニエルが丁寧にそう返した瞬間、ルガは急に笑い出した。

「いやいや、そんな丁寧に話されては困りますよ。私は平地の言葉をしゃべりますから、あなたもそうなさってください」

オトニエルは突然先ほどの厳粛な空気が吹き飛び、ルガが相好を崩したので、訳も分からずぼうっとしていた。

「あなたが来られた理由も何となくわかっています。言いたいことはなんなりと言ってください。気遣いは結構です」

そう言われてオトもようやく我に返り、話すべきことを思い出した。同時に、ロガがクレムの長である理由が何となく分かった。彼は他の民が持っていない特別な雰囲気を醸しているように思えたのである。

「では、前置きは飛ばします。率直に言えば、クレムの民には、私と共にシンアルの進軍を止めて頂きたいのです」

オトニエルはゆっくりとしゃべり始めた。

「シンアルは、塔の支配に失敗し、逆にその報復を受けています。そしてそれに耐えきれないと分かった彼らは領土を捨て、その西に新たな国を建てるつもりです。そしてもはや山脈の東側にとどまらず、西側へもその拡大を続けています。シンアルを止めなければ、我々が塔そのものへ戦いを挑む前に、平地の、そして剣山の民でさえことごとく骨になり永遠に土に埋まることになる。とくに、シンアルとヤマトの戦争は激しくなるだろう。そして、その後塔に立ち向かう力は、我々にはほとんど残りはしない」彼は息もつかずにすらすらと喋り続けた。

「ここ剣山も例外なくシンアルの行軍の前に晒される。同時に、あなた方も世界の一部なのだから、塔を敵として平地の国々と同盟を結ぶ義務があるはずです。我々は塔を相手に団結すべき窮地にあります。そのために、あなた方の力が必要なのです。かつて『管理者』と戦いそれに打ち勝った力が」

オトは口を閉じた。ルガは、先ほどとは打って変わって真剣な表情でオトを見つめていた。そして、重苦しく口を開いた。

「シンアルとクレムは、共に『管理者』と戦った盟友でもある。確かにその盟友が暴走しているというのなら、我々が止めるのも当然です」ここで一度言葉を切り、ルガは身を乗り出してオトを見た。「ただ、あなたはシンアルの王族にして、なぜあなた自身がシンアルを止めることをしない?」オトニエルは、自らに降りかかった凶事と、今の彼の立場を説明した。

「なるほど、あなたは孤独で不運な王か」ルガは頷いて言った。「すべては我々が動くかどうかにかかっているわけですね」

ルガはオトニエルから目を離し、天井を見てしばらく黙り込む。

「それでも、我々は戦争に参加することはできない」

「なぜです?」

オトニエルが詰め寄ると、ルガは遠巻きに見ていたクレムたちに下がれという合図を出した。建物には二人だけが残された。ルガはゆっくりと口を開く。

「我々は戦争に出ればおそらく、恐怖に打ちのめされるでしょう」

「恐怖とは何です? あれほど屈強な民たちが、いったい何に恐怖するというのですか?」オトニエルはルガの目をじっと見た。

「我々は、暗黒時代が訪れる前、パティエンシアの住民だった。


パティエンシアは豊かな草原と美しい花々、清く雄大な河川、種々雑多な動物たちが共存する楽園だった。なにより、塔の支配が行き届かない唯一の場所だった。そして塔が破壊され、異常気象が平原を襲い、自然は失われました。

だが暗黒時代が終わった後、全ての自然が失われたわけではなく、わずかだが、残っていたのです。我々は歓喜し、大切にそれを育てていこうと決めました。

 しかし、その時我々は気づいたのです。もはや自分たちの体は、自然と共存できるようなものではないと。暗黒時代を耐え凌ぎ、『管理者』と戦い得たこの屈強な体は、あらゆるものを破壊する。花に触れればたちまち枯れる。川の水に触れればそれは死の川に変わる。我々が歩いた後、そこには一切の生命は芽吹かない。大切に大切に持ち上げた小鳥が、手の中でぐちゃぐちゃに潰れている衝撃を想像できますか?

 我々は悲しみのあまり言葉を忘れました。ただ世界に害をなすだけの生き物になったのです。自分たちを殺そうにも、この体を傷つけることは誰にもできない。寿命で死ぬこともなくなりました。我々は岩の国に住み、何も傷つけず、何も壊さず、ひっそりと生きるしかできなかった。岩山を越え、森を越え、極寒の大氷床まで逃げた者たちさえいた。我らは自分たちがどう呼ばれていたかも忘れ、自らを新たに『クレム』と呼んだ。

分かるでしょう。今この戦いに加われば、クレムの民は生あるものを壊すことを思い出す。自分たちが岩陰に隠れ続けていた理由を思い出す。もうこれ以上、彼らは――私たちは、戦えないのです」

ルガは話を終えた。オトニエルはあの強靭な肉体の裏にある悲劇を知った。彼の頭の中で、複雑な思いが交錯する。

――私はどうすればいいのだろうか? それでもこの民を戦場へ駆り出すのか? もう、クレムの民は傷だらけなのだ。おそらく一生消えない傷を負っている。だが、私は彼らの力がなければ約束を果たすことはできない。もう彼ら以外にシンアルに対抗できる者たちはいないのだ。

「我らが敵を打ち負かす前に、我らの過去がクレムの民を打ち負かすでしょう」ルガはそう言い、俯くオトニエルを見た。

「申し訳ありませんでした。あなた方の事情も知らず……」オトニエルは顔を上げた。「ですが、ここから北に行き、少し登ったところに、一部分だけ豊かな自然に覆われ、動物たちが平穏に暮らす秘境があるのはご存じですか?」オトニエルは答えも聞かずに続ける。

「あの地は今、平原の脅威に脅かされている。このままでは衰弱した唯一の守り神は死に、やがてすべてがまた不毛の地になるでしょう。

あなた方は、平原の敵を打ち負かすのではない。生あるものを破壊するのではない。あなた方の知らないところで、あなた方の手の届かないところで生きる者たちの平穏を守るのです。そのためですら、クレムの民は動かないと言うのですか?」

ルガは真剣に語りかけるオトニエルを凝視し、唇を震わせた。

「秘境があることは知っていた。我々があの地を思うなど、なんと恐れ多いことか。あの地のために戦うなど、なんと不遜なことか。私たちは、いてはならない存在で……死ぬべき民族なのです」

そう言うと、ルガは目を閉じ、両手で顔を覆った。

「そんなクレムの民に、役割があるというのですか?」

「あなた方にしか背負えない役割です」

ルガはしばらく動かなかったが、両手を下ろし、顔を上げた。

「大きく育ちましたね。オト」

ぽつりとオトニエルに語りかける。

「アスフがあなたをここへ送ってきた時には、あなたはただの泣き虫小僧だった。まあ、それも無理はありません。あの時のあなたにしてみれば、我々は巨人のように思えたでしょうから。しかしあなたは我々に――いや、あなたの存在は一部のものにしか知られていなかったが――鍛えられ、強く育ちました。そして平原の戦争に旅立つときには、我々と同じくらい強靭な肉体を持っていました」

驚きのあまり押し黙ったオトニエルに微笑みかけ、ルガは、

「行きましょう。山頂の秘境のために、我々はシンアルと戦います」

と力強く宣言した。




ノア、ヨセフス、アルスラン、バトヤ、サマ、アルスの軍団長リセンは連れ立ってロガへ向かった。ノアとヨセフス、アルスランは馬に乗り、バトヤとサマは角の長い鹿のような獣に乗って丈の短い草原を走った。ノアは結局アルスで別れたモトを思い出し、胸が苦しくなった。モトは長距離の移動はできないと、ノア自身が残してくことを決めたのだった。

「あなた方はシンアルと戦ってくれるのですね?」アルスランが前を見ながら呼びかけた。

「私は――そしてノアは、別の仕事の方が気になっている。しかしこの状況では戦うしかないでしょう。世界が『塔』に飲み込まれてしまう前に」ヨセフスは答え、横を走る二人の男女を見た。

「バトヤとサマは?」

「俺たちにも別の用があるんだけど……」

「でも、この国が無くなるのは寂しいかな」

「あなた方が協力してくれるのはありがたい。私を救出してくれた手腕は見事だった」そう言うと、アルスランは横を並走する強健な騎兵に目をやった。

「それから南の辺境国――オセアルディアの兵も」


アルスランが出発する直前、騎馬の大軍勢がアルスのそばを通りがかった。南の辺境国の軍勢だった。アルスランとリセンは先頭を走る辺境国の王シャティンを呼び止めた。

「平原の戦争に加わってくれるのですか?」

「そうだ。ロガから先日要請があった」

嫌悪感をあらわに、シャティンが答えた。

「我々と一緒に、この都市を守りましょう。そうでなくとも、少しだけでも兵を分けて下さいませんか?」

「我らはロガに用がある。タイヤンの戦力が全滅し、敵はロガを目指して進軍している。ロガが落ちれば、全てはシンアルの、つまり『塔』の支配に下る。我らが守るのはロガだけだ。なぜ我らがヤマトの辺境の都市を守らねばならんのだ。平原の民と共闘することですら虫唾が走るというのに」

「分かりました。それでもあなた方南の強国が参戦してくださるのはとても心強い」アルスランは冷静に答えたが、シャティンはその目も見ずに

「お前たちは南の辺境国と呼ぶが、オセアルディアという名がある。二度と不名誉な呼び方をするな」と吐き捨てた。


「なんであの人はあんなにヤマトを嫌っているの?」ノアがアルスランに聞いた。

「遠い昔の話だ。ヤマトは、実は南の国の王様が作ったものなんだ。それなのに、平原の人々は『塔』への恨みをその王様に向けて、ヤマトから追放してしまったのだよ」

「じゃあ、今のヤマトの王様は誰なの?」

「ヤマトには王と呼べる存在はない。それぞれの都市に首長がいることにはなっているけどね。実質、最も重要なロガという都市が首都と見なされていて、その首長ユルがヤマトの全体の統治者とされている」

「ロガとは、どんな人物なのです?」ヨセフスが尋ねた。

「ロガは私の兄で、とにかく戦が強い。彼自身の戦闘能力も、部隊の指揮も、シンアルのどの将校も上回っています。それを買われて彼は首都の長になった。彼はまるで戦争の鬼です。我らの親はシンアルとの抗争で早々に死んで、一人で勉学に励み、体を鍛え、私を育てました」

「あなたはユルの下でロガにいようとは思わなかったのですか?」

「私は兄に嫌われています。正直言って、戦争や政治は苦手なんです。小さいころからずっと絵を描いたり、笛を吹いたりして遊んでいて、よく兄に叱られましたよ。成人してすぐ、『お前は南の都市へ行って修行して来い』と言われて、しぶしぶアルスに来ました。アルスは私の性に合っていまして、分かるでしょう? アルスは芸術に秀でた豊かな都市だ。それで慕われて、首長に選ばれたのですよ。しかし、それでも私は今、ロガに行くべきだと思っています」

アルスランは、最後は力強く言い放った。

「なぜユルはタイヤンへ行かなかったのですか?」バトヤが横から言った。

「ヤマトという国は、大きな都市が点在していて、それぞれの自治意識が強い。今までのシンアルとの抗争も、基本的に都市ごとに行われてきました。しかし、それでいて『ヤマト』という国が偉大であり、『塔』への最大の対抗者だという思いは、西パティエンシアのすべての民が共通して持っています。そして今、暗黒時代の終わり以降初めての『ヤマト』の最大の脅威が訪れた。我々は力を集結させる必要があります。もはやシンアルに対抗する武器は剣、弓、槍しかないとしても」

「シンアルは、実際どれぐらい強いのですか?」

「シンアルの兵器は、銃、重火砲、爆弾、戦車、戦闘機――つまり、ヤマトの攻撃も防御も簡単に打ち砕く兵器を無数に保有しています」

「ヤマトには?」

「あるにはあります。正確には『あった』。先のタイヤンですべての兵力を使い果たし、結果敗れました。十分に訓練された兵士たちも、指揮官たちも全て死にました」

「最後に残ったのは、力なき市民たちか」

ヨセフスは遠くを見てため息をついた。彼はノアから聞かされた旧友レイスの死に、耐えがたい喪失感を感じていたのである。その一方で、次は自分の番だという使命感も強めていた。


やがて草原は疎らになり、赤茶けた土がどこまでも広がる荒野へ変わった。バトヤは「ここの土地全域は風化した溶岩に覆われている。暗黒時代に何度も噴火したアララト山の溶岩が流れたせいだ」とノアに教えた。「アララト山はあの大きな山地の真ん中の山だよ」

顔を上げた先にはうっすらと高峻な山々が見える。それはヤマトの領地の北辺に位置し、西の大山脈の支脈であるシエラロス山地であった。この山地を越えた向こう側には影の差す国「青洲」が広がっている。この荒野はかつては美しい自然が溢れる穏やかな平原であった。しかし千年の歴史の中で幾度となく「管理者」と「解放者」との戦いの舞台となり、そして暗黒時代には自然の猛威を経験し、そこから生命の息吹は消えた。あえてロガはそのような地に再建されたのである。アルスランは興奮気味に説明した。『管理者』との戦いの拠点は暗黒時代の地殻変動ですべて崩れ落ちたが、ロガだけは残った。この都市は千年以上前から存在する反抗の象徴なのである。


ノアが目を凝らすと、はるか遠くに黒くくっきりと都市の輪郭が見えた。それは地面から隆起した巨大な硬い岩盤の上に佇む、難攻不落の都市だった。都市の周囲は断崖絶壁であり、自然の城壁を作っていた。朝日が昇り、その都市全域を照らし出した。隆起した岩盤の周りにもところどころに要塞が築かれ、その周りにも小さな街が広がり、何重にも敷かれた防衛線の要となっている。

「あんな都市が滅ぼされるはずはないよ」

ノアは思わずつぶやいたが、ヨセフスは

「どんな堅固な城でも、守る者がいなくなればいずれ落ちる。そして我々はいつまでもあの都市に引きこもっているわけにはいかない」と首を振った。

防衛線まで着くと、警備兵が駆け寄ってきた。

「第二都市アルスの長、アルスランだ。ロガの防衛のために来た。通してくれ」

「第二都市の長が来られるとは心強い」

相手は防衛の長グラントだと名乗り、アルスランと握手した。

「この者たちも参加する。南の辺境国も参戦するという。今ロガにはどれくらい集まっている?」

「ヤマト全都市の民がここに向かっていますが、現在集まっているのはその半数です。そして南の辺境の国々、北東の騎馬の国からも招集に応える声が届いております。すべてが集結するのに、まだ時間はかかりますが、シンアル軍の進撃を各都市が鈍らせているので、準備の時間は十分にあります」

「いずれにしても大きな戦力を得た」アルスランは大きくうなずいた。

「アルスラン、ロガへ入るぞ」

ヨセフスは遠慮がちに言い、アルスランは天然の城壁都市の方を振り向いた。

「そうだ。今は時間が無い。ではグラント、シャティンという騎馬の王が来たら通しておいてくれ」

一行は要塞都市を抜け、目の前に鎮座するロガへ向かった。岩盤が隆起した根元の近くまで来ても、その都市はまるでまだ遠くの空に浮かんでいるように果てしなくそびえている。その一方で、近づけば近づくほどに圧倒的な荘厳さが増し、彼らを威圧するように見下ろしていた。隆起した斜面を沿うように取り付けられた道があり、一行は馬や鹿に乗ったまま登っていった。やがて都市の高さまで来ると道は平坦になり、巨大な門へ続いている。彼らはその下をくぐり、メインストリートの中央を、堂々と、かつ足早に通り抜け、中央に建てられたロガの城へ向かった。

ノアはその道中、馬に乗ったヨセフスの前に座ってヤマトの最大都市を眺めていた。大通りの周囲は住宅が並んでいたが、アルスのような自由さも、地下都市や落水の谷の洗練された様式も兼ね揃えた街並みをしていた。そして、そのような落ち着きつつも情熱を漂わせる都市全体から、長い歴史の中培われた気品が溢れている。ノアは大山脈の山頂で見た美しくも儚い秘境とは異なる、人間の力強さを感じた。

一行は城に着くと、門を抜けて登っていく。石造りの城は簡素なつくりだがかなり強固で、『反抗の拠点』としての城を体現している。

「ここです。私一人で行かせて頂きます」

アルスランは巨大な扉の前で立ち止まると、ノアたちを置いて部屋へ入っていった。部屋の奥に、護衛兵が数人と、完全に武装をした男が立っている。背はあまり高くないが、鍛え上げられた身体は重装備の上からでも容易に分かった。

「アルスランです。戦争に加わりに参りました」

「お前のような遊び人が来たところで何も変わらない。アルスで戦死すればまだ良かっただろうに。自分が治める都市を捨てて逃げるとは」ユルは突き放すように答えた。

「アルスの住民は私より強く、私よりアルスを愛しています。それと同じくらい私はあなたを守りたいと思う」

「アルスは滅びた。先ほど報告があった。残念だったな」

アルスランは思わず言葉を失った。呆然とする弟に、ユルは冷たく指示を出した。

「将官が集まれば防衛戦略を立てる。それまで待機しろ」

アルスランが部屋を出ると、一行は街へ下りて行った。城を出る時に、ヨセフスは門の裏にある人物の肖像が飾られているのを見た。兜をかぶったしなやかな体つきの兵士が描かれている。

「あの肖像は?」

「あれは、かつて『管理者』を倒した十人の指導者たちのうちの一人であり、その後ただ一人シンアルと決別しこの国を作った王です」

「あなた方はその血を引くのか?」

「いえ、シャティナータの血ははるか昔に途絶えました。そして、ヤマトに都合よく神話になった。もうあまり覚えている者はいませんが」アルスランは沈んだ表情で城を後にした。


街の中央で、人だかりができていた。新たな戦力が加わったようだった。人だかりの中心にいたのはコルホネンだった。コルホネンはノアとヨセフスに気づくとお辞儀をし、アルスランに向かって握手を求めた。

「この戦争に加わらせて頂く、コルホネンという者です。我々は古来より北の森に住み、かつての文明の武器をいくらか保持していました。この場にそれらすべてを持参しました。しかしこの兵器は我らにしか使えない。指揮官殿にはうまく我らを使ってくださることを望みます」

アルスランは驚きと喜びの目でコルホネンを見たが、ヨセフスは抑えきれず彼に問いかけた。

「この戦争は万に一つも勝ち目はない。たとえ古代兵器をいくらか持っているとしても。それなのに――そしてあなた方は長く世界の周縁にいて、平地の歴史に加わってこなかったのに――なぜここへ来られた?」

「一つは、北の森がすでに戦場となったこと、そしてもう一つは、彼の言葉に心を打たれたということです」

彼が見る先にはリティがいた。ネブロを背負っている。

「ノアさんが連れ去られ、オトニエル様が南へ、ゼフラ様が東へ旅立った後、シンアルの部隊が落水の谷を攻めてきたのです。私たちは、もう過去の文明を残しておくことはないと思い、抵抗する気は無く、このまま滅びるつもりでした。ですが、彼が言うには、我々には責任があると。古代文明が今の混乱を引き起こした遠因であるなら、平原の戦いに手を貸すべきだと。私たちは彼の言葉に納得したのです」

「僕はただ古代文明が好きだっただけさ。あんなに強い兵器があるっていうのに、何もせずにやられるなんてもったいない」

リティは何でもないように言った。コルホネンは微笑むと、ヨセフスに向き直った。

「それに、この戦争の行く末は、まだ決まったわけではありません。希望はまだ十分にあります」


ユルの呼びかけで、将官たちは城に集結した。

「シンアル空軍はゴルンの統治にその戦力の多くを割いています。空からの攻撃より、地上戦に力を入れるべきです」

リセンが地図を見ながら計画を立てる。

「シンアルの軍の大将はセムという男じゃ。目的のためには手段を選ばぬ」ヨセフスはそう言うと、あの感情の無い鋭い目つきを思い出した。

「あのノアという少年は、いったい何なのです」アルスランはヨセフスを見た。

「あの少年は、この最後の都市と同じくらい守るべき価値のある者じゃ。彼は西の辺境から来た。すべての人間の中で、唯一塔に抗える力を持っておる」

「あの強大な塔を前にして、西の弱き民に何ができるかは分からないが」ユルが口を挟む。

「我々には力なき者を守っている余力は無い。全力で迫る敵を打倒さなければならないのだから。もし彼がそれほどに大事なら、戦線へは出さず、都市の奥に引っ込ませておく方が良い」

「彼は狙われる。私が見守るから気遣いは無用じゃ」ヨセフスはユルを見据え、きっぱりと言った。

ロガの北側にアルス、南側にバトヤとサマ、そして東側――シンアル軍が最も戦力を厚くするであろう主戦場――には、ユル、コルホネン、リセン、、シャティン、ヨセフスがいた。ヨセフスは最後の防衛線を任され、ノアもその部隊に入ることになった。

ノアは手持ち無沙汰で、ぼんやりとロガの街を歩いていた。住人たちは走り回ったり、建物を補強したりして、戦争の準備に追われている。彼は自分が少なからず注目を浴びていることに気づいた。ロガの人たちは仕事をしながら、ちらちらとノアを見たり、ひそひそとささやきあったりするのである。ノアが何となくいたたまれなくなった時、防衛隊長のグラントがそっと傍に立っていた。

「君は色んな意味で有名だよ。この都市でね。西の辺境から来た弱き民がこの戦争に参加している。そして聞くところによると、千年現れなかった破壊者として選ばれた少年だと。塔の支配を撃ち滅ぼす者は強健なヤマトの民ではなく、西の地中族だということが彼らには納得できないらしい」

グラントは歩きながら言った。

「僕はこの戦争で何かの役に立てると思えない。それでもヨセフスは僕をここへ呼んで、守ってくれている。だから、僕にできることならどんなことでもやろうと思うけど……」と、ノアはグラントを見た。

「敵は、あとどれくらいでここに来るの?」

「あと数時間もすれば姿が見えるだろう。途中の中都市がいくらか進撃を遅延させているが、シンアル軍はまっすぐにここを目指している」グラントはノアの心配そうな顔を見た。

「けど、心配しなくていい。こんな時はたらふく食って、飲んで、歌を歌うのさ。シンアルの奴らが決してしないことだ。ヤマトの人々は食事を凝らし、建物を凝らし、芸術を凝らし、自然を愛でてきた。これはヤマトが成立する前から――『白の塔』の崩壊や、千年前の戦争の前から――この平原に住んできた人々が、変わらず続けてきたことだ」

「グラントは、その時代に生きていないのに、昔の平原が良かったなんて思えるの? 僕は、この荒れ果てた平原を見て、自然が豊かだった過去を想像できない。この平原を見ると、いつも暗い気持ちになる」

ノアは暗い空を見上げながら言った。グラントはノアを城の外に連れ出し、街に急遽作られた食堂へ向かった。グラントは歩きながらノアに言い聞かせる。

「それなら、自然が豊かだった時代の景色を想像するんじゃなくて、そこに生きていた人々を想像すればいい。人々はどんな生活をしていたのか、どんなことを思っていたのか、何を大切にしていたのか、とかね。そうすれば、その人たちがどうしても守りたかったものが見えてくる。今の時代にまで、それが残り続けているんだって気づける」

食堂の中に入ると、あと数時間で決戦だというのに、飲み食いし歌う人々で埋め尽くされていた。中央に長いテーブルとその周りに椅子、奥の方にも大きなテーブルが見える。そして隙間なく、ノアが見たことも無いような美味しそうな料理を乗せた皿と酒が入ったグラス、瓶、樽が卓上を埋め尽くしていた。卓の周りでは、顔を赤くした人たちが何やら楽器を奏で、大声で歌い、囃し立て、手を打ち鳴らす。この食堂だけは、世界中の暗雲を吹き飛ばす底知れぬ力であふれていた。

「彼らは決して訓練された兵士たちじゃない。ただ美しいもの、楽しいものに思いを馳せ、生きてきた。だけどそんな人たちだからこそ、自分たちが大切にしてきたものが奪われると知った時、武器を取ることをためらわない」

「怖くはないの?」

「敵が怖いかということ?」ノアは頷いた。

「もちろん敵は怖いさ。我々は恐ろしい兵器に対し、原始的な武器とわずかな火砲で挑まなければならない。

だけど、想像するんだ。ヤマトがシンアルに負ければどうなる? 国を奪われるとはどういうことか? 例えば、ヤマトの言葉、歌、物語は禁止される。口にすれば死刑だ。書物は燃やされ、建物は壊される。ヤマトの歴史は全て否定され、ヤマト人の名前も全てシンアル式になる。ヤマト人同士で集会を開いたり、結婚したりすることも禁止される。強制的に労働に従事させられ、死ぬまで働かされ続ける。こんな未来に比べたら、今この瞬間の恐怖など無いに等しい」

「でも、死んじゃったら意味が無いよ」

「そうだな。それはそうだ。でも、守り抜いた未来を生きる人は必ずいるはずだ。例えそれが私じゃなくても」

ノアはグラントが熱心に語るのを見ながら、何か胸につかえるような気分を感じた。

――それなら僕は、何のために戦い、何に対して戦うんだろう? もしそれが『塔』なのだとしたら、今僕が奪われようとしているものは何なのだろう?

「ちょっと長話をしてしまった。さあ、食べよう」

二人は手近な席に着き、悲しいほどに陽気な宴会に加わった。


ロガに最も近い北東都市フェルノルから、ついに陥落の知らせが届いた。フェルノルの住民は一人残らず戦死を遂げた。最後にフェルノルの長、ルガルデは敵の第一団の戦車隊を壊滅せしめ、大いに足を鈍らせたと報告された。

「あと一時間程でシンアルはロガに到達します。その間、もはや足止めする都市はありません」

「アルスラン、全兵士に号令をかけ、人員の配置を徹底させろ」

ユルが指示を出し、アルスランはすぐにロガの麓へ下りて行った。すでにロガの周囲には、シンアルを迎え撃つ民兵たちが幾重にも戦列をなしていた。


ついにシンアル軍が荒れ果てた地平線の彼方から、暗黒の空を背景にその姿を現した。その大軍は、黒く大地を塗り潰しながらまっすぐにロガへ向かってくる。まさにシンアルは全戦力をかけて人間の希望を踏み潰しに来たのである。黒い軍勢は戦に慣れないヤマトの民兵たちが心を整える前に、もうその目と鼻の先に迫ってきた。そしてロガの布陣から少し離れた場所で止まり、ぞろぞろと左右に軍を展開し始める。城下にいたヤマトの兵たちは、シンアルがロガの全周を包囲してなお、敵軍の切れ目が見えないことに気づき、その莫大な戦力に言葉を失った。

 その中で、ヨセフスは冷静に眉をひそめた。「あれは多すぎる。戦争においては非効率なほどに」ヨセフスは、あの軍勢はシンアル兵だけではないと予測した。「シンアルでは何が起こっている?」彼は一人、思考を巡らせる。

 つかの間の静寂が開戦を待った。張り詰めた空気が身をえぐるように戦場を満たす。そのただなかにいて実際に武器を手にする彼らは、はたして何を思っていたのだろうか?早く始まれと奮起していたのだろうか? あるいはこのまま一生始まらなければいいのにと祈願していたのだろうか? いずれにせよ、その時間は何時間も続くように思われた。そして、シンアル軍が全く予期せぬ形で均衡は崩された。

 シンアル軍が展開した地面が、突如地響きと共に爆発したのである。爆発は何十回と続き、その度にシンアル軍の兵士、銃、戦車といったあらゆるものを四散させていく。空は黒煙で覆いつくされ、破片の雨が降る。最後に大爆発を起こし、ヤマト軍の先制攻撃は終わった。ヤマトは迎え撃つ側の優位を存分に生かした。地中に埋めたなけなしの地雷もその一つだったのである。ともかく予期せぬ大損害――一個師団に限定すればだが――を受けたシンアル軍は一時混乱し、逆に士気を上げたヤマト軍は巻き上がった砂埃の中へ突撃した。

 意外なことに、戦況は互角と言えた。それはヤマトの参謀たちの願望であったのかもしれないが、少なくとも一撃ですべてが終わるという最悪の結果は免れたようだった。砲兵陣地から打ち込まれる砲弾は、今のところもともと頑丈であったロガの都市に致命傷を与えてはいなかった。そしてそれ以上に、都市の周囲を守る民兵たちが果たした役目は大きかったのである。彼らは非情な弾幕をものともせず剣や槍を携えて敵の部隊に突撃していった。

ヤマトの兵は、そこで初めてシンアルの兵の顔を間近で見た。そこにあったのは怒りと憎しみではない。ヤマトの兵は敵の表情の中に、疑惑と恐怖を読み取った。まるで背後から得体の知れない何かを突き付けられているような恐怖の表情だった。彼らはヤマトの兵を全く見ていないのだ。ただ自らの進軍を――逃避にも似た進行を――邪魔をするものを必死に払いのけているだけだった。ヤマトの兵は、敵の武器を奪い、囲う敵に一矢報いた後、血をまき散らして斃れていく。そして敵の複雑な表情に気づき、自らも疑惑を胸に抱えたまま死んでいくのだった。

「あれを見ろ」

民兵たちが視線を送る先には、数少ないヤマトの将たちが奮戦していた。ヨセフスは敵の弾幕を受けながら、歩兵のための突破口を切り開いていく。コルホネンとその部隊は(この中に勇敢にもリティが混ざっていた)、シンアルの兵器をも上回る圧倒的な性能の火砲で敵の拠点を狙い撃ちにしている。バトヤとサマは禽獣と共に敵の一団を攪乱させ、負傷兵を救護し、縦横無尽に暴れ回る。ユルとアルスランは銃弾、砲弾をかいくぐり、単騎で敵の部隊に切り込んでいく。シャティンは鉄の騎馬隊を率い、敵狙撃兵を馬の足でなぎ倒し屍の山を築いた。


開戦時の地雷によって、ヤマトとシンアルの戦闘は拮抗していたが、数時間が経ってヤマト軍は明らかに劣勢になっていた。体制を整えたシンアル軍の弾幕は、ヤマトの歩兵が百人で突撃して(ヤマトの歩兵は剣か槍か弓を持って突撃するしか攻撃手段が無かったのである)、ようやく一人が敵の懐に入り込めるか否かという程に強力だった。幸か不幸か敵陣に突入できたその一人も、ただ無数の銃口に囲まれて、一斉射撃の的になって終わる。

そうこうしているうちにシンアルの後方から砲弾が打ち出され、ヤマトの布陣を徹底的に破壊していく。

ユルは偶然出くわしたヨセフスを見て、少しの間手を休めた。

「ヨセフス、そっちの状況は?」

「あの砲撃じゃ。とにかくあれをどうにかしなければならぬ。今はコルホネンの兵器でギリギリ持ち堪えてはいるが。あの遠距離火力さえなくなれば、後はどうにかなる」

「同感だ。どうすれば砲兵の陣地を攻撃できる?」

「私が単身でもそこに乗り込めば、大方破壊できる。あの奥の――かつてはヤマトの砲台があった所じゃ。そこに集中しておる。だがそこにたどり着くまでに良い的になるだけじゃな」

ユルは戦場の遠くを眺め、しばらく黙っていた。そして、ヨセフスを見てこう言った。「私の部隊があなたをそこまで連れて行こう。陣地に着くまであなたを守るから、そこから後は頼む」

「死ぬ気か?」

「このままではヤマトは滅びる」ユルはきっぱりと言った。「悪いが、帰りの道までは確保してやれないな」

ヨセフスはユルを見た。彼はユルの姿を死んだレイスと重ね合わせていた。

いつも無茶をして仲間を困らせていた頑固者。あいつは自分が死ぬと分かっていても、私とノアを救ってくれた。今度は私の番だということなのだろうか……。ヨセフスはユルの不撓の決意を察し、自らの運命を問うた。

「分かった。乗らせてもらう。じゃが、あなたは私以上に死んではならぬ。危険になったら作戦は中止させてもらう」

ヨセフスの言葉に、ユルは頷いた。

ユルは数人の兵士を募り、防御において重装備を施した。ヨセフスはコルホネンから兵器を可能な限り受け取った。

「敵の包囲の薄い北側から北東へ抜け、逆側から陣地を囲う部隊に突撃し、ヨセフスを送り込む。敵は油断しているはずだ。そんなところが襲われるはずはないとな」

「送り込んだところで集中砲火に遭うだけです」コルホネンが首を振って言った。

「砲台を破壊する間ぐらいは耐えられるじゃろう」

「その後は?」

「さあな」

「馬鹿な。今あなた方二人を失えば、守れるものも守れなくなります。思いとどまってください」

「ユル殿、落水の賢人がこう言っておるぞ」

「コルホネンさん、あの砲台さえ使用不能にすれば、十分勝機は見えます。そして、それをできるのはヨセフスだけです」

「だからと言って、あなたが行く必要は無い。それに、たとえ行くにしても大部隊を作って戦力を集中させるべきです」

「もうそんな戦力は無いのです。どこかを削れば、そこから防衛線は瓦解する。素子て、この役目は私でなければ務まらない。ここはヤマトの首都なのだから」

「あなたは、死ぬ気なのですか?」

「みすみす死ぬつもりはない。私は役目を果たしてここへ帰ってくる」コルホネンは揺るぎないユルの顔を見て、目を閉じた。

「分かりました」コルホネンは顔を上げ、ユルの肩に手を置いた。「どんな武器でもいる

ものは持って行ってください。私も、できるだけのことはします」


ユルが率いる部隊はヨセフスを守りながら、北側の包囲の一端を崩し、向こう側へ出た。途中で数人が倒れ、部隊は半分となった。ユルたちは東へ逃げながら、陣地を守る何層もの布陣を確認した。その砲口はすでに孤立無援の小隊を捉えている。彼らはそれぞれ窪みや物陰に身を潜め銃撃をしのぎ、装備を整え、ユルの合図を待った。

「ユル、予想より被害が大きい。作戦は失敗する」

ヨセフスはユルを呼んだ。しかし彼は首を振り、言い返す。

「失敗しようが戻ることはない。敵が集まる前にこのまま突っ込む」

「無茶じゃ。帰った方がまだヤマトのためになる。お前は首都の長じゃぞ」「ここまで来て戻れるものか。ヨセフス、俺を信じてついてこい。そうしなければ意味が無い」

ユルは方向を定めると号令をかけ、隊員は一斉に飛び出した。彼は小脇に抱えていた小銃で撃ち返しながら、弾幕の中へ突き進んでいく。ヨセフスはその真後ろから彼を追った。

一人、視界の端で仲間が撃たれ、倒れた。二人、投げられた手榴弾の爆風を抑え込み、四散した。ついに、ユルの上半身の装甲が弾け飛んだ。肩を打ち抜かれ、血煙が上がる。

何か小さな影がヨセフスの目の前を横切った。白い笛。赤く血に染まった、小さな笛。

空に弧を描きながら、彼の背後へ落ちてゆく。白い残像を残して、それはヨセフスの視界から消えた。

それでもユルはまだ倒れなかった。彼は残りの爆弾を全て抱えて敵の一団へ突っ込んだ。すさまじい音――人の悲鳴のような、雄叫びのようなものも混ざった爆音――が轟き、辺り一帯を衝撃波が襲う。熱風が周囲の人間の顔を焼く。薄暗い空が黒煙で覆われ、夜のように闇を落とした。ヨセフスは構わず煙の中を走り抜けた。気づくと彼の目の前には、シンアルの砲台がいくつも並んでいた。

ヨセフスは何も顧みず、手持ちの少ない兵器で確実に一つ一つ砲台を潰していった。彼は同時に、経験したことのない集中砲火が自分の身を削り、焼いていくのを感じた。それでも彼は視認した敵の砲台を全て塵に変え、最後の重砲が爆発するのを見て、ついに意識を失った。


ユルが出撃する前、彼のもとにある報告が届いていた。

「青洲が全軍を起こした。奴らはここへは来ないはずだったのだが、裏切ったということか」

「そもそも交渉自体成立する相手ではなかったのです。買いかぶりすぎました」アルスランがユルの傍らで唸る。ユルはアララト山の方を見ながら言った。

「もう一刺しで崩れ落ちるというのに、わざわざとどめを刺しに来たのだ。相変わらず姑息な民族だ」

ユルは腕を組んだ。

「奴らは、五百年前の借りを返しに来た。我々がこの地から追い出したシャティナータの恨みを決して絶やさず、奴らはこの日のためにそれを増大させてきた」彼はアルスランを振り返り、肩に手をかけた。

「いいか、奴らにだけは負けてはいけない。後を頼んだぞ」

アルスランはいつもと違うユルの顔つきに、ただ頷くしかなかった。


ユルが砲兵陣地の強襲に出撃したとき、ロガの北東部でも異変が起こっていた。

突然頭上から天地を揺るがすような羽ばたきの音が鳴り、ロガの都市の半分近くを黒い影が覆った。戦場のすべての人間が手を止め、空を埋め尽くすその巨大な生物を呆然と見た。それは全身を赤く染めた空飛ぶ竜だった。

「あれはなんだ?」

リセンが本部でつぶやく。傍らにはバトヤがいた。

「アララト山の火竜だ。今までヤマトと青洲の軍に拘束され、火口の中に捕らえられていたはずだ。兵器の一つとして」

「兵器だと?」

「俺とサマは、あの火竜の解放のために旅をしてきた」

そこへアルスランが駆け寄ってきて、二人に早口で説明した。

「あの竜は、タイヤンで敗戦したヤマトの軍が最後の手段として駆り出したものだ。ヤマトの兵は、アララト火口の青洲の衛兵どもを殺し、竜の拘束を解いたらしい」

「馬鹿な。竜が味方になるはずがない」

「敵にとってもな」

アルスランは、戦場に降り立って暴れ回る竜を見ながら言った。

「タイヤンの参謀は半ば開き直って竜を戦場に駆り出したが、竜自身は自分を苦しめ続けた人間どもに復讐を果たすべくここへ来たのだろう。奴はもう見境なく暴れ回っている。そしてもう一つ、悪い知らせだ。青洲がアララト山と、そこに巣くう竜を信仰の対象の一つとしていることは知っているな?」アルスランは沈んだ声で言った。

「青洲が全軍を率いてロガを目指している。おそらく明日にはここに到着するだろう」ヤマトの将官たちは、何から手を付けるべきか迷い、沈黙が流れた。しばらくして、バトヤが口を開いた。

「火竜に関しては、俺とサマに任せてくれないか? 青洲はそっちで対策を考えてくれ」

「どうするつもりだ?」

「まあ、ヤマトに悪いようにはならないと思う。成功するかどうかは分からない。失敗すれば、最悪の結果になる」

リセンとアルスランはバトヤに一任し、青洲への対策を講じ始めた。


火竜は、ロガの城の一番高い塔に降り立ち、大きく咆哮した。そして再び両軍が展開する地面に舞い降りた。

「サマ、俺が竜を抑える。その後は頼んだ」

バトヤは竜が暴れ回る城下に駆け下り、動物たちを呼んだ。竜はシンアルの銃弾や爆弾など意に介さず、その翼で兵たちを吹き飛ばし、牙で戦車を粉々に砕いていく。バトヤは隙を見て、その足の鉤爪に飛び乗った。竜は振り落とそうと暴れ回ったが、バトヤはうまく這い上がり、背中に掴まる。竜の皮膚は高温に保たれていて、彼の肌をじりじりと焼いた。

その間、鳥や犬が竜の目の前で視界を塞ぎ、かく乱し続ける。ついにバトヤは太綱で翼を縛り付けると、そのまま背に張り付いて竜の身動きを封じた。

竜は目の前に滞空する大きな白い鳥に乗ったサマがいるのに気づいた。そして、サマが抱えている小さな赤い竜の子を見た。バトヤは、暴れようとする竜の力が一瞬緩むのを感じ、彼も抑え込んでいる力を緩めた。サマは竜の子を差し出し、鼻の上に乗せる。その竜の子は、二人が山脈の麓で見つけた卵から孵し、何年もかけて育ててきた竜なのである。二人はそれが火口に棲む火竜の子だと気づき、親子を引き合わせるために旅をしていた。 竜は自分の鼻の上で不思議そうに首をかしげる小竜が自分の子だと気づき、動きを止めた。その瞬間シンアルの戦車隊が火を噴き、竜は重傷を負った。サマは竜の目の前に立ち、ロガの城の中へと導く。竜は大きな翼を力なくはためかせ、ロガの都市の広場に降り立った。ヤマトの民がおののき呆然と見つめる中、竜の親子は初めて正面から再開したのである。親子はサマとバトヤに見守られ、いつまでも声を交わしていた。


ヨセフスがシンアルの砲台を全て破壊し、それに竜による奇襲が重なり、シンアル軍は日が落ちる前に一度攻撃の手を休めた。そしてそのまま戦闘が再開されることはなく、夜になった。ロガの街には負傷兵が溢れている。見回りながら、ヤマトの将官たちが戦況を確認していた。

「敵はロガを包囲したまま、攻撃を止めました。こちらも最低限の守りを下に置き、兵は大部分を引かせました。北側、南側、西側の被害は小さく、最後の防衛線は守り切っています。ただ、東側の将校はほぼ戦死し、歩兵もほとんど失いました」

「ロガの戦死は伝わったのか?」

「いいえ、北側の一部にしか知られていません」

「そうか」

「すでにコルホネン隊の兵器は底をつきました。兵力も開戦時の四分の一です。対して開戦時を除き防衛に精いっぱいで、シンアルの力を削ることはほとんどできておりません」

「だが、敵の砲台は全て破壊した」

「そのおかげで今日は凌ぎ切りました。しかし、敵にはまだ戦車もあります。ゴルンの統治が落ち着けば、航空戦力も送ってきます。今日はコルホネン隊が牽制してくれていましたが、それが尽き次第、戦車で防衛線を突破されます」

「つまり、明日は最初の四分の一の兵力で今日とほぼ同じシンアルの攻撃を凌がないといけないわけか」

「加えて、青洲の軍がここへ攻め込んでくるとの情報もあります」

その時、城内の将官たちが集まる場所に、あるケガ人が担架で運びこまれてきた。

「ヨセフス! 生きているのか?」

バトヤが血だらけの老人の顔に覆いかぶさり、呼びかける。

「生きておるよ。また生き残ってしまったのう。意識はしっかりしておる。砲台を破壊した後意識を失ったが、ちょうどあの竜が暴れ回っておってな。シンアルの兵どもはわしを取り逃がしたようだ。指先一つ動かせぬがな」

ヨセフスの言葉に、将官たちは心を躍らせた。まだ希望はある。ヤマトは死んではいない。ヨセフスは目だけを動かし、横に跪くアルスランを見た。

「アルスラン、わしの装備の腰のあたりに巾着があるじゃろう。その中のものは、あなたに渡すべきじゃと思う。ユルの遺品だ」

アルスランは震える手で巾着を取った。中から血に染まった小さな縦笛を取り出す。彼は笛を握りしめ、言葉を失った。

「ユルは片時も話さずそれを持っておった。戦闘中でさえもな。あなたは彼に嫌われていたのではない。いつでもあなたのことを思い、あなたのために動いていたのじゃ。彼は本当は、戦争など好きではなかったのじゃろう。あなたのように奔放に生きることもできたはずじゃ。じゃが、歴史と戦争がそれを許さなかった」アルスランは頷いた。

「兄が私を嫌っていたのではなく、私が兄を嫌っていたのですね……。今となっては、彼の言葉全てが、私を正しい方向へ導くものだったとのだと思えます。

だが、もう遅すぎた。兄は死んでしまった。彼に何も伝えることはできません……。

今からでも、やれることをやろうと思う」

彼は立ち上がり、立て直しに追われる街へ出ていった。


ヨセフスは治療を受けながら、戦争の経過を確認していた。そしてそんな彼の脳裏を、ふと恐ろしい不安がよぎった。

「ノアはどこだ?」

あの子は自分の目の届く場所にいつもいたはずだ。ユルの襲撃について行くとき、城の最深部に残した。そこを出るなときつく言っていた。だが妙な胸騒ぎがする。ここに運び込まれてから、ノアの顔を一度も見ていないのだ。ヨセフスはちょうど通りがかったバトヤを呼び止めた。

「バトヤ、ノアを知らないか?」

「彼なら、ここにはいませんよ」

「なら、どこにいる?」

「彼は塔に向かいました」

バトヤは平然と言い放った。

「彼はここにいても自分にできることはないと、そして自分の役目はあの遠い暗黒の空の真下にあると言っていました」

バトヤは空を覆う厚い雲を見つめてノアとの会話を思い出した。


バトヤは火竜をサマに任せ、戦場に取り残されたヤマトの兵士たちを運んでいた。城下を歩き回っていると、負傷兵たちをぼんやりと眺めるノアの姿を見かけた。バトヤは少年に歩み寄り、その傍らに立った。ノアは何事か思案しているように見えた。二人は何も言わず、慌ただしく人々が走り回る街の様子を見ていた。

やがて、ノアが口を開いた。

「ヨセフスは、死んじゃいないよね?」バトヤは「ああ」と言った。

「バトヤ、頼みがあるんだ」

バトヤはノアを見た。「何だ?」

「僕をここから連れ出してほしい」

「簡単じゃないけど、できないことはない。それで、ここを出てどこへ行くんだ?」

「塔へ」

「一人で?」

「うん。僕は――僕一人だけは、この戦争にいるべきじゃないと思う。僕はここじゃ、何にもできないんだ」

バトヤはそれを聞いても黙っていた。しばらくして彼は膝を折ってかがみ、ノアを正面から見据えた。

「君と最初に出会った時から、君は塔へ行くんだと思っていた。君自身もそう言っていた。それが今だったってことだ。残念ながら、俺は君と一緒には行けない。誰か君と同じくらい勇気ある人がいればいいんだがな」ノアは下を向いた。バトヤは続けた。「でもヨセフスは動けないし、コルホネンも、ロガやアルスの長も南の国王も、今ここを離れるわけにはいかない」

「僕もそう思う。僕は一人で行くよ」ノアはバトヤを静かな目で見返した。

「分かった。ここにいて少し待つんだ。手段なら無いことも無い」

ノアは頷き、バトヤは町の中心へ駆けていった。そこには竜の親子とサマが体を休めていた。

「サマ、竜の力を借りられないだろうか? ノアを、『塔』へ連れて行って欲しい」サマは首を振った。

「駄目よ。この竜は誰の言うことも聞かない」

「竜は知っているのか? もう自分の子と一緒に生きていくことは不可能だと」

「ええ、知っている。私たちに、親の代わりになってほしいと言ってる」

「なら、後は覚悟だけだな」バトヤは竜を見上げた。

「お前はもう永くない。助かりたければまた火口に行くしかない、だが、お前の子はそこじゃ生きられない。最後に、その原因である『塔』に、一矢報いないか?」竜はバトヤを見返す。

――『破壊者』の少年を塔まで運ぶんだな?

「そうだ」

――少年を連れて来い。

バトヤはノアのところまで戻り、手を引いて竜の前に立たせた。竜は舐めるように、毅然として立つノアの姿を見た。

――よかろう。命をこの少年に託す。

「さすがは火山の王だ」

バトヤはノアを見た。「この竜が、君を『塔』まで連れて行ってくれるとさ。どこまでい

けるかは分からないけど」

ノアは差し出された竜の足の鉤爪にしがみつく。焼けるような熱さだ。

「ありがとう、バトヤ。死なないでね」

ノアが言うとバトヤは笑った。「君もな、ノア。すべてが終わったらまた会おう」竜は嵐のような強風を巻き起こし、あっという間に夜の空へ飛び去っていった。


ヨセフスはバトヤの説明を聞き、後悔と自責の念に身を悶えさせた。

――何ということだ! またこうなってしまった。一人の若者に責任を負わせ、死地へ送るなど、もう二度としないと誓ったではないか。サハルが塔へ一人で向かい、囚われとなったあの失敗で、死ぬほどの後悔をしたではないか。自分は何という無責任な保護者なのか。自分はノアに救われたというのに! ああ! ノア、許してくれ! あれほど私が守ると言ったのに!

彼は痛む体の中に火のような激情を漲らせ、一人で旅立ったノアの心中を察し、身がねじ切れるような思いがした。

「バトヤ、ノアは君の力を借りて行ったんじゃな? 私にもノアを追わせてくれ。同じようにしてくれ。頼む」

ヨセフスはバトヤの肩を掴み、激しくゆすり、最後には地に額をつけて頼み込んだ。

「それがだめでも――私は地を這ってでも塔へ行く!」しかしバトヤは首を振った。そして静かに言った。

「竜に乗っていくことも、地を這っていくこともしてはいけません。彼があの『塔』の破壊に不可欠なように、あなたはこの戦場に不可欠なのです。あなたがここを離れればすぐにロガは落ちます。そしてたとえ『塔』が打倒されたとしても、この世界は見果てぬ荒野となり、そこに生命が再び芽生えることはありません」

「知ったことか。私はあの子を守りたい。守らなければならない。それだけじゃ」

「ヨセフス、それはノアへの裏切りであり、逃避に過ぎない。彼は今できることをやった。あなたが今できることは何ですか?」バトヤは冷静に語りかけた。

「シンアルは再び攻撃してきます。ロガを破った後は平原を横断し、歯向かう国々を滅ぼし、山脈を越え動物たちを殺し、西の辺境を更地にする。世界は地獄となり、塔だけが残り続ける。それに、彼が塔を壊す運命にあるとすれば、あなたにそれをどうこうする権限はありません」

バトヤは微笑んだ。

「心配はいりません。彼は一人ではないですから」


ノアは戦場から目を離し、自分が行くべき暗黒の空へ目を向けた。もはや自分にはそこしか行く場所が無いような気がしていた。

「待って!」

その時どこからか聞きなれた声がした。ノアが下を見ると、片腕一本でかろうじて竜の爪にぶら下がっている小さな姿が見える。それはネブロだった。

「ネブロ!」

ノアは今にも落ちそうに曲がった鉤爪を握っているネブロの手を掴み、力の限り引き上げた。ネブロは息も絶え絶えその足によりかかり、ノアを見た。竜の方は全く意に介さず、翼をはためかせ、より高く昇っていく。

「ネブロ、いつ目を覚ましたの? なんでここにいるの?」

「僕はこの戦場で目を覚ました。それまではリティがここまで運んでくれたんだと。ずっと黒い手が頭から離れなかった。だけど最後にはきれいさっぱりなくなったよ。

そんなことより、ノア、なんでいつも僕を置いて行こうとするんだ? 旅に出た時から、僕は君と常に一緒にいることが役目になったんだ」

「ネブロ、今から、今までよりよっぽど危険なところに行くんだ。もう君を傷つけたくない」

「ノア、はっきり言ってもう僕に怖いものは無い。最後まで君を守るよ」ネブロはノアの両肩に手をやり、まっすぐに目を見て言った。

「リティが戦場で大活躍してるんだ。僕らも負けちゃいられない」


ヨセフスは、辛うじて半身を起こし、塔の方を眺めた。彼はごく小さな黒い点が、塔の方へ向かって消えていくのが見えたような気がした。

「ノアは、私の手を離れた。サハルもそうだった。今は――ただ、祈ろう」彼はそう言って、城下で動き回る兵たち見つめた。

「バトヤ、私はこの戦場に骨を埋めるよ」「そうでもしなければ、ロガは落ちます」

ヨセフスは目を閉じ、バトヤは城下へ下りていった。






ゼフラはトラルフ、エディスと別れた後、敵の位置を見定めながら、徐々に東へ進んでいった。疎らな森の中では姿を隠しづらいが、曇天に黒い服のおかげで補足されることはなかった。飛び交う銃弾の中、ゼフラは一人ずつ確実に撃ち倒していく。彼女が肩に二発ほどかすり傷を負い、十人ほど倒した時、銃撃は止んだ。そのまま東へ進むと、倒れている死体が目に入った。死体は黒い重装備で全身を包んでいる。青洲の軍を示す赤と青の腕章が見える。なぜこの森にここまで兵士がいるのだろう?

「お前は、ヤマトの手先か?」

かすれる声に、ゼフラはハッと死体を見た。まだ息がある。ひどくなまった言葉だが、彼女も理解できた。目の部分だけ開いたマスク

「殺してやる。南の奴らは……」

そこまで言うと、兵士は動かなくなった。ゼフラは少しだけ目を閉じ、すぐに頭を振って東へ走り出した。

もう右手には大山脈が明瞭に見えている。森も抜けつつある。もうそろそろだと思って彼女が顔を上げると、突然高い壁が行く手を阻んでいるのが見えた。灰色にさびれた壁が、左右にどこまでも伸びている。青洲を囲う壁であった。ゼフラは上から乗り超えることは諦め、先ほどの兵士たちが通ったはずの入り口を探した。

北へ壁に沿って行くと、ちょうど青洲の兵士らしき数人が門を往来しているところだった。おそらく、森に異変が起こったことに気づいたのだろうと思い、行くなら今しかない、と正面突破することを決意した。幸い、トラルフとエディスが残した武器が十分にある。

――あの門は突破できる。だが、その後すぐに捕らえられる。

ゼフラは森まで戻り、死体を探した。死体の近くにいた敵兵を撃ち殺して土の中に隠し、装備をはぎ取って身に付け、青洲の兵士に扮した。再び門まで走り、意を決して兵士たちの往来に混ざりこんだ。

「森の巡回兵たちはどうなった?」

「十人死亡、二人は不明です」

「死体は?」

「そのままにしておきました」

「すべて回収してこい」

「あ……。申し訳ございません。すぐに回収します」

「お前は?」

「巡回兵の生き残りです」

「もう一人は?」

「分かりません。はぐれたので、敵に捕まったものかと」

「はぐれただと? なぜ見捨ててきた?」

「…………」

「お前、青洲の兵か?」

「冗談はやめて下さい。敵の情報をお話しますよ」

「おい、こんな奴いたか? なぜマスクを取らない?」

ゼフラは隠し通すのは不可能だと諦めた。周りにいるのは五人。目にも止まらぬ速さでナイフを抜き、彼女は目の前の大男の首を切る。声も無くその男が倒れた時には、彼女はすでに他の四人を皆殺しにしていた。しかし、彼女はすでに周囲の兵舎から駆け付けた敵に囲まれ、銃口を向けられていた。

「お前は誰だ? ヤマトの間者か?」

「ゴルンの王族だ」

ゼフラははっきりと言った。ゴルンと青洲は交戦状態ではない。この状況なら、上手く混乱してくれるはずだと思っていた。しかし、青洲の兵たちは情勢に疎かった。彼女の名乗りを聞いても眉一つ動かさず銃を構え、撃ち始めたのである。ゼフラは無意識にかがんでいた。統率の無い銃撃は兵たちを混乱させ、味方同士で争い始めた。ゼフラはこれに乗じて国境近くの敵の拠点を抜け出し、青洲の街へ向かった。

青洲はまるでもぬけの殻である。南の山脈のせいでほとんど日が差さないこの国では、街のいたるところに松明の火が燃えていて、薄暗く陰気な雰囲気を作っている。ゼフラは山のふもとにあるひときわ大きな城に向かって、堂々と大通りを走った。王の監禁場所なら、あそこしかない。脇目も振らず走っていると、青洲軍の兵の一団に行き当たった。ゼフラは物陰に隠れ、彼らの会話を聞いた。

「お前たちも行けよ。ヤマトのクソどもを叩けるいい機会だ。シンアルの奴らもいけすかんが、今回ばかりは感謝しないとな。ボロボロに弱った敵を叩ける機会なんてそうあるわ

けじゃないぞ」

「いいのか? ここの守りは最低限やっとけって言ってたぞ」

「今この国に攻め込む奴なんていねえよ。任せとけって」ゼフラは裏から山へ向かった。

彼女は難なく城にたどり着いた。影が落ちているからなのか、それともわざわざ塗っているのか分からないが、城壁は真っ黒でやや歪んでいる。城にも人の気配は無い。彼女が不用意に門をくぐった瞬間、数人の影が飛び出てきてゼフラをうつ伏せに倒し、抑え込んだ。顔を上げると、城からゆっくりと歩いて出てくる姿が見えた。

「侵入者がいる、という情報があった。城へ向かっていると。そしてなんとゴルンの王族がわざわざやってきてまんまと捕まったわけだ」声の主は影で顔は見えない。

「あなたは?」

「私はシンアルの工作員だ」

「工作員って名乗るのね。馬鹿みたい」

「お前はゴルンの王を救いに来たのだろう?」

「そう。王はどこに?」

「私は奴を殺しに来た」

――殺しに来た? 殺す機会はいくらでもあったはずだ。なぜシンアルが今さら手を下しに青洲にいる?

男は銃を構えた。ゼフラは全身に力をこめ、のしかかる兵士たちを投げ飛ばした。そのまま銃弾をかわし、目の前の男に突っ込み、首を掴み、地面にたたきつける。見ると、その男はもう死んでいた。いや、もともと生きていなかったのか。ゼフラは後ろで兵士たちが起き上がるのを感じ、城へ走りこんだ。

ゼフラは地下だと見当をつけた。だが地下への通路が分からない。頭上から銃弾が降り注ぎ、数発が彼女の腕を撃ち抜く。彼女は床に爆弾をばらまき、城の中に煙と火を充満させ、地下への無数の穴を開けた。地下には数えきれないほどの牢屋がある。ゼフラは一番奥を目指して走った。低くうめくような声が聞こえたのである。父親を思い、彼女は足を速める。これでゴルンは救われる。シンアルも青洲もやっつける。平原の民は平和を取り戻す。早く彼を解放してあげなければ。

そして、ゴルンの王はそこにいた。檻の中で手足を磔にされ、俯いている。ゼフラは一瞬死んでいるのかと絶望したが、彼女が呼ぶ声に王の指がピクリと動くのを見て、胸をなでおろした。

「ゼフラか? なぜここにいる?」

「ちょっと待って。すぐに開けるから」

ゼフラは答えず、台尻で牢の錠を叩き壊す。牢に入り、手足の縄を断ち切る。自由になった王を背負い、牢を脱出する。後はこの国を出て、王がゴルンに戻ればすべて解決する。

私ならゴルンまで五日もあれば帰れる。

「ゼフラ、待て」

「父上、後は私に任せて下さい。すぐにゴルンへお連れします。そしてシンアルを叩きの

めすのです」

「私を連れ去ったのはヤマトの軍だ。その隙にシンアル軍が攻め込んできた」

「ヤマト? そんなはずはありません」

「ヤマトは、というより平原の民は、いずれ地下都市も先史文明の軍も全て世界から排除しようとしたのだ。シンアルの、『塔』の手中に落ちるくらいなら。だが私を連れ去った後、ヤマトは私を殺さず、青洲との取引材料にした。私の身柄と引き換えに、シンアルと

の戦いに参戦はするなとでも言ったのだろう。それは裏切られたようだがな」

ゼフラは王を引きずり、城の裏で息をひそめた。まだ城の守護兵が走り回っている。

「ゴルンが敵対しているのは、むしろヤマトなのだ」ゼフラは困惑の表情で王を見た。

「時間が無いから簡単に言う。ゴルンの先祖は、平原の民が地下に閉じ込めたあの軍を誤って解放した。そのせいで平原は管理者に負けたのだと。ゴルンの一族は平原に憎まれ、地下の管理を押し付けられた」敵兵の声が大きくなる。

「王の号令にしか従わないというのは、私を殺させないために作った嘘だ。平原の民は欲深い。まだ私を利用するつもりだったのだろう。だが、私は生涯をかけて先史文明軍に手を加え、私自身のものにした。復讐を果たすために」

「そういうことか」

ゼフラの後ろで銃撃音が響く。彼女には当たらなかった。弾はゼフラを逸れ、ゴルンの王野原に命中したのだ。振り返ると、さっき死んだはずのシンアルの兵が立っていた。

「ゼフラ、復讐だ! お前はそのためにいる。よくここまで来た。これは天啓だ。もう私はダメだが、お前にもその力はある。五百年間、先の戦争の咎で迫害され続けた一族の復讐だ!」

王は立ち上がると、狂ったように顔を歪ませ、敵に突進し、そのまま崩れた壁から城に走りこんでいった。ずしん、と鈍い音が響き、衝撃波が続く。城は下から崩れ落ちていく。

その地響きは、まるでゴルンの王が地獄の底で哄笑しているかのようだった。


ゼフラは倒壊する城から脱出し、山へ向かって走った。ごつごつとした岩肌をつまずきながら登っていく。無我夢中だった。足の裏に鋭い岩が刺さり、思わずよろめく。彼女は自分がすでに山頂にいるのに気づいた。平原が見える。どこまでも続く荒野。あの向こうには人間たちが生きている。戦っている。分からない。何が正しいのだろうか。もう疲れた。疲れたんだ……。私はただ、根絶やしにしよう。

彼女は無意識に、ある言葉を口にしていた。

「かれに栄光あれ。そのしもべを、聖なるカーナから、われが周囲を祝福した永遠のサマールに夜間、旅をさせた。わが種々の印をかれに示すためである。まさにかれこそは全聴にして全視である」

ゼフラは空を飛んだ。鷲の背に捕まり、眼下を流れていく世界を見つめていた。気づくとゴルンの上空に投げ出されていた。下を見ると、既に廃墟となったゴルンの都市がある。

そしてシンアルの黒い飛行機、黒い兵隊たちがそれを囲んでいる。

――願うだけでいい。東のすべてを、ただ根絶やしにする。

彼女は目を閉じた。




真夜中、ヤマトの兵士たちが傷や疲れを癒していたその最中に、再びシンアルの攻撃が始まった。もはやヤマトは都市の下に兵を展開することはできず、岩壁の上から四方を埋め尽くす黒い大軍を見つめるしかなかった。主力の大砲を失ったシンアル軍は、ロガの都市へ登る唯一の道を攻略しようと、歩兵を大量に投入した。ヤマトはその道の防衛のため、数少ない兵士たちを呼び集めた。負傷した兵でさえ参加した。

将官たちは深刻な面持ちで敵軍の動きを見つめていた。

「あの道を崩そう。幸いあれを破壊するだけの爆薬ならまだある。敵の手に落ちる前に、こちらから有利な形で籠城するのだ」「あの道を崩せば、二度と下へ下りられなくなるぞ」

「道があろうとなかろうと、どちらにせよ下には行けない。シンアルの軍がいる限りは」「なぜその二択しかないのか? まだとれる手はある。あの道から駆け下りて行って、敵を殲滅するのだ」

「不可能だ。一瞬で骨も残らなくなる。あの戦車の数を見ろ」

「ではどうする? 道を破壊し、じっくりと時間をかけて全滅させられるか、ここで干からびるまでじっとしているか? 敵はもう火砲はないが、青洲はそれを補填するだろう。航空戦力もやがてここへ投入されるだろう。我々はせめて、最後まで敵の戦力を削るために戦うべきではないのか? 平原のために」

その時アルスランのもとに、兵士から報告が入った。

「北方から、十万規模の軍隊が目視できる位置まで迫っています。青と赤の旗を掲げ、後方には砲台が連なる車両もあります」

青洲は北側のシンアルの軍が手薄になった部分を埋めるように軍を展開した。ユルとヨセフスが破壊した砲兵陣地も青洲の砲台によって復活し、いつ撃ってきてもおかしくなかった。だが青洲軍はまだ静まり返っている。

日が昇った時、ヤマトは青洲軍の参戦を見て、ついにロガの都市へ上がる道を破壊した。都市は守られたが、彼らはただ待つことしかできなくなった。シンアルは一度兵を引き、攻撃を中断した。

「敵はどう出る?」

「このまま何もせず見ているだけなはずはないだろう」

その時、崖下で爆発音が響き、都市全体を揺らした。将官たちは防壁に駆け寄りその縁から下を見下ろした。青洲の火砲が岩盤に向けて火を噴いているのである。黒い青洲の軍は戦車を借り出し、同じように岩盤を狙っている。

「戦車に爆弾だ。何のつもりだ?」

さらに爆発が起こり、再び都市が震える。

「奴らは、力づくでこの天然の岩盤を崩すつもりだ」

「崩せるわけがないだろう。千年の浸食と風化に耐えきった岩盤だぞ」

「見ろ。現に穴だらけになっている」

ヤマトの民は、シンアルと青洲の攻撃を浴び崩れ落ちていく岩壁を見ながら、なす術も無く、ただ凍り付いたように突っ立っていることしかできなかった。爆発は絶え間なく続き、壁は容赦なく削られていく。やがて都市の外縁部が崩れ落ちた。ロガの人々は都市の中央に集まり、だんだん狭くなっていく街を見ていた。

コルホネンはアルスランとヨセフスのもとに駆け寄り、武装する二人を見た。ヨセフスはもう完全に回復していた。数人の兵士が同様に武装し、彼らを囲んでいる。

「どうなさるつもりですか?」

「ヤマトの民に言ってくれ。砲撃に備え、堅固な建物の陰に隠れろ。それと、武装の準備をするのじゃ」

「この地に、シンアルの首領自らが来ていると言っていましたな」アルスランが銃を脇に持ち、コルホネンを見た。

「はい、リセンさんの話では、東側の最奥に司令部があり、そこにいると」「志願するものだけで良い、武装して私の下に集まってほしいと指令を出した。シンアルの統領だけでも殺しに行くつもりです」

アルスランが言うと、コルホネンは肩をすくめた。

「この都市から身投げでもするつもりですか? もう降りる手段は無いんですよ」

「砲撃によって岩盤が削られ、良い具合に斜面になっておる。駆け下りるよ」ヨセフスの言葉を聞いて、コルホネンは静かに言った。

「まだ望みはあります。剣山の民は、必ずここへ来ます。新しいシンアルの王に率いられて」

「剣山の民じゃと? 彼らは平原には決して関わらないぞ。それに、シンアルの王とはどういうことじゃ?」

「オトニエルは、ナラムによって――つまり塔によって追放されたシンアルの最後の王です。彼は今のシンアルの進軍を止めるべく、戦力を求めて剣山へ向かいました。彼なら、必ず成し遂げるでしょう」

「そうか、彼じゃったか。オトニエルというのは、オトのことじゃな? やはりそうか。古来の王とうり二つだとは思っておった。本当に彼は来るのか?」ヨセフスは城の縁に出て、城下を見下ろした。


その時、西から日が差したかのような気配が漂い、ロガの民は一斉に振り返った。彼らは、かすむ大山脈を背にして小高い丘に整然と並ぶ、何万もの戦士たちの姿を見た。その大軍勢は、分厚い雲に覆われた暗い空の下でさえ、白くまばゆい光を放っている。彼らは一切の躊躇もなく、ロガの麓を包囲する敵に向かって、まるで大波のうねりのように動き出した。先頭には盾を構えたオトニエルが馬に乗って駆ける。その後ろには、恐ろしいほど屈強な剣山の民が馬の速さで走っている。そして彼らを囲うように、オトニエルによって集められた山脈の民、平原の民たちが武装し、ある者は馬に乗り、ある者は鳥に乗り、敵軍にまっしぐらに突撃する。

オトニエルが持っているのは、一丁の小銃と腰の短剣である。歩兵たちは、剣、槍、盾だけ。剣山の民に至っては、何も武器を持っていない。それでも彼らが地を蹴る音は、その雄叫びと相交じり、爆発するような地響きとなって敵をひるませた。

オトニエルの軍はシンアルと青洲軍の弾幕の中に正面から突っ込んだ。剣山の民が壁となり、全ての銃弾と砲弾をはじき返す。両軍の距離は縮まっていく。シンアルの兵は、山のような敵の先鋒の姿に、そしていくら撃っても倒れない鋼鉄の肉体に、怯えながら後ずさった。肉壁の後ろから武器を持った兵士たちが飛び出し、シンアル兵に斬りかかる。そこには北の森から合流したトラルフとエディスの姿もあった。

「接近しろ。距離を与えるな。敵の武器を奪え」

オトニエルは馬を降り、自らも歩兵として銃を構え、剣を振っていた。


オトニエルの軍がシンアルの包囲を崩すのを見て、ロガに立てこもったヤマトの民は城を打って出た。砲撃で削られた岩盤を駆け降り、手に最後の武器を取り、転げながら敵をなぎ倒していく。ヤマトの民は敵の銃弾が体にめり込んでも、進撃を止めることはなかった。最後には必ず敵兵を道連れにして倒れていく。城の頂上で、アルスランは縦笛を吹いていた。その音は平原の民の耳に響き、彼らを奮い立たせる。アルスランなりの激である。ヤマトの民はその笛の音に呼応し、歌い、叫ぶ。

「平原は未だ滅びず

我らが生きるかぎり

いかなる軍勢が強奪しようとも

我らは剣で奪い返す


いずれ荒野に花が咲き

川の流れは輝きを取り戻す

平原の民の呼ぶ声と

燦然たる太陽の下に」


趨勢は決したかと思われた時、オトニエルは軍の異変に気付いた。突撃時の勢いが全くなくなり、逆にシンアルの軍勢は距離を取って態勢を整えている。このままでは一方的にやられるだけだ。オトニエルは、軍を見回し、再起の手段を探した。

オトニエルは、ガレガスが立ったまま戦場を眺めているのに気づいた。身にえぐりこむ鉛玉や、高熱の爆風にさえ意を介さず、ただ彼は呆然と戦場を見つめていた。

「ガレガス……」

オトニエルが彼に近づこうとしたとき、ルガがオトニエルの肩を掴んだ。銃声と黒煙が、彼らを戦場から切り離す。

「駄目だ。もう彼は戦えない。言ったでしょう。戦場に来れば、五百年前の恐怖を思い出すと。そしてそうなれば我々は戦えないのだと」

オトニエルが周りを見渡すと、ほぼすべてのクレムの民が戦うことを止めていた。ある者は呆然と立ち尽くし、ある者は頭を抱え地に伏し叫び、ある者は西へ――山脈の方向へよろよろと走っていく。

オトニエルは目を閉じ、深い後悔に襲われた。彼は、悲痛なクレムの民の叫びを聞いた。彼らはこう言っているのだ。

「(ああ! また! またこうなるんだ! 私は悪くないのに! 私は悪くないのに! 私は私を壊すことだけはできないのに!)」

一人は、落ちている短剣を拾い、自分の胸に力の限り突き立てた。しかし剣は硬い皮膚を貫くことはできず、根元から折れた。

「あなた方は、どんな他の種族よりも優しかった。それを私は無理やりここに駆り出した。こうなると分かっていても。私は取り返しのつかないことをしてしまった。こんなに、力というものがあなたがたを苦しめていたとは」

「いや、ここに連れ出してもらおうと思っていたのです。我々は、死ぬためにここに来た。シンアルの武器なら、我々に効くはずだからね」

ガレガスは、遠目で見ても百発以上の銃弾、砲弾を浴びていた。すでに体中から血を流し、片膝をついていた。それでも、彼は無抵抗だった。ついにガレガスはうつ伏せに倒れ、動かなくなった。最初は剣山の民に守られ、歩兵たちがシンアルの軍に突入でき、優勢であったが、もはや庇護は無くなり、彼らは無数の銃口の前にむき出しの身を晒され、次々と撃ち倒されていった。

シンアル・青洲軍のほぼ半数の戦力を削り、クレムの民はルガを残して全滅した。

「オトニエル、こちらこそ力になれなくて済まないと思っています。山頂の秘境を救うという約束も、果たせそうにない……。最後にしてやれることはありますか?」

「これ以上何も望まない。ただクレムの満足のいく最期を願っています」それを聞いて、ルガはシンアルの軍を眺めた。

「そうか……。私はかつてのパティエンシア平原の民として、この自然を滅すシンアルには一矢報いたいと思っているのですがね。

彼らも変わったな。シンアルの国民は塔など恐れない勇敢な人々だった。知恵と工夫を凝らし、平原の矜持を持っていた。今は、ただ目先の恐怖におびえて弱者痛めつけるただの落ちぶれた民たちです。それも、『塔』のせいなのか」ルガは、シンアルの主力が残る東に目をやった。

「私が君をシンアルの指導者のもとへ導きましょう。言っていましたね。ナラムという男に罪は無いのだと。そのあと、君がどうするかは君次第です」

「不可能です。あなたがどれだけ強いと言っても、あの重包囲を突破する前に力尽きる」ルガは笑ってオトニエルを見た。

「私がクレムの長を任されたのは、私が五百年前シンアルと共に管理者を破った時の司令官だったからですよ。これくらい朝飯前です」

「オトニエル。司令部へ行くのか?」

ロガから降りてきたヨセフスが、戦場の中でオトニエルを呼び止めた。

「ヨセフス! ここにいたのか。いや、いると思っていた。そうだ。今からナラムに会いに行く」

「それならわしも行こう。ナラムのことはよく知っている。反抗軍の時からな」

「そもそもそこまでたどり着けるか分からないが」

「いや、今は敵も混乱している。剣山の民は十分な働きをした。十分勝機はある」

「行きますよ」

ルガ、ヨセフス、オトニエルは、できる限りの戦力を率いて東へ向かった。


ヨセフスの読み通り、三人はさほど激しい抵抗を受けなかった。それでも敵の拠点に近づくにつれ、銃弾の嵐は強まってくる。ルガはいくら砲撃を受けても倒れなかった。敵が束になって彼を襲っても、ルガが通る後には夥しいほどの死体の山に変わるのであった。ヨセフスですら、その鬼気迫る戦いぶりに一瞬恐れを感じるほどだった。

ついに三人はナラムのもとにたどり着いた。もはや拠点の敵兵たちはルガに抗うことを諦め、武器を取り落とし、下を見ていた。

オトニエルはナラムと対面した時、何をすればいいのか、何を言えばいいのか、全く心に決めていなかった。しかし、「あれだ」とヨセフスが指さす先にいた、自分より確実に若く力も無いような男が、悲壮に満ちた顔で虚空に視線を泳がせているのを見て、言いようもない鋭く尖った感情が自分の胸を突き刺したのである。彼は突然の痛みに思わず胸を抑えた。ナラムとオトニエルは目を合わせる。同時に二人の目に涙が浮かび、やがて流れ落ちた。

ヨセフスはそれを見て、もう言葉は無いと気づいた。そしてある紙片を取り出し、ナラムに近寄り、それを手渡す。

「サハルの手紙だ」

ナラムは受け取ったが、読まなかった。書かれていることなどすでに分かっている。オトニエルは彼に向かって初めて言葉をかけた。

「あなたには、塔に囚われた大切な人がいるのでしょう。彼女を守るために、あなたは他国を侵略し、塔を守った」

ナラムはオトニエルを見上げた。

「あなたは塔へ行くべきです。平原は、私に任せて下さい。あなたは大切な人に会いに行くのです」

「いいのですか。俺は、サハルのために人を殺した。塔に、そうしろと言われた……」ナラムは壊れた機械のようにかすれた声で、絞り出すように、何かの縛りから逃れるように喋った。

「もう何も言わないでください。あなたは塔へ、行くのです」

オトニエルがそう言うと、ナラムは震える足でゆっくりと立ち上がった。後ずさりながら、複雑な感情の目で三人を見る。彼は背を向けると、よろよろとおぼつかない足取りで塔へ歩いて行った。彼の姿は暗い空の影で紛れ、すぐに見えなくなった。



シンアル軍は動揺した。突然の最高司令官の離脱に、指揮系統は乱れ、攻撃の手は止まった。しかしオトニエルが率いた戦力は、もはや九割が失われ、シンアルと青洲の軍の勝勢に移っていたところだった。このまま停戦すれば、平原の軍はかろうじて生き永らえることはできる。ヤマトの国を存続させることはできる。ところが、シンアル軍はまた息を吹き返した。『塔』の介入により、セムが全権を握ったのである。

「空軍をここへ呼べ。もうゴルンに興味はない。分散した兵を集結させろ。北にだ。まだ青洲の砲台は腐るほどあるぞ。航空戦力が到着するまで、砲撃で敵を中央部に誘導させろ。もう剣山の蛮族どもはいない。空爆で一掃するのだ」

ロガの西側にいたセムはシンアル軍全体に的確に指示を出していく。その新たな王の下に、伝令兵が報告をもたらした。

「報告です! ゴルンを占領していた空軍が全滅したと。恐るべき速度で東へ進軍しています。もう到着するだろうと」

「全滅だと? 何が起こった? それほどの力はゴルンには無いはずだ」

「地下都市が軍を起こしました。かつて古代文明が所有した最強の軍が、千年前、平原の人間たちを嬲り殺した恐怖の軍が、我らを標的に進軍を始めたのです」

「確かか」

「はい」

「ゴルンの王はどこだ」

「青洲で死んだとのことです。今先史文明軍を率いているのは、ゼフラという王女です」

「兵法も知らない只の娘が我々に何ができるというのだ? 先史文明軍と言えど、最先端の技術を持つシンアル軍にかなうはずがない」

セムがそう言った時、地平線の向こうに高く昇る土煙が彼の目に入った。

「あれは何だ?」

彼は隣の兵に聞いた。

「ゴルンの軍は東へ進軍したらしいのですが、報告では『山を破壊しながら』とのことでした。ありえないと思い、聞き捨てたのですが、あれはおそらくそういうことなのかもしれません」

「山を破壊……?」

セムでさえ絶句した。そして、西の空を埋め尽くす大軍勢が平原を襲う瞬間を見た。その黒い影の中で、チカッと何かが光ったと思った。そして、気づいた時には右翼を作る数十個の大隊が吹き飛び、彼の右側は見渡す限り荒野になっていた。

「ダメだ……」

セムが「退却だ」と言おうとした瞬間、また光った。

セムを含むシンアルの主力部隊は全滅した。


オトニエルは西の異変に気付いた。何か得体の知れない強大な力を感じ取った。彼は慌てふためくシンアル兵の声から、ゴルンの軍が起こったことを知った。

――今更だ。いまさら来ても、ここには何もない。だが起こしてしまった軍はもう止まらない。率いているのはゴルンの王か、それとも……。

オトニエルは、直感でゼフラだと思った。

「ヨセフス、ルガ、もう私を追わないでくれ。ナラムと話す機会をくれて、感謝している。

だが、今からするのは、私一人でやらなければならない。私にとって最後の仕事だ。ゼフラにとっても」

ヨセフスとルガは何も言わなかった。二人が何か言いかけたが、彼は無視して西へ走り出した。

彼の進む先には、いたるところに炎が上がっている。まるで地震かと思うような揺れがロガの都市を揺らし、西からきらめく射撃によってロガの岩盤がもろくも崩れていく。西の軍は見境なく平原を荒野に変えていった。そこに人がいようがいまいがお構いなしに国を破壊する砲撃、ミサイル弾を浴びせかける。平原の民たちは、いったい何が起こったか分からないまま塵と化す。

オトニエルは攻撃をかいくぐり、ロガの東側にようやくたどりついた。彼の目の前には、視界に収まりきらないほどの大軍があった。空は爆撃機や巨大な飛行船で埋め尽くされている。彼は遠く、軍の真ん中に佇む人間を見た。無人の大軍勢は彼女によって、彼女の意思によって平原を火の海に変えているのだ。

彼は一歩ずつ近づいていく。西の軍は進撃を止めていた。ゼフラまでは、まだかなり距離がある。オトニエルは確実に一歩ずつ進んでいく。レーザーが彼の脇腹を貫通した。まだ歩みを止めない。砲弾が彼の片腕を吹き飛ばす。それでもただただ足を運ぶ。爆風が彼の顔を焼く。彼は少し血を吐いた。

ついに、オトニエルはゼフラに手が届く所まで来ていることに気づいた。もうほとんど彼に意識は残っていなかった。オトニエルは、まだ残っている方の腕で短剣を抜いた。ゼフラは、目の前のボロボロの男を見つめたまま微動だにしない。オトニエルは、短剣をゼフラの胸に深々と突き刺した。彼女は刺されながら、微笑を浮かべた。オトニエルの顔に両手で触れ、額を寄せる。二人は見つめあい、腕を回し、お互いを強く抱きしめる。ゼフラの胸からは血が溢れ、オトニエルには銃弾が降り注ぐ。巻き上がる戦塵の中で、二人は膝から崩れ落ちた。

先史文明軍は主を失い、その後二度と動くことはなかった。

































ノアとネブロは竜の背に乗って、塔を目指した。度々翼の風圧に飛ばされかけるので、必死に背中の凹凸に掴まった。目が乾きひりひりと痛むが、目を閉じるわけにもいかず、ボロボロと目から涙があふれた。何より、火竜の高熱の皮膚が彼らの肌をじりじりと焼くのが二人にとって耐えがたかった。それでもノアとネブロは手のひらをただれさせながら、歯を食いしばって竜に身を任せた。

「ノア、大丈夫か?」

「まあね。ネブロは?」

「なんてことない。ただ、何となく終わりが近づいてるっていうのが分かる」

「そうだね。ねえ、ネブロ、気付いてる? 竜の肌が冷たくなっているよ」

「うん。だんだん熱が引いてきている」

「バトヤが言っていたんだ。竜は暗黒時代、病にかかった。皮膚から侵されていって、全身に毒が回って、やがて体がぼろきれみたいになって死んでいくんだって。だから竜は火口で自分の皮膚を焼きながら生き永らえてきた」

「じゃあ、熱が引けば竜は死ぬってこと? なんで火山に戻らなかったの?」

「さあ、分からない。ねえ、君はなぜ塔へ向かっているの? なぜ僕らを助けてくれるの?」

ノアは竜に尋ねた。しかし竜は何も答えず、淡々と塔に向かって飛び続けていた。


竜はシンアルの都市の上空を飛び越えた。都市にはもはや人の気配は無く、砂嵐と落雷によって、大部分が廃墟と化している。見渡す限りの大王国が、まるで数百年間忘れ去られたかのような死に様を晒すのを見て、ノアはえも知れぬ虚しさに襲われた。ここにも人は住んでいたのだ。どれほどの恐怖だったのだろう? 塔に支配されていたとはいえ、こんな地獄と隣り合わせで生きていれば、心が壊れてしまってもおかしくなかったのではないか?

シンアル王国を越えると、ついに完全に塔の領域に突入した。ノアが以前見た時よりさらに激しく、そして領域は拡大していた。砂嵐、暴風、縦横無尽に走る稲妻、地割れ、そして何より、ネブロは黒い影が頭を締め付け、視界が狭くなるのを感じた。竜のかつて赤く光っていた皮膚はすでに灰色、紫色になり、冷たくなっている。竜の翼は稲妻をはねのけ、その咆哮は砂嵐を吹き飛ばしたが、次第に高度は下がり、ついにゆっくりと地面に倒れこんだ。二人は荒れた大地に放り出されたが、すぐに起き上がり、竜の頭部に寄っていった。竜は倒れたまま、あえぐように遠くを見ている。その目は、はるか遠くに小さく佇む塔を捉える。そして次に、心配そうに自分をのぞき込む二人の少年に視線を移す。蒼白の皮膚に埋もれ輝く漆黒の瞳は、まだ燃え続ける意志の炎を宿しているように見えた。二人は手を差し伸べ、竜の額を優しくなでた。火口に住む生物とは思えないほど冷たく柔らかい皮膚だった。竜は目を閉じ、それきり動かなくなった。

「ノア、行かなくちゃ」

「うん。お墓を作っている暇は無いね……」

「竜のおかげでだいぶ近づけた。これからは歩いて行かないといけないけど」

ノアは背中の剣を抜き、高く掲げた。剣は打ち消す力となり、見えない黒い影をネブロの頭から消し去った。

二人は、ところどころにある崩れた建物の陰に隠れたり、地面の裂け目に身を滑り込ませたりして、少しずつ塔へ進んでいった。もう二人の体力も精神力も限界だった。ロガから飛び立った時、それまでの旅の傷と疲労は癒えていなかったのである。二人の足取りは遅々として進まず、遠くに見える塔の姿は一向に近づいているように思えなかった。

ノアは廃墟の陰であおむけに倒れ、暗黒の空を見上げた。空気を切り裂く暴風の叫び声が、今にも彼を八つ裂きにしようとのたうち回っている。ノアはなぜか微笑を浮かべ、傷だらけの顔でネブロを見上げた。

「ネブロ、ヤマトはまだ滅んでいないと思う? ヨセフスもリティも、バトヤとサマも、アルスランもコルホネンも、まだ生き残っていると思う?」

「うん。当然だ」

ネブロは弱々しく答えた。ネブロは微笑んでノアの剣を握りしめた。

「ネブロ、僕はもう疲れたよ」

ノアは、自分がなぜ塔を目指しているか忘れてしまった。ただ疲れたということだけをずっと考えていた。

「君に今できるのは、塔にたどり着くことだけだ」

「そうだね。でも、それが終わったら、西の村に帰るんだ。それで、リティの館で宴会でもしよう」

「それはいい。リティは今、ヤマトで戦っているよ。僕らの戦果を引っ提げて、ヨセフスと四人で帰ろう」

「そうだ……彼は変わった。あんなに勇敢な男だったなんて知らなかった」

二人は再び立ち上がった。得体の知れない力が湧き、足取りはしっかりしていた。彼らは物陰から出ると、地獄の嵐の中を突き進んでいく。

その時、ネブロは人の頭ほどある岩の破片がノアに向かって飛んでくるのが見えた。彼は持っていた剣でそれをはじき返した。しかしその衝撃で剣は彼の手を離れ、砂嵐の風に煽られて飛ばされ、見えなくなった。

「ネブロ!」

ネブロは一斉に視界が黒く染まっていくのを感じた。今までに襲ってきた『手』の比ではない。だが完全に意識が消える前でなんとか耐える。剣を探しに行こうとするノアを掴み、引き寄せる。

「ノア、行ってくれ。もうすぐだ。もう塔は見えている。君が行かなきゃ、この世界のだれも救われない」

ノアはネブロの顔をじっと見た。その目から光が消えていく。ノアは思い出した。自分が塔へ行けばすべてが終わるのだ。この恐怖は世界から消える。そのために自分はここまで来たのだった。

「ごめん、ネブロ。今助けに行くよ」

ノアはネブロを置いて背を向け、走り出した。


ナラムは戦場を離れた後、シンアルの廃墟に入り、地下の武器庫に降りた。彼はある装甲車の前で立ち止まった。あの時、サハルが一人で調査に行ったときに使った装甲車。ゴルンの最高傑作。まだ十分に稼働するはずだ。

ナラムは装甲車に乗り、地下から飛び出した。廃墟を粉々にしながら、塔へ向かって突き進む。彼の頭にはもうサハルのことしか無かった。塔の領域下に入り、同時に黒い手が彼の頭を侵食し始めるが、彼は構わずにエンジンのギアを上げる。最高速度で車体をうならせ、嵐の中を走り抜ける。

塔に近づくにつれ、嵐は強まる。さしもの強靭な車体は傷ついていった。装甲がはがされ、その外殻に穴が開く。雷が直撃し、一瞬で車体が燃え上がる。さすがにエンジンは止まり、ナラムは装甲車から命からがら抜け出した。だが、彼は燃える瞳で塔を睨みつける。立ち上がると再び走り出した。

ナラムは、ふっと頭の中の締め付けが突然薄れたのに気づいた。立ち止まって顔を上げ、周りを見回すと、すぐ近くに古ぼけた短剣が落ちている。彼はそれを手に取ると、掲げながら塔へ前進した。もはや黒い影は一向に現れない。襲ってくる砂嵐を潜り抜け、落雷を避け、地割れを飛び越え、彼はあと一息のところまで来た。その時、彼はすぐ近くに這いずりながら塔へ進む少年の姿を見つけた。駆け寄ると、虚ろな目でナラムを見返し、塔の方を指さす。ナラムは少年を抱え上げ、剣を片手によろめく足で歩き出した。


ノアはついに塔の真下にたどり着いた。壁面の傷に手や足を引っかけ、頂上を目指して登っていく。途中で岩が彼の身体を強く打ったが、ノアは歯を食いしばって壁に掴まっていた。ようやく塔の屋上によじ登り、下を見ると、丸いフタのようなものが見えた。力の限り持ち上げると、黒い穴がぽっかりと開いた。内部への道が続いている。ノアはためらわずにその中に入っていった。その道は塔の内壁に沿うように、らせん状に下に降りていく。塔の内部にはそれ以外何もなく、全くの空洞だった。

やがて彼は塔の底に降り立った。床を見ると、再び屋上にあったような穴がある。今度は蓋が開け放たれたままになっていて、下に降りる梯子が見えた。ノアは梯子を降りていった。いつかどこかで同じようなことをしたな、とふと思ったが、いつのことだったか思い出すことはできなかった。考えているうちに、彼の足は固い床を踏んだ。振り返ると、淡く光る道がある。ノアはふらふらと光の方へ進んでいった。

そこでノアが見たのは、大きな青白い光の玉だった。そしてそれが何なのか明らかになる前に、彼は別の場所にいた。そこは真っ白い空間で、自分の姿さえ見ることができなかった。

ノアは人の気配を感じた。近くに誰かがいる。

「あなたは、誰ですか?」

「私はサハル。あなたが来るのをずっと待っていたよ」

目の前に白い服を着た、長い髪の女性が立っている。サハルという名にノアは覚えがあったが、思い出せなかった。

「待っていた? なんで?」

「あなたが今からやるべきことと、そのための説明をちょっとしないといけないからね。あとはあなたを送り届ける役目もある」サハルは人差し指を立てた。

「ここは、塔の世界と外の世界をつなぐ緩衝地帯で、記憶の場。この場の先に行けば、過去の人間たちが住む世界。でも私はこの場から先に行くことはできない。この先に行けば、私は過去の人間の一人となり、全ての記憶を失うでしょう」

「だが、ノア、君なら外の世界の人間として、過去の世界に飛び込むことができる」また新たな声が遠くから聞こえた。男の声だった。

「あなたは誰ですか?」

「私は塔の管理人だ。この記憶の場に留まって侵入者を防いでいる」遠くにぼやけた人の姿の陰が見える。

「ということは、あなたが塔を創った人ですか?」

「そうだ」

「僕が過去の世界に飛び込むとはどういうことですか? 僕は塔を破壊するものだと思っていたんだけど」

「過去のことは過去の人が清算しなければならない。だが彼らは、それをこの世界に持ち込んでしまった。もし外から無理やり破壊してしまえば、『今』に被害が及ぶだろう。『白の塔』のように。君は今から過去へ行って、その世界を終わらせなければならない」

「じゃあ、外の世界の『塔の力』はどうなるの?」

「君が塔の世界に入れば、内部の人間たちはその力を『外』に向けることはしなくなるだろう。君が過去の世界を消そうとする限りは、彼らはそれに対抗するだろうからね」影は静かに語りかける。

「これだけは言っておく。過去の世界を消さない限り、今の世界が救われることはない」

「分かりました。でも、どうやって僕は過去の世界を終わらせればいいの?」

「その世界に住む人たちと戦い、全員殺すんだ」ノアは思わず息を呑む。

「そんなこと、僕にはできない」

「そうだな。まあ、手は他にもいろいろあるさ。君なら、何か別の方法で成し遂げられるかもしれない。その世界に行けば、君がそれをやれるだけの力を持っていることに気づくだろう。だが、それをやるかやらないかは、君次第だが」

影は押し黙った。まるでノアの心の底を読み取ろうとするように。

「さあ、君は行くのか? それともここから出て、西の村へ帰るのか?」

「僕は行くよ。過去の世界に」

影はノアの言葉を聞いて、少し戸惑ったようだった。

「驚いた。君は嫌だというはずだと思っていた。もう、疲れただろう。こんなところにまで旅をしてきて。外の世界は楽しくて、きれいなものもいっぱいある。先史文明の世界に行ったって良いことなんて何にもないぞ」

ノアは影をまっすぐに見据え、小さく首を振った。

「確かに僕は疲れました。もう旅なんてしたくない。特に、希望もなくただ苦しいだけの旅は」

だが、すぐに顔を上げる。

「ですが、今ここで僕が行かなければ、今の世界で戦ってきた人たちが、報われない。僕はそのために旅をしてきたんだから」

「そうか……。では、私も私の仕事をしなければいかんな」「ノア、君ならそうしてくれると思ってたよ。十何年も待ってた甲斐があった。ここからは、私に任せて」

サハルがノアの肩を抑える。

「あの影もね、過去に縛られてるんだ。あいつは過去の世界にいたいとも思っていないし、私たちに恨みがあるわけじゃない。でも、ただ侵入者を防ぐ役割が与えられて、それに従って、いつまでもあそこにいる。だから私たちはあいつを倒して進まないといけない」ノアは頷いた。

「私は奴をずっと抑え込んでいた。もうすぐ倒せるはず」

「俺も加わっていいか?」

突然背の高い男が現れた。手には、あの剣を持っている。

「ナラム?」

サハルが目を見開いて男を見ていた。信じられないというように駆け寄り、ナラムの頬に手をあてる。ナラムは彼女の手を下ろさせ、影の方を向いた。

「サハル、今はあいつを倒そう。もう時間がない」

サハルが我に返って頷くと、二人は影に向かって走り出した。サハルが首の部分にとびかかり、動きを封じる。その隙にナラムが横薙ぎに剣を振る。影は上下に真っ二つに割られ、やがて虚空に消えていった。

「さあ、ノア……」

サハルとナラムが振り返る。ノアは二人の下へ歩き、二人の間を通り、白く輝く光の中へ溶け込んでいく。彼の足取りには、恐怖もためらいも無かった。ただ前だけを見て、振り返ることなく突き進む。

二人は次第にかすんでいく少年の背中を、いつまでも見送っていた。


「ナラム、私はノアがかわいそうで仕方ない。できることなら、私が代わってあげたい」

「俺もそうだ。だけど、俺たちは十分やったと思う。俺たちは、ただここで帰りを待っていよう。いつ帰ってきてもいいように」サハルは俯いた。

「十分、やったのかな……。正直、もう限界だと思っていたんだよ。これ以上誰かを待つのは。でも、あなたが来てくれた……。そうね、あの子を待ちましょう。私たちにできるのは、それくらいしかないでしょうね」

サハルは顔を上げ、ナラムの横顔を見た。

「ねえ、ノアが帰ってくるまでに、物語を考えない? 帰ってきたときに、それをノアに聞かせるの。あの子の冒険の話と引き換えにね」

「どんな話?」

「そうね……。西の村を追い出された男女が、森を抜けて、氷の大地を越えて、山を越えて、国々に見捨てられて、人々に憎まれて、悪い奴に引き離されて、でも最後は二人だけで、素敵な場所で再会する、なんて話はどう?」

「いいね。それは、だいぶ長くなりそうだ。帰りに間に合うかな?」

「間に合うよ。二人で作るんだから」



ネブロは暗い地下の部屋で目を覚ました。かすかな意識の中、誰かに抱えられて塔の中に運び込まれたところまでは覚えている。彼はその時に見た光が消えているのに気づいた。そして、頭の中を埋め尽くす黒い手もなくなっている。横を見ると、傍らにノアが横たわっている。ネブロは彼を思い切り揺さぶったが、反応は全くない。だが、死んでいるわけではない。ひどくゆっくりとした呼吸、拍動を感じる。ネブロはノアの体を抱え上げると、梯子を伝って地下から出て、螺旋階段を登った。空いた穴から塔の頂上に出た。

ネブロはノアの安らかな顔を見た。もう、ここに心は無い。誰よりも優しく、誰よりも大きな勇気を持った少年の心は、もはやここには無いのだ。

ネブロは顔を上げ、変わりつつある世界を眺めた。嵐は霧消し、雷の音一つ聞こえない。暗雲は流れて消え、その隙間から差すまばゆい太陽の光が、彼の顔を優しく照らし出す。

空が晴れてゆく。

世界はただ、今あるべき姿へ戻ってゆく。


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